「ジョゼと虎と魚たち」

  Josee, the Tiger and the Fish

 (2004/03/01)


 

この感想文は、くるりの「ハイウェイ」(「ジョゼと虎と魚たち」サウンドトラックCD収録)を聞きながらお読みください。

 

 

今回のマクラ

 前にあの頃ペニー・レインとの感想文で僕が書いた事を、みなさんは覚えていらっしゃるだろうか?

 僕は映画が好きで、子どもの頃から見てきた。それは日頃見る事の出来ないものを見ることが出来たり、カッコいいものが見れたりしたからだ…と言ったら、まるでバカみたいに思われるだろうか。でも、それは正直な話だから仕方がない。僕がSF映画が好きだったのはそんな訳だったし、どちらかと言うと外国映画を好むのもそんな訳だった。他の惑星が見たかったし、人類の終末を見たかった。宇宙船の内部が見たかったし、アメリカ軍の防空システムが見たかった。西部の荒野が見たかったし、拳銃をバンバン撃ちたかった。ローマ帝国の時代が見たかったし、大群衆がコロシアムに集まる様子を見たかった。カッコいいクルマに乗りたかったし、隣りに知的だけどいざというと大胆な女を従えて連れ回してみたかった。

 だけど自分が少しは人生経験を得て、世の中思い通りにはならないものだと悟った時、映画はちょっとだけ違った見え方をしてきた

 映画の中の登場人物の言動に、「これってどこかで見た事があるな」と感じ始めた。そこで起きる出来事のアレコレに、「これっていつか自分の身にもあったな」と思い始めた。それを感じた時、映画は単に面白いもの以上のものだと思えるようになったのだ。それを感じた時、映画の主人公たちが何であんな事を言い、何であんな行動に出たのか、そして何であんな結末を迎えたのかが納得出来る気がした。そんな映画は、僕にとってたぶん「いい映画」になったんだと思う。優れた映画ではない、いい映画。好きな映画ってだけでもない、いい映画だ。

 それが感じられない映画もあって、それはそれで別に悪いものではない。だけど「これは…」と自分が思える映画ってのは、そういうモノじゃないだろう。ただ優れた出来のいい映画を見るのは決して時間の無駄ではないが、僕が映画を見続けているのはそんなモノのためだけじゃないだろう。そして映画ってのは、大なり小なりそういう「いい映画」になる芽みたいな要素を隠している。それがそう思えない事があるとしたら、それは映画に何らかの拙さがあるのか、あるいはその芽が「僕のためのモノ」ではないからだろう。

 「いい映画」になりそうな芽…それは「実感」だ。

 僕が何らかの「実感」を感じる映画…それは僕がその映画を認める、一つの大きなモノサシだ。だから、それは極めて個人的なものだとも言える。

 翻って、僕が巷に氾濫する映画評の類を見た時の違和感は、僕が歳を重ねるごとに大きくなった。それどころか、「これってホントに映画の実物を見たの?」としか思えない空疎な言葉。僕がこのしがないサイトを立ち上げ、そこで舌足らずな感想を書き続けるに至るには、いくつかの理由があった。だが、その理由の一つには、確実にそんな空疎な言葉への何らかの欲求不満みたいなものがあったように思う。偉そうな事を言っているのは百も承知だが、それが偽らざる気持ちだ。

 それでも何事も言うは易し。いくら書いてもそんな「実感」がにじみ出て来なかった事は、「ペニー・レイン」の感想文に書いた通りだ。僕が「実感」をいくらかでも込められるようになるには、ちょっとした勇気が必要だった。図々しさと言ってもいい。それが少し出来るようになった時、僕はちょっとした満足感を得た事を今でも覚えている。

 で、病みつきになってしまった

 そういう事を心がけている訳でもないのに、映画を見るたびに過去の何かを思い出す。それを自分のどうでもいい感想文に綴ってしまう。そんな事を繰り返しているうちに、僕はいつの間にか過去の感情の引き出しを、全部ほじくり返してしまっていた

 そのうちに、自分の本当の人生もドラマティックに展開し始めた。すると、僕の過去の感情のストックが枯渇するのと呼応するかのように、映画に現在が見え始めた。過去がどんどん自分に追いついて、現在をも消費し始めた。いや、それは消費だったのだろうか。ひょっとして映画を見ながら自分の過去を追体験する事を繰り返すうちに、僕は自分というものを見つめる目を少しづつ変えていたのかもしれない。それは映画のせいなのか、僕の年齢のせいなのか、僕の実生活のせいなのか、それとも僕が自分のサイトで映画の感想文を書いているせいなのか…。これは一体映画の感想文なのか、そもそもこんな事をやっている意味があるのか…自分の実人生が混迷の度を深めるに従って、僕はますます何が何だか分からなくなっていたし、そんな自分を為す術もなく見ているだけになっていった。僕はかつて映画についてのさまざまなコメントの空疎さを嗤ったが、今自分の書いているものは一体何なのか。大体そもそも大したものでもないではないか。傲慢にも何か大した事でもやっている気になっていたのか。いつしか僕が過度に自分を映画に投影することを避けるようになったのは、そんな理由からだ。ここまであたりの事は、僕は例の「ペニー・レイン」の感想文に書いていたように思う。

 そんなある日、僕は映画にデジャ・ヴを見た

 いや、それは正確には違う。少なくともその時はそう思わなかった。だが、それから間もなく僕は、自分が見たものが現実だと悟った。恐ろしい事に、僕は過去に追いかけられて現実をも飛び越え、自分の未来を見てしまったのか。何だか誇大妄想狂の戯言みたいで気が退けるが、これは実際に体験していただかないと分からない。

 あるいは映画を見ているうちに、自分は気づかなかった何かがやっと分かる気がした事もある。今までのアレはこれだったのだ…と、遅ればせながら気づく事がある。たぶん僕がデジャ・ヴだと思ったものは、これと同じものだったのだろう。

 その後の僕は、自分の精神安定剤的に映画を見て、感想を書いているような気分になる時があった。中には引きずるように映画を見て、引きずるように感想を書く事もあった。ただ無為にしているよりマシと思いながら、映画を見て感想を書く習慣を続けていたような事もあった。それでもそんな行為を続けて来た原動力には、おそらく自分に何かが見えてくる瞬間を期待していた事もあるかもしれない。

 今、自分が心の平静を取り戻しつつある時、映画を見て感想文を書くなんて行為は、もはや無意味になりつつあるのかもしれない。いささかルーティン・ワーク的に続けているのかもしれない。単にやめるのが惜しいという気になっているだけかもしれない。

 それでも時には、映画を見て何かを言わずにいられない時もある。それは映画に関する事とは、いささかハズれているのかもしれない。それでも僕は、その何かを言わずにはいられない。読んでいただいている方々には申し訳ないが、それは極めて個人的なものなのだ。

 

見る前の予想

 僕が邦画音痴だということは、このサイトでもたびたび繰り返し言ってきたことだ。それは決して自慢出来る事ではないが、だからと言って卑しむべき事だとも思ってはいない。僕は映画研究所をやっている訳ではないのだ。映画を見て良かったな…と感じたいだけだ。そして別に邦画が見たいとも思っていなかった。だから恥ずべき事だとは思っていない。

 ただ、このサイトを立ち上げてからは、いろいろと面白い映画の話を伺う機会も増えた。そうなると映画好きとしての欲も出てきたのだろう。細々ながら、僕も最近の邦画をチョコチョコと見るようになったわけだ。

 僕がこの「ジョゼ」についての話を聞いたのも、そんな中での事だった。元々恋愛映画は好きな方だ。若い頃に現実の恋愛体験が貧しかっただけに、恋愛映画が好きなのかもしれない。「ジョゼ」が良くできた恋愛映画と聞けば、これは見ずにはいられないだろう。

 それに映画好きを長年やっていると、現物を見ずともそれなりの嗅覚も働く。だからこの映画には、何となく「いい映画」の予感があった。犬童一心なんて監督は知らなかったし、妻夫木聡は好きじゃなかったし、池脇千鶴は可愛い女の子だとは思っていたがファンでもなかった。それでも自分の予感ってやつには従うもんだ。僕は自分の動物的な勘ってものを結構信じている。それは今までも僕を裏切らなかった。それに従ってきたからこそ、欲しいと思うものはすべて何とかして手に入れてきた。そういう時の自分は、自分でも驚くほど大胆だったし強かった。勘を信じていたからこそ、自分に揺るぎない確信があった。残念ながら求めていたものが手に入らなかった事もあるが、それはそこまで本気で熱望していなかったか、何か別のモノだと心のどこかで気づいていたんだろう。

 そんな訳で見たい見たいとは思っていた「ジョゼ」だが、なぜかなかなか機会が訪れなかった。それが今回、何と映画の方が僕の近くにやって来た。これは「見てくれ」と映画が僕に言ってるのだろう。

 実際、僕にとっての人生ってそういうものだ。無理をしたからといって、欲しいモノは手に入らない。手に入る時は何がどうあっても手に入る。運命のいたずらも手伝って、どうしようもなく手に入ってしまうのだ。そして手に入った時、それは常に僕にとってその時必要なものだった。逆に手に入らない時はどうしたってムリだし、去っていく時にはどう頑張ったところで去っていく。それはきっと、本当に僕にとっての必然ではないからだろう。あるいは必然だった時を過ぎたのかもしれない。その時はそうは思えなくとも、いずれそうだと気づく時が来る、あるいは内心薄々それを感づいていたりする。

 僕に親しげに近寄ってきてくれた映画「ジョゼ」は、今こそ僕が見なければならない映画に違いない。

 

あらすじ

 あれは今から何年前のことだろうか…。

 大学生の恒夫(妻夫木聡)は雀荘でバイトをしている。そんなある日、客たちの話題は奇妙な老婆のこと。常に早朝、不気味な乳母車を押して歩いている。その乳母車の中味は何なのか誰も知らない。そこにあるのは死んだ子どもの死体か、それとも大金か、はたまた麻薬か…。

 ところが早朝にオモテに出た時、恒夫は話題の乳母車に遭遇する。それは坂から勢いよく走り降りてきた。後から問題の老婆(新屋英子)がヨロヨロ追いかけてくる。乳母車は恒夫の近くのガードレールに激突して止まった。中を覗いてみると、そこには一人の女の子。しかも包丁を握りしめ、いきなり恒夫を刺そうとするではないか。ドギモを抜かれる恒夫だったが、そんな女の子を老婆は危うく止めた。

 それが縁で、老婆と女の子の家まで連れて行かれる恒夫。何と朝食をご馳走してくれると言うのだ。台所では先ほど包丁を振るった女の子が料理をつくっている。半信半疑、おっかなびっくりで食べた朝食は、しかしえらく美味かった。思わず「うまい」と褒める恒夫だが、女の子はまったく愛想がない。老婆の話では、幼い頃から歩けない子だったと言う。そこで老婆が乳母車で散歩に連れだしていたのだ。そんな女の子は、自分の事を「ジョゼ」(池脇千鶴)と名乗った。

 そんな恒夫は自室でセックスをする相手としてノリコ(江口徳子)という女がいながら、同級生の香苗(上野樹里)にも興味津々。清楚で巨乳という男の願望をすべて満たすような彼女から話しかければ、素直に鼻の下を長くしてしまう恒夫。彼女が福祉関係への就職を考えていると聞けば、何と「ジョゼ」の事を話題に持ち出す不用意さだ。

 美味い飯食いたさか、その後もたびたび老婆の家を訪ねる恒夫。ジョゼはいつも押し入れに隠れ、老婆が拾ってきた古本を読みふける。その中にフランソワーズ・サガンの本があった。それはジョゼの愛読書。彼女はいつかその続編が読みたいと思っていた。恒夫は今は絶版になっているその続編を、わざわざ古本屋まで探しに行く。恒夫から続編の本を渡されたジョゼは、礼もそこそこにむさぼるように読みふけった。その本の主人公の名こそ、「ジョゼ」だったことは言うまでもない。

 その後も香苗に惹かれつつ、何かと言えば老婆の家を訪れる恒夫。彼は頼まれもしないのに国の補助金のための手続きをしてやり、家の改修工事を手配してやった。工事も終わろうという時に、話をしながらついジョゼの手を握ってしまう恒夫。

 ところがそんな折りもおり、間の悪い事に香苗がこの家を訪ねてきてしまう。「彼女が恒夫くんの言ってた女の子?」…そんな二人の会話を聞いて、ジョゼはすべてを察してしまう。

 その後恒夫が老婆の家を訪ねても、ジョゼは頑なに会うのを拒んだ。そんなジョゼの剣幕に、老婆も恒夫に二度と来ないでくれと冷たく告げるのだった。

 それからしばらくして…恒夫はいつしか香苗とつき合っていたが、心の中はどこか空虚だった。就職活動も佳境に入った恒夫は、例の老婆の家の改修工事に関わったこともあって、その時の工事会社を訪問する。ところが恒夫はその時の担当者から、予想もしなかった事を告げられた。あの老婆が亡くなったというのだ。

 取るモノも取らずにあの家を訪れる恒夫。ジョゼは今度は恒夫を家に上げた。毎日の暮らしは福祉センターの助けを借りて何とかやっていると言う。だが些細な事から激高したジョゼは、恒夫に「帰れ!」と言い放つ。仕方なく帰ろうとした恒夫の背中に、しかしジョゼは泣きながら本音をぶつけてきた。「帰れと言われて帰るくらいなら帰れ…」

 その日、恒夫はジョゼと結ばれた。

 恒夫はこの家に引っ越してきた。一緒に暮らすと決意したのだ。だがこれは香苗には耐え難い事だった。香苗はジョゼを呼び出すと、彼女に怒りをぶつけてきた。「あなたみたいな武器があればいいわよね」

 だがジョゼも負けてはいない。「羨ましいなら、あんたも両足を切ったらどや?

 互いに平手打ちしたあげく、憑き物が取れたように香苗はジョゼの前から立ち去った。そして恒夫とジョゼの一番美しい時間が始まった。

 それから一年。恒夫はいまや社会人だ。ある日営業で街を行く恒夫は、タバコのキャンペーンガールとして派手な格好に身を包む香苗を見つける。あれから就職もどうでも良くなった…と語る香苗は、恒夫の前でポロポロと涙を流す。そんな彼女を見た恒夫の胸中に芽生えたのは、同情かはたまた改めての好意なのか

 やがて恒夫とジョゼは、クルマに乗って小旅行に出かけることになる。行く手は恒夫の実家だ。だがクルマを貸しにきたジョゼの旧知の極道者は、実家に行くとなれば結婚話だと決めつける。それを聞いて、ジョゼは複雑な気持ちにならざるを得ない。

 クルマに乗っての旅行は初めてとあって、ジョゼは最初からハシャギにハシャぐ。だが最初の目的地である水族館が休館と分かると、ジョゼの怒りが収まらず恒夫は辟易するものを感じずにはいられない。そんな恒夫の心境の変化は、いつしかジョゼにも伝わってきた。

 ジョゼがトイレに立ち寄っている隙に、実家に電話を入れる恒夫。仕事が出来て行けなくなったと弟に告げる恒夫だが、弟は彼の気持ちを敏感に察した。「兄ちゃん、ひるんだな?」

 図星を突かれた恒夫は、いきなり身障者用トイレに入ってジョゼを抱きしめる。その時に恒夫の心に去来したものは何か。

 そんな恒夫の気持ちを察してか、ジョゼは何も言わずに目的地の変更を告げた。

 「海へ行け。うちは海が見とうなった」

 

見た後での感想

 一つの恋愛の始まりと終わり…それを描ききって見事な実感がある。これを見た誰もが、何らかの思い当たるフシに気づくだろう…なんて事は、どんなニブい奴でも映画を見て思うに違いない。そして、残念ながら僕もそうした陳腐でありふれた言葉しか出てこない。それは映画が陳腐でありふれているという訳ではない。映画は言った通り見事だ。胸がつまる。実感がある。それを言い表すための、それこそ「実感」の伴う言葉が、僕にはうまく言えないだけだ。

 映画そのものは常に主人公たちと常に一定の距離を保ち続け、終始ドライで決してベタつかない。感情の押し売りもしない。観客に対する誘導も決めつけもない。だからこそ、どうしようもなく二人が惹きつけられて、どうしようもなく離れていくことが実感出来るのだ。

 そして作者による安易な「感情移入」が行われないから、僕たちは極めて自然に自分たちをそこに投影出来る。誰もが思い当たるフシがあるというのは、そういう事なのだろう。

 ジョゼを演じた池脇千鶴の魅力的な事と言ったら…。最初はあのタルそうな語り口にいささか違和感を抱いたが、見ているうちにそれも作戦のうちと感じてくるから見事だ。アレでは男は好きにならずにいられない。男は何か「特別」と思える女に、どうしようもなく惹かれてしまうものなのだ。

 だがもっと感心したのは妻夫木聡だ。先にも述べたように、僕はこの俳優を何とも思っていなかった。むしろあまり好感を抱いていなかったと言っていい。だが、この映画での彼は見事だ。どこが見事と言って、この男のあまりに中庸な存在感には驚いた。適度に善人で、適度にエゴイストで、適度に献身的で、適度に打算的、適度に同情心があり、適度に現金で現実的、適度に無邪気で、適度に計算づく、適度にチャランポランで、適度に誠実、適度に保身を考えながら、適度に勇気があり、適度にスケベ心があって、適度に愛を信じ、適度に物事を深く考えていたりいなかったりする。まさに男の「最大公約数」とでも言えばいいのか、どれもこれも見事なまでの中庸…いや、まことに恐るべき中庸ぶりだ

 だからこそ、さまざまな(少なくとも男の)観客が自分を投影出来る余地がある。この男のキャラの範疇にハマらない男なんていないだろう。しかもそれをちゃんと存在する人間として見せる事に成功している。こういう役はヘタをすればがらんどうになりがちなだけに、これって何より難しいはずなんだよね。それをここまでやってしまったんだから、例え監督の犬童一心の力があったにしても大したものだ。

 さらに感心したのは、ジョゼの恋敵の役回りになる香苗役の上野樹里の設定だ。これを単純なイヤな女、つまらない女に描くことはたやすかっただろう。でも、この彼女の立場、気持ちは納得できる。これも適度に善良で、なおかつ適度に傲慢で、適度に哀れで図々しく、そしてあくまでどこまでも愚かで凡庸な女だった。大概誰でもこんなものではないか。これを演じた役者も役者だが、ここまで徹底して描けた犬童監督って大したものだよね。

 ここでのジョゼの「障害」ってのは、誰もが持っている「ちょっと困った点」の例えなんだろうね。それは時に「ちょっと変わった点」にも、「ちょっと魅力的な点」にもなり得る。それが故に相手に惹かれる事さえある。

 誰でも恋愛に落ちた時には、こうした相手の「ちょっと〜な点」に気づく。それはおそらく自分とは違ったところだ。自分にないところだ。それが恋愛の原動力やキッカケにもなる。

 だが恋愛を維持していくうちに、それが結局「ちょっと困った点」というカタチに集約されていく。明らかに自分の生活や世界にそれを持ち込もうとした時、それは自分にとって「規格外」のものとなる。それを受け入れていくか何らかの手を打つかは人それぞれだろうが、いずれにせよ一緒にやっていくうちには無視出来ない。無視は問題の先送りにしかならないのだ。

 世の中の恋愛という恋愛は、こうした相手の「規格外」の部分と、それを受け入れようとするか打開しようとするか先送りにするかのせめぎ合いから成り立っているとさえ言えるかもしれない。その「規格外」の部分を持っている側と対峙する側は、時にしばしば逆転する。お互い程度の差こそあれ相手に「規格外」を見出し、それをどうしようか考え考えしながら、恋愛というものは進行していくように思える。あとは絶え間ない「自己正当化」…。

 それでも「規格外」は必ず誰にもあるし、決してなくなりはしないのだ。そういう意味で、恋愛というものはハナっから爆弾を抱えているようなものだ。その解決法はと言えば、実は一緒にい続けるにせよ別れるにせよ、諦めしかないのかもしれない。

 この映画はそういう意味で、恋愛というものが元々抱える癒しがたい痛みと、最終的にお互いの間に広がる冷えた空間…まるで貧寒たる荒野のように草木も生えない風景を見せているものかもしれない。そこにあるのは一種の諦観だ。だが見終わった印象は決して暗いものではない。

 その理由は、そこに思い当たったジョゼがその運命を受け入れる潔さだ…と僕は思う。そして、それは最終的に恒夫も共有する。彼は「自分は逃げた」という自覚を、今後一生持ち続けるのだから。

 どうしようもない…その事をその事として、それ以上でも以下でもなく受け止める潔さが、この映画に一服の清涼感のようなものを与えているように思えるのだ。

 

見た後の付け足し

 先ほど僕は、この映画を見終わった時の印象が暗くならない爽やかなものである理由は、ジョゼなり恒夫なりの潔さによるものと言ったよね。それは間違いじゃないだろう。だが今ここで、実はもう一つの何かがあるような気がしてならないと急に言いたくなった。

 旅行でたどり着いたラブホテルで、ジョゼは誰に言うともなくつぶやく。「うちはもう元の場所には、二度と戻れへんのやろ

 恋愛とは…いや、あえて人が人と関わる事とは…と言い直そう。それは実はいい意味でも悪い意味でも取り返しのつかない事なのだ。一つの出会いがあって、それが別れに終わった時、人は元の自分に戻った気がする。だけど、それは正しくない。実はもう戻れない。誰かと関わった痕跡は、如何ともし難くその人のどこかに残る。何もなかったフリなど出来ないのだ。

 ならば元々それはなかった方が良かったのか。確かにそういう人との関わりもあるだろう。だけどその時にはそれを欲した自分がいた以上、それは避けられない必然だった。

 恒夫との別れを直感したジョゼは、上記の言葉の後をこう続ける。「いつかあんたがおらんようになったら、うちは貝殻みたいに海底を転がり続けるようになるんやろ」

 いやいや、彼女の言葉はこれで終わりではない。彼女はこう言葉を結ぶ。「でも、まぁ、それもまた良しや!

 結局二人は「それ」以前と以後では決定的に変わった。恒夫は元のおめでたい無邪気な気分でいることが、もはや出来なくなっただろう。そしてジョゼも自らの予言通り、もう元の状態には戻れなかった。それが証拠に、別れの後でハッキリと目に見える変化が現れたではないか。

 最初は老婆に乳母車を押してもらうカタチでしか世の中に出られなかったジョゼが、映画の幕切れ近くでは何と電動車椅子で買い物に出掛けている…。

 それのどこが恒夫との関係の影響なのか…因果関係を説明出来る訳ではない。それでもとにかく他者と関わってしまうという事は、どうしようもなくその人の中にハッキリとした痕跡を残すのだ。それは激しく打ち込まれた刻印のように、あるいは焼けた鉄を押しつけられて出来た焼き印のように、人の心に癒しがたい痛みを残す事もある

 だが、それは同時に得るべき価値のある痕跡でもある。例えそれが痛みであったとしても、おそらくは「得るべき価値のある痛み」なのに違いない。

 何もない人生よりも、何かあったという事を肯定的に受けとること…たぶん僕が深く共感したのもそこだろう。

 僕がこの映画に何かのデジャ・ヴを見たのか…というと、それは一見違うように思える。これは誰もが胸の奥に抱える、恋愛の記憶を呼び起こす映画だ。それは追憶でこそあれ、先の何かを見せてくれるものではないように感じられる。だが…それでも、今こそ自分には、この映画にそれにとどまらない何かがあるように思えるのだ。

 それが何かは今は分からない。だが、それが分かる時はきっと来る。僕の中の何かがそう言っている。その時に、またぞろ感想文でそれを書き表すかどうかは分からない。その時まで僕が映画の事をアレコレ書いているかも分からない。僕が今のような生活を続けているか、同じ仕事をしているか、今住んでいる場所に暮らしているか、そもそも僕がいるかどうかも分からない。だが、その時はきっと来る

 例えば今年が暮れようという時期になった時、この映画に感じた事が何だったのかを知る時が必ず来ると、今の僕には思えてならないのだ。

 

 

 

 

 

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