「ギャザリング」

  The Gathering

 (2004/03/15)


  

見る前の予想

 ハッキリ言ってクリスティーナ・リッチが主演のホラー作品としか分からなかった。そしてどうもイギリスの映画であるという事も。分かっているのはそれだけ。

 それでも何となく面白そうな予感があったんだよね。

 東京で上映される映画館は、銀座のシネパトスという悪名高い映画館。この映画館の人には申し訳ないが、銀座のはずれの地下にあるこの小屋は、かつては洋画ポルノがかかっていたところだ。その後一般映画を上映するようになったものの、かかる映画はB級ばかり。それもすぐにビデオ化されるような映画を、一応「劇場公開した」とハク付けするためだけに上映するための映画館だった。かつては地下鉄が走る音が上映中平気で聞こえて、館内も揺れたりしてたんだからね。今は改装してキレイになったものの、当時のイメージはなかなか消えない。相変わらず上映されている作品はB級ばかりだ。

 だけど…だからこそ、ここでは掘り出し物をよく見つけた。

 みなさんはこういう経験をしたことがないだろうか? 深夜たまたまテレビをつけたら、二束三文としか思えない映画をダラダラと放送して、それをついつい見てしまうということが。すると意外にこれが面白かったりする。無論、ダメな映画の方が数は圧倒的に多いだろうが、時にはこれは儲けモノと思える映画にブチ当たる事もあるよね。

 これはそんな映画じゃないか? 僕にはそんな予感があった。

 

あらすじ

 ここはイギリスの田舎町、草原が広がるグラストンベリー。盛大な野外ロック・コンサートが開催されている最中、一組の若者カップルが小高い丘を登っていた。少しでもいい場所でお目当てバンドを見ようと、ハッパで気合いを入れながら登る二人。ところが突然その男の方が姿を消す。男のいきなりの不在に怯えきる女はむやみやたらにあたりを歩き回ると、これまた突然その場から姿を消した。いや、正確にはズボッとその場に開いた穴に落ち込んだのだが…。

 やがて転落した女は意識を取り戻す。彼女が落ちたところは、地下の巨大な空洞だ。全身を強く叩きつけられて身動きもままならないまま、彼女はライターの火を頼りにあたりを見回す。すると壁面には不気味な浮き彫りの人物像がズラリ。そして一足先に穴に落ち込んだ彼女の相手は、串刺しになって絶命していた。

 彼女の悲鳴が空洞に響く。だがそれに気づく者はいなかった。

 それからしばらくして、ヘリコプターで一人の男がその丘にやってくる。それは古美術が専門の学者スティーブン・ディレインだ。そんな彼を現地で出迎えたのは、地元教会の司祭サイモン・ラッセル・ビール。ラッセル・ビール司祭は美術学者ディレインを、例の空洞へと案内する。

 この空洞は、例のカップルが穴に落ちてから一週間後に発見された。すでに女の方も息絶えたが、実はその事自体が問題ではない。この空洞自体が問題だ。

 そこはどうやら古代の教会で、長い間地中に埋もれていたもののようだった。注目すべきは、そこに飾られていた十字架上のキリストの処刑像。それは従来のものとは逆に、背を向ける形で設置されていた。さらにそんなキリスト像を見守るように、壁に彫り込まれた何人もの人物像。これは何を意味するのか?

 美術学者ディレインはこの謎の地下教会を調べながら復元すべく、地元教会から依頼されたのだ。早速この教会の謎に夢中になるディレイン。だがその場に佇んでいた司祭ラッセル・ビールには、何らかの漠然とした不安があった。

 その頃、主婦ケリー・フォックスは息子ハリー・フォレスターを乗せてクルマを運転していた。ところがちょっとした隙に前方不注意で、一人のヒッチハイカーの女をはねてしまう。動転してこの女を病院に担ぎ込んだところ、意外にも彼女のは軽傷だった。かなりひどい深手を負わせた気でいたフォックスは安堵のため息をもらす。

 この女、その名をクリスティーナ・リッチというところまでは分かったが、事故のショックか軽度の記憶喪失にかかっていた。責任を感じたフォックスは、リッチを自宅に泊める事にする。フォックスの家とは、かなり時代物の大きな屋敷だ。

 偶然にもフォックスはあの美術学者ディレインの妻だった。ただし後妻で、姉ジェシカ・マンと弟フォレスターの二人の息子は亡くなった前妻の子ども。特に幼い弟フォレスターの方は、母を亡くしたショックからか口のきけない状態が続いていた。リッチはこの家の世話になりながら、この二人の姉弟と親しくなっていく。特に弟フォレスターとは不思議な親密さを持っていった。

 一方地元教会は、ディレインに奇妙な依頼をしていた。地下教会の発掘復元に関わる人間を、最小限にとどめたいと言うのだ。ディレインもあの地下教会が特別なものである事は察していた。おそらくキリスト処刑後の紀元1世紀にイギリスのこの地にやって来た、アリマタヤのヨセフによってつくられた教会であると考えていたのだ。それは歴史上の大発見だ。だが教会側は何かに怯えているかのように秘密を守ろうとする。

 その頃リッチの身辺にも奇妙な出来事が起き始めていた。まずは夜な夜な見る不思議な悪夢。それは古い建物の中で怯えきる子どもの姿。夜に家の外で吠える犬の鳴き声。これらの悪夢をどうも幼いフォレスターと共有しているらしいところもますますもって奇妙だ。

 さらには姉弟を学校に連れていく際に見た、奇妙な人影。老人、老婆、中年女、若者…何人もの不思議な人物が、彼女の周りに群がって徘徊する。あの人物たちは一体何なのだ?

 そんな中、リッチはたまたま知り合った一人の若い男ヨアン・グリフィズと親しくなっていく。

 奇妙な出来事はまだまだ続いた。病院でリッチを治療する医師が血を吐く幻影を見る。釣り人が銃撃される白日夢を見る…。

 そんな折り、ディレインとフォックスの家の家政婦を勤める老婆が、奇妙な事を漏らしたのだ。どうもこの屋敷には忌まわしい過去があるらしいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

できれば映画を見た後で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方地下教会の調査はさらに進んでいたが、立ち会っていた司祭ラッセル・ビールは奇妙な事に気づき始めた。壁面に浮き彫りになっていた人物像の顔に、何か見覚えがあると気づいたのだ。慌てて美術資料を紐解くラッセル・ビール。するとキリスト処刑の絵に描かれた群衆の中に、人物像と共通する顔が見えるではないか。では、この人物像はキリスト処刑を目撃した人々を描いたものなのか。

 確かにアリマタヤのヨセフが開いた教会についての古い文献の記述には、一つの奇妙な文章がある。「彼らは見に来た、西から東から。彼らは見に来た、主への敬意ではなく、ただ快楽のために

 この教会は最初から地下にあった訳ではない。封印すべくその上に土を盛られたのだ。だが、それだけの事でこの教会は封印されねばならなかったのか。

 司祭ラッセル・ビールがさらに古今東西の絵画を点検すると、そこかしこに例の人物像とおぼしき人間の姿が描かれていた。ただし、それはさまざまな処刑やフランス革命など、人類史上の忌まわしい事件を描いた絵画ばかり。それだけではない。アメリカ禁酒法時代のギャングの暗殺現場の写真にも、原爆投下直後の広島のフィルムにも、そしてケネディ暗殺前後のダラスのドキュメント・フィルムの中にも…「彼ら」の姿は見いだせるのだ!

 その頃リッチは白昼一台のクルマの中に、夜中家の外で吠えていた犬の姿を見つける。親しくなったグリフィズの協力を得てそのクルマの持ち主を調べると、その男は町はずれの廃屋に暮らしているという。男の留守を見計らってこの家に忍び込んだリッチは、この男がすっかり世捨て人のように暮らしている事を知る。しかも不気味なスクラップ・ブックまで見つけてしまう。それを見たリッチは驚愕した。例のディレインとフォックス夫妻が買った家は、かつて教会が孤児院として使っていたもの。そしてこの世捨て人は、ここの孤児院にいた子どもだった。

 今こそリッチにはあの悪夢の意味が分かった。この世捨て人は、子どもの頃孤児院で虐待を受けていたのだ。そこですっかり性格を歪ませた世捨て人は、いまや復讐を計画している。自分を虐待した聖職者や医者たち、そしておそらくは見て見ぬふりだった町の人々。しかもスクラップ・ブックにはあの幼いフォレスター少年の写真まで貼ってあった。これは世捨て人がかつての自分をフォレスター少年に二重写しして、その命を奪うことで封印しようと考えている証拠ではないか?

 慌てたリッチは町の警察署に直訴するが、まるで証拠のない話で相手にされない。焦り狂うリッチだが、今は如何ともし難いと痛感せざるを得なかった。

 そんなリッチは、美術学者ディレインが家に持ち帰った写真を見て唖然とする。そこにはあの地下教会の人物像が写されていたが、それらの顔に見覚えがあったのだ。いずれも町の中を徘徊し、リッチの周りに出没する怪しげな人物たちばかりではないか。だが当然の事ながら、ディレインは学者としての見地からリッチの言葉を一笑に付す。

 その頃教会では聖職者たちが司祭ラッセル・ビールの報告に聞き入っていた。キリスト処刑から人類の災厄を目撃してきた人物像の人々。それらは「ギャザリング=集まってくる者たち」と呼ばれた。彼らはキリスト処刑の際にそれをただ面白がって傍観していただけの人々だった。その罪から彼らはこの世の者ではなくなり、その後も人類の不幸を次々目撃させられる事になった…。

 つまり「ギャザリング」が現れる場所には災いが起きる!

 これが明るみになったら、パニックは必至だ。教会側ではこの事実を封印する事に決めた。司祭ラッセル・ビールは美術学者ディレインの説得に当たることになった。

 だがラッセル・ビールはディレイン宅を訪れようとするクルマの中で、あの「ギャザリング」の姿を見る。その瞬間、クルマは道路の真ん中で事故を起こし、ラッセル・ビールは絶命した。それは「知りすぎた者」という事なのだろうか?

 その日、町は一年に一度のお祭りだった。中心部にはさまざまな出店や催し物が出て大にぎわい。リッチも姉弟を連れて出かけていた。だがリッチはそこで「ギャザリング」の姿を見かける。

 ここで何かが起きる!

 そう直感したリッチは姉弟をフォックスに託し、町から離れるように言い渡した。そして例の世捨て人の家に走っていく。

 一方世捨て人は銃を爆弾をクルマに仕込んで、自宅を後にしていた。めざすは町のお祭り会場だ。

 その頃教会に呼ばれた美術学者ディレインは、今は亡き司祭ラッセル・ビールが見つけた驚愕の事実を知らされる。「ギャザリング」の存在を知ったディレインの脳裏には、今さらながらにあのリッチの言葉が蘇ってきた。

 「奴らは、今この町にいます!」

 

見た後での感想

 単にクリスティーナ・リッチ主演のホラーとしか分からなかった分、この映画には大いに楽しんだ。キリスト教の起源にまで遡るサスペンス。妙ちきりんな怪異現象だけが売り物のホラー映画と違って、このミステリー仕立ての展開は面白いね。

 例えば一昨年あたり公開されたアントニオ・バンデラス主演の抹殺者などもこのジャンルの作品だ。だが「抹殺者」はキリストの遺骨が見つかった、それも世界の火薬庫エルサレムで…という思いつきこそ抜群なのだが、あとはそれワン・アイディアだけでまるで発展性のない話。ずっとバンデラスが信仰心と真相究明との間でウジウジ悶々とするばかり…ってパッとしない展開だった。

 でもこの映画は違う。むしろ最初は謎が謎のまま。地下教会が出てきたあたりから、謎が小出しに明らかになっていく。すると背景にキリスト処刑から現代に至る、さまざまな人類史上の災厄が浮き彫りになってくるではないか。イギリスの田舎のショボい話だと思ってたら…実際には確かにそれに終始する小規模な話なのだが、まるで大スケールな物語のような大風呂敷を広げ始める。このハッタリのかませ方が実にうまいのだ。

 だから大した話ではない…と思いつつ、ちょっと怖がらせてくれて面白ければいいやと思っていたこちらとしては、すごくトクした気になるんだね。

 しかも最後にはうまくやったな…と思わせるドンデン返しまである。いやぁ、この規模の映画としては、これだけ楽しませてもらったら文句はないよ。

 これはまず脚本のアンソニー・ホロヴィッツのお手柄なんだろうね。この人ってこれまで何をやってきたか知らないが、これからは大いにマークしたいと思う。きっとまた何か面白い事をやってくれそうだ。

 監督のブライアン・ギルバートって人も知らなかったが、それまでのキャリアではサリー・フィールド主演の「星の流れる果て」って映画を存在だけは知っていた。確か中東のどこかの国の男の元に嫁いだアメリカ女が、イスラム教徒の夫の急進的な考え方についていけなくなって子どもを連れて脱出…って、どう考えてもアンチ・イスラムっぽい題材で、僕はキナ臭さから逃げの一手で見るのをやめた作品だった。実際に見てないからホントのところは分からないけどね。あとはT.S.エリオット夫妻の話「愛しすぎて/詩人の妻」とか「オスカー・ワイルド」とか、どれもこれも見てないのは情けないが文芸作品専門の人みたいになっていたようだ。

 そんなホラーとは無縁の監督だからこそ、この作品は良かったのかもしれない。この映画はこけ脅しの映画ではないからね。むしろミステリアスなサスペンス映画だ。超自然的仕掛けは味付けに過ぎない。

 そしてヒロイン・リッチの迎える結末たるや…ここで見る者に、ちょっとした爽やかな後味が残るのも嬉しい。このへんもありきたりなホラー作品にはない、この映画の素敵なところだと思うよ。

 アメリカ女優リッチがこのイギリス映画に起用されたのはなぜか分からないが、とにかく彼女の持つミステリアスな味を買われたんだろうね。でっかい目玉のアンバランスな顔は今回も大いにモノをいったよ。「アダムス・ファミリー」「キャスパー」なんてメジャーの脳天気な作品から「スリーピー・ホロウ」あたりに至るまでの作品群で培ってきた、彼女のユニークな個性あったればこその作品かもしれないね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは絶対映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見た後の付け足し

 だから、単に気色の悪さを味わいつつ、ワクワクして謎解き楽しめばいい映画だ。そしてよく出来たドンデン返しを面白がればいい。これはそんな映画で、それ以上でも以下でもない。娯楽映画として楽しめる作品だ。

 ただ、上の文章にも書いたように、ヒロイン・リッチの迎える結末は心に残る

 彼女自身が事もあろうに「ギャザリング」だったというビックリはうまく出来た仕掛けだが、僕にはその後の顛末の方が面白かった。自分の来歴を忘れたままに、彼女は幼い少年と親しくなっていく。そして相手を大切に思うようになって、その人に及ぶ災厄を自分のものと感じるに至るのだ。

 他の「ギャザリング」は災厄は避けられないものだと諦める。そしてただ傍観を決め込む。だが彼女はもうそうではいられない。運命は変えられないと告げられながらも、何とかそれを回避すべく必死に試みるのだ。その末に自らの身も捧げる。

 事件の後、少年の前に現れたリッチは自分に言い聞かせるように語る。「たまたま通りかかったら処刑があった。それでついつい見てしまった。止めようともせず、抗議しようともせず、それに悲しみや憤りを持ちもせずにただ見てしまった。それはとても悪い事なのよ

 それではいけない…と悟った彼女は、永遠の呪いから解かれたのだろうか。「間違いはやり直せる」…彼女はそう語った。最後、彼女の姿を彫った人物像が崩れ落ちるショットは象徴的だ。

 最近に限らず、僕らが住むこの国では、何かと「自分は悪くない」と言うのがお約束みたいになっちゃってるように思う。でなければ、医療ミスをした病院がしらばっくれた会見なんか開かないだろう。鳥インフルエンザでバタバタとニワトリが死んだ養鶏場がすべて露見する前に卵を売っぱらおうとしながら、自分たちは知らなかったなんて言い張らないだろう。子供が両親の虐待の餌食になっていながら、知っていたけど何も出来なかったなんてシラジラしくは言えないだろう。

 僕も含めて、我々は間違いをやり直す努力をしているだろうか。そこで間違いを正そうとしているか。少なくとも、やってしまった事の意味をちゃんと自分の中で分かっているのだろうか?

 もっともらしい事を言っている僕自身が、まずそれを問い直さねばならないのかもしれないね。

 

 

 

 

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