「オアシス」

  Oasis

 (2004/03/29)


  

見る前の予想

 ペパーミント・キャンディーのイ・チョンドン監督の新作と言うだけで、僕にとっては見るべき映画だ。それほど「ペパキャン」は僕にとってメガトン級の破壊力のあった映画だからね。

 まして「ペパキャン」主演の二人、ソル・ギョングとムン・ソリがここでも主役カップルを演じるとなれば、見るしかないだろう。もはやまったく躊躇する余地ナシ。

 今度の映画は前科者で社会的な不適格者の男と、脳性マヒの女のラブストーリーだと言う。正直言ってこの設定でつくられた映画とくると、泣けとばかりにやられそうで思わず腰が退ける。だが、あの奇跡的と言っていい「ペパキャン」をつくった監督と主役二人の映画なのだ。万難を排して見るべきだろう。

 僕はそのくらいこの監督に、全幅の信頼を置いているのだ。

 

あらすじ

 真冬と言うのに半袖で街をうろつく妙な男、ソル・ギョングはどう見たって周囲から浮きまくっている。途中、バスを待つ男からタバコをせびったりして、ますます周囲を退かせているのにまったく状況が分かってない。彼がたどり着いたのはあるアパート。しかし目指す人は今は引っ越してここにはいなかった。行くアテもなく途方に暮れるソル・ギョング。どうも所持金もないみたいだ。あげく焼き肉屋でたらふく食って無銭飲食で御用。

 その警察で、彼の素性は明らかになる。前科三犯。暴行、強姦未遂、そしてひき逃げ…というご立派な前科者。そしてこの日ようやく出所してすぐのこのテイタラクだ。だが彼はまったく悪びれてない。ここでも自分の置かれた状況が分かってないようなソル・ギョングだ。

 そんな彼を迎えにやって来たのは弟のリュ・スンワン。さぞや小さくなって顔を合わせると思いきや、またまた軽口を叩くソル・ギョング。明らかに弟が迷惑がってるにも関わらず、だ。

 そんな彼は、ようやく家族の元に帰り着く。だが兄アン・サネンも兄嫁チュ・グィジョンも、母キム・ジングすら当惑顔だ。どう考えても歓迎されてない。出所したのに出迎えもなく、引っ越し先すら告げてなかった事からも明白。だがソル・ギョングはまったく気にしていないし、そもそも自分がお荷物という自覚すらないようだ。

 働き口もなければ困るだろうと、兄アン・サネンが中華料理屋の出前の仕事を世話しようとするが、ソル・ギョングは聞いているんだか聞いてないんだか。そんなチャランポランな彼に、兄は怒り心頭だ。

 そんなソル・ギョングは、果物を持ってあるアパートへと出かけて行く。たまたまドアが開いていた事から中にズカズカと入ったソル・ギョングは、そこで一人の人物と遭遇する。手鏡を持って光で遊ぶその人物は、顔を歪ませ手足をねじ曲げながらうずくまっていた。それは脳性マヒを患っているムン・ソリだ。

 そんな彼女を興味を持って見つめていたソル・ギョングの元に、部屋の主が戻ってきた。その男ソン・ビョンホは、実はソル・ギョングがひき殺した男の遺族だった。彼は出所して、まずは遺族にお悔やみの果物を…と出向いて行ったわけだ。そして脳性マヒのムン・ソリはソン・ビョンホの妹。

 だが相変わらず彼は悪びれてない。そんな態度をフザケてると怒ったソン・ビョンホは、ソル・ギョングを果物ごと叩き出す。

 このソン・ビョンホ、実は引っ越しの真っ最中だ。荷物をクルマに積み込むと、住み慣れたアパートから新居へと出かけようとする。そこにまたしてもソル・ギョングだ。「妹さんはあそこに一人で置いていくんですか?」

 これは痛いところを突かれたソン・ビョンホは、そもそも好ましく思っていなかったソル・ギョングに怒鳴ってクルマを出発させた。でもソル・ギョングは何となく彼女が気になっている。

 さて中華の出前の仕事を始めたソル・ギョングだが、例によって例の調子。ある晩など帰るのが遅すぎて店を閉められてしまうアリサマ。そうなれば出前バイクを疾走させて上機嫌とくるからおめでたい。あげく道路で転倒してキズだらけ。そんなソル・ギョングに、またしても兄アン・サネンの怒りは爆発する。そんなこんなで兄嫁までついつい真っ正直につぶやく。「私ね、あなたがキライなの。あなたが来てから家の中ゴタゴタ続きよ

 でも、ソル・ギョングは何も感じてないかのごとく涼しい顔だ。

 だが彼とても人の子。実は動じていない訳ではない。そんな彼がなぜかまたしてもムン・ソリが残されたアパートにやって来たのは、そんなやるせない気持ちのなせる業だったか。彼はまず花束を持って訪れるが、部屋にはカギがかかっていた。そして花束は、ムン・ソリの世話を任されている隣りのオバサンに取られてしまう。仕方がない。退散するしかないか。

 ええい、ままよ。

 アパートに引き返したソル・ギョングは、先に隣りのオバサンがカギを隠した場所を見ていた。例によって涼しい顔でカギを手に入れたソル・ギョングは、図々しくもムン・ソリの部屋に乗り込んでしまう。

 そりゃいきなり他人が部屋に入ってくれば誰でもビビる。ところがソル・ギョングはまったく動じない。「オレはここに住んでいる」などと兄の家の電話番号が書かれた名刺を置く。それどころか、何を思ったかムン・ソリを口説き始めるではないか。「かわいいよ」などと言いながら、イヤがるムン・ソリの手を足を、さらには顔をなで始める。必死にもがくムン・ソリの様子などお構いなし。だんだん大胆さを増して、抱きつくわ服を脱がそうとするわ、胸をもみしだくわ。さらにはズボンを下ろして事に及ぼうという勢い。これにはたまらずムン・ソリは失神してしまう。

 今度驚いたのはソル・ギョングだ。えらい事をしてしまったと慌てふためく。ビビった彼はムン・ソリを風呂場まで引きずっていき、顔にいきなり水をぶっかけた。ムン・ソリが息を吹き返したの見てとるや、脱兎のごとく部屋を飛び出すソル・ギョングであった。

 その次の日、ムン・ソリは部屋で一人、服をとっかえひっかえカラダにあてて鏡を見ていた。さらには唇に口紅を塗ろうとさえする。一体いかなる心境の変化なのか。

 ところがそんな彼女の部屋に、秘かに忍んで来た二人の人物。実はこの二人、あのムン・ソリの世話を任されているオバサンとその亭主だった。二人は思わず白昼もよおして、ここでちょいと濡れ場を演じようというハラだ。なぁに、ムン・ソリの事なんか気にしない。部屋の向こうでズコズコやってる音を聞きながら、果たしてムン・ソリは何を思ったか。

 そんなムン・ソリの元に、突然兄のソン・ビョンホが突然訪ねて来る。そしてそのままムン・ソリを連れて、引っ越した先の自宅へ向かうではないか。実はこのソン・ビョンホの新居、身障者家族にあてがわれる福祉住宅だった。ソン・ビョンホ夫婦はムン・ソリと同居していると偽って、この新居を手に入れたというわけ。この日は役所からの調査が入ったので、慌ててムン・ソリを連れて来て同居しているかのごとく見せかけた。しかも用が済んだら再びムン・ソリを元の汚いアパートに連れ戻す現金ぶり。この慌ただしい往復とあんまりな仕打ちに、ムン・ソリは一体何を考える。そのせいかどうか、彼女はソル・ギョングが置いていった名刺を思わず手にとっていた

 その夜、ここは兄アン・サネンの家。ソファで寝ていたソル・ギョングは、突然の電話で叩き起こされる。しかも電話に出ると、何やら要領を得ない言葉が聴こえてくる。思わず怒って電話を切ったソル・ギョングだが、切った後でふと気付いた。今の電話の相手って…。

 そんな彼の元に間髪開けずにもう一度電話がかかってくる。ソル・ギョングは受話器を取ると、今度は注意深く相手の言葉を聞き取ろうとした。

 「会いに来て…」

 それは誰あろう、先日無礼千万な事をしでかした当の相手…ムン・ソリの必死の訴えだった。

 

見た後での感想

 この映画を見る前に、「前科者で社会的な不適格者の男と、脳性マヒの女のラブストーリー」と聞いて、本来だったら腰が退ける…と書いたよね。だけど「ペパキャン」監督のイ・チョンドンだから見た…とも。もちろん卓抜した実感とリアリズム、そして抜群の発想であの重層感溢れるドラマをつくった彼が、今回の作品でも「あまりにベタな設定」を選択したからとは言え、お涙頂戴な映画をつくるはずもあるまい

 そんな気持ちでスクリーンに向かった僕だから、冷や冷やこそしなかったものの、確かにこの設定は結構リスキーだなと思わずにいられなかった。

 まずは男の方を演じるソル・ギョング。知恵遅れではないものの、どうも世間の常識というものとは縁遠い男。悪気はないのだが自分の置かれた立場だとか社会常識など考えない。まるで子供がそのまま大人になった感じ。ハッキリ言って自分の身近にいたらハタ迷惑この上ない男なのだ。「こんな純粋な人なのに、世間は彼を理解してあげられない」的に批評で書いているものもあったが、正直言ってこんな奴理解なんか出来る訳ないよ。オレが身近な人間だったら思いきりキレる。途中あんまりバカでテメエ勝手だから、何度か共感出来ない気分になる事だってある。

 他方、女の方はと言えば、ムン・ソリの熱演のおかげでリアリティある脳性マヒの人が描き出されているものの、何せこの状態で当人の心情まで伺い知る事は困難だ。腕をねじ曲げ顔を歪ませ引きつらせた状態で、いわゆる普通の顔面演技をするなんて不可能に近い。

 しかし、そこはそれ。「ペパキャン」チームの作品は一筋縄ではいかないのだ。

 さすがにあの「ペパキャン」で何と20年に渡る男の半生を演技で見せきってしまったソル・ギョング。どう考えても理解し難い社会の不適格者を、何とか観客の理解の範疇まで持ってきてるから見事だ。考えてみると「ペパキャン」では、共感し難い卑劣漢を観客にも理解できる男として、観客に説得力を持って提示出来ていたではないか。今回もその抜群の演技力をフルに駆使して、ソル・ギョングは難事を克服すべく頑張っている

 さらにムン・ソリも、いわゆる俗に言う芝居の粋を超えた状況で、何とかヒロインの胸の内を見せる事に成功している。そもそも僕は先に「ムン・ソリの熱演のおかげでリアリティある脳性マヒの人が描き出されているものの」…などと簡単に済ませてしまったが、その事自体が驚異的だ。こういう芝居はやりすぎたりやらなすぎたりで、およそ説得力を欠いた恥ずかしいものになってしまいがちだ。それを克服してリアリティを何とかつくり出した上で、ヒロインの心情までを見せようとする。このあたりはほとんど奇跡と言っていい。

 実は今回のこの映画を見ていて、つい先日見た日本映画ジョゼと虎と魚たちを想起せざるを得なかった。もちろんあちらはヒロインの障害の程度がこちらと格段に違う。足の不自由さを除けばあくまで可愛い池脇千鶴が抜群の好感度で演じた「ジョゼ」は、だからある意味では「身障者を描いた映画」とは言えない。それはリアリティある恋愛映画を描くための要素の一つでしかなかった。だがこの「オアシス」のムン・ソリは、ちょっとそんなレベルではとどまらない。これも確かに極端な例を出しての恋愛の寓話をつくろうという意図は分かるのだが、それにしたってインパクトがデカ過ぎる

 それでも何となくこの両者は、共通する趣向を何度も見つける事が出来るから興味深いところだ。片や部屋にこもっていたジョゼを乳母車で外に連れ出す主人公の男の子、片やこちらではやっぱり閉じこもりのムン・ソリをソル・ギョングが車椅子に乗せて屋上に引っぱり出す。そこで両ヒロインが空を見て感嘆の表情を見せるのも似ている。男の主人公が一族郎党の集いにヒロインを連れていこうと思い立つあたりで、物語が急展開するのも同じ。ヒロインが男に向かって「寝よう」と提案するあたりも共通する。

 だが周囲の状況や二人が追いつめられていく様子は、この映画それぞれ肌合いが全く違う事から想像されるように、当然のごとくまるっきり異なる様相を呈していくのだ。

 まず、この二人は徹底的に周囲に疎まれている。ソル・ギョングの方は何しろキャラクターがあれだから無理もないのだが、出所したって出迎え一つない。それどころか引っ越した事も知らせてもらえない。その事からして帰って来るなと言わんばかりだ。家に迎えられてからもソファに追いやられて寝る始末。後には彼が、兄のひき逃げの罪をかぶって刑務所入りした事まで描かれる。彼は疎んじられるだけの事はしているとは言え、彼をいいように利用する周囲も周囲なのだ

 ムン・ソリの方も同様で、うまい事言って兄夫婦は彼女を置き去りにして新居に引っ越しをする。後にそれがムン・ソリをダシに使った福祉住宅だったと分かるに至っては、まったくエゴもいいところのとんでもない家族だ。彼らは周囲の人間から「お荷物」視されてしまう存在なのかもしれないが、周囲の人間たちは人間たちで、そんな彼らを利用してこすズルく立ち回っている。要は主人公たちをあれこれ疎んじて言いたい事言ってはいるが、実は世間的にうまく立ち回ってごまかす要領の良さだけしか長けていない連中だ。

 だからこの映画って考えようによってはあざとい。あまりにあざとい設定だ。ソル・ギョングとムン・ソリのカップルの好演があるからこそ気持ち良く見ていられるが、これが凡百の映画ならあざとすぎてイヤになってしまうかもしれない。だが、こうした周囲との浮き上がり方がうまく活かされて、どう見ても結ばれようもない二人が結ばれていく。この段取りのうまさはさすがに大したものだ。

 まずは周囲にどう言われようと意に関せずと思えたソル・ギョングが、意外にもそんな冷たい仕打ちが精神的にこたえていく様子を見せて、彼がムン・ソリに関心を抱いていく様子を無理なく描いていく。ところが彼が彼女に最初にとるアプローチは、ほどんど強姦まがいの直接行動だ。これもリスキーと言えばリスキーな描き方だろう。ところがこの一件がムン・ソリがソル・ギョングに関心を持つキッカケになっていく。何ともスレスレの危なさで乗り切る、巧みな脚本の段取りのうまさ。このあたりもまた、奇跡的と言っていいだろう。

 二人の恋愛が進んでいくにつれて、見ている僕らもウキウキしてくる。その中でもうっとりさせられるのが、ムン・ソリの心情をそのまま映像にしたような描写だ。立って歩くのもままならず、常に腕をねじ曲げ顔を歪ませているムン・ソリ。そんな彼女がまるでそんな事などなかったようにスックと立ち上がり、ソル・ギョングにじゃれてペットボトルでふざけて頭をぶっ叩くくだり、あるいは立ち上がって歌をうたいかけるあたり…中でも素晴らしいのは「オアシス」のタペストリーの絵柄イメージが飛び出し、主役二人と共に踊り出す場面だ。

 この「オアシス」のタペストリーは、ヒロイン=ムン・ソリの部屋の壁に貼ってあるもの。砂漠のオアシスに椰子の木が生え花々が咲き乱れ、なぜかインド人の女と少年がいて、一頭のゾウまでいるという絵柄。まぁ、どこかで買った安物というのがミエミエのシロモノだ。夜になるとそのタペストリーが掛かっている壁に窓際の木の枝の影が映り、それがヒロイン=ムン・ソリを脅えさせたりする。この映画の冒頭から登場する、象徴的な役割を持った小道具だ。

 劇中では、ソル・ギョングがムン・ソリを運んで彼女のアパートの部屋に戻って来たところで、この部屋に「オアシス」タペストリーの登場人物たちがいきなり現れる。幻想的な音楽が流れる中、インド人の女や少年たち、それにゾウも交えて、ソル・ギョングとムン・ソリは楽しげに踊りまくる。こうであったらいいなぁ、こうであってほしい…おそらく登場人物の気持ちと、見ているこっちの気持ちも同調する好場面で、見ている方の気分は大いに盛り上がる。

 だがこの趣向って、一歩間違ったら大コケ間違いなしの危険な賭けに違いない。考えてみたら、ただムチャクチャなメンツがアパートの部屋で踊っているだけの空想場面だから、下手して場面がもたなかったらどうしようもないのだ。見ている途中でシラけてくる可能性も大いにある。さすがソル・ギョングとムン・ソリの演技力、さらにはイ・チョンドンの周到な演出と、観客の気持ちをガッチリ手離さずにそれを真実のモノとして見たいという方向に誘導していった巧みな脚本のおかげで、それを何とか乗り切って事は言うまでもない。だが、それにしたってあまりにリスキーだ。これもまた、成功したのはほとんど奇跡に近いと思わずにいられない

 このように、この映画って地雷原を這って進むかのように、あまりにリスキーな趣向が連発する。人物設定からその出会い、恋愛の進行状況に至るまで、危なっかしい要素を次々と自分からあえて置いて、そこを乗り切るのを課題にでもしているかのようだ。だって何でここまで…というあざとさだし、ある意味でリスキーさなんだからね。リアルな物語を志向するなら、もうちょっと安全な橋だって渡れるだろう。だけどむしろ無茶な方向へ行く。このあたりで僕は、そもそもそうではないか…と察してはいたが、この映画は「前科者で社会的な不適格者の男と、脳性マヒの女のラブストーリー」なんか描こうとハナっから思っちゃいないのではないかと感じ始めていた。

 では、何をそうまでして、そんなヤバい橋を渡ろうとしているのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後の付け足し

 実はまたまた「付けたし」などと言って、ホントはここからが肝心なところだ。

 この映画ではこんな風に主役カップルがどん詰まりな状況に置かれていて、それこそ周囲のエゴと無理解に翻弄される。それがあざといスレスレの線で、何とか平均台から落ちない程度に物語の原動力になっている。それでも気持ちよく見ていられるのは、この二人がそんな周囲や自分たちが置かれた状況に、恨み言一つ言おうとしないせいだ。そもそも恨もうという気すらないように見える。ある意味で彼らは自分の事で手一杯で、そんな恨みがましい気持ちになる余裕すらないのかもしれない。

 そんな主人公カップルのサッパリした在り方は、始終何かにボヤかずにいられない自分の事を振り返ってみると、思わず恥じてしまうほどの潔さだ。それがこの物語を澄み切った爽やかなものにしている。

 で、そんなこんなで彼らの恋愛も行き着くとこまで行くのだが、その終盤にキツい趣向が待っている。ソル・ギョングが自分の親族の集まりにムン・ソリを連れて行っての気まずい諍い。それだけでは収まらない。その夜、二人は初めて結ばれようとするのだが、よりによってそこにムン・ソリの兄夫婦が帰ってきて、事の最中にハチ合わせ。ソル・ギョングは強姦の罪で逮捕されるハメに陥る。

 事ここに至ると、さすがに僕もちょっとあざとさも度が過ぎやしないか…と正直辟易してき始めた。おまけにソル・ギョングは釈明もせずふざけた態度を取るばかり。ムン・ソリはムン・ソリで興奮のあまりしゃべる事が出来なくなる。これはちょっとなぁ…。先に「言い訳しない潔さ」とは言ったものの、何もここまでという気分にもなってくる。まるで昔の大映テレビの「赤いシリーズ」もかくや…のコテコテの不幸のつるべ打ちみたいで、さすがに気持ちが退けて来そうになる。

 ところがひょんな事からソル・ギョングが警察署から脱走。物語はまたまた奇跡的なクライマックスを迎える事になる。

 思えば「ペパーミント・キャンディー」は、主人公が徐々に煮詰まって死に至るいく人生を、時系列をまったく逆にして遡っていくカタチで見せていた。それはそれで見事だったし実感もこもっていたが、見ているうちにこの話ってどう終わらせるんだって気になって来たのも事実だったんだよね。ドツボでお話を終わらせて、それで…だから何なんだってな感じになったらどうする。そんな身もフタもない終わり方はすまい…と思ってはいたが、それにしたってどうするつもりなんだと見ていて気が気じゃなかった。

 ところが最後にアッと驚くウルトラCで、心に染みる終わり方をした。何とどう考えてもドツボな人生を描いた映画なのに、主人公のセリフにもあった「人生は美しい」がまさにふさわしい映画となったのだ。考えてみれば、あれこそ奇跡としか言いようがないよね。

 この「オアシス」も不幸の極地みたいなクライマックスを迎えながら、主人公カップルが全世界に向かって自分たちの愛を表明しているかのようなカタチで見事なカタルシスに到達する。一見ゴタゴタとした大混乱が起こっていながら、そこにはなぜか清廉な風が吹いている。だから、どうにもならない幕切れを迎えながらも、後味は爽やかだ。観客は幸福感に包まれる。

 考えてみれば、本当の純度100パーセントの恋愛などというものは、おそらく周囲の思惑とか道徳とか常識とかを覆すほど、パワフルでヤバいものなんじゃないかと思う。そこに「ほどほど」とか「程度問題」とかの世間相場の物差しを持って来ても意味がない。こう言ったら極論だが、周囲やみんなに認めてもらえて祝福される恋愛なんぞと言うモノは、周囲を揺り動かすほどの力もないケチくさくてどうでもいいようなもの…大したものではないのかもしれない。周りの秩序や平穏を脅かしてこその、純度100パーセントの恋愛ってものかもしれないのだ。もちろんそれは当事者にだって生きるか死ぬか、あるいは人生に大きな影響やダメージを与えかねないシロモノだ。ハタにとってだけでなく、当人にとっても多分にリスキー。でも、それでこそホンモノって気もちょっとするんだよね。

 実際、一緒になりたいとか一つになりたいとか、単に抱きたい抱かれたいとか、そういう感情ってすごくヤバいものなんじゃないか。例えばデビッド・リーンの映画なんか見ても、「逢びき」あたりから遺作の「インドへの道」に至るまで、恋愛とかセックスがすごく大きな隠しテーマになっている。それは個人の人生を大きく変えてしまうだけじゃない。時としてコミュニティとか国家とか歴史まで変えかねないパワーがあると描かれるのだ。人類の歴史を振り返ってみても、現在に至るまで時の国家権力が、洋の東西を問わず恋愛や結婚やセックスにアレコレと歯止めをかけて押さえつけよう何かの鋳型にハメこもうとしてきたではないか。夫と妻の名字一つでゴタゴタしているわが国を見ても分かるだろう。写真にアソコの毛一本写すのに、どれだけ長い時間がかかった事か。あるいはあまたある宗教が、どれもこれもバカの一つ覚えみたいに恋愛や結婚やセックスを抑えつけてきた事を考えてみよう。彼らは心底恐れているんだよね。恋愛やセックスに自分たちの座を覆されそうなパワーがあることを。それは当事者にもどうにもならないパワーだ。

 そう、ホントの恋愛って大量破壊兵器みたいなモノだ。アメリカがイラクで探してるモノは、元々探し方が間違ってる(笑)。恋愛って本来、そこまでアナーキーなものじゃないかと思うんだよね。

 正直に言うと、僕も道を踏み外しちゃって人生ガタガタになっちゃうくらい、ちょっとヤバい恋愛沙汰が昔はあった。あの時は僕も社会的に破綻の一歩手前までいった。相手はそうはならなかったのは、相手の気持ちが所詮はその程度って事だったに違いない。向こうにはちゃんと打算と常識ってやつがあったんだね。早い話が、僕には人生賭けるほどの価値がなかったって事だろう(笑)。

 でもこっちは危なくヤバい方向に行きそうだった。完全にタガが外れていた。あの頃は、もう自分なんてどうでもよかった。自分の持ち物全部投げ出してもくれてやっても良かったんだ。そのくらい破壊力があった。当然周囲も親も大ヒンシュクだったしね。アレコレと口汚くののしられたり、バカにされたもんだよ。でも止まらない。あの時はいろいろ思い悩む事もあったけど、妙に生きている実感ってのがあった気もする

 そう考えてみると、イマドキは理解と常識に満ちた「つまんない」恋愛ばかりが溢れているのかもしれない。下手すれば恋愛当事者自身が、それぞれ自分のトクばかり考えていたりする。傷つかないように損をしないようにしようとしている。何らリスクを負わない恋愛…そんなものが恋愛と言えるんだろうかねぇ。単にセックスするだけなら、やめちゃえよそんなつまんないものは。そんなの相手に縛られるだけでいい事なんか一つもない。リスクがイヤだと言うのなら、それが何より最大のリスクだよ。

 この映画は、そういうユル〜い男と女の世の中に激震を与えるような、ガソリンよりも爆発力が絶大の、完全燃焼の恋愛ってやつを描きたかったのかもしれないんだよ。

 正直言ってこの映画のカップルは、この先もどう考えてもどん詰まりだ。たぶん結ばれて一緒に暮らす訳もないと思う。でも、映画はそれでもいいと言ってるようにも思えるんだよね。

 そんな爆発力のある恋愛は、成就してそれが末永く続く事に意味があるんじゃないだろう。そして、そんな恋愛は誰にも出来るものじゃない。僕のしたような経験も、そう誰でも出来るものじゃないだろうと思っている。そして、もう二度と出来るものじゃないとも思っている。それは…それを通過したってだけで価値がある

 そういう恋愛の「瞬間最大風速」みたいなもの…そんな経験を一度でも持てたという事。それが一番大事じゃないかとこの映画は言っているように思える。だって周りを吹っ飛ばしちゃうほどパワフルで、自分なんかどうでも良くなるほど無茶な体験…それってのは打算や世渡りとか考えていたら出来やしない。だからその渦中にいる男女は…少なくともそのどっちか片方は、たぶんどこまでも純粋だ。そういう風になれる機会ってのは、人間にとってこの世の中ではなかなかないものだよ。まして大人になったらなおさらだ。

 それこそが、何より得がたいものじゃないかと言ってるように思えるんだよね。

 

 

 

 

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