「マッチスティック・メン」

  Matchstick Men

 (2003/10/13)


人生は災い転じて福

 ここんとこ僕は、少々ウツが入っていた

 それは私生活や仕事のことももちろんだが、実はこのサイトの運営についての事もあった。どうもうまくいってないな…と内心思っていたんだね。それは何がどうのって、一つの事にとどまらない。

 結果的にホコロビをオモテに出さずにはいたものの、いろいろ面倒臭いものを感じてはいたんだ。まぁ、これも身から出た錆とは言え、正直言って自分のお楽しみのために始めた事。それなのに、何でまた楽しくない思いをしなきゃならないんだ…と、ちょっとウンザリもしていたんだよ。大した事じゃあないが、アレコレちょっとカッタルイ気分になっていた。

 思えば僕がこのサイトをここまで続けられたのも、いろいろな偶然と幸運に頼っていたんだな…と今にして感じる。些細な事ではあったけれど、僕はツイていた。ツキ過ぎていた。こんなサイトごときでツキ過ぎとはよく言ったもの…と揶揄されてしまうかもしれないが、これはこれでちっぽけではあるが幸運ではあるだろう。ともかく、たまたまやった事やたまたま起こった事が全部プラスに働いた。だから決して僕の力とは言えないんだよね。本当にこれはそうなんだ。たまたま、なぜかそうなっちゃっただけだ。僕も今まで何となく自分の力以上にうまいこといってるな…とは思ってたけど、ここへきてなおさらそれが強く感じられたよ。

 そして今年に入ってそのツキがちょっと落ちたかな…と思えもしてきた。

 どうも今ひとつシックリ来ない事が多い。もっと気楽にサイトを更新していた頃が懐かしい。僕がこのサイトをやめちゃおうかとボヤくのは今始まった事じゃないし、それを聞けば「また始まった」と言われるのがオチだ。現に自分でもちょっとそれを言い過ぎたな…と、最近は出来るだけそういう嘆きを露わにしないようにしていた。まぁ5年近くもやってればいろいろあるのは当たり前。そりゃそうなんだよね。それにイヤならやめちまえ…ってのも、こりゃいわくごもっとも。

 そんな僕の軽いユウウツのタネ…これもまた些細な事ながら不運なのだと言えば、確かにそう言えるんだろう。だが、ここんとこに来てちょっと考えが変わった。それもまたいいか…と思えるようになったんだね。

 たぶん何かが起きないと僕の心変わりもない。何かを思い立ちもしない。ずっと続けていた事を変えたり見なおしたりするってのは、僕は基本的に苦手だからね。何か起きて初めて、どうにかしようと思い始める。多少グズついた事が起き始めても、何とかそのまま続けちゃおうとするのが僕なのだ。

 だけどそれも手に余ってきたら、ようやく何かしようとする。時にはチョコチョコ見直してみることもある。新たな事を始めようと思ったりやめたりする。あるいは思い切り根こそぎひっくり返すこともある。とにかく僕ってのはものぐさだから、何か起きないと御輿を上げないんだよ

 だから、これはチャンスかもしれない。実はいいかげん煮詰まって持て余していたモノを、これを機会に断ち切るのも手だ。初心に返ってみる事もあるだろう。冗談抜きで全部チャラにして麻雀パイかき回しちゃう事だってアリだろう。全然違う事を始めてみるのも面白そうだ。そうだ、これは僕のサイトなのだ。何をやったって僕の自由だ。そんな事を今初めて気づいた訳でもないのだが、これは自分のサイトを自分の手に取り戻すいい機会かもしれない。あるいは自分の生活を見直すキッカケなのかもね。こんな事やってる場合じゃないかもしれないしね。つまりは何でもアリなんだ。

 そうなると、イヤな事必ずしも悪い事とは言えなくなる。そんな原因になったアレコレを、恨んでみたり嘆いてみたりばかりでもないと思えてくるんだよね。いや、意外に感謝すべき事かもしれないよ。

 実はそんな事は、僕の人生でいくらでもあった。前にも何度か書いてきた事だけど、災いと思っていたのが福を運んで来ることは、結構あったんだよね。

 実はかつて、ある女と破局した時もそうだった

 さすがにこれは僕にはこたえた。正直言って惨憺たる状況だったからね。前々から何となくオカシイとは思っていたんだ。辻褄が合わない事がいっぱい起きた。そのたび変だ変だとは思っていたのだが、僕は見て見ぬフリをしていた。そしてある日すべてがひっくり返った。そしてふと気がついてみたら全てを失ってた。文字通り本当に何から何まで失っていたんだよね。

 ハッキリ言ってしまえば、僕は「してやられた」のかもしれない。そりゃ怒りもしたよ。「まんまとしてられた」自分のお人好し加減に怒りもした。ともかくこう言っちゃ相手に申し訳ないとは思うが、こっちの身になりゃ正直言ってあんまりな話ではあったんだ。

 だけど今は僕は怒ってはいない。そして実は少々感謝もしている

 何と言っても、僕はやっぱり素晴らしい思いもした。忘れがたい思い出ももらった。やっぱりいろいろ良いことはあったんだよ。しまいはどうあれ、ね。

 それに結局、最後の最後で僕は救われたかもしれないんだ。もうあれ以上どうにもならないのが事実だったんだから。それが否応なしに幕が引かれて、僕もようやく目が覚めた。ああまでいかなきゃ、たぶん僕はそのまま奈落の底だっただろうね。そうなったら、僕は一体どうなっていたか分からないよ。

 そしてこの事で学んだ事もいっぱいあった。それは僕の後半生で活かされる事もあるんじゃないか。だったら僕はきっと得るものがあった。

 きっと何かを得るためには、それ相応の代価も必要なんだよ。

 

「潔癖性」の詐欺師が娘と再会して

 ここは太陽サンサンのカリフォルニア。そんな陽気をよそに家の窓を閉め切っている男が一人。それがこの家の主、ニコラス・ケイジである。

 この男、自分が踏んで出来たカーペットの毛並みの乱れも許せない。窓やドアを閉じたり開いたりする時は、必ず「1、2、3」と声に出して開閉させなければ気が済まない。もちろん部屋にはわずかなゴミもチリもない。そのくせタバコはスパスパという大きな矛盾を抱えながら、思い切り神経質な性格を貫いて生きていた。

 彼は病的な「潔癖性」だ。

 そんな彼がご出勤したオフィスには、彼のビジネスの相棒サム・ロックウェルが電話の応対中。何のことはない。その商売とは海外旅行やら何やらの賞品が当たったと電話して、ドサクサ紛れに浄水器を売るというケチな詐欺師稼業。さらに浄水器を売りつけたカモの家に捜査官を偽って押しかけ、うまい事を言ってはさらに儲けを膨らます巧妙な手口だ。

 そんなケイジにロックウェルはさらにでっかい儲け話を持ちかけるが、ケイジは見向きもしない。彼は今までの詐欺師稼業で十分金を儲け、銀行の貸金庫やら自宅のブルドックの置物の中にたんまり蓄財をしていた。今さらヤバイ橋を渡ってボロ儲けを企てる必要がないのだ。

 だが、そんな彼も自分の「潔癖性」には手を焼いていた。詐欺の最中にカモが自宅の窓を全開にしたら、たちまち口をパクパク。彼は「広場恐怖症」でもあるのだ。彼の心の安定は、ひとえに詐欺行為の成就と毎日欠かさず飲む薬にあった。

 そんな彼にもちょっとした人間味のある一面はあった。行きつけのスーパーのレジの女に、心秘かに好意を寄せていたのだ。だがもちろん彼女に声をかけるような事など出来ない。

 ところがある日、ケイジはうかつにも薬を流し台にブチまけて流してしまった。慌てて新たな薬をもらおうと医者に電話すると、その医者は家賃滞納の末に夜逃げしたと言うではないか。

 こうなるともう「潔癖症」が止まらない。ケイジは家の隅々まで磨きまくり、半病人の状態で一歩も家を出られなくなった。連絡がとれなくなったロックウェルはケイジの家に駆けつける。ロックウェルはケイジに、新たな医者にかかることを勧めるのだった。

 かくしてロックウェルの紹介で、精神分析医を訪ねるケイジ。彼を診察したブルース・アルトマン医師は、しかし黙って薬を渡してはくれなかった。「潔癖症」をどうにかするには彼の分析を受けねばならない。かくしてケイジは薬が欲しいばっかりに、アルトマン医師の質問に渋々答えることになる。そこで語られたケイジの過去は、少々お寒いものだった。かつてはケイジにも妻がいたが、彼が殴ったために逃げられたこと。その時に妻のお腹には子供がいたこと…。そういえばアルトマン医師に聞かれるまでは、ケイジもその事を忘れていた。

 そんな事が呼び水になったのだろうか。ケイジはある晩、ガラにもなくかつての妻の家に電話を入れる。だがもちろん彼女が電話に出ても、声をかける勇気がない

 それでも自分の「子供」がどうなったか気になってしょうがない。かくしてケイジはアルトマン医師に、無理無理自分の元妻の家に電話をかけてもらうよう頼んだ。

 その結果、元妻には娘がいる事が分かった。そしてその娘が会いたいと言ってきたのだ。

 クルマで待っていると、どうやら娘らしい少女がやって来る。なかなか声をかけられなかったものの、何とか再会を果たした父娘。娘はアリソン・ローマン、14歳。そんな娘ローマンとの語らいは、いつものケイジの規則正しい生活にはなかったものだ。アッという間に時間は経ち、ローマンを家のそばまで送っていったケイジ。そんなケイジにローマンは、彼の心をわし掴みにする一言を残していった。「パパは言われているほど悪い人とは思えない」

 なぜか心浮き立つものを感じたケイジ。翌日、彼は父親として娘に何かしてやりたいと思ったか、ロックウェルが言っていた大きな儲け話に乗ることにした

 相手のカモはお金持ちのブルース・マッギル。ロックウェルが知り合いになった男だと言う。まずはケイジが金融関係のプロに扮して、ロックウェルと組んで「儲けている」ところを見せびらかす。これに飛びついてきたら仲間に加えると見せかけて、金をふんだくろうという魂胆だ。

 そんな作戦開始の当夜、何と事もあろうに娘のローマンがケイジの自宅にやって来た。母親とケンカをして、飛び出してきたから置いてくれと言うのだ。仕方なくローマンを家に残して、ケイジは「仕事」に出かける事になる。当夜の「仕事」はホンの序の口。まずはロックウェルとケイジがたまたま居合わせた振りをして、金持ちマッギルを引っかける手はずだ。

 「仕事」を終えて帰って来たケイジ。娘ローマンは家を散らかし放題に散らかして、そのまま眠ってしまった。しかしローマンの寝顔を見ていると、不思議と怒る気になれないケイジだった。

 だが、厄介な事にローマンはケイジの仕事を詮索し出す。そして彼女は例のブルドッグの置物の中味を見つけてしまった。こうなると自分の身分を明かさねばならない。明かしたら明かしたで、今度は父親と同じ「詐欺」の仕事を働いてみたいと言い出す。それだけはいくら何でも…と思いつつ、泣き所を押さえられてローマンの言う通りにせざるを得ないケイジだった。

 まずはホンの小手調べの詐欺を働くケイジとローマン。これが不思議な事に、血は争えないのか見事な詐欺の腕前を見せるローマン。そんな彼女にケイジの胸中は複雑だった。

 そしてケイジはローマンとの暮らしの中で、徐々にあの「潔癖性」の慣習が失せていくのを感じていた。いつの間にか「普通」の暮らしをし始めているケイジ。それは彼にとっても驚きだった。ある日など、あのレジの女に親しげに声をかけているくらいだ。

 そんな折りもおり、ケイジがローマンとボーリングに興じている最中、例の金持ちマッギルが取り引きの日取りを繰り上げて来た。何と今日やろうと言い出すのだ。もうローマンを家に帰す時間もない。

 ええい、ままよ。

 ケイジはローマンを連れて取り引き現場の空港ビルに向かった。こうなったら毒を食らわば皿まで。彼女にも詐欺の片棒担がせるしかない。ロックウェルの立ち会いの下、ローマンの手助けもあって大金の入ったカバンをすり替えたケイジは、金持ちマッギルを見事一杯食わせることが出来た。

 …はずだったのだが…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何かを得るためには代価がいる

 これ以上書くと、この映画の面白みも半減するだろう。詐欺師を主人公にした引っかけ映画だ。まずはストーリー紹介はここまでとさせていただきたい。

 これはあのリドリー・スコットの最新作だ。リドリー・スコットと言えば、もう今では巨匠の風格すら漂ってきた観があるね。一時期「白い嵐」「G.I.ジェーン」と、ちょっと調子を落としてトホホな時期もあったものの、「グラディエーター」でまたしてもその圧倒的手腕を見せつけた。この作品は監督賞は逃したもののオスカー作品賞を得て、以後はつくる映画つくる映画すべて成功を収めている感じだ。

 ところでこのスコットという監督、実は作品系譜で辿るとまるで掴み所がない。史劇の「デュエリスト/決闘者」から出世作のSFホラー「エイリアン」…とくる様変わりぶりは、その後も終始一貫している。映像スタイルはスモークと逆光の多用という特異なものを一貫して持っていながら、つくる映画のジャンルは変幻自在。最近ではそのスモークと逆光のスコット印すら少々薄れてきた観があるから、なおさらその姿勢に一貫性を見出しにくい。近作群を挙げても、かつてのハリウッド・スペクタクル史劇の再現「グラディエーター」、「羊たちの沈黙」続編で猟奇サスペンス「ハンニバル」、リアリズム戦争映画「ブラックホーク・ダウン」…と、どれもこれも素晴らしい出来映えながら映画のジャンルはまるっきり超越している。こういう監督さんも珍しいんじゃないか?

 そんなスコットの新作は、詐欺師を主人公にしたコン・ゲームもの。一風変わったコメディだ。リドリー・スコットがコメディ? 今まであらゆるジャンルを超えて良作を生み出してきたスコットも、コメディってのは初めてじゃないか? その意味でも興味深い作品ではある。

 たぶんスコットって人は、映画演出家に徹しているんだろう。お話の部分には、いつも脚本家に多くを負っている。それを効果的に見せる技術に長けているのだ。そういう意味で、今回の作品の面白さの多くの部分は、「オーシャンズ11」のテッド・グリフィンとニコラス・グリフィンのチームの脚本にあるんだろうね。だがその語り口のうまさは、やはりスコットのものだ。

 今回面白いのは、主人公の詐欺師に「潔癖性」というハンディキャップを負わせた事だ。

 とにかく神経質。それも病的なほど。実際病気なのだが、それが災いして、どうも過去の結婚も壊したらしい。

 仕事柄、そして性格柄、人間関係も煩わしい。だが、まったくそれを求める気がなくなったわけでもないらしい。なぜなら、彼は行きつけのスーパーのレジ嬢に気があるようだし、過去をチョイと精神科医につつかれると、かつての妻に電話しようと試みたりもする。だが、やはり彼の性格がそれを許さない。

 そんな彼の生活に「娘」が否応なく入り込んでくる事で、彼の生活ペースは思い切り乱されてしまう。だが、それが不思議に苦痛にならない。このへんは、彼が本当は「普通の生活」「人間関係」を求めていた事の何よりの証だ。

 実は僕はこの作品を「引っかけ映画」と言ったが、それはまったく正確な表現ではない。なぜなら、この映画では「引っかけ」の手品の種が、割と早晩に次々と明かされていくからだ。娘が主人公に自宅まで送らせない事、娘が主人公の金庫のナンバーまで知りたがる事、精神科医が実はイカサマな薬を与えていた事…怪しいと思わせる点はいっぱいある。僕のような勘の良くない観客にも、これは何かある…と思わせる語り口だ。だから本当のところ作者たちは、この映画で観客を一杯食わせようとは思ってない。これはそんなコン・ゲームを楽しませる映画では、実はないからだ。

 娘が詐欺師稼業に興味を持った時、主人公は狼狽する。どうしても詐欺を教えるハメになり、まんまとそれに成功しても、最後には娘に金を返すように告げる。それは親としての当然の気持ちでもあるが、彼自身、詐欺を働いている事への居心地の悪さもあったはずだ。

 結局主人公は一杯食わされ、今までの儲けの一切合切を吐き出すハメになる。それはショックでもあろうし、大きな損失でもあろう。

 だが、それはこうは言えないだろうか? 主人公が娘にさせた行為…「詐欺で稼いだ金を返す」という事と同じだと。それは言わば罪の清算だ。

 ラストで主人公は、しがないカーペット屋として勤めている。だが、それはある意味で主人公の復活とは言えないだろうか。あるいは救済とでも言おうか。それは単に堅気になったと言うだけではない。真っ当にオモテに出て働けるくらい、彼は「潔癖性」を克服して「普通」の生活を手に入れたのだ。なぜなら映画の最後の最後で、主人公には妻となったレジ嬢が寄り添っていることが示される。そのお腹には子供がいることも…。思えば「潔癖性」すら、彼の罪の意識がそうさせたものかもしれないのだ。だとすれば、彼は全財産を失った事で、そんな幸福を手に入れたのかもしれない。

 カーペット屋に転身した主人公は、そこで自分を一杯食わせた「娘」と再会する事になる。考えてみれば、自分をダマし、自分からすべてを奪った憎い相手のはず。だが、主人公に怒りはない。

 「あれで世界の見方が変わった」

 僕も自分にとんでもない災難が降りかかった時、どれほどショックを受けたか分からない。そんな目に合わせた相手を、どれほど憤ったか知れない。だがそれが鎮まった時、自分にはもう不思議と怒りが消え失せていたんだね。それはキレイ事ではないよ。それはその当時の事を思えば、胸にいくらかキリリと痛みを感じない訳ではない。だが、それでも自分の中では一種清算が済んでしまった事に思える。それは決して時が解決した…という事だけではないよ。時間が経ったから忘れてしまっただけではない。僕の中で、何らかの納得が出来たからだ。

 「あれで世界の見方が変わった」

 ひどい目にあった、惨い仕打ちを受けた…確かにそれはそうだろう。それを恨む気持ちにもなろう。自分の不運を嘆く気持ちにもなるだろう。だが、何が幸運で何が不運かは、実はその時には分からない

 自分の身に降りかかる事は、良いことも悪いことも必然性がある。それが僕がこの短い人生で得た教訓だ。時にそれを忘れる事もあるが、それをまた思い出させてくれる事がすぐに起きてくる。良いことばかりが起きないように、悪いことばかりってのも、なかなか起きないものなんだ。だって悪いことも良いことも、同じコインのオモテとウラなんだからね。

 「あれで世界の見方が変わった」

 そう、僕も世界の見方が変わった。それは悪いことばかりじゃない。つらい思いもしたが、意味のない事じゃないと思ってる。だって僕はきっと何かを得たからね。

 そして何かを得るためには、それに等しい代価を払わなければならないのだ。

 

 

 

 

 

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