「ファインディング・ニモ」

  Finding Nemo

 (2004/02/16)


  

今回のマクラ

 今回はこの感想文を読んでいるみなさんに、いきなりちょっとした質問をしたいと思っているんだよね。え? 何だって? それが「ファインディング・ニモ」とどういう関係があるんだって? まぁ、そう言わず、ダマされたと思って読んでいただければ嬉しいんだけどね。

 まず、この絵(図1)をご覧いただきたい。あなたはこれが何に見えるだろうか?

 笑っている人間の顔?

 いや、実はそれは本当の正解ではない。よくご覧いただきたい。実際にはこんな顔をした人間はいない。いやいや、よく似た顔の奴を知っている…とおっしゃる方もいるかもしれないが(笑)、厳密に言えばこんなカタチの人間の顔なんてないだろう。しかも似ていると思われる人物でさえ、笑顔の時にこれと同じカタチの表情なんかしないはずだ。試しにご自分で鏡の前に立って、この絵のマネをしていただければ分かる。これは本当は人間の笑顔なんかじゃない。これは円形の中に曲線を描いている、単なる無意味な図形でしかないのだ。

 これが人間の笑顔だと見えるに至るには、実は人類は長い長い歴史を辿って来なければならなかった。最初にこれを描いた人物が誰かは、今となっては分からない。とにかくこれが「人間の笑顔」である…という確信を描く者が持って、さらに同じ共通認識を多くの人が持って、初めて可能になった表現なのだ。我々はいつの間にか、これが「人間の笑顔」であるという事を認識として共有するに至った。そこまでいって初めて、この無意味な図形が「人間の笑顔」に見えてくる。あるいは描く側もこれをそうだと思って描くようになる。つまり、これは一種の記号だ。

 で、とりあえずここまでで余計な話をひとまず終えて、本題の映画の話に移らせていただこうと思う。

 

見る前の予想

 CGスタジオのピクサーがディズニーと組んで製作したいわゆるCGアニメって、ホントに質の高い楽しめる作品ばかりだったんだよね。

 それは一作目「トイ・ストーリー」を見た時から思ったことだ。僕はアニメもCGも疎いから、その技術的な面云々についてはあまり関心もない。だが、文句ナシに楽しめる映画だったから驚いたんだよ。それも大人の鑑賞に堪えるアメリカ娯楽映画の王道。イマドキはかなりいいかげんになってるハリウッド映画だけど、この「トイ・ストーリー」にはちゃんとそれが一本スジを通してた。無力なものが全力を振り絞って不可能を可能にする…ハリウッド映画十八番の物語を実に小気味よく見せてくれた。途中にちゃんと笑いと涙をまぶすあたりもプロの仕事だ。これにはスッカリ感心してしまった。しかも続編トイ・ストーリー2と来たら、このお話はもう子どもじゃ理解出来ないんじゃないの? 人生の悲哀みたいなものまで感じさせて、なかなかここまで出来るもんじゃない。実写だアニメだCGだというより、まずは脚本がしっかりしてるんだよね。見事なものだ。

 まずキャラの立たせ方、ドラマづくりの妙味が素晴らしい。そしてアクションや見せ場の巧みさ。さらにはCGアニメで描く必然性のある題材。娯楽映画としてキチッとセオリー通りの仕事をしてくれてると、見ている側も気持ちいいよ。特にストーリー・テリングのうまさ。どう考えても不可能な奪還作戦、脱出作戦に向かって、あらゆる障害を乗り越えていく脚本のうまさには、黒澤明の「隠し砦の三悪人」あたりも彷彿としてくる。ホントに舌を巻いたと言うしかない。

 こうなるとジョン・ラセター率いるピクサーの作品は見逃せなくなってくる。当然アメリカで大ヒットしたモンスターズ・インクにも大いなる期待を寄せたわけ。

 これがねぇ…ちょっとばっかり残念な出来映えだったんだよね。

 この時は「トイ・ストーリー」二作を監督したジョン・ラセターが製作側に回った。そのせいばかりではないんだろうが、肝心要の物語がうまくない。途中まではいいんだよ。キャラ立ち、着想、CGアニメの必然性、ストーリー・テリング、アクションや見せ場の面白さ…どれも相変わらずの素晴らしさだ。だけど、最終的な話の持っていき方に難がある。

 あの主人公のモンスターをデレデレに甘やかしちゃったような、ヌル〜いエンディングはいただけない。これがいわゆるディズニー的な微温的世界と言うのだろうか。確かにハッピーエンディングではあろうが、主人公を甘やかしちゃマズイだろう。例えば「トイ・ストーリー2」にはちょっと辛い潔さがあった。それが作品のレベルを大人の鑑賞に耐えるものにしていたのに。僕はとっても残念だったんだよね。

 というわけで、ピクサーから待望の最新作がやって来ると聞いても、今回はイマイチ触手が動かなかった。またしてもジョン・ラセターは制作側に回ったと知って、面白いと聞きつつも再び「モンスターズ・インク」のガッカリを味わうかも…と腰が退けていたんだよね。

 そして実は今回父と子の話と聞いたのも、触手が動かなかった理由の一つだった。

 僕はもういい年齢になっているのに、実はいまだ子どもがいない。結婚してないから当然なのだが(笑)。ともかく自分がいい大人とは言えない気がしているんだよね。いや、こりゃ正直言ってまるっきり自慢出来る話じゃない。本当は恥ずべき事なんだけどね。でも、ともかくとてもじゃないが自分が大人に相応しいキャパを持っているかと言うと、大いに疑問なわけなのだ。

 で、かつて良い映画として世評が高かった「フィールド・オブ・ドリームス」を見たけどイマイチだった時、どうもこの「父と子」みたいな部分が自分のネックではないかと思い始めたんだよね。

 必ずしも父子映画が全部ダメというわけではない。だけど、どうもそのへんがネックな気がする。そして今回の新作「ファインディング・ニモ」の予告編を見た時、この父子モノのベタベタな臭いがしてヤバイと思ったわけだ。こりゃあまたイマイチ何となくピンと来ない映画になるんじゃないか?

 そんなこんなで見るのがこれほど遅れた「ファインディング・ニモ」。では実際のところどうだったかと言えば…。

 

あらすじ

 オーストラリアの沖の珊瑚礁の海。オレンジ色のカクレクマノミのマーリンと妻のコーラルは、イソギンチャクの新居に住み始めてまだ間もない。すぐそばの穴にはすでに何百もの卵が孵化を待っているところ。何一つなく不満のない暮らし…と思っていたところ、たまたま付近にやって来たバラクーダに妻のコーラルと卵が襲われてしまう。失意のマーリンに残されたのはたった一個の卵。彼はこの卵を大事に守ろうと胸に誓う。

 やがて卵から息子ニモが誕生。それこそ目に入れても痛くない息子だったが、何しろこのニモの身に何かあったらと心配ばかりしている。カクレクマノミの元々の習性に加えて事件のトラウマも手伝い、その心配ぶりは神経過敏なほど。さすがにあまりの過保護ぶりに、息子ニモもいいかげん辟易し始めていた。

 まして今日から魚学校に通うともなれば、その心配はいやが上にも増す。案の定その心配は的中。授業中に先生の目を盗んで、仲間たちと外洋を覗きに出かけたからたまらない。秘かに様子を伺っていたマーリンは早速シャシャリ出るが、仲間の前で顔をつぶされたニモは頑なになるだけだ。あげく、よせばいいのに外洋のボートに近づいて行ったのがマズかった。たまたま潜りに出てきたダイバーに捕獲され、ボートに乗せられ連れて行かれてしまう。マーリンは半狂乱になって追いかけるが、一介のクマノミにボートが追いかけられるはずもなかった。

 慌てたマーリンは、たまたま通りかかった青いメスのナンヨウハギ・ドリーにボートの行方を聞いた。ドリーは最初のうちこそ自信を持ってマーリンを導いて行ったが、途中でどうも怪しい素振りを見せる。何とこのドリー、ちょっと前の事も覚えていられない生まれつき健忘症の魚だと言うのだ。だが元来の楽天家、かつお節介なドリーは、何だかんだとマーリンについて回りニモ追跡の道連れとなった。

 さて、ニモを捕らえたダイバーのボートは遠く去ってしまったが、たまたまボートが落とした水中メガネには持ち主の住所が書いてあった。それによると、ニモの行く先はシドニー。こうなるとたった一人の息子ニモを探しに、慣れぬ外洋だろうと何だろうと探しに行かねばならぬ。

 イメージアップのために魚食を改めようとするサメ、光で魚を誘って食おうとするアンコウ、恐ろしいクラゲの大群、ウミガメのサーファーの一団、そしてクジラ…さまざまな海の住人たちに出会い、さまざまな難局に直面しながら、マーリンとドリーは少しづつシドニーへと近づいていく。

 だがその頃ニモはと言えば、シドニー港に面した歯科医の一室に置かれた水槽の中にいた。その水槽の中でアウトロー体質のツノダシのギルを初めとする面々と仲間になるニモだが、実は彼には一刻の猶予もなかった。彼は歯科医の幼い姪へのプレゼントとして捕獲されていたのだ。そしてこの姪たるや恐ろしくも、すでに別の魚を飼い殺した前科があった。彼女の手に渡ったら、ニモも間違いなく殺される。

 ニモがプレゼントとして姪に渡されるまで、あと幾日もなかった…。

 

見た後での感想

 単刀直入に言おう。面白い。よく出来ている。ドラマとして「トイ・ストーリー」二作と拮抗する出来映えだ。何よりキャラが立っている。

 物語の冒頭部分の父子の葛藤は、親になった事こそないが子どもではあった自分の経験からも身につまされる。このわが身に思い当たるリアリティは大したものだ。

 そしてそこから展開する物語も、まさしくアメリカ映画の王道にして極め付き。ハッキリ言って海に住む魚が、捕獲されて陸揚げされ、水槽に飼われた自分の子魚を救出するなんて不可能だ。その不可能を可能にしていくプロセスが、何とも見事なんだよね。ウソもついているが、ウソの付き方が実にうまい。映画の観客は映画でうまくダマされたがっているんだからね。そんな観客の望みを確実に叶えてくれる、脚本のうまみが効いている。

 そしてマーリンが道連れとなったドリーと辿る冒険の、あの手この手の危機突破が見事だ。見せ場もふんだんにあって手に汗握る。おまけに海の世界を描くにあたって、CGの能力を十二分に引き出している。ちゃんと必然性のある使い方だ。これもピクサーのCGアニメすべてに通じる巧みさなんだよね。

 そして何よりいいのは主人公を甘やかさない事。生来の性質とトラウマで、すっかり保守的引っ込み思案になっているマーリンが、冒険を通じてエキサイティングな「人生」に目覚めていくあたり、父親として子に接する事の何たるかを考え始めるあたり、そして何だかんだ言っても甘いニモが、水槽の中の仲間たちに揉まれて鍛えられるあたり…これぞ主人公の成長を描いて秀逸なアメリカ映画らしさだと言える。お約束なんだけど、ちゃんと揺るがせにしていないのがいいね。それは脇のキャラからして巧みに描き込まれているからでもある。

 もちろんディズニーだから、ギャグもふんだんだ。特にサメ三匹が登場する、「禁魚集会」のくだりは爆笑もの。イマドキのアメリカによくある、「禁酒集会」などのパロディになってて傑作だ。また魚を飼っては殺す歯科医の姪が登場するくだりでは、バーナード・ハーマン作曲による、かの有名な「サイコ」のテーマ曲がチラッと流れたりするから笑える。

 そして、そもそも子供がたくさん詰めかけるはずのこの映画で、当の子供=歯科医の姪…を「サイコ」の殺人狂まがいの怪物扱いしているあたりの意地悪さ(笑)。「トイ・ストーリー2」でオモチャ・マニアのオタク野郎を完全に気持ち悪い奴とバカにしまくった、ピクサーならではの皮肉な味が効いている。これって完全に大人の味なんだよね。

 恒例の声のキャストへの有名スター起用もなかなか豪華で、主人公マーリンにアルバート・ブルックス、ペリカンにジェフリー・ラッシュはともかく、水槽の主みたいなツノダシのギルに怪優ウィレム・デフォーを起用したのは嬉しかった。最初はクールにニモを突き放すキャラが何とも絶妙。このへんも、前作「モンスターズ・インク」みたいに、ただ甘ったるい砂糖菓子みたいな作品にならなかった一因と言ったらホメ過ぎだろうか。ちゃんと作品全体に辛い大人の味がするんだよ

 というわけで、これについてはリッパな作品と大いに認めたい僕だ。だが、ホメたい理由はそればかりではない。実はもっともっと評価すべき点があるような気がしてならないのだ。

 

見た後の付け足し

 ここからちょいと長くなるけど、僕の話につき合ってもらいたい。絵で何かを表現するとはどういう事か…という話だ。そんな事は分かり切ってるよとおっしゃる方は飛ばしてくださっても結構。

 僕は冒頭に一枚の絵(図1)を挙げたよね。そしてこの絵が「人間の笑顔」に見えるためには、描く側と見る側に一種の共通認識が生まれなければならないと言った。つまり、これは一種の記号だ…と。

 それは例えば「あ」という文字が単なる図形ではなく、「あ」という音であると認識するのに似ている。この文字を書いたところで、どこからもその発音は聞こえて来ない。しかし我々はこの字が「あ」の音を意味する事を知っている。

 絵の場合は、これがもうちょっと複雑な意味を持つ事になるわけだ。それは言ってみれば漢字に似ているかもしれない。漢字は音と共に意味を表示する記号だ。例えば「泣」という文字は、英語で言うCRYやWEEP、あるいはSADという概念までを見る者に想起させるものだ。ネットで使用される文章に、「(涙)」とか「(汗)」とか「(笑)」などという表示が多用されるのも同様の理由だろう。絵というものは、この表意文字である漢字に極めて近い。漢字の発祥が象形文字だった事を思い浮かべていただきたい。そしてさらに冒頭の図1に描いた絵をよく見ていただきたい。これは決してリアルな「人間の笑顔」ではない「記号」だということを。

 例えば、原始人が洞窟に描いた馬などの絵(図2)を想起いただきたい。あれを見た現代人は、大昔の人間は絵が下手だったと思ってしまうかもしれない。しかし、絵を描く上での共通認識や既成概念が何もない中で描いた事を考えれば、あの絵を描くに至った表現力は驚嘆すべきものがある。馬の絵とは馬を現す記号だ。太古の絵を描いた原始人は、馬を記号化する方法を自ら独力で考案した事になるのだ。

 またこの絵が描かれた時点では、おそらく馬が躍動する様子を描く手法は出来ていなかった。そこで後世の人間は、単に記号化しただけだった絵に新たな工夫を加えるカタチ(図3)で、馬が躍動する様子を描き得るようになった。この表現上の工夫が発達したものがマンガである事は、みなさんもすでにご存じの事と思う。だがそれは決して本当の馬の姿でも、実際の馬の動きでもない。動きを表現するための工夫も、また一種の記号でしかないのだ。

 実はこのリアルでない、デフォルメされた絵の描写というのは、絵の緻密さの差こそあれどんな絵にも言えることなのだ。西洋における細密で写実的な油絵でさえ、実はどこかでデフォルメが行われている。そして、それが何かを認識するための共通認識も確立している。逆に記号化がさらに進んで象徴性が強くなり、しかもそこに画家の独自性が強く反映して人々が共通認識を築きにくくなったものが、いわゆる難解な抽象画の類だと言えるのかもしれない。例えば日本人にはすぐにピンと来る温泉マークが、他の国民にとっては単なる無意味な図形である事を思い起こしていただければ、これはすぐにお分かりいただけると思う。

 アニメにおいても「記号化」という問題はつきまとい、むしろ事情はさらに複雑化してくる。確かにそれは一枚一枚をとれば絵だ。だがそれを動かすにあたっては、ある種のリアルさを要求される。しかも、実はどこまで言ってもその動きは「本当のリアル」にはならない。もしそれを追求していったら、絵である要素とケンカせざるを得なくなるからだ。絵でもない、実写でもない。そのバランス感覚が要求される。だからアニメとは、実は単に動く絵=マンガではないし、動く実写を絵に変えたものでもない。強いて言うなれば、その中庸の地点で宙ぶらりんになった表現だ。アニメの動きとは「リアル」でない、あくまでアニメのための「記号化された動き」なのだ。

 少々脱線するが、アニメ的手法を実写映画に反映させた「マトリックス」シリーズが、登場人物に空洞感のある無表情キャラを要求したのも、実はこの問題と無縁ではないと僕は考える。例えばCGで描かれた立ち回りの見せ場で、わざわざ主人公の表情がわかりにくいサングラスをかけていたあたりを想起いただきたい。そこにはおそらくCG表現の限界という問題もあっただろうが、いわゆるアニメ的描写を実現したい狙いがあったのではないか。アクションをほとんどCGで描いた「スパイダーマン」あたりも、完全に覆面キャラだからこそ実現した描写である可能性が濃厚だ。つまり、現実離れしたアニメの動きを実写に取り込もうとした結果、主人公たちがどこかデフォルメされた記号化キャラであることが要求されたのだと思う。

 それはさておき、何でこんな事をクドクド並べ立てたかと言うと、今回の「ファインディング・ニモ」の素晴らしさがこうした前提の上にあると思うからだ。キャラとしての特異性を持った海の魚という難物を使って、記号である絵を現実との中庸地点で動かすアニメの限界に果敢に挑戦したこと。そこが最大のポイントであると考えるからだ。

 何しろ主人公は魚だ。おおむね左右対照に平べったい体型だけに、顔の造作の作り方が極めて難しい。一枚の絵ならいざ知らず、アニメとしてはたぶんかなり擬人化困難な生き物ではないだろうか。そして何よりアクションが難しい。手足がないということは、動く映像であるアニメという分野においていかにハンディになるか考えていただきたい。魚を擬人化したとして、その顔の造作にまず限界がある。おまけに身振り手振りが難しい。この映画ではヒレを手の代わりに使ってはいるが、それとても限界はあるだろう。そして何よりピクサーの一連のアニメは、壮大な冒険アクションだ。あの手この手の設定で危機を突破し、困難を打開するアドベンチャー物語だ。そこで主人公が手足を使えない不自由さを考えていただきたい。しかも終始フワフワと水中を浮遊する状態である事も考慮していただきたい。これはホントに頭を痛めちゃう設定だと思うよ。

 単に魚の動きを模した動きを得るだけなら、実際の魚の動きのデータをコンピュータに取り込んでCG化すれば事足りる。それは造作もない事だろう。だがこれは記号化された絵の動きだ。デフォルメされた絵=記号と、ケンカしないような動きが必要になる。

 しかも擬人化されたキャラの動きだから、当然の事ながら実際の魚にはあり得ない人間的感情表現や動作が要求されてくる。そのプロセスでは、人間との体型的類似点が多い4本足の一般動物とは違った、独得な動きの難しさがあるはずだ。しかも、それがさまざまなアクションに挑戦する。そこにかなりの技術とセンスが必要になってくるあたりがお分かりいただけると思う。

 元々、魚を主人公にしたアニメやマンガが極めて少ないあたりからも、それらの表現の難しさが伺える。ディズニーですら「リトル・マーメイド」ぐらいしかないんじゃないか。

 この映画ではそれぞれ魚の種類を変え、色を変えて何とかキャラの区別を実現しているが、主人公父子が同じ種類の魚というだけで困難が立ちはだかる。父子ということで双方の大きさを変えただけでは足りず、息子の方の片方のヒレを極端に小さくした事情は、おそらくそんなところから生まれたんだと思うよ。単に擬人化と言っても、プロにとってさえ難しい問題があったはずだ。

 だからピクサーにとって今回の最大の挑戦は、決して海のCG表現なんかじゃなかったと思う。全編魚出ずっぱりの、魚が主役キャラの大スケールのアクション作品をつくったということ。実はそこが最も大胆不敵な点だったと思うのだ。

 そんなピクサーが、次にいよいよ人間がメイン・キャラの作品をつくると言う。この新作にこそ、今回苦労したさまざまなノウハウが、十二分に活かされる可能性があると思うんだよね。

 

 

 

 

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