「ポロック/2人だけのアトリエ」

  Pollock

 (2003/11/24)


世の中と折り合いが悪いまま生きてきて

 子供の頃から、僕はどこか他の人間とは違うと感じずにはいられなかった。

 そして、自分が何かに熱中する時はハンパじゃないのに、それ以外ではまるで使い物にならないって事も。まずは生活力も生命力もない。何かを具体的に実行していく力も欠けている。包容力も忍耐力も集中力もない。決断力なんてカラッきしない。人望もゼロだ。

 だが、こと自分が何かをやりたい…と思い立つと、それがなぜかすべて逆転する。どんな事でもやる気になる。恐れないし厭わない。そしてクリアーに頭が冴えた気がする。自分で言うのも何だが、本当にそういう気分になってくるだ。さらに、他人から疑念を挟まれても理路整然と反論できる気がするし、自分の信念は揺るがないと確信できる。そしてやるとなったら最後までやり遂げようと思うし、絶対に逃げないと決心できる。不可能と言われる事でも可能にしようとする。そもそも自分で不可能だなんて思いもしない。

 その事…がしかし、極めて少ないのだ。極めて限られた時だけそうなる。それ以外は、僕はほとんど昼行灯と言っていい。

 しかも、それって世の中ではどうって事のないモノばかり。それが重大な事だったり、人の注目を集めるような事だったらどれだけ良かっただろう。不幸にも、僕にはそんな価値のある才能や能力はなかった。だから、ただの社会への不適合者でしかない。

 そんな自分を、僕は親から言われるまでもなく大人になれない男と自覚してもいた。

 着るモノも食べるモノも決められないし頓着しない。店に入ろうとしても決められない。品を選ぼうにも選べない。なぜならそれを決めたり選んだりする基準が自分にはないから。ハッキリ言ってどうでもいいのだ。そんな僕を人は頼りないと言う。まったくその通りだ。だけど、それが僕には決めなきゃならない事に思えないから仕方ない。着ろと言われれば着るし食えと言われれば食う。拒む時は、それがどうしてもイヤな時だ。イヤでなければされるがまま。

 その代わり、僕が「こう」と言った事については絶対に押し通す。それだけは昔からずっと守ってきた。その「こう」ってやつが…すご〜くストライクゾーンが狭いんだよね。

 だから僕は昔から、どうも世の中と折り合いが悪いと感じていた。それが自分のせいだとも分かっていた。誰も責める気になれなかった。でも、どうにもならないから仕方がない。せめて自分は大人ではない、いつまで経ってもガキだという自覚だけは持とうと思っていた。だから世間的な事では、きっと他人の方が正しいんだと思ってもいた。少々変だなと思う事でも、他人に強く言われると従う事にしていた。それが僕って人間なんだよね。それは他人になかなか理解されない。でも仕方ないよ、僕が悪いんだから。どこか劣っていると自分でも分かっていた。

 何とかそれでも世の中と折り合いつけようと頑張ったが、それは何度も失敗に終わった。すっかり諦めきっていたそんな時…僕はある女と出会ったわけだ。

 彼女は他の人間とは違っていた。

 そんな規格外の僕を受け入れてくれた。僕は自分の人生失敗しちゃったらしいと感じ始めていたが、実は彼女もそうだった。だから僕に対して寛大に接してくれたのだろう。そんな彼女の傍らで、僕も生まれて初めてノビノビした気分になっていた。

 そんな彼女も…やっぱり大人になりきれない子供のような人だった。

 いや、僕にはそう見えた…と言うべきなんだろう。他人を見るときって人間は自分を棚に上げるものだ。だから彼女が自分よりも子供に思えたのだろう。これは自分が何とかカバーしてやらねばならないと柄にもない事を考え始めたわけだ。

 それから自分なりに彼女の球拾いを始めたつもりだったが、それってハタから見たら滑稽だっただろうと今では思う。それでも自分は大まじめにそう思っていた。彼女の子供ぶりをカバーしきれるのは、そういう感情を共有出来る自分だけだと思った。僕は生まれて初めて、誰かを支えようと思った訳だ。考えてみれば、これは僕にとって大変な進歩だったのかもしれない。いや、進歩になる可能性があったと言うべきか。

 だがある時を境目にして、彼女はだんだん世俗的な世慣れた事を口にするようになってきた。そして僕は彼女をカバーしているつもりだが、向こうの方ではそう思っていない…それどころか、向こうの方がこちらをカバーしている気持ちだという事が分かってきたのだ。そして、それがもう世話し切れない…と思うところまで来ていたという事も。何という皮肉なことだ。さよう、他人を見る時は自分を棚に上げる…それを僕は忘れていた。何と愚かなこのオレ…。

 疲れ果ててすべてが終わったとき、ようやく僕は自分の滑稽さに思い至った。僕は誰かをカバー出来ると思っていた。だけど所詮ガキはガキ。それが何ら変わった訳ではない。

 子供に他人の世話なんて、焼ける訳がなかったんだよね。

 

トンがり過ぎていた芸術家が生涯の理解者を得て

 立派な画廊で個展を開く著名な画家ジャクソン・ポロックことエド・ハリス。若い女が彼にサインを求めて近づいていくが、彼の目は宙を泳いだまま。どこか虚ろなその表情は…。

 それに先立つ9年前。

 1941年、ここはニューヨークのグリニッジ・ビレッジ、ポロック=ハリスは兄の家に居候しながら、報われぬ画家としての暮らしをしていた。穀潰しの居候にして酒癖が悪い。そんなポロック=ハリスを兄嫁が歓迎している訳もない。そんな肩身の狭さに鬱屈とせずにはいられないポロック=ハリス。

 そんな彼の元に、ある日一人の若い女がやって来る。その女マーシャ・ゲイ・ハーデンは自らも画家で、ポロック=ハリスの絵を一目見て才能を見抜いた。部屋狭しと置かれた作品を見て、ゲイ・ハーデンは圧倒されるばかり。彼女は自分のアトリエの場所を教えて、遊びに来いと言い残して去っていく。

 それからポロック=ハリスがゲイ・ハーデンのアトリエを訪れたのは、彼女の訪問から3週間も経ってからの事だった。しばしの親密な語り合いの後、二人は当然のように結ばれる

 すっかり親しさを増したポロック=ハリスとゲイ・ハーデン。だがゲイ・ハーデンがポロック=ハリスの居候する兄の家の夕食に呼ばれた時には、何とも居心地の悪い空気しか流れない。戦時下という事もあって、兄は徴兵を避けるために軍需産業に勤める事になる。兄嫁としては、精神不安定が理由で徴兵を免れているポロック=ハリスにイヤミの一つも言いたくなるところだ。するとラジオから流れるジャズのリズムに合わせて、狂ったようにナイフ・フォークで皿を叩き出すポロック=ハリス。溢れんばかりの才能に恵まれながら、このキレやすさ不安定ぶりが、何ともポロック=ハリスの困ったところなのだ。

 やがてゲイ・ハーデンは自宅にポロック=ハリスを連れて来て、一緒に暮らすようになる。彼女はいまや自分の創作よりもポロック=ハリスの身の回りの世話に忙殺されていた。それほどまでに、彼女はポロック=ハリスの芸術に惚れ込んでいたのだ。

 やがてポロック=ハリスは、ひょんな事から女画商のペギー・グッゲンハイムことエイミー・マディガンとつながりを持つことになった。これがポロック=ハリスの運を開く事になる。彼女はやがて家を訪れ、ポロック=ハリスの才能に惚れ込む。彼女が申し出たのは自分の画廊での個展の開催。そして自邸の壁画制作だった。

 これはポロック=ハリスが初めて注目を集める絶好の機会となった。

 だがグッゲンハイム=マディガンと約束した壁画の方は、一向に構想がまとまらない。いつまで経っても描けない。いいかげんゲイ・ハーデンもグッゲンハイム=マディガンもしびれを切らしかけたある日の事…。

 突然猛然とポロック=ハリスの創作欲が目覚めた。恐るべき集中力で寝食も忘れて創作に没頭。アッと言う間に出来上がったその壁画を見て、改めてポロック=ハリスの天才ぶりに目を見張るゲイ・ハーデンだった。

 壁画の出来映えはグッゲンハイム=マディガンを大いに満足させた。自邸に客を集めて壁画を披露しご満悦。だがそんな時も、酒に酔ったポロック=ハリスはグッゲンハイム邸の暖炉に小便をするなどやりたい放題。精神の不安定ぶりと酒への依存ぶりには変わりがなかった。

 あげくゲイ・ハーデンの忠告も聞かずに飲んだくれ、しまいには路上で寝転がるアリサマ。さすがに我に返ったポロック=ハリスは、まるでイジメられた子供のようにシオシオとゲイ・ハーデンの元に戻っていく。そんなポロック=ハリスを黙って受け入れるゲイ・ハーデンだったのだが…。

 これではマズイと自ら悟ったか、友人の休暇につき合ってバカンスに出かけるポロック=ハリスとゲイ・ハーデン。その際に、ゲイ・ハーデンはポロック=ハリスに申し出る。「結婚して。でなければ私たちは別れるだけよ」

 こうしてポロック=ハリスとゲイ・ハーデンは正式に結婚した。時に1945年のことだった。

 二人は郊外の農家に引っ越し、創作に没頭する事になる。それはしばしの安らぎの時でもあった。そんなある日、ポロック=ハリスがゲイ・ハーデンに提案した。「子供をつくろう」

 だがそれはゲイ・ハーデンにとって、承伏しかねる提案だった。彼女は結婚の際に取り決めてない事だとにべもない。そんな彼女の拒絶に、例によって例のごとしでキレるポロック=ハリス。だが、それこそがゲイ・ハーデンに子づくりを拒ませる要因でもあった。「あなた一人世話するので手一杯よ!」

 アレも欲しいコレも欲しい。それが満たされないと壊れるキレる。それはまるで生まれたまんまの子供そのもの。子供が子供をつくって育てるなど笑止千万ではないか。

 そんなゲイ・ハーデンの言葉にハッとしながらも、ポロック=ハリスはまだ骨の髄まで彼女の言葉を理解した訳ではなかった。ある日彼は自転車にビール箱を積んでヨロヨロ不安定に走りながら、なおもタバコを吸いつつ箱のビールを一本いただこうとした。そんな危なっかしい事をやらなきゃいいのに我慢できない。あげく通りかかった知り合いの車に挨拶しようとして、さすがにバランスを崩してひっくり返った。

 アレも欲しいコレも欲しい。それが満たされないと壊れるキレる…。

 その時、ポロック=ハリスの脳裏にゲイ・ハーデンの言葉が蘇ったかどうか…ともかく彼は、その日から酒を断つ事を決心する。

 だが絵は一向に売れず、生活は苦しくなるばかり。しかも自分を見出したグッゲンハイム=マディガンも、画廊を閉めてニューヨークを去ろうとしていた。さすがのポロック=ハリスも焦りに焦る。だが彼の焦りはそんな生活の不安だけではなかった。実は創作上でも彼は行き詰まっていたのだ。

 そんなある日、偶然がポロック=ハリスに味方した。たまたま床に滴った絵の具を見ているうちに、彼のインスピレーションが働いたのだ。画布を床に敷き、その上に絵の具を垂らしたり飛び散らせたりする新たな技法。それが彼を吹っ切らせた。

 そんなポロック=ハリスの絵に、あの有名な雑誌「タイム」が注目した

 ポロック=ハリスのインタビューを載せた「タイム」が出回るや否や、彼の運命は一気に好転。新たな画商の下で開いた個展は大成功に終わった。マスコミの寵児となった彼の絵は売れ出し、彼は一躍文化人のスターとなる

 ラジオ・インタビューで創作の秘密を聞かれるポロック=ハリスの言葉は、たどたどしいながらも淀みはない。「私は偶然に頼ってない。偶然を使って創作はしていないんだ

 そんな彼の絵を、それでも酷評する批評家もいた。自宅でその批評家の酷評を耳にしたポロック=ハリスは、例によってあのキレぐせを再燃。批評家の目の前で自作の絵に手を入れようという勢いだ。「どこがダメなんだって? おっしゃるように直してやろうじゃないか。何だって青が強すぎるって?」

 だがカンヴァスに絵の具を塗りたくろうとしても、いざという時に手が動かない。そんなポロック=ハリスの姿は、批評家に強い感銘を与えた。「酔ってキレていても、君は自分の芸術は傷つけられないんだな。…それこそ本当の芸術家の姿だ!」

 そう、芸術の前では…少なくともその前でだけは、彼は確かにホンモノだった

 金も名声も出来たポロック=ハリスは、それまでの罪滅ぼしの気持ちもあったか、兄たちの家族や母親を自宅に呼び寄せる。だが口から出るのはいくら絵が売れたとかどれだけ自分が名声があるかとか、本人悪気はないのだがイヤミな自慢話でしかない。それが兄たちを辟易させている事が彼には分からない。あげく家族がワイワイ騒ぐ食卓で、イタリアの雑誌が自分を評してピカソがどうの…と書いている事を一方的にまくし立てる始末。さすがに見るに見かねた兄嫁の一人が、言いたくもない苦言を呈するアリサマだ。

 「家族よりピカソが大事?」

 確かに金も出来た名声も出来た、大した芸術を創造はしただろう。だが、人間としての成熟はどうだ…。

 そんなカルチャー・スターとなったポロック=ハリスの創作に迫ろうと、ハンス・ネイマス=ノーバート・ウェイサーが記録フィルム撮影にやって来る。だがカメラと演出のために動きすら指示されると、さすがのポロック=ハリスも窮屈で仕方がない。創作中の模様を撮影しても、ノリに乗って没頭している途中でフィルムの都合で中断されたりする。そんなポロック=ハリスの胸の内に、徐々に疑問が沸き上がる。

 そんなある日、ポロック=ハリスは自室でささやかに絵を描くゲイ・ハーデンの姿を目撃する。芸術を創造する最もシンプルで真摯な姿…。その後ポロック=ハリスは、ゲイ・ハーデンに自分の偽らざる気持ちを告白せずにはいられない。「最近オレは、自分がエセって気がしてならないんだ」

 その日もポロック=ハリスは、ネイマス=ウェイサーの指示で「やらせ」ドキュメンタリーの撮影につき合わされる。家では仲間内が集まって夕食の準備だ。撮影は無事終わったものの、いいかげん煮詰まったポロック=ハリス。彼は長年の禁を破って、酒瓶に手を伸ばさずにはいられない。ゲイ・ハーデンの止める言葉もいまや無力だ。

 さらにポロック=ハリスはネイマス=ウェイサーにネチネチとカラミ出す。「オレはエセじゃない。分かってるんだろうな」

 やっぱりポロック=ハリスは逆戻りしてしまった。またしても酒に飲まれてしまい、あげくテーブルを星一徹そこのけにひっくり返してしまうポロック=ハリスだった…。

 

芸術と芸術家について分かりやすく映画的に描いた作品

 自慢にもならないが、僕はジャクソン・ポロックなる画家は知らない。だから芸術上の事でこの画家について云々する資格がない。それでもこの映画はとても分かりやすかった。これは絵についての知識や理解がなくても楽しめる映画だ。

 この映画については、ヒロインのマーシャ・ゲイ・ハーデンがオスカー助演女優賞をとった作品として初めて知った。それにしても、役者としてなかなかのクセ者エド・ハリスが、まさか監督までするとは思わなかった。まずはそれが驚きだ。

 そんなエド・ハリスの人望からか、この映画には派手ではないが名のある役者が揃っている。妻のエイミー・マディガンは当然としても、ちょっとした役で意外にもヴァル・キルマーとかジェニファー・コネリーなんかが顔を出しているあたり、おそらくはエド・ハリスの顔の広さの所以ではないか。

 さて新人監督のエド・ハリスの腕前だが、僕は正直言って感心したんだよね。これは脚本のお手柄でもあるが、掴み所のない芸術と芸術家について、とても分かりやすい映画的な処理で見せようとしている。画家としてのポロック自身の技法が絵筆から絵の具を滴らせるという特異なものだった事も幸いしてか、その創作する姿が映画として絵になっているんだよね。

 そしてポロックが自らの問題点に気づく場面のあまりの分かりやすさ。ヨロヨロ自転車を漕ぎながら、タバコも吸いたいビールも飲みたい、通りかかった友人には挨拶したい…その危なっかしさと「よせばいいのに」感というか、案の定コケちゃう姿でポロックその人の不安定感を一目瞭然で表現するあたりが見事だ。小難しい表現や回りくどい表現に逃げない、出来るだけ誰にでも分かるように、目で見えるように平べったく描こうとするその手つきが好感持てるんだよね。

 芸術家ってのは芸人と同じで、どこか「浪花恋しぐれ」って歌の冒頭の台詞みたいに、「酒だ酒だ酒買うてこ〜い」とか「芸のためなら女房も泣かす」みたいなイメージがあるよね。それって一般化したイメージになりすぎて、単なるルーティンなお約束描写に成り下がってしまっている。「なぜ」そうなのか、「どこが」そうなのかって事を、作り手もそれ以上考えなければ、受け取る側にも考えさせないところがある。あるいは「芸術家ってこういうもの」ってところで思考停止してしまっている事がしばしばだ。

 だが、この映画はそれで済まさない。さらに「芸術」に関する映画だから…と「マトリックス」の禅問答みたいな難解さに逃げて、実は自分もその実体が分かってない事をごまかそうとはしない。あくまで「なぜなんだろう」「どこがこうさせているんだろう」と自問自答し、それを見る側にも自分に引き込んで考えさせる部分があるのだ。これがあまたある芸術と芸術家を描いた映画の中でも、この映画が優れていると思わせる所以だね。手垢のついたお約束にも、高踏なふりをした言い逃れにも逃げない。あくまで大衆映画のレベルでそれを解き明かそうとしている。そして作り手も見る側も等しく自分にも通じる人間の問題として考えさせる。これって何が難しいって、映画づくりの中でも一番難しい事なんだよ。それをやろうとして、ある程度までやり遂げてるエド・ハリスって素晴らしいと思っちゃったよね。

 まずここに描かれるポロックって、ハッキリ言ってハタ迷惑で困った人格破綻者でしかない。絵が描けるってだけで、他にはハッキリ言っていいところない。ただ、絵を描く才能だけは突出して素晴らしかった。確かに一芸に秀でている人間ってのはみんなそんなもんだろう。そういう人間に対しての一定のイメージなら誰でも持っているだろう。だけど、それをこんなに分かりやすく丁寧に描いた映画はあまり見受けられないよ。

 彼に対する観客のギリギリの共感は、有名俳優エド・ハリスが演じる事で一応の担保が出来てる。だから観客は彼を「どうしようもない奴」とは見捨てない。その事だけを前提にした上で描かれるポロック像は、ハッキリ言ってどうしようもない訳なんだよね。

 そして、それは人間とは何だろうって事と、人間にとって芸術がなぜ大事なのかって事を、誰の目にも分かりやすく描いた映画となっている。

 人間ってものの原点は、突き詰めてみればハッキリ言ってまず「生き物」なんだろう。腹減った、やりたい、眠い…これが原点中の原点だろう。それに一番近いのが赤ん坊や子供だ。欲求ムキだし。人間はそこから社会性の生き物として、いろいろな枝葉をつけて生きていく。そうでなければ、社会でやってはいかれない。

 芸術家がなぜ性格破綻者になる場合が多いのか…芸術家みんなが性格破綻者ではないし、破綻している人も一様でないから一言で片づけるのは乱暴だけど、少なくともこの映画ではポロックに代表させてそれを解き明かそうとしている。この映画で僕はポロックの芸術が分かったとは言わない。でも、この映画がポロックの芸術について、どのように言っているかはよく分かった。

 それはたぶん、人間の原点的部分に接近しているからだ。芸術はみんなの心の奥底に眠ってたり、隠れてたりするところに訴えかけてくるものだ。あるいはある種の普遍性に触れてくるものだ。それって大きくなってからの道徳心、社会性、知識、経験、教養、マナー、宗教、思想、仕付け、その他もろもろをはぎ取った根本のところに触れないと、なかなか優れた芸術とは言いかねるんじゃないだろうか?

 そうすると、そういう芸術の作り手もまた、そういう後からくっついた諸々をどこかはぎ取った存在でなければならないだろう。それが意識的にはぎ取れるのか、元々くっついてなくて「まんま」な人なのかは、その芸術家によるだろう。だが芸術や芸術家って、おそらくはそういう事なんだろうと思うんだよ。スポイルされちゃってる普通の人には、それは生み出せないし受け取るのも至難の業なのだ。

 このポロックがまさにそういう人間だった。

 だから絵を描くことを除けば、この男はガキだ。ガキ以前の存在だ。まるで精神の安定が図れないし、他者との関係も保てない。彼の才能に惚れ込みパートナーとなったマーシャ・ゲイ・ハーデン演ずる女性の言葉が、何よりそれを物語っているではないか。子供が欲しいと言うポロックに対して、彼女は決然と言い放つのだ。「あなた一人世話するので手一杯よ!」

 まずはテメエが子供なのだ。子供が子供をつくるなんて笑止千万。それを口走る事の愚すら気づかない事からして、すでにガキが極まっている。

 欲しいというのは、最も原初的な感情だ。それを過剰に持ちすぎていて、ムキ出しにする事に躊躇しない彼だから、優れた人間不変の芸術を生み出せるのだ。これがポロックの絵画の…そして芸術に対する解釈の正しいものであるかどうかは僕は分からない。でも、僕はそう解釈できたんだよね。

 ポロックの場合、自分の芸術を何とか極める事も出来て、そして世間にそれを認めさせることが出来たのは、一重によき理解者のゲイ・ハーデン扮する女性がいればこそだった。彼女は間違いなく大人だった。そういう人間を傍らに持てた彼って、実は極めて希な幸運を手にしたと言える。それがなければ、彼はただの性格破綻者で終わったかもしれないんだよね。

 でも、それはそれで彼って潔かったかもしれない。少なくとも自分をどちらかに振りきってはいたのだから。翻って自分の情けなさを痛感した。

 中途半端にエッジが削られ、中途半端に物わかりが良くなり、中途半端に世慣れた。それって何も傑出したところを持たず成熟もできず、落ち着きも安らぎも得る事が出来ないって事ではないか。そう言えば、僕は誰と話をしても驚くことがある。それは、老若男女を問わず誰もが「自分はこうだ」とキッパリ言える事だ。「自分は今こういう人間だ」「自分はこうしたい」「自分はこうするべきだ」「こう行動し発言している自分は正しい」…そういう事がよどみなく言える事だ。

 だが、僕はそんな事をキッパリ言える自信がまだない。もう40も過ぎているというのに、いまだにそんな確固たるものを持てないでいる。いまだに疑問ばかりあふれ出てくる。どうして…一体どうやったらそう言えるのか分からないでいるのだ。そもそも正しい自分のあり方というものが分かっていない。もう僕の残り時間は極めて少なくなっているというのに。残り時間そのものがあるかどうか分からないのに。エッジが尖ったままどこまでもいってしまうか、それとも徹底的に社会に順応するか…どうして自分はそのどちらかを選ぶ事が出来なかったんだろう。なぜ、そのどちらかに属する自分で満足できなかったのだろう。

 どっちかになるしかないのにね、変人か凡人かの。

 

 

 

 

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