「インファナル・アフェア」

  無間道 (Infernal Affairs)

 (2003/10/27)


迷走する昨今のハリウッド映画に思う

 それにしても、最近ハリウッド映画って一体どうしちゃったんだろう?

 企画がない…ってな事が言われていたのは今始まった事じゃない。二番煎じなんて言葉は前から何度も言われていた。元々ハリウッドに限らずいい企画というものはそう多くないし、かつまたモテはやされるものだ。だから僕もそれを過度には気にしていなかったのだが…。

 まずは続編だ。続編づくりは昔からあった。柳の下にドジョウが何匹かは知らないが、これは誰でも考える事だろう。だが、かつては今ほど続編に依存してなかったと思うよ。

 まずは、何でもかんでも続編…って訳じゃなかった、かなり大ヒットした作品しか、続編はつくらなかった。しかも大ヒットしたからと言って、必ずつくった訳でもなかった。変な続編をつくったらオリジナルを傷つける…そういった配慮が制作者側にもまだあった。

 しかもせいぜいつくって「第二部」まで。三作目、四作目…なんてのはほとんどなかった。「猿の惑星」なんてのは例外中の例外。しかも、その出来映えたるやしまいの頃は惨憺たるものとみんな分かっていた。

 そんな常識の縛りがハズれてしまうのは、「ダーティ・ハリー」シリーズあたりからか、はたまた「ロッキー」シリーズか。…かくしてごく短期間に三本以上ものシリーズ作品が量産されてしまう、異常な事態が当然のこととなって罷り通るようになってしまった。

 どうしてこうなっちゃったのか…については諸説ふんぷんあると思う。かつては続編とは「二番煎じ」であり、「前作よりも落ちる」ものであり、もう一稼ぎを目論んでつくられる割には成功作がなかった

 おそらくそのタガがはずれたのは、「ダーティ・ハリー2」あたりからじゃないかと僕は思うんだよね。続編なのに、監督もドン・シーゲルから職人テッド・ポストに降格しているのに、なぜか「格落ち」のイメージが少なかった。そしてこれは日本に限った事だが、「〜2」という続編タイトルの命名もうまくいった(実は「ダーティ・ハリー2」の原題名は"Dirty Harry 2"ではない)。この「〜2」って続編タイトルはいまやハリウッドでもどこでも多用しているが、おそらくは発祥の地はこの日本ではないか?

 さらに追い打ちをかけたのが「ゴッドファーザーPART II」だ。今度は「PART II」というネーミング。そしてこの映画はハリウッドの歴史始まって以来、続編でアカデミー作品賞を獲得してしまった。作品的にも正編を上回る続編。かくして続編の「格落ち」イメージは、ここに完全に払拭されることになったわけだ。

 だけどねぇ…。

 だからって今のこの状況はいかがなものだろう。夏休み興業と言えば映画のかき入れ時。当然自信作が並ぶ。過去夏休みを彩った作品群と言えば、「タワーリング・インフェルノ」「ジョーズ」「スター・ウォーズ」…それなりに力を持った重量級作品が並ぶ。やはり夏休み興業を支えるには、それなりの「格」というものがいるのだ。

 ところが今年の夏休みを見てみれば…「マトリックス・リローデッド」「チャーリーズ・エンジェル・フルスロットル」「ターミネーター3」…一見華やかで派手なイメージこそあるが、どれもこれもヒット作品の続編ばかり。情けない事にオリジナルな大作はまったく存在していない。これで果たしていいのか?

 では、続編以外の映画はどうか?

 この秋の大作の一本「S.W.A.T.」がテレビ・シリーズの映画化作品だと、一体何人の人が気づいているだろう? だが劇中にシリーズのテーマ曲まで使われて、あの作品の元がテレビであることを明らかに主張している。

 この傾向のはしりは「トワイライト・ゾーン」あたりだろうか? それとも「スター・トレック」あたりか? 作品的にも興業的にも「アンタッチャブル」「逃亡者」あたりは、ことさらにテレビ云々をとやかく言うものでもなくなった。「ミッション:インポッシブル」がテレビ「スパイ大作戦」だなんて、もう分からない人もたくさんいるだろう。そういう意味では、この夏の「チャーリーズ・エンジェル・フルスロットル」あたりは、この手の映画がここまで来たか…という一つの極端な例かもしれない。すなわち、「テレビの映画化」であり、その「続編」だからだ。

 だがそれにしても、映画としての出来はともかく「S.W.A.T.」程度のテレビ・シリーズでも映画化しちゃうってのはいかがなものだろう? 僕はあのシリーズが映画化されるなんて、夢にも思ってなかったよ。

 そしてテレビでなければ…コミックだ!

 以前からまったくなかった訳ではないだろうが、昔の「スーパーマン」「バットマン」の映画化ってのは、まったくの子供だましだった。それを本格的に大型予算を使ってスターを起用した映画にする…このスタイルを最初に切り開いたのは、やはり外様のプロデューサーのアレクサンダー・サルキンドが仕掛けた「スーパーマン」だろう。大作イメージ、オールスター・キャスト、ヒーローに対する悪役への超大物スターの投入…と、現在のアメコミもの映画の原型は、すべてこの「スーパーマン」に当てはまる。そして「スーパーマン」の権利を持っていたDCコミックスは、この映画の成功で味をしめてしまった。何しろ映画関連商品…書籍、CD、オモチャ、グッズ、ビデオ、DVD、テレビ放映…と、マルチメディアやマーチャンダイズ関係で儲けが天文学的に膨らむのだ。この傾向に「バットマン」がさらに火に油を注いでしまった。

 これにはライバルのマーベル・コミックスも指をくわえてみてる訳はない。「スパイダーマン」「ハルク」などと大作が連打されたのは、そういう事情なのだろう。

 ただし…アメリカではどうか知らないが、「デアデビル」なるこっちじゃ誰も知らないヒーローあたりまで映画にするのはいかがなものだろう? 映画にしてもいいかもしれないけど、何も無理矢理映画にする事もないんじゃないか?

 さらに現在では、これに新たな傾向も出始めている。上記の作品はいわゆる「アメコミ」作品の映画化だが、実は「アメコミ」以外にも日本で言うところの「マンガ」カテゴリーに入る作品の映画化が行われ始めたのだ。トム・ハンクス、ポール・ニューマン主演の「ロード・トゥ・パーディション」がそれだ。

 この作品だけを見て、これがいわゆる「マンガ」の映画化だと思う人間はいないだろう。シリアスで堂々たる物語、しかもハンクスとニューマンというハリウッドが誇る一流スターの出演。ジリ貧の日本映画界で、若山富三郎が「子連れ狼」を演じたのとは事情が違うのだ。

 この作品は「グラフィック・ノベル」…日本で言う「劇画」の映画化だと言う。だとすると、この手の作品の映画化は今後ますます増えるのではないか? どんなにシリアスにアレンジしてみても、「アメコミ」の映画化作品には「それ特有」の限界がある。シリアス度を最大に増しても「X-メン」どまりだろう。ならば、この「グラフィック・ノベル」…「劇画」の世界は、ハリウッドにとっては企画の金鉱脈の可能性があるんじゃないか? この際「ロード・トゥ・パーディション」の元ネタになったグラフィック・ノベルが本当は独力で描かれた訳ではなく、日本の劇画「子連れ狼」をベースにしているらしい…ということは、とりあえずこっちに置いておいて…だが(笑)。

 そして、さらに顕著なのが過去の作品のリメイクだ。

 いつからこの傾向が強くなったかは分からない。僕は、この過去の作品のリメイクってのを活発化させた張本人って、「キングコング」リメイクで気を吐いたイタリア出身のプロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスではないかと思っているんだけどね。彼は他にも「フラッシュ・ゴードン」「ハリケーン」と、大昔のハリウッド作品をリメイクした。モノクロで技術も稚拙な作品を現代の技術で大型映画化する…というスタイルは確かに斬新だ。こうして、過去の作品でも現代の映画に再生産させれば「新作」となる…という公式をつくってしまった事が、現在のリメイク大氾濫のキッカケをつくってしまったように思われるんだけどね。

 こうしてつくられるわつくられるわ…だが、何とバスター・キートンの「セブン・チャンス」なんてサイレントの名作コメディまで「プロポーズ」としてリメイクされるってのは、いくら何でも行き過ぎじゃないか(作品は悪くない出来だったが)? 公開がまだ20〜30年前程度のスティーブ・マックイーンの代表作の一本「ゲッタウェイ」をリメイクするってのは、「現代に再生産」というにはあまりに近すぎないか? 同じくあれだけ斬新なヒット作でシリーズ作品を4作も引きずった、「猿の惑星」のリメイクってのはいかがなものか?

 さらには「バニシング IN 60"」なんてバッタもん映画に至るまで、いくらカルトにモテはやされたからと言って、ニコラス・ケイジやアンジェリーナ・ジョリー主演のA級大作「60セカンズ」としてリメイクするなんて…。それこそこんな事態は誰も想像だにしていなかったよ。

 こうしてハリウッドはタコが自分の足を食うがごとくリメイク企画を進行中だが、当然自分の足を食い詰める前に周囲のエサをあさろうと模索もしてる。

 つまりは海外作品のリメイクだ。

 海外作品のハリウッド版リメイクってのは、実は今始まった事じゃない。一番有名な例を挙げれば黒澤明の「七人の侍」をリメイクした西部劇「荒野の七人」あたりが、誰にとってもピンとくる作品じゃないか? 他にもイングリッド・バーグマンがハリウッド・デビューした「別離」なる映画は、彼女が本国スウェーデンで主演した「間奏曲」なる作品のハリウッド・リメイクだったとか、こちらも枚挙にいとまがない。ウィリアム・フリードキンが撮った「恐怖の報酬」なんてのもあったね。

 そもそもアメリカ人は英語映画以外は見ない。だから知らない言語で見慣れない俳優が出ている外国映画など、字幕で見る訳もないのだ。吹き替えたところで極めて怪しい。ならば面白い外国映画があったらアメリカの話にしてハリウッド・スターを使ってつくりなおしちまおう…まぁ、ハリウッド製リメイクが生まれる土壌には、昔ながらのこうしたアメリカ人気質があるのは否めない。

 だが、これほどハリウッドで海外作品のリメイクが盛んになった事は、いまだかつてなかったと思うよ。で、その最初の発端は何かと考えてみると、たぶんコリーヌ・セロー監督のフランス映画「赤ちゃんに乾杯!」をリメイクした、「スリーメン&ベビー」あたりじゃないかと想像できるんだね。この作品は予想外の好評で、続編(!)「スリーメン&リトル・レディ」が制作されるほどのヒットを飛ばした。こうなりゃフランス映画に鉱脈アリ…と映画会社が思うのも無理はなかろう。「ジャック・サマーズビー」「恋人はパパ」「ファーザーズ・デイ」…などなど、海外作品のハリウッド・リメイクがまずフランス映画から始まった理由は、たぶんそこにあると思う。かくしてこの流れは、何とアーノルド・シュワルツェネッガー主演、ジェームズ・キャメロン監督の大作「トゥルーライズ」にまで辿り着くんだから驚きだ。あれをリメイク作品と知っている人は多くはいまい。

 そして、それは当然フランス映画には留まらなかった

 1999年という年は、うちのサイトを開設した年だが、映画界にエポック・メイキングな流れが起きた年でもあると思う。僕がこの年にまず驚いたのは、非アメリカ映画のハリウッド・リメイクがやたら取りざたされたことだ。スペイン映画「オープン・ユア・アイズ」がトム・クルーズによって再映画化権を買われた(実際に「バニラ・スカイ」として完成)。フランス映画「奇人たちの晩餐会」がスピルバーグによって買われて、ダスティン・ホフマン主演で企画中。さらにはイギリス映画「ロック、ストック・アンド・トゥー・スモーキング・バレルズ」ですら、トム・クルーズが食指を伸ばしたとのウワサ。このうち「奇人〜」は作品がことごとくアメリカでリメイクされるフランシス・ヴェベールの作品だから当然の流れとも言えるが、「ロック、ストック〜」あたりは英語映画ではないか。ナマリがキツいからハリウッド化…ということなのだろうか。ともかくこの年はこうしたリメイク話題がやたら多かった。そして、それ以後は僕が言うまでもないだろう。

 今年にしたってすでにリチャード・ギアとダイアン・レインの「運命の女」が、ジョージ・クルーニーの「ソラリス」が、さらには「ミニミニ大作戦」や「サハラに舞う羽根」が、海外作品のリメイクだと言える。一方すでにハリウッド・リメイクが決定している映画も、「猟奇的な彼女」や「10億分の1の男」などがある。

 だが、その数もさることながら…問題はその内容だ。アンドレイ・タルコフスキーの映画のリメイクでなくスタニスラフ・レムの原作の映画化だとうそぶいてはいるが、「惑星ソラリス」の再映画化なんて今までだったらハリウッドがやっただろうか? あるいは「猟奇的な彼女」のハリウッド化はどうだ? とにかく世界中の話題作という話題作をどれでも手当たりしだいに漁ってる感じだ。果たしてこれでいいんだろうか?

 

ど素人は黙って映画界からスッ込んでいろ

 ところで、こうした昨今のハリウッドの企画底払い状態を考えていくと、どうしても奇妙な事に思い当たってしまう。それは企画の枯渇と声高に言われているけれど、本当に企画は枯渇してしまったのか…ということだ。

 この論議の根拠となるのは、まずは映画が誕生以来100年を経過して、語るべき物語が語り尽くされてしまった…というもっともらしい理由だ。確かに目新しい話ってもうどこにもないように思われる。

 だが、そもそもがハリウッド映画の元ネタとなっていたものが、映画会社が抱えていたライターたちのオリジナル脚本と小説や戯曲などの「原作」ものだったとすると、この理由は理由になり得ない。

 オリジナル・シナリオがダメになる理由がまず分からない。そもそも映画の歴史は100年にもなる…と言うより、まだ100年しか歴史がないと言うべきだろう。小説や戯曲の歴史がどれくらいか考えてみてくれ。それなのに、映画だけがいち早くネタ切れになるのはおかしいではないか。

 第一、ハリウッドが今必死に他国のネタを漁っているということは、他国では企画の枯渇が深刻化していないということを意味してないか? ハリウッドだけ企画が枯れてしまうなんて事があるか。そんなバカな事はありえないだろう。

 仮に実際にハリウッドのシナリオライターのオリジナリティーがなくなったとして、アメリカの出版界において小説がネタ切れになったという話は聞いた事がない。ブロードウェイの芝居もしかり。いや、仮に僕が知らないだけで企画貧困にあえいでいたり質的レベルが低下していたとしても、ハリウッドの現状ほどに激しく落ち込んでいるとは思えない。それでは、なぜ小説・戯曲の映画化ではダメなのか?

 代わって現在のハリウッドの題材供給源となっているメディアを挙げていこう。まずは続編をつくるためのネタとしての既存の映画作品、テレビ・シリーズ、コミック、そして再映画化のネタとしての過去の映画作品、さらには海外の映画作品…これらを見渡して、何か気づくことはないか?

 そう。いずれも映像かビジュアルで表現したメディアの企画ばかりなのだ。

 このハリウッドの国内外作品のリメイク・プロジェクトを考えていくうち、奇妙な事に思い当たった。例えば米国版「ゴジラ」…日本のオリジナルとの共通点はただ核実験で出現した怪獣という一点だけ。ファンにはオリジナルの冒涜とまで言われたように、別に「ゴジラ」のリメイクでなくてもいいのだ。あるいはシドニー・ルメットが再映画化した「グロリア」。これも実はオリジナルのジョン・カサベテスの「グロリア」の趣向は、リメイクとは銘打ってないがリュック・ベッソンの「レオン」がそっくりいただいてしまっている。そのせいかルメット版リメイク「グロリア」よりも、ベッソンの「レオン」の方がオリジナル「グロリア」にイメージが近いという腸捻転現象が起きているのだ。ならば元々「グロリア」など再映画化する必要がないではないか。「ゴジラ」に関してはその知名度が欲しかった…という理由も考えられるが、元々マイナーなカサベテス作品の「グロリア」についてはほとんど意味がない。さらにもう一つ例を挙げれば、近々公開が迫っている新作の「シャレード」がある。「シャレード」と言えばオードリー・ヘプバーンとケイリー・グラントのコンビが印象深いが、何とこのリメイク版ではマーク・ウォルバーグと「M:I-2」の黒人女優サンディ・ニュートンが演じるという。物語もオリジナルとはかなり様変わりしているようだ。こうなると、一体どこが「シャレード」かと言いたくなる。ただ男女が主役のロマンティックなサスペンス映画という意匠を引き継いでいるだけではないか?

 遠回しな話はもうやめよう。実は僕は、このハリウッドの続編やリメイク流行りの傾向って、企画枯渇が原因ではないと思っているんだよ。

 映画というのは実は特殊な世界だ。本当のプロにしか、企画や制作段階での正否について判断できない。実はプロにも判断出来ないってのが本当のところだけど、少なくとも素人がパパッと見て即断できる世界ではあり得ないんだよね。

 ところがテレビの大攻勢で映画が全世界的に斜陽化した時、当然ながらハリウッドも弱体化した。その時にハリウッドのメジャー各社も、すべて他業種企業の傘下に組み込まれる事になったわけ。今は「タイム・ワーナー」みたいに映画のワーナー・ブラザースが主導権を握っているようなところもあるが、ともかくは映画会社が他業種の企業のコントロール下に入っちゃったんだよね。そして映画がまた持ち直してからも、大資本化した段階で他企業との関わりが必要になったと思うんだよ。それは映画会社と親会社の関係でもあるし、あるいは出資企業との関係でもあるね。また先にコミックの映画化で挙げたように、メディアミックスやマーチャンダイズを通しての関わりもある。

 ところで映画って先に述べたように特殊な世界なわけ。それが他業種の合理的な考え方や採算ベースで突き詰められちゃったらどういう事になるだろうか? そもそも他業種企業の意志決定や決断プロセスに馴染むのだろうか?

 例えばバブル華やかりし時、日本の松下電器がアメリカのMCAを買収した時のことを思い出して欲しい。MCAと言えばユニバーサル映画が中心のエンターテインメント企業だが、案の定松下はまったくMCAをコントロール出来なかった。あげくザルみたいに金を注ぎ込んだだけだった。ハッキリ言えば野球にど素人の三山なる球団代表が張り切って入ってきたはいいが、何も流儀が分からないため原監督を辞めさせてチームをグチャグチャにしちゃった読売ジャイアンツみたいなものだ。まぁ三山の場合は就任の日にいきなりプロ選手たちの前で自分が草野球でヒットを飛ばした自慢話を並べたという、そもそも根本的に頭が悪いんじゃないかと疑わざるを得ない言動が災いしたことはあるんだけどね(笑)。

 MCAの場合は向こうが一枚も二枚も上手だったから、松下がさんざ泣かされたあげく手放す事になって終わった。他のアメリカの企業だったら、おそらくはもっとシビアに映画会社にも接するだろう。だけど、何だかんだ言っても所詮はやっぱり素人でしかないんだよ。そのくらい映画ビジネスは特殊で、素人には分からないものなんだ。

 そして、素人にいちばん読みにくいのが、映画の企画だ。

 スクリプトやら何やらいろいろ企画書はあるだろうけど、基本となるのは物語ということになるだろう。すると大切なのは脚本だ。あるいは過去のハリウッドなら原作小説か戯曲…って事になるんだろうかね。それは当然そうだろう。ところがこの脚本ってやつが、素人の目には何とも判断つきがたい。脚本を読んで映画のイメージが明快に頭に浮かぶってのは、よっぽど映画見てるか映画つくってる奴じゃないと難しいと思うよ。そして原作小説については、映画一本をちゃんとイメージするために本一冊読まねばならない。

 アメリカのシビアな企業のそれなりの地位の人間たちに、果たしてじっくり脚本や小説を読み、その映画化の善し悪しを検討する時間があるか。また、その能力があるか? こうなるとセンスの問題も関わってくる。ロバート・アルトマンの「ザ・プレイヤー」など、ハリウッドを戯画化した映画作品を鵜呑みにするわけにもいかないだろうが、スタジオのトップたちが「企画を1分で説明しろ」などとうそぶくのも無理はない。それでも彼らはプロだから、まだいいかもしれない。だが親会社や出資する他企業に説明するには、これでは不十分だ。なぜなら彼らは素人で、活字から映画のイメージをつかむのが困難だからだ。今時は誰でもいっぱしのことはホザくだろうが、ホントに心底分かってるというのとそれは違うのだ。

 では企画段階でイメージが速やかに伝わり、他者に通りがいいものは何だろう?

 そう考えた場合に必然的に増えていったのが、映像かビジュアルで表現したメディアの作品…それらをネタにした企画だと思うんだよ。

 すでにテレビ・シリーズやマンガがあれば、「これを映画にします」でプレゼンテーションは済んでしまう。だが、それでもイメージが湧かないとホザく、金と権力だけ持って頭カラッポの企業のお偉いさんもいるかもしれない。そういう連中には、完成した映画を見せるしかない。どうすればいい? ただ見せればいい。完成品を見せればいい。ただしそれは過去のハリウッド映画か、海外の作品だ。「これをこの面白さのまま、スターを使ってハリウッド映画にします」…こう言えば、どんなバカでも勘の悪い奴でも分かるだろう

 そして、あくまで「こんな感じでいきます」…だから、厳密な再映画化作品でなくていいのだ。単にイメージ・プレゼンテーションのために拝借したオリジナル作品でしかない。人妻役でも妖精のように可憐なオードリーとロマンス・グレーのトボけた二枚目ケイリー・グラントが、野性味のあるブラック・ビューティーのサンディ・ニュートンとまだ若さを残した人の良さそうなアンチャンのマーク・ウォールバーグに代わっても、何ら問題はない。なぜならプレゼンテーションを受けた素人連中には違いが分かってない。ただ男女コンビが主役のロマンティック・サスペンスとしか認識出来てないからだ。

 だがこんな事を繰り返していたら、ホントに土壌が荒れてしまう。すべては痩せ細ってしまう。スポーツでもプロがアマチュアとばかり対戦していると、どんどん腕が落ちていくという。現にテレビでレギュラー番組を持ったプロゴルファーなどは、毎週視聴者ゴルファーの太鼓持ちなどさせられていくうちに、優勝から遠ざかっていくらしい。たぶん発想が貧困で金しか頭にないビジネスマンと付き合っているうち、そして品性の卑しい連中のペースにからめ取られるうちに、ハリウッドの映画人たちの質も落ちていったのではないか。本来は映画人という一種の「芸道」を極める者は、決して商売人やら広告屋やらと普通に交わってはいけないのかもしれないのだ。

 かくして今のハリウッドは、本当に面白い物語、斬新な企画、オリジナルな発想が生まれない場所になってしまったのかもしれない。有能なライターやプロデューサー、監督たちも、意欲を失ってしまったのかもしれない。もはや物語を生み出して、それを語る事に意欲を持てないでいるかもしれない。物語そのものを信じられなくなっちゃっているかもしれない。そりゃそうだ。どうせ企画を立てても通りっこない、どうせ分かってもらえない、第一「奴ら」はホントは映画などつくりたいとは思っていない、映画をダシにして金儲けがしたいだけだ…そんな諦めと呆れが蔓延しちゃったら、作る側のモチベーションも低下してしまうだろう

 こう断定するのは大変危険だけれど、ハリウッドの企画枯渇はそこに寄ってたかって食い物にした、ど素人の資本家たちやビジネスマンたちの仕業なのだ。だから、教訓はたった一つだ。ともかくど素人は黙ってスッ込んでいろ。読売の三山はサッサと辞表を書いて家に帰り、二度と世間に出てくるな(笑)。プロの世界はプロに任せておけ。

 前置きが長すぎたかな。ともかくそうしたハリウッド映画の現状を考えると、今回ここで紹介する映画の重要性はさらに一層際だって見えるんだよね。

 その映画…香港映画「インファナル・アフェア」と言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

できるだけ映画をご覧になってからお読みください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

警察とマフィアに分かれた対照的な二人の男

 香港のとある寺に、若者たちの一団とそれを率いる一人の男がいた。男の名はエリック・ツァン。香港を裏から牛耳るマフィアのボスだ。若者たちはみなこのツァンの組織の一員となったばかりの新米ばかり。しかも、全員ツァンからの密命を帯びていた。

 「一人の将の下には幾多の部下たちの犠牲があると言う。だがオマエたちは自分で自分の運命をつかみ取れ!」

 そんなツァンの風変わりな訓辞を受ける若者たちの中に、まだ18歳の「彼」もいた。そして「彼」を含む若者たちはみな、警察に入ることを命じられていた

 警察学校の訓練が始まった。マフィアから送り込まれた「彼」も猛訓練に明け暮れる日々。そんな警察学校の同期にはまた一人、正義に燃え警官としての将来を夢見る<彼>もいた

 ある日、そんな<彼>は教官室に呼ばれる。その<彼>を待っていたのは指導教官と、香港警察きってのやり手アンソニー・ウォン警視。これは一種のオーディションだった。二人にその優れた素養を見い出された<彼>は、ウォン警視より密命を与えられる。

 警察学校を去り、マフィアの中に潜入せよ。

 やがて、警察学校を不始末を理由に退学させられる<彼>の姿があった。汚名を着せられ去っていく<彼>の後ろ姿を見て、自分が代わりたいと秘かに思う「彼」であったが…。

 こうして10年の月日が流れた

 「彼」アンディ・ラウは警察学校から香港警察に配属され、トントン拍子に出世街道を驀進。組織犯罪課(OCTB)の有望株へと歩を進めていた。

 一方、マフィアに潜入した<彼>トニー・レオンは、常にギリギリに追い詰められた精神状態の中にいた。それでも何とかその中枢へと近づいて、大ボスのエリック・ツァンの片腕となっていた。

 ある日、街のオーディオ店に足を運ぶラウ。そこで店番をしていたのは、たまたま金の取り立てに出向いていたレオンだった。運命のいたずらでお互いの身分を知らぬまま、二人は共通の趣味のオーディオ談義に花を咲かす。

 ラウはツァンから流される情報を使って、警察内で見事な成果を収めていた。そんなラウの見事な手腕を見て、同僚が素朴な疑問を投げかけてくる事もある。「何でそんな情報を掴めたんです?」

 もちろんそんな同僚の疑問に答えられる訳もないラウだった。

 また、マフィア深く潜入したレオンは、長年続いた「オトリ捜査官」生活に疲れ切っていた。やがてレオンのオトリ捜査官としての存在を知る二人の人物のうち、警察学校の指導教官が世を去った。だがレオンは恩師の葬儀にも顔を出す事が出来ない。街角を走り去る霊柩車を、物陰から一人秘かに見守ることしか許されない…。

 そんなレオンは精神を荒ませるようになり、乱暴沙汰で警察に捕らえられる事も頻繁になった。釈放と共に精神科医の治療を義務づけられるレオン。だが彼は女性精神科医ケリー・チャンの元を訪れても、長椅子でただ眠るだけだ。義務期間が過ぎたある日、精神科医チャンはレオンに治療打ち切りを告げる。「ただ眠っているだけでは治療してもムダよ」

 だがレオンは、この長椅子で眠る時間が唯一の安らぎの時と思い始めていた。彼は精神科医チャンに治療の続行を頼み込む。そして思わず衝動的にこうつぶやいた。「実はオレは警官なんだ…」

 そんな言葉を精神科医チャンが信じる訳もない。そう分かっていながら実は真実を告白していたレオンは、彼女との時間に何かの救いを求めていたのか。

 そんなレオンが自分を取り戻せるのは、いまや彼の存在を知る唯一の人物・ウォン警視がコンタクトをとってくる時だけ。ビルの屋上で情報交換する際にも、レオンはウォン警視に恨み言を言わずにはいられない。最初3年だけと言っていたのに、その3年が終わればまた3年…一体いつになったら元の身分を取り戻せるのか。もうレオンは自分が警官なのかマフィアなのか分からなくなっていた。そんな彼にウォン警視は一個の腕時計を渡す。また何かの小型カメラか…と問い直すレオン。だが、それはウォン警視から彼への誕生日プレゼントだった。こんなもの…と毒づくレオンではあったが、そう言いながらも彼はウォン警視に新たな情報を伝えた。それはツァンの新たな麻薬取引に関する情報だった。

 この情報を得て、ウォン警視の指揮の下、麻薬取引を監視する捜査陣が敷かれた。その中には若手ホープのラウの姿もあったのは言うまでもない。捜査陣は取引現場の雑居ビルの向かいのビルに居を構えた。コンピュータを駆使したハイテク捜査が開始される。そんな中、ラウは上司や同僚の目をかいくぐり、携帯電話でツァンに捜査状況を伝えるのだった。

 一方、雑居ビルの取引現場にいたレオンは、通信機にモールス信号を叩いて状況を伝えていた。それを聞き取るウォン警視の挙動に気づくラウ。今度はラウが取り引きが筒抜けになっていることを、ツァンに知らせる番だ。かくして一味の別働隊が麻薬の現物を取りに海辺に向かったところを、警官隊が駆けつける。同時に雑居ビルの取引現場にも警官隊が突入した。だが、ラウの情報から間一髪で現物を放棄して、現行犯逮捕は免れた。マフィアは取り引き不成立、警察は決定的証拠を掴めず、この日は両者痛み分けの結果となった

 警察の取調室に連れてこられたツァンはじめレオンらマフィアの一団。だが彼らは証拠不十分で釈放となった。彼らの前に現れたウォン警視はじめラウら捜査陣との間でしばし睨み合い。この日が両者にとって決定的な日になったのは、何も今回の一件が痛み分けになったからではない。どうやらそれぞれの内部に内通者がいるらしい事が明らかになったからだ。互いを牽制しながら、それぞれ自分たちの内部にいる内通者を必ず暴くと相手に宣言するツァンとウォン警視。この日のとどめはツァンのこのドスのきいた言葉だった。「いつか殺してやる!」

 そんな一触即発のある日、警察のラウにツァンから連絡が入る。ウォン警視の手先となっているマフィア内の内通者を探り出せとの命が下ったのだ。だが、ラウの胸中は複雑だった。彼は今や警察内でも将来を嘱望される身。しかも人気女流作家サミー・チェンとの結婚を目前にしていた。おまけに警察からは内部調査課(CIB)に配属され、逆にマフィアからの内通者を探り出す命令を下される。まさにエリート中のエリートへの道が約束されたようなものだ。こうなってみて改めて、ラウはこの恵まれた状況を失うのが惜しくなった

 一方レオンはレオンでツァンからの全幅の信頼を得て、警察から送り込まれた内通者を仕留めるように依頼される。いまや手下すべてに疑心暗鬼のツァンは、常に全会話をテープに録音せずにはいられないほど神経を尖らせていた。さらには部下の過去から銀行預金に至るまで洗い出す始末。そんな中で、ツァンはレオンだけは信頼してくれる。そんな皮肉に、何とも複雑な思いに駆られずにはいられないレオンだった

 そんなツァンは映画館でラウとの接触を試みる。この時にラウは初めてツァンからの頼みに答えを渋った。だが組織の命令は絶対だ。結局その頼みを聞かざるを得ない。だがラウは、この時同じ映画館にレオンが見張っていた事を知らなかった。ツァンと別れたラウの後ろ姿を追うレオン。だが惜しくも、あと少しでその正体を見破る事が出来なかった

 さて警察上層部から内部捜査の全権を委任されたラウは、その権力を十二分に行使してウォン警視の動向を追い始めた。若手刑事に極秘捜査と偽ってウォン警視を尾行させるラウ。やがてウォン警視がとあるビルに上がって行ったとの報告を受けたラウは、これを内通者との接触と読んでツァンに知らせる。

 屋上では案の定、ウォン警視がレオンと接触中だった。いよいよ自分の身に危険が迫って来たと告げるレオンに、ここが潮時と悟るウォン警視。だが、その決意は遅すぎた。ビルにはツァン配下の者が駆けつけ、階段からエレベーターからあらゆる手段を使って屋上へと向かっていたのだ。もはや逃れる術がない。

 意を決したウォン警視は、レオンと別れてエレベーターに向かった。何食わぬ顔でツァン配下の者たちをやり過ごそうとするウォン警視。だが、彼らの目をくらますことは出来なかった。

 一方窓拭き用のゴンドラで難を逃れたレオンは、外から駆けつけたのごとくビル手前までタクシーでやって来る。だが、そのタクシーの屋根に向かって、遙か頭上から何かが勢い良く落下してきた。

 バ〜〜〜〜ン!

 タクシーの屋根に叩きつけられた何か…それはウォン警視の変わり果てた姿だった。

 血みどろのウォン警視の亡骸を目にして、しばし呆然のレオン。だが、まず張り込んでいた刑事たちが我に返った。さらにそこに下りてきたツァン配下の者たち。たちまち両者の間で激しい銃撃戦が展開する中、レオンは自分を慕う弟分にクルマに乗せられ、危ういところをその場を逃れた。

 だが、その弟分も銃撃戦の際に負傷し、クルマの中で息を引き取った。レオンを慕い、ウォン警視を襲う際にその場にいなかった事を黙って彼を庇ってくれた弟分。そんな彼の死に、レオンは己の宿命の忌まわしさを感じずにはいられない

 ウォン警視の死は、警察・マフィアの対立に決定的な事態をもたらした。何も殺さなくてもよかった…と初めてツァンに恨み言を言わずにいられないラウは、事ここに至ってもはや自分がツァンの存在と自分の内通者としての使命を持て余していると気づかずにはいられなかった。

 一方死んだ弟分を内通者に仕立て上げて事なきを得たレオンも、これ以上この状態を続けられない事を悟っていた。しかし自分の身分を知る唯一の人・ウォン警視はもうこの世にはいない。完全に煮詰まった状態のレオン。だが、そんな彼のウォン警視との連絡に使っていた携帯電話が、突如鳴るはずもないのに鳴り出すではないか。

 それは、ウォン警視の携帯電話の存在に気づいたラウが、「内通者」レオンに向けてかけた電話だった!

 

物語の力強さを信じ切っている作り手のスゴさ

 香港で大評判となり世界各国でもヒットを飛ばしたこの作品、優秀な非アメリカ映画の常として早々にハリウッド・リメイク権が売れてしまったと言う。前述したように今ではハリウッド・リメイク話などありふれた事とは言いながら、この大層なモテはやされぶりはやはり物語の面白さに負うところ大なのだろう。

 情けない話だが、僕はこの映画の製作・脚本にも携わった監督コンビ、アンドリュー・ラウとアラン・マックなる人物をまるで知らない。だから過去の作品が何とか…などと能書きを並べる訳にもいかない。ともかくは厚ぼったい男たちの重層的なドラマだ。過去内通者を題材にした作品は洋の東西を問わず数多くあった。だが、それらは大概犯罪組織に潜入した警官のドラマであることが大半だっただろう。

 ところがここでは犯罪組織に潜入した警官に、対照的に警察に潜入した組織側の人間を配した。それらはまるで鏡のように呼応するかのように配置され、互いが所属する組織まで完全に対象化されている。しかも二人の男にはそれぞれ控えめながら女の存在がある。かように何から何まで図式化した展開は、ともすればリアリズムを云々される西欧映画界からはなかなか出にくいものかもしれない。実際にここまで完全対照に創り上げると、リアリズムを基調とする現代映画では不自然と受け取られかねない構図となろう。それを臆面もなく押し通したのが今回の作品の特徴であり、かくも見事にそれを成し遂げた事が、ハリウッドにも新鮮に見えたのではないか。

 今回のこの作品の場合、この二人の構図をそれぞれの内面にわき起こる葛藤へと徹底的に突き詰めていった事が勝因なのだろう。このあまりと言えばあまりなコテコテの構図によって、二人の主人公が追い詰められていく事が最大の見どころとなっている。単に趣向の面白さに終わっていない。互いが鏡の向こう側のように見える構図が、単なる出来過ぎの設定にとどまらずに皮肉な宿命とまで見えてくるあたりが、そしてそこまで徹底的に突き詰めていった事が、この作品の見事なところなのだ。

 それは映画の冒頭とエンディングに、仏教の説話みたいなものが引用されている事からも伺える。あたかも人間の「業」とまで思わせる設定…それはまるで神話や伝説の域まで達しているほどだ。そこまでの野太い力強さまで到達しているからこそ、見ている側は出来過ぎとか不自然とかの邪念にとらわれずに物語に引き込まれる。これほど物語の強さを感じさせる事は、今の映画では希なことだ。それこそ今のハリウッドが失い果てて、かつ望んでやまないものだろう。このちょっと思いついただけではあざとくて腰が退けてしまいそうな設定、一見するとハッタリやケレンに終わってしまいそうな設定を、疑いもなく信じ抜いて突き進んでいけるあたりが香港映画界のバイタリティなのかもしれない。

 だがこれを見事に具体化させるには、単に監督や脚本家の力では及ばない点がある。ここまでの抜き差しならない二人、やむにやまれぬ状況に陥った二人…つまりは宿命の二人を描き込むには、それ相応のボリュームのある男優二人の存在が必要だ。ここで香港にトニー・レオンとアンディ・ラウという、人気・実力ともに申し分なしのほぼ均衡した力量の二人の俳優がいた事は、まさに幸運としか言いようがない。演技力もさる事ながら、男の色気も十分の文句ナシにいい男たち。女だけではない…男まで惚れさせ説得させてしまう二人でなければ、この映画も絵に描いた餅に終わってしまっただろう。正直言って、僕は今回の映画ストーリーを綴る事に無力感を感じた。なぜなら、いくらこの映画の宿命や皮肉を盛り上げようとしても、そこにこの二人のいい男の「絵」がなければ説得力ゼロだからだ。これはまず見てもらわなければ意味のない映画だ。そして、だからこそ映画でしか語り得ない映画となっている。この映画の企画段階から二人の名が挙がっていたかどうかは定かではないが、おそらくはこの映画の成立条件のかなり基本の部分において、二人の出演が前提となっていたのではないか。

 「ザ・ミッション」でのクールな用心棒ぶりが忘れられないアンソニー・ウォン、「ラヴソング」「不夜城」と十八番となったヤクザの大親分ぶりを見せるエリック・ツァンなど脇の役者も揃った。小さな役どころながら、売れっ子ケリー・チャンとアンディ・ラウゆかりの共演者サミー・チェンまでが配された、贅を尽くしたキャスティング。主役二人の厚ぼったい存在だけでなく、脇に至るまで手抜かりナシのボリューム感だ。

 さらにはスタッフ側を見渡してみても、撮影監督ではないものの「視覚コンサルタント」としていまや大家となったクリストファー・ドイルが参加。映画全編に渡って色彩を落としたモノトーン気味のザラザラと荒れた映像を使って効果を挙げている。さらには、編集に「レイン」「アイ」の監督として知られるパン兄弟の弟ダニー・パンが参加しているのも驚きだ。そういう意味で、この作品は香港映画界の総力戦的プロジェクトとでも呼ぶべきかもしれない。

 そして映画のタイトルともなっている「無間道」…これが作品全編に貫かれているからこそ、この映画は華も身もある作品となった。終わりのない苦痛に焦がされ続ける地獄…それは彼らがそれぞれ犯罪組織の人間だったり警官だったり、はたまたそれの内通者であったりしたから…であるとは限らないと語っているところが秀逸なのだ。善でもあり悪でもあり、なおかつ善とも悪ともつかない対照的な二人を中心に据えた事が、何よりこの物語を人間全般に言える普遍的なものにしている

 なぜなら人は誰でも自分の思うとおりには生きられない。良くも悪くも自分の意を曲げていかねば生きていけない。周囲も親しい人も愛する人も、時には自分をも偽らずにはいられない。そんな事をしたことがない…と言う人も、単にそれを気づいていないか忘れているか、それこそ自分を偽っているに過ぎない。

 人間は社会性の生き物であり、人として生活を営む以上、他者との関わりなしには生きられない。そして他者と一緒にやっていくということは、必ずしも自分の志通りに生きられない事を意味する。また、常に真っ正直ではやっていけないのは言うまでもない。ウソも方便という言葉があるように、人は時に良かれと思いつつ偽りを演じている。もちろん悪しき意識の下に偽りを選ぶこともあろう。

 そして何より他者の目に映る自分は、本当の自分ではあり得ない。それは自分が意図して創り上げた自分像でもあるし、好意的悪意的はともかく、他者がおのずから創り上げてしまうものでもあるからだ。そもそも自分が本当は何者かということを、僕らはみなちゃんと分かっているのだろうか? 人が社会性のある生き物である段階で、すでに人は自分自身ではいられないものだ。人が己の不運さ、忌まわしさを嘆く時とは、得てしてそんな自分の「業」…こんなはずじゃなかったという皮肉…に思い至る時ではないか。

 それが「無間地獄」であると言うなら、人生とはすなわち地獄である…ということではないか。長寿こそが最大の地獄…といった趣向のフレーズが掲げられるエンディングこそが、それを何より物語っているではないか。考えてみれば、これほど究極のダークな結末を娯楽映画のかたちで見せてしまった事こそ、この映画の最も大胆不敵で、他に例を見ない点ではないか。口当たりこそ甘くアレンジされてはいるが、この映画がはらんでいるドス黒い凄みはアメリカ映画「セブン」などの比ではないのだ。

 その「セブン」に主演したブラッド・ピットが、ワーナー・ブラザースが製作するこの作品のハリウッド・リメイク版の主演者となるらしい。しかしブラピがいかなる大スターで演技巧者であったとしても、そしてトニー・レオンとアンディ・ラウどちらの役柄になるにしても、さらにはいかなるハリウッドの強力な共演者を得たとしても、この二人と拮抗するのは生やさしい事ではないよ

 願わくはこの作品のハリウッド・リメイクが、ブラピのスター生命にとって、そしてハリウッドの映画産業にとって、こんなはずじゃなかった…という「無間地獄」とならない事を…。

 

 

 

 

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