「マトリックス・リローデッド」

  The Matrix Reloaded

 含・「マトリックス」The Matrix ショート・レビュー

 (2003/06/23)

 その1


映画への「期待値」が持つ意味

 ネット上の映画ファン同士のやりとり…まぁ、普通にやってるうちは楽しいんだけど、どうして時々もの凄く訳わかんなくなるんだろう?

 僕は最近、そのあたりの事をよく考えることがあるんだよね。そして、ふと気づいたことがある。それは、映画の話でしばしばすれ違ったりどっちかの一方通行になったりするってことは、実はお互いが全然違う土壌で映画を見ているからだ…ってことなんだね。

 「当たり前だ」って?

 確かに当たり前の事ではある。だけど、どう「当たり前」かって本当のところまではあまり考えられてはいまい。

 ここでの「違う土壌」ってのにはいろんな意味が当てはまるが、僕にとってはここに「人によっての期待度」って言葉を当てはめるのが一番ピッタリくるんだよね。あるいは「期待値」という言葉を使ってもいい。

 何でこんな映画がかくも高い評価を受けるのか、何でこの作品がこれほど不当に叩かれねばならないのか…ってこと、よくあるよね。「人はそれぞれ」…そんな時には大体がこんな無難な言葉でくくられてしまう。だが実際のところは、その人その人がどれほどその映画に期待していたか期待していなかったかに、すべては関わってくるんだと思うんだよ。

 だから誰かがつまらないと言った意味と、誰かが同じ映画を面白いと言った意味は、実はよくよく比較すると印象の違いでしかなかったりする。つまりは期待していたかいなかったか、期待していたとしたらその度合はどれくらいか、期待してなかったとしたらどの程度見放していたのか…これによって作品の評価はガラリと変わる。こんな頼りにならないモノもないんだよ。

 だから、この「期待値」の違いを大前提に押さえないで何を語っても、どちらか一方の考えの押しつけか双方の主張のすれ違いにしかなり得ない。仮に意見が一致したとしてもそれは単なる偶然で、実は決して何かの考えを共有した訳ではない。どこまで行っても孤独に不毛なわけ。映画の評価ってことを考えた時にこの「期待値」ってことを度外視したら、そりゃあとてつもなく空疎で空虚でスッカラカンに中身カラッポだ。

 まぁ、そんな事を僕に感じさせたのも、元を辿ればあの「マトリックス」が発端だったかもしれない。「マトリックス」があったからウンザリの原因も探れたし、「マトリックス」があったからサイトを続けていく気になったのかもしれない。

 何でも今年は「マトリックス・イヤー」だと言う。第二作「リローデッド」がこの6月に、最終編「レボリューションズ」が11月に、間を置かずに次々公開される。だとすると、サイト開始の年に公開された「マトリックス」の衝撃に、ここで落とし前をつけねばならないのかも。だから僕は、他のアメリカの娯楽大作の公開のように、この二本をボケッと見ているわけにはいかないのだ。

 

僕はなぜ「マトリックス」にノレなかったのか?

 まず、この映画を語るには、前作「マトリックス」を語らねばならない。

 また始まったか…と言われるかもしれないが、これを語らなくては次に進めない。特に僕の場合は、どうしても語らなくてはいけないのだ。

 というのも、僕は前作「マトリックス」に当初否定的な評価を与えていたからだ。

 それは当時の感想文を見ていただければ、すぐに分かることだ。ところがこの映画がかくも大きな反響を呼び、幾多の亜流作品やアクションの見せ方に影響を受けた作品が続出するや、僕は少なからず動揺したんだね。ひょっとして、僕は「マトリックス」の評価を見失ってしまったのか?

 こんな事を思うのは、よくよくの事だ。いかに「マトリックス」が大ヒットし、どれだけ模倣されようとも、普通なら僕はそんなことには動じない。極端に言えば、自分の口には合わなかったのだ…で済ませれば良いことだ。それがずっと内心の動揺を引きずっていたって事は、実は見た直後も僕の中に何か引っかかることがあったんだろうね。

 案の定、それから一年後くらいにDVDで見直した時、「マトリックス」は僕にとって面白い映画に変貌していた。いや、正確には最初見た時から面白くはあったのだ。だが、これじゃちょっと…と思っていたところもある。それが「マトリックス」への辛い評価となっていたのだろう。

 だが、何より僕が動揺したのは、僕と同様に「マトリックス」に辛い評価を下した人々が多くいたということだ。

 彼らの中には僕への同意を伝えてくる人もいた。だが、そういう人々の辛い評価を見ているうちに、逆に僕にはそれはちょっと違うんじゃないかとの疑念が芽生えて来たのだ。

 僕は時代遅れになってしまったのか?

 僕がこの映画にノレなかったのは、映画に問題があるんじゃなくて、僕の方に問題があるんじゃないのか? 僕に賛同してくれるカタチで「マトリックス」を批判する人々の言い分を見ているうちに、どうしてもそんな思いをぬぐい去れなくなってきたのだ。人間ドラマがない、キアヌ・リーブスが何を考えているのか分からない…それじゃ面白い娯楽映画としてちょっと足りないのではないか? 僕もこれらの人々と同じ事を言った。だが、改めてそれらの主張を客観的に見ているうちに、なぜだか僕は胸騒ぎみたいなものを感じたのだ。

 本当にそうなのか? 娯楽映画はそうじゃなくてはいけないのか?

 この映画が、アニメやテレビゲームやらの強い影響下にあることは、誰でもすぐに思い付くことだ。それに過度の嫌悪感はなかったか。そして、そもそも「そういう映画があってはいけない」のか?

 案の定、そんな疑念の下に改めてDVDで見た「マトリックス」は面白かった。抵抗感もなかった。なぜなのか?

 これについては懺悔文も書いているので読んでいただきたいが、実は今回「リローデッド」を見るに当たって、改めて前作をDVDで見直した。まずは、なぜ前作がノレなかったのかをここで改めて検証したい。それは、実は今回の「リローデッド」を解くカギになるかもしれないからだ。

 

 まずは僕が「マトリックス」に当初ノレなかった理由は、次に挙げるような事があったからだと思う。

 

(1)予告編から抱いた先入観

 「マトリックス」予告編は、僕を大いに期待させるに十分だった。すでにアクション場面のいくつかは出てきたし、それを見てもワクワクされられるところが大だった。これは物凄くユニークな映画になるな。

 特に注目したのはキアヌ・リーブスとキャリー・アン・モスがビルのロビーで繰り広げる銃撃戦だ。

 スローモーションで舞うように銃弾をかわす二人。雨あられと襲いかかる銃弾は、ビルの壁面や柱を瓦礫の山に変えていく。この壮絶な銃撃シーンを彩るのは、重厚なクラシック風のオーケストラ演奏とコーラスだ。何とも甘美で美しい。僕はこの映画が近未来の黙示録的状況を描いたものだろう…とすでに踏んでいたので、この重厚感や荘厳な雰囲気に酔わされた。これはかなり分厚くて重いSFアクションになるな…。

 ところが本編でこの場面を彩ったのは、今風なロック・ミュージックだ。アレレレ…と、僕は大いに戸惑った。これって重厚な映画じゃなかったの?

 今風音楽は全編に流れて、どうやら映画はアニメやテレビ・ゲームの影響が強いことが分かって、題材そのもののマトリックスが、まるでゲームの仮想空間みたいなものだと見てとるや…まぁ、ここらが僕の古い人間たる所以かもしれないが、ちょっとガッカリしちゃったんだね。

 もっと重いテーマの映画だと思ってたのに、軽いこと軽いこと。それも今風なええカッコしいアクションじゃないか。

 過度に重厚でヘビーなものを期待し、それがあまりに大きかったので、僕は今さら軌道修正出来なくなった。まずは、これが僕が「マトリックス」にノレなかった第一の原因だと言って間違いない。

 

 

 

 

 

 

次の項目だけは「オープン・ユア・アイズ」ならびに「バニラ・スカイ」未見の人は読まないでください。

(飛ばしてご覧になる方はこちら

 

 

 

 

 

(2)「オープン・ユア・アイズ」とSFファンとしての先入観

 先に挙げたように、僕はすでに「マトリックス」を近未来の黙示録的物語と思っていた。そして「マトリックス」に先立つことほんの1ヶ月ほど前に、僕はまったく期待することなしに、ある一本の映画を見ていた。

 アレハンドロ・アメナーバル監督のスペイン映画「オープン・ユア・アイズ」だ。

 この監督の前作「テシス」が面白かったので、僕はそこそここの映画にも期待していた。だが、この映画はまったく話題にもならず、ひっそりと上映を終えようとしていた。僕は慌てて劇場に向かったんだね。

 見る前はサスペンス映画だと思っていて、事実見始めてもしばらくはそう思えていた。ところが途中で…。

 アレレレ…?

 映画はとんでもないスケールの話に発展。期待も予想もしていなかっただけに、僕はかなり圧倒されたんだね。すでにこの作品は「バニラ・スカイ」としてハリウッド・リメイクもされ、みなさん周知のことと思うが、念のため詳しく物語を紹介はしない。万が一見ていない人の楽しみは奪えないからね。でも、これには驚いた。

 だから、「マトリックス」を見た時、アレじゃないか…としか思えなかった。まぁ、全然テーマは違うんだけど、出てくる道具立ては同じだよね(もうすでにこれで分かる人には分かっちゃうんだけどね)。

 片やまったく期待もしなかったし予想もしなかった映画でのアレ、そしてもう一方は期待に胸躍らせつつ予想はついていた上でのコレ。そりゃどう見たって「マトリックス」の分が悪い。

 しかもアレって、SF小説などを読みつけている人間にとっては、実は割とよくある趣向な訳なんだよね。それを映画でやったってとこが画期的なのだ。だから、趣向だけではビックリ仰天というわけにはいかない

 しかもしかも、その「マトリックス」が世間ではバケツの底が抜けたみたいな騒がれよう。もちろんあのスゴイSFX、画期的アクションへの賛辞がほとんどではあったが、「マトリックス」って趣向そのものもモテはやされた。そうなっちゃうと、あれは驚くにあたらない…しかも、すでに公開されてる「オープン・ユア・アイズ」に似た趣向があるではないか…と、こうなっちゃう。もちろん「マトリックス」って映画の主眼は、実はあの世界観の提示そのものにはなかった…と今では思っているけど、それでもあの世界観を映像で見せることに新しさがあったのは事実だ

 だからヘソ曲がりの僕は、そこで「そんな大したもんでもないだろう」…と、こう言わずにいられなかったわけ。不当に「オープン・ユア・アイズ」が冷遇され、「マトリックス」が持ち上げられている…と。「オープン・ユア・アイズ」の都内の公開は話題にもならず、すぐに終わってしまったからね。アメナーバルが騒がれ出したのは、その後の話だ。そうして、僕は「マトリックス」を逆に不当に冷遇してしまった…。

 

(3)映画ファンが陥りがちな先入観

 こうなると、どんどん「マトリックス」への疑念は増すばかり。それでも驚いたことに、今回改めて最初の酷評感想文を読み返してみると、僕はこの映画を一応は評価しているようなのだ。例のイマイチに思った世界観の提示も、それはビックリ・アクションを見せたいがゆえだったとまで書いている。そのアクションは確かにスゴイし、映画として面白いとまで書いている。なのに、なぜ酷評?

 ここで、例の「マトリックス」に出てくる人物たちの人間像…わけても主人公キアヌ・リーブス扮するネオがよく分からない…って指摘につながるわけだ。

 やっぱりアクションが派手でもそれだけではねぇ…というのは、常に僕が言い続けたことだ。派手な見せ場も結構、SFXやスペクタクル結構、アクションでバンバン人が死んでビルが崩壊しても結構。岩波ホールのパンフレットに書かれた文章みたいに、そんなの映画じゃない…なんてウソくさい事は言うまい。僕もそういうのは大好きだ。

 でも、それらをさらにスゴく見せるのは、そこに人間のドラマが絡んでくるからじゃないか?

 そういう意味で、この「マトリックス」のドラマって人間味が稀薄だ。だって人生観が一変しちゃう事態に放り込まれるんだよ。それにしてはキアヌは淡々とそれを受け入れている。しかも難なく状況に溶け込み、しかも救世主として崇められつつある。確かに劇中キアヌもこの救世主扱いには当惑していたけれど、自分の人生すべて夢だったと教えられ、あげく世界が崩壊しちゃってることを知らされ…おまけに自分がその救世主として見なされそうだ…なんて事になったら、凡人たるものあんな淡々とした反応かね?

 まして作者のウォシャウスキー兄弟は、前作「バウンド」であれだけ濃厚ドラマを展開した連中だ。「バウンド」を見た時には、僕は「ブラッドシンプル」で出てきたばかりのコーエン兄弟の再来を思ったよ。それどころか、そのドラマの濃厚さに、近年スッカリ気取ってばかりで衰弱したコーエン兄弟の上をゆくのでは…と大いに期待さえした。そこにこのウォシャウスキー兄弟が次にSF大作を放つと聞けば、元々SFファンの血が騒ごうと言うもの。アクションも凄そうだ、重厚感も満点らしい、こりゃ楽しみだ。

 それが、あのがらんどうぶり

 こうして相乗効果で膨らみに膨らんだ期待と先入観が、「マトリックス」を素直に受け入れさせなかった要因だったことは、大いにあり得るではないか。

 

 映画ってのはいろいろな要素を含んでいる。おまけに時代の産物でもある。受け手個人の嗜好もある。だから、作品の評価が極めて難しいメディアだと思うんだよね。そして大概の場合、人が映画を評価するのは、得てして「期待値」とそれに対する実体との比較によってだと最近つくづく思うんだよ。

 「マトリックス」について言えば、僕が事前に得た情報から勝手に膨らませた期待感と先入観に、僕が元々映画やSF作品に抱いていた概念が加わって、すごく不幸な出会いをしたんじゃないかと思うんだよね。本格SFの緻密な世界観に重厚なムードが加わって、しかもそこに濃厚な人間ドラマが展開する作品。この予想がことごとくはずされた事から、僕は「マトリックス」を見失っちゃったんじゃないかと思うんだよ。つまりは、僕が勝手に期待していたような作品じゃなかったってことだ。

 実はここまで書いて、それでも一つだけ解けない問題がある。濃厚ドラマを期待したしないは別として、「マトリックス」の人間像…特にキアヌのキャラクターのがらんどうぶりは、どう考えても疑問として残る。ならば、やっぱり「マトリックス」って一つの映画作品としてイマイチだったということになるんじゃないか。だったら僕は全然それを脅威として怯える必要はないじゃないか。おまけにDVDで見直したら良かったって事もあるまい。

 その後、「マトリックス」については僕もいろいろ情報を得た。がらんどう…と僕が書いたドラマ面についての異論だ。「不思議の国のアリス」の引用などは何となく分かったが、その他にも聖書などの引用が多々あったと言うのだ。なるほど、確かにキリストの再来的なニュアンスはキアヌにはあった。だけどそれが鑑賞の妨げになるほどコンセプトの中で重要性を持つモノでもないし、かつ一般の日本人に理解不能なものでもあるまい。がらんどう人間ドラマを欧米人お馴染みの概念で補強するってのはあり得ることだ。だが、それだからってキアヌのがらんどうぶりが解消されてるとは思えない。

 

180度評価が転換した「マトリックス」

 では、なぜ「マトリックス」はイマイチと斬って捨てられない? なぜ一年後見直したら、それが面白く思えたのか?

 

(1)先入観がなくなった

 改めてDVDでパソコンのディスプレイに写し出した「マトリックス」は、僕の目にとても面白い映画に写った。

 それはまず、「自分が時代遅れでは?」という思いが、僕を無心で画面を見ようという気にさせたから…という事があるだろう。絵を追っていくと、「マトリックス」は無条件に楽しい。DVDでパソコン画面で見ているという気安さも、そんな重苦しい気持ちを失わせるに十分だった。BGVとして、あれほどカッコイイ映像もなかなかないからね。

 SF的世界観うんぬんも、公開後一年を経過して「オープン・ユア・アイズ」の記憶も遠くなったこの時点では、あまり大きな問題ではなかったんだよね。もうロックが流れているのも知っていたし。バカバカしい話だが、もう僕はこの映画に過大な期待は持たなかった。だから面白さだけが際だって見えたんだろうね。

 

(2)見る器が違っていた

 これはまったく器の問題なんだけど、映像のディティールが凝りに凝っているこの映画は、まさしくDVDで見るには適した映画だったんだね。そりゃアッチコッチ止めて何度も見たよ。

 おまけにこれはまったく下らない偏見なんだけど、この映画のアクションやSFXの持つ、どこかアニメやテレビゲームやニュー・メディアっぽいオタクな雰囲気もイヤミにならなくなっていた。それって、DVDでパソコンで見ているからか…バカげていると言わないでくれ。僕は古い男だ。やっぱりそういう偏見をどこか引きずっているんだろう。これをここで明らかにしなくては、たぶん僕は「マトリックス」」に抱いた気持ちを検証出来ないだろう。だからあえて恥を忍んで明らかにするよ。

 そうするとやっぱり面白いわけ。あの、僕が抱いていた気持ちって何だったんだろうね?

 

(3)新しい映画をすでに経験していた

 これは何で自分が「時代遅れ」と思ったのか…という理由でもあるんだけど、あれ以来、映画の表現が明らかに違う作品があちこちから生まれてきた。「マトリックス」のパクり作品やパクり表現の作品群のことじゃないよ。そうでなくて、まったく「マトリックス」とは縁もゆかりもない作品でも、今までと明らかに違う雰囲気が流れていたんだよ。「ラン・ローラ・ラン」とか「ロック・ストック・アンド・トゥー・スモーキング・バレルズ」とか「アムス・シベリア」とか「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」とか…。いや、もっと挙げれば「ファイト・クラブ」だとか「グリーン・デスティニー」とか「五条霊戦記」とか…たぶん調べればもっと出てくるだろうけど、明らかにそれ以前の映画とどこか様変わりしていた。

 ただ、それらはまだ僕の理解の範疇にあったってことだ。あるいは僕の心の琴線に触れやすい部分を内包していた。いや、違う違う。「マトリックス」はむしろ近すぎたのだ。SFファンだったと言うのがそこではアダになった可能性は多分にある。

 そして、これらの作品を通過して改めて見る「マトリックス」は、僕にとって違和感のない映画に変貌していたのだ。

 

(4)亜流作品との比較が出来た

 そして当然のごとく、「マトリックス」亜流作品もイヤというほど見た。それで改めて思ったことは、「マトリックス」があのアクション表現を成立させるために用意した設定のうまさなんだよね。

 結局そのカッコいい表現はマネ出来ても、それはただカッコよさを模倣したモノでしかない。必然性なんかない場合が大半だった。だから、その出来映えは大体の場合空疎なものだったんだね。

 「マトリックス」はそんな何でもアリ状態のアクションを展開するべく、マトリックスというシステムを作りだした。だからあの表現は可能だったのだ。それが、ただカッコいいってだけで使ったら、そりゃ空しいだけだろう。改めてあの設定の巧みさと用意周到ぶりを思い知ったわけ。情けないけど、それが現実だ。それならば、あの表現はアリだな…と。

 

 でも、まだキアヌががらんどう…って問題が解決してないって? それは上に挙げた(3)項目の問題に絡んでくる

 

(5)映画の概念に変化が生まれた

 今までになかった表現やハミ出した映画が当たり前になりつつあるとき、過去の映画メソッドやセオリーではくくれないものが出てくるのは必然ではないか。

 人間ドラマがなければアクションは活きない。…え〜と、ヤボを承知で念を押して言うと、ここでの「人間ドラマ」ってのは何もベトついた恋愛話を入れろとかジメついた人情話を入れろとか主人公をネチネチ落ち込ませろとか、そういった事ではないよ。単純に言うなれば、アクションにその人物なりの必然性があるということだ。例えば借金抱えてギリギリの男が賞金の懸かった自動車レースに出るのと、ただ勝ちたいだけの男がレースに出るのとでは、そのドライビングの見え方が全然違うだろう? 見る側の気持ちが違ってくるだろう?

 だから、人間ドラマがなければアクションは活きない。そうだ、過去の作品ではそうだった。だが、そうではない作品が生まれて来たら?

 この映画は面白くないのか? いや、面白かった。…ということは、人間ドラマが稀薄であっても、アクションだけで見え方だけで成立する映画が存在するのではないか。あくまで僕は人間ドラマがなければならない…と言ったのではなかった。人間ドラマがなければアクションは活きない…と言ったのだ。ならば、アクションがちゃんと活きているのなら、そういう映画もアリ…ということにはならないか?

 もう僕はこの映画がマンガやアニメやテレビゲームなどのメディアの影響下にあることを知っている。それらには、当然そういう表現もあるだろう。ならば、それもアリではないか?

 そんなの映画じゃない!

 僕に賛同して…いや、賛同してくれたわけではないかもしれないが、「マトリックス」批判を展開していた人たちの意見の大半がそれだった。でも、それって銃が出てきたりビルが崩壊したら映画じゃないって言ってる岩波ホール的考えとどこが違うのか?

 第一、映画ってそういうモノって誰が決めたんだ?

 よしんば今までは映画ってそんなモノだったと仮に言おう。だが、それがいつまでも変わらないとは限らない。昔、トーキーが出てきた時に、音が付くなんて邪道だと言われた。ワイド・スクリーンが出た時も、こんな幅広じゃドラマが語れないと叩かれた。でも、リュミエール兄弟の時代からメリエスの昔から、映画は元々見せ物的要素を内包していたではないか。それなのに、今回だけ「映画じゃない」なんて言葉が通用するだろうか?

 面白くない映画はダメだ。だが、面白いならオーケーではないか?

 

 かくして僕は、ここで「マトリックス」について180度転換する評価を持ったんだね。転向者、裏切り者になったわけ(笑)。でも、かくも長い間、僕にいろいろ考えさせた映画も他にはないよ。そして、僕は変わりつつある映画にここはついていこうと思った。実は「DAY FOR NIGHT」がここまでもってきたのも、ひとえにこの「マトリックス」にまつわるいろいろな問題があったからだ。これが僕に、今の映画を追っていこうと思わせる最大要因だった。

 大げさではあるが、僕にもの凄いショックを与えた「マトリックス」への最終的…いや、“「リローデッド」を見る前の時点での”と言っておこう…評価はこうなる。

 

 近未来SFとしての設定は映画としては…少なくともアメリカ娯楽映画としては画期的。自分の実生活のアイデンティティーの崩壊という題材も興味深い。だが、それはこの映画では重要視されていない。なぜなら、そんな驚愕の事態に至っても、主人公ネオことキアヌ・リーブスの動揺が描かれているのは必要最小限だから。それがドラマ的な空疎さを思わせる点もあるが、それはおそらくは折り込み済み計算済みのことだろう。

 そもそも主人公のアイデンティティー崩壊をもたらしたマトリックスというシステムは、ここでそんな日常の危うさを表現するためには(少なくともこの一作目では)設定されていない。そういう趣もあるにはあるが、それが第一の目的ではない。マトリックスというシステムは、この映画の今までにないアクション表現を可能にするために設定された。そこでは今までマンガやアニメやテレビゲームでないと表現されなかったモノが実現する。なぜ今までそれが可能でなかったかと言えば、基本的に写実=リアルさを要求される実写映画というメディアでは、それが観客にとって違和感の強いものに写る可能性があったからだ(元々映画というメディアが記録のためにつくり出された経緯を考えてみれば、それはハッキリ分かる)。

 ところが、マトリックスという仮想現実さえあれば、すべてはウソっぽくなくなる。それはゲームのルールだ。さまざまなニュー・メディアに親しんだ観客たちの成熟と、そんな一見突飛な表現を可能にする設定があればこそ、「マトリックス」の画期的なアクションは可能になった。キアヌはじめ登場人物のドラマ性が稀薄なのは、その表現を可能にすることにすべてが優先した結果であると同時に、ベタついたものになりがちな濃厚ドラマが、この表現の一種の飛翔感を妨げるものになると判断されたからだろう。

 ともかくその画期的表現のためにマトリックスというシステムを設定したことが、最大の成功点だ。しかも、このマトリックスは物語の核にもなっている。表現と設定と物語が、「必然性」で繋がれている。そこが何より非凡な点で、「コロンブスの卵」的に一見容易に見えて実は卓抜したところだろう。

 

 小難しく言うとこんなところだろうか。何だか堅苦しくなって「マトリックス」という破天荒なアクション映画を語るに、ヤボな気がしてしょうがないね。ちょっと構えた言い方をしてしまった。

 つまりは何でもアリの設定をつくった事がスゴイし、そこで描かれたアクションも物凄いから、キアヌのドラマがどうした…なんて言うのは的はずれだった…って言いたかったんだよね(笑)。ついでに言うなれば、そこに「不思議の国のアリス」だ、キリストだって言うのも、たぶん物語をもっともらしく見せるための補強材でしかないだろう。それはそれで、アリだ。

 まぁ、最初見て何でダメだったのだろう…と思った時もショックなら、その後で見直して面白かったのもショック。自分がいいかげん歳とったという、前々から薄々感ずいていた不安感も相まって、僕にとって「マトリックス」はシャレにならない映画となっていたわけ。だからこれを読んで、何を大げさな…とバカにされちゃったら僕も立場がない。

 でもって、今回「リローデッド」を見るにあたって改めて前作「マトリックス」を見直したんだけど、これが実に単純な映画なんで驚いちゃったりもした。まぁ、元々あの映画の中の意味ありげなセリフはさほど意味がないとは思っていたけど、これほど単純だったとは…。割と一気呵成に見せるアクション映画に出来ていた事に気づいて、拍子抜けしたりもした。

 だから、これで僕なりに前作「マトリックス」の総括は出来たと思うよ。そろそろ続編「リローデッド」を見てもいい頃だ。今度は前回で懲りてるから、DVDで再度見た時のように頭ん中カラッポで行こうと思ったわけ。

 ただし、そうは言ってもある種の予想ってのはどうしても頭の中に生まれてくる。この時点での僕の「リローデッド」への予想は次に述べる通りだ。

 マトリックスのお約束事はすでに前作で語られたから驚きはナシ。さらにあの画期的だったアクションも一回出しちゃって、あげくさんざパクられた後だけにこれまた驚きナシ。ストーリー面でもネオ=キアヌの成長はすでに果たされたし、人類側の巻き返しに終始せざるを得ないし、結論は次回「レボリューションズ」に持ち越さざるを得ないから、かなり中途半端にならざるを得ない

 従ってこうなるとストーリー面で何らかのドンデン返しを設けるか、新キャラの登場や脇道の設定で煙に巻くか。アクションや見せ場は新鮮味がないなら、ひたすら大幅増量で押しまくるしかない

 結果、それでオッケーとなるかどうか…ここが「リローデッド」が成功するか否かの分岐点だろう。

 さて、この予想はどの程度当たったかと言うと…。

 

 

 

つづく

 

 

 

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