「デッドロック」

  Undisputed

 (2004/01/05)


  

刑務所を舞台にした文字通りヘビーな一戦

 ここはカリフォルニア州モハベ砂漠の真っ直中にある巨大刑務所スウィートウォーター。今日はこの刑務所が一際エキサイトする日だ。そう、半年に一度のボクシング試合の日。囚人たちの慰安と不平不満のガス抜きを兼ねて、ここスウィートウォーターでは他刑務所からボクシングに覚えのある囚人を招いて、監獄世界のタイトルマッチを行っているのだ。

 オリに守られたリングをぐるり取り囲んで詰めかけた観衆ももちろん囚人。他刑務所からやって来た挑戦者は巨漢のボクサーだ。迎え討つスウィートウォーターのチャンプとは?

 現れたのはこの刑務所で全戦全勝の王者ウェズリー・スナイプスだ!

 看守長のマイケル・ルーカーがゴングを鳴らす。たちまち会場の興奮は一気に頂点だ。

 挑戦者の巨漢ボクサーはどう見てもスナイプスより一回りは大きい男。だがスナイプスは慌てず騒がず、実に冷静に試合を進める。まったく危なげがない。

 そんな試合をリング間際のかぶりつきで見ている一人の老人がいた。その名をピーター・フォークという。彼はかつて名だたるギャングのボスで、脱税で逮捕されこの刑務所に閉じこめられた。だがこの刑務所でも一目置かれる巨大な存在だ。彼の身の回りの世話を看る若い男ジョン・セダと共に、試合の様子を固唾を飲んで見守っている。そう、フォークは無類のボクシング好き。ボクシングに懸ける情熱、そして知識は玄人はだしだ。今日もスナイプスの善戦ぶりを見つめながら、至福の時を過ごしているかのような満足げな様子だった。

 スナイプスは終始有利に試合を進め、アッという間に巨漢を倒した。大喜びのスウィートウォーターの囚人たち。もちろんフォークもご満悦。そして隣りのセダに向かって、気になる一言をつぶやいた。

 「ヤツが来るんだな」

 ヤツ…このスナイプスが圧倒的な強さを誇るスウィートウォーター刑務所に、新たな強豪がやって来る。現ヘビー級チャンピオン、ヴィング・レイムスだ。

 ヴィング・レイムスもまた無敗を誇る王者だった。富も名声も欲しいがまま。だが、ある出来事が彼の足元をすくった。ある女にレイプの罪で告発されてしまったのだ。裁判は終始不利に進み、レイムスの不敵な態度も災いして8年の服役が言い渡されてしまう。元々がキレやすく傲慢な性格。それまでの栄光の日々が一転して、殺人、放火、レイプなどの凶悪犯がゴロゴロする刑務所暮らしというだけで怒り心頭。おまけにこの年齢での8年はボクサーにとって死を意味する。そんな焦りや憤りが、彼をしてますます粗暴な言動に駆り立てる。彼の周囲は何とか減刑を…と画策するが思うに任せない。かくしてレイムスは、この凶悪犯揃いの陸の孤島…スウィートウォーター刑務所の住人となったわけだ。

 さすがにヘビー級チャンプの入所とあってか、ヘリコプターでの到着。そんな様子を、しかしスナイプスは至って冷静に見つめていた。そしてライムスの到着を見守る男がもう一人。言うまでもなく無類のボクシング好き老ピーター・フォークだ。

 早速自分の房に入ったライムスは、同居することになるウェス・ステューディに不遜な態度だ。だがステゥーディは大人しく従った。彼にはチャンプの焦りが手に取るように分かるのだ。だが、そこにあのフォークがやって来る。「この刑務所にもチャンプがいるぜ」

 それがフォークの計算であった事は明らかだ。彼はライムスを煽り、ぜひともスナイプスとの歴史的対戦を実現させたかった。案の定、チャンプのプライドを逆なでされたライムスは反発を見せる。アッという間にフォークの思うツボだ。

 早速ライムスは食事時間に行動に出た。食事の列に並んだスナイプスに、いきなり殴りかかって挑発したのだ。「フン、オマエなどモノの数じゃないぜ、ホンモノのチャンプはオレだ!

 この一件が元で、ライムスは刑務所長に呼び出される。だがライムスはまるで動じない。「オレは“大物”だ。そこらの囚人と一緒にするな」

 世の中不平等というのは塀の内外を問わない。先に手を出した訳でもないのに、スナイプスは責任をとらされて独房に閉じこめられた。だが彼は文句も言わない。こんなものさ…と淡々と運命を受け入れるのみだ。そんなスナイプスに、看守長のルーカーすら尊敬と同情を感じずにはいられない。だがスナイプスは冷静そのものだ。

 「いつもオレはこうさ。我を失ったのは一度だけ…」

 かつてはスナイプスにもヘビー級チャンプとしての栄光の日々があった。それが一転したのは、ある夜のこと。帰宅したスナイプスが妻の不貞を見つけた時だった。逆上したスナイプスは間男に拳を奮う。それが運悪く男の命を奪ってしまった。ボクサーの拳は凶器と見なされる。かくして彼は終身刑を受けて、ここスウィートウォーターですでに10年の歳月を過ごしている。スナイプスの淡々とした態度は、そんな彼の過去に起因するものだった。

 だがスナイプスを隔離されてしまったライムスはこれでは収まらない。スナイプスのマネージャーを買って出ていたフィッシャー・スティーブンスを衆人環視の前でブチのめすなどやりたい放題だ。

 さらにライムスが苛立つ理由もあった。弁護士たちは彼の減刑に手間取るだけでなく、脱税発覚による財政危機を訴えてきた。それを解決するにはいち早い復帰と試合しかない。かくして刑務所内を仕切るワル集団にもケンカを売り、自ら四面楚歌の状態に陥った。それでも傲慢な態度は改まらない。

 これが頃合いと見計らったフォークは、シャバのギャング仲間を刑務所に呼び寄せて一計を案じた。刑務所内のタイトルマッチ。これがうまくいけば巨額の掛け金が手に入る。ライムスには減刑による出所を保証すればいい。うるさい刑務所長は金と脅しで手なずけろ。そんなフォークはひたすら「いい試合」を見たい一心だった。

 事ここに及んで、さすがのライムスもこの話に乗った。ルールはボクシング本来の姿とフォークが信じる「ロンドン・ルール」で行われる。それはダウンしても60秒で起きあがればいい…という特殊ルールだ。本来は素手で戦われるものだが、より激しいファイトを促すためにごく小さなグラブを着用することとなった。

 さぁ、試合は誰も知らないスウィートウォーター刑務所の特設リングを舞台に行われる。ライムスは減刑、スナイプスは困窮する親類縁者のための金…とそれぞれに思惑はあるが、ここまで来たら闘士の意地と本能しかない。果たして真のチャンプはどっちか?

 オリに囲まれた特設リングのゴングが、今、打ち鳴らされた!

 

長きに渡ったウォルター・ヒルの低迷時代

 ウォルター・ヒルの新作が来る…と聞いて、興奮する人間は今どれくらいいるんだろうか?

 かつてはウォルター・ヒルと言えば、まずはアクション映画の名手として不動の位置を占めていた。「ザ・ドライバー」(1978)、「ウォリアーズ」(1979)などの作品名を挙げれば、その「男の世界」一筋の姿勢が伺える。そうしたヒット作でなくても、「ロング・ライダーズ」(1980)のシブさなど忘れがたい人も多いだろう。かく言う僕もその一人だ。ヒルの映画とくれば、絶対に酔わせてシビレさせてくれる保証付きの映画だと信じていた。

 その頂点が「48時間」(1982)、「ストリート・オブ・ファイアー」(1984)の二本だということは、誰も疑う余地はないだろう。この二本はヒルの作品群でも群を抜いた傑作だと、どんな映画ファンも認めざるを得ないはずだ。

 ところが…そこからがなぜかいけなかった

 好調の波に乗ると不安になるのだろうか、それとも芸域の新たな開拓を模索したくなるのだろうか。ヒルはここから若干の方向転換を行い始めた。コメディへの挑戦「マイナー・ブラザース/史上最大の賭け」(1985)、青春映画仕立てのブルースのルーツ探し「クロスロード」(1986)…見ててつまらないとは思わなかったものの、正直言って見ている方としてはとまどった。そしてこの新規開拓が、作品として成功したとも思わなかった。

 そんな試行錯誤の末、やっぱり自分は「男の世界」しかない…と思い直したか、ウォルター・ヒルは「いかにも」「らしい」アクション映画の世界に帰って来た。そうくりゃ怖いもんなしのはずだ。そんな「ダブルボーダー」(1987)、「レッドブル」(1988)は…しかし、何かがかつてとは違っていた

 「ダブルボーダー」などは「ワイルドバンチ」などのサム・ペキンパーの世界にも通じる現代西部劇的な世界、「レッドブル」はソ連刑事と米国刑事が反発し合いながらタッグを組むポリス・アクション。どう考えても得意分野だ。目をつぶってても面白くつくれるはず。それがなぜかうまくいかないから、世の中というものは難しいものだ。

 ただ僕としては両者を見て、一つだけ気になる事があったんだよね。それはウォルター・ヒル作品の過剰な「大作化」だ。

 「48時間」と「ストリート・オブ・ファイアー」の大成功を背景にしたヒルは、いつの間にか大家になっちゃったんだよね。映画を撮ればいつも、あの「48時間」、あの「ストリート・オブ・ファイアー」のウォルター・ヒル…という代名詞がつく。おそらくは「ダブルボーダー」、「レッドブル」あたりって、映画の製作費がそれまでと格段に違っていたはずだと思うよ。で、金がかかってると良くないなんて言うつもりはないけど、元々贅肉のない引き締まった映画の作り手だったウォルター・ヒルには、それが逆にハンデになってしまったのではないか。集まらなくてもいい金が集まってしまう。デカい企画しか来ないし、企画を具体化するうちに金がかかってデカくなってしまう…そんな悪循環に陥ったとしか思えない。

 中でも「レッドブル」は米ソ刑事タッグという点で抜群の発想だし、そこにアーノルド・シュワルツェネッガーとジム・ベルーシという逸材を手に入れて鬼に金棒の状態だったはずだ。しかもしかも、これはどう考えてもあの大ヒット作「48時間」の再現に他ならないではないか。それなのに映画はなぜか不発。絶対に面白くなりそうとワクワクしながら見ていたのに、ついに火がつかずに終わってしまった。これには僕もガッカリしてしまったよ。

 次に来たミッキー・ローク主演の「ジョニー・ハンサム」(1989)も一向に盛り上がらない、大味感漂う映画だった。ミッキー・ロークなんて例の日本でやった「猫パンチ」ボクシング試合でミソを付けて、今じゃまったく見る陰もなくなった俳優だ。でも、あの当時は男臭い役者としてまだまだ現役だったし、いかにも「ウォルター・ヒル的役者」だと思えたんだよね。それなのにまたしても不発。

 さらには夢よもう一度的な「48時間 PART 2」(1990)にまで至っては、さすがに僕もゲンナリした。コレをやりたい…今こそやらねばと焦る気持ちは分かるけど、今さらやってもうまくいかないだろうことも何となく分かっちゃうんだよね。

 その後は彼なりに反省したのか、ヒルとしては何とも小品な「トレスパス」(1992)を発表。これはそれなりに楽しめたけれど、何だか地味過ぎるのが寂しさ漂う映画だったんだよね。アメリカ先住民族を扱った「ジェロニモ」(1993)も何か違うと思った。ここまで来ると、僕もハッキリとヒルが「落ち目」だと感じないではいられなかったよ。

 そういやヒルは「エイリアン」シリーズを一作目(1979)から手がけるプロデューサーでもあった。そのシリーズが次々続編を放って4作を数えるに至って、こいつ「エイリアン」で食っていくつもりか…と、意地悪い見方すらしたくなってしまった。

 僕が知る限りでヒルのこれまででの最後の作品って、「ラストマン・スタンディング」(1996)って事になるんだろう。トップスターで男臭い役者ブルース・ウィリス主演のギャング・アクション。確かに久々にアクションの大家ヒルの名に恥じない「格」の作品ではある。それなりに面白くもあったけど、それが所詮は黒澤明の「用心棒」の翻案映画というあたりが、何をやっていいのか分からなくなったヒルの作家的低迷を感じさせてもいたんだよね。第一、これってセルジオ・レオーネの「荒野の用心棒」に一回パクられてる題材じゃないか。ヒルは本当に行き詰まっちゃったんじゃないだろうか。

 そしてウォルター・ヒルは、長い長い沈黙に入った

 ファンだった僕も含めて、みんながヒルなんて忘れてしまった2003年、突如新作を引っさげて帰って来たのは不思議な気分がしたよ。もう監督辞めちゃうかと思ってたからね。そして大丈夫なのか…と不安な気持ちにもなった。ブザマな作品なら見たくないな〜とも思った。

 だけど2003年は、世界のそれぞれ低迷し試行錯誤していた監督たちが、奇しくも「復活」してきた一年だった。スピルバーグが、フリードキンが、アラン・パーカーが、デパーマが…その他大勢のかつての猛者たちが、何らかの「復活」の手応えを感じさせてくれた。別にみんな言い合わせてやってる訳ではないけれど、僕にはあたかもそんな風に見えた。完全復活ならずとも、沈黙を破ってくれただけで嬉しい人もいた。そんな年の幕切れギリギリに、われらがウォルター・ヒルも閉店間際に参戦してくれたんじゃないか…そんな勝手なファンの期待が、またぞろ胸の中に燃え上がって来たんだよね。しかも主演がウェズリー・スナイプスとヴィング・レイムスという、いかにものツラ構えのコワモテ男優二人。そこに枯れた味のピーター・フォークだ。お話は刑務所内のボクシング試合の話。今度こそやってくれるんじゃないか? やってもらわなくては困る。僕らのウォルター・ヒルが、こんなテイタラクのままでは困るのだ。

 では、果たしてその結果はどうだ?

 

崇高で美しい「戦士の伝説」の語り部として

 映画が始まってすぐ、僕は困惑した

 主演が黒人男優二人だから無理もないとは言え、延々ヒップホップみたいな音楽ががなり立ててるのに困惑した。確かにこういうアプローチは今までのヒル映画にもあった。だけどその合間には必ず、「ロング・ライダーズ」からの盟友ライ・クーダーのシブいボトルネック・ギターが鳴り響いていたではないか。それがずっとブツブツとぎれなしにヒップホップが鳴っている。う〜ん。ヒルってライ・クーダーと切れちゃったのか。ライ・クーダーの音楽が「信頼のブランド」って感じのヒル映画のトレード・マークだったのに…。たちまち僕の胸に不安が広がる。

 そういや見る前にチラッとパンフを覗いたら、脚本と制作では「エイリアン」シリーズを一緒につくっているデビッド・ガイラーなる人物がツルんでいるではないか。でも、今までヒルはこの「エイリアン」仲間を自分の監督作には関わらせなかったはず。大丈夫かな、これって?

 映画が始まって、主役両雄のキャラクターが手早く紹介される。だが、実はあまりこの両者の間に葛藤がない。確かに両者は一触即発状態にもなるし、試合をやらざるを得ない状況に追い込まれるが、そこまでのプロセスは意外に淡々としている。ハッキリ言ってドラマはほとんどない。映画の中盤まで、ある意味で両者の人物紹介に終始するだけと言っていい。刑務所の中でチャンプの座を維持してきた冷静そのものの男と、栄光の座から刑務所に転落してきたばかりの傲慢ヘビー級チャンプがいて、それが対決する事になった…ただその状況説明、設定紹介だけしかないのだ。だから物語のジョーカーとでも言いたいピーター・フォークの存在以外は、お話にまるでうまみも語り口もへったくれもない。この「何にもなさ」には僕も唖然としたよね。

 ただ、それで退屈する間もないのだ。「これといった事もない」うちに、映画はヤマ場のボクシング試合になだれ込むからね。そして、そこで僕はハタと膝を打ったわけ。

 これがやりたかったんだ!

 試合場面は壮絶極まりない。それはスナイプス、ライムスの両俳優がカラダを鍛え上げた事もあるだろう。ファイト・シーンの振り付けを行った擬闘師の腕もあるだろう。だが、その手に汗握る迫力は、絶対に多くをウォルター・ヒルの演出手腕に負っている。試合場面の大半はオリごしにカメラが覗くかたちをとっている。だからよく見えないアングルすらある。だけど、それだからこそのリアル感がみなぎる。これはかなり巧みな作戦だ。

 考えてみれば、物語の定石から言ってスナイプスが勝利すると分かっている。そして「ロッキー」など壮絶なファイト・シーンが売りの作品が氾濫した後で、映画ファンはよっぽどの事がなければエキサイト出来なくなっている。だって所詮は作り事、所詮はハッピーエンドのアメリカ映画だ。ヒーローが勝つに決まってる。そこに何らスリルなんて生まれる訳もない。

 だが、試合場面を徹底的にリアルに撮れたらどうだ?

 それは擬闘だけではない。それを追うカメラワークもあえてリアルにする。いやいや、それだけでは足らない。そもそも物語というカタチをとった時点で「作り事」感は逃れられない。だったらそれを必要最小限度に絞ったらどうだ? 余計な情報を遮断して、すぐに試合に突き進んだら? ボクシング観客がテレビで観戦する時、チャンプと挑戦者の簡単な過去のデータやエピソードが紹介される、あるいは過去の試合のVTRが再生される…その程度の情報にとどめたら、映画観客も試合を見るような興奮に没入できるのではないか。あくまで劇映画としての体裁をとる、必要最小限度にして…。

 そういえばこの映画、冒頭でスタッフ・キャストのクレジットが現れない。そして囚人の登場人物が出てくるたび、そのキャラクターの名前と罪状が冷たく表示される。それってテレビのボクシング観戦の時の、スーパーインポーズによる紹介みたいに見えないか?

 そして試合運びは、オチが見えているにも関わらずスリリングだ。前半でスナイプスがどんどん劣勢に追い詰められるあたりも、見え透いているはずなのにハラハラしてしまう。このあたりで僕も、ウォルター・ヒルの作戦を感じ始めたんだよね。

 もし「物語性」を重んじるなら、傲慢ライムスと忍従スナイプスをもっともっと強調して、もっともっと対立させて、もっともっと善悪をクッキリ際だたせて観客に思い入れを要求するだろう。そしてみんなで一緒にスナイプスを応援させるだろう。だが、ここではそこまでドラマが彫り込まれていないから、スナイプスに大した思い入れも生まれない。むしろ映画は彼に対してクールだ。スナイプスのセリフが全部で何行あるか数えてみれば、それはよりハッキリ分かるはずだ。

 そして戦いは、傲慢ライムスを忍従スナイプスが倒すカタチでの、一種の「勧善懲悪」からどんどん逸脱していく。試合中のMCは「これは善と悪との対決です!」と叫ぶが、映画はむしろそんな両者の位置づけなど無視していく。むしろ戦う二人を、等しく「戦士の崇高さ」で彩っていく。ここがこの映画の非凡なところだ。

 そういえばヒル映画のごく初期に、こうした等価値の二人が善悪や勝ち負けを度外視して戦う作品があった。それはライアン・オニールのランナウェイ・ドライバーとブルース・ダーンの刑事が対決する「ザ・ドライバー」だ。確かに対決の最中には、ドライバーと刑事の間に善悪の観念はなかった。ともかく二人は戦う事を運命づけられて、お互い死力を尽くして戦うだけだ。それ以外の余計なものはなかった。無駄な感情表現もバックグラウンド説明もなし。どこまでもクール。どこまでも簡素。しかしあくまで戦いには静かに燃えていく。それはあたかも「戦士の伝説」とでも言いたい崇高さに満ちていた

 そう思っていたら、リングサイドで観戦しているピーター・フォークが、ほぼ同じような事をセリフで言っているではないか。映画にストーリーらしきものがあると言えば、唯一あるのがこのフォークがらみのエピソードだ。ギャングからフォークの世話を看るように言われている若者の目を通して、それは伝えられる。最初は義務からフォークの世話をする若者。だが、フォークのこの試合に懸ける情熱を知り、それにどんどん感化されていく。八百長を助言するギャングたちの言い分も突っぱねる。それはフォークの本意ではない、と。彼は本当に「いい試合」が見たいだけなのだ…と。

 ライムスに怒り心頭の囚人仲間が、スナイプスに加勢しようとインチキを申し出る時も同じことが繰り返される。それまでの経緯はどうあれ、戦う者同士には「死力を尽くす」以外の余計なものはいらないのだ。

 戦う必然性がいるから、お互いの事情を説明はした。試合をしなくてはならない設定づけもした。だが一度戦い出したら理由など要らない。ここでのウォルター・ヒルの姿勢は、そんな「戦士の伝説」を物語る事に徹している。それはいっそ潔い。だから物語にも枝葉がない。上映時間が一時間半ちょっとというのが、いかにもヒル全盛期を思わせるムダのなさだ。そもそもヒルは、戦う男たちの美しさこそを描いてきた映画作家だ。これをヒルの本卦帰りと言わずして、一体何だと言うのだ。

 そこで僕は思いだした。ウォルター・ヒルの監督デビュー作って、素手で殴り合う名もない男たちを描いた「ストリートファイター」(1975)ではなかったか。それは、栄光や名声や金とは無縁の、誰にも知られぬ刑務所でのファイトを描いたこの作品とピッタリ符合する。

 確かにまだ本調子とは言いかねるかもしれない。上映時間が短いからキズにはなっていないものの、前半のドラマとしての単調さは如何ともし難いからね。だが「作家は処女作に向かって成熟する」という言葉を思い起こした時、ウォルター・ヒルの映画を好きだった人ならば誰しも確信するんじゃないか?

 この新作が、彼の復活への力強い狼煙であるという事を。

 

 

 

 

 

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