「飛ぶ教室」

  Das Fliegende Klassenzimmer (The Flying Classroom)

 (2004/01/19)


  

現代におけるケストナー文学映画化の難しさ

 僕にとって子どもの頃から親しんでいる、特別な本が何冊かある。まずC.S.ルイスが書いた「ナルニア国ものがたり」全7巻。これはファンタジー系の物語で、まぁ全然知らない人に平たく説明するとすれば、現実世界の人間の子どもたちが主人公となる「ロード・オブ・ザ・リング」みたいなシリーズと言えばお分かりいただけるだろうか。そしてアーサー・ランサムという作家の子ども向け小説12巻シリーズ。これはヨット遊びに興じる子どもたちを主人公にした連作で、夏休みの楽しさとか友情をテーマにした素晴らしい作品だ。そして最後に、ドイツのエーリヒ・ケストナーの少年文学がある。これはシリーズものではなく、それぞれ単体の物語だ。中でも有名なのは「エーミールと探偵たち」あたりだろうか。

 映画にもしばしばなっていて、特に最近では出来のいい作品が多い。アメリカで「ふたりのロッテ」を映画化したファミリーゲームは、注目はされなかったが快作と言っていい。

 さらにもっと大きなケストナー作品映画化の収穫としては、あのカロリーヌ・リンクがケストナー文学に挑んだ点子ちゃんとアントンを挙げないわけにはいかないだろう。まさしく秀作と言うに相応しい作品だ。見事に現代化を成し遂げ、かつ映画としての面白さを盛り込み、ケストナー精神は忠実に受け継いでいる。しかも、それらすべてを成し遂げた上で、現代社会の抱える問題をこの一作にギュッと封じ込めてやんわりと告発している。まさに奇跡的な作品としか思えないね。

 ケストナー作品の映画化と言えば、心してかからねばならない点がいくつかある。まず当時における「現代ドラマ」であったケストナー作品を当時の時代設定で忠実に映画化するか、それとも現代に移行させてつくるかという問題がある。どちらにせよ注意しなくてはいけないのは、フェミニズムの洗礼など価値観の変化で現代にそぐわなくなった部分を、一体どうやって処理するのかという点だ。

 そしてケストナー作品の独自性の継承。その一つは彼の小説に顕著なユーモアと娯楽性。だから映画化した時も、そこにはサービス精神がなければならないはずだ。決してケストナー作品は敷居の高いものではないのである。それでいて非常に高いモラルが要求されること。善と悪…その本質を見つめるのが、ケストナー文学の最も重要な要素だからだ。そしてケストナーその人が強く反映された母親への愛。これをそのまま現代に持ってくると、何かと実際の時代性とそぐわなくはなる。それでいてこれを見て見ぬフリをするのでは、ケストナー文学を映画化する意味がないのだ。

 これらのすべての点で、カロリーヌ・リンク版「点子ちゃんとアントン」は理想的な作品だった。

 見事に現代の物語に移行。当時から物語のバックボーンにあった、貧富の問題を現代的にうまく移し替えた。そしてミュージカル仕立てにしたうまさ。映画的な見せ場の盛り上げ方。女性に対するいささか旧来的考え方は、フェミニズムを振り回さない程度に改良した。それでいてケストナーらしさはキチンと別のカタチで残した巧みさ。映画のための脚色のお手本とでも言いたい、どれほど褒めてもホメたりないくらいすばらしい脚本だった。もちろんリンクならではのパワフルでノリのいい演出も素晴らしかったのは言うまでもない。

 そんなドイツからまたしてもケストナー映画が来る。それも「飛ぶ教室」だ…と聞いて、僕は大いに期待した…かと言えば、事はそれほど単純じゃない。

 上記のように、ケストナー作品の良質な映画化は「奇跡」と言っていい。あの才女カロリーヌ・リンクでも持って来なければ、とてもちょっとやそっとで実現出来る事ではないのだ。それがまたおいそれと再現出来るんだろうか。

 お話は今から70年前の寄宿学校の物語。そこからしてすでに現代では再現困難な事がお分かりいただけるだろうか。それをまたしても「点子」と同様に、現代の物語に置き換えての映画化だと言う。一体アレをどうやって今風に置き換えると言うのだ。

 しかも「点子」はケストナー作品としてはユーモアの比重が高い、言ってみれば気楽な楽しさが強い作品。だが「飛ぶ教室」こそはまさしくケストナー最高傑作。その劇的な緊密さは他を凌駕しているのだ。僕も実は長く映画化を熱望してはいたが、では誰がこれを実現出来るのかと言えば「???」とならざるを得なかった。それを今回、ドイツではどうだか知らないが、日本ではまったく知られていない監督が手がける。大丈夫なんだろうか?

 配給会社のうたい文句を見てみたら、この映画の学校生活の描き方が“「ハリー・ポッター」の世界そのもの”…だと書いてあるではないか。「ハリー・ポッター」?…おいおい、それって全然違うだろう。「飛ぶ教室」が「ハリー・ポッター」そのものだったら、僕は全然見たくはない。あんな魔法界の「トップガン」みたいなスーパーVIPなガキがやりたい放題のお話だったら、むしろ「飛ぶ教室」の極北に位置すると言わざるを得ない。

 おまけに劇中劇「飛ぶ教室」をラップやダンスでリメイク…それは確かに「点子」では今風ミュージカル場面が出てきた。だがあれは音楽センス豊かなカロリーヌ・リンクだったからなし得たものだ。ましてドラマの中でのサービス・アトラクションの域を出なかった。今回劇中劇「飛ぶ教室」は、ドラマ全体の核ともなるものだ。それを今風にラップだダンスだ…って、それって果たしてうまくいくんだろうか?

 僕がこの映画をいかに複雑な思いで待っていたか、これでお分かりだろうか? この映画が昨年暮れから公開されていながら僕がなかなか見るに至らなかった理由は、決して敷居の高い恵比寿ガーデンシネマが上映館である事だけではないのだ。

 

寄宿舎生徒たちの輝かしい日々

 空港に着いたヨナタン・トロッツ(ハウケ・ディーカンフ)少年は、手荷物受渡所でコンベアを行ったり来たりしている一匹の犬の入れ物を見つけた。どうも飼い主が受け取りに現れないらしい。ヨナタン少年はそれに気づいていたく同情していたようだが、その同情の度合いがやけに身につまされているのが印象的だ。「オマエも置いてけぼりをくったのかい」

 そうつぶやくとヨナタン少年は犬をこっそりと自分の荷物の中に忍ばせて空港を出た。

 彼はこれからこの街ライプチヒにある聖トーマス校を訪れるところ。孤児である彼は遠洋航海の客船船長の養子で、何校もの学校を退学させられてきた前科を持つ。今度の聖トーマス校は彼の最後のチャンスだった。

 同じ頃、聖トーマス校の合唱隊が公演会場をバスで引き揚げるところだった。少年合唱団とは言え、悪ふざけをしたい年頃のガキである事に変わりがない。そんなガキどもを、「正義先生」ことベク先生(ウルリヒ・ノエテン)が見事に統率していく。この先生、「正義」との異名を頂戴しているのはダテじゃない。その異名のごとく、少年たちには絶大な信頼と尊敬を勝ち得ている先生だった。

 この少年合唱団は聖トーマス校の売りとも言える存在で、みんな同校の寄宿舎の生徒から構成されていた。だがこの学校には近所の通学生も通っており、こういう学校の常として寄宿舎生徒と通学生との折り合いは伝統的に悪かった。そこで両者が出会うそばから小競り合いが相次ぐのが毎日のこと。

 そんな通学生の一人にモナ・エーガーラント(テレザ・ウィルスマイヤー)という少女もいた。彼女は学校でのダンスのレッスンに遅刻し、しかもユニフォームも忘れて来た。「私、こんな授業やりたくない」などとうそぶいてはいるが、彼女には他に何か事情がありそうだ。

 さて、そのモナがしばらくしてショッピング・アーケード内のスポーツ用品店に現れる。しかしサングラスをかけてどうも挙動が不審だ。案の定、彼女はダンス授業用のユニフォームを万引きするではないか。慌てて店を飛び出すモナだが、店の警備員もすでに目をつけていた。かくしてショッピング・アーケード内で大追跡が繰り広げられる。

 そこに先ほどのヨナタンが通りかかったのは単なる偶然だった。モナは逃げるうちにヨナタンとぶつかった。「泥棒!」という声にすぐに事情を察したヨナタンは、事もあろうに彼女を逃がし、わざとクリスマスツリーを倒して彼女の逃亡を助けた。そして駆けつけた店員に、モナがその場に落としたユニフォームを返したのだった。

 そんなヨナタンが寄宿舎にたどり着いたのは、生徒たちが夕食にありつく頃。彼はたちまち寄宿舎で同室となる少年たちの中にいた。一同のリーダー格である優等生のマルティン(フィリップ・ペータース=アーノルズ)、少年ボクシングでチャンピオンにもなった力持ちでいつも腹を空かしているマッツ(フレデリック・ラウ)、その親友ながら一番チビで気の弱いウリー(ハンス・ブロイヒ・ヴトケ)、校長の息子で化学の天才ゼバスティアン(フランソワ・ゴシュケ)…といった多士済々な面々。彼らの気持ちの良い歓迎に、ヨナタンも今度はうまくやっていけるのでは…という予感を胸に抱く。

 そんな折りもおり、ヨナタンが隠していた犬がカバンから逃げ出した。いつも年長をカサに着て威張りまくる寮長のテオ(ニコラス・カントール)はここぞとばかりカンカン。残念ながらペット持ち込み厳禁の寮のルールからすれば、今度ばかりは横暴なテオの言い分の方が正しい。かくして少年たちは夜間の無断外出禁止のルールを破って、犬を外に捨てに行かねばならなくなった。だが、彼らには犬を連れていく場所のアテがあった。

 町はずれの空き地に打ち捨てられた、廃車になった鉄道車両。そこが彼らの秘密の隠れ家になっていた。犬はここに匿えばいい。少年たちがハシャいでいるその最中、この車両に何者かが侵入してくるではないか。少年たちはたちまち行動に出た。上から網をかぶせ、腕に自身のマッツが飛びかかる。たちまち侵入者はねじ伏せられてギブアップだ。捕まったのは大人の男…だがこの人物、どうも悪人には見えない。しかもこの車両のことも知っていたし、聖トーマス校にも詳しいようだった。実はこの男、かつてこの車両を住処としていた人物らしいのだ。長らくこの土地を離れていたが、何かの理由でここにまた舞い戻ってきた。男は自らを「禁煙」(セバスチャン・コッホ)と名乗った。そのあだ名の由来は、この車両が「禁煙車」であった事によると言う。

 少年たちは自分たちの秘密の隠れ家を手放す事を残念がったが、「禁煙」はまたここに遊びに来いと誘ってくれた。犬を飼ってやることも約束した。そして少年たちからベク先生の名前を聞き、どこか微妙な表情を見せたのだが…。

 翌日は合唱団がニコライ教会で合唱する様子を、テレビ中継で放送する大切な日。ゼバスティアンがみんなの楽譜を託され、教会まで運ぶ事になっていた。ところが通学生たちはその楽譜を奪い捕り、取り返そうとしたゼバスティアンまで拉致してしまった。こうなるの寄宿舎の仲間たちは黙ってはいられない。

 拉致した通学生たちのリーダーがあの少女モナだと知ったヨナタンは、自らが交渉役を買って出た。彼女の住む公営アパートの部屋を訪ねて行くと、どうも通学生たちはこのアパートの地下室で何やらやっているらしい。ゼバスティアンもそこに閉じこめられているはずだ。

 それよりもヨナタンは、モナの生活環境の貧しさの方が気になった。だが交渉となると話は別だ。ゼバスティアンを返せと迫ってみても、モナは一歩も退かない構えだ。こうなれば全面対決しかない。

 やがて合唱団の有志が集まってきて、通学生の連中と広場でにらみ合い。結局代表者がそれぞれ出て、決闘で勝負を決める事とする。もちろん寄宿舎の代表はあのチャンピオンのマッツだ。案の定腕におぼえのあるマッツはキッチリ勝負を決めた。だが約束に反して通学生たちはゼバスティアンの解放を拒む。これには板挟みになったモナも苦々しい思いを隠せなかった。寄宿舎の仲間たちは、そんなモナに同情する。

 ともかく全面戦争だ。激しい雪合戦が始まった。だが策士のマルティンはちゃんと作戦を考えていた。一同が雪合戦を戦っているうちに、秘かに別働隊として自分とマッツがアパートの地下室に潜入。ゼバスティアンを奪還しようと言うのだ。その作戦が見事成功したのは言うまでもない。

 だがおかげでテレビ中継はヘロヘロ。一同は「正義先生」ベクの元に呼ばれた。今度こそ下級生がお灸を据えられると、寮長のテオはご機嫌。だが、あくまで仲間を助けるための行動だったと聞き、「正義先生」ことベク先生は自分のかつての思い出を語り出す。

 かつてこの学校に一人の少年がいた。彼の母親は病弱で入院していたので、彼はしょっちゅう無断外出して見舞いに行き、そのたび厳罰をくらっていた。だが、ある時罰を受けている少年を見に行った教師は、彼の親友が罰を代わってやっているのを見つけた…。

 母親を見舞って罰を受けていた少年とは…「正義先生」ベクその人だった。

 友情は大切だ、そのために犯した過ちは正しい。先生はこの週末の外出禁止こそ言い渡したが、少年たちを褒めて送り出した。それを聞いて、寮長テオは穴があったら入りたい心境になる。

 さて少年たちは、この冬のクリスマス劇を何にしようか思案の真っ最中。そんな折り、例の「禁煙」車両で古びた劇台本を見つける。その名も「飛ぶ教室」。ロケットで宇宙へ行く学校の話だ。これには少年たちも一も二もなく飛びついた。その帰り道、少年たちはモナが路上パフォーマンスをしているところに出くわす。そうだ、ダンスとヒップホップでこの「飛ぶ教室」をリニューアルすればいい。みんなは興奮して早速稽古に乗り出した。作詞は文才のあるマルティン、美術はウリー、スモークの特殊効果はゼバスティアン、作曲はヨナタン…と、才能のある連中も揃っている。

 だが問題が一つ起きた。劇中に少女の出番が必要となり、一番小さいウリーが女の子の役をやらされる事になったのだ。だが彼はいつも弱虫とバカにされ、時にイジメられるアリサマ。いつもは大親友のマッツが庇っていたが、ある日クラス中のみんなの前で大恥かかされるハメになった。さすがに悔しさで顔色をなくすウリーに、マッツは「勇気を示すならデカい事をしなきゃ」などと不用意な言葉を漏らす。そんなこんなでウリーは、女の子役を徹底拒否して劇の稽古から離れてしまった。

 ちょうど劇にダンス要素を多く取り入れようとした折りもおり、ヨナタンは駄目もとでモナに声をかける。こうして二人の心は急速に接近し始めるのだった。

 だが稽古も絶好調の最中、それを見に来た「正義先生」ベクはいきなり怒りだした。これは駄目だ、「飛ぶ教室」だけは上演してはならない…いきなり藪から棒の高圧的な言い方に、さすがに彼らは反発する。特に今まであちこちで問題を起こしてきたヨナタンの落胆は人一倍だった。信頼していた先生に裏切られた怒りは大きい。いきなりキレたヨナタンは、セットを蹴飛ばして大荒れに荒れた。これが照明器具を壊す結果となり、たちまち稽古場は炎上。生徒たちは校舎から緊急避難という事態に発展する。

 さすがにこれはマズかった。ヨナタンは退学必至と覚悟して、火災の犯人だと名乗り出ようとする。だが、そんな彼を同室の少年たちが庇った。それは、ヨナタンにして生まれて初めて感じる真の友情だった。

 「正義先生」ベクの部屋に呼ばれた一同は、あくまで原因を隠し通す。そしてそもそもの原因は、「正義先生」の「飛ぶ教室」上演禁止にあると明言した。これにはさすがの「正義先生」ベクも、そもそもの「飛ぶ教室」の由来を説明しない訳にいかなくなった。

 「正義先生」はこの寄宿舎に大の親友がいた。二人でロックバンド「禁煙クラブ」もやっていたし、クリスマス劇にロックミュージカル「飛ぶ教室」を上演しようともしていた。これは東西の壁を乗り越えようという、当時では画期的なもの。だが、当時のライプチヒは東ドイツ政権下にあった…。

 やがてこの親友は西ドイツに亡命すると言い残し、姿を消した。親友を失った「正義先生」ベクは落胆したが、事はそれだけにとどまらない。その逃亡の波紋は思わぬカタチで襲ってきた。二人がロックバンドをやっていた事も問題なら、過激な「飛ぶ教室」の内容も問題だった。かくして「正義先生」は聖トーマス校を追われる事となってしまう…。

 そんな苦い思い出から「飛ぶ教室」を封印しようとした事を思うと、少年たちはもう「正義先生」ベクを責める気持ちがなくなった。ヨナタンは事件の真相を白状し、先生の決断に身を委ねる事にした。それを聞いた「正義先生」ベクも、彼を退学に追い込まぬように全力を尽くす事を誓った。

 そんな「正義先生」ベクの物語を聞いた少年たちは、ある一つの事に強い確信を得た。「正義先生」ベクの親友は身近にいる。それはあの鉄道車両に暮らす男…「禁煙」だ。かくして少年たちは、この二人の親友たちの久々の再会を手助けするのだった。

 そんな感動的場面に胸を熱くしていた少年たちだが、学校に戻って来たところで衝撃的な事件に出くわす。何とあのちびのウリーが、デカい風船を手にして校舎の屋根に立っているではないか。何と彼はここから風船で滑空すると言う。そして彼の勇気を証明すると言うのだ。それを大勢の生徒たちと共に聞いた仲間たちは凍り付く。案の定、屋根から飛び降りたウリーは間もなく地面に叩きつけられた。そこに雪が積もっていたのは幸いだったが、彼の大親友マッツは男泣きに泣いてウリーに飛びついた。

 幸運な事に、ウリーは足の骨折だけで事なきを得た。むしろそれで勇気を証明出来たのなら、ケガもお安いものだったかもしれない。しかし問題に次ぐ問題、不祥事に次ぐ不祥事…少年たちは「正義先生」ベクの立場が危うくなることを案じた。

 そこで少年たちが取った行動とは?

 

「点子ちゃんとアントン」の奇跡再び

 この映画は「点子ちゃんとアントン」のプロデューサー・チーム、ウッシー・ライヒとペーター・ツェンクの二人がつくった作品だ。この二人は他にも「エーミールと探偵たち」を映画化し、それらに先だってウッシー・ライヒ単独で「ふたりのロッテ」映画化も実現している。まずはケストナー作品の映画化に意欲を燃やしているプロデューサーなんだよね。その志やよし。おそらくはケストナー作品の持つドラマ性が、面白い映画の金鉱脈になり得ると判断したからだろうし、全世界にファンを持つケストナー作品の映画化が、国際マーケットへの食い込みを容易にするとの発想もあっただろう。

 しかも「ふたりのロッテ」「エーミールと探偵たち」は見ていないので分からないが、この二人の方針としてはあくまでケストナー原作の現代的リニューアルを目指しているようだ。そうなると、特に今回の「飛ぶ教室」が困難だった事は想像に難くない。寄宿学校という舞台そのものが再現困難なのだ。

 で、結論から言わせていただくと、これはまず健闘と言っていいのではないか?

 面白い。そしてケストナー精神が確実に生かされている。そして何より、現代に物語を移行させるための工夫が素晴らしい。「点子」もスゴイと思ったが、この脚色も素晴らしいよ。で、本来は映画と原作とは別物と思っているから比較対照はしないのだが、ここでは「点子」に引き続いてケストナー原作との比較をしながらご紹介したい。そうすればこの作品の巧みさがお分かりいただけると思うんだよね。

 まず、この物語の舞台となる学校の設定だ。

 原作の学校は、キルヒベルクのヨハン・ジギスムント高等中学。この学校の制度ってどうなってるのかわかりにくいだろうが、9年制で日本における小学校の高学年、中学、高校までをカバーするものらしい。ドイツの学校制度はみなこうなっているのかどうかは知らないが、ともかくそれはこの21世紀版「飛ぶ教室」にも反映されている。今回それがライプチヒにある聖トーマス校に移動した背景には、原作の舞台のキルヒベルクという地域を映画版の舞台に出来ない何らかの理由があったようだ。

 恥ずかしながら僕はドイツの事情には全く疎いので、これから後に述べる事には自信が持てない。だが今回この感想文を書くにあたってキルヒベルクという地名を調べてみると、現在それはオーストリア領内の町しか検索出来ない。ちなみにそれはミュンヘンの南側に位置する町だ。これが原作「飛ぶ教室」の舞台の町かどうかは、残念ながら今のところ確認出来ていない<筆者・注>。だがナチス・ドイツの崩壊・敗戦の後に、この町がオーストリアの領土に変わった可能性は十二分に考えられるだろう。なるほど、それなら現代の話と設定し直した映画版「飛ぶ教室」の舞台として、このキルヒベルクを使う訳にはいかないはずだ。

 しかも映画版「飛ぶ教室」では、現代でも寄宿舎という制度を維持しているという設定から、伝統ある合唱団を擁してきた学校…という新しい要素が加えられた。その合唱団という要素と旧態依然とした寄宿舎制度を維持しているという点から旧東ドイツ領内、しかも「バッハ音楽祭」を毎年催す音楽の古都ライプチヒという舞台が選ばれたと考えられる。この舞台・設定変更は後に別の意味でも生きてくるのだが、それは後に改めて述べる。

 そんな設定変更は合唱団のテレビ出演とそれに伴う寄宿生と通学生とのイザコザという見せ場をつくり出すし、最後の「飛ぶ教室」のミュージカル化という設定にもつながっている。単に映画的な盛り上げを意図した、思い付きだけの「飛ぶ教室」ミュージカル上演ではないのだ。このあたりの脚色の巧みさは、カロリーヌ・リンク版「点子」とも相通じるところだ。しかも合唱団に入る寄宿生ならば、現代としては裕福な方だろう。少なくとも下層の貧しい人たちではない。そこで寄宿生と通学生の対立が、そうした社会階層の違いに起因することがさりげなく暗示される。さらにはそれが冒頭のヨナタンとモナの出会いにも生かされるのだから、ますますもって侮れない脚色だと言わざるを得ない。元々、ケストナーはそうした貧富の差を作品に深く投影させていた作家だ。このへんも新たなカタチでケストナー精神を生かしたと言えるだろう。

 主人公の少年たちはほとんどキャラクター的に原作通り。原作が好きだった人なら嬉しくて狂喜乱舞するだろう。特に気は優しくて力持ちの単純素朴なマッツのキャラクターは、原作からそのまま飛び出して来たようだ。設定的には多少の移動があって、原作では文才のあるヨナタンと絵心のあるマルティンが、ミュージカル版「飛ぶ教室」を上演する関係で、音楽のヨナタンと文才のマルティンに移行している。またマルティンの家庭の問題が貧しさに絞られている原作に対して、映画では主人公の社会階層的な変動に従って両親の離婚問題にスライドされる。このへんも現代性を考慮したが故の変更だろう。

 で、全体的に原作では優等生マルティンが主人公的存在だが、映画版ではアウトローのヨナタンを主人公としているあたりも微妙な変更だ。確かに「現代的」という考え方からすると、優等生マルティンと家族のエピソードの数々はいささかセンチにすぎるようにも思える。したがってエンディングで流れ星を見るのはマルティンと家族ではなく、ヨナタンとモナの現代的なカップルに変更されているのだ。だが全体的にはほぼ原作の要素が踏襲されていると言っていい。

 「正義先生」と「禁煙」もキャラクター的にはほぼ原作通り。特にまるでちょっと前のウィリアム・ハートのようなウルリヒ・ノエテンが演じる「正義先生」は圧巻だ。「正義先生」の子供時代のエピソードに出てくる母親思いの一面は、「エーミールと探偵たち」のエーミール、「点子ちゃんとアントン」のアントンなどにも共通するケストナーの母親への愛情が投影されたキャラクターで、これも忠実に再現されている。

 で、もっとも脚色の妙を感じるのが、「正義先生」と「禁煙」の別れと再会の設定変更だ。

 実は原作では、「禁煙」は物語の最初から「禁煙」車両に暮らしている。近くに暮らしていながら、「正義先生」と「禁煙」の二人は長らくお互いの存在を知らないという設定だった。しかし、いかにもこれは無理があるだろう。小説ならば成り立つウソも、リアルな映画ではボロが出る。しかも「禁煙」が「正義先生」の存在を少年たちから知らされながら、名乗り出ようとしない事が不自然に思えてしまう。そのへんの問題点を、先に挙げた舞台変更によってカバーしたんだよね。つまり舞台を旧東ドイツ領内に変更したという点だ。

 原作では「禁煙」は自らの妻の死で突然失踪する。これも理由としては脆弱なものだ。それを映画では西側への脱出と設定した。これならば長らくの不在が不自然にならない。また「禁煙」の亡命が「正義先生」の苦境を生んだ事にしたことで、「禁煙」が名乗り出られない理由も出来た。これは巧みな変更だよ。

 二人がかつて自由を希求するロック好きの若者だったことも、この映画を浮世離れした話にすることを防いでいる。そして「飛ぶ教室」という劇が元々そんな反体制劇だったと変更された事で、この物語全体における原動力にまでパワーアップしているのだ。原作では劇「飛ぶ教室」は、単に飛行機に乗って実地による教育が行われる…という、ヨナタンが書いた未来の物語でしかなかった。だから原作のタイトルにもなり「核」でもあったはずの劇「飛ぶ教室」が、実はあまりドラマ自体には関わってこない。今回の変更でこの劇「飛ぶ教室」は大人二人の別離の原因となり、また大人と少年たちを結びつけると共に大人二人の再会の要因ともなっている。この一点においてのみは、映画が原作を凌駕したと言っていいのではないだろうか。

 また原作「飛ぶ教室」が、ヒトラーが政権をとる1933年に出版されたという点も見逃してはならない。東西ドイツ分裂もまた、ヒトラーの招いた災厄の産物だ。ナチ政権下もドイツに踏みとどまり、弾圧に抵抗し続けたケストナーの自由への希求や抵抗精神を考えた時、この変更はむしろよりケストナー精神に忠実な結果だと言っても言いすぎではないだろう。戦後ケストナーが東西ドイツ分裂によって、誰よりも愛した母親と生き別れになった事も含めて、これこそがケストナーの描きたかった事だと思わずにはいられない。ケストナーがこの映画を見ることが出来たら、おそらくはこの変更に大いに満足すると思うよ。

 ラストにはその劇「飛ぶ教室」の一場面パフォーマンスが、みんなの心を結びつける。そこでは仇役だった寮長のテオも協力する。原作にはなかった通学生との融和も描かれる。東西ドイツの悲劇と結びついてきた劇「飛ぶ教室」が、引き離されていたすべてを結びつける。まさに劇「飛ぶ教室」が物語の原動力となり、有機的に結びついて機能しているのだ。これを脚色の妙と言わずして何と言おう。ある意味で東ドイツ政権下では過激だったとされる劇「飛ぶ教室」以上に、この映画「飛ぶ教室」はラジカルなメッセージを主張しているとも言える。それがこの世界情勢が混沌とした現代ならば、なおのことだ。

 また通学生側のリーダーであるエーガーラントを女の子に変更したのもうまい脚色だ。最初、男の子の世界だった「飛ぶ教室」に女の子が登場すると聞いて、僕はちょっとイヤな感じがしたんだよね。それって原作の味わいを壊す事になりかねない。だが現代のお話とする上で、ここに女の子が出てこないのは不自然だ。しかも彼女がダンスをやっている事が、上述のパフォーマンス場面に生きてくる。彼女の存在が、みんなの融和をもたらす事になるのだ。だからこれらの変更は、一つひとつが緻密極まる精密機械のように組み立てられている。これは大変な事だよ。

 ただし、残念な点もいくつかあることは認めねばならない。例えば冒頭、ヨナタンが空港から犬を連れてくる場面。誰も取りに来ない可哀想な犬だから…というのは、孤児だったヨナタンの心情を仮託するという点ではうまく機能していると言える。さらにはその犬が「禁煙」と少年たちとの出会いのキッカケともなるのだから、脚本としては巧みだ。

 だが冒頭でヨナタンが犬を連れてきてしまう描写があまりに強引で唐突だから、本当に飼い主が受けとりに来なかったのか…という疑問が湧いて来てしまう。いつまで経っても置き去りのまま…という丹念な描写が必要だっただろう。僕はその一点がずっと引っかかったままだったんだよね。劇中でも、この手のブキッチョな描写がいくつか散見出来る。

 中でも一番残念だったのが、肝心の劇「飛ぶ教室」パフォーマンス場面。盛り上がりどころだから、趣向を凝らしたいのは分かる。だがここでいきなりCGなどを持ち出して、幻想的な場面にしちゃうのはいかがなものか。そもそものそれまでの意図…ケストナー文学のアクチュアルで現代性を持った映画への再構築…というコンセプトが、ここへきていきなりハズれてしまう。しかも出来上がったパフォーマンス場面のセンスもあまり良くない。泥臭くヤボくさいショー場面になってしまうため、見ていて気恥ずかしくなってしまうのだ。これは何とかならなかったのだろうか。ここらへんが才女カロリーヌ・リンクと今回の監督トミー・ヴィガントの力量の差だったと言ったら、気の毒に過ぎるだろうか。しかし肝心要の部分なだけに、ここで僕はかなりガクッと来ちゃったんだよね。

 とは言え、ここには原作の素晴らしいキャラクターたちが生き生きと息づいている。友情の素晴らしさが説得力を持って描かれている。さらに巧みな切り替えによって、現代のアクチュアルな物語として蘇っている。お客さんを楽しませる映画的な面白さも充分ある。さらにさらに、背後に東西ドイツの悲劇が横たわっているから、単なる子どもの楽しいお話にはとどまらない辛さがある。何よりケストナー精神を生かし切っているし、さらには原作がなし得なかった、登場人物すべての融和が描かれている。プロの映画人が本気を出してつくった映画として、実に見応えのある作品なんだよね。決して子ども映画なんかじゃないんだよ。

 見ていて本当に気持ちのいい映画というのは希だ。たまたま見たのが今年になってしまったが、今年は幸先の良いスタートを切ったと僕には思えたよね。それだけでもこの映画は見る価値があったよ。

 

 

<筆者・注>この件について在日ドイツ大使館、ならびにドイツ観光局事務所に連絡を取ったが、何ら回答を得る事は出来なかった。そのため今回憶測にとどまってしまったのが惜しまれる。もし正しい情報が寄せられたらただちに訂正するので、ご一報いただきたい。

 

 

 

 

 

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