「ブロンドと柩の謎」

  The Cat's Meou

 (2003/07/07)


  

船上のセレブたちの入り乱れる思惑

 1924年11月、ロサンゼルス。今まさに一人の男の葬儀が行われようとしていた。この男、かの新聞王ハーストのクルーザー・パーティーで命を落としたのだが、実はその真相は包み隠されナゾのまま。ロクな検死も尋問も行われずに、今日の葬儀を迎えるに至った。葬儀に参列した当時のセレブたちの顔ぶれに沿道の大衆は大騒ぎだったが、参列した客たちの顔色はすぐれない。その参列者の一人、女流作家のエリノア・グリン=ジョアンナ・ラムレーはこの船旅を回想し始める。

 旅の出発の日、船着き場に早く着きすぎたエリノア=ラムレーは、しばらく車の中に潜んでいた。ハリウッドの有名人たちの喧噪にドップリ浸かった彼女でも、時にはそんなアレコレにウンザリする時がある。彼女は招待客たちが到着するまで、しばらくジッとしていたかった。

 まず、やって来たのは映画プロデューサーのトーマス・インス=ケアリー・エルウェス。彼は愛人の女優マガレット・リビングストン=クラウディア・ハリソンと相談役の弁護士を連れてきていた。実はインス=エルウェスは最近映画稼業が思わしくない。そこで今回のホストの新聞王ハーストの助力をぜひとも仰ぎたいと思っていたのだ。そんな焦り狂うインス=エルウェスに、少々心配げなマーガレット=ハリソン。

 だがそんな一部始終を、ハースト=エドエワード・ハーマンは隠れ部屋で盗み聞いていた。権力者はいつでも心配性なものだ。だが、ハースト=ハーマンの心配は目下のところそんなところにはなかった。彼の今の最大の心配は、彼の年若い愛人マリオン・デイビス=キルスティン・ダンストのことだった。

 そんな彼女は今回の船旅のホステス役としてハシャいでいたが、心配事がただ一つ。彼女は無名の踊り子だったところをハースト=ハーマンに見初められ、いまや彼の妻公認の愛人。ハースト=ハーマンはデイビス=ダンスト可愛さに映画会社までつくり、彼女主演の映画を連発していた。だが、そんなデイビス=ダンストは、今喜劇王チャールズ・チャップリン=エディ・イザードに激しく言い寄られ、大いに困っていた。

 いや、困っていたと言うのは適切ではない。まだ若い彼女は父親のようなハースト=ハーマンの庇護の下、大いに恩恵を被ってはいた。彼に恩義を感じ愛してもいたが、魅力的なチャップリン=イザードの求愛に心揺れ動いてもいたのだ。そんな自分が怖いから、そっとして欲しいデイビス=ダンスト。彼女はハースト=ハーマンの後ろ盾なしには何も出来ない自分を分かってもいた。

 だが、そんな彼女をチャップリン=イザードが放っておくはずがない。この船旅でもアレコレ彼女に付きまとい、出来れば彼女の心を決定的にモノにしようと目論んでもいた。そして、デイビス=ダンストもそんなチャップリン=イザードを憎からず思っていたのだ。

 だが、チャップリン=イザードには彼なりの悩みもあった。彼が主演せず監督だけした野心作「巴里の女性」は大コケ。制作中の「黄金狂時代」は制作費が莫大にかさんでいた。しかも相手役の女優に手をつけ妊娠もさせてしまった。女優と言ってもまだ年端もいかない少女だ。チャップリン=イザードまたしても悪い癖が出たと言われても仕方がない。

 招待客にはゴシップ・コラムニストのルエラ・パーソンズ=ジェニファー・ティリーもいた。まだまだ無名の彼女は、セレブ満載の船旅に招待されご機嫌。彼女はハースト=ハーマン制作のデイビス=ダンスト主演映画をベタホメしたご褒美か、今回招待されたらしい。何とかセレブにお近づきになって、野心を実らせようと必死。だが、あまりオツムの出来が良くないのかピントはずれなおしゃべりを連発して客に煙たがられていた。

 こうしてゲストたちが集まれば、いつまでも車に引っ込んでいる訳にもいかない。エリノア=ラムレーも重い腰を上げて船上の人となった。

 さて、そんな訳だから船上は華麗な人々が楽しげにくつろぐ光景が展開しながらも、その裏にひとたび回れば各人の思惑がチラチラする。ハースト=ハーマンはデイビス=ダンストに無上の愛を捧げつつも、やけに馴れ馴れしく彼女にベタつくチャップリン=イザードの態度と、そんな彼に親しみを表すデイビス=ダンストに大いに苛立つ。インス=エルウェスはハースト=ハーマンの歓心を買い、何とか自分の映画会社とハースト=ハーマンの映画会社の合併話をまとめたくてウズウズ。しかしハースト=ハーマンに「過去の人」扱いされ、大いに焦り狂う。そんなインス=エルウェスの心ここにあらずの態度に、愛人マーガレット=ハリソンは傷つく…てな具合に、皆心穏やかではない。そんな一同の思いを知ってか知らずか、ホステス役を務めるデイビス=ダンストは大いに盛り上げようとハシャぎにハシャぐ。このパーティーは元々インス=エルウェスの誕生日パーティーなのだ。大いに盛り上げなくては。だがそんな彼女も、何かと合併話を持ちかけようとするインス=エルウェスに用心しろと、ハースト=ハーマンにクギを刺していた。「あの人は信用出来ないわ」

 楽しげなディナー。そこでもチャプリン=イザードとデイビス=ダンストの親しげな様子を見て、内心煮えくり返る思いのハースト=ハーマン。この席上でエリノアが一席ぶったのは、「カリフォルニアには呪いがある」という十八番の話だ。ここでは人間の心が魔物に乗っ取られる。自分が一番偉いと思い込む。あげくの果てにモラルがなくなる…。

 だが、そんな話は知らぬげに一同は楽しげに振る舞う。さぁ、チャールストンだ、踊れ踊れ! やがて遊び疲れた一同は思い思いの部屋で各人楽しみにふける。マリファナ、酒、セックス、悪ふざけ…。

 だが、チャップリン=イザードとの親密さに気づいたエリノア=ラムレーは、デイビス=ダンストに一言苦言を言った。彼はあなたに言い寄るだろうが愛してはくれない、彼が愛するのは自分の映画だけだ。それにうなづいて分かっていたはずのデイビス=ダンストだったのだが…。

 そんな中、ハースト=ハーマンとの商談が思うに任せないインス=エルウェスも、チャップリン=イザードとデイビス=ダンストの親密さに気づいていた。商談を有利に進めるためなら何でもする。トチ狂ったインス=エルウェスは、チャップリン=イザードの船室に忍び込み、彼がデイビス=ダンスト宛てに書いた恋文を発見する。これはオイシイぜ、金になるネタだ。相談役の弁護士は、あまりに危険な両刃の剣だとインス=エルウェスに忠告するが、彼の耳にはもう届かない。何とかハースト=ハーマンに近づいてこのネタを渡したいと焦り狂う。

 そんな最中にもチャップリン=イザードは事あるごとにデイビス=ダンストに接近。彼女もイヤと言いながら完全には拒めない。そんな二人を見ながら嫉妬の虜になっていくハースト=ハーマン。そんな各人各様の思惑は、徐々に臨界点に近づいていく。そしてデイビス=ダンストを籠の鳥だと断じたチャップリン=イザードは、彼女の船室でついにその思いを遂げてしまった

 ハースト=ハーマンに近づいたインス=エルウェスは、自分がハリウッドでのデイビス=ダンストの監視をすると言い放ち、どうやらハースト=ハーマンの心を動かしたと気づいた。ここで一気に勝負に出るしかない。ついに彼は伝家の宝刀を取り出した

 その頃、そんな事になっているとも知らず、チャップリン=イザードとデイビス=ダンストは船内で親しげにイチャついていた…。

 

才人ボグダノヴィッチの絶頂と転落

 何と懐かしいピーター・ボグダノヴィッチ久々の新作。ボグダノヴィッチという名前を聞いて、今の映画ファンはピンと来るだろうか。おそらくは…というか絶対、彼の名前はすでに過去のものとなっているはず。そんな若い人々でも、「ラスト・ショー」「ペーパー・ムーン」の監督だと言えば、お分かりいただけることと思う。

 先日、「ハンテッド」でウィリアム・フリードキンの復活を目にしたが、このボグダノヴィッチもフリードキンと同期と言っていい映画人。「ハンテッド」感想文でも書いた通り、ボグダノヴィッチ、フリードキン、そしてフランシス・コッポラは、かつて飛ぶ鳥落とす勢いのハリウッドの寵児としてモテはやされ、この三人で「ディレクターズ・カンパニー」なる映画会社をつくったこともあった。その後三人が三人ともアッという間に凋落したことは、みなさんご存じの通りだ。彼らはルーカス=スピルバーグ一派がハリウッドを席巻する直前に君臨した、若き天才たちだった。だからルーカス=スピルバーグが頭角を現してきた当初など、僕にはノスタルジー溢れる「アメリカン・グラフィティ」のルーカスがこのボグダノヴィッチの、傑作ショッカー「ジョーズ」のスピルバーグがフリードキンの、それぞれ後継者に当たるイメージがあったくらいだ。だが、世代交代は僕や世間が思った以上に早く、彼らの天下はいくらも続かなかった。コッポラだけは生き延びてルーカス=スピルバーグたちともツルんだが、やはり長いことはもたなかった。

 だが、ボグダノヴィッチの全盛期は確かに華やかだった。「ラスト・ショー」「おかしなおかしな大追跡」「ペーパー・ムーン」と続けば、それはモテはやされるのも無理はない。その全盛期を彩る作品群に一貫する彼の特徴は、何と言ってもノスタルジーへの傾倒ぶり。そしてその猛烈な映画ファンぶりだ。

 もっとも映画ファン…というのは彼の場合適当ではない。そんなナマやさしいものではない。元々ボグダノヴィッチは映画評論家だったのだ。そう言った意味ではフランソワ・トリュフォーなどと同系統の映画作家と言える。彼はその豊富な映画知識を駆使して、初期作品群を創り上げた。「ラスト・ショー」での往年の西部劇役者ベン・ジョンソンを起用してのオマージュぶり、「おかしなおかしな〜」でのスプラスティック・コメディの現代的再現、「ペーパー・ムーン」の往年のハリウッド人情喜劇へのリスペクトぶりを見れば、それは誰でも容易にうなずける。

 ところがボグダノヴィッチはそこから激しい挫折を味わうことになる。その後の監督作品が連続して大コケ。ハリウッドでの信用はスッカリなくなった。その後は細々とスマッシュ・ヒットを放ったようだが、僕は見ていない。第一この時期の彼の作品はほとんど日本公開されてない。唯一見ることが出来たのは「ニッケルオデオン」で、これは僕はすごく好きな映画だが興行的には失敗した。

 しばらくして「マスク」(ジム・キャリーのあの作品とは別のシリアスな作品)がある程度評価されたが、僕にはとても本調子とは思えなかった。やめときゃ良かった「ラスト・ショー2」なんてのもあったか。そんなこんなで本作は、ボグダノヴィッチの日本公開作として本当に久々の映画ということになる。

 だから、僕としては新作が嬉しかったものの、ちょっと不安だったんだね。いや、実は僕はまったく期待していなかった。たぶんダメじゃないかと思ってたんだ。

 ところが…これが意外に良かったんだね。少なくとも僕は気に入った。うまい映画かどうかは知らない。だが、僕にはかなり心に響くものがあったよ

 題材的にはうってつけだよね。ハリウッドの内幕モノ。確かにこの事件のことは、僕もうろ覚えだが聞いた覚えがある。新聞王ハーストについては「市民ケーン」を見た人間なら一応分かっているだろうし、チャップリンの一連の少女愛好癖も有名な話だ。

 だけどこの作品、こんな実名を挙げて描いていいのかと思ったけどね。だって当時のセレブが実名でガンガン出てきて、姦通はする、セコい企みはする、まるでアホに描かれる、挙げ句の果てには殺人…結局真相は闇の中の事件だけに、こんなにバンバン描いちゃっていいのかと心配になるほど。元々は舞台劇だそうだが、本当に大丈夫なのかと思っちゃうよ。それはともかく、映画と映画界を知り尽くしたボグダノヴィッチなら、まずはお手の物の題材だろう

 おまけに大の得意のノスタルジーものでもある。当時の雰囲気の再現は完璧と言っていい。昔の音楽をガンガン流す作戦も、「ラスト・ショー」「ペーパー・ムーン」ですでにやっている。まずは手慣れたものだ。ヒロインのキルスティン・ダンストのまるでタヌキみたいな顔が気になる向きもあるかもしれないが、当時のメイク、当時のヘア・スタイルではあの顔はよくあるパターンだった。まずは彼女の人選もピッタリだ。

 起用された役者たちも、それぞれ雰囲気を出している。特にチャップリンを演じたエディ・イザードはいかにもだね。

 そんな船上のゲストたちが繰り広げる人間模様は、見ていてツラくなるほど。ハーストに恩と愛情を感じながらも、チャップリンに惹かれてしまうヒロイン=デイビスの残酷なエゴイズムと無神経さ。エゴと言えば、その性癖で次々と少女をモノにしながらデイビスに迫るチャップリン、娘のような愛人を囲っていながら良識人を振る舞い、スーパーパワーの持ち主として下々の人間たちを見下しているハーストもどっちもどっち。自分のビジネスのために手段を選べなくなっているインスも、その他の人物も、どれもこれもが見事なまでにエゴイストだ。そして恐ろしくモラルに欠けている。

 

ボグダノヴィッチの血を吐くような実感

 各人の思惑が入り乱れる人間模様を、ヒリヒリするような観察眼で描いているボグダノヴィッチ。それはまるで往年の「ラスト・ショー」を思わせるものだ。「ラスト・ショー」でも田舎町の人間模様を、懐かしさの中にもどこか冷たく残酷なまでの視線で描き出していた。あのボグダノヴィッチならではの、これはシビアな群像劇になっている。

 それと言うのも実はこの映画って、単にボグダノヴィッチがノスタルジックな素材に強くハリウッドに詳しい以上にうってつけのものだったからかもしれない。彼はそんな人間たちの華やかさと挫折とエゴを知り尽くしているからかもしれないんだ。

 ボグダノヴィッチはその絶頂期に、長年連れ添った古女房を捨てた。「ラスト・ショー」に起用したモデル上がりの美人女優シビル・シェパードに走ったからだ。僕は、これがボグダノヴィッチの命運を決したと思っているんだね。いや、別に女房と別れた云々などと、ボグダノヴィッチのプライベートに文句をつけるつもりはない。

 実はボグダノヴィッチの古女房ポリー・プラットは、名実ともに彼の作品を支え続けていた。プロダクション・デザイナーとして、ボグダノヴィッチ初期の作品「殺人者はライフルを持っていた」から「ラスト・ショー」「ペーパー・ムーン」までクレジットされてもいる。これ以外にもクレジットはされていないが、衣装デザインや脚本の面でさまざまなアシストがあったらしい。このプラットがボグダノヴィッチと別れて以降も、「がんばれ!ベアーズ」「スター誕生」などではプロダクション・デザイナーとして、さらには「プリティ・ベビー」「ブロードキャスト・ニュース」「セイ・エニシング」などではプロデューサーとして映画製作に参加し、浮き沈みの激しいハリウッドを生き抜いたことを考えると、彼女にはやはり何らかの才能があったことは間違いない

 翻って、彼女と切れた以降のボグダノヴィッチは愛人シビル・シェパード主演の作品を二本連発し、二本ともハズしてしまった。日本未公開のため映画を見ていないので断ずるのは危険だが、興行的にも批評的にも振るわなかったことから、まず不調はここから始まったと見ていい。この点を見る限りでは、ボグダノヴィッチ自身は一人でのし上がったと思っていただろうが、その成功はかなり古女房プラットに支えられていた公算が大だ。結局のところ、彼は虚栄に目がくらんでしまったのではないか。

 それ以降、小ヒットはあったものの、ボグダノヴィッチは本調子に戻らなかった。少なくとも往年のあの才気と勢いは取り戻せなかった

 さらにボグダノヴィッチは不運に襲われもした。自作に起用した元プレイメイトの女優ドロシー・ストラッテンと恋に落ちたが、彼女が別居中の夫に殺されたのだ。この顛末はボブ・フォッシーの遺作「スター80」に詳しく描かれているが、ストラッテンの夫は最後の頃にはヒモ同然の存在に成り下がっていたようだ。スターダムに駆け上がろうとしていた彼女に捨てられかかった夫は、思いあまって彼女を殺してしまった。

 愛と欲望、成功とエゴ、そして挫折…それらに翻弄されるだけ翻弄され、辛酸をなめ尽くしたボグダノヴィッチ。彼にはおそらく今回の「ブロンドと柩の謎」で描かれた世界が分かるすぎるほど分かったのだろう。

 「ラスト・ショー」は傑作だ。映画を知り尽くした男が、その有り余る才気で創り上げた「上手」な映画だ。だが、僕は今回の「ブロンドと柩の謎」に、より親近感と好ましさを感じる。「ラスト・ショー」のような「上手」さには欠けるかもしれないが、その代わりボグダノヴィッチが血を吐くような思いで吐露した真情を感じてしまう。ここには「ラスト・ショー」にはなかった「実感」がこもっているからだ。そして才気走った得意げな顔ではなく、苦い苦い後悔と自戒の念がにじみ出てさえいる

 今回の作品の語り部とも言えるエレノアが、映画のラストに語るモノローグが印象的だ。今になって、あの船旅のことを思い出す。みんなハシャぎまくってハメはずしまくって、浮かれるだけ浮かれてチャールストンを踊りまくる。そんなみんなの顔は、揃いも揃ってバカづらだ。そこで踊っている自分もバカづらだ。そんな自分に醒める時もある。

 でも、踊りはやめられない。だって、やめたら何もないではないか…。

 まるで「自転車操業」という言葉さながらな心情風景。にも関わらずカラ元気でハシャぎ続ける空しさ。それこそがピーター・ボグダノヴィッチが今だから語れる、真っ正直な自画像なのだろう。

 だがね…それは僕にも確かに覚えがある。いや、実はずっとそればっかりだったような気がする。だから、僕にはこれは呪われたカリフォルニアの、ハリウッド・バビロンの出来事には思えない。

 自分なりに仕事がうまくいって偉くなったように思っていた時、一人でいっちょマエになったような気になっていた時、女に入れ込んで自分がこいつを幸せにしてやれると思っていた時…僕はハシャぎまくってハメはずしまくっていた。こんなシケたサイトを始めて、ちょっとオフ会に駆り出されたりチヤホヤされて、僕は浮かれるだけ浮かれて踊りまくっていた。

 その時の僕は見事にバカづらだったのだろう。

 今、僕の夢は覚めてしまった。そして、素晴らしいほど何もなくなった。さすがに僕はもう疲れたよ。それでもまだ踊りまくらなくちゃいけないんだろうか?

 そうでないと、自分には何もないと気づかされて、ツラすぎるだろうから。

 

 

 

 

 

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