「ミスティック・リバー」

  Mystic River

 (2004/01/19)


  

今回のマクラ

 長い間、映画を見てくると、時には奇妙な事に出くわすこともある。まぁ、数のうちには…ってことなんだけどね。その奇妙な事の最たるものとしては、世評が異常に高い映画を見たら、ちっとも良くも面白くもなかった…というやつだ。

 実際のところ、僕は世評が高いから…大ヒットしてるからケナすという、映画ファンにありがちな傾向って恥ずかしい事だと思っている。それって自分は「一般大衆」とは違うという選民意識の現れだったり、とりあえず分かった風な事を言いたいがためだったり、まずはロクでもない動機から始まっていることが多いからね。自分でも時々それをやっちゃってる気がしてイヤな気分になることがあるよ。

 それでも数ある映画を見ていくうちには、何でこれがこんなに評価高いんだろう?…と思わざるを得ない映画もある。あるいはいい出来だとは思うけれども自分はノレないという映画。

 そういう映画の代表格と言えば、まずはヴィム・ヴェンダースの「パリ、テキサス」が挙げられるだろう。この映画には僕はすごく期待したんだよね。ハリー・ディーン・スタントンとナスターシャ・キンスキーという顔ぶれも良ければ、ライ・クーダーを音楽に起用したセンスも気に入った。これは面白いはず…と勢い込んで見に行ったら、まるでピンと来なかったわけ。これのどこがそんなに面白いんだろう?

 あるいはデミ・ムーアが大スターになった「ゴースト/ニューヨークの幻」。死んだ男が霊となって愛する女を見守る話、そこにオールディーズのポピュラーソングをハメ込んで…とくれば、どう考えたって面白くなりそうなものだ。ところがこれもいけなかった。全然面白くない。これだけ面白そうな素材や要素をかき集めて、これほどハズしてる映画も他にはないんじゃないか? 同系統の趣向でつくられたスピルバーグの「オールウェイズ」の方が、まだしもいくらか面白味はあったよ。

 結局どうしてこういう現象が起きるかと言うと、まずは受け手の僕の側から考えれば、見る前に大きすぎる期待が出来上がっちゃうことが挙げられるかもしれない。あるいは実際とは別の方向の期待が出来上がって、見たら全然違う映画なんでガッカリ…とか。

 もっとマズい場合は、単純に見る側の僕の感性が枯渇してしまったということもあり得るよね。そこまでいかないにしろ、その日むしゃくしゃして面白くなかったとか、温度湿度の関係や、腹が痛かった睡眠不足だったなんて事も理由になるかもしれない。

 だが、実は映画をとりまく状況に問題がある場合も多々あるんじゃないだろうか?

 もちろん人の好みは十人十色。ホメもケナシも人によりけりなのは百も承知。それでもあまりに世評と自分の感覚とが食い違った時には、さすがにそれがなぜそうなったのか?…を突き詰めたくなるね。

 特に俳優もいい、芝居もいい、お話もいい、演出も丁寧で誠実さに溢れている…言ってみればどこにもキズが認められないし、当然のごとく世評も抜群にいい、そんな映画に自分がまるでノレなかった時にはね…。

 

 

 

 

 

 

 

この感想文では映画を見てからお読みください

 

 

 

 

 

 

 

見る前の予想

 クリント・イーストウッドの最新作が、自身の出演しない監督作であること、その作品がミステリ小説の映画化で三人のクセ者スターの競演作であることを知った時に、僕は見たくてたまらなくなった。その前作にあたる「ブラッド・ワーク」(2002)がアッという間に終わって見れなかったこともあって、今度こそは見逃せないと思ってたんだよね。

 巷の評判がこれまたすこぶる良くて、オスカーへの最短距離にある映画だとか言われている。僕も近頃ではオスカー云々で作品選びをすることはなくなったものの、この評価の高さには目を見張った。まず題材が良さそうだ。三人の幼なじみが大きくなってから殺人事件を介して再会する話…まずはそれだけでグッときそうな話ではないか。僕はこういう因果話に弱いのだ。それを「許されざる者」(1992)以来ますます渋みを増したイーストウッド演出で撮る。しかも主演がショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケビン・ベーコンという三人だ。そこに脇でローレンス・フィッシュバーン、マーシャ・ゲイ・ハーデン、ローラ・リニーが配される。どう考えても良さそうな予感だ。

 公開が近づくにつれて、お話もだんだんと明らかになっていった。ショーン・ペンが娘を殺された男、ティム・ロビンスがその容疑者、ケビン・ベーコンが事件を捜査する刑事。ミステリではあるが謎解きに主眼は置かれてないとの世評だが、これはもっともだろう。ある少年時代の不幸な事件がその根底に横たわるとくれば、なおさらだ。そして、もう見る前からこの作品のテーマが、「イノセンスの喪失」であろうことは想像がつく。

 ならばやっぱりこれは僕が見なければいけない映画だ…と決めてかかって、勢い込んで劇場に駆けつけてみたのだが…。

 

あらすじ

 かつてボストンのダウンタウンあたりに、幼なじみの三人の少年たちがいた。毎日一緒に遊んでいた三人だったが、そんな彼らに不幸な出来事が起きる。路上でちょっとしたイタズラに興じていた三人が、「刑事」と自称する二人の男に呼び止められる。そのイタズラをとがめた「刑事」たちは、三人のうちの一人を自分たちのクルマに押し込めて連れて行ってしまう。残りの二人は、彼が連れて行かれるのをただ黙って見ているしかなかった。その男たちが実は「刑事」などではないことは早晩明らかになる。

 男の子は「刑事」と自称する男たちの住処に連れて行かれ、そこに閉じこめられながら弄ばれ続けた。4日後、隙を見て逃げ出した男の子は無事保護されたが、もはや彼と残りの二人の少年との間には、埋めがたいミゾが出来上がっていた…。

 それから25年。

 拉致された男の子ティム・ロビンスは、妻マーシャ・ゲイ・ハーデンと共に一人息子を愛する中年男になっていた。街には残された男の子二人のうちの片割れショーン・ペンも暮らしていて、雑貨商を営んでいた。妻ローラ・リニーと何人かの子どもに囲まれた幸せな日々。中でも19歳の長女エミー・ロッサムは目に入れても痛くないほどの可愛がりぶり。

 そんな彼女には恋人トーマス・ギーリーがいたが、なぜかショーン・ペンが彼を毛嫌いするので陰に隠れてつき合っていた。彼女はその夜、友人たちと飲めや歌えの大騒ぎ。そんな彼女たちを大騒ぎぶりを見ていたのは、たまたま同じ店で飲んでいたティム・ロビンスだった。

 その夜も更けてからロビンスが帰宅した時、妻のハーデンは思わず目を見張った。なぜか深手を負って血だらけになっているロビンス。彼の説明ではいきなり暴漢に絡まれたとかで、思わず正当防衛で相手をブチのめしてしまったとか。それもひょっとしたら殺してしまったかもしれない激しさで…。だがロビンスの言うことはまるで一貫性がない。妻ハーデンは胸の中に不安が広がっていくのを隠せない。

 翌朝、娘ロッサムが帰宅しなかった事で、父親ペンは内心穏やかではない。そして、その予感は的中した。

 市内の公園近くで一台のクルマが乗り捨てられている…との通報があった。しかも車内は血だらけ。駆けつけたのは殺人課刑事ケビン・ベーコン。何と彼もまた、あの三人の少年のうちの一人だった。ベーコンが相棒刑事ローレンス・フィッシュバーンと現場に着いてみると、何とクルマはペンの娘ロッサムのものと分かる。かつての幼なじみの娘のクルマと聞いて動揺を隠せないベーコンだが、フィッシュバーンにはなぜかペンのことを「友だちでも何でもない」とつれなく語る。

 やがてロッサムの死体は無惨なカタチで公園内で発見された。そこに虫の知らせで駆けつけ、半狂乱で号泣するペン。ベーコンにも彼にかける言葉がなかった。

 ベーコンとフィッシュバーンによる事情聴取でも、高ぶった感情を抑えきれないペン。それでなくてもキレやすい性格のペンは、たまたま話が自分の前科に及ぶや完全に怒り狂ってしまう。ペンは一度刑務所に服役した事のある「前科者」だった。しかし今は完全に更正して、よき夫よき父親となっているはず。そんなペンを色眼鏡で見るフィッシュバーンに、ベーコンはついつい声を荒げて反論するのだった。

 それぞれの妻リニーとハーデンが従姉妹同士ということもあって、ロッサムの葬儀を機に旧交を暖め合うペンとロビンス。だがハーデンは内心ロビンスに怯えていた。あの夜のロビンスの様子は尋常ではない。彼が殺すほどブチのめしたという男の死体は発見されていない。その代わりにあの夜は、偶然にもペンの娘ロッサムが殺された。しかもあの夜を境に、ロビンスの言動がおかしくなっていく。ひょっとしたら…という疑念を隠しきれないハーデンだった。

 一方ペンは娘の敵討ちを自分の手で行おうと、昔からのよからぬ仲間たちに助けを求めていた。この連中が警察に先んじて聞き込みを行っているので、ベーコンとフィッシュバーンはやりにくくて仕方がない。

 そんなベーコンとフィッシュバーンは、ロビンスがあの夜に殺されたロッサムを目撃している事を知った。さらに怯えた妻ハーデンの不審な挙動にも気づいた。ロビンスが怪しいと睨んだフィッシュバーンは、彼を任意同行で警察に引っ張り事情聴取を試みる。フィッシュバーンはともかく、ベーコンは彼の事を疑いたくはなかったが、ロビンスのクルマには血がベットリと付着してもいた。だが、結局は証拠不十分でロビンスを放さざるを得ないフィッシュバーンだった。

 そんなロビンスの任意同行は、思わぬ波紋を投げかける事になった。ペンと仲間たちの知ることとなったのだ。しかもそんなペンに、ロビンスの妻ハーデンが夫への不安と疑いを訴える。これでロビンスが犯人と確信したペンは、彼の身柄を仲間たちに押さえさせてしまう。

 だがその頃ベーコンとフィッシュバーンは、ロッサムを殺した凶器から思わぬ事件の真相を手繰り寄せていたのだった…。

 

見た後での感想

 映画が始まってからずっと、僕は地味で淡々とはしているが味わい深い演出に感心していた。やはり予想通り「許されざる者」以来渋みを増したイーストウッド演出だ。三人の主役たちもいい。これはきっとしみじみと胸に迫る悲劇になってくるんだろうな。

 お話も後半に差し掛かると、運命の皮肉が効いた展開になってくる。なるほどなるほど、やっぱり「イノセンスの喪失」だ。

 だが映画はそのまま終わってしまう。「イノセンスの喪失」をグッと胸に刻み込み、感情が持って行かれるような結末を期待していた僕は、正直言って肩すかしをくったような気がした。アレレ? これで終わっちゃうの?

 いい映画を見た…という気はする。よく出来ているとも思う。だけど何かモノ足りなく思うのは僕だけだろうか? あの世評の高さ、そしてたった今目撃した映画が「いい映画」のはずである手応えも感じながら、なぜか見終わった後に何も残っていないような気がするのはどうした事だろう? オレがニブイのだろうか?

 見た後、もう一回気持ちを整理してみる。主演の役者たちはどれもこれも良かった。ショーン・ペンは正直言って十八番の役どころで、激情の見せ方も何かももかつての彼のさまざまな作品を彷彿とさせるもの。後半になって姿を現すこの男の正体も、意外というよりペンの役なら当然という感じがする。ただし、だからそれが悪いということでもあるまい。ティム・ロビンスの役どころもなかなかハマっていた。そしてあの育ち損なったような童顔が効いている。僕が最も感心したのはケビン・ベーコンで、感情を抑えに抑えた芝居が実に見事だ。もちろん脇のフィッシュバーン、ハーデン、リニーもうまい。

 物語の語り口も演出も実に丁寧で、じっくり撮っていることが伝わる。作り手の気の配り方と誠実さが伝わってくる。もちろん元々のお話からして、運命の皮肉と悲劇性を過不足なく伝えているように思える。

 それなのに、この何も引っかからない感じは何なのだ?

 確かに「許されざる者」などのシリアス作品でのイーストウッド演出は、「スペースカウボーイ」(2000)などの娯楽作の分かりやすさとは裏腹に、非常に抑えた「寡黙」な演出が印象的だ。元々のこの人の芝居を連想させるような感情の抑制ぶり。では、今回はそれが災いしてしまったのだろうか?

 でも、感情が高ぶったりこれみよがしに観客を誘導したり…ばかりが、映画演出という訳でもなかろう。実際に抑えに抑えての演出が、かえって深い感銘を与えてくれる事もザラだ。だったら抑えた演出が悪いということでもないはずだ。

 では、一体何がいけないのだ。どこに問題があるというのだ?

 まず考えられるのが、僕が感情を揺さぶられるようなものとしてこの映画に過度な期待を抱いた可能性だ。これは充分にあり得る。少年時代の思い出から現代の殺人事件へ…その運命的な展開を思った時、因果話が大好きな僕が、あまりに過大な期待を持ちすぎた可能性はある。運命の皮肉から決定的な悲劇へ…そこでは見る者の感情が大いに揺さぶられるに違いない…。だが映画は、必ずしも僕の期待するような展開にはなっていなかった。

 あと、饒舌で過剰な映画表現に慣らされてしまった僕の感覚が、この映画の抑制描写を感知出来なかった可能性もある。正直言って、僕の感性はおそらく徐々に低下し衰えているに違いない。情けない話だが、自分の感性の衰えの可能性も、まったく否定は出来ないのだ。

 だが本当にそれだけだろうか?

 ここで僕はイーストウッド監督作の系譜を振り返らずにはいられなかった。

 

作者のフィルモグラフィーを振り返る

 世評も認め、僕自身も高く評価するイーストウッド監督作。ここでは特にこの人の1990年代以降のシリアスな作品群を振り返ってみる。映画を娯楽作とシリアス作品に分けるのは乱暴に過ぎるとは百も承知だが、ここでは便宜上そうさせてもらう。すると、実は今回と同じようなはぐらかされ方をした作品が少なくない事に気づいた。まずはイーストウッドが往年のジョン・ヒューストンとおぼしき映画監督に扮した「ホワイトハンター・ブラックハート」(1990)。映画づくりにまつわる話は僕も大好きだし、そういう意味ではすごく興味深い映画だったこの作品。もちろん僕も見ている間は楽しんだものの、正直言って何かつかみ所がない映画というか…期待がはぐらかされた印象もあったんだよね。

 次のシリアスな監督作「許されざる者」は、イーストウッドの極め付き西部男の総決算的な意味合いから、僕は文句なく完全にノックアウトされた。だが問題はそれに続く「パーフェクト・ワールド」(1993)だ。イーストウッド監督作にケビン・コスナーが主演という違和感も手伝ってか、これは正直言って期待が完全に空振りの印象しかない。ただし見た当初は、僕はこれが単にコスナー主演のせいだろうと決めつけていた。これも悲劇は悲劇なのだが、何ら驚きのない悲劇だった。

 「マディソン群の橋」(1995)に至っては、原作が原作だからあまり期待はしなかった。そういう意味では思った以上に楽しめたのかもしれない。イーストウッドとメリル・ストリープの共演というオマケも付いていたしね。ただし、大いに感心するまでには至らなかった。

 続く「真夜中のサバナ」(1997)は、大好きなジョン・キューザックをはじめクセ者役者が大挙して出演。そういうお楽しみはあったものの、これまた掴み所のない映画だったと記憶している。この時も、自分の感性が鈍いのかと思って、僕は沈黙していたんだけどね。…ま、ざっとシリアス・ドラマのイーストウッドを振り返ると、僕は必ずしもこれらすべてに感心していなかった事を思い出したんだよね。

 そしてこれらに共通するのは、先に述べたようにけたたましさがないこと、多くを語らないこと、技巧にはしらないこと…といった「抑えめ」の演出だ。

 これは一体どうした事か…と改めて考えるにあたって、僕は今度イーストウッド監督の娯楽映画路線を再検討してみることにした。すると、そこに顕著な点が一つ。

 定石、あるいは典型だ。

 「ルーキー」(1990)、「目撃」(1997)、「トゥルー・クライム」(1999)、「スペースカウボーイ」…などなどなど。その前を遡ってみても分かるが、イーストウッドの娯楽映画はすべて驚きのない、意外性の乏しい映画である事に気付く。これは娯楽映画にとって、決して悪い事ではない。なぜなら、それは同時に正攻法であり王道であるということだからだ。そして、それが成り立ってしまうのは、中心に典型中の典型…大スターとしてのイーストウッド自身が置かれているからだとも言える。どの映画もいわゆるみんながイメージする通りのイーストウッド・キャラクターが存在する。そしてイーストウッド・キャラは画面に出てくるだけで観客にとってすべてオッケーで、後はその人物のバックグラウンドや性格や過去を語る必要がなくなる。みんなすでによく知っていて親しんでいるからでもあるし、役柄によってはその「ストレンジャー」ぶりこそが売りなのだから、なおさら語る必要がないのだ。そんなイーストウッド・キャラがあるから問答無用。それだけで、いわゆる「イーストウッド映画」として通っちゃうところがあるんだよね。

 ここで言うイーストウッド・キャラとは、だから典型であり定石であり、記号化されアイコン化されたそれだ。

 逆に言うとイーストウッド・キャラを活かすためには余計な饒舌さは要らない。今まで少なくともイーストウッド監督の娯楽作は、そういうポリシーの下でつくられていたはずだ。前述したように俳優としてのイーストウッドの演技の質から考えて、そんな演出の「寡黙さ」は彼が本来持っている美学から来るものだとも言えよう。これがうまく結びつけば、確かに独自の持ち味ともなり得る。言わばイーストウッド監督作「勝利の方程式」だ。

 実際のところ僕は、イーストウッド監督作って彼自身が持つ語らずとも伝わるアイコン・キャラクターと、彼の美意識が生み出した「寡黙さ」とで成り立っている世界だと思うんだよね。そして、それが成立出来ているのは、やっぱり説明の必要のないイーストウッド・アイコンの成せる業だと思う。

 だが同時にそれはイーストウッド演出の限界でもあった。誰もが見て一瞬ですべてを理解できるようなキャラ、状況、設定…などを作品のど真ん中に置かないと、映画の物語を語りつくせない。本来、主人公のキャラクター・スタディをゴチャゴチャとやらないし、たぶん出来ない。いろいろ饒舌に語ったことがないし、また語ることを良しとしない。だからどんな物語も語り得るわけではないし、どんな作品でも手がけられるわけでもない。むしろつくれる作品の傾向は極めて狭い範囲に限られる。そしてそんな自分の演出のクセを、イーストウッド本人も気付いていたフシがあるんだよね。

 なぜなら必ずしもイーストウッド・キャラを使うとは限らないシリアス映画路線では、前述の「勝利の方程式」のパターンを毎度毎度は押し通せない。問答無用のイーストウッド的なキャラがあるとは限らない以上、ある程度観客を感情移入させるべく演出で誘導しなければならないし、登場人物の内面や背景や過去や設定もそれ相応に説明していかねばならないのだ。

 それなのに、イーストウッド演出は今まで常にイーストウッド・アイコンという「典型」を必要としていた。それにすべて必要な部分をおのずから語らせて、演出上では多くを語らないで来ていた。演出が「寡黙」一辺倒で済んでいたのは、そこに「典型」そのもののイーストウッド・アイコンがあったからだ。

 そして「典型」とはお約束の事でもある。それに作品全体が頼っていくということは、シリアス作品においてはわざとらしい、作り事、ウソっぽい…というネガティブ要素になりかねない。

 こうした見方で先に挙げたイーストウッド・シリアス路線の作品群を見渡していくと、なぜそれらが僕にとって当たりはずれのある作品だったのかが何となく分かってくる。

 「ホワイトハンター・ブラックハート」はイーストウッド主演作だが、ここではジョン・ヒューストンとおぼしき映画監督の役を演じている。ヒューストン本人ではないにしろ、明らかに従来のアイコン化されたイーストウッド・キャラとは位置づけが異なる。本人は毎度お馴染みで演じているかもしれないが、見る側の受け取り方にはどうしても若干の違いが出てくる、従来パターンからはいささか逸脱した別人格なのだ。だから…従来のイーストウッド監督主演作のようにキャラクターがハッキリ明快にはなっていない。そのためだろうか、主人公を中心に映画全体がつかみ所のない印象に仕上がってしまった。

 一転して「許されざる者」はイーストウッド自身が主演しているだけでなく、役どころからして「荒野の用心棒」(1964)に始まり「荒野のストレンジャー」(1972)や「ペイルライダー」(1985)あたりで頂点に達した、イーストウッドのミステリアスな西部男キャラの集大成とでも呼ぶべきものになっている。これぞ問答無用の存在で、だから…と言うべきか作品の出来映えも見事だった。

 ところが「パーフェクト・ワールド」では、主演にケビン・コスナーを迎えて裏目に出た。ケビン・コスナーはスターだとは言え、「問答無用」の域にまで達した俳優と言うわけではない。だから、またしても訴求力が弱く散漫な映画が出来上がっちゃったんだね。しかも今回はコスナーに請われて「助演」したイーストウッドが、脇でチョロチョロ目立ってしまう始末。これで完全に作品のバランスも崩れてしまった。

 続く「マディソン群の橋」の場合は、イーストウッド主演と言っても彼の色ボケ映画の趣が強い(笑)。だがこの作品には、世界的ベストセラーとなった原作があった。原作のできの善し悪しは別にして、その内容はみんなが知り尽くしているものだ。本を読んでない人でさえ、マスコミを通じてどんな話だか知っていた。つまり原作そのものが巨大なアイコンであり、典型だ。あえてクドクド語らずとも見る側は了解済みだ。映画としてそれなりに見れたというのも、おそらくはそのへんが理由ではないか。

 ところが「真夜中のサバナ」になると、いまやその内容も覚えていない。これもおそらくはアイコンや典型に欠いていたからだろう。見た直後でさえ僕はこれがどんな映画だったか、しかと理解出来てなかったように思われる。こんな事はめったにないんだけどね。

 このように過去のシリアス作品を見渡していくと、イーストウッド演出の特徴と問題点がどんどん浮き彫りになってくる。もちろん例外はあるだろう。それに少なくとも、僕の目から見たイーストウッド作品…ということになるが。

 そのせいかどうか分からないが、イーストウッドは近年に至るまで自身の主演作以外の監督作品をなかなか撮らなかった。例外はウィリアム・ホールデン主演の「愛のそよ風」(1973・テレビ放映のみ)とフォレスト・ウィテカー主演の「バード」(1988)のみだ。それがここへ来て、そんな主演作以外の監督作品の頻度が一気に増してきた。主演ではない「パーフェクト・ワールド」(本来コスナーの強力な要請がなかったら、イーストウッドはこの作品に出演する気はなかったらしい)もここに加えるとすると、この10年で3本というハイペースぶりだ。

 これはもちろんイーストウッドが「許されざる者」で“オスカー監督”となったことで、自身が主演しない映画を撮りやすい環境が出来たからだ…という事は間違いない。だが一方で、イーストウッドが自身の問答無用キャラを用いずとも映画をつくれるという、何らかの確固たる自信を得たからではあるまいか。

 実はそのへんを考えてみると、近年のイーストウッド作品には興味深い現象が起きている。かつてはイーストウッド主演映画と言えば監督作・非監督作を問わずワンマン映画だったのに、ある時を境に存在感の大きい役者やスターとの共演を積極的に行うようになってきたのだ。これはいかなる心境の変化だろう?

 例えば「許されざる者」。ジーン・ハックマン、モーガン・フリーマン…とほぼイーストウッドに拮抗する存在感と実力の持ち主をキャスティングした作品だ。その後には、イレギュラーなカタチでケビン・コスナーと共演する事になった「パーフェクト・ワールド」や、やはりハックマン、ジュディ・デイビス共演の「目撃」、さらに4大男優そろい踏みでトミー・リー・ジョーンズ、ドナルド・サザーランド、ジェームズ・ガーナー共演の「スペースカウボーイ」などなど…。いずれも以前のイーストウッド作品なら考えられない顔合わせだ。これを改めて遡ってみれば、イーストウッドのこの傾向ってチャーリー・シーンやラウル・ジュリア、ソニア・ブラガと共演した「ルーキー」から始まっているのかもしれない。

 で、僕はこの現象を、イーストウッドが自分というアイコン=典型に頼らない映画づくりを模索した結果だと思うんだよね。イーストウッドが前面に出て作品全体を仕切るのでなければ、当然拮抗する俳優もそれなりのボリュームで扱わねばならない。そうするとただイーストウッドが出てきて「問答無用」…という従来の映画づくりだけでは、作品をつくり切れなくなるだろう。それなりにそうした重要登場人物のバックグラウンドだとか性格だとか過去だとか置かれた状況を、きちんと語らなくてはなるまい。逆にイーストウッドとしてはボリュームのある共演者を迎えた作品づくりをうまくやりおおせた事によって、自分というアイコンなしでも映画づくりが可能である…という手応えを掴んだのではないか。自身が主演を張らない「パーフェクト・ワールド」「真夜中のサバナ」そして今回の「ミスティック・リバー」は、そんな試みの延長線上にあると思えるんだよね。

 でも…実はイーストウッド演出は、いまだに典型=アイコンを必要としていた。

 

この作品の重要ポイント

 イーストウッド演出には説明不要な「典型=アイコン」が必要…ということは今まで語ってきた通りだ。逆に言えば、何か複雑でデリケートな感情なり要素を表現するには、イーストウッド演出はあまりに「寡黙」に過ぎる。だからこの映画の描き出したい「悲しみ」というものが、実感として観客の胸に届いていないのではないか? ストーリーから見ても展開から見ても、この映画が描き出したい内容は分かる。だがそれがのっぴきならない切実さで見る者に迫ってくるかと言うと、僕は残念ながら否と言わざるを得ない、そういう物語は語られているが、その感情は描かれていない。言いたい事は分かるけど、僕にとっては人ごとでしかない。

 では、あの高い世評は一体どこから来ているのか?

 それは…映画の中に実際にあったものではなくて、おそらく観客側が自分の内面で醸成したものじゃないかと思うんだよね。

 三人の幼なじみ。それを襲った不幸な出来事。彼らが大人になった現代…突如起きた殺人事件。一人は被害者の家族として、一人は容疑者として、一人は担当刑事として関わることになる。そこで三人は皮肉で悲痛な運命に巻き込まれるに違いない。監督はあの渋みを増した「許されざる者」のクリント・イーストウッド。三人の男には「いい役者」ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケビン・ベーコン。もうこれらの情報をインプットした段階で、大半の人々の脳裏には「いい映画」のシミュレーションが出来上がっているのではないか。ひょっとしたら見る前からこの映画、人々の心の中ですでに傑作になっていたのではないだろうか?

 で、そもそもイーストウッド・アイコンありきの映画づくりっていうのも、それに近いものだったと思うんだよね。

 もう一度この作品の要素を並べてみよう。三人の幼なじみ。それを襲った不幸な出来事。彼らが大人になった現代…突如起きた殺人事件。一人は被害者の家族として、一人は容疑者として、一人は担当刑事として関わることになる。そこで三人は皮肉で悲痛な運命に巻き込まれる…ハッキリ言おう。これらの要素のどれか一つでも、意外だったり驚きだったりするものってあるだろうか?

 意外性は全くない。

 シリアスなミステリものという前提がある限り、物語の冒頭の過去に三人の幼なじみが出てきたら不幸な出来事に合うに決まってる。彼らが大人になった時に殺人事件が起きて、それが三人を再び結びつけるであろうことも当たり前だ。そんな三人が殺人事件を介して出会うとなれば、一人は被害者の家族(あるいは被害者その人ということもあるだろうが)として、一人は容疑者として、一人は担当刑事として関わる…のが定石だろう。その三人が皮肉で悲痛な運命に巻き込まれるのもお約束だろう。…つまりイーストウッド・アイコンなみに典型そのものなのだ。

 だが西部男としてのイメージ総決算だった「許されざる者」を除いて、イーストウッド・アイコンを完全活用出来たのは彼の娯楽映画路線だけ。娯楽映画なら「いかにも」のお約束もアリで、だからこそ「典型」を生かし切ることが出来た。意外性ゼロでまったく問題がなかった。だが、これがシリアス映画ではそうはいかない。いかにも「お約束」の趣向を持ち込んでくると、それがウソくさく作り事めいて見えてしまうのだ。そこでこうしたシリアスな映画の常として、どこか定石をハズしたり驚きを入れたりすることで、物語に自然さリアルさを注入しようとする。ところがこの映画って、実はそれらと逆のいき方をしているから驚くんだよね。むしろ「定石」だらけでつくろうとしている。ありがちなパターンというやつだ。

 それを端的に表しているのが映画の終盤、どうしようもない悲劇的状況に陥ってしまった事を悟ったケビン・ベーコンが、ショーン・ペンに向かってつぶやくセリフだ。

 「たまに思うんだ、あの時みんな一緒にクルマに乗っていたら、これが全部夢だったら…と」

 まったくそのセリフの通りだと思う。「イノセンスの喪失」というテーマに、これほどふさわしい言葉はないだろう。だけど、これって…これほど「言わずもがな」のセリフって、普通こうもキッパリと言わせちゃうもんだろうか? これは映像で見せれば足りることで、わざわざ口に出してしゃべらせるようなものじゃない。もうそんな事は見ている誰もが分かっている。これを言葉にして言っちゃオシマイだろう。これって相当わざとらしい、あまりにあまりなセリフだと思うよ。

 いや、他の映画でもこれくらいの事は言うかもしれない。ただし、他の映画ではこれがこんなに露骨に感じられない。こんなに無造作に放り出されない。作り事っぽく見せないための、不自然さを払拭するノウハウがあるからだ。そういうフィルターを通して、いかにもさりげなく物語に埋め込んでしまう。いろいろ観客を誘導するための仕掛けがあったとしても、それをそう見せないだけの手段を講じている。だがイーストウッド演出はそれをやらない。いつもと同様、ただ丁寧に誠実に見せていくだけだからだ。それが虚飾や飾りがないという美点でもある。イーストウッド・アイコンを活用できる場合には、そんな演出の「寡黙さ」がすべてプラスに転じる。だが演出にそれなりの技巧を必要とする今回のような作品の場合には、これがかえって仇となる。イーストウッド演出には、元々そんなノウハウが欠けているからだ。

 しかも前述の「たまに思うんだ…」以下のセリフの直後、ベーコンの携帯に別居中の妻からまるで狙い定めたようなタイミングで電話が入る。ここでベーコンとその妻の和解という、この作品唯一の救いが提示されるわけだ。だがそのタイミングと段取りがあまりにあまりなものだから、またしても取って付けたような印象がどうしても拭い去れない。おそらくは本来ならば、こうした仕掛けや段取りをもっともらしく自然に見せる術もあるんだろうが、余計な事を一切しないイーストウッド演出ではほぼ「そのまんま」でゴロリと投げ出された状態になっている。だからこの状況が、妙に突出した印象で見えてしまう。やっぱり「作り話」や「段取りづくり」のためのノウハウに、決定的に欠けてしまっているという観は免れない。

 ただしその一方で生来のじっくりした誠実な演出ぶりが、何か「良質な映画」の感触を伝えてもくる。だから典型に典型を重ねた映画づくりにも関わらず、作り物でインチキくさくてウソっぽい…ってなイメージはかろうじて最小限度でくい止められてもいる。これはイーストウッド演出の怪我の功名とも言えるだろうね。これが他の監督だったら、もっとハッキリと「陳腐」の一言で切り捨てられるかもしれない。イーストウッドだったから自然に見せるためのノウハウを駆使出来なかったのだけれど、逆に彼だからこそアラが目立たなくて済んでもいるのだ。功罪相半ばするところなんだよね。

 そこにクセ者役者ペン、ロビンス、ベーコンらの渋い芝居と来る。何だかいかにも「いい映画」の雰囲気が立ちこめてくるだろう。これに疑念を挟んだら申しわけない気がしてくるよね。実際、僕も見終わった後で、この映画を何とか良く思おうと考えちゃったもんね。

 でもねぇ…「イノセンスの喪失」というテーマは分かる。だけどこの映画はいかにもそれ風なアイテムを並べてはいるけど、それを切実に実感として感じさせてはくれないんだよね。こういう要素、道具立て、アイテムを「いかにも」風に並べているから、この映画が「イノセンスの喪失」を描いているんだな…と分かるだけだ。映画そのものがおのずからそれを問いかけては来ない。典型を並べているにとどまっているだけだから、それを映画として描けているのとは別問題だと思えるんだよね。

 だから自分でも「イノセンスの喪失」をいろいろ経験しているはずの僕の胸に、この映画は一向に何も響いて来ない。いい要素はいっぱいある映画だけど、それら一つひとつが映画として描きたかった事に貢献していないし、一つの作品として結実していない…というのが僕の意見なんだよね。

 丁寧で技巧を出来るだけ弄しない「寡黙」な演出。それは言い換えれば「端正な映画づくり」とも言える大きな美点だ。しかし映画の中の要素には、技巧を駆使して伝えなければならないものも少なくはない。言ってしまえば「親孝行をしよう」とか「戦争をやめよう」とか、この作品における「イノセンスの喪失」とか…誰もが先刻承知であまりに耳にタコな要素こそ、それを伝えるための技巧を必要とするのだろう。だが今までイーストウッド演出は、ストレートでオーソドックスなお約束アクション娯楽ドラマという器や、イーストウッド・アイコンという万人の認知可能なコンセプトのおかげで、そんな技巧を弄さずに済んできた。そんなイーストウッドの今までの経緯と、元々「寡黙」を全うすることを志向する彼の美意識が、今回すべてに災いしてしまったのでは…と思ったんだけどね。

 結局イーストウッド演出は、いまだにどこか「典型」に頼っているのではないか?

 クセ者役者をいっぱい揃えてそれぞれに味のある芝居をやらせているのは見事だが、中でショーン・ペンが徹底的に毎度お馴染みのショーン・ペン・キャラの典型を演じているあたりを見ても、どうしても「典型」なしには映画をうまくつくれないイーストウッド演出の限界を感じちゃうんだよね。

 もちろん見る側の僕に問題があったという可能性も捨てきれないのだが…。

 

見た後の付け足し

 というわけで苦言ばかり呈してきたこの映画だけど、実際のところは三人の男優をはじめとする演技のやりとりが楽しく、結構じっくり見とれてしまった。だから決してつまらない映画ではないんだよね。いや、誠実に丁重に作り上げられた「いい映画」だとは思う。決してダメな映画だとは思わない。「いい映画」だ。ただ、映画のテーマであるべき…あるいは作者が「映画のテーマ」であろうと狙い定めた…「イノセンスの喪失」ってものは、あまり感じられなかったけどね。で、ここで僕がこう言うのも何だが、実はイーストウッドもこのテーマにあまり関心がないんじゃないかと見てるんだよ。だから切実なものが感じられなかった気がする。

 というのは、それよりもっとイーストウッド的なテーマが、この作品には見え隠れするからだ。

 それは暴力の応酬は不幸しか呼ばない…ということ。

 元々が主人公たちの子供時代にあんな暴力が行使されなければ、彼らの人生も違っただろうし、今回の不幸な事件も起きなかった。そして自力で報復を望むショーン・ペンの暴走が、今回の新たな悲劇を呼んでしまう。不当な暴力で他人を蹂躙することはもちろん、例えそこに正当と思える理由があったとしても、いかなる場合も暴力はロクな結果をもたらさない。これはまさに、イーストウッド総決算作品「許されざる者」のテーマなんだよね。ショーン・ペンのパワフルな演技のせいもあってか、どちらかと言えばそっちのテーマの方が胸に迫ってくる。そして、先に触れた「許されざる者」のテーマから言っても、イーストウッドの関心はむしろそっちにいっていたように思えるんだよね。

 思えばかつて「ダーティ・ハリー」で有無を言わさぬバイオレンス刑事を演じたイーストウッドは、それゆえにファシスト呼ばわりされることもしばしばだった。イマドキはそんなバカな似非文化人みたいな事を言うヤツもいないだろうが、これってイーストウッドにとっては忸怩たる気持ちだったんじゃないか。そのトラウマが彼にオブセッションのように取り憑いているからこそ、イーストウッドはくり返しくり返しそのメッセージを呪文のように唱えたがるようにも思えるんだよね。

 むしろイーストウッドにとって、切実なのはそっちだったのかもしれないよ。

 

 

 

 

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