「25時」

  25th Hour

 (2004/03/08)


  

今回のマクラ

 先日、あのオウム真理教の麻原についに判決が出た。まぁ判決はおそらく…と予想されていた通りのものだ。だから驚くにはあたらない。その事についてあえて何かを語る気はない。

 ただこの麻原判決を機に、テレビ各局がオウム事件のかつての総括を一斉にやってたけど、それを見ていて改めて驚いたよ。僕らがこの事件のインパクトを早くも忘れてかけていたって事に。

 もちろん被害に直接あった人たちの心は、そう簡単には癒されまい。あるいは決して消えてはなくならないものだ。だけど多くの人々の心の中では、すでにオウムはなくなったも同然だった。自慢にはならないが、この僕にしたって同様だ。

 確かに人のウワサも七十五日ではないが、時による風化ってのは早いものだ。そして、それでなくても日本人は、しばしば起きた災いを忘れてしまう。これは日本には四季があり、台風やら大雪やら干ばつやらで悩まされ、さらには地震もあったりして、年がら年中常に自然から蹂躙を受けてきたことと関係あるのかもしれない。どんな恐ろしい事や悲惨な事も、その時々で忘れて行くしかなかったって事が関係しているんじゃないか。

 そして時代が進むにつれて、物事のスピードが加速的に速くなった事もある。ちょっと前の事も、もはや古い事になってしまう。そんな時代のテンポの産物かもしれない。

 だけど一番の理由はそんな事じゃないような気がする。実は、世の中ってオウム以前と以後にクッキリ分かれてしまったんじゃないかって思うんだよね。

 オウムと言えば、いろいろあまた悪事は重ねたものの、その一番象徴的な事件といえばあの地下鉄サリン事件だ。白昼堂々、大都会のど真ん中で起きた大規模無差別テロ。起きた時はホントに驚いた。とんでもない事が起きたとビックリした。その後出てきたオウム関連の驚愕の事実には、まるでこの世のものとは思われないところがあったよね。

 しかし、それも一度起きるともう「当たり前」の事になってしまう

 これって確か僕は前にも同じような事を書いた気がする。その時も久々にオウム報道を見て、そう思ったんじゃないかと思うよ。で、これからもたぶん事あるごとにそれに気づかされるんじゃないかと思う。

 僕は時々、人類ってあそこで一線超えちゃったんじゃないかって思う事がある。オウムのサリン事件がなかったら、果たして「9・11」のあの同時多発テロって起きただろうか。あの後、よっぽどの事でもない限り、僕らは驚かなくなっちゃったんじゃないか。それってあそこで世の中は、「何でもアリ」になっちゃったからじゃないかと思うんだよね。それも、悪の「何でもアリ」だ。

 そして、それが関係しているかどうかは別にして、なぜかあれから世の中は一気におかしな方向に曲がっていった気がするのだ。それは単にテロだけの事にはとどまらない。

 最近テレビを見ていると、一体どうした事かと驚くことが多いよね。いや、まったく不祥事のオンパレードと言っていい。

 警官は不正に金を貯め込み、女にストーカーする。医者は医療ミスをするだけでなく、それをモミ消そうとする。教師は教え子に手を出す。企業の不祥事は枚挙にいとまがない。

 先日は半年前の卵を賞味期限を偽って出荷した話があった。原産地を偽って牛肉を出したスーパーもあった。一体何でこうもあっちこっちで同じような事が起きるのか。一つ二つならともかく、こうも続くと何とも不思議なんだよね。そしてバレるとカメラの前で頭を下げる。あまりみんな頭を下げているんで、「おはよう」とか「こんにちわ」みたいにありふれた挨拶のように見えてきちゃったよ。

 何だか人はいつの間にやら、分からなければ「やっていい」と思うようになったみたいだ。トクをするなら…バレなきゃやっていい。だって、みんなやってるではないか。「何でもアリ」なんだから。

 僕は決して道徳心にあつい人間ではない。だけど、こうもみんなが公然と不正を働いているのを見ると、どうも世の中何かがおかしいんじゃないかと思っちゃうよね。そうすると、いつの間にか「何でもアリ」の連鎖が生まれる。こっちだってマジメにやってるのがバカらしくなる

 実際、マジメにやってるのか…と言えば、それは単に不正を働く機会がないだけなのかもしれない。ひょっとしたら、僕もどこかで隙さえあれば…と思っているのかも。それが出来ないから、うまくやった奴の事を知って、羨ましくて妬ましくて怒りを爆発させるのかもしれない。

 そして怒りを溜めて毎日出勤する。すると電車に乗り込んできたどいつもこいつもが、何とも自分勝手で不愉快だ。そう思う自分も、どこか自分勝手に振る舞って怒りを買っている。でも仕方ないじゃないか。だってみんな勝手にやっている。オレを怒るのはスジ違いだ。オレより悪い奴は他にいるよ。世の中「何でもアリ」なんだろう?

 それにオレは、十分イヤな思いも理不尽な扱いも受けている。それなのに、オレが怒りを買ったり罰せられたりっておかしくはないか? オレは悪くない。悪いのはあいつらの方だ!

 そんな怒りが、今日も社会全体に蔓延していく…。

 

見る前の予想

 スパイク・リーと言えば現代アメリカ有数の映画監督である事は、疑いの余地がないだろう。一時は作品を発表するたびにセンセーションを巻き起こした。それは「マルコムX」あたりで頂点に達したように思う。

 映画自体も刺激的だし、やはり面白かった。だから僕だってスパイク・リーへの高い評価に、何らケチをつけるつもりもない。ただ、ちょっと辟易する点もない訳ではなかったけどね。

 むろん現代においても人種差別が厳然としてあるであろう事は、薄々なりとも理解しないでもない。しかもアメリカに住んでいる訳でもないし、いわんや黒人でもない僕は、それを云々する資格がないのは百も承知だ。

 だがスパイク・リーが作品を発表するたびにアジ演説みたいな主張を展開するのは、正直飽き飽きというのも本音だった。

 「マルコムX」の冒頭にいきなりロドニー・キング事件のVTRを放り込んだり…言いたい事は分かる。マルコムXの頃の人種差別は今もなくならないという主張は分かる。だが、あんな「まんま」な生硬な主張をそのままモロ出しにされても、ちょっとなぁ…と腰が退けざるを得なかった。

 実はスパイク・リーの映画って、作品自体は結構オーソドックスだったりする。作品発表ごとにセンセーショナルな話題を提供する程には、映画自体は過激でも先鋭的でもない。キチンと映画の面白さの基本を踏まえたものだったりするのだ。

 あの「マルコムX」にして、前半部分のまるでミュージカルみたいな青春模様といい、後半のマルコムが存在感を増してくるあたりの典型的伝記大作映画風のつくり(扱っている人物こそ大きく違うが、リチャード・アッテンボローの「ガンジー」などの大作映画と共通するテイストはないか?)といい、スパイク・リーは意外や意外にも「アメリカ映画」している映画作家なのだ

 だからこそ、そこにゴチャゴチャと饒舌にくっついてくる「黒人社会のスポークスマン」的なウンチクがうるさく感じられた。マルコムのマーチャンダイズ商品を売りまくったり、ナイキのCFを撮ってみたり、そもそもスパイク・リーって貧民上がりでもなく中産階級の出だと知れ渡ったりするうちに、僕はスパイク・リーに「やっぱりな」…ってな胡散臭さを感じずにはいられなかった。そのくせマスコミに出てくるや「スポークスマン」。

 そんな事はもう分かったから、映画作家は映画で勝負したらどうなんだよ

 バチ当たりなのは承知の上。それでも僕はそう思わずにはいられなかった。そしてそんな僕の思いをまるで知っていたかのように、スパイク・リーはいつの頃からか微妙に方向転換を始めたのだ

 それは「黒人社会のスポークスマン」的なスタンスが、「マルコムX」で一つの頂点までいってしまった事もあるかもしれない。これ以上それ一辺倒でやっていっては、題材的にも行き詰まるだろう。そこでスパイク・リーは、徐々に黒人色を弱めていった気がする。そんな最初の作品が「クロッカーズ」だったのではないか。マーティン・スコセッシのプロデュース、スコセッシ作品を多く手がけたリチャード・プライス脚本、ハーベイ・カイテルらの主演で撮った「クロッカーズ」こそ、スパイク・リーの最初の転換点に違いない

 さらにスパイク・リーは、一層「脱色」を進めたサマー・オブ・サムを発表。そこで描かれている物語は、より普遍性を増した。「スポークスマン」然としなくなったスパイク・リーの映画は、確かに派手な話題からは遠ざかった。だけどそれだからこそ、映画作家としてのうまさが際だつものとしてハッキリ見えてきたのだ。

 ところがこれを最後に、彼の作品は日本に入って来なくなった。僕も一時期彼の存在を忘れていた。ところが彼は健在だったんだね。肩慣らし的な「10ミニッツ・オールダー」でのドキュメント短編を経て、エドワード・ノートンはじめ気になるメンツを従えた「25時」で日本のスクリーンに帰ってきてくれた。出演者の顔ぶれからも題材からも、この映画こそはスパイク・リー方向転換の決定打になるべき作品ではないか…と、僕は大きな期待を寄せた訳だ。

 

あらすじ

 いかにも裏稼業のアンチャン然としたエドワード・ノートンが、路上に捨てられた瀕死の犬を構っている。飼い主がよほど非道だったのか、ぶちのめされ表皮を火で焼かれての惨状だ。それでも食いつく元気のある犬を、ノートンは思わず助けてクルマに乗せた。だがそんな彼に相棒のウクライナ人トニー・シラグサはいい顔をしない。そんな犬を助けたらロクな事はない、悪い事はどんどん悪くなる…などと、受け売りのマーフィの法則を引き合いに出しながら…。

 それからしばらく経って、ノートンはハドソン川を望むベンチに腰を下ろしている。傍らにいるのは全快したあの時の犬だ。そんな彼に怪しげな男が近づいて、「ヤクを売れ」としきりにせがむ。だがノートンは足を洗ったとにべもない。それもそのはず。彼は麻薬捜査官に捕まり、明日の収監を待つ身だったのだ。刑務所に行けば7年は出て来れない。残る自由時間はあと24時間だ。

 そんなノートンは母校をふらりと訪ねる。そこではかつての親友の一人フィリップ・シーモア・ホフマンが教師をしていた。シーモア・ホフマンと今夜のお別れ飲み会の事を相談するノートン。そのシーモア・ホフマンは、教え子のアンナ・パキンの流し目に気もそぞろだ。へそピアスにタトゥーと17歳にして危ない雰囲気十分のパキンは、そんなシーモア・ホフマンの気持ちを見透かすかのように挑発する。

 シーモア・ホフマンは今夜の事で相談しようと、ニューヨーク証券取引所で働く株のブローカー、バリー・ペッパーに電話を入れる。だが彼の返事はつれない。実はペッパー、今はそれどころではなかった。上司の命令も無視して、いささかリスキーな取り引きに一喜一憂の真っ最中だ。結局ペッパーは賭けに勝ち、「してやったり」の強気の表情だ。

 ノートンが自宅に戻ってくると、恋人のロザリオ・ドーソンが待ちわびていた。今夜は二人の最後の夜。一晩二人きりでいたいとねだるのだが、ノートンはなぜか冷たい。

 「今夜は僕の最後の夜で、君のではない」

 そう言うと、ノートンは今夜飲み会に行く事を告げ、彼女にお気に入りのドレスを着るように言い残す。

 自宅を出たノートンを待ちかまえていたのは、例の相棒シラグサだ。今夜のお別れ飲み会はこじんまりやるつもりだったが、麻薬ディーラーとして世話になった大ボス・レヴァーニにクラブへ来るように言われている。仕方なく恋人ドーソン、親友シーモア・ホフマンとペッパーも連れて、クラブへ繰り出す事になったわけだ。そんなノートンに、相棒シラグサは気になる事をほのめかす。「オマエを売ったのは、恋人のドーソンじゃないのか?」

 次にノートンが寄ったのは、父親ブライアン・コックスが経営するバー。久しぶりの父子の語らいだが、当然の事ながら気持ちは沈む。「こんな事になるとは…」

 実はコックスも、ノートンから受け取った金でこの店を始めた。もちろんノートンの金とは、何を隠そう麻薬で稼いだ金だ。だからコックスは自責の念をどうしても拭い去れない。「父さんのせいじゃない」…そう言いながらも、ノートンの中に鬱屈としたものが溜まっていく。

 トイレに立ったノートンは、鏡を見ながら思い切りキレる。怒りをブチまけられるものなら何でもいい。パキスタン人、韓国人、イタリア人にユダヤ人にロシアン・マフィア、そしてうるさい黒人ども、ブッシュにビンラディン、女々しいシーモア・ホフマンにオレの女に気があるペッパー、裏切ったかどうか信用できない恋人のドーソン、情けねえ親父のコックス、そんなニューヨークの街全部…どいつもこいつも、みんなまとめて地獄の炎に焼かれちまえ、死んじまえ、このボケ、サイテー野郎!

 でも彼には分かっていた。一番ボケでサイテー野郎はこの自分だと。なぜから、自分の人生を台無しにしたのは、他ならぬ自分自身に他ならないのだから…。

 夜になって、シーモア・ホフマンがペッパーの高級マンションにやって来る。マンハッタンの一等地。世が世なら、摩天楼の絶景が見渡せる場所。だが今この部屋の眼下に見下ろせるのは、あの「9・11」の聖地「グラウンド・ゼロ」だ。そこでは未だに後かたづけが粛々と行われている。

 久しぶりに再会した親友同士の語らい。だが、出所したら出迎えてやりたい…と希望的に語るシーモア・ホフマンに、ペッパーは極めて冷たい返事を返す。「奴はドラッグ・ディーラーだ、いわば自業自得だよ

 それでも何とか希望的な面を見ようとするシーモア・ホフマンに、なぜかペッパーは厳しい言葉を投げつけるばかり。「オマエ何にも分かってないんだな!」

 ムショに入ればカマ掘られて無事には済まない。こうなりゃ三つに一つしかない。逃げるか自殺かムショに入るか。それのどれを選んでも、もうあいつには会えない。あいつと会うのはこれっきりだ。

 そんな会話は二人が飯を食いながらも続く。あげくシーモア・ホフマンは女にモテないがオレはモテる…などと言いたい放題のペッパーに、日頃大人しいシーモア・ホフマンも言い返さずにはいられない。確かに金はあるだろう。だがオマエには日常への適合性がない。オフィスで企業をダマして金をせしめる事ばかりに専念しているから、普通の感覚がなくなっているんだ。

 そんな一触即発の会話をしても、何となく収まってしまうのが親友というものか。二人はノートンと約束をしているバーにやって来る。ここでシーモア・ホフマンはあくまで友人の教師の話…と断った上で、教え子の17歳の娘にゾッコンの男の話をする。だがそんなのは自分の打ち明け話…とペッパーにはミエミエだ。

 やがてそのバーにノートンとドーソンが現れ、今日の飲み会の会場である例のクラブへと場所を替える。

 ところがそのクラブには、何とあのシーモア・ホフマンの教え子パキンも来ているではないか。ただし彼女は入場制限で、ずっと外で並んで待っていた。だがここではノートンは顔だ。シーモア・ホフマンの連れという事でフリー・パス。そんな成り行きに大いに焦るシーモア・ホフマンをよそに、パキンはノートンたちの連れとしてクラブのVIPルームへと通される

 ノートンはそこでシーモア・ホフマンに犬の面倒を頼み、ペッパーには恋人ドーソンへの疑念を打ち明ける。そしてシーモア・ノートンはパキンに挑発され通しで、ついに酔った勢いでパキンに迫ってしまう…。

 やがてノートンは奥の部屋へと呼び出され、そこで大ボスのレヴァーニと対面するのだが…。

 

見た後での感想

 この映画の語り口の成熟ぶりには、ちょっと驚かされた。これがあの熱に浮かされたような映画を撮っていた、スパイク・リーの映画なのか。淡々と静かに抑えた口調で展開するドラマ。だが僕にはあの仰々しさが抜けて、むしろ好ましく感じられたんだけどね。

 そしてこれはどこでも指摘される事だと思うけど、あの「9・11」世界貿易センター・ビルでの惨劇への言及。この物語とは直接関係はないけれど、「9・11」の痕跡はこの映画のそこかしこに点在している。まずはオープニング・クレジット。最初は単にマンハッタンの空き地がライトアップされている…と思いきや、それは例の「グラウンド・ゼロ」だったんだよね。そしてバリー・ペッパーの高級マンションから見える「グラウンド・ゼロ」。さらにはノートンの父親ブライアン・コックスが元消防士という設定で、彼が経営するバーに「9・11」で犠牲になった消防士たちのモニュメントが飾ってある。このように、映画のあちこちに意味ありげに「9・11」がチラつく仕掛けになっているんだよね。

 これについてスパイク・リーは、今ニューヨークで映画を撮るならばアレに触れねば意味がない…みたいな発言をしているが、単にそれだけではないだろう。一見物語と何の関係もないけれど、実はこの映画での「9・11」は、単にそんな犠牲者への追悼以上の意味があると考えるのが自然だろう。

 この映画で興味深いのは、怒りが溜まってきたノートンがトイレの鏡に向かって怒りをブチまける場面だ。

 そこではニューヨークのすべての人種が俎上に上げられる。そしてもちろんブッシュとビンラディンも忘れない。さらには自分の親しい人間までも…やり場のない怒りは、誰に対しても無差別にぶつけられる。ここで興味深いのは、白人ノートンの差別と憎しみの対象が従来のスパイク・リー作品にありがちなように黒人オンリーではないことだが、それはまた別の話。ともかくこのような状態の時に、人が周りに恨み辛みをぶつけて何もかも人のせいにしたがるのはよく分かる。だがここで最後にノートンは、ふっと我に返ってこうつぶやくのだ。「だが、一番サイテーなのはこのオレだ」

 さよう。ノートンは自業自得だ。それはどうしたって言い逃れ出来ない。それは親友のペッパーだって指摘している。その点を、この映画は決して甘やかそうとはしていない。

 だが同時に、この映画では汚れているのがノートンだけではない事も暴露されていくのだ。

 ノートンを自業自得と切って捨てたペッパーにしても、株のブローカーとして金を儲けているのは、合法的とは言え決してキレイな仕事とは言えないだろう。それなのにペッパーはノートンも…そしてシーモア・ホフマンもどこかで侮蔑している。父親コックスは何だかんだ言ってノートンの汚れた金を当てにしていた。恋人ドーソンにしたって、悪い事とは知りつつその金でいい暮らしを楽しむのをやめなかった。シーモア・ホフマンの教え子のパキンは、自分の成績を上げるために性的魅力を使うのをためらわない。善良なはずのシーモア・ホフマンにしてその肉欲を持て余し、抑えきれない気持ちに突き動かされてしまう。

 しかし、人はいつから悪徳を愉しむことを公然と「良し」とするようになってしまったのか?

 そんなすべての悪徳の罪の象徴のように、あたかも殉教者のごとく、ノートンは償いの場に引きずり出されていくように見える。

 悪い事をやってなぜ悪い、誰だって悪い事をやっているんだ、オレが悪い事をやってちょっとばかりいい思いをしたって許されるはずだ、もしオレが罰せられるならばそれは不公平だ、どいつもこいつもみんな地獄に堕ちなきゃおかしいじゃないか

 人はこうして悪徳に耽る。それは「何でもアリ」の連鎖だ。みんなが悪徳に耽って世の中は荒れ果てる。荒れた世の中は不愉快なものだ。さらには自分よりいい思いをしている者を見て、きっとあいつらはもっとひどい悪徳に耽っているのだとさらに不愉快さが増す。そんな不愉快から世の中の他者に憎しみが生まれる。みんなオレ以外のみんなが悪いんだ!…「何でもアリ」の連鎖。そこから生まれるのは傲慢と不寛容と憎しみだ。

 スパイク・リーがここに「9・11」を引用したのは、とても象徴的だと思う。「9・11」は単にオサマ・ビンラディンの狂気だけが生んだのではない。そこに至るにはアメリカの傲慢と不寛容と憎しみがあった。ところがアメリカはそれを他者…ビンラディンやアルカイダやイラクやイスラム社会のせいだと決めつけた。その結果起こった事は、さらなる傲慢、さらなる不寛容、さらなる憎しみ、そして暴力だ。「9・11」以前にも以後にも、アメリカにはこの映画の主人公ノートンがブチまけた怒りはあっても、彼の最後にたどり着いたこの結論だけはなかった。…「だが、一番サイテーなのはこのオレだ」

 映画では他にもさまざまな傲慢や不寛容や憎しみが出てくる。ノートンが恋人ドーソンに抱く疑念がその最たるものだ。だがそれらの傲慢や不寛容や憎しみを、ノートンはこのトイレでの結論…「だが、一番サイテーなのはこのオレだ」…から、一つひとつ、いささか遅ればせで手遅れでありながらも、しこりをほぐすかのように解いていく

 最後に刑務所へと急ぐクルマの中から、ノートンは不思議な幻想を見る。それは彼がトイレで怒りをブチまけたさまざまな民族…そんな彼らが、ノートンを優しく見送っている情景だ

 思えばスパイク・リーの方向転換がここで決定的になったのも、同じ理由なのではないか? 彼はデビュー以来一貫して、アメリカ黒人に降りかかってきた理不尽を告発し続けてきた。時にそれはアジ演説のようでもあり、挑発的な態度も目立った。だが、一体それは本当に理想的な社会のために役に立ったのだろうか?

 それは新たなる怒り…新たなる傲慢や不寛容や憎しみを生み出すだけではなかったのか?

 「9・11」を自らの中で検証するうちに、スパイク・リーの中にそれまでの自分の姿勢への疑念が改めて湧いてきたのではないか?

 そう考えると、この映画に出てくる唯一の黒人=麻薬取締官が、決して好感の持てる人物でないのもとても暗示的だと言える。内心薄々何かを感じ取ってはいて、徐々に方向転換をし始めていたスパイク・リー。それがここまでその転換ぶりを徹底させたのも、きっと同じ理由だ。

 それは「怒りでは何も解決しない」という反省…それも、自分ですらそれに手を汚していたという痛みを踏まえた上での、苦い苦い反省なのだ。ノートンが身を以て償わなくてはならない罪人である理由は、たぶんそこにあるに違いない。

 

見た後の付け足し

 実はこの僕も、得てしてこのノートンと同じように恨みがましく思う時がある。トイレでの誰彼問わぬ罵倒ではないが、今まで自分に苦しみを与えて来た連中に、そして無神経な仕打ちや言葉を投げつけて来た人々に、怒りをぶつけずにはいられない時もある。どいつもこいつも、みんなまとめて地獄の炎に焼かれちまえ、死んじまえ、このボケ、サイテー野郎!

 だが、そう言ったところで何になるだろう? 一番ボケのサイテー野郎は自分かもしれないのに。

 いや、よしんば怒りをぶつけた連中が本当にボケでサイテー野郎であったとしても、それは決して変わらない。

 劇中、本当の裏切り者を知ったノートンは、大ボスに銃を渡される。そこで彼は怒りに任せて、思わず裏切り者に銃口を向ける。

 だが、あえて自分では引き金を引かない。

 「他にどうする事も出来なかった」…そんな苦渋の言葉を聞いた彼は後の始末を他の人間に委ねて、その場を静かに去っていく。例えボケでサイテー野郎の裏切り者であっても、それを罰するのは自分ではない…とでも言いたげに。裏切り者は最終的にヤクザ者たちに成敗されるだろう。それは避けようがない。だが、自分がそれを行うのは拒否する。彼はここで、自ら「何でもアリ」の連鎖を断ち切ろうとしているのかもしれない。

 そう。僕にとってもそれは同じだ。例えどんな理不尽が降りかかろうとも、それに怒りをぶつけて何になろう? 罰してやろうと思って何になるだろう? そう思うのは、決して僕が人格者だからではない。単に、そんな事をしたところで、僕には何も得るものがないからだ。そして、それは僕の役目ではないからだ。それは自分の頭上のずっと高い所にいる、他の誰かの仕事に違いない。

 ただ僕に出来るのは、自分の人生を台無しにしない事だけだ。この映画のノートンのように、取り返しのつかない事にならない事だけだ。僕だって毎日綱渡りの人生を送っている。普段はことさら気づきはしないが、何かあった時にギクリとさせられる。ならば何とか平均台の向こうに落ちないように、やりくり算段やっていく事しか出来ない。

 だってそれだけでも、一人の人間としちゃ手一杯だろうからね。

 

 

 

 

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