「シービスケット」

  Seabiscuit

 (2004/02/09)


  

古き良きアメリカ映画こそわが王道

 僕がアメリカ映画が好きだということは、このサイトで何度も言って来たよね。それはたぶん、子どもの頃にテレビで浴びるほど見せられた、かつてのアメリカ映画の数々によるものであることも。「怒りの葡萄」「荒野の決闘」「駅馬車」「我が道を行く」「グレン・ミラー物語」「長い灰色の線」「或る夜の出来事」「オペラハット」「黄色いリボン」「サムソンとデリラ」「情婦」「お熱いのがお好き」「シェーン」「大いなる西部」「ローマの休日」「シャレード」「パリのアメリカ人」「雨に唄えば」「北北西に進路を取れ」…たぶんまだまだあっただろうが、そんな古き良きアメリカ映画の珠玉の作品が、ザッと思い出してもすぐに脳裏をよぎる。

 映画をたくさん見るようになってからも、時折見るアメリカ映画の旧作はいつも僕を楽しませた。

 実はいまだに僕が映画を見るときの基本にアメリカ映画を置いているのは、変わり果てて見えるハリウッド映画の中にも、そんな古き良きアメリカ映画の味わいが界間見える時があるからだ。

 例えば僕は、あの「スーパーマン」と「スーパーマンII/冒険編」がとても好きだ。こんな事を打ち明けたら映画好きとしては馬鹿にされてしまうかもしれないが、好きなものは好きだから仕方がない。そして、それを好んだのは特撮大作だったからだと公開当時は思っていたが、その後僕はどうも違うんじゃないかと思い始めた。僕がさまざまな旧作を改めて見た時に、それはハッキリした。僕はあの映画のスーパーマンというよりクラーク・ケントとロイス・レーンのやりとりを好ましく思っていたのだ。そこにはわずかながらも、往年のフランク・キャプラとかエルンスト・ルビッチとかの味わいがほんのりとあったんだよね。で、だからこそそんな味わいをなくした「スーパーマン」の三作目、四作目には、僕はハナっから何の愛着もないのだ。

 そんなアメリカ映画らしさは、常にアメリカの良質な娯楽映画の中に生き続けている。「スター・ウォーズ」だって「ロッキー」だって、あの「ターミネーター」にだって息づいている。実はアメリカ映画だけでなく、最近のアキ・カウリスマキの「過去のない男」だってカロリーヌ・リンクの映画だってそうだ。香港映画の珠玉の恋愛映画「誰かがあなたを愛してる」「ラヴソング」だって、イギリスの「フル・モンティ」だってアメリカ映画を意識している。だから僕はアメリカ映画が好きなのだ。

 イマドキのアメリカ…と言えば、ロクな話がない。どちらかと言えば世の中全体にアンチ・アメリカ気分が漂っている事は否めない。僕もアメリカン・スタンダードを無神経に押しつけてくるアメリカイズムがイヤだ。あの単純さ幼稚さ、安っぽい上昇志向や強さ信仰、アバウトさやデリカシーのなさには閉口させられる。

 だが彼らの幼稚さ単純さは、見方を変えてみれば彼らの美点でもあるのだ。彼らの精神構造には基本的に「若さ」があるような気がしてならない。それがいまや世界のトレンドの「若さ」信仰に結びついているのはいささか病んだ現象だと言えるが、精神的な若さは決して悪い事ばかりではない。彼らの向上心や解放性、楽観主義や理想主義や純朴さは、今でも決してその輝きを失っていないはずだと思う。確かにそれらは彼らの忌まわしい性質と両刃の剣の部分もある。それでも分かったような達観やペシミズムよりは、僕はそれを好ましく思う。どっちかと言えば、そんな彼らの美点を僕は自分の中にはない長所だと羨んでいるんだよね。

 要は彼らがその自分たちの美点を、うまいかたちで引き出せていないのが問題だ。だから僕は、安易なかたちでのアンチ・アメリカは訴えたくない。それは偏狭で単細胞的な考え方だと思うし、とても不毛な事に思えてしまうのだ。

 そして世の中は…何よりアメリカ自体は、今こそそんなアメリカらしい美点を必要としていると思うんだよね。

 

失意の男たちが一頭の運のない馬に導かれて

 1910年、アメリカ。自動車の流れ作業による大量生産はすぐに他の産業にも波及し、国中が好景気に沸き返る時代。自転車修理工として食い扶持を稼いでいたジェフ・ブリッジスは、一念発起してニューヨークからサンフランシスコに渡り、念願の自転車店を開いて独り立ちする。だが悲しいほど客は来ない。待ちくたびれて居眠りするブリッジスの前に、一台のエンコした車が停まったのはそんなある日のこと。その車の持ち主は壊れたクルマに音を上げ、一縷の望みを託してこの自転車屋にやって来た。「これを直せるか?」

 まったく何の根拠もない虚勢と空元気でクルマの修理を引き受けたブリッジスだが、所詮は素人。エンジンを分解したあげく途方に暮れて、作業場で一人呆然と座り込む。だが天啓とはこの事だろうか、ブリッジスは再び立ち上がり、エンジンを猛然と組み立て直し始める。例の客が戻って来た時、ブリッジスは自信満々に語った。「故障は直しました。ちょっと改良しましたから、もっとスピードが出るようになりますよ」

 これがブリッジスの掴んだ最初の幸運だった。

 この経験から自動車の魅力と将来性に目をつけたブリッジスは、自動車業界に打って出て大成功を収める。やがて彼は全米でも有数の自動車ディーラーとして地位を築き上げた。

 その頃、西部の荒野を一人のカウボーイが馬を駆って走り続けていた。彼の名はクリス・クーパー。孤高のカウボーイである彼は、馬と共に生きる西部男そのものだった。だがそんなクーパーも老いる。そんな彼を追い詰めたのが、無限の荒野であった西部の急速な開発だった。やがてクーパーは「ワイルド・ウエスト・ショー」一座の馬の調教師に身をやつすが、それでも馬といられるだけいいと自らを慰めるのだった。

 その頃自動車産業の一翼を担って富を築いたブリッジスが、実はクーパーを追い詰める原因の一端をつくっていたとはお互い夢にも思わない。得意の絶頂のブリッジスは「自動車こそ未来だ」をモットーに、クルマを売りに売りさばいた。西部の牧場を大金で買い取り、そこに広大な屋敷を建設。元々あった厩からは馬を追い出し、レーシングカーを運び込んだ。

 一方カナダのアルバータ州では、一人の少年が乗馬に励んでいた。豊かな暮らしの中で両親の愛を一心に受けて育ったこの少年は、父親に乗馬のセンスを見出される。それでも父親は彼に本で教養を身につけさせる事だけは怠らなかった。

 そんなある日のこと、青天の霹靂が起こった。ニューヨークで株の大暴落が起きたのだ。これはたちまち大恐慌時代へとなだれ込む。多くの人々が職や財産を失い、失業者が街に溢れ返った。

 ブリッジスの事業も大打撃を被ったが、それでも何とか持ちこたえようとしていたある日、彼を最大のショックが襲った。最愛の息子が自動車事故で死んだのだ。何も手がつかなくなり、屋敷に閉じこもる日々。レーシングカーを運び込んだ厩も閉ざされた。いつしか妻との仲も思わしくなくなり、彼女は屋敷を出ていってしまう。

 その頃、例の乗馬のセンスを磨いていた少年にも災難が訪れていた。彼の両親は大恐慌の犠牲で財産を失い、家を失って浮浪の生活を続けていた。両親は草競馬の馬主に少年を託し、泣き叫ぶ彼を置いて去ってしまう。少年に残されたのは父親が手渡した何冊もの本だけだった。

 少年はその後逞しい若者トビー・マグワイアとして成長し、草競馬の旗手として生計を建てる。だが暮らしはラクにならない。ついつい素人拳闘の真似事をしても、袋叩きに合ってしまうテイタラクだ。

 1933年、メキシコのティファナ。この街は世間の冷え込みとは逆に、異常な活況を呈していた。酒、女、バクチ…人々の気持ちが荒む中で禁酒法政策をとるアメリカから、人々はこの国境の街に一時の快楽を求めにやって来るのだった。そんなこの街に、あのジェフ・ブリッジスも来ていた。離婚後の傷心を慰めようと、友人たちがお膳立てしてくれた気晴らしの旅だ。だがブリッジスの気持ちはすぐれない。闘牛を見ていても痛ましさに見ていられず、ついついその場を出てしまう。そんな彼に近づいて来たのは、一人の若い女だった。

 彼女エリザベス・バンクスは、ブリッジスの旧知の知り合いだった。彼女はブリッジスの胸中を見てとって、思いやるように話しかける。そんな二人が急速に近づいていったのは、いわば必然だと言える。アッという間にバンクスと結婚したブリッジスは、彼女の薦めで乗馬を楽しむようになった。やがてブリッジスは馬を単なる楽しみ以上に考えるようになる

 その頃、騎手として連戦を続けるマグワイアもこのティファナの地に来ていた。レースには「アイスマン」との異名で知られる騎手の貴公子ゲイリー・スティーブンスも来ていた。実は「アイスマン」スティーブンスはマグワイアの大の親友だ。だがレースではいつもこの「アイスマン」に勝てないマグワイア。素質はあるのに活かせないマグワイアは、苛立ちを酒に紛らわすしかなかった

 競馬馬の馬主になることを真剣に考え始めたブリッジスは、友人と共に厩舎を見て回る。そんなある日、ブリッジスは一人で馬を手入れしている風変わりな老人クーパーに目を奪われる。周囲からも変人と見られるこの老カウボーイを、一体いかなる理由でブリッジスが目に留めたのか。ともかくブリッジスは夜野宿するクーパーの元を訪れ、彼に親しげに話しかけた。さらにブリッジスが目に留めたのは、クーパーが連れている足を傷つけた一頭の馬だ。クーパーの手当で足のキズは癒えたものの、もはや競走馬としては走れない。競走馬生命が絶たれた馬は、ほとんど安楽死をさせるのが世の常だ。なぜクーパーはこの馬を生かしていたのか?

 「ケガをしたからといって、命を奪う事はない」

 それがブリッジスの心を捕らえたのか、彼はクーパーの自らの馬の調教師として雇い入れるのだった。

 そんなクーパーはある日、競馬場で一頭の馬に目を惹きつけられる。その馬の名はシービスケット。優れた血統を誇りながらも気性が優しく小柄なこの馬は、さまざまな厩舎をたらい回しにされながら、その都度馬主の失望を買っていた。やがて手荒な扱いから気性が荒れて、いまや誰も手がつけられない荒馬となる始末。いわば見捨てられた存在になりかけていた。だが、クーパーはその中に潜む素質を見逃しはしなかった

 しかしシービスケットはブリッジスの持ち馬となったものの、荒馬の根性は治る気配を見せない。やっと連れてきた騎手も怖じ気を震って逃げ出すアリサマ。ホトホト手を焼いたクーパーがふと振り返ると、厩舎で何人かの男どもと荒れ狂ってケンカしているあのマグワイアが目に入った。

 暴れ馬には暴れ騎手か。

 こうしてマグワイアはチームの一員となった。そしてクーパーの勘は見事に当たった。マグワイアはシービスケットに怯えるどころか、何とアッという間に手なずけてしまうではないか。

 早速シービスケットを走らせてみる一同だが、とにかく荒っぽい走りでムダが多い。だが早いことは早い。この荒れグセだけを抑えられれば…こうしてシービスケットを競走馬に戻す訓練が始まった。

 こうしてシービスケットは競走馬としての初陣を迎える。クーパーはマグワイアに細かに作戦を伝授した。各馬一斉にスタートを切って間もなく、シービスケットは順調な走りを見せた。

 こりゃいける!

 ところがそんなシービスケットとマグワイアを、別の馬に乗った騎手が煽りに煽る。妨害されたマグワイアは逆上。せっかくのクーパーの作戦も無視して無茶な走りをしでかした。結果惨敗を喫するシービスケット。競馬実況ラジオ・アナのウィリアム・H・メーシーにも、さんざオチョくられてしまう。

 このマグワイアの暴走に怒りに怒るクーパー。だがマグワイアは悪びれもせず、「あいつが妨害した、やり返してなぜ悪い」と逆ギレする始末。さすがのブリッジスもそんなマグワイアのキレっぷりに首をひねるばかりだ。「君はどうしてそんなに怒るんだ?」

 今までつらい思いばかりして失意ばかり味わって来たマグワイア、社会の不条理さと辛酸をなめ尽くした彼は、自らの中に沸き上がる怒りを抑えきれない。そんなマグワイアをブリッジスは忍耐強い態度で支えるのだった。

 そんな中で落ち着きを取り戻したマグワイアは、再びシービスケットに騎乗してのレースで見事な勝利を収める。それはまさに鮮やかな走りだった。それからは連勝街道まっしぐら。するとどん底から這い上がってきたシービスケットに異様な人気が高まり出す。競馬場では安席が満杯。入りきれない人々は木の枝に登っても観戦した。そう、失意に打ちひしがれていた人々は、シービスケットに自らを鼓舞されるごとく熱い共感を示し始めたのだ。ブリッジスもそんな大衆の気持ちを敏感に察知したか、それとも自分の思いをも託したのか、マスコミに熱く語り始めた。「こいつこそが未来なんだ!」

 さらに意気上がるシービスケット陣営は、東部の名馬ウォーアドミラルとの対決を持ちかける。恵まれた名門のウォーアドミラルと這い上がりのシービスケット。それはまさに対照的な一騎打ちだ。それこそ大衆の望むものに違いない。

 だがウォーアドミラル陣営は、そんなブリッジスの挑発には応じない。競馬の本場・東部の名馬ウォーアドミラルは、馬主からしていいとこの大富豪。ポッと出の西部の成り上がり馬など相手にせず…とばかり、馬鹿にした発言を繰り返す。これにはブリッジスもキレた。彼は知人の競馬場経営者を口説き落とし、東部の名馬を揃えたビッグ・レースを企画する。そこに単身シービスケットが殴り込みだ。

 だがそれでもウォーアドミラル陣営は無視を決め込んだ。ともかく名馬が揃ったこのレースで勝てば文句は言えまい。シービスケット陣営はこのレースにすべてを賭けた。

 案の定、名馬たちを後目に一歩も退かぬシービスケット。それどころかダントツでトップに躍り出て、誰もが勝利を確信したその時…。

 後方から駆け抜けて来た一頭の馬に、ゴール直前で逆転されるシービスケット

 試合後、今度ばかりはクーパーも怒り心頭。なぜ後方からの馬の追撃を察知しなかったとマグワイアを責める。最初はとぼけていたマグワイアも、クーパーの鋭い追求についに真相を吐いた。「オレの右目は見えないんだ!」

 片目が見えない騎手。それは重大なハンデだ。そして何より、クーパーはマグワイアがその事を黙っていたのを問題にした。「オレたちの騎手はウソをついていたんだ!」

 だが、そんなクーパーにブリッジスは、静かに言い聞かせるように語りかけるのだった。

 「ケガをしたからといって、命を奪う事はないだろう?」

 

アメリカ映画の良質な部分を体現した作品

 不思議と正月映画や正月第二弾作品には、ここのところアメリカの古き良きムードが充満する良心作が公開される。一昨年には「オーロラの彼方に」、昨年は「オールド・ルーキー」。どちらもデニス・クエイドという、極めてアメリカ的な体臭のする役者が主演していい味を出していた。そして今年はデニス・クエイドこそ主演していないが、やはりアメリカの臭いが充満する作品「シービスケット」…。

 見る前からソコソコいい感じの作品じゃないかと期待が持てたけど、思った通り。実に気分のいい映画が登場した。面白い。そしてなかなか泣ける。さらに味がある。

 それにしても、迂闊な事に僕はこの映画の監督ゲイリー・ロスが、あの佳作「カラー・オブ・ハート」をつくった人であることを忘れていた。この「シービスケット」を見た後で気づいて、なるほど…と唸ったよ。確かにこのアメリカの古き良き美点を前面に押し出したつくりは、この監督ならではのものなんだよね。

 さらにこの人が脚本で参加した「ビッグ」「デーヴ」などを見てみれば、それはさらにハッキリする。いかにもフランク・キャプラ・テイストの作品群ではないか。この人は失われつつあるアメリカ映画の良質な部分を、今に受け継いで再生産している人なんだよね。

 この映画はまさに、アメリカ映画のハートにズバリと直球ストレートで投げ込んで来たような映画だ。

 失意の人の再起、未熟者の成長、弱き者たちの連帯、劣勢からの勝利、不屈の闘志とそれが生む奇跡…それらはいずれもアメリカ映画が好んで扱ってきた題材であり、輝かしきアメリカ映画の財産でもある。いや、別にフォードやキャプラなんか引き合いに出す事はない。今だってそれらはアメリカ映画に生きている。「ラストサムライ」だって「ロード・オブ・ザ・リング」三部作だってそうだ。いやいや、アメリカ映画にとどまらない。黒澤明のかつての名作群だってそうだし、先に挙げたカウリスマキの「過去のない男」も、カロリーヌ・リンクの「点子ちゃんとアントン」「名も無きアフリカの地に」もそうだ。言わば映画の王道、基本中の基本がそれだ。

 それは僕が愛して止まない映画の基本なのだ。

 この映画の物語が、映画のための脚色を経ているとは言え実話であるというのは、まさに驚嘆に値する。実は僕はこの映画を見る前に、なかなか良さそうな題材だと思いながらも、ソコソコいい感じ…ぐらいしか期待していなかった。で、事実途中までなるほど…と思いつつ、自分の予想の範疇に留まる映画だろうとタカをくくっていた。だが物語は僕が上記したストーリー以降、さらに一山、二山、三山ぐらいいろいろあるのだ。それが実話をベースにしたものと言うから驚かざるを得ない。そしてそんな奇跡のような物語をウソくさくなく語るのを、最も得意としているのがアメリカ映画なのだ。

 それは何だかんだ言ってもアメリカ人の中に、楽観主義や理想主義、純朴さが基本的には染みついているからなんだろう。悪く言えば単純、単細胞って事にもつながるんだろうが、彼らはこうしたドラマを語る時、そこに疑いを持ち込まない。明らかにそんな奇跡を信じている。そして照れを見せずに真っ正面から描き出す。それは皮肉じゃなくてアメリカ映画の良い資質なんだろうと思うんだよね。

 だからゲイリー・ロスが揃えた役者たちの顔ぶれも嬉しい。トビー・マグワイア、ジェフ・ブリッジス、クリス・クーパーという男優三人の顔ぶれがいい。演技力云々以前に、アメリカの体臭を感じさせる役者たちだ。この中で若いマグワイアはまだしも屈折を感じさせるが、それでもあの秘めたイノセンスはアメリカ人の純朴さだろう。ジェフ・ブリッジスは若い頃からアメリカンそのものだった。老けてからの味わいも捨てがたい。クリス・クーパーはいささか作り過ぎた芝居と言えなくもないが、それでも彼が醸し出す西部そのものの臭いはリアルだ。まるで「ライトスタッフ」のサム・シェパードがプンプンさせていたような、カウボーイの臭いがプンプンしている。

 脇に競馬実況アナとしてウィリアム・H・メイシーを配しているのも見逃せない。この人の味こそ安っぽさケバさ俗っぽさも含めたアメリカ独特のものだ。それだけでも、この映画はアメリカ映画の直球でいくぞ…という気概を感じさせてくれるのだ。

 この映画ではこの競馬実況アナが狂言回しとして登場する傍ら、別に時代の代弁者として歴史作家のデビッド・マックロウなる人物がナレーションを入れている。最初NHKの教養番組みたいなナレーションがところどころ割って入る事で違和感を感じさせたが、シービスケットが時代の体現者のように大衆に支持されてくるあたりで、その意図が明白になる。そういう意味で、もう一人の狂言回しとしてこのマックロウを起用したのは正解だったかもしれない。まぁ、同じNHKでも「プロジェクトX」の田口トモロヲみたいなもんと考えればいいだろうか(笑)。

 印象的なのはジェフ・ブリッジスの馬主を支える妻の役を演じるエリザベス・バンクス。僕はこの女優さんをよく知らなかったが、今回は控えめながらも要を押さえる賢夫人ぶりで印象に残る。なかなか味のある女優さんが出てきたものだ。

 そんなドラマと演技の充実ぶりもさる事ながら、ディティールの凝りようや見せ場の盛り上げについてもさすがにアメリカ映画は怠らない。この時代の時代色を見事に再現して、分厚さを出している。CGも駆使しているのだろうが、この厚ぼったい時代再現には圧倒された。競馬場に詰めかける大群衆など、映画の盛り上がりも見事に支えている。

 そして競馬シーンの迫力。今回クレーンやら撮影車を駆使しての撮影の見事さもさることながら、何よりドルビー・デジタルの音響がモノをいっている。馬のヒヅメが地面を蹴立てる音の迫力は、競馬シーンをいやが上にも盛り上げているんだよね。

 まぁこの映画、すごくアメリカ映画らしいアメリカ映画で、しかもアメリカ映画の美点を最大限に生かしたような作品だ。辛い言い方をすればそれ以上でも以下でもない。鋭い演出とか映像感覚がどうの、秀逸な視点がこうの…って言われれば、それはハッキリ言って望むべくもない。だから映画史の新たな1ページを切り開く作品でも、マニア心を捕らえる作品でもない。世界の映画祭で絶賛って手合いの映画でもないだろう。

 そして僕が結構気に入った理由の多くも、実は個人的に僕自身が抱いている感情に負うものだと言わざるを得ないかもしれない。本当は大した事ではないのかもしれないが、僕も僕なりに辛酸をなめたと思う事もある。…というか、今なめつつあると言ってもいいかもしれない。それのアレコレをここで並べるのは、みなさんも耳にタコだろうから割愛する。でも、自分なりに築き上げてきた人生の理想が覆りそうな時だったからこそ、この映画がとても嬉しく感じられた。だからこんな物語に共感の度合いが強いのも致し方ないとは思う。ひょっとして、今年の終わりにはこの映画のことを忘れ去っているかもしれない。

 それでもこの映画が、アメリカ映画の最良の部分を見せてくれた作品である事は間違いない。そして多くの人々が映画に望んでいるものを、確実に見せてくれる作品であることも。ベストテンとか映画賞とか批評家受けとかはどうなのか知らないが、この映画に接した事を幸せに思う人が…少なくとも劇場に足を運んで切符を買ったり、公開後にレンタル・ビデオ屋さんでビデオかDVDを借りたりして良かったと思う人が、きっと世の中には大勢いると僕は信じてやまないんだよね。

 そして、映画にはそれが一番大切なことじゃないかと思うのだ。

 

 

 

 

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