「フル・フロンタル」

  Full Frontal

 (2003/12/29)


解散後のビートルズは本当に反目し合ってたのか?

 先日、高校時代の友人たちと忘年会をやったんだよね。

 寒風吹きすさぶ夜の新宿。一時は危うく入れる店が見つけられなくて路頭に迷いそうになったけど、何とか居場所を見つけてよかったよ。で、またまた昔話に興じていたわけだ。いくら嫁さんたちに呆れられても、僕らにはそれしか楽しめる話がない。

 新しい話は…と言えば、せいぜい最近発売されたビートルズの新しいCD「レット・イット・ビー・ネイキッド」の話。だから基本的には新しい話でも何でもない。で、僕らぐらいの年代だとみんなアレを買ってるんだよな、これがまた。

 ところでこっちは世間の事情にすっかり疎くなっちゃってたんで知らなかったんだけど、最近どこぞでビートルズの新たな未発表音源が発見されたって、もっぱらの話題らしいんだよね。その席に来ていた友人からその話を聞いた。

 それって1960年代のスタジオ・アウトテイクとか、コンサートでのライブ録音ものとか…せいぜいそんなモノだろうと思っていたら、実はさにあらず。何と1976年の音源だと言うから驚いたよ。

 ご存じの通り、ビートルズは1970年には解散していた。その際には特に中心人物のジョン・レノンとポール・マッカートニーとが反目し合い、ともかく骨肉の争いって感じだったんだよね。マスコミのインタビューを通じてお互いボロクソに言い合ってたし、一番大人しそうなリンゴ・スターからして再結成なんてあり得ないって口調だった。上記のジョンとポールなんて、それぞれのアルバムにお互いを罵る曲なんか入れちゃってるから、もうこれは修復不可能だろうなと思わざるを得なかった。

 それからしばらくして、それぞれがスタジオ・セッションなどでニアミスを繰り返すようになったものの、4人で顔を合わせた機会ってのは公式にはなかったはずだ。そんなこんなしているうちに1980年にはジョン・レノンは暗殺され、ビートルズの再結成は絶対不可能の幻と消えたわけ。

 1995年の「アンソロジー」プロジェクトで再結成の曲をレコーディングしたものの、それってすでに死んだジョンの歌声テープに他の4人がダビングしたというシロモノだったからね。ホントは再結成なんてもんじゃなかった。それでも旧来のファンとしては、ジョンを除いた3人だけでも一緒にいるのが奇蹟って感じたもんだった。逆に言うと、それくらい彼らの関係ってのは、こじれちゃった感じがあったんだね。で、もう二度とヨリを戻す事はないだろうと思ってた。

 ところが、事もあろうに反目状態の真っ只中の1976年に、ビートルズの4人がセッションしてレコーディングした音源があった…。

 今回のこの話によれば、彼らは一応再結成を試みてはいたと言うのだ。一時的か永続的かは別にして、ともかくやってみようとした。で、ロサンゼルスでレコーディングしてみたんだけどうまくいかず、結局イヤになってやめちゃった。録音テープ自体もそんな訳で、そのまま闇から闇へと葬られてしまった。…どうもそんなイキサツだと言うのだ。

 ま、ハッキリ言ってガセネタの可能性もかなりある。というか、ガセの可能性の方が高い話ではあるね。実際にビートルズの会社アップルもビートルズ研究家も、この話を頭っから否定しているらしい。その程度の信憑性に乏しい話でしかない。まぁ、おそらくは作り話と考えるのが妥当な話ではあるだろう。

 そもそも、ビートルズの未発表音源の話など山ほどある。解散後間もなくまことしやかにささやかれた「ホット・アズ・サン」とかいうアルバムの話など有名だ。この話は完成済みだったビートルズのアルバムのマスター・テープが、アビーロード・スタジオから盗み出されたってもの。巨額の費用で取り戻されたものの空港の税関X線検査で間違って消去されてしまったなんて、いかにもなオチまでついていた。だから今さらどんな話が出てきても、ビートルズに関しては限りなくイカサマくさい話と考えた方がいい。

 でも僕はこの話を聞いて、実は妙に納得できるところがあったんだよね

 というのは、例えばこんな話を後年いろいろと聞いていたからだ。ニューヨークに住むジョンのアパートに、ポールがギターを持って遊びに来た話。これはジョンのインタビューに収録されていた話で、結局は家事で忙しくしているジョンが、ギターなんか持ち込んで来たポールを怒鳴りつけた…みたいなオチにはなっていた。だけど、そもそも反目し合ってるヤツの家に、ギターなんか持って遊びに行くか? あるいはポールのレコーディングをジョージ・ハリソンが表敬訪問した話。別に行かなくたっていいのに、どうしてわざわざスタジオまで訪れるのか? こんな話の断片に触れるたび、僕は「こいつらってホントに仲悪いの?」って不思議な感じがしたんだよね。

 まぁ、確かにマスコミの面白おかしくつくりあげたお話ってところはあるだろう。他人の大喧嘩…それもビートルズって来れば煽りたくもなる。でも、お互い罵り合ってたのは本当だからね。アレって一体何だったんだろう?

 僕はねぇ、そこが人間ってもんじゃないかと思っているんだよ。

 人間、メンツも大義名分もある、プライドだってある。一旦掲げた看板はそう簡単に下ろせない。ましてビートルズの場合は全世界に大々的に配信されてしまったからね。一度でも反目だとか内紛だとか出ちゃったら、そしてそういう事を自分でも公に言っちゃったら、もう取り下げる事なんて出来ない。いや、これは別にビートルズみたいな有名人でなくても同じだよね。そして、そんな相手を気に入らないと思ったのも事実だから、その勢いがついたまま罵ってもしまう。

 だけど本音ではそうじゃない部分だってあったんじゃないか?

 あるいはあっちへ行って罵りながらも、こっちでは親しげに思っている…そんなところもあるかもしれない。人間とは矛盾の生き物だ。そして理屈じゃない。だからそういう事だってあってもおかしくはないだろう。

 だけどやっぱり自分にはプライドも立場もある。いろいろあった手前譲れない。まして自分は悪くなかったと思えば、なおさらの事だろう。こうしてオモテだっては彼らは元のサヤに戻る事が出来なかった。

 いや。一時は修復も考えたのだけれど、やっぱりうまくはいかなかった。そしてオモテとウラの矛盾を抱えながら、結局そのままで終わってしまった。

 今回のいかにも胡散臭いビートルズ再結成テープの話が、イカサマと半ば分かっていながら世間に広まっていったのには、いくつか理由があるだろう。そこにファンの願望を叶えてくれる要素があったから…ということも確かにあっただろう。だが、おそらくこのインチキ話がインチキ話と言い切れなくなった背景には、誰しも内心思い当たるあいまいで矛盾した心理的要素があったからだじゃないか?

 だって、そういう事って僕らにもありそうな気がするもんね。そういう説明のつかない、理屈の通らないオモテとウラっていうのは。

 

主要登場人物をご紹介

●ジュリア・ロバーツ

高額ギャラを欲しいままにする映画スター。ハリウッドの売れっ子プロデューサー、デビッド・ドゥカブニーの誕生パーティーに呼ばれている。

●ブレア・アンダーウッド

黒人俳優。セックスに罪悪感なし。ドゥカブニーのパーティーに呼ばれている。

●デビッド・ハイド・ピアース

雑誌記者の傍ら映画脚本を書く。妻に「退屈な男」と見透かされるのを恐れる。ドゥカブニーのパーティーに招待された。

●キャスリーン・キーナー

大企業の人事部長。自分が絶対正しいと思い込んでいる。ドゥカブニーのパーティーに呼ばれているものの、実は夫であるデビッド・ハイド・ピアースの「連れ」扱いでしかない。

●メアリー・マコーマック

マッサージ師。マッサージの客とネットで知り合った相手には「アン」と名乗っている。ドゥカブニーのパーティーには姉のキャスリーン・キーナーから招待された。

●エンリコ・コラントーニ

劇作家兼俳優。ネット上では22歳の画家と偽っている。母親からの虐待経験あり。ドゥカブニーのパーティーには呼ばれていない。

 

あらすじ

新作映画「ランデブー」

 テレビ俳優(ブレア・アンダーウッド)はニューヨークの空港で女性記者(ジュリア・ロバーツ)と落ち合う。彼はこれからロサンゼルスで新作映画の撮影に参加する。女性記者はその俳優に同行して、インタビュー記事をモノにすることになるのだ。二人はそのまま飛行機の機上の人となった…。

 

ロサンゼルス、金曜日

 キャスリーン・キーナーは夫デビッド・ハイド・ピアースとの関係が暗礁に乗り上げたと感じ、離婚したいと手紙にしたためて家から出勤する。さすがに面と向かっては言えず、二人が招かれている映画プロデューサー=デビッド・ドゥカブニーの誕生パーティーまでに呼んでくれれば…と思ってのことだ。

 だが夫ピアースは手紙に気づかぬまま職場の雑誌社に出勤。それでも彼は、夫婦仲が思わしくないとは気づいている。自分の人生についても疑念が絶えない。

 キーナーはある企業で人事部長をしているが、リストラの仕事をやらされて心労が絶えない。そのストレスからか、リストラ対象の社員たちにやりたい放題の奇行も目立つ。

 一方ピアースは自分が無能と見下していた編集長から、いきなりクビを言い渡された。慌ただしく荷物をまとめて社を後にするハメになる。

 その頃ダウンタウンのオフシアターでは、映画「ランデブー」の脚本をピアースと共作したエンリコ・コラントーニが自作のヒトラー劇の稽古を進めていた。だが主役ヒトラー役を演ずるニッキー・カットは言うことを聞かない。今夜が初日というのに、まったく先が読めない状況だ。そんな彼はネットで知り合った「アン」という女と、明日ツーソンでデートする約束をしている。自分の事は22歳の画家と偽りながらも、甘い事を考えて一人悦に入るアリサマだ。

 その「アン」とは、実はマッサージ師をしているキーナーの妹メアリー・マコーマック。彼女は男との関係をうまくやれずに悩んでいて、このネットで出会った男とのデートに賭けていた。しかしそんな妹マコーマックにキーナーはキツい言葉ばかり吐く。あげく今夜のパーティーでプロデューサーのドゥカブニーを紹介するとデカい事を言っていた。大人しい妹マコーマックはこの姉キーナーの高圧的な態度がどこか気に入らない。パーティーにも出たくないと繰り返すばかりだ。

 実はこの姉妹が顔を合わせたのは、妹マコーマックが姉キーナーへの誕生日プレゼントを渡すため。だが、この二人は昨年の誕生日プレゼントの事で口論になる。何と昨年の誕生日プレゼントは、女性が一人で楽しむために用いる例の「器具」。それがあまりに無神経だとキーナーは怒るが、妹マコーマックに的確に願望を悟られたらしいあたりも気に入らない。

 そんなマコーマックは、今日もホテルでのマッサージの仕事にやって来る。ところがお客の男はマコーマックに「特別なサービス」を要求した。最初は「そんなマッサージではない」と拒むマコーマックだが、相手が提示した謝礼の金額についつい手を染めてしまう。そんな屈辱と怒りに打ち震えたマコーマックは、ひょんな事から客が今夜のパーティーの主賓=プロデューサーのドゥカブニーだと知る。

 その頃同じホテルの一室では、キーナーが俳優ブレア・アンダーウッドと、不倫のセックスに溺れていた…。

 

低予算個人映画のサイズに立ち戻ったソダーバーグ

 スティーブン・ソダーバーグという人が映画監督としてイマイチつかみどころのない人だということは、彼の新作が発表されるたびに書いてきたような気がする。出発点がいかにものアート・フィルム「セックスと嘘とビデオテープ」だったのに、いつの間にやらオーシャンズ11などのハリウッドのメイン・ストリームに躍り出てしまった胡散臭さが、ずっと僕の中にはこびりついているのだ。毎回作品を見るたびに…それらはそれなりに面白く出来ていただけに、僕としてはよく分からないなりに毎回自分の中で納得させてきたような状態だった。

 それがどうやら一つの像を結び始めたのは、前の公開作ソラリスを見てから。「ソラリス」はタルコフスキーの傑作のリメイク(必ずしもそうでないと制作者は主張するが、あれを見たら間違いなく「リメイク」と思わずにいられない)だったことが災いしてか、映画ファンには総スカンの作品だった。だけど僕はそう悪い映画だとは思わなかったんだよね。それどころか、この高額予算をかけた「SF大作」がどこか処女作「セックスと嘘とビデオテープ」に回帰した作品だった事が、僕には好ましく思われたんだよね。少なくとも、何となくソダーバーグが何をやりたいのかは分かって来た気がした。

 だから次にソダーバーグが放った作品が低予算の実験的作品と聞いて、「なるほど」と思い当たった訳だ。実際は「ソラリス」とどちらが先かは分からないが、大ヒット娯楽作「オーシャンズ11」まで放った今、ソダーバーグは本当にやりたい事を自由にやる状況が出来たんじゃないか。それならそれで、僕は歓迎すべき事だと思うんだよね

 ではソダーバーグがやりたい事って何かと言えば、ハッキリとは言えないが大衆娯楽映画と低予算個人映画の垣根を乗り越える事じゃないかと思う。

 高額予算のデカい器に個人映画のテイストを盛り込んだ「ソラリス」、低予算のちっちゃい器にハリウッドの楽屋裏話をスターを起用して盛り込んだ「フル・フロンタル」。この両者はある意味で双子のようなものではないだろうか。何がそれをソダーバーグにさせているのかは定かではないが、僕には大衆娯楽映画かくあるべし、低予算個人映画はかくあるべし…という手垢の付いたルーティンを、彼なりにブチ壊したいという願いがあるように思われる。それってかなり映画に対する健全な考え方じゃないかと思うんだよね。それは、片や非ハリウッドの作家映画のリメイクのハリウッド映画化、片やハリウッド的バックステージもののデジタルビデオまで駆使した個人映画化という、相矛盾する作り方にも現れているように思う。

 少なくともソダーバーグは、タランティーノが「キル・ビル」あたりでやったのとは全く違うカタチながら、同じように映画の中に変な等級付けやランク付けをするべきではないという思いを作品化しているように思われる。こうした動きってのは、これはこれでアメリカ映画のまったく新しい流れじゃないのかね。

 で、映画の作り方やスタイルという点ではそういう事だと思うけど、だからと言ってソダーバーグは、そんな主張だけのためにこの作品をつくった訳ではないだろう。

 実は今回の作品、デジタルビデオを駆使した実験的作品と聞いて、予想されたソダーバーグの意図には共感したものの、正直言って「やれやれ」と思わないでもなかった。というのは、前に28日後…の感想文でも書いたことではあるが、昨今の実験的デジタルビデオ映画の氾濫に少々辟易していたからなんだよね。

 大がかりな技術やスタッフ、撮影機材などから解放されての映画づくり…というのは、昔のヌーヴェルバーグを例にとるまでもなく、作り手には魅力的なものであろう。特にかつては個人映画レベルで作品づくりをしており、今ではハリウッドの大予算映画をつくるに至ったソダーバーグにとっては、その自由さが切実なものであることは分かる。だが、今はそれらがあまりに安易に作られ過ぎている気もするんだよね。特に低予算で気楽につくれるという点が、安易で思い付きの域を出ない作品づくりに繋がりかねない。そういう制作スタイルの持つ良さも分かりながら、どうしてもいいかげんな方向に行きがちな気がしていたんだよ。

 特にラース・フォン・トリヤーが提唱した「ドグマ」なる映画活動は、「あれもするな」「これもやるな」なんて学校の先生のゴタクみたいで気に入らなかった。それをいいことに映画自体がやせていくような作品が出来ていくことに、僕は何となく不快感も持っていたんだよ。だから今回もソダーバーグが言う事を聞くお仲間俳優集めて、気楽にお遊びで作品づくりをしたんじゃないかと心配したわけだ。

 でも、それはあくまで杞憂に終わった

 まずはこのお話、映画界の裏話的側面を持っているのが効いている。劇中、「ランデブー」なる架空の新作映画の断片が挿入されて、そこはちゃんと35ミリの劇場映画スタイルで撮影されている。それとの対象で本筋のドラマが展開するから、まるで劇と現実という対比で物語がリアルにドキュメンタリー風の味わいで見えてくるんだよね。架空の劇映画は、本筋のドラマを現実めいて見せるために貢献しているのだ。こういう使い方ならデジタルビデオも必然性がある。ただ気楽だから…で使ったわけではない。

 考えてみれば「トラフィック」でさまざまな映像スタイルを平行させて使って効果を挙げたソダーバーグだ。その辺の事を考えない訳がなかった。さすがにこの男、大したものだ。

 そして物語は、さまざまな人物の抱える虚と実、オモテとウラ、あるいは自分が自覚しない真実の姿までも写し出す。ここに登場する人物たちは大なり小なりそういう面を抱えているが、その典型と言っていいのがキャスリーン・キーナー扮する人物だ。

 彼女は夫との関係が暗礁に乗り上げたと悟り、離婚を決意しながらもそれを面と向かっては言えない。だから手紙をしたためる。夫婦のトラブルにはセックスの問題も少なからず関係していたが、夫が大胆で新鮮な性生活を提案すると一旦は退ける。しかも彼女はそのあたりの事を妹に見透かされていながら、ソレ用の器具をプレゼントされるとプライドがジャマをして憤慨したりする。それでもそれを使ってみようと試みるのは、夫や妹の指摘が図星だからに違いない。そこまで至りながらも、彼女はそんな自分の問題を直視出来ないのだ。

 そんな彼女が陰では黒人俳優と不倫しているのは矛盾そのものだ。そして不満解消の不倫だったのに、相手につれなく別れを持ち出されると、プライドが傷ついて怒り狂って醜態をさらす。

 しかも彼女は会社のために社員のリストラをさせられる仕事で磨り減っている。それが分かっていながら弱みを見せられない彼女は、リストラ対象の社員に高圧的に無理難題を持ちかけたりする。大人しい妹にも高圧的な態度で接する。しかもそんな自分が分かっていない。だから夫が彼女を「周りみんなに敵対意識を持つのをやめたらいいのに…」と評するのを聞いて、思わず図星を指摘されて泣き崩れてしまう。どこまでも素直にはなれない、徹頭徹尾、自意識がジャマをする彼女なのだ。

 そして同じ事は、悶々とした自分の気持ちを妻にぶつけられない脚本家デビッド・ハイド・ピアースやら、やはり自分の不満を姉にぶつけられず、男との関係にも臆病なマッサージ師メアリー・マコーマックをはじめ、他の登場人物にも多かれ少なかれ言える。

 思えば現代人である僕らは、どこかこうしたオモテとウラ…虚実を抱えているものだ。時には虚の部分を実だと思って自分を見失っていたりする。そういう痛い部分を描き出し暴きたてるために、ソダーバーグはこうした手段を使ったんだろう。虚実が錯綜する映画界が背景にある事も、それをさらに強調するために違いない。

 映画界=映画というファクターは、そんな虚実を暴くための道具だ。その意味では、ビデオを介して隠していた感情が暴かれる「セックスと嘘とビデオテープ」のテーマが、ここでまた再現されているとも言える。ソダーバーグがますます処女作に向かって成熟しつつあるのは、もう間違いないんじゃないだろうかね。

 

 

 

 

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