「ドッグヴィル」

  Dogville

 (2004/04/05)


  

今回のマクラ

 前にもどこかで書いた事があるかもしれないが、だいぶ昔のこと、僕の友人がマルチ商法に引っ掛かった事があったんだよね。

 その男とは、彼が僕らの町から引っ越した時から疎遠になった。それまでは、結構仲良くやってきたんだけどね。何度か呼び出して会おうと仲間内で連絡してたりしたんだけど、彼は決して来ようとはしなかった。連絡をすれば毎度言うセリフは同じ。こっちで仲間が出来て忙しくてね。そちらに行くほどヒマじゃないんだよ…。

 それは確かにそうだろう。彼が引っ越した先も近くはない。だけど、その言い草はないだろう。例えそうでも、それを僕らにズケズケ言う神経が分からない。それを言う時の、彼のどこか偉そうな口調がまたイヤだ。結局そんな言葉を聞くのがイヤさに、しばらくすると仲間内では誰も彼と連絡をとろうと言う者がいなくなった。

 ところがある日、忙しくて僕らとは会えないと言っていた当の本人から連絡があった。突然会いたいと言う。珍しい事があるもんだ。僕は彼からの申し出に喜びながらも、ちょっと疑念が湧いたんだよね。それに、なぜかいつもの偉そうな口調が一変していた

 すると案の定、彼はこう続けた。

 「実は、いいナベのセットがあるんだけど…」

 彼は何と、マルチ商法の販売員になっていたのだ。

 ショックだったよ。そんな奴には思えなかったからね。もちろん多少僕らに対する口の訊き方には難があった事は確かだ(笑)。だけど善人だし野心もないし、堅実そのものの男だったからね。僕は頭の中がマッ白になった。

 ともかく冷静にならなければ。彼は今度の休みに我が家へ来ると言う。でも僕一人では熱くなって、とんでもない事を言ってしまいかねない。それより何より、こんなバカな事から足を洗わせなければダメだ。どんな経緯があったにせよ、これをこのまま放置していいわけはない。

 僕は仲間の一人を加勢役として我が家に呼んだ。そして用意万端整えて、彼の来るのを待ちかまえた。案の定、彼は家にもう一人の仲間がいるのを見て、ギョッとしたようだ。それを見て、僕は僕であまりいい気分がしなかった。コイツ、僕一人ならば何とか丸め込めると思っていたのか。僕はそんな男に思われていたんだろうか。正直言って、僕はちょっと不愉快ではあった。

 それでも気を取り直したか、彼は早速ナベのセールスを始めようとした。そんな彼の言葉を僕が無理やり制止したのは、いいかげん僕もこの時点でムッと来ていたからだろうか。

 その時に僕が言った事は、今でも覚えている。

 そのナベを買ってやってもいい。どうしてもそうして欲しくて、それが良い物だったら考えてもいい。だけどそれを一度でもオレが買ったなら、オマエはオレの奴隷になるのと同じだぞ。オマエとオレとは、もう対等の仲間ではなくなる。オレはオマエに金を払った客だ。オマエのご主人サマみたいなものだ。それでもいいなら買ってやる。

 それは僕の本音だ。そうなったら、彼は僕に弱みが出来る。そうなれば人間としての力関係は変わる。もう対等ではあり得ない。そこまでの覚悟があって言うのか…と、僕は問いたかった訳だ。

 その後は、その場にいた仲間が言葉を引き取った。それからの凄まじい説得は今でも忘れがたい。中にはかなり強烈な言葉もあった。結局そんなこんなで、彼はマルチ商法から足を洗った。彼に言わせれば、僕らの説得のせいじゃないということだが(笑)。

 それはそれでいい。だが、それからしばらくして思い起こすたびに、僕はこの時の自分の気持ちにウソはなかったかと考える。確かにあそこで僕にナベを売ったら、彼は僕の奴隷と同じだ。それには何ら間違いはない。それをやめさせたかったのも確かだ。それは本当の気持ちだ。

 だがあの言葉を彼に投げつけていた時、僕はそれを楽しんではいなかったか

 どう考えてもヤバいマルチ商法だ。それを友だちに売りつけに来るなんて、どう見たって弁護の余地がない。だからいくらキツい言葉をブツけても、彼に言い返す資格はない。それにこれはキツいかもしれないが、あいつのためでもある。ちゃんとスジは通っている。

 スジは通っている。確かにそうだ。だけど、僕はその時に思っていなかったか。それまでさんざ連絡しても来なかったくせに、こんな時ばかり猫なで声を出して来やがって。しかもかつて僕らが連絡した時の、あまりにあまりな言葉さえ蘇る。何だよあの言い草は。そして今回、一番チョロく丸め込めそうと僕に白羽の矢が立ったみたいなのが、なおさら頭に来る…。そんなこんなが積み重なって、僕はあいつに大上段から偉そうに非難していなかったか。正当な理由を隠れ蓑にして…。

 結局あの時の僕は、絶対に自分の方が何か言える強い立場にいたんだからね。

 

見る前の予想

 ラース・フォン・トリアーは…好きな映画作家じゃないな。いや、キライだ

 映画はどれもこれも独創的でスゴイとは思う。才能はあるんだろうね。でも、何だか好きじゃない。見ててイヤになる事が多い。

 ただ彼の映画は全部見ているわけではないし、その限られた見た作品の中でも好きな作品だってある。

 特に最初はそんな事は全然なかったんだよ。僕は彼の「エレメント・オブ・クライム」を見ている。何だか分からない監督の、デンマークの映画。だけど興味を持って見に行ったら圧倒された。すごいビジュアル・イメージだ。こりゃ大変な監督だと驚いちゃったからね。だけど、まさかこれほどの大家になるとは思わなかった。

 それから長い月日が流れ、評判をとった「ヨーロッパ」も見逃しちゃった僕が次に見た彼の作品は、たぶん「奇跡の海」だと思う。これが何だかどうも僕にはねぇ…。ヒロインをこれでもかこれでもかと痛めつけるあたり、あの自己犠牲というか自虐的と言おうか、執拗なまでの追い詰め方がどうにも見るに耐えなかった。パワフルな映画だということは分かる。映画に何が何でもハリウッド的ハッピーエンドを求める訳でもない。それにしたって僕は生理的に受け付けないなとサジを投げてしまった。

 それでも確かに力のある人だということは納得した。だからテレビシリーズだという「キングダム」を見に行った。これは気色悪さと意味ありげなところがうまく活かされて、僕はすごく楽しんだんだよね。

 ところが次の…世間的にはトリアーの評判を決定づけたダンサー・イン・ザ・ダークが、またいけなかった。

 またまた無垢っぽいヒロインを追い詰め追い詰め、痛めつけて最後には死刑にまでしてしまう。そこで漂うアンチ・アメリカ。何もあんなヒロイン使って死刑反対メッセージやら、ミュージカルやアメリカを舞台にした話やら、アメリカ俳優を連れて来てまでアンチ・アメリカやらをうたう事はないだろう。とても汚いやり口に思えた。デジタル・ビデオによるどこか冷たいミュージカル場面もシラケた。やってる事はスゴイだろうし、やりたい事も分かる。アンチ・アメリカも結構だが、それをこういうカタチで行うってのは、少々姑息な手段ではないだろうか?

 おまけにそれに前後して彼が提唱し出した「ドグマ」なる映画運動がまた愚の骨頂だ。ミニマルなところから映画をつくっていくべきだ…という志は良し。だけど、それがアレコレと規制する側に回るってのは、何か違うんじゃないか。おまけにそれらの作品を「認定」するってのはどういう了見だ。トリアー、オマエ一体何様のつもりなんだよ?

 おかげで世間には手ブレがひどいデジタル・ビデオ撮影の、貧寒とした画面で撮りっぱなしみたいな殺伐とした映画が氾濫した。全部これもあのトリアーのせいだ。ふざけるんじゃないよ、本当に。

 そんなトリアーの新作が来たと聞けば、どうしたって身構えるのが当然だ。今度もまた豪華キャスト…というか、今までで一番スターを起用した作品ではないか。その中心は何とニコール・キッドマン。いやはや、評判高かったから一度は出てみたかったというのは分かる。だけどその後は二度とゴメンという気持ちもよく分かるよ。

 またしてもアメリカの話で、またしてもヒロインがいたぶられまくる、またしても人の悪意が充満する映画とくれば、やっぱりな…と思ってしまう。おまけに今度はちゃんとしたロケとかセットでなく、地べたに線だけ引いた舞台ですべてを撮影したと言う。分かった分かった、オマエはすごいよ。ミニマルもここに極まれりだ。

 だからまるっきり見る気がしなかった。躊躇したあげく、いよいよ公開が終わると聞いて何とか重い腰を上げた次第だ。だが、結局無視出来なかったというのは、僕の中にもこの作品に見逃しきれない何らかの予感を感じていたのだろうか?

 

あらすじ

(ここだけはさすがに劇場パンフレットを参考にしています。)

プロローグ:

ロッキー山脈の麓の町「ドッグヴィル」。住民は23人の小さな町。周囲は山に囲まれ、外界との接点は道一本だけ。主な住人は次の通り。

●トム(ポール・ベタニー):元医者の父親と二人暮らし。仕事もせずモノにもならない文章を書いているが、本人は作家のつもりで、いろいろ無意味な思索を巡らしている。町の人々の意識向上なんて大それた事を本気で考えていて、そのために月に一回町の教会で集会を主催する。

●エディソン(フィリップ・ベイカー・ホール):トムの父。元医者のくせに自分があちこち具合が悪いと、勝手に思い込む。

●チャック(ステラン・スカルスゲールド):果樹園でリンゴをつくる男。気難しい性格。

●ヴェラ(パトリシア・クラークソン):チャックの妻。7人の子どもを甘やかして育てている。番犬モーゼスもこの家の住人。

●ヘンソン(ビル・レイモンド):ガラス職人。

●ヘンソン夫人(ブレア・ブラウン):ヘンソンの妻。喘息持ち。

●リズ(クロエ・セヴェニー):ヘンソン夫妻の娘。よその町に婚約者がいるとの事で、町から出る日を待ち望んでいる。トムが自分に気があると知っていて、いいかげんそれを迷惑に思っている。

●ビル(ジェレミー・デイヴィス):リズの弟。ちょっとオツムが弱い。

●ジャック・マッケイ(ベン・ギャザラ):盲目なのに自分が盲目であると認めない老人。

●ジンジャー夫人(ローレン・バコール):値段の高い雑貨屋を営む老婦人。グーズベリーの畑の手入れをするのが楽しみ。

●グロリア(ハリエット・アンデルソン):ジンジャー夫人と共に雑貨屋を営む。

●オリヴィア(クレオ・キング):太った黒人女性。陽気で気さく。

●ジューン(シャウナ・シム):オリヴィアの娘。病気で動けない。

●マーサ(ショブハン・ファロン):牧師が派遣されるまで教会を一人で守る女性。だが牧師は来ない。オルガンの音を鳴らす勇気がなく、音なしで練習している。

●ベン(ゼルイコ・イヴァネク):トラック運転手。自分では運送業と言っている。家はなくガレージに住む。週に一度売春宿に通うのが楽しみだが、本人はそれを恥じている。

 

第一幕・トムが銃声を聞き、グレースと会う

 表題の通り。何か町の住人の意識を高揚させて集会を盛り上げるネタはないかと、考えなくてもいいムダな思索を続けていたトムは、銃声の後に町には不似合いな若い女グレース(ニコール・キッドマン)と出会う。彼女は何かから逃れてきたようだ。しかも町に黒塗りのクルマがやって来る。トムはグレースを町はずれの廃坑に逃がし、クルマの男たちに応対。乗っていた男たち(ジャン=マルク・バールとウド・キアー)は、いかにもコワモテなギャング丸出しの面々。何とかうまく取り繕って、グレースを守るトム。彼は彼女こそが、町の人々の意識を高揚し、集会を盛り上げるための神からの贈り物…と勝手にご機嫌になる。

 翌日は町の集会。正直言って住人たちはいい迷惑なのだが、トムは大マジメ。ところが本題に移らず、「寛容の精神を持とう」とか訳の分からない事ばかり言うので、集会は盛り下がることおびただしい。やっとの事でその「寛容の精神」を発揮するための格好の対象とばかりグレースを連れて来る。当然のことながら住人たちは当惑した。それでも何とかかんとか言いくるめ、彼女を匿う事を納得させるトム。ともかく2週間様子を見よう。それで気に入らなければ追い出せばいい。そう言いながらトムはグレースに、みんなに好きになってもらうように頑張れと勝手な提案をする。

第二幕・グレースはトムの計画に従い、肉体労働を始める

 これも表題の通り。最初はグレースに何かをやってもらう事をためらっていた住人たちだが、ここでトムがナイスなんだかどうか分からない提案。「やらなきゃならなくもないけど、やってもらうとありがたい事があるだろう?」

 こうしてグレースは住人たちのために奉仕活動を始める。

第三幕・グレースが挑発的な試みに喜びを見出す

 だんだん住人たちに溶け込んで来たグレース。みんなもグレースの奉仕を有り難がった。ただしチャックだけは何となく冷たい様子を崩さなかったが…。

 ええい、ままよ。当たって砕けろでチャック宅に入り込むグレース。だが妻のヴェラは懐柔出来ても、やっぱりチャックはダメだった。彼は意味深い事を口走る。「都会から見て、ここは天国だとでも言うんだろう? まだこの町にダマされているんだな

 そんなこんなで 2週間が過ぎた。再び町の集会。彼女が居残ることに一人同意するたび、鐘を一つ鳴らすという話になり、グレースは廃坑で一人待った。

 だがどうしても、あと一つが鳴らない。観念して町を出ようとしたグレースに、最後の鐘の音が聞こえて来た。

第四幕・ドッグヴィルの幸せな日々

 グレースは町になくてはならない存在になっていた。みんなもグレースを暖かく迎えた。わずかなりとも報酬を与え、彼女は町はずれの小屋に住まいも持てた。その金で、町の雑貨屋に飾ってあった7つの人形を、一つづつ揃えていくグレース。それは彼女と町との絆のようなものだった。

 ところがある日警察が町にやって来て、一枚の手配書を貼って帰っていく。それは行方不明者求む…という内容のもの。探している人物は、グレースその人だった。

第五幕・とにかく独立記念日

 独立記念日のお祭り気分の中、町の住人はみなグレースに感謝した。しかし喜びもつかの間。再び警察がやって来て、新たな手配書を貼っていく。それはグレースが銀行強盗に関与したとのものだった。たちまち町の空気が一変。

 何とか彼女を匿いたいトムは、次のような提案をする。「今までの二倍の労働を」…と。

第六幕・ドッグヴィルが牙をむく

 表題の通り。チャック夫妻のガキは無理難題を言う。自分を叩かなければ言うことを聞かないゾ。ヴェラが子どもの体罰をキライな事を知り尽くした上でのことだ。さらにはギャングのクルマが町にやって来た折りもおり、チャックがグレースをレイプに及ぶ

第七幕・ついに嫌気がさしたグレースはドッグヴィルを去り、再び新たな日々を迎える

 表題の通り…のはずだったのだが。

 ベンのクルマで逃げる手はずを決めたグレース。逃げるための料金としてトムが都合をつけた金を与え、収穫したリンゴと共にトラックの荷台に載ったグレース。しかし途中警察がいたとビビり出し、さらなる「報酬」を要求するビル。その「報酬」が何であったかは言うまでもない。しかも何の事はない、ビルは再びドッグヴィルに戻ってしまったではないか。

 しかも逃走資金はトムが父親からくすねた金だった。それもグレースが盗んだ事にされ、彼女は首輪とクサリを付けられた奴隷状態にされてしまった。あまりに過重な労働の他に、当然のごとく彼女の肉体を要求する男たち。

第八幕・集会で真実が語られ、トムが退席する(だが後で戻る)

 これも表題の通り。この状態を打開するために、トムはグレースに集会に出て、住人にありのままを話せと提案。当然の事ながら、それは最悪の雰囲気をつくるだけだった。怒ったトムは集会を去り、グレースの元へ。だが彼も結局は彼女の肉体目当てなのはミエミエ。そこを完全に見透かされてプライドを傷つけたトムは、何と彼女をギャングに売ることを決意する。

第九幕・ドッグヴィルに待ち望んだ来訪者たちが現れ、映画は終わる

 突然手の平を返したように、グレースに優しくなる町の住人たち。そのあまりの不気味さに、グレースは事の次第を悟った。彼女はトムに吐き捨てるようにつぶやく。「愚かな事をしたわね」

 やがて黒塗りのクルマが町にやって来る。あのコワモテのギャングの連中だ。トムはここぞとばかり媚びを売って応対するが、ギャングたちからは剣もホロロ。やがてグレースは、黒塗りのクルマの最後尾の一台に乗せられる。そこにはギャングの大ボス(ジェームズ・カーン)が乗っていた。

 大ボスはグレースを見つめると、こう声をかけた。「娘よ…」

 

見た後での感想

 やっぱり最初は、地べたに線だけ引いたセット(…と言っていいのだろうか?)が違和感アリアリだった。これってどうしてもやらなきゃいけなかったのかねぇ?

 だって扉を開けて人物が出入りする時など、俳優は空気をつかんで扉を開けてる振りをしているんだよ。それなのにギイイ〜ッとかバタンとか音だけ入っている。これは何とも変な具合だよね。

 僕はこれでは映画じゃなくて演劇じゃないか…なんて言うつもりはない。実験的な試みもアリだと思っている。演劇的試みだから映画じゃないとは思わない。ただし、あくまで思いつきではなく必然性があっての事だけどね。

 確かにこの映画の言いたい事は分かる。そして映画の美点も分かる。まずは他者に対して何か強い立場に立った時、人は何と傲慢になることか…ってテーマだよね。で、僕もそれはそう思う。それについては、このサイトのいろいろな感想文に繰り返し繰り返し書いて来た事だ。最近じゃゴシカとかイノセンスの感想で取り上げているから読んでみて欲しい。

 それらを容赦なく暴くトリアーの手つきは、実に巧妙で効果的だ。本当にこうなんだよ。誰も彼も元々は悪意の人間ではない。平凡な人間…むしろ善良と言ってもいいだろう。それがある時を境に本性を現す。人って本当にこうなんだよね。その変身するサマ、最初はオズオズと…徐々に大胆に…どんどんエスカレートしていく様子がリアリティあるんだよね。

 僕はこういうのをずっと見てきたし、自分もこういう目に合ってきた。そして自分もそれを見て見ぬふりをしてきただけでなく、自身でそれに荷担さえしてきた。僕はこういうドッグヴィルの住人たちの間で暮らしてきた。そして、今もそういう人々と生きている。人間というモノは、みんな少なからずこういう生き物なのだ。

 その意味においては、僕はトリアーの悪意に全面的に同意する。というか、トリアー以上にこれを強く思っている。人というものは、ちょっとでも弱みを見せるとこうなる。ヘタすると悪意ではなく、良いことをやっているつもりで人を踏みにじる。自分が相手より強い立場だと思ったとたんにこうなる。それは、年齢性別洋の東西…あるいは友人知人肉親恋人であっても変わりない。それだけ…とは言わないが、それって一番ありがちだし、一番ハッキリしている部分なんだよね。もちろん繰り返し言うが、この僕もそういう人間の一人だ

 だからこのミニマル・セットが必要だった…と言うのなら分かる。事実ドラマが進行するにつれて、僕はこのミニマル・セットが気にならなくなった。それよりも進行しているドラマそのもの、人間たちの感情の動きそのものが、まさに僕が味わって来て、知り尽くしてきて、自分の内心にも経験してきたまんまのものだったからね。目が離せなくなった。

 例えばキッドマンがスカルスゲールドにレイプされている時に、回りでは普通の町の人々の営みが行われている…などという構図には、こうした壁のないミニマル・セットならではの威力も感じはした。

 確かに、他者への傲慢が人間に普遍的なものだとすれば、徹底的にミニマルな状況に置いて出来る限り属性をさっ引いた方がその普遍性を表現できる。だからこそのミニマルさだと言えば、確かにそうだろう。

 ただねぇ…それにしてはトリアー、ヤケにこれをアメリカの話にしたがっていないか?

 ロッキーの麓だのアメリカ俳優の大挙出演だの…そもそもデンマークのトリアーが、これを英語映画としてつくっている時点でそれはミエミエだろう。おまけにエンドクレジットには、デビッド・ボウイーの「ヤング・アメリカン」がガンガン流れる。その背景には、さまざまなアメリカの地方を撮影した写真がバンバン出てくるといった次第だ。どう考えたってトリアーは、この話でアメリカの田舎の偏狭な連中をネタにしながら、アメリカ批判を展開したがってるとしか思えない。

 アンチ・アメリカならそれでもいい。だけど、それならミニマル・セットに意味がなくなってしまう。ハッキリ言ってロッキー山中にロケすればいいのだ。あるいはヨーロッパでもどこでも、どこかをアメリカだと言ってセットを組んで撮影すればいい。いやいや、全部スタジオ内で撮影してもいい。とにかくあそこまで徹底してミニマルにする必然性が感じられないのだ。

 いや、普遍性を訴える意図をあえて持っていないのなら、むしろちゃんとしたセットを建設しない方がおかしい。映画という大衆的なメディアを使って、広い観客に届かせない手はないだろう。オレの映画は観客に受け入れてもらうんじゃない、観客が頭を使って参加しなきゃダメなんだ…なんて傲慢な事を考えているんだろうか。だとしたら思い上がりも甚だしい。それよりおかしいではないか。ならばなぜキッドマンなんて大スターを起用するのだ。いい女優はいくらでもいる。彼女の起用は広い観客に受け入れてもらいたいからだろう? ならば大スターは起用していながら、一方でなぜミニマル・セットなのだ。

 これは矛盾以外の何者でもないのではないか?

 必然性が考えられないとしたら、それは単なる思い付きの域を出ない。オレはこんな状況下でも迫力あるドラマを構築出来るのだ…と、これ見よがしに奇をてらったシチュエーションを創り上げたとしか思えない。それって肥大したエゴを丸出しにした振る舞いにしか感じられないんだよね。

 トリアーは前作「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でアメリカも知らないでアメリカ批判をしている…と言われて怒ったらしい。「カサブランカ」を撮った奴はカサブランカに行ったのか?…と反論したらしいが、それはちょっと詭弁というものだろう。言いたい事は分かるが、彼のやろうとした事は確かにそう言われかねない事だ。

 実際のところ、僕はトリアーのアンチ・アメリカ指向もあんまり信用出来ないと思っている。

 アンチ・アメリカなら、なぜこれほどアメリカにこだわった映画をつくるのか? 「ダンサー・イン・ザ・ダーク」にデビッド・モースを起用し、ここでまたニコール・キッドマンに加え、インディペンデント映画で名を上げたベン・ギャザラはともかく、ローレン・バコール、ジェームズ・カーンまで引っぱり出す意図は何なのか。カーンなど、「ゴッドファーザー」以来十八番のギャング役だ(笑)。

 トリアーって実は、物凄くハリウッド映画が好きで、アメリカ大好きなミーハーなのではないか?

 だけどそれを露わにするには、ヨーロッパの鬼才としての沽券に拘わる。だからアンチ・アメリカのコロモをつけて映画をつくる。それさえアリバイになっていれば、ハリウッド・スターを使おうがアメリカの話を撮ろうが、機関銃を持ったギャングを出そうがミュージカルを撮ろうがオールオッケーだ。僕はそのあたり、ハリウッド・スターのライアン・オニールやらジャック・ニコルソンやらトム・クルーズを使いたがった、あのスタンリー・キューブリックの鬼才ぶりとは裏腹のミーハー精神を思い出しちゃうんだよね。そういえばキューブリックもニコール・キッドマンを使っていたっけ。キッドマンってひょっとしたら、アメリカ嫌いの振りしたアメリカ大好きミーハー映画人のミューズなんだろうか(笑)?

 いやぁ、だから嬉しかったよ、僕にとっては(笑)。

 今が旬のキッドマンは確かにスゴかったが、ごひいきジェームズ・カーンまで出してくれたのは本当に嬉しかった。それもギャング役とはハマり過ぎている。僕が大好きだったブレア・ブラウンまで引っぱり出してくれたのも嬉しかった。さすがに「アルタード・ステーツ」も今は昔。イヤミな田舎のオバチャンになっちゃってたけどね。それでも僕のミーハー心を喜ばせてくれた。

 だからトリアーってきっとミーハーだ。そう自分では認められないけれどミーハーだ。だって「奇跡の海」の時に、映画を何章かに分けたオープニング画面を出してたことを覚えているかい? 何だかやたらコンピュータ処理して色付けたキレイキレイな風景場面に、エルトン・ジョンの「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」とか、プロコル・ハルムの「青い影」なんてヒット曲をかぶせていたではないか。あの深刻かつ強烈な映画にして、このキレイキレイ画面は何だ。このあまりにあまりなミーハー選曲はなんだ。あの時はみんなきっと深い意味があるんだろうと、あえて何も問えなかったと思う。僕もそれは見なかった聞かなかったつもりでいたけれど(笑)、今にして思えばあれはミーハー以外に考えられない

 でもそれって強烈演出と孤高の作家精神を持ち、人間の暗部を突くヨーロッパ監督としてはちょっと困った資質に思えるかもしれない。本人が一番困っているだろう(笑)。アメリカには確かに批判的かもしれない、人間や世の中に悪意を持っているかもしれない、「人間なんてこんなもの」と不敵にうそぶく挑発者。それなのにアメリカ好きハリウッド好きでミーハーで単純な自分を抑えきれない。これはトリアーの最大の苦悩ではないだろうか。

 矛盾に次ぐ矛盾。いや、これは彼の最大の矛盾点かもしれないよ。

 

見た後の付け足し

 実は確かに人間の悪しき本質を巧みに突いている映画ではあるが、人間集団のそんな部分を露悪趣味でブチまけるだけの映画だとしたら、よくは出来ているがそれほど非凡なモノでもない。そういう映画は今までもあまたあって、別にビックリする内容でもないのだ。共感はしたが、それだけでしかない。

 この映画で僕が「これは…」と目を見開いて見たのは、実はこの映画の最終部分だ

 それまでキッドマン扮するヒロインは、町の人々の蹂躙にひたすら耐える。それは確かに耐えるより他ない状況にいたからかもしれない。だけど、それで容認出来る蹂躙の度合いを超えても、彼女はひたすら耐え続ける。自分を踏みにじる人々を恨みがましくとらえず、何とか容認して許そうとする。それはまさに何か殉教者のようでもある。またしても自己犠牲だ。

 最終場面で、キッドマンの正体が明かされる。彼女は何とギャングの大ボス、ジェームズ・カーンの娘だった。彼女はカーンのコワモテな面、その巨大な権力で不正に人々を蹂躙している事が耐え難かった。暴力や権力で、人々に君臨している傲慢さがイヤだった。そこでカーンの元から逃げ出した。

 そんな娘キッドマンを、カーンは一喝するんだよね。

 「オマエが自分が一番高い倫理観を持っていて、人を許すことが出来ると思ってる。だが、そんなオマエが一番傲慢なんだよ!

 これって実は、劇中最大の正論なのではないだろうか?

 結局キッドマンは「ギャングの娘」としての権力を行使して、ドッグヴィルを地上から消さなければならないとの結論を出す。こうして悪辣な人々は当然の報いを受ける。

 実は白状すると、僕はこのくだりでハッキリと溜飲が下がる思いがした。そんな事を言えば僕の人間性が疑われるだろうが、溜飲が下がったものは仕方がない。スカッとしたよ。僕も今まで自分が知っている、ありとあらゆるドッグヴィルの住人たちを血祭りに上げたいと思ってきたからね。これは本当だ。僕は善人ではない。僕にキッドマンと同じ権力があったなら、迷わずそうやっている事だろう。そうやっても何も意味がない、そんな事は人の道に反する事だ…という事を百も承知だし、そう思っているからこそ…さらに告白すればそうする権力が僕にはないからこそ、僕は大人しくしている。だけどそれが可能なら、そうする誘惑から逃れられるかどうかはなはだ疑問だ。

 それをやってくれたから…それはこの映画本来の味わい方ではないかもしれないが、それゆえに「ドッグヴィル」は僕にとって見ていて楽しめるトリアー作品になったと言える。それは恥ずかしながら認めざるを得ない。

 だが僕がこの映画を気に入ったのは、それだけの理由ではない

 ニコール・キッドマンのヒロインは、父親の指摘する通り自分が最も倫理観の高い人間だと思っている。だから卑しい人間たちの振る舞いにも耐えた。「許してやる」ことが出来た。ひょっとしたら父の悪行を自らで清算するつもりだったのかもしれない。殉教者的に見えたのはそのせいだ。だが、それは確かにある意味で、「傲慢」の最たるものかもしれない。

 しかも彼女は結局、この町が地上にあるに値いしないと判断する。あくまで復讐ではない。「許してやった」ように「裁いてやる」のだ。それはキッドマンに「教育してやる」とうそぶきながら、彼女が大切にしていた人形をヒステリックに破壊する町の女と大差ないではないか。倫理観とは何なのだ。町の人間たちは、ある時は善意のカタチで、ある時は仕方なくという言い訳で、ある時はヒステリー女のように「教育」の名の下に、ある時は「正当な報酬」と言いながら、ありとあらゆる蹂躙を欲しいままにした。彼女を守ろうとしていた(つもりの)ポール・ベタニー扮する男ですら、それが町の人々の意識向上に役立つ…とか何とか、訳の分からないお題目を並べ立てて見て見ぬふりを決め込んだ。

 だが「倫理」の名の下に行うというのは、それらとどこが違うだろう?

 ここでこの映画は、凡百の人間の悪しき本質暴露映画とは一線を画したように思える。僕には少なくともそう思えた…いや、まだだ!

 ラース・フォン・トリアーがまだ残っていた。

 トリアーの悪意を込めた映画づくり。それ自体は僕もアリだと思う。いろいろ気になる点は多々あるにしても、その部分だけに限って見れば、そういう映画だってあっていいと思う。ならば僕は、トリアーのどこが一番気に入らなかったのか?

 「人間なんてこんなもの」…そううそぶき挑発するトリアー。その主張には賛同出来ないでもないが、それをする上でのトリアー自身のポジションが気になった。

 「人間なんて」のその「人間」の中には、当のトリアーは入っているのか?

 何だか自分だけ高い櫓の上に上がって安全な位置に逃げて、登場人物から観客までを見下ろしながら高みの見物しているみたいな、ハッキリ言うと卑怯な態度がイヤだったんだよね。自分は全部お見通しで分かってる、オマエらはこのオレの高尚な考えが分かるかな?…その「何様」ぶりがムカついた。おそらくトリアー作品がキライな大半の観客もそうじゃないだろうか?

 その時、僕はあの一見必然性のない、ミニマル・セットが脳裏に蘇ったんだよね。

 さらにこの映画での最重要人物は、おそらくキッドマンのヒロインを除けば、ポール・ベタニー扮する彼女の庇護者ではないか…と気づいた。

 この映画の中での彼のキャラクターを考えてみよう。彼はとにかく理屈を並べる。この町で一番思索に耽って、一番人間性について思いを馳せる人間だ。少なくとも彼自身はそう思っている。だからアレコレと言葉を弄する。だが、それはほとんどが空疎で無意味で、人々には届かない。キッドマン受け入れの際にもムダな屁理屈をこねて、なかなか本題に入らない。

 そしてベタニーは、キッドマンに善意の人として受け入れられたいと願いながら、一方で彼女を抱きたくてたまらない。愛していると言うのにも無駄な屁理屈並べて一苦労。いやぁ、僕だって人の事は言えない。同じような事をしてきたよ(笑)。それにしたって、ベタニーの最後の迫り方はマズかった。大層リッパな事を言ったあげくに、これ言っちゃオシマイのブチ壊しの一言。「みんなにはやらせてるのに、何でオレにはやらせないんだよぉ!」(笑)…。

 高い理想は持っているんだろうけど、その理想たるや空疎そのもの。いろいろ思索は巡らせているんだろうが、実は本当のところは何にも分かってない。そのくせ自分こそ愚かなみんなを導けるという根拠のない自信と傲慢。でも人に伝えるには力乏しく、やたら自意識だけが強いから伝わるものも伝わらない。しかも本音のところは結構おバカで、自分が見下してる連中と五十歩百歩のお恥ずかしい願望で頭がいっぱい。なのに利口そうに見せたくて仕方ないから、底の浅さを見透かされるとプライドが許せない。

 これって実は、トリアー自身がコッソリ作中に潜ませた自画像ではないか?

 考えてみると、このベタニーの演じる役柄が自称「作家」という点が意味深だ。しかも映画の終盤で、彼はこの町を題材に小説を書いたと豪語する。キッドマンはそれに、冷たくこう言い放つではないか。「その題名は『ドッグヴィル』にしたら?」

 しかもベタニーはこの小説を三部作で書くつもりだと言っている。聞くところによれば、トリアーはこの「ドッグヴィル」を、三部作映画の第一作として構想していると言う。ここまで見ていくと、彼がこのベタニー演じるお恥ずかしくも愚かな文化人=作家を、自らの自画像として描いた可能性は高いと思えるんだよね。

 もう一回、ここでのトリアーの有り様を考えてみよう。人間の本質について考察した映画をつくり、それをミニマルなセットで撮影することで普遍性を高めたと思わせながら、彼はこの映画をアメリカ批判にしようとしてる。ではミニマル・セットは矛盾ではないか。その割にキッドマン、カーン、バコール…と、ミーハーなアメリカ・ハリウッドのアイテムのオンパレード。アメリカ嫌いも矛盾にしか思えない。一見高踏な手段のミニマル・セットだが、必然性が見えなければ単なる思いつきになってしまう。観客に媚びない映画づくりだとタンカを切るならそれでもいいが、それにしては大スター起用はますますもって矛盾だろう。そのくせ批判を浴びると開き直る。

 言ってる事とやってる事がチグハグ。力があるのは分かるが、どう考えても理屈が上滑りしている。せっかくいい事を言おうとしているのにね。

 ひょっとしてトリアー自身が、そういう自分の良くない部分を一番骨身にこたえて気づいているのではないか。だけど素直には打ち明けられない。だからこんなカタチでコッソリ忍ばせているのではないか。

 だとしたら「ドッグヴィル」は興味深い作品だし、僕は結構気に入った。これは人間の持つ悪しき本質に迫っただけの作品じゃない。作者のトリアー自身が、自らの悪しき正体を本音で打ち明け始めた作品かもしれないからね。

 

 

 

 

 

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