「トーク・トゥ・ハー」

  Hable con ella (Talk to Her)

 (2003/07/21)


  

君はバーチャル・アイドルでヌケるか?

 以前、とある本屋に行った時、妙なものを見つけちゃったんだよね。それはバーチャル・アイドルの写真集とかってシロモノだ。

 CGのポリゴンで出来たアイドルが、際どい水着か何か着てポーズをとってる「写真」が満載。水着ばかりでなくて浴衣だとかいろいろコスプレもしてるけど、やっぱり主力は結構大胆な水着姿。こんなもん誰が買うのかと思っちゃうんだが、これが結構買うヤツいるらしい。いや、買うな…とは言わない。買うのは自由だからね。誰に迷惑がかかる訳じゃない。でも、どう考えても「作りモノ」然としたこれらの「写真」見て、一体全体楽しいもんなんだろうか? ズバリ言ってヌケるのか? 男ってヌク目的以外に水着写真集なんか買うヤツいないからね(笑)。まぁそこはそれ、いろんな趣味の人もいるって事なんだろうけどね。

 あとは架空のキャラとデートやらセックスを楽しむゲームとやら。実は、僕は仕事でいろんな商売の人と会ったりするのだが、こういう類のゲームっていっぱいあるんだよねぇ。それがまた確実に売れている。何だか口説き文句やいろいろ選択肢を選んだりすると、画面上の女の子が喜んだりこっちになびいたりする。デートに付き合ってくれたりする。中には服をスイスイスラスラ脱いでくれたり、あんな事もこんな事もしてくれる。そして余計な聞きたくない言葉も言わずに、男心をくすぐるセリフの一つも言ってくれるかも…。いやぁ、確かにこんな女がいたら最高だ(笑)。こう言ったら女性の方々には怒られるが、下卑たお楽しみって点では笑っちゃうところもあって面白いのかもしれない。だけどねぇ…。

 エロ本見たりエロビデオ見たりってお楽しみは分からないでもないよ。というか、実によく分かる。可愛い女の子の裸は僕も見たい。そして出来ればナマで見たい。いや、ホントは触ったりいろいろしたいんだけど(笑)。だけど、この手の完全に「作りモノ」のキャラにそういう気持ちを抱くってのはどういう事なんだろう。気持ち悪い…って言ったら偏見になるかもしれない。だったらこう言おうか。

 一体何故にこういう男たちは「作りモノ」キャラに欲情をおぼえるのか?

 実はどこかで読んだんだけど、彼らに言わせると生身よりむしろ積極的に「作りモノ」を選択しているらしいんだ。決して代用品じゃない。本当の女より「作りモノ」がいい。それって男が弱くなったからとか、いろいろ言われちゃったりするよね。もちろん、それだけじゃそうはならないだろう。その前に「作りモノ」の方がいいって感じる感性っていうか、CGの絵を好んだり見て興奮する嗜好の違いが明らかにあるからね。

 だけど残念ながら、男が弱くなった…という指摘のうちのある程度は、どこか図星の点もあるんじゃないかと思う。

 やっぱり「作りモノ」って文句も言わないし、自分の思うがままだ。生身の女はこうはいかないよ。僕だって、一度でいいからオレを喜ばすことでも言ってくれないか…と相手に言いたくなったこともあるもんね(笑)。とにかく思うようにはならない。言う事は聞かないし何かとうるさい事を言ってくるし、時には本気でムカつくよ(笑)。それもそのはずで、女って男のために生きてる訳ではないからね。だってあなたが男だったとして、あなただって女のために生きやしないだろう? いや、待てよ。一度は女のため…なんて思ってた時もあったかな…(笑)? まぁそれはともかく、そもそも思うようになる方がおかしいんだよ。都合のいい存在であるわけがない。

 だから自分の夢や思いを投影させる対象として、「作りモノ」の女の方がいいって事になるのかもしれない。これまったくの偏見と怒られても仕方ないんだけどね。でも、どこか源流にあるものは共通するような気もする。で、まぁこう言っちゃ何だが、実はその気持ちまったく分からないでもないね。

 実際、生身の女は手強いよ。女と関わるととにかく金なくす…ってことはさておいても(笑)、何かと神経すり減らす。おまけに感覚的な事を別にすればゲームやCGのキャラみたいには可愛くないし、下っ腹出てたりガリガリだったり足太かったり変に筋肉質だったり乳ぺちゃんこだったりデカくても垂れてたりするし。毛深いのは事と場合によっては妙に興奮したりもするけどね(笑)。ともかく男を喜ばす言葉や態度だって、どこ叩いてもからっきし出て来やしない。だけど…それでも「生身の女」とやっていこうとしている男たちは、たぶん相手の内面に何かを感じたいと思っているんだろうね。もちろんその外側にも大いに関心はあるし、何より手で触れるって強みはあるわな(笑)。だけど絶対、その中に詰まってる何かにも触れたいって思ってるはず。

 そう言うと何だか立派な感じがしちゃうね。魂の交歓っちゅうのかなぁ。やっぱり人間はそうやって心で触れ合っていかなくっちゃあ…って、何となく健全な人って感じがしてくる。いわゆる精神的なものを重視してるって言うんですか?

 だけどねぇ、ここで僕はふと思っちゃうんだよね。

 本当に僕らは女の中身…その心に触れようとしているんだろうか?

 実はゲームやCGで男を喜ばす女たちと同じような、テメエ勝手な都合の良さを相手に要求してやしないかね。「作りモノ」を好む連中をとやかく言えるのか? 相手を分かりたいとか言いながらまるっきり目をつぶってやしないか。心の触れ合いとか何とか言っておきながら…。

 

昏睡状態の女を見守る男二人

 有名な舞踊家ピナ・バウシュの舞台を、食い入るような目で見つめる客席の男ハビエル・カラマは、ふと隣に座った男ダリオ・グランディネッティが涙ぐんでいるのに気づく。その感受性の強さに感動したカラマは、この男のことを記憶にとどめた。彼カラマは病院で働く看護士だ。彼の仕事は植物人間として意識を失いベッドに横たわったままの女レオノール・ワトリングの世話をすること。体を拭き、髪を切り、時には生理の始末まで面倒をみるカラマ。その献身的な看護ぶりには、彼と共にワトリングの世話をする女看護士も感心するほどだった。

 さて一方、客席で涙を流していた男グランディネッティはというと、彼は観光ガイド書や新聞に原稿を提供するライターだ。彼はある日、テレビのインタビュー番組で女闘牛士ロサリオ・フローレスを見て強い印象を受ける。彼女はかつてカリスマ闘牛士と深い仲になっていたが、訳あって別れてしまった。そんな彼女をマスコミはゴシップ本位に追い回す。この夜のテレビ番組でもフローレスはインタビューアーにあれこれ根堀り葉堀り探られ、怒ってスタジオから出ていってしまう。そんなフローレスに興味を持ったグランディネッティは、彼女をテーマに記事を書こうと決心した。

 早速とあるホテルのバーにいるフローレスに接近するグランディネッティ。偶然にもそこには彼女の「元恋人」カリスマ闘牛士の姿もあった。それを意識してか、フローレスは「話がしたい」と近づいてきたグランディネッティに、「家まで送って」と頼むのだった。

 その車中でフローレスに、彼女についての記事を書くと告げたグランディネッティ。マスコミ不信に陥っていたフローレスは、突然頑なになって口をつぐむ。「闘牛の事は分からないが、傷ついた女の事なら分かる」と口走ったグランディネッティに、フローレスはまたゴシップ目当ての話かと怒りを露わにしたのだ。車が家の前まで着いて、怒ったまま車を降りたフローレス。グランディネッティがもはやこれまでと思ったその矢先、すぐに家からフローレスが飛び出してくるではないか。何とフローレスは「家に蛇がいる」と言ったまま怯えきって車に閉じこもった。勇敢な闘牛士と怯えきる彼女の姿の落差を微笑ましく思いながら、グランディネッティは彼女を車に待たせて家まで行き、そこにとぐろを巻いていた蛇をバットで殺した。だが、彼女はもう家には帰りたくないと言う。家にはあのカリスマ闘牛士の思い出の品もある。そんな彼女の気持ちは、グランディネッティも痛いほど分かった。彼もかつて長くつきあった恋人との別れで、深い傷を負った過去があるのだ。そんなグランディネッティの言葉に親近感を持ったのか、彼に笑顔を見せるフローレス。二人のつき合いはこうして始まった。

 フローレスの恋人として行動を共にするようになったグランディネッティ。彼はフローレスの理解者として、彼女とは何でも語り合っているつもりでいた。だがある時フローレスは、グランディネッティに折り入って話があると切り出した。今日の闘牛の試合の後で話しましょう。グランディネッティは今だって話をしてるじゃないかと彼女に言ったが、フローレスは一言こう返しただけ。

 「話しているのはあなたよ」

 やがて迎えた闘牛の試合。いつものように華麗な衣装に身を包んだフローレスに緊張がはしる。そして起こってはいけない事が起きた。

 フローレスが突進して来た牛に襲われ、重傷を負ったのだ。

 奇跡的に命はとりとめたものの、いつまで経っても意識を戻さないフローレス。そんな状態に焦りを覚えたグランディネッティは、院長に直談判する。彼女は一体どうなるんですか、いつになったら意識が戻るんですか?

 そんなグランディネッティに、院長の宣告は残酷なものだった。意識はいつ戻るか分からない。半年先か一年先か十年先か、事によっては戻らないかも。脳が激しい損傷を受けて、意識が戻るとしたら奇跡に等しい

 そんな医師の見立てに、ショックを隠せないグランディネッティ。

 そんなある日、病院の廊下を歩いているグランディネッティは、ある病室のドアが開いているのに気づく。そこには寝たきりの女と彼女を甲斐甲斐しく面倒見る看護士の姿があった。何と偶然にも、ここはあの看護士カラマが勤める病院だった。彼が面倒を見ているのは、当然あの植物人間の女ワトリングだ。カラマはドアの隙間から覗くグランディネッティに気づくと、意外な事に彼を病室に招いた。

 こうして二人の男の、奇妙なつき合いが始まった

 カラマのワトリングへの世話ぶりは、少々常軌を逸しているように見える点があった。まったく意識のない彼女に、カラマは普通の女に接するように何だかんだと話しかけているのだ。そんな事をしたって聞いている訳がないと告げるグランディネッティだが、カラマの態度は平然としたものだ。

 「どうして聞いてないと分かるんだい?」

 カラマには信念があった。こうして心を込めて世話をし、親密に接して言葉をかけてやれば、気持ちはおのずから通い合うはず。そんな彼の説得力ある態度に、グランディネッティも何も文句が付けられない。一方、グランディネッティの方はと言えば、フローレスが意識を失って以来、彼女に触れることさえ出来なくなっていた。そんなグランディネッティに、カラマは熱っぽく語る。

 「話しかけるんだ、女の脳は不思議なものだから」

 こうして植物人間化した女を抱える二人の男は、不思議な親交を深めていく。つき合いが深まるにつれて、カラマは自分とワトリングのそもそもの馴れ初めを語り始めた。

 病んで寝たきりの母親の世話をする。それがかつてのカラマの人生だった。そのために看護の資格まで取ったカラマ。当然の事ながら、彼には友人もなければ恋人などいる訳もない。ただ、彼の心を捕らえた一人の女性はいた。

 カラマの家の窓から見える、隣のビルのバレエ教室。そこで多くの生徒と共にバレエ教師ジャラルディン・チャップリンの指導を受けていたのが、あのレオノール・ワトリングだった。家の窓から彼女を見つめるだけだったカラマ。だが、ある時バレエ学校の帰り道に彼女が財布を落とすのを目撃したカラマは、猛然とダッシュして彼女に追いつき、財布を渡すことに成功する。それをきっかけに彼女の帰り道の間、ずっと話をすることが出来たカラマ。ワトリングの家の場所と、彼女の父親が精神科医であることまで突き止め、すっかり有頂天になる。

 しばらくしてワトリングがバレエ教室に来なくなると、いても立ってもいられないカラマは行動に出た。患者として彼女の父親の診察を受けることにしたのだ。こうして彼女の世界に近づく事が出来たカラマは、診察の後で、ワトリングの部屋に忍び込んだりして秘かな幸福を覚える。

 だが運命の日はやって来た

 雨の日。ワトリングは今日もバレエ教室に来ない。そのうち何かの連絡が入って、バレエ教師チャップリンは慌てて外に出掛けていく。一体何が起きたのか?

 何とワトリングは交通事故に遭い、そのまま意識不明に陥ってしまった。その事実を知ったカラマは躊躇わなかった。すでに世話を看ていた母親は世を去っていた。彼はワトリングが収容された病院に行き、その看護士としての優秀な腕をアピール。娘の完全看護を希望していたワトリングの父親に、彼女専属の看護士として雇われたのだ。こうして、カラマのワトリングとの幸福な日々が始まった。昼夜を問わず彼女の面倒を看る。休みの日には彼女が好きだった舞踊を見たり、サイレント映画を見たりの生活。365日、24時間彼女がすべての生活。「この4年間は充実していたよ」

 だから意識を失った恋人フローレスに触れることさえ躊躇うグランディネッティの態度が、カラマには理解出来ない。女にはこうして心を込めて接するんだ…と、グランディネッティに力説して憚らない。だが、そんな彼の態度もまたグランディネッティには理解不能だった。君に女の何が分かると言うんだ? 君の女性経験ってどの程度のものなんだい?

 「僕はずっと母の面倒を看て、この4年間は彼女の面倒を看てきたんだよ」

 あまりの濃密な看護ぶりに不審を抱き始めたワトリングの父親は、かつて彼を診察した時のことを思い出した。ずっと母親の看護に追われて恋人もいない、しかもいまだ童貞。だがカラマは自分がゲイだと偽り、何とか父親の疑いをそらした。実はカラマと共にワトリングの世話を看る看護婦は、ひそかに彼に思いを寄せていた。だがそんな彼女の気持ちもカラマは気づかない。カラマの心はすべてワトリングに向いていた。

 そんなカラマはある日自分が見てきたサイレント映画の話をワトリングにしながら、自分の中の欲望がうごめいているのに気づいて困惑した。

 そんなある日、二人の男の日常が一変するような出来事が起きた。グランディネッティがフローレスの病室にやって来ると、あの彼女の元恋人のカリスマ闘牛士が訪れていた。彼がグランディネッティに明かした話は、受け入れがたい事実。何とフローレスが事故の直前に、このカリスマ闘牛士とヨリを戻していたというのだ。

 あの日、彼女が「話したい事がある」と言っていたのは、この事だったのか。

 心の支えを失って、茫然自失のグランディネッティ。もはや彼がここにいてフローレスの世話を看るのは無意味だ。彼はこの病室を去り、再び観光ガイド本のライターの仕事に戻ることにした。

 別れを告げるためにカラマに会ったグランディネッティ。だがカラマは、そんなグランディネッティにとんでもない事を言い出す。「僕は彼女と結婚するよ」

 いくら何でも無茶な話に、さすがに厳しく言って聞かせようとするグランディネッティ。だがカラマは自らの妄想の虜になったか、「僕らの心は通い合っている」と言い張ってきかない。そんなカラマの事が気がかりながら、グランディネッティは仕事のため旅立って行った…。

 その後、グランディネッティの心配は現実のものとなった。

 何とワトリングが昏睡状態のまま、妊娠したことが発覚したのだ。それがカラマの仕業だということが明らかになるまで、長く時間がかからなかったのは言うまでもない。

 遠い外国で取材活動を続けていたグランディネッティ。そんな彼が新聞でフローレスの死を知ったのは、それからだいぶ経ってからの事だった。やはり彼女は意識を取り戻すことなく世を去ったのか。グランディネッティが病院に電話を入れると、さらに驚くべきニュースが彼を待っていた。カラマがワトリング強姦の罪で投獄されたと言うのだ。

 慌てて帰国したグランディネッティは、獄中のカラマを訪ねる。彼はいまだにワトリングの事を気遣っていた。「彼女がいない人生は耐えられない。このままでは本当に気が狂ってしまう!」

 彼女も赤ん坊もその後の消息は不明だ。グランディネッティはカラマに頼まれ、彼女の行方を調べることにする。その間、グランディネッティは元のカラマの家に住み込むことになった。

 ある日、窓から例のバレエ教室を見たグランディネッティは、思わず我が目を疑った。そこにはバレエ教師チャップリンを訪ねてきた、あのワトリングがいるではないか!

 彼女はあの後、奇跡的に回復していたのだ。

 だが弁護士はこの事実をカラマに伝えるのを止めた。今の彼は精神的に不安定な状態にある。赤ん坊は死産で、彼女もいまだ昏睡状態と伝えよう…。

 そんな知らせを受けたカラマは、さすがにショックを受けたようだった。面会に訪れたグランディネッティも、彼に返す言葉がない。

 複雑な気持ちのまま帰宅したグランディネッティ。だが彼が眠っている間に、携帯電話にはカラマからの一通のメールが届いていた…。

 

男が女を愛する時、陥りやすい二つのパターン

 スペインのペドロ・アルモドバルと言えば、ハリウッドでもその名を知られる「巨匠」としての地位を確立している。この「トーク・トゥ・ハー」も、英語映画でもないのにオスカーの脚本賞を獲得するほど。そして毎回、ちょっとキワドイ題材を手がけることでも知られているね。ただし、僕は彼の作品って初期は見ていない。大概のみなさんと同じく「神経衰弱ぎりぎりの女たち」で初めて見て、しかも「キカ」「私の秘密の花」「ライブ・フレッシュ」は見ずに終わってしまった。前作「オール・アバウト・マイ・マザー」(それにしても、どうしてこの監督の作品の題名を英語で表記するのかね?)は見るには見たが、どうも僕にはピンと来ない作品だった。だからこのサイトを見ている方ならお分かりのように、ここには感想文もアップしていない。

 というわけで、残念ながら僕はこの監督の熱心な理解者というわけではない。しかも今回の作品に重要な扱いで登場する、ピナ・バウシュとかカエターノ・ヴェローゾといったアーティストにも明るいと言えない。というわけで、僕はこの作品を語るにふさわしい人物とは言い難い。だから、あくまでこの文章はこの映画を見た僕が、勝手に思ったことを並べたてた無責任な雑文だと言うことをおことわりしておく。まぁ、今までだって大して自信がある訳じゃないんだけどね、それにしたって何もかも知らな過ぎる。

 さて、今回のこの映画だけど、アルモドバルの作品系譜を語るにはあまりに見ていない僕だが、それでも女サイドからモノを見ていこうとする「ハイヒール」「オール・アバウト・マイ・マザー」などの作品よりも、男の一方的愛情の暴走とも言える「アタメ」に一脈通じる感じがすることぐらいは言えるだろうね。これにしたってかなり乱暴な分け方だけど、少なからずそういう面はあると思う。

 アルモドバル作品と言えば上にも述べたように少なからず物議を醸す点があるけど、「アタメ」と今回の作品は特にそうだよね。言ってしまえば、男からの女への一方的な愛情とも受け取られかねない、と言うか、まったくそうとしか言えない物語。しかも僕は男。この手のアルモドバル作品を語るには難しい面が多々ある。まぁ、ここは何とか誤解を招かないように気をつけつつ語っていこうとは思うよ。

 ズバリと言うと、僕はやっぱりこの映画、男と女の間のコミュニケーション、それも愛情に関するやりとりの難しさを描いていると思うよ。当たり前だって? いやいや、まずそこから話を始めないと先に進めないからね。人間同士のコミュニケーションの難しさ、それも男女間のとなると、人間永遠のテーマだよね。もちろん僕にしたって長年それには悩まされ続けている。

 ここでは二組の「カップル」がいて、どちらも現在進行形では女が植物人間というコミュニケーションをとれない状態にいる。ただしその両「カップル」の置かれた状況は天と地ほども異なるのは映画をご覧になったみなさんがご承知の通りだ。わざわざ上記で「カップル」とカッコ付きにしたのもそれが理由だ。

 この映画でやはり目立ってしまうのは、昏睡状態の女に献身的に愛情を捧げる看護士の方だろうね。この映画のかなり重要な位置を占めているし、最終的には彼女を“犯して”妊娠させてしまう。物議を醸すのもこのあたりだ。女性観客の方にはここで生理的不快感を感じてしまう人もいるんじゃないか。それをあながち勘違いだとは僕は思わない。まして、仮に“それこそ真実の愛情”などとうたい上げられては、ついて行けない人も出てくるのが道理だ。

 これだけだと、やっぱり見ようによっては女にとってハタ迷惑なストーカー男の出てくる「アタメ」と同テーマの作品と言えるが、それと大きく違うのはここにもう一人の重要人物、植物人間化した闘牛士の恋人を持つライターの男が登場しているからだ。彼は言わば「普通人」のポジションを与えられていて、彼の身になって物語全体を俯瞰することが可能だ。この存在があるだけで、「アタメ」とこの作品とでは様相がまるで一変している。

 そして、彼は女とのコミュニケーションをうまく出来ない男だ。

 前の恋人ともいろいろあって関係が暗礁に乗り上げたらしい。素晴らしい舞踊や歌に接すれば思わず涙するような感受性豊かな男なのに、デリカシー・ゼロのマッチョ・マンでもないのに女とうまくやっていけない。あるいはそれだから彼は心に傷を持ち、どんなものにも過敏に反応するのだろうか。まぁデリケートな男だろうとマッチョ・マンだろうと、男が女と分かり合うのはかくも難しいという意味なんだろうね。

 そんな彼は、だからカリスマ闘牛士との愛に傷ついた女闘牛士に関心を抱く。彼女に最初に会った時、こんなデリケートな男にして「傷ついた女の事はよく分かる」などと言わしめたのは、そんな思いゆえなんだろう。だがどんなデリケートな男でも、こんな言葉を吐いてしまうあたりが男の傲慢さだ。そこには「こんな心に傷を持つ女なら、俺のことを分かってくれるはず」との期待もあったはずだ。これも一種の傲慢だろう。

 かく言う僕も、かつてこのライターと同じ事を考えた。傷ついた女を前にして、俺ならばこの女の気持ちが分かるし、彼女も俺の気持ちが分かってくれると思っていた。それが傲慢で誤りだったという事は、今だったら分かる。

 そんなライター男は女闘牛士が昏睡状態になるや、コミュニケーションのよすがを失って狼狽えてしまう。そりゃそうだ、自分が分かる、自分のことを分かってくれる、お互い分かり合える…と初めて思った相手。そこに惹かれて愛し合ったはずの女が、もはや意志の疎通が不可能な存在になってしまった。するとお互いの依って立っていた地盤がなくなってしまうのだ。自分の相手への感情まで頼りないものになってしまうのも無理はない。コミュニケーションは大事だが、それを必要以上に重用視し、それだけに基盤を持つ関係ってモロいもんじゃないか。愛し合う男女にはそれだけじゃない、理屈じゃ分からぬ部分があるはずだろう。理詰めで分かるもんじゃないんだね。ここらあたりのアルモドバルの言い分は、正直言って僕には耳が痛かったよ。

 しかもこの二人の関係は、コミュニケーションが成立していたはずの時点で実はすでにうまくいっていなかった。男の方がそれに気づいていなかっただけ…という事自体、コミュニケーションがうまくとれていなかった何よりの証だろう。後にカリスマ闘牛士に彼女とヨリを戻していた事を告げられて、ライター男はイヤというほどそれを思い知る。女闘牛士がライター男に「話をしているのはあなたよ」と告げるくだりは、それを象徴的に伝えているんだね。

 実際のところ、僕の個人的な話も似たような展開になった。相手の心の傷が癒された時、僕は用済みになった。それに気づかなかったのは僕の愚かさだ。

 でも考えてみれば、傷ついた女なら自分が理解できるし、相手もこちらを理解してくれるだろう…なんて、ずいぶんテメエ勝手な都合のいい考え方だとは言えまいか。最初からそれをアテにして、それを頼って築く関係なんて、本来の男女関係とは別のものなのかもしれない。そういう意味で僕もこのライター男も、どこかズルかったのだ。相手の理解だ何だってのは聞こえがいいが、それってつけ込む隙があると言っているのと五十歩百歩ではないか。ある種の打算と言ってもいい。相手が受け入れてくれるはず…なんて目算で女に接するのは、どこか本当の自分のやむにやまれぬ思いをぶつけるのとは違うものがある気がするね。

 では…ということで登場するのがもう一方の看護士だ。

 彼はバレリーナの彼女に熱い思いを抱く。相手がどう思うかなんてお構いなし、とまでは言わないまでも、まず彼には自分がどう思っているかが重要だ。そこには先のライター男や僕が持っていたような打算はない。一途な愛情だけの一本勝負だ。それは彼女が昏睡状態になって、さらに純度100パーセントになっていく。相手の見返りを期待しない献身的な愛情。なるほど、それは確かに純粋ではあろう。あたかもこの映画では、それが肯定的に描かれているようにも見える。

 だが、実はそうじゃないと僕には思えるんだよね。

 確かに彼の気持ちにウソはない。だが、それは決して相手との感情の通い合いを求めないものだ。というより、それをハナっから必要としていない。もし相手との感情のやりとりになったら、そこには自分の思わしくない事も生じるかもしれない。だが、彼女が何も言わず何も感じないなら、そんな自分の都合の悪いことも起きない。彼女が昏睡状態なのは彼にとってもっけの幸いだ。それが証拠に、この看護士はドサクサに紛れて彼女との情交にまで及んでしまう。だが、そこまでいくとこれは論外だ。確かに彼の「愛」が本物なのは間違いない。だが、それは決して「恋愛」ではない。彼にはそれが分からない。ここで看護士の「愛」を情交にまでエスカレートさせてあるのは、たぶんそんな一途さを単に美化して描きたくなかったからじゃないか。それって一見美しく見えるけれど、よく考えればどこか違うよな…って言ってるように思えるんだね。

 男が女を愛するって言っても、大概はこの二つのどっちかに当てはまりがち…この映画は、そんな事を言おうとしているように思える。そして、そのどちらもがどこか本当じゃない。

 では、一体何が本物なのか?

 

黒澤「天国と地獄」と、ラストにのぞく希望

 ここからがこの映画のキモで、かつ難しい点だと思うんだけど、この映画は結論を何も提示していないんだよね。それでもそこから汲み取れるものはある。

 一方的で無理があった愛の報いであるかのように、看護士は命を絶ってしまう。だから、やっぱりそれは全面肯定はされてない。だが彼が愛情込めたバレリーナは、なぜか奇跡的に意識を取り戻す。あたかも彼の「愛」そのものは本物であった…“その事だけ”は証明されたかのように…。バレリーナのように絶え間なく愛を注がれなかった女闘牛士は、結局意識を取り戻すことなく死んでしまったではないか。だから看護士の行為は決して肯定されるべきではないが、その愛が決して無意味なもの…偽物でなかったことだけは示される。ただ、その方向と手段は思いっきり誤っていたけどね。

 そして看護士のようには自分の女を愛せなかったライター男は、やはり結局はその女と真に愛し合える仲までは至れなかったのだろう。それはそれだけの愛し方でしかないし、元々がそれだけの縁でしかなかったのだ。看護士と自らを比して見た時、改めてライター男にはそれが分かったはずだ。

 そんな諸々の経験を通過したライター男は、偶然劇場で意識を取り戻したバレリーナと再会する。映画は、このライター男とバレリーナの間に何らかの新たな関係が生まれようとする予感を匂わせて幕となる…。

 男と女が愛情を築いていくのは難しい。相手に分かりやすさを求めること、自分を分かってもらうこと、お互い分かり合えること…を生やさしく期待した関係は、どこかご都合主義なシロモノだろう。あるいはテメエが傷つくことをどこかで避けた、脆弱なものだとも言える。話せば分かる文化人…恋愛なんてそんな理が勝ちすぎたもんじゃないだろう。そもそも最初からそんな何かの結果を期待する気持ちは、純粋な愛情なんて言えないんじゃないか。

 だけど他方で一途な愛情をぶつけさえすればいいのかと言えば、それとても無理がある。とても相手と築いていく関係とは言えないし、例え献身的であったとしても自分の気持ちだけでは続かない。上に述べた関係がご都合主義なら、こちらは単なる自己満足でしかない

 かくも男と女の仲は難しい。しかも男の側から女との接点を見つけようとすればなおさらだ。主人公二人の相手の女が両方とも昏睡状態なのは、その例えとしての設定なのだろう。仮に意識がハッキリしてようと、男にとって女を分かる事、女に分かってもらう事は尋常ではない難しさだ。その伝わりにくさ分かり合いにくさたるや、昏睡状態の人間を相手にしているのと何ら変わりはしない。そんな相手を前にした時、男は一体どう接しなくてはならないのか…。

 やっぱり楽チンに男女の関係を築こうなんて、そんな甘っちょろい事は許されはしない。ひたすら自分に都合のいい相手なんて、どこを探したっている訳がない。では、本当の意味で女を愛せる男に、果たして自分はなれるのだろうか? さらにはそんな関係を築けるような相手に、どこでどうやったら出会えるのだろうか?

 それは分からない。無理な話かもしれない。でも、なれるかもしれない。会えるかもしれない

 そんな事を示唆する場面が、実はこの映画の終盤近くに登場する。ライター男が看護士を刑務所で面会する場面。その最後のものに、おそらくはアルモドバルの意図が反映されている。そこではガラスごしにライター男と看護士が面会する設定なのだが、最後の面会シーンでは画面上でこの両者の顔がピッタリ重なるのだ。いや、実際にはライター男の顔と、ガラスに映った看護士の顔が重なっているのだが…。ともかく明らかにこのショットでは、両者が重なるアングルをわざわざ見つけ出して、このような絵を撮影していることは間違いない。

 実はこの場面を見て、僕は即座にある全く別の映画を思い出したんだね。それは黒澤明監督の「天国と地獄」、その最終場面だ。

 誘拐事件に巻き込まれて全財産を失いながらもあくまで前向きに生きようとする三船敏郎扮する元・会社役員と、彼を逆恨みして陥れようとした誘拐犯人・山崎努。この両者が、山崎の逮捕後に刑務所で面会するのが、「天国と地獄」のラストシークエンスだ。いまだ逆恨みの気持ちを捨てきれず、あるいはヤケクソの虚勢と突っ張りで三船に対面する山崎。だが三船は静かに山崎を諭すように告げるのだ。「君はなぜ、自分と私とを憎み合う両極端と思うのかね?」…その時、両者の顔は、面会室のガラス面でピッタリ重なり合っている

 この映画では他の黒澤作品と同様に、悪と善とが非常に似通ったものとして扱われている。そして三船の最後のセリフの時には、ガラス面で二人の顔は重なり合っている。それは三船のセリフにもあったように、明らかに両者の「同一性」を表しているのだ。

 「天国と地獄」が発していたメッセージとは異なるだろうが、ペドロ・アルモドバルは明らかにこの黒澤作品から何らかのヒントを得たに違いない。場面そのものも、両者は非常に酷似している。ただし、ガラスの面で重なり合う顔…というビジュアル表現は、ここでは二人の男の「同一性」を表しているわけではない。おそらくは二人の男の「同一化」を表現しているはずだ。

 その「同一化」とは何か?

 つまりは、それまでのライター男の愛と看護士の愛…その両者のデリカシーと一途さを兼ね備えながら、それぞれの持つ矛盾を補えるような男になるということじゃないか?

 偶然に再会を果たしたライター男とバレリーナの間に示唆されるものは、おそらくそんな事なんじゃないかと思う。そこに至るにはあの看護士の一途な愛も無意味ではなかったし、ライター男の紆余曲折も無駄なことじゃなかった。自らを振り返りつつ、あの看護士の愛の良いところも悪いところも見続けてきた彼なら、そのあたりを分かる事が出来るのかもしれない。

 だから今こそ彼には、もう一度やり直してみるチャンスが与えられたんじゃないか。これがダメなら、また次があるじゃないか。そんな“異なもの味なもの”な縁ってやつが、きっとどこかにあるはずだ。その時には自分も、ひょっとしたら“分かっている男”ってやつになっているのかもしれない。

 難しい、でも不可能じゃない

 人生はうまくいかないのと同じくらい、ダメな事ばかりじゃないはずだからね。

 

 

 

 

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