「イノセンス」

  Innocence

 (2004/03/22)


  

 

伊藤君子「フォロー・ミー」(「イノセンス」サントラCD収録バージョンではなく、出来ればオリジナル・バージョンで)を聞きながらお読みください。

 

 

今回のマクラ

 先日も何かの映画の感想文冒頭(ゴシカ)で、最近頻発する子どもの虐待事件を扱ったよね。まったくけしからん。それに尽きる。誰だって、言うことはそれしかないんじゃないか。

 ところがそんなテレビのニュースに憤っていた僕に、自分の母親が予想外の言葉を放ったから驚いた。

 「でもね、子どもってのは本当に腹の立つ事もあるんだよ

 世間相場でのありきたりの、人道的「子ども=可哀想」のパターンでしか考えていなかった僕は、不意を突かれて沈黙するしかなかった。でも…そりゃそうかもね。ひどい話ではあるかもしれないが、確かにそういう事もないではないかもしれない。少なくとも子どもを持った事もなければ育ててもいない僕には、ここから先は何も言えない領域だ。

 というか、とてつもなく大変だという気持ちがあるから、実は僕は子どもを持ちたいと思った事がない。可愛いと思わない訳ではない。だけど可愛いばかりじゃないだろう。それだけではない。子どもをちゃんとした人間に育てる任が僕に勤まるとは思えない。僕自身が満足にやっていけない人間なのに、それが子どもなんか育てられるのか。その子の人生を台無しにしないと言えるのか。それを思うと恐れ多くてとても子育てなんて考えられない。これは正直な思いなんだよね。まったく自慢できない話なんだけど。

 僕の同世代の人間たちも、みんなそれぞれ子どもを育てている。大変な事だと思うよ。それだけで尊敬に値いすると思う。リッパにやっている連中も多い。だけど意地悪く考えると、中にはこいつが子育てなんか出来るのかって奴だっているんだよね。

 ところがそういう奴に限って、子どももいない僕にこれみよがしに子育ての大変さを語って来る。それを言われちゃ僕には一言の反論の余地もないけれど、実はここだけの話チャンチャラおかしいって気もしてくるんだよね。だってオレはこいつに子どもをつくって育てろなんて一言も頼んでない。自分で選んで引き受けた道だろう。それをオレに偉そうに言ってどういうつもりだ。そんなに大変でイヤならつくらなきゃ良かっただろうが。言外に子どもを育てているオレはオマエよりエライ…というニュアンスがにじみ出るだけに、その傲慢さがイヤになる。これは子どもを持っていない僕のひがみだけだろうか。

 それにもっと踏み込んで僕に言う資格もない事を言わせてもらえれば、子どもをつくって育てている事がエライというのは違うだろう。まず、自分でそれを言うな。それはあくまで他人が言う事だろう。

 それに、本当は「ちゃんと」「マトモな人間になれるように」「愛情を持って」育てているかどうかが大事なのではないか。それが出来て初めて、エライと言うに値いするのではないか。それをただ育てている、家に飼っているエサをやっているという一点だけで…それでも僕よりは大いに勝ってはいるのだろうが…自慢して優越感に浸るというのは、そもそも何かが間違ってやしないか。そんな事でちゃんと子どもが育てられているのだろうか。その歪んだ優越感は、子どもに対しても向けられてやしないか。そんな態度で子育てされている子どもは、どこか不幸ではないだろうか。オレはこんなくだらない親はイヤだ。

 そういう奴って、子どもを自分のステータスか何かに考えているんじゃないのか

 つまりは備品だ。自分を高める道具。自分を世間的にイッチョマエと認めさせるためのアイテム。可愛い時もあるから、その時は自分の心が慰められるに違いない。そしてしつけや教育と称して、無条件で屈服させられる存在

 今、子どもを巡る惨い事件が多発しているのも、大人の方にどこかそんな奢りがあるからじゃないか。子どもを備品としか思っていないで、一個の人格としては考えられないから起きているんじゃないか。

 いや、備品ではないな…。やっぱり人間だとは思っているはずだ。でも…だからこそ痛快なのだろう。一個の言わば自分と同じ人間を、絶対的に支配できる快感。これは何者にも代え難いのではないか。

 もちろん子供を育てる親にそれ以外の暖かい感情があって、多くの親たちは子どもを慈しみつつ育てているはずだと僕も思っているし、そう信じてもいる。そういう親たちを僕はたくさん知っている。だから、これが言い掛かりの極論に過ぎないという可能性は大いにある。でも、少なからず僕が指摘したような部分を内在する人々も、残念ながら世の中には大勢いる…そんな怖れは否定出来ないのではないか?

 僕が子どもを持とうという気になった事がないのも…もっとも妻帯者ではないのだから、それは無理な話だが…一度だけ妻を持とうとした時でさえ子どもを持ちたいと思わなかったのも、そんな自分の暗い一面に気づいたからだった。

 それは自分が初めて仕事で後輩や部下を持った時に気づいた。後輩や部下は子どもではない。だからこれを読んだ方は、そんな事で前述のような子どもを巡る論議を語るのは不適切だと思われるかもしれない。

 しかし、知らず知らずのうちに他人を支配出来る喜びを味わっている自分に気づいた時、僕は自分に知られざる一面があることを悟ったのだ。それは決して高圧的に接した訳ではない。むしろ弁解させてもらえればその逆だっただろうと思う。だが、実はそれが僕の免罪符にはなる訳ではない。相手を庇護したり世話を焼いたりする事…それもまた「支配」なのだ。

 子どもの頃イジメを受けたり、他人からヒドイ目に合わされた事もあるこの僕ですら…いや、だからこそそんな支配の喜びを感じる。相手より上の立場になった喜び…だから僕は子どもを持てる自信がない。そして、そんな怖れのあまりにしかるべきしつけも教育も出来なかったなら、これはまたこれで親失格だろう。そんな僕に親になる資格などないのだ。

 僕はこんな気持ちを180度変えるような何かでも起きない限り、おそらくは子どもを持とうなんて思わないだろうね。

 自分の子どもではなく人の子どもを殺したり拉致したり暴行したりする連中も、それが子どもだから、御しやすいから狙うのだ。大の大人では手に余る。でも子どもなら可能だ。だから子どもを狙う奴というのは、元々がそういう嗜好を持っている人間でなければ、たぶん社会では弱い立場にいる奴…あるいは自分が周囲にどうにも頭が上がらない、支配されていると感じている奴だろう。それとも支配欲がとめどもない奴か。

 そうすれば潜在的な犯罪者は無数にいるはずだ。誰しも少なからず社会制度や因習や法律や雇用システムで支配されている。頭が上がらない。だから自分のどうにでも出来るはけ口として何かが必要だ。そして、それはあくまで「人」でなければ満足できない

 今までも何度もここで言って来たように、人は何とかして他者を支配したいと思っているものだ。いまや共産主義は崩壊したも同然だが、それがなぜ失敗したかを見れば明らかだろう。人が完全にみな平等なんて無理だからだ。なぜなら誰もそれを欲していない。誰かより上にいきたいし支配したい。平等を欲している人間がいるとすれば、それは虐げられる側にいる人間だ。その人間も仮に本当の平等など手に入れようものなら、すぐにコロッと宗旨替えをするに違いない。平等をうたった共産主義が、より強固な支配と上下の差を生んだ事でも明らかだろう。それはより大きな不平等しか作らなかった。元々が無理なシステムだったのだ。

 そもそも誰かの幸せとは何だろう。それはその人間にとって望みが叶う事だ。でも誰かの望みが叶う時とは、同時にきっと誰かの望みが摘み取られた時なのだろう。

 思いのままになるという事はどういう事だ。人間は一人で生きてはいない。ならば周囲の人間が自分の思いを阻害しない事、そして自分の思いのままになってくれる事を言うのだろう。

 その利害が一致する時はいい。だがすべての人間が常に利害を一致させる事などあり得ない。ならば誰かを踏みにじらなければ、人の幸せは実現しない。誰かを踏みにじる事…それが支配ではないか

 ならば人間には本当には何が必要か?

 自分の言う通りになる、自分に逆らわない、個としての意志を持たない、完全に「イノセンス」な状態の人のカタチをしたモノではないか?

 

見る前の予想

 押井守のアニメ新作、しかも話題を呼んだ「攻殻機動隊」の続編にあたる。…な〜んて分かったような事を書いてはみたものの、書いてみてシラジラしさにウンザリした。まずは僕は「攻殻機動隊」なんてシロモノを見ていない。それどころか、今後も見るつもりもない。あくまで今のところは…だけど。

 その映画の存在自体は知ってはいたが、僕とは縁のないものだとまるっきり見る気などなかった。ポスターだかビデオ・パッケージだか忘れたが、意味ありげな女の子の姿を描いたイラストからしてイヤ〜な気分になった。またどうせアニメオタクが喜ぶ近未来のヒロイン・アクションものだろう。内容にハイブロウなものがあると聞いたらなおさらシラけきった。

 実はその時、かつてある未来SFモノのテレビ・アニメをたまたま一回だけ深夜見た時の事を思い出したからだ。あれは今考えると、あの「エヴァンゲリオン」のシリーズだったのだろう。何だか意味深な事を言って訳を分からなくして、内容空疎なのをハイブロウに見せかけてるようにしか思えない台詞。絵はてんで動きゃしないし、何が映ってるのかまるで分からない。大体この全編お通夜みたいな陰気くさい雰囲気は何なんだ。それを思い起こして、この「攻殻機動隊」も大同小異のものだろうと決めつけていた。

 どうもそうとばかりも言えないようだと伝わってきても、僕の気持ちはグラつかなかった。ウォシャウスキー兄弟が、ジェームズ・キャメロンが夢中になったと聞いても、それは動じる気配がなかった。

 どうしてやたらハイブロウに見せかけたがるんだオタクどもは。何で、腹へった好きだあの野郎たたっ斬ってやるレベルでモノが言えないつくれない。それって骨太なストーリーテリングが出来ない証拠ではないのか。小手先のシャレのめしで偉そうな事言いやがって。…到底「見た」とも言えないそんな状況なのに…そして、それと「攻殻機動隊」とは何の関係もないのに、僕にはそう思えちゃったんだよね。まぁ、正直言ってモノによってはそう思われても仕方ない作品もあるとは思うけどね(笑)。

 偏見だと言われても仕方がない。ハッキリ言って、僕は偏見に満ちた映画ファンだ。

 だけど見たくもないものを、無理やり見ようとするなんて僕の柄じゃない。このサイトを始めてからは、いろいろ見なくちゃいけないかと無理した事もあった。そこで新たな発見もあった。それはあったにはあったけど、ホントに自分の見たいモノを見たいという気持ちもだんだん強くなった。僕の持ち時間は限られている。その中で、本当に自分が見たいモノを蹴ってまで、意に沿わないモノを見る道理はないだろう。自分の気持ちをを偽ってまで、「映画博士」ぶったって意味がない。そういう事は他の人に任せればいいのだ。

 そんな僕が、この「イノセンス」は見たくなった

 あの予告編がとにかく気になった。映像が素晴らしいというのも確かだが、アニメ・ファンでもないから、それだけでは動かない。あの予告編に流れていた歌「フォロー・ミー」というやつが引っ掛かった。

 そして予告編を見ている間に、自分がドップリとメランコリックな気分になってしまうのにも驚いた。なぜか予告が終わって自分が見たいはずの本編が始まっても、そのメランコリーは引きずるのだ。そんなムードが今の自分の気分にピタリと当てはまったという事もあったのだろうが、とにかく予告編だけでもただならぬ雰囲気なのだ。こりゃあ見ずにはいられない。

 かといって、あの「攻殻機動隊」なるアニメを見てみる気にもならなかった。それについてどう言われようと、したくない事はしないのが僕の流儀だ。他人に何かを強いられるなどもっての他だ。では、もし前作を見なければ分からない映画だったらどうしよう?

 先に見ていた人の話を聞くと、どうも必ずしも前作を見なくてもこの作品は分かるようだ。本編にあれこれ禅問答みたいな台詞はあるようだが、どうせ大した事は言ってはいまい。それよりあのメランコリックな気分に浸りたい。僕はこの映画を見る気になった。

 するとなぜか天の配剤か、この映画の切符が手に入ったではないか。よし、これは「見ろ」というサインだ。これは僕のための映画に違いない。

 だからこの感想文は、押井守という映画作家も「攻殻機動隊」も知らず、よしんばアニメ全般にわたって知りもせず、必ずしもいい感情を抱いていない映画ファンが見て書いたものだということをご承知いただきたい。多少分かってないところがあっても、それは前述の理由によるものだと知っておいて欲しいからね。むしろそういう人間が見たからこその、何らかの発見があるかもしれない。

 

あらすじ

 西暦2032年の東京。そこは文明がさらに高度に発展し、巨大な高層ビルとハイテク施設、そして空を飛翔するさまざまな乗り物が満ちあふれていた。グローバル化が進んだせいか、街は中華街のようなアジアン・テイスト一色。そして生身の人間ばかりでなく、モロなロボットや人姿に似せたアンドロイド、さらには人体の一部…時にはほとんどを機械化したサイボーグといった、機械人間が人間と同居する社会だった。そんな混沌とした街に、一つの事件が発生する。

 ある男の持ち物だったガイノイドなる少女型ロボットが暴走。持ち主の男を殺したあげく、駆けつけた警官をも惨殺したと言う。警官隊が包囲する現場には、早速ある捜査官が駆けつけた。

 いや、捜査官…と言っても正確な意味では人間ではない。その捜査官バトーなる人物は、カラダのほとんどを機械化したサイボーグだ。彼は一般警察ではなく、強権を振るえる「公安九課」の捜査官だった。

 中でもバトーはムチャをやる事で知られていた。だから現場で遭遇した刑事たちにも疎まれているようだ。そんな事にはお構いなしに、バトーはズカズカと現場に踏み込んでいく。

 現場には惨殺された死体が散乱し、凄惨な状況を見せていた。だがバトーはひるまない。すると身に薄モノをまとった少女型のガイノイドが呆然と立っているではないか。

 ところがその口から、思いもかけぬ言葉が漏れる。「タスケテ…」

 だがやはりこのロボットは狂っていた。バトーはこのロボットに、情け容赦なく攻撃を加える。すると目の前でこのロボットは突然自壊を始めるではないか…。

 さて実はこの事件、これが始めてではなかった。この少女型ロボットと同種のロクス・ソルス社製のロボットは、一週間に8件も同様の事件を起こしているのだ。その被害者の中には政治家もいれば暴力団組長もいた。九課の部長・荒巻はテロの可能性も考え、捜査員たちに事件の徹底糾明を命じる。

 まずは壊れたロボットの調査だ。バトーと彼の相棒の捜査官トグサは、所轄の警察署に赴く。トグサはバトーと違って100パーセント生身の人間だ。だから冷たく孤独でコワモテなバトーと組むにあたって、多少身構えたところがないでもなかった。何せトグサの前任者が前任者だ。

 バトーの前の相棒…「少佐」と呼ばれる捜査官は、言わば伝説の人物だった。今はなぜか失踪したまま行方知れず。そもそもこの「少佐」なる人物は、バトーと組んでいた頃から肉体は持たず、脳とその意識だけの存在だった。だが今では、遙かなネットの世界にその意識を委ねていずこかに消えていた。

 この「少佐」はバトーにとってはかけがえのない相棒だったのか、彼はその不在に癒されない喪失感を抱いているのは傍から見ていても明らかだった。それを知っていたからこそ、トグサも「自分にアンタの相棒が勤まるかどうか」などと多少フテった部分がないわけでもなかった。

 さて警察署にやって来た二人だが、案の定所轄の警察では二人を暖かく出迎える訳もない。与えられた強権で捜査される事に、刑事たちは面白く思っているはずもない。ともかく二人は破壊された少女型ロボットを調べている女検死官ハラウェイに会いに行く。

 このハラウェイがまた何とも斜に構えたモノの言い方なのが、直情指向型のトグサには気に障るところ。独自のロボット観を持つ彼女は、もって回ったような言い方で自説をご開陳だ。「そもそも人間はどうして人型にロボットをつくりたがるのか?」「どうして人間は人形を必要とするのか?」…そんな禅問答がちんぷんかんぷんなトグサには、単刀直入に捜査に必要な情報を語って欲しいというのが正直なところだ。

 女の子が人形遊びをするのは子育ての準備行動だと言うけど、本当にそうかしら? 本当は人造人間こそが欲しいと思ってるんじゃないの? 子づくり子育てこそが、その代償行為じゃないとどうして言える?

 そんなひねくれた論理は、家庭を愛し、自分の幼い愛娘を愛するトグサには、到底理解し難い屁理屈でしかなかった。しかもこの少女型ロボットが愛玩用ロボット…カラダの一部にロボットとしては不必要な機能を持った、男たちの歪んだ欲望を晴らすための慰みモノだったという点も気に入らなかった。

 そんな苛立つトグサと対照的に、終始冷静を保つバトー。だがそんな彼も色めきたつ一瞬があった。それは自壊と同時に初期化された少女型ロボットの電脳に残された、唯一の音声データを聞いた時だった。

 「タスケテ…」

 そんなモノは聞きたくないとばかり、再生を遮るバトー。ともかくここではこれ以上の情報を得る事は出来なさそうだ。

 さて次なる捜査は製造元のロクス・ソルス社…と出かけた二人に、出来過ぎたタイミングで連絡が入る。何とそのロクス・ソルス社の社員が自宅で惨殺されたと言うのだ。それはあまりに壮絶な現場だった。

 腹を裂かれた上に内臓をすべて掻き出されたこの男。その内臓はすべて几帳面に腑分けまでされていた。これは何らかの見せしめに他ならないだろう。すると例のロボット被害者の一人、暴力団組長殺害の報復として行われたのか

 そんな殺害現場で、バトーは隠してあった一枚のホログラム写真を手に入れる。それはある少女の写真だった。バトーは捜査官の勘で、この少女が事件の真相に関係があると考える。

 どうも政治テロのセンはこれで消えたようだ。部長の荒巻は九課全員での捜査から、バトーとトグサの二人による捜査に切り替える事にした。そうなると、まずは問題の組長を殺された暴力団への聞き込みだ。

 いきなり強力なマシンガンをてにするバトー。これを見てトグサはいきり立った。「アンタ、いきなり銃をぶっ放す気か?」

 バトーの捜査の強引さは誰しもが認めるところだ。だがここで大立ち回りになったら生身の自分はたまらない。トグサはバトーに不必要に銃を出すなとクギを刺し、暴力団事務所に出かける事になった。

 だが案の定、暴力団事務所では組員たちが恐ろしげにお出迎え。気持ちよく新組長を出すはずもない。するとバトーがいきなり銃をぶっ放した。たちまち凄まじい銃撃戦だ。

 「必要になるまで銃は出すなと言ったろ!」

 「だから必要になってから出したんだ」

 そんなすっとぼけたやりとりをしながらも、始まってしまったものは仕方がない。ほとんどその場にいた組員皆殺し状態で、組長のいる二階へ上がろうとした矢先…。

 手榴弾だ!

 これにはたまらずトグサは逃げる。だが激しい爆発が起きながらもバトーはひるまず、新組長を捕まえひねり挙げたことは言うまでもない。「サイボーグに手榴弾二個程度で応戦たぁ、テメエちょっとナメてやしねえか?

 このいきなりの銃撃戦は、さすがに部長・荒巻のお叱りをいただく事に相成った。ひたすらボヤくトグサに、ケロッとした顔でバトーは語る。あれはわざとやったんだ。あれだけ派手にやればロクス・ソルス社だって動き出すだろう。奴らを誘い出すための陽動作戦だ。もし上司の荒巻が本気で怒っていたなら、こんなもんじゃ済まないぜ。

 さてその夜トグサと分かれたバトーは、一人小さな食料品店へと足を運ぶ。彼には家に帰りを待つ存在がいた。それは一匹の犬だ。この犬だけが彼の乾きを癒す存在なのか。ともかくバトーはこの犬の好物のドッグフードを、この食料品店に買いに行くのが日課なのだ。

 ところが食料品店に入った瞬間、何やら奇妙な感覚がバトーを襲う。周囲のどこかに敵がいる。そんな奇妙な感覚が彼を襲ったのだ。そんな彼にどこからともかく囁きかける声が…。「気を付けて。危険な領域に踏み込んでいるわよ…」 その囁きは一体誰のものだったのか。

 食料品店にいる誰もが敵のように思える強迫観念。その中で珍しく焦り狂ったバトーは銃をぶっ放した。たちまちパニックの食料品店内。一体敵はどこだ? 完全に感覚を狂わせた彼は、食料品店の店主が彼を襲おうとしていると感じ、この男に向けて銃を構えた。

 その時、彼は首筋にショックを受けて意識を失った。彼を止めたのは九課の同僚、イシカワだった。

 しばらくして意識を取り戻したバトーは、すべてを悟った。彼はあの食料品店で脳にネットを介したハッキングを受け、操られるように暴走したのだった。だが暴力団事務所で銃撃戦を演じた後の、食料品店でも暴走とはいただけない。これでは絶対にバトーは危険な暴走するサイボーグと見なされてしまう。九課の威信にも関わる。もちろん、それを狙ってのハッキングには間違いない。

 かくして部長・荒巻は二人の捜査は続行させるものの、九課としてはオモテだって一切の支援をしない単独捜査という事で二人を送り出した。それは危険な賭けでもあった。

 そんな二人が向かった先は、極北の地・択捉。今ここは壮大な巨大都市となっていたが、国家主権が曖昧だった事もあって「何でもあり」の魔都と化してもいた。そこにロクス・ソルス社の本拠もまたあった訳だ。二人はいよいよ事件の核心である、ロクス・ソルス社に照準を合わせていたのだ!

 

見た後での感想

 日本のアニメ作品に造詣のまったくない僕は、ともかくそのとてつもないイメージの奔流に口をあんぐり開ける結果となってしまった。ここでの未来都市のイメージは、正直言って「ブレードランナー」でスッカリお馴染みとなった近未来イメージの延長線上でしかない。だから見飽きた絵だと言えなくもないはずだ。なのになぜこれほど圧倒されてしまうのだろう。CGを併用しての画面づくりなのは明らかだが、そんな事はどうでもよくなる。これほど世界観をつくり込まれてしまうと見事としか言いようがないではないか。質感というか厚みが違う。実写のSF作品のヘタなものなど裸足で逃げ出してしまいそうだ。

 しかもそれにアニメの人物キャラを見事に溶け込ませてもいる。これってどういう技術を使ったのか。アニメ・ファンなら当然…と平然と言い切るのだろうが、僕にはまったく新鮮な衝撃だった。正直言ってこの画面を見ているだけでもお釣りが来そうだ。

 そして音響効果がまたズバ抜けている。冒頭から聞こえてくる妙ちきりんな民謡まがいの合唱といい、さまざまな擬音といい、腹にズシンとこたえる音だ。こうも感覚に訴えかけられると、イヤも何もない。物語はさておき、ただヨダレを流しながらこれをボケ〜っと見ていたい欲求にかられてしまう。

 押井守なにするものぞ…の気持ちで見始めた身構えは、映画が始まったらすべて飛んでしまった。ともかく、これはとんでもない映画なんだと思わずにはいられない。なかなかこの歳になると、映画を見てスゴイとは思えなくなるからね。とにかく、とんでもないものを見てしまったという気持ちで一瞬思考が止まってしまった事は白状しなくてはならない。

 で、物語もまたなかなかだ。バトーというサイボーグを中心とした捜査モノなのだが、これが実にハードボイルド・ミステリの味を出している。バトーそのものがハードボイルドな存在だし、それが魔都というか迷宮に迷い込むという設定がそもそもハードボイルドだ。バトーと相棒のトグサが食えない会話を交わすあたりがハードボイルドだ。バトーが犬を飼っているというのもハードボイルドだ。そういえば「ブレードランナー」もうまくハードボイルド的な世界を近未来に移していたっけ。いまや真にハードボイルドな世界観は、近未来SFの世界こそに見いだせるモノなのか。

 ともかく映像や世界観はとてつもないものながら、その基本にあるストーリーは意外にも王道で真っ当なのに好感が持てた。アニメ・ファンがどうのと言うのはナンセンスだ…などと、僕あたりに言われてもみんな片腹痛いだろう。映画として、まずは底が抜けちゃうほどのモノなんだよね。しかも基本を押さえている。

 そうした映画としての美点は、ただ「スゴイ」の一言で十分だろう。何がどうスゴイのか…については、僕以外に言う資格のある人が山ほどいる。

 ただちょっと気になる点がない訳でもなかった。やはり禅問答やら意味ありげな台詞がアレコレあるあたりだ。それが難解で分からないとは言わない。実はそれほどの事は言っていないと思うし、よしんば分からないとしても鑑賞に何ら支障はない。何だかどうでもいいノイズが聞こえてくるぐらいに考えていた方がいいくらいだ。

 登場人物が、やれ聖書だ孔子だと事あるごとに引用を振り回す。ま、いいんだけどさ。主人公たちがやたら含蓄のありそうな皮肉なやりとりをするのは、確かにハードボイルド作品の常道だろう。だからこうやったと言えば言えるのだろうが、それにしたってねぇ…とにかくどいつもこいつも引用をし過ぎる。こうまで執拗に繰り返すのは、ちょっとばっかり不自然じゃあないか? こう言っては何だが、雰囲気づくりにやるにしてはやり過ぎって気もしないでもないのだ。

 アニメ・ファン、押井ファンは、ここがこの作品の深いところだって言いたいだろうけど、僕には日本のアニメを過大評価する気もなければ押井守を神格化する気もない。だから、屁理屈がトゥ・マッチ過ぎるとしか思えない。これでは知ってる限りの教養を総動員して、「ボクはこんなにいろいろ知ってるんだも〜ん」と言いたがってる背伸びにしか見えないよ。自分を利口に見せたくって躍起になってるみたいで、ちょっとばっかり恥ずかしい。それで映画にハクづけしようとしているような、貧しいものさえ感じてしまった。僕だってハッキリ言って教養のない人間だから、そうそう偉そうな事は言えない。でも大体がホントに利口な奴や教養のある奴だったら、自分がこんなにいろいろ知ってるなんて無闇にひけらかすべきではないだろう。せっかくのあのリッチな映像に、これではキズが付きはしないかい?

 何よりコレがハードボイルドなら、粋ってものが必要だろう。教養総動員で必死に汗かきながらハクづけって見えちゃうのは、何ともヤボだよね。粋じゃない。無粋なものを感じてしまう。これはちょっともったいなかったね。

 そのへんを知ってか知らずか、押井守も少しは作戦を考えてはいる。例えばトグサの存在だ。彼はいろいろウンチクを垂れ流されると、少々イライラしてしまう市井の人的なキャラクターだ。そういう彼ですら劇中ではいろいろ言ってはいるが、彼はどこか凡庸で微温的なものを感じさせる存在だ。そんな彼の存在を通して、僕らはこの映画の世界観やバトーを見つめる事になる。だからトゥ・マッチなウンチクも多少軽減されるし、何より前作を知っていなくても物語に溶け込める。「少佐」なる影のヒロイン素子のアレコレも彼を通じて知る事になる。これはなかなか巧妙な作戦だよね。実は一番無粋に見えるこのキャラクターが、粋を狙って無粋になりかかるこの物語を救ってもいるのだ。

 とは言え、それも実は「ないものねだり」…いや、「ありすぎねだり」の文句に過ぎない。そう思ってもいいくらいの、この映画の凄まじい達成感ではあるのだけどね。本音を言えば、上記したような事はこの映画を見てしばらく経ってから思い至った事だ。で、正直を言えばそんな事どうでもいいくらい、この映画にはノックアウトされてしまったのだ

 さらに困った事に、僕は少々「攻殻機動隊」が見たくなってきた。若い奴には媚びずに頑固を守るのが、年寄りに残された数少ない使命だというのにね(笑)。しゃくにさわるぜ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後の付け足し

 で、ここから「付け足し」などと書いたけれど、実は付け足しなどではない。僕にはここからこそが、この映画の最も重要な点だと思えるんだよね。そしてここに作者の真摯な思いを感じるから、先に挙げた粋じゃないヤボな引用の過剰さにも目をつぶる気になった。

 結局紆余曲折はあったものの、バトーは単身ロクス・ソルス社の本拠である巨大戦艦に乗り込む。ここで大立ち回りを演じるのだが、孤立無援になったその時に彼を救うために現れたのが、ネット世界に消えていた「少佐」こと素子だ。ただし、例の少女型ロボットの身を借りたカタチではあるが。

 戦いが終わって、バトーと「素子」は事件の真相を知る事となる。実はロクス・ソルス社は例の少女型ロボットを開発するにあたり、非合法的な行為を行っていた。あちこちから誘拐してきた少女たちをここに監禁して、その意識を脳からコピーしてはこれらのロボットに植え付けていたのだ。それゆえにこの少女型ロボットはリアルな人間味で好評を博していた。

 その誘拐・監禁されていた少女の一人が、例のホログラム写真の少女だった。暴力団に惨殺されたロクス・ソルス社の社員はこの少女に同情して、少女型ロボットに細工をした。突然暴走して自壊するプログラムを施していたのだ。

 バトーたちに助け出されたこの少女は、こう口走る「そうすれば誰かが気づいてくれる。そして助け出してくれると思ったの」

 だがこの言葉に、バトーは苦々しく吐き捨てるように問い直す。「それで何人死んだと思っているんだ。それにオマエは、一度でも人形の身になって考えた事はないのか?

 映画は奇妙にも、人間の救出…イコール・ハッピーエンドでは終わらないのだ。

 ここで映画の初めの頃に登場する、女検死官の発言が意味を持ってくる。「そもそも人間はどうして人型にロボットをつくりたがるのか?」「どうして人間は人形を必要とするのか?」

 そこで話題にのぼっている少女型ロボットが、あくまで男たちの歪んだ欲望を受け止めるための性の奴隷である事は、とても象徴的だ。

 人はどうして人形を求めるのか。それは徹頭徹尾自分にとって都合のいい、絶対自分に逆らわない誰かが欲しいからだ。それは自分の邪魔をしない。自分の思っていることやりたい事を100パーセント無条件で受け入れる。しかも「人」だ。自分が支配したくてやまない他の「人」だ。

 それが人間の基本的な部分に不可避にあるとしたら、そこには寒々とした荒野のような風景しか見えない。

 だからこの映画は、どこかヤバイ領域に踏み込んだ作品だと言える。とてもじゃないが普通に人々が求めるような、感動や共感を味あわせてくれる作品ではない。そこまで読みとらない観客であっても、どこか忌まわしいものを見る者に感じさせずにはおかない作品だ。だからひょっとするとその卓抜したビジュアルとは裏腹に、作品的には広い共感を得られないかもしれない。なぜならこの作品の結論は、ある意味でヒューマニティーの否定に相通じるものがあるからだ。

 だがよくよく見れば、この映画はそのホンの一歩手前で、かろうじてではあるが踏み止まっているように思える

 それはネットの世界に消えていったとされる、前作「攻殻機動隊」のヒロイン(…であると僕が後に知った)、「少佐」こと素子の存在だ。

 前作でバトーと素子の間にいかなる感情が流れていたか、僕は知らない。だが彼女を失って、バトーが途方もない喪失感に打ちのめされているのは分かる。冷たい孤独を良しとするかに見えるバトーが、実が何がしかの感情の持っていき場所を求めているのも、犬を可愛がっている様子から何となく察せられる。

 そんなバトーの前に、いよいよのピンチの最中、その素子が戻ってくるのだ。

 結局素子は事が解決するとバトーの元から再度去ってしまうのだが、その時に忘れがたい言葉を言い残す。「私はいつでもあなたのそばにいる、見守っていると思っていて」…だっただろうか、ともかくそんなような台詞を言って消えていってしまう。だがその言葉は、それまで喪失感一色だったバトーにとって、値千金の一言だったに違いない。

 問題は、生身の人間がほとんどことごとく…と言っていいほど唾棄されているこの物語の中で、この二人の関係だけが至高のものとして描かれていることだ。

 片やほとんどが機械、片やもはや物質ですらなく意識だけの存在。しかも二人はもはやネットを介在させて受け皿としての電脳がなければ「会う」事すらままならない。これを至高のものとして扱い、一方で助け出された少女の言葉にすら深い嫌悪を臭わすこの映画は、やっぱりヒューマニティーを否定しているようにしか見えないかもしれない。退いてしまう人はここで退くだろうと思えるし、早とちりで歪んだオタクが見たとすれば、「やっぱりナマっぽい人間じゃなくて、バーチャル・リアリティの方がいいって事だよな」などと大ボケかますかもしれない。あるいは、「人間はみんな電脳にならなきゃダメって事なんだ」などとホザいてトンチンカンな賛同をするかも。そんなバカがいるか…いや、いないとは言い切れないからイマドキは怖い。CGで描いた架空のアイドルの水着画像でコイてる奴すらいるんだ。いくらこの映画が気に入ったからといって、オレは気色悪くてボンクラなオタクどもへの追求の手を緩める気はないからね(笑)。

 だが、僕はこれをそんな人間完全否定とは見なかった。やはり人が人を求めて、繋がろうとするヒューマニティーだけはかろうじて肯定したと思ったのだ。

 映画の作り手が否定したのは、おそらくは人が人を支配しようとする、人の本来持っている「業」のようなものじゃないだろうか。だが肉体がなければ支配は出来ない。人間の「精神」だけは…それこそは自由だ

 逆に人の「カタチ」とはそういう支配を生む「業」そのものだ。「人形」はまさにその典型でシンボルだ。肉体がない精神だけの存在…とか、ネットを介在して云々…ってのは、単にそんな「業」からの解放を象徴させたもの…「ものの例え」に過ぎないのではないか。あれは別にオタクにおもねった設定ではない。映画というものは常にどこか「例え話」として機能するものだからね。

 忌まわしいのは「業」ではあってもヒューマニティーそのものではない…ここで言いたいのはその事のように思える。それこそが、人間をトコトン根本まで研ぎ澄ましてみた時に残る無垢な本質=「イノセンス」ではないか?

 それをもっと分かりやすく表すのが、この映画がハードボイルド・ドラマとしてつくられたという事実だ。ハードボイルド・ドラマの中では、人はベタベタと安易に連帯も共感もしない。一見すると、むしろ突き放したような冷たく乾いた印象が先立つ。しかし、それは徹底的に酷薄で無味乾燥なものかと言えば、決してそうではない。むしろそういう感情的情緒的要素を絞りに絞ったあげく、それでも浮かび上がって来たものをすくい上げようとするドラマ形式なのだ。

 そこでは主人公たちは依存も支配も強制もしない。その逆もしかり。オノレの個を守りながら他者の個を排除はしない、距離を取った緊張感ある連帯が行われる。この「イノセンス」がハードボイルド・ドラマの型式を取ったのは、だから必然だった。別にええカッコしいの雰囲気をつくりたくてこの型式を取ったのではないはずだ。そして映画の作り手はそこにこそ、か細くはあるが唯一の光明を見いだしているように思える。

 世間では今盛んに、「勝ち組」「負け組」の色分けが云々されている。それも下品なオヤジ雑誌あたりならいざ知らず、若い連中までがそんな事を言っているから情けなくなる。そりゃあ、人は誰でも「負け組」にはなりたくない。絶対に「勝ち組」になりたくてたまらない。この僕だって内心そう思ってはいる。誰だっていい思いがしたいからね。

 でも、「勝ち組」って一体何だろう? それって結局のところ、誰かを屈服させ踏みにじり、その人間の望みを摘み取って自分の願いを叶えた者の事を言うのではないか? だとしたら、それは決して自慢など出来ない言葉であるはずだ。「勝ち組」「負け組」などとは、考えようによっては自分の欲望をムキ出しにしたような恥ずかしげもない言葉ではないか。

 ロクス・ソルス社から救出された少女は、バトーの叱責に思わずこう叫んでいる。「だって人形になんかなりたくなかったんだもん!

 「人形」とは、それに対して何をしてもどうしようともオッケーな存在だ。自分の欲望や願望をそこで好きに満たせる存在だ。その結果それがどうなろうとも自分は気にも留めない。

 ただし、自分がその立場になるのは誰が何と言おうと断固として困る。

 自分が「人形」になるのはイヤだ。それは断じて受け入れ難い。それなのに、それが自分以外の誰かだったら一向に構いはしない。…というか、むしろ本当は自分以外の誰かをそう扱いたいと常に願っている。はけ口にするか利用しつくすか踏み台にするか、ともかくそれで自分が少しでもいい思いをしたい。…だがそんな思いは、本来だったらあからさまに言ってはいけない約束の“人間の本音”なのだ。

 だから「勝ち組」「負け組」なんて言葉が人前で堂々とまかり通ってしまう今の世の中は…本来はオモテだっては出すべきでない見苦しい人間の欲望を、もはや全開にしても構わないという開き直りが目抜き通りをパレードしているような世界だ。当然のごとく弱者である子ども受難の時代になるに決まっている。その浅ましさに誰も気づいてないところが、今の人間の病巣の深さとは言えまいか。

 エンディングでは、家庭持ちのトグサの持っている安らぎを、一瞬は羨むような表情すらかすかに見せるバトー。その表情が、トグサの娘が抱える人形を見て凍り付く幕切れは象徴的だ。

 こんなところから…こんなささやかな日常の営みの中で、人間の忌まわしき傲慢さはさりげなくも厳然と始まっている。誰もそうとは気づかないままに…まったく悪意も陰りも見えないところで。

 そんな自らの無自覚に気づけ…この映画はそう僕らに警告しているように思えるのだ。

 

 

 

 

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