「ほえる犬は噛まない」

  Barking Dogs Never Bite

 (2003/11/10)


運命が二分される分かれ道で

 先日「キル・ビルVol.1」の感想文Vol.1(笑)をアップした時に、冒頭で憂鬱な事を書いてしまった。実は少々マズかったかなと思っていたが、今はあれをアップして良かったと思っているよ。それを公にしちゃった以上、「なかった事」には出来ないだろうからね。そして、事あるごとに思い出すだろうし。感想文を前後編に分けたから、少なくとも二週間は忘れないだろうしね(笑)。

 それは、僕がやりきれない出来事の数々にやり場のない怒りを覚え、毒々しい思いを溜め込んでいる話。あの時は「キル・ビルVol.1」を見て痛快さに我に返り、そんな気分をいくらかは解消出来た。だけどそれはスッカリ消え去った訳ではない、相変わらず不条理な状況は終わらないままだし、人間の心根など時計の振り子のようなものだ。健全な状態と危ない状態との間を行ったり来たり。ちょいと油断すると、またいつ危ない心境にもなるやもしれない。それは、「キル・ビルVol.1」のDVDが出たら買っておけばいい…ってな問題じゃない。出たら買うけどね、お金さえあれば(笑)。

 またぞろ映画の話で恐縮だが、僕にはやり場のない怒りを溜め込んだ時に思い出す映画が一本ある。それは黒澤明の「野良犬」だ。

 時代は戦後まもなくのドサクサ期。闇市が建ち、世情は混沌として物騒だ。人は何もかも失って余裕をなくしている。そもそも泥沼の戦争に突入してそれが負けたとなれば、自業自得とは言えこれほど国民にとって不条理な事もありえまい。

 事件は三船敏郎の新米刑事が、自分の拳銃をなくしてしまう事から始まる。焦って探すが見つからない。そう簡単に見つかるわけがない。拳銃を探す三船の目の前に広がるのは、そんな混沌として騒然とした世の中だ。みんなやり切れない鬱屈した気持ちを抱いている。爆発寸前みたいな状況だ。

 案の定、三船の拳銃が犯罪を招いてしまう。殺しに使われた弾丸が、三船の拳銃のモノと分かる。彼は自責の念で一杯になり、先輩刑事・志村喬と共にカッカして捜査に奔走するんだね。

 やがて拳銃による犯行が続くうちに、犯人像が浮かび上がってくる。どうやら犯人と目されるのは木村功という若い男だ。年格好はほとんど三船と同様。そして置かれた立場も奇しくも似ていた。

 木村功は、本来は善良な男だった。ところがちょっとした事が彼の人生を狂わせた。彼は戦地から復員して戻って来た時、満員電車の中で全財産を奪われてしまった。それ以来、彼は自暴自棄になって悪の道へ…。

 実は三船も同じだった。復員して電車の中でリュックを奪われた。すべてを失った三船もまた、激しい絶望と怒りに襲われた事を覚えていた。そんな犯人・木村功の境遇を知って、ますますやり切れない思いに苛まれる三船。彼にはこの犯人が、追いかける自分とまったく同じ人間のように思われる。とても人ごとには思えない。

 そんな三船を見かねて、先輩・志村は諫めるようにつぶやく。犯人に同情を抱くのはよせ、自分を犯人と同じだと思うのはやめろ…。

 なぜなら、そんな三船は犯罪に走らなかったではないか。

 三船だって、同じようにやり場のない怒りに打ち震えたはずだ。自暴自棄な気持ちになったはずだ。現に三船は、志村に打ち明けている。「自分もその時ひどく毒々しい気持ちになってきたんです…」

 ただ三船は、ここからが木村功と違っていた。そんな自分の毒々しい気持ちに気づいて、それが危ない兆しだと考えた。ここで三船はハンドルを木村功と正反対に切り、あえて刑事という仕事に身を投じたのだ。

 危ない瞬間というのは、誰の人生にもある。運命が二分される分かれ道は、誰の進む道にも立ちはだかるのだ。

 そして、そんな時にハンドルを握っているのは、自分というドライバーただ一人だ。

 

マンションで勃発した犬の連続失踪事件

 建物の外の緑を眺めながら、携帯電話で何者かと会話する男イ・ソンジェ。彼の電話の相手は「先輩」という男。その「先輩」にイ・ソンジェは何かと不甲斐なさを責められている。彼は大学で非常勤講師をしながら、教授のポストに就ける日を心待ちにしている身だ。だがどうも世渡りがヘタなのか、彼の同期や後輩たちにどんどん先を越されている様子。気が弱そうなところも災いしてるかもしれない。

 そんなこんなで焦り狂う日々。家に帰れば妻キム・ホジョンに頭が上がらない。向こうは元々が年上の上に、いまや半分遊んでいるようなイ・ソンジェの代わりに会社で働いて家計を支えていると来れば、頭が上がる訳もないのだ

 そんな毎日の中で、イ・ソンジェは最近気になって仕方がない事がある。彼が住んでいる高層マンションで、どこからか激しい犬の鳴き声が聞こえてくるのだ。こんな時でなければ気にもならないのだろうが、今の彼にはこの犬の声が目下のイライラのタネだ。

 そんなある日、イ・ソンジェはマンションの廊下で一匹の犬を見かける。そうか、こいつか。イ・ソンジェは自分の頭痛のタネとおぼしきこの犬を捕まえ、マンションの屋上へと連れていく。おそらく彼は魔が差していたのだろう。こいつさえいなくなれば…と、犬を屋上から落とそうとしていたのだが…。

 突然一人の婆さんキム・ジングが屋上に現れ、イ・ソンジェは間一髪で犬を殺すのを思いとどまった。このキム・ジングなる婆さん、補足切り刻んだ大根をこの屋上で干して、切り干し大根をつくろうとしていただけなのだが…。

 かくして犬を連れたイ・ソンジェは、今度はマンションの地下室へ。ここで犬の首を吊って殺そうとするが、またしても我に返ってしまう。どうすることも出来なくなったイ・ソンジェは、とりあえず地下室にあったタンスに犬を閉じこめるのだった。

 さて、このマンションの管理事務所では、一人の女の子がヒマそうに勤めていた。彼女の名前はペ・ドゥナ。たった一人の友だちは、マンション内の文具店の店員の太った女コ・スヒ。この女、何かと言うとタバコを吸い、冷ややかに冷め切った発言をする女だ。あまりペ・ドゥナとは意見が合いそうもないのだが、お互いヒマを持て余してる事もあって、何かと言えばツルんでいる間柄。

 そんなペ・ドゥナのヒマな日常に変化が起きた。普段は誰も来ない管理事務所に、一人の女の子がやって来たのだ。彼女は飼い犬がいなくなって、「探し犬」の貼り紙を持ち込んできた。どんな貼り紙も管理事務所の承認印がなければ貼り出せない。女の子は犬がいなくなって、すっかりショゲ返っていた。「あの犬がいないと、ワタシ死んじゃうもん」

 これは何とかせねばなるまい。元々ささやかなりとも正義感がないわけではないペ・ドゥナ。まずは女の子の貼り紙を手伝うことから、この犬失踪事件に片足突っ込んでいったわけ。

 さて、あのイ・ソンジェはと言えば、教授になるため「先輩」に相談に乗ってもらおうと、慣れぬ飲み会にまで加わった。そのために妻キム・ホジョンが食うクルミの殻を割らされるハメになるが、この際は忍の一字だ。そして飲み会に遅れてやって来た「先輩」は、イ・ソンジェにとんでもない話を持ち出す。

 実はイ・ソンジェを出し抜いて教授になった同僚は、学長にしこたま賄賂を贈ってその地位を得た。しかし酒好きの学長につき合わされて泥酔し、その帰りに地下鉄にはねられて死んでしまったと言う。

 「いいか、ポストが一つ空いたって事はチャンスだ。これを逃すなよ」

 そのためには巨額の賄賂を掴ませなくてはならない。そんな金がどこにあると言うのだ。金の調達方法、それより何より賄賂など掴ませなくては教授になれないという現実に、イ・ソンジェはすっかり打ちのめされて真夜中に帰宅する。だがその折りもおり、マンション内に犬の鳴き声が響き渡るではないか。

 なぜだ?

 イ・ソンジェが慌てふためいて深夜のマンション内を走り回ると、例の「探し犬」の貼り紙が。そこでイ・ソンジェは、決定的な過ちを犯した事を知る。何と彼が捕らえたあの犬、声帯手術をされて声が出ないと言うのだ。

 しまった、オレは間違った犬を捕まえてしまった

 慌てて地下室のタンスに駆け寄るイ・ソンジェ。だがそこにはすでに犬の姿はなかった。そこに誰かがやって来る物音が…。慌てたイ・ソンジェは、タンスの中に身を隠した。

 やって来たのはこのマンションの警備員ピョン・ヒボン。彼はポータブル・コンロを持ち出すと、いろいろな食材も揃えてナベ料理の支度を始める。そして取り出したのは…。

 あのイ・ソンジェが捕らえた犬ではないか!

 何とこの犬、すでに息がない様子。しかも今にもこの警備員ピョン・ヒボンに犬ナベにされて食べられそうな勢いだ。どうやら警備員はこうやって夜な夜な犬を捕らえては、秘かに地下室で犬ナベを楽しんでいたらしい。タンスの扉から様子を伺うイ・ソンジェにも、今さらどうにもならない。

 ところがそこに新たに来客が現れた。このマンションの管理事務所長だ。この男の登場に慌てた警備員ピョン・ヒボンは、とっさに犬の死体を隠す。だが事務所長はナベにご機嫌で、なかなかその場を去ろうとはしない。ちゃっかりご馳走に預かろうという図々しいハラだ。

 そこで彼を追っ払おうという魂胆か、警備員ピョン・ヒボンは不気味な話を持ち出した。それはこの地下室で殺され、秘密裏に壁にセメントで塗り込められたボイラー・キムなる男の物語。ちょうど好都合にも地下室の電灯が消え、真っ暗闇に懐中電灯だけという格好の雰囲気が出来たことで思い付いた、警備員ピョン・ヒボンのとっさの作り話だ。だがこの怪談は効果を発揮したものの、事務所長はあくまでナベを持って事務所に戻ろうと言い張る。かくして渋々警備員ピョン・ヒボンも地下室を後にした。

 やっとこ出られるとホッとしたイ・ソンジェだが、地下室はカギで閉ざされてしまった。慌てるイ・ソンジェの耳に、何やら物音がするではないか。

 「ボイラー・キムか?」

 やがて地下室の一角に積み上げられたゴミの中から、何やらモソモソと動き出す。これには大慌てのイ・ソンジェは、前も見ずに駆けだしたあげく頭を打って気絶。動き出したのは、ただの浮浪者キム・ルェハだったのだが…。

 朝方ようやく気が付いたイ・ソンジェは、何とか地下室を脱出。しかし妻キム・ホジョンからまたしても大目玉を食らうハメになったのは言うまでもない。

 だが収穫もあった。例の鳴き声の主が分かったのだ。それは例の切り干し大根の婆さんキム・ジングの飼い犬だった。今度こそし損じるまいとチャンスを窺うイ・ソンジェ。

 一方ペ・ドゥナは、文具屋のデブ女コ・スヒと怠惰な時間を過ごしていた。ペ・ドゥナの憧れは、銀行強盗を素手で取り押さえた女子行員。彼女は警察から表彰されてテレビにも出た。自分もああなりたい…。そんなペ・ドゥナの妄想を、一笑に付すコ・スヒ。そんな彼女たちは、コ・スヒのタバコ・タイムのために屋上に出てきたのだが…。

 コ・スヒから高価な双眼鏡を借りて見ていたペ・ドゥナは、マンションの向かいの棟に一人の男が現れたのに気づいた。それは婆さんキム・ジングからうまいこと飼い犬を奪い取って来たイ・ソンジェ。彼はペ・ドゥナの見ている前で、犬を下へと放り投げるではないか

 唖然としたペ・ドゥナは、コ・スヒの双眼鏡を落としてしまう。

 それを見たデブ女コ・スヒも唖然だ。「このくそアマ!」

 一気にマンションの階段を駆け下りるペ・ドゥナとコ・スヒ。もちろんペ・ドゥナの目標は犬を投げた男、コ・スヒの心配は落ちた双眼鏡だ。ペ・ドゥナは男がいたマンションの別棟をエレベーターで登っていく。だが上階に着くと、男はすでに階段で下りている様子。

 「こら!」

 ペ・ドゥナに気づかれたと悟った男…イ・ソンジェは、慌てて階段を駆け下りる。それを猛スピードで追いかけるペ・ドゥナ。何だかんだ言っても若さで勝るペ・ドゥナが、もう少しでイ・ソンジェの背中に触れようとしていた時…。

 ガ〜〜〜ン!

 いきなりマンションの扉が開いて、ペ・ドゥナを直撃。もう少しのところで男…イ・ソンジェを取り逃がし、その場にバッタリ倒れてしまうのだった。

 鼻血を抑えるため鼻の穴にチリ紙を詰めながら、歯ぎしりして悔しがるペ・ドゥナ。そんな彼女のいる管理事務所に、あの切り干し大根婆さんキム・ジングがやって来る。それは「探し犬」の貼り紙の届け出だった。ペ・ドゥナは婆さんを転落死した犬の元へと連れていく。これを見せたのが良くなかったか、婆さんはそのまま倒れ込んで病院に担ぎ込まれた。ますます義憤にかられるペ・ドゥナ。

 その頃イ・ソンジェの家では、新たな諍いの火ダネが生まれていた。なぜか妻キム・ホジョンが、一匹の犬を買って来たのだ。賄賂の金策に走っている折りもおり、こんな高価な犬を買ってきやがって…。しかもその世話をしろとまで妻に言われて、イ・ソンジェの不満は高まりに高まる。しかし相手は年上、しかも養ってもらっている身とあって、イ・ソンジェは文句を言うに言えない。それにしたって増長の一途を辿る妻の態度に、そろそろイ・ソンジェの忍耐も限界に達しつつあった

 しかも運悪く、イ・ソンジェは散歩中に犬に逃げられてしまう。一日中足を棒にして探しまくり、何とあの警備員ピョン・ヒボンさえ疑ったあげく、夜になってやっとこ家に戻ったイ・ソンジェ。案の定、妻キム・ホジョンがむくれ返って待っていた。

 しかも犬に逃げられたと聞いて、妻キム・ホジョンの態度はさらに悪化。イ・ソンジェがイジメたんだろうと疑ったあげく、これからもう一度探しに行けと言いたい放題。これにはさすがのイ・ソンジェもキレた。

 カナヅチをブン投げて窓ガラスを割るイ・ソンジェ。

 オレがこんな困っている時に、オマエ一体何様だ!

 ところが妻キム・ホジョンが、この期に及んで黙っていたことを明かした。「妊娠した女がリストラの対象になるって思わなかった?」

 彼女の退職金はごくわずか。その退職金をすべてイ・ソンジェの賄賂用に当てようと、彼女は考えていたのだ。余ったわずかな金で買ったのが、あの犬だった…。

 あぁ、何たることだ。

 マンション内の文具店でコ・スヒとペ・ドゥナが店じまいを始めようという時、うなだれたイ・ソンジェが店に入ってくる。何と「探し犬」の貼り紙をコピーしようとやって来たのだ。

 「あの犬には、オレのすべてがかかっているんだ」

 またしても犬の失踪事件。勢い込んだペ・ドゥナは、呆然とするイ・ソンジェに今までの経緯を語り尽くす。犯人の後ろ姿をあと少しまでとらえながら逃したこと、例の婆さんキム・ジングがショックで入院したことも…。醒めたコ・スヒは犬の死を知らせたペ・ドゥナが悪いとつれないが、イ・ソンジェは静かにつぶやいた。

 「悪いのは君じゃない。犯人が一番悪い奴だ…」

 それからイ・ソンジェの貼り紙貼りに協力して、彼と親しくなっていくペ・ドゥナ。だがイ・ソンジェの胸の内はますます苦しくなっていく。そして実はペ・ドゥナの方も尻に火がついていた。事務所の仕事そっちのけで犬探しをしているうちに、彼女の職場での立場は最悪の状況になっていた。しかも追い打ちをかけるかのように、あの婆さんキム・ジングが病院で亡くなったとの知らせ。泣きっツラにハチ。

 ところがひょんな事から、ペ・ドゥナは例の犬を見つけることになる。それも屋上で浮浪者キム・ルェハが焼いて食おうとする最中の事だ。

 なけなしの勇気を奮って、ペ・ドゥナが犬を奪還!

 追いすがる浮浪者キム・ルェハを振りきろうと、必死にマンションを駆け下りるペ・ドゥナ。だがいよいよ追い詰められたその時、浮浪者キム・ルェハに掴みかかる人物がいた。

 あのシラケきったデブ女コ・スヒだ。

 コ・スヒはプロレス技を次々繰り出して、浮浪者キム・ルェハをブチのめす。そしてペ・ドゥナは得意満面、犬をイ・ソンジェの元に届けるのだった…。

 かくして一件落着。浮浪者キム・ルェハは警察に逮捕された。彼は余罪も含めて追及される事になる。ペ・ドゥナはこれで自分は表彰され、テレビにも出られるものと鼻高々だ。

 だが、テレビでは彼女の事など一言も言及しなかった

 デブ女コ・スヒの元で酔っぱらうペ・ドゥナ。そんな彼女を、今夜ばかりはコ・スヒも慰める。

 一方イ・ソンジェは妻の退職金を賄賂に注ぎ込み、念願の教授の職を得た。慣れぬ酒を学長から勧められ、泥酔する夜…。

 酒の買い出しにオモテへ出たペ・ドゥナは、そこであの犬をなくした女の子を目撃する。だが女の子はすでに新しい犬を連れていて、あの悲嘆ぶりなど忘れたかのようだ。一体自分は何をやっていたのだろう…。

 そんなペ・ドゥナは、歩道で酔いつぶれるイ・ソンジェを見つけた。久々の再会。だがイ・ソンジェは犬が戻ったというのに表情がすぐれない。

 そんなイ・ソンジェは、ペ・ドゥナから意外な事実を聞かされた。彼女が職務怠慢で、管理事務所をクビになったと言うのだ。イ・ソンジェの胸の内に、苦い苦い思いが広がっていく。

 「オレは君に告白する事があるんだ」

 そう言うと、イ・ソンジェはペ・ドゥナに、自分の背中を見せた。この後ろ姿に見覚えはないか? 笑って取り合わないペ・ドゥナに、イ・ソンジェは業を煮やしていきなり走り始める。突然の事に驚いたペ・ドゥナも、彼の後を追って走り出した。

 見覚えはないか? これでも見覚えがないか?

 そんなイ・ソンジェの言葉を聞きながら、ペ・ドゥナの記憶が鮮やかに蘇って来た…。

 

危なっかしく歩く平均台の上で

 この映画のことを、僕はまったく知らなかった。呆れた事に公開されている事さえ知らなかった。これじゃあ僕は、自分のことを韓国映画好きとは言えないね。ましてこのボン・ジュノなる監督の第二作が、韓国で大ヒットした「メモリー・オブ・マーダー/殺人の追憶」であるという事も知りはしなかった。

 ところで僕は、今年の東京国際映画祭で上映されるこの「メモリー・オブ・マーダー/殺人の追憶のチケットを、たまたま確保していたのだ。こうなると俄然見たい気持ちがつのる。当の「殺人の追憶」を見る前に、何とかこの作品を見ておきたいものだ。かくして僕は映画祭を横目に、渋谷の上映館まで足を運んだわけ。この一文を書いている時点では、僕はまだ「殺人の追憶」を目にしてはいない。

 この映画の事を一言で言うのは難しい。これはやはり一種のコメディなんだろう。おかしなシチュエーションがいくらでも出てくる。ヒロインのペ・ドゥナの出で立ちからして何となくオカシイ。ちょっと一本抜けてるのか天然なのか何だか分からない。表彰されたいテレビに出たいという一念と持ち前の正義感も手伝っての犬探しというのが、まず笑えるではないか。劇中ほとんど黄色いパーカーを着ていて、興奮するとそのフードを頭から被るのがまたオカシイ。加えてイ・ソンジェのダメ男ぶりもかなり滑稽だ。登場人物はどれもこれも変で、犬ナベを嬉々としてつくろうとする警備員とか、切り干し大根にこだわり所かまわずツバ吐き散らす婆さんとか、やたら醒めた発言を連発のデブ女とか、どこか歪に誇張された人物のオンパレード。ブラックながらも笑える状況の連続で、皮肉なニヤリと大笑いが交互に観客に襲いかかってくる

 事務所で叱責されるヒロイン=ペ・ドゥナの元に婆さんの遺書が届き、シリアスな状況下に何を言い残したと思えば切り干し大根についてのどうでもいい話。マンション屋上でペ・ドゥナが勇気を奮いながら浮浪者から犬を奪還する場面でも、スローモーションで駆け寄る彼女の背景には、別棟の屋上で熱く応援を贈る黄色いパーカー軍団の姿が意味もなく登場する。劇中あまりのバカバカしさに、何度も大笑いしてしまうこと請け合いだ。

 俳優陣のうちイ・ソンジェは「アタック・ザ・ガス・ステーション!」にも出ていた役者だが、今回はまた様変わりしての登場。その妻キム・ホジョンは、どうも見たことあるなと思ってたら以前の東京国際映画祭で見た近未来SF「バタフライ」に主演してけだるい演技を見せていた。こちらもガラッとムードを変えての登場だ。

 だが、こうした役者たちの中でも、もっとも鮮烈な印象なのがヒロインのペ・ドゥナ。そもそも鼻の穴に紙詰めたヒロインなんて前代未聞ではないか。そのクルクルと変わる生き生きとした表情もユニークなら、何だか素顔まんまみたいな捨て身のアホ演技も見逃せない。今年の主演女優賞候補を挙げろと言うなら、「ホテル・ハイビスカス」の主役の女の子・蔵下穂波といい勝負だ。ホントにどっちを挙げていいか悩むほどのダントツな素晴らしさ。これはとんでもない女優が現れたもんだよね。

 と、まぁこんなオカシナ状況、オカシナ人物、オカシナ会話…オフビートなハズし、皮肉、ナンセンス、そして奇妙な絵柄で煙に巻く趣向…と笑わせどころは豊富ながら、それと平行してゾッとするようなブラックな趣向も描かれる。確かに最近の韓国若手には、ブラックな笑いの作品がいくつか生み出されている。「アタック・ザ・ガス・ステーション!」「クワイエット・ファミリー」あたりも、それが成功しているしていないは別にして、ブラックな不条理ギャグが連発する映画ではあった。だがこの作品はもうちょっと違う雰囲気が立ちこめている。

 また作品に漂う雰囲気から、監督ボン・ジュノがクエンティン・タランティーノからガイ・リッチーあたりまで1990年代後半に世界的同時発生した若手監督たちと同じ流れを汲んでいるようでありながら、どこかで一線を画していることも明らかだろう。この映画の場合、いわゆる「ありがち」な安易なシリアスさに物語が傾きそうになった時、絶妙なタイミングで笑いを炸裂させているようだ。そのへんのバランス感覚は絶妙だね。だからこの映画のマジメなメッセージが、ありがちな「お説教」に陥らない。

 そう。この映画の訴えているものは、実は極めてシリアスだ。

 中心人物たるヒロイン=ペ・ドゥナは、何か日常にモノ足らないものを抱きながら生きている。タイトルバックで退屈極まりない職場の掃除を始めるあたりから、それは全身から漂っている。でも、シニカルになるほどには彼女は斜に構えていない。電車内で眠くても貧しそうな女に席を譲ろうとするだけの正義感はある。だけど彼女は報われない。それでもシラケ返るほどに、彼女はまだ世界にも人生にも失望はしていないのだ。それは彼女の友だちのデブ女の醒めた言動と比較対照されて、さらに観客に強く印象づけられる。

 彼女はその正義感や真っ当な思いの持っていき場を探しているのだ。そんな彼女が犬探しに飛びついたのも、最初は打ちひしがれた女の子を見ての持ち前の正義感の発露に他ならない。

 また、ヒロインはもう一方でささやかなりとも虚栄心を持っている。それは正義を発揮して表彰されテレビに出たい…という、およそ子供っぽいものだ。それでも彼女は、善良な思いを報われたいと心のどこかで思っている。

 だが奮闘努力の甲斐もなく、ヒロインの思いはどんどん裏切られていく。良かれと思った事がいい結果を生まない。最後には犬失踪事件を解決した(…と彼女は思っている)にも関わらず、彼女は夢の表彰にもテレビ出演にもありつけない。この場面の直後で彼女がタバコをふかすあたりは象徴的だ。タバコはあのシニカルなデブ女の十八番ではないか。しかもこの場面の前にもヒロインはタバコを一回だけふかすが、それは彼女がお人好しぶりをからかわれバカにされた直後だ。その時には彼女はタバコをふかし切れずにむせ返る。しかし夢やぶれて失望した二回目のタバコは、すでにもうサマになってしまっている。彼女の胸に初めてシニカルなシラケが巣くってしまった事を、何より物語っている描写ではないか。

 おまけにヒロインが最初に犬探しを志したキッカケである女の子は、まるで何もなかったかのように新しい犬を可愛がっている。挙げ句の果てに「良いこと」をしたはずのヒロインへの報いは、職場からのクビの言い渡し。さすがのヒロインもここまで来ると世の中を斜に構えて見ずにはいられないはずだ。

 一方、もう一人の主役たる男イ・ソンジェもまた、日常の中で煮詰まっている男だ。最初は善良そのもの。その善良で世慣れないところが災いして、うまく立ち回れず教授にもなれない。妻にも増長され忍従を強いられる。そんな煮詰まり加減が、彼に犬殺し…という悪事を強いたとしても仕方ないかもしれない。

 それでも彼は最初は犬を殺せない。最初の犬が死んでしまったのは、まったくの偶然だ。だが、ここから歯車が狂う。次の犬を殺した時は、まったくためらいがなかった。そしてヒロインに追いかけられる事で、もはや後戻り出来なくなってしまう

 そんな彼は妻の増長ぶりにキレて初めて、妻の心根にようやく思い至る。彼女には彼女なりの煮詰まらざるを得ない状況があった。そして妻の犬を取り戻さなければ…と焦るに至って、ようやく自らの犯した罪の重さを思い知るのだが、その時にはもはやすべて手遅れだ

 これらの登場人物の置かれた状況は、まるで僕らの世の中の縮図のように思える。ヒロインも男もその妻も、それぞれ立場も言い分もあるし悪い人間ではない。だが状況が彼らに報いない。本来善良な男は、あんなに煮詰まらなければ犬など殺すまい。妻にも当たり散らすまい。そもそも賄賂などという不正な手段に出ようと思うまい。妻だって職場で一人奮闘しているうちに、鬱積するものが溜まっていただろう。そして妊娠が災いしての肩たたき。彼女の奮闘への報酬は、わずかな退職金のみだ。それさえなければ、彼女も夫に対してああも増長はしまい。

 すべては世の中不条理だ。ヒロインの受けた報いが象徴的だ。それ以外にも、ささやかな楽しみとして犬ナベを食おうとする警備員など、存在そのものが不条理そのもの。浮浪者も最後に犬を殺そうとはするが、他の罪まで被らされるなど不条理そのもの。そう言えば「先輩」の話に出てくる賄賂で教授職を得た男など、せっかくありついた職ゆえに深酒して死ぬという不条理そのものだ。

 とかくこの世は不条理だ。だから人は誰もそれに翻弄される。本来なら善良に生きられるものを、どこかでついつい足を踏み外してしまう。イ・ソンジェの犬殺し犯人が身につまされ共感できる善良な男と描かれるのは、それが僕らの姿と大差ないということを如実に表しているではないか。

 さよう。みんなどこで悪事に走ってもおかしくない。そうするだけの理由は持っている。そうしたって仕方がない。そうしたって責められない。僕らだって多少の事なら目をつぶってもらいたい。

 それでいいのか?

 賄賂の金をかき集めたイ・ソンジェは、その金を持って電車に乗る。そして金に困った女に、賄賂の中から一枚の札を差し出す。それは本来の善良さと共に、それがいくらかでも贖罪になればと思ってのことではないか? ヒロインと再会した夜に自分の正体を明かそうとしたのも、それで罪の重さを少しは拭いたいと思ってのことではないか? 悪を成してしまっていながら、なぜまた元に戻ろうともがくのか? 誰も真相を知る訳でもない。なぜ埋め合わせをしようなんて考えるのだ?

 一方、やった事がすべて報われなかったヒロインは、男との再会の時点で危ういところに立っていたはずだ。こんな世の中、善良に生きようなんてチャンチャラおかしいと思い始めてもおかしくない瀬戸際までいっていたはずだ。そんな時、彼女は男の正体に気づく。この不条理な状況下で、本来なら彼女もやりたいようにやるチャンスではないか。男を叱責しようと警察に突き出そうと、何でも思うがままに出来るではないか。

 だが、彼女はそこで思いもかけぬ行動に出た

 自分に正体を明かすため夜中に狂ったように疾走した男。その最中、男のクツは脱げて路上に投げ出されてしまった。ヒロインは疲れ切りうなだれた男に、黙って笑顔で脱げたクツを差し出すのだ。

 その笑顔。

 それは、疲れ切りうなだれた男…もう充分に罰を受けている男を、心から許す表情ではなかったのか。あるいはこういう考えが脳裏に浮かんだかもしれない。元々正義感から発した自分の行動とは言え、そこに「報われたい」というつまらない虚栄心は潜んでいなかったのか? 彼女は笑顔で彼にクツを差し出せた時、きっと危ない橋を渡りきったんだと思うよ。すんでのところで踏み外すのを免れた。それは今までの犯人追跡以上に勇気の要る事だと思うよ。ものすごく葛藤が要る事だと思う。それを、生来のしなやかな性格によってか、それとも見かけによらず強い意志ゆえか、彼女は乗り切った。そしてその瞬間、彼女は危ういところを救われたんだと思う。

 転じて終盤、この男…イ・ソンジェは念願の教授の座を手に入れ、悠々自適の人生を手に入れたはずだ。だが、彼の表情はすぐれない。物語の冒頭では彼はうだつが上がらないながらも、目の前に青々とした木々を見ることが出来た。この木々の青さは、人の心の中のイノセンスの象徴なのだろうか…。

 だがこの終盤では、彼は木々の見える窓をカーテンで覆い隠す。そして諦めきった表情で呆然と立ちつくす。あんなに望んでいたものを手に入れたのに、もう彼にはいちばん大切なものが失われてしまった。もはや貧しい女に金を恵んでも、ヒロインに正体を告白しても埋められない。それは犬を殺したことでもない。妻の気も知らずに叱責したことでもない。賄賂に手を染めて、シニカルで腐敗した世界に身を置いてしまったという、取り返しのつかない損失感なのだ。

 一方、ヒロインは友人のデブ女を連れ立ってハイキングに出かけている。その行く先には、見渡す限り青々とした木々…イノセンスが広がっている。考えてみればあのシニカルで醒めきっていたはずのデブ女が、友人とのつき合いとは言えこんな森にやって来るのは、何とも「らしくない」ではないか。でも彼女はここに来ている。それは真の善の輝きが、時としてシニカルな人の曇った目を拭い去ることもあるのだという象徴ではないか。善の力は弱い。往々にしてそれはかき消されてしまいがちだ。だが時にはそれが何かを成し遂げる事もある。あのシラケかえったデブ女の気持ちをささやかなりとも揺るがせた事、それだけでも表彰やテレビ出演に勝る素晴らしい出来事ではないか。

 世の中は不条理だ。そして善はなかなか報われない。だから僕らは、いつだって平均台の上を危なっかしく歩いている。踏み外してしまう事など日常茶飯事だ。そうなるかならないかは、実はほんの紙一重の事なんだろう。

 でも本来なら不条理に踏みにじられた時、人は怒って当然だ。そうなっても無理はない。何をしたって誰にも責めることは出来ない。それで罰せられないとしたら尚のことだ。許されてしかるべきだ。多少踏み外しても、それで善では得られない「恩恵」が得られるならいいではないか。

 そうだ、それでもいい。誰にも知られず罰せられる事もないならそれもいい。ただ、本当にそれは誰にも知られず罰せられないのか。

 いや、たった一人の人物からは逃れられない。そしてその人物は罪を忘れる事もなく、いつまでも付きまとってくるだろう。事あるごとに罪を思い出させて、死ぬまで許してはくれないだろう。

 誰よりも己の罪業を知っている人物…それは自分なのだから

 

 

 

 

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