「シティ・オブ・ゴッド」

  Cidade de deus (City of God)

 (2003/08/11)


  

いつまでも「負け犬」のままでいるな

 つい先日、自分でつくった爆弾が暴発して、男が大ケガするという事件が起こったのは記憶に新しいと思う。

 何でも子供時代にイジメられた恨みを晴らすべく、自分をイジメた連中を爆弾で殺そうとしたのだと言う。世間じゃ恐るべき事件だと糾弾したし、その男も頭のおかしい奴として片づけられた。確かにそれは本当だろう。世間がこの男を異常者と見なしたのも間違いじゃないだろうし、僕もそう思う。だけど、みんなの前では大声では言えないが、僕はこの男の気持ちが分からないでもないのだ

 僕が小学校の頃にひどいイジメにあったことは何度も明かした覚えがあるけれど、その時のツラさは本当に筆舌に尽くしがたい。直接僕をいたぶった連中には怒りを禁じ得ないが、それを傍で傍観していた連中も許せない。僕をいたぶっていた奴が消えた後、手の平を返したように僕への態度を変えた奴らも我慢できない。今では時間も経ち、子供の頃の事だからと自分を納得させてはいるが、それでも心の奥底ではあの時の怒りや無念さが消え去ることはないのだ。

 その後も僕の人生は続いていったけど、僕を裏切り踏みにじる人間は後を絶たなかった。さすがにガキの頃のイジメなんかとは訳が違うよ。だが仕事上でプライベートで、何度も何度も腹わたが煮えくり返るような思いを繰り返し味わって来た。子供の頃のイジメなんかより、そちらの方がよっぽどタチが悪かったよね。そいつらを殺してやりたいかって?

 さぁ、殺したいかどうかは分からない。しかしそいつらが何らかの報いを受けるのを、この目で見てみたい気持ちは正直言ってあるよ。本当ならそうであるべきだと思う。でも、決してそうはならない。そいつらはのうのうと暮らしてる。ひょっとしたら僕よりずっといい思いをして暮らしている。それに腹が立たないと言ったらウソになるね。

 では、なぜ僕は自分で爆弾をつくらないのか?

 そんな事をしたってロクな事になりはしないって、何となく分かっているからね。何にもならない。その爆弾男は苦労したあげくに大失敗して、自分が大ケガしたばかりか犯罪者としてブタ箱入り。人生はめちゃくちゃだ。もう取り返しがつかない。復讐は割に合わないのだ。仮に成功したとして、その後にどんな満足感が待っているだろうか? 考えてみれば実に空しいよ。それで自分に何が返ってくる訳でもない。仮に自分に災いを与えた奴ほど自分が残忍なら、そこで何がしかの楽しみや喜びを得られるかもしれない。しかし、そいつらほどの残忍さがなかったからこそ、自分はそんなツラい目に遭わされたのだろう。結局そんな事をしたところで、自分が罪の意識に苛まれるだけだ。それでは苦しくなる一方ではないか。

 不謹慎かもしれないが、僕はその爆弾男を世間の人々のように非難はしない。ただ、復讐するつもりでかえってテメエが災いを受けた、そのマヌケさを笑うけどね。そんな事のために今まで払ってきた努力を考えてみろ。爆弾をつくるための苦心惨憺。金だってかかったはずだ。時間と労力たるやバカにはなるまい。その間、金でも稼いだ方が良くはなかったか? 面白おかしい事でもやってた方がナンボかマシだったろう。そこまでして実現にこぎ着けた計画の結果、奴にもたらされたのは大ケガと犯罪者としての前科。もはや一生マトモには暮らせまい。一方、そいつをイジメた奴らはと言えば、ヌクヌクと人生を続けていく。

 確かにそいつは異常な奴だったかもしれない。しかしそいつを追い込んだ連中は、間違いなく残忍で卑劣な奴らだろう。どうせロクな人間ではあるまい。だが、そいつらは何のお咎めもなし。それどころか、今回の事件では「被害者」として同情される側に立つ。何とも不合理な話だろう?

 だが人生とは、世の中とはそんなものなのだ。

 僕はある時から、自分に降りかかった災難を恨んでも仕方ないと悟った。それに対する怒りや悲しみはあるが、時間が経てば消えずとも薄れはする。だから、許しはしないが忘れる。僕はそうやって忘れようとしながら、自分が「被害者意識」だけは持たないようにしようと決めた。

 僕が例の爆弾男を糾弾するなら、その残忍性や異常性にではない。憎い相手を殺すべく仕掛けた爆弾で自分が傷ついたマヌケさにでもない。ただ一つ、いつまで経っても自分がイジメられたという「被害者意識」から抜けきれなかったところに、この男の大きな間違いを感じるのだ。

 世の中は不合理で不条理でアンフェアなものだ。いくらだってひどい目にも遭うし、自分にそれをもたらした人間が、非難されたり処罰されたり報いを受けるかと言えば必ずしもそうはならない。いや、ほとんどそんな事は起きない。周囲の人間だって同情してくれるかもしれないが、そんなモノは心の底から思っている訳ではない。親身になってくれる訳でもないし、足を引っ張りこそすれ助けてくれる訳もない。そして大半の人間にとって、そいつの不運は人ごとだ。そいつがどうなっても関係ない。その時だけ興味を持って振り向いてくれるかもしれないが、すぐにまた無関心に戻る。

 そんな中で、自分一人がいつまでも「アンフェアだ、不公平だ」と思い詰めたところで無意味だろう。

 「被害者意識」とは、つまり「負け犬」ということだ。

 「負け犬」には情け容赦なく不運が襲ってくる。弱っている時こそ叩くチャンスだからだ。世の中の人間は、口ではいろいろ言っても、少しでも自分がいい思いをしたい、少しでも自分が人より有利になりたい、高い場所に立ちたいと願っている。そこに格好の機会を与えるだけではないか。

 だから過ぎた事は考えるな。振り返るな。「負け犬」の気持ちは微塵も持たずに、他人につけ込む隙を与えるな。そして世の中のゲームに参加し続けろ。僕が今までの人生で学んだのは、こうした世の中のゲームのルールだったのだ。そして、今もゲームは続いている。

 あまりに希望がなさ過ぎるって? いくら何でもペシミスティックだって?

 いや、僕は決して悲観論者なわけじゃない。世の中斜めに見つめているわけでもない。むしろ、これは前向きな考えだと思ってるよ。元々アンフェアな世の中を、いつまでも恨んでいるのはバカげてると悟っただけだ。そんな事をしている間に、少しでも自分が良い状態になるように努力しろ。

 だってこの世の中は、決して天国なんかじゃない。アンフェアな状況は、いつまで待ったって変わりはしない。誰も「負け犬」になった自分を助けてなぞくれない。だったら自力ではい上がるしかないではないか?

 自分を「負け犬」から救い出すのは、結局自分でしかないんだからね。

 

抗争に明け暮れる街に育って

 ここはリオデジャネイロ郊外にある貧民街「神の街」。その猥雑なエネルギーに満ちた町並みには、今日も抗争の火種がくすぶりながら一触即発の状態にある。街角ではニワトリをその場でつぶしてグツグツ料理しているが、そのニワトリのうち一羽がたまりかねたようにその場を逃げ出した。

 「追いかけろ!」

 たちまちその場にいたアンチャンや悪ガキどもが、必死に逃げ出すニワトリを追いかける。ただこいつらと来たらいきなり銃を持ち出し、ニワトリに向かってぶっ放すから尋常ではない。そんなこんなでニワトリを追いかける一団が目抜き通りに出てきた時…。

 たまたま一人の少年ブスカペ(アレシャンドレ・ロドリゲス)がダチとしゃべりながら通りかかった。

 彼はカメラマン志望で、腕一本で何とかこの貧民街から抜け出したいと願っていた。ところがそんな二人が、例のニワトリを追いかける一団と鉢合わせした。

 「そのニワトリを捕まえろ!」

 ニワトリを追っていた一団のリーダー格、リトル・ゼ(レアンドロ・フィルミノ・ダ・オラ)が、ブスカペに大声を放つ。この街ではリトル・ゼの一声は絶対だ。慌ててブスカペはニワトリを捕まえようと、目抜き通りのど真ん中に仁王立ちするが…。

 何とブスカペの背後では、パトカーが停車して警官たちが銃を構えだしたではないか。それを見つけてリトル・ゼたちの一団も一斉に銃を構え出す。何と、リトル・ゼたちギャング団と警官たちとの、銃を構えてのにらみ合いのど真ん中に、ニワトリを捕まえようと両手を広げてのマヌケ・ポーズで立つ羽目になったブスカペだった。

 絶体絶命!

 もはや進むも退くも出来ない有様のブスカペ。しかし、この貧民街「神の街」とは、いかなる経緯でかくも物騒な町になり果てたのか…?

 

 その昔、1960年代後半。「神の街」は政府の肝いりで建設された新興住宅地だった。そこにやって来たのは洪水で家を失ったりした貧しい連中ばかり。それでもこの時代はまだのどかなものだった。ある三人組がのさばっている以外は。

 それはカベレイラ(ジョナタン・ハーゲンセン)、アリカーチ、マヘクの「優しき三人組」。彼らはこの貧民街で悪事を働いていたチンピラだった。この三人の手下のようにくっついているのが、カベレイラが弟分として可愛がっているリトル・ダイス(ドグラス・シルヴァ)とメガネをかけたカベレイラの実の弟ベネの、まだ年端もいかぬ子供二人。実は「三人組」のうちマヘクには弟がいた。それが映画の冒頭に出てきたブスカペのまだ幼い頃。だがマヘクは弟ブスカペにヤバい橋を渡らせたくはなかったし、ブスカペ自身もそれを望んではいなかった。

 「三人組」のパシリのうちリトル・ダイスは、こんなガキのうちから一端のワルぶっていた。だから「三人組」が自分を一人前扱いしないことが不満でならない。そんなリトル・ダイスが、ある日「三人組」にある計画を持ちかけた。街の連れ込みモーテルに襲撃をかけようというのだ。「三人組」はこの話に乗ったものの、まだガキのリトル・ダイスには見張りを言いつけた。念願の銃を手にすることは出来たものの、実行犯になれないリトル・ダイスには不満がつのる。

 その晩モーテルに乗り込んだ三人組は、従業員を縛り上げて部屋に乗り込む。訳あり男女が励んでいるところに銃を持ってなだれ込むと、金目のものを奪うという算段だ。

 ところがその最中に銃声が!

 もし警察がやって来たら、リトル・ダイスがモーテルの窓に向かって一発ぶっ放す手はずになっていた。さてはサツがやって来たか? 慌ててモーテルから脱出する三人だが、外にはなぜかリトル・ダイスがいない。さては、何か手違いがあったのか? ともかくモーテルに停まっていた車を奪うと、慌ててその場を逃げ出す三人だった。

 だがロクに車も運転できるわけではない。車はそのままとある酒場に突っ込んだ。慌てて車から脱出した三人は、散り散りになって逃れることとなった。

 このモーテル襲撃事件がきっかけになって、警察がひっきりなしに「神の街」のガサ入れをするようになる。それと言うのも、この事件が例を見ない残虐さだったから。何と、従業員からモーテルの客にいたるまで、一人残らず虐殺されていたのだ。だが三人組は決して誰も殺していないはず。一体誰が…?

 バラバラになって逃れた三人組はそれぞれ別の道を歩まざるを得なかった。まずはアリカーチが悪の道にイヤけがさして脱落。アヘクは仕方なく家に戻り、親父にガミガミ言われて魚の行商をすることになる。カベレイラはと言えば、たまたま逃げ隠れた家の娘と恋に落ちて、真っ昼間からベッドでもつれる日々だ。

 だがキッパリ足を洗ったアリカーチはともかく、他の二人がこれで収まるはずもない。まずはアヘクが地金を出した。人の女房に手を出して、その亭主に危うく殺されかかる。結局逃げ出したアヘクはその後二度とその姿を見せることはなかった。

 カベレイラはいつまでもギャングの夢を捨てきれなかったが、例の娘から愛想を尽かされそうになって、この街を逃げ出す決心をした。たまたま通りかかった車を停めて銃で脅して、女と逃げ出すつもりだったが、物事はうまくいかない。何と車がポンコツで後ろから押さなければ動かない。仕方なく車に女を乗せてカベレイラが後ろから押していたが、それが運の分かれ道だった。

 折から「神の街」には警官隊がワンサカ集まっていた。それと言うのも、例のアヘクが手を出した人妻を亭主が殺し、自宅に埋めたのがバレたからだ。その警官たちがカベレイラに気づいた。エンジンがかかって車は走り出したが、カベレイラは警官に撃たれて傷ついた。泣き叫ぶ女を乗せて車は走り去っていく。カベレイラは警官たちの弾丸を雨あられと浴びて、路上に無惨な姿をさらして息絶えた。

 そんなカベレイラの亡骸を、報道カメラマンが写真に収めている。通りかかった少年ブスカペは、それを見て心に決めた。いつか自分もカメラマンになる、そしてこの街を出ていくんだ…。

 

 歳月が流れ、ブスカペも年頃になっていた。目下の彼の関心事は、カメラで仲間内を撮影することと、お仲間の中の可愛い子アンジェリカ(アリーセ・ブラーガ)だ。まだ童貞のブスカペは、彼女のお相手をして女を知るのが夢だった。だが、邪魔な事に彼女にはティアゴ(ダニエル・ゼッテル)というカレシがいた。ただ、アンジェリカの心配は、最近このカレシがコカインに夢中なこと。アンジェリカにしても他のお仲間にしても、手を出すのはせいぜいマリファナ止まりだ。そしてブスカペは、アンジェリカの歓心を買いたくて、ちょくちょく売人の元にマリファナを買い求めに行くのだった。

 この日もブスカペは、売人ネギーニュのアパートにやって来たところ。ところがそこに別の来客がやって来た。入ってきたのは、ヤバいゴロツキどもを従えたリトル・ゼ…かつてのリトル・ダイスだ。

 リトル・ダイスはあの後も着々と悪の階段を上り詰め、いまやリトル・ゼと改名してこの街を牛耳ろうと勝負に出た。「神の街」ではさまざまな売人が麻薬をさばいていたが、それを自分が一手に握ることにしたのだ。邪魔する奴はぶっ殺す。結局ネギーニュもその場を追い出され、シマをリトル・ゼに奪われた。こうして「神の街」一帯は、次々とリトル・ゼの支配下に入っていった。唯一の例外は、古くから麻薬をさばいてきたセヌーラ(マテウス・ナッチェルガリ)のシマだけ。古くからリトル・ゼの片腕であり、今も彼と行動を共にするベネ(フィリピ・ハーゲンセン)が取りなしているため、何とかリトル・ゼはセヌーラを攻撃せずにいたのだ。悪党にしては好人物のベネは、理性的で無茶をしないこの街でも珍しい男。彼がいるからリトル・ゼも過度に無茶な事はしなかった。だが、内心ではリトル・ゼも、この街すべてを支配する欲望に駆られていたのだが。

 アンジェリカとつき合っていたティアゴはやがて彼女から捨てられ、ますます麻薬におぼれることになる。こうして彼女の大の仲良しになったブスカペは、もう少しで彼女をモノにするところまでこぎ着けた。一方、頻繁にヤクを買いに出入りするティアゴのあか抜けた服装に目を付けたベネは、自分も服装に気を配り一端の洒落者となった。そんなベネにアンジェリカは一目惚れ。結局ブスカペは、あとちょっとのところで彼女をベネにかっさらわれることとなってしまう

 やがてアンジェリカと恋仲となったベネは、悪の道から足を洗ってこの街を出ることを決心する。これは幼なじみでずっと行動を共にしてきたリトル・ゼに、少なからぬ打撃を与えた。

 やがてベネの「さよならパーティー」が盛大に催される。彼の人柄を反映してか、ギャング連中の他、ソウルな連中、サルサな連中、ありとあらゆる大勢の客がやって来た。

 だが、リトル・ゼは面白くなかった

 ずっと一緒にやって来たのに、ベネが自分を置いて女とどこかに行ってしまうのが気に入らなかった。この街を牛耳るほどになっていたのに、このパーティーではまるで野暮てん。元々ツラがまずいせいで、女に声をかけても相手にされないのがまた気に入らない。すっかりキレたリトル・ゼは、女連れの男を銃でいたぶる無法に出た。さらにはベネにも絡みだす始末。だが、そんなリトル・ゼをつけ狙う男が一人…。

 一発の銃声!

 だがリトル・ゼを狙った銃弾は、誤ってベネの命を奪ってしまう。親友の死に逆上するリトル・ゼ。たちまち盛大なパーティーは騒然とした状況に一転した。

 リトル・ゼを狙ったのは、シマを奪われた売人のネギーニュだった。彼は元の兄貴分のセヌーラの元に泣きつく。だがリトル・ゼを殺したのならまだしも、失敗してベネを殺したとあっては、セヌーラもネギーニュをただでは済ませられなかった。リトル・ゼを抑えていたベネがいなくなった今、奴らがセヌーラに全面戦争を仕掛けてくるのは時間の問題だったからだ。

 

 かくして「神の街」は、激しい抗争の場と化してしまった。事あるごとにセヌーラへの攻撃を仕掛けようとするリトル・ゼ。だが、いつものように攻撃に出掛けようとした彼が、たまたま一人の女とすれ違ったことから、またしても運命は大きく揺れ動くことになった。

 この女は、恋人であるマネ(セウ・ジョルジ)に会いに行く途中だった。彼女に目をつけたリトル・ゼは、マズいツラの自分と比べて、このマネが男前だった事も気に入らなかった。多勢に任せてマネをぶちのめし、彼の目の前で女をレイプ。さらにそれだけでは飽きたらず、マネの家を襲撃。彼の弟と父親を惨殺するに至った。これにはキレたマネ。元々は平和を愛する良識人で、いつかはこの街を出ていこうと願っていた彼だが、事ここに至ってはもう我慢できない。怒り心頭のまま銃を手に入れリトル・ゼ一味に襲いかかり、仲間の一人を亡きものにした。だが、手を汚した以上、もう後戻りは出来ない。オモテの世界には戻れない。マネはリトル・ゼと敵対するセヌーラと手を組む事になった。

 最初は「関係ない人を殺すな」などと、元々の良心的な態度を崩さなかったマネ。だが、リトル・ゼとの抗争資金を手に入れるために銀行強盗を重ねていくうちに、徐々にワルが身についていくのを止めることが出来ない。いつしか無慈悲に警備員を殺し、金を奪うことにためらいがなくなっていく。

 こうなると両陣営ともエスカレート。次々悪事を重ねては武器を調達。自分たちに味方する新参者もどんどん引き入れた。昔は悪ガキどもにお灸を据えていたリトル・ゼも、こうなったら猫の手も借りたいとばかり、銃を与えて次々抱き込んでいく。

 そんな中、あのブスカペは自分の将来をカメラに賭けたいと思い、着々と夢に近づいていた。まずは新聞配達からスタート。やがて新聞社の写真部の人間と親しくなり、尊敬するカメラマンに声をかけられるようになった。

 そんなある日、あのマネが何者かの銃弾に倒れる事件が起こった。マネはそのまま逮捕され、新聞の紙面を彼の写真が飾る。これにはリトル・ゼが逆上した。

 「何で奴の写真ばかりなんだ、この街を仕切っているのはこのオレだぞ!

 妙な自己顕示欲にかられたリトル・ゼは、自分の写真を撮らせるように手下に命じる。こうして呼ばれたのは、あのブスカペだった。最初はおっかなびっくりだったブスカペだったが、そのうち本来のカメラ好きの血が騒いでリトル・ゼたちにカメラを向け始めるブスカペ。こうして彼らをフィルムに収めたブスカペは、こっそり現像してもらうように新聞社の写真部に持ち込んだ。

 ところがこの写真が、新聞社の女編集員の目にとまったから世の中分からない。普通のカメラマンでは絶対に撮れないスクープ写真は、ブスカペの知らない間に新聞の一面を飾ることとなった。だが、ブスカペはこれに慌てた。バレたら自分は命がない。必死に女編集員に直訴した甲斐あってか、ブスカペは新聞社のカメラ要員として雇ってもらうことになり、とりあえず「神の街」には夜帰れないことから、女編集員の家に泊めてもらうことになった。これが予想外にも童貞喪失にまでつながったのだから、人間どこでどうなるか分からない。ついでに言えば、リトル・ゼも怒るどころか、自分が新聞の一面を飾ってご満悦だったのだから、世の中不思議なものだと言えよう。

 その一方で入院中のマネもセヌーラ一派に奪還され、戦いの準備は着々と出来上がっていった。

 

 かき集めた悪ガキの兵隊たちに大盤振る舞い…と、ニワトリをつぶして料理するリトル・ゼ。だが、その中の一羽がたまりかねたようにその場を逃げ出した。

 「追いかけろ!」

 たちまちその場にいたリトル・ゼたちや悪ガキどもが、必死に逃げ出すニワトリを追いかける。こいつらが目抜き通りに出てきた時…。

 たまたまブスカペがダチとしゃべりながら通りかかって、ニワトリを追いかけるリトル・ゼたちと鉢合わせした。

 「そのニワトリを捕まえろ!」

 慌ててブスカペはニワトリを捕まえようと、目抜き通りのど真ん中に仁王立ちするが…。

 何とブスカペの背後では、パトカーが停車して警官たちが銃を構えだしたではないか。それを見つけてリトル・ゼたちの一団も一斉に銃を構え出す。 絶体絶命!

 

 もはや進むも退くも出来ない有様のブスカペ。果たして彼の運命は…?

 

否定も肯定もされない「神の街」の世界

 これって昨年の東京国際映画祭に出品され、ちょっとした反響を呼んだ映画だったんだね。メキシコの「アモーレス・ペロス」に次いで今度はブラジルからのお目見え。何十年にも渡る貧民街でのストリート・ギャングの抗争を描いた映画…そういう話と聞いていたので、正直言って僕はあんまり食指が動かなかった。悲惨で暴力的な話なんだろうな…としか思えなかったんでね。

 それがいよいよ限定的とは言え公開にこぎ着けると、やはり評判がなかなかいい。僕も重い腰をようやく上げるになった次第だ。

 で、この映画、実際のところどうだったのか?

 何十年にも渡る貧民街でのストリート・ギャングの抗争を描いた映画…という点では、まったく間違いない。この映画の物語はまさにそういうお話だ。悲惨で暴力的な話というのも間違いない。だが、今言ったような要素から想像すると、その印象はだいぶ違ってくると言わざるを得ない。

 まずこの映画、出てくるのは貧民街で、主要登場人物たちは貧しいストリート・ギャングで、不運にみまわれる者、悪の道に転落するもの、殺される者…まぁ、およそ不幸のオンパレードと言っていい要素が満ち満ちている。にも関わらず、映画は暗くジメついたムードに落ち込んではいかない。まるでサンバのリズムで踊っているかのように、あくまで明るく陽性なまま暴力がブチまけられる。かと言って暴力や犯罪が肯定されたり賞賛されたりする訳でもない。ただ、あくまでリオ郊外のこの貧民街の白昼ってこうだ…とでも言わんばかりに、僕らの前に無造作に投げ出されるのだ。

 そこにサンバやサルサやソウルや…といったノリのいい音楽が溢れんばかりに盛り込まれ、カメラもアクティブに手持ちで動いたりスタイリッシュに移動したりスタイルがめまぐるしく変わる。おまけにあまりに小気味良く刻まれた編集が全編に施されているため、見ている側は悲惨で不快極まりない現実が描かれているにも関わらず、映画の熱気に乗せられ一種の痛快さや陶酔を感じてしまう。しかし、あくまで今時ハヤリのオシャレな映像って訳じゃないんだ。そこはそれ、さまざまなエピソードが意識的にゴツゴツとしたタッチで放り出される。これっていうのは、あくまで南米って土地柄のせいだからかねぇ。

 この映画は、いわゆる「悪を成した者は必ず罰せられる」「善人の行いは必ず報われる」という旧来のドラマトゥルギーから解放されていることはもちろん、それをあえて逆転させて「悪が栄える」「善は空しい」…と描けば真実だとする発想からも、あっけらかんと自由になっている。何もかも肯定も否定もしない。

 ではリアリティ追求の映画なのかと言えば、これも違う。リアル感を増すために素人俳優を大量に起用し、セリフなどで即興を重んじてはいるが、いわゆる「まんま撮りっぱなし」映画でもない。しかも、そもそも構成が実に巧みなんだね。冒頭の時点からいきなり十数年溯って年代記がスタートするあたりの鮮やかさ。確かにこりゃスゴイと思ったけれど、それではどこがいいのか?…と問われると、これは何とも語りにくい作品なんだよね。

 見る側はノリとパワーで一気に乗せられてしまうんだけど、この映画決してそれだけではない。実はかなり緻密に精密につくられたドラマでもあるのだ。何しろ長期に渡るお話で、登場する主要人物も数多い。そこで彼ら一人一人を混乱せずにキチンとさばいている手つきが見事なのだ。そしてこれだけ人物が錯綜するのに、その一人ひとりがちゃんと活かされている。しかも、こっちの人物が行ったある行動が、いつの間にかとんでもない人物の運命に作用するといったように、運命の連鎖というか玉突き状態を無数に張り巡らせた伏線で見せていく。この脚本と演出は並大抵のものじゃないよ。監督のフェルナンド・メイレレスって人、この作品で初めて知ったけど、この変幻自在のスタイルとノリの良さと緻密さには驚かされた。こういう映画も珍しいんじゃないだろうか?

 だから見終わった後に残る感興ってのは、決して見知らぬスラム街を見つめた物珍しさってもんじゃない。悲惨さを告発する訳でもない。実は、自分たちの生きている世界そのものを見た感じがするんだよね。

 もちろん僕らが暮らしている社会は、この貧民街ほど過酷な訳じゃない。僕らは一触即発の場所に暮らしているわけではないし、犯罪に手を染めなきゃならない訳でもない。銃弾が四方八方から飛び交う訳でもない。言ってしまえば、この映画の世界よりはずっと平穏無事な世界で生きているんだね。

 だけど、この映画の描く世界やらそこに生きる人間たちの人生のままならなさって、僕らとどこが違うだろう?

 どんな酷い状況でも平穏な場所でも、人間が生きるという点では基本的に起きることは変わらない。うまくいく奴ついてない奴がいるし、ゴキゲンな時ドツボな時があるし…幸運悪運良運不運、それらはみな等しくやって来るんだね。そして極めて理不尽で不条理だ。全然関係ないと思っていた奴の起こした事、全く関わりのないところで起きた事が、予想もしない形で我が身に降りかかってくる事があるのも同じ。どんな平穏な場所でも納得できない事や不幸は降りかかってくるし、それでも世の中何も変わらずに進んでいく…という点では、両者の間に大した違いはないんだよね。酷い目にあった当人だけはまるでこの世の終わりのごとく思うか、そこまでいかずとも重大な事が起こったように感じるだろうが、実は世の中何も変わっちゃいないし誰も気になど留めてないのだ

 そんな時、人は苦しみや痛みを感じはするだろう。自分の身を嘆き悲しみもするだろう。だけど結局は、みんなと一緒に歩き出さない訳にはいかない。いつまでもずっとうずくまっている訳にはいかない。だって世の中はそんな自分をよそに動いているんだからね。酷い事になろうとツラい事が起きようと、誰かを傷つけようと自分が傷つけられようと、誰も助けてくれないしビックリする幸運は降りかかっては来ない。むしろ弱みを見せていればいるほど、もっと災いが襲いかかってくるかもしれない。だから僕らは、いつまでも立ち止まってはいられない

 この映画では悲惨な状況や圧倒的暴力、憎しみや裏切りや悪意が呆れかえるほど画面にブチまけられる。だが、映画はそれにいちいち憤りを感じたり嘆き悲しんだりはしない。それはそれとして受け止めながら、小気味良いほどのテンポで先に進んでいく。それって言うのは、映画としてそんな状況をあるがままリアルにとらえるって事もあるんだろうが、おそらくは人間の世界ってのがそもそもそういうものじゃないかと言っているからなんじゃないか? 確かにここで描かれているのは極端な例だ。だけどそれって程度の差こそあれ、少なからず僕らの世界にあることじゃないかと思う。そこらへんが、この映画の実に秀逸なところじゃないかと思えるんだね。

 だから、こんな悲惨で残虐な状態が描かれているのに、見た後の気持ちは決して暗く落ち込まない。あるいは悲惨な状況を冷静に観察するような、人ごと気分にもさせてはくれない。かと言って、ギャングたちを甘やかして溢れる暴力や非道を肯定するわけでもない。極端な話を言えば、見た後でなぜか活力が湧いてくる気さえするんだよ。まぁ、これはこの映画の見方としては「邪道」の部類なんだろうけどね。でも、僕は本気でそう思った。うまく言えないんだけど、それって一言で言うなら「清濁併せ呑む」みたいな事なんじゃないかね。

 生きている以上、ひどい状況を避けて通るわけにはいかない。それを甘んじて受けねばならぬ時もある。手を汚しちゃう事だってある。だけどそこで打ちのめされ、いつまでも立ち止まってる場合じゃないだろう。ゲームは明日も続くのだ。

 僕らだって、映画に出てくるギャングたち貧しい者たちと大差はない。そして神様だって、一人ひとりの面倒までは見てられないだろう。だから僕らは、ただ打ちひしがれて「負け犬」になってはいられないのだ。

 なぜなら、僕らはみな等しく「神の街」の住人なのだから。

 

 

 

 

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