「ソラリス」

  Solaris

 含・「惑星ソラリス」 (Solaris) ショート・レビュー

 (2003/07/07)


 

出来ればJ. S. バッハ作曲コラール前奏曲「イエスよ、私は主の名を呼ぶ」(「惑星ソラリス」サウンドトラック収録)を聞きながらお読み下さい。

 

 

君は桂小金治の再会番組を見たか

 昔、テレビで再会ものってのが大流行した時期がある。いや、今でもあるのかな? 

 昔の恩師や恩人、生き別れの親子、さらには初恋の人まで…人は長生きすれば、それだけ人と別れる事も多くなる。「さよならだけが人生だ」とはよく言ったものだ。そうした会いたいが会えない人にもう一度会うのは難しいのかもしれない。探偵でも雇わなければならないが、そんな金はなかなかない。

 だが、テレビ局ならそれが出来る

 テレビ局の機動力と金とネットワークがあれば、個人には出来ない事も可能だ。諦めていた再会も思いのまま。ただし、それは自分たちが見せ物になることを我慢すればの話だが…。

 そうした再会を見せ物にしたテレビ番組と言えば、何と言っても桂小金治だ。

 このいささか泥臭い昔ふうの芸人は、この手の番組を得意としていた。小金治司会の番組で、そんな視聴者が再会を果たす。ステージに張られたカーテンが上がると、そこには懐かしいあの人が…。思わず絶句して抱き合う両者…。そこにはもう二人しかいない。世界には、再会を果たせた二人だけ。

 いや、違った。小金治がいた。

 この小金治ときたら、マイクを握りしめたまま再会を喜び涙にむせぶ両者にかじりつき、「良かったねぇ、ホント良かった良かった…」とか何とか、実にうるさい。客席の連中の涙を煽ろうと、ムキになって盛り上げようと必死だ。そっとしておけよ、放っておいてやれないのか…だが、ここで盛り上げるためにテレビ局は大金をはたいたのだ。使えるものは何でも使い尽くさねば。そんなテレビ局の命を受けて、桂小金治は張り切って能書きをたれる。

 挙げ句の果てに、まるでクサい田舎芝居並みの口上をひとくさり。「会いたい気持ちはつのるけど、会うに会えない立場がつらい、どうせ会えないわが子でも、一目見たさに思いはつのる…」

 この五・七調の文句を聞くたびに、再会に感激した涙も枯れる。うちは母親がこの手の番組が好きだから、夕食時によく見せられたものだ。そのたびに、僕はせっかくの再会を陳腐に汚す桂小金治の言い草に激怒していたものだった。

 まぁ、テレビ局がただで再会させてくれる訳もない。泥臭いながらもエンターテインメントにしなければ商売にならないのだから、これはもう仕方ない。諦めていた再会を果たせただけでもいいではないか。その橋渡し役として桂小金治がいるとすれば、奴にも存在価値はあるではないか。大人になった今ならそうも思えるが、当時ガキだった僕は小金治のエゲツないやり口にいちいち憤慨していた。人の人生の重大な場面に、オマエちょっと失礼だよ!

 そんな苛立ちはともかく、僕にも会うに会えない人はいる

 中には会おうとすれば会える人もいるが、それでも今にしては躊躇するものがある。会いたいとも思う。会わない方がいいとも思う。会ってどうなるのだとも思う。そんな思いが千々乱れることも、時にはあるんだよね。

 その場に桂小金治がいなくたって、そんな気持ちになる。

 再会はどこか甘美なものだ。何か失ったものを取り戻せる気持ちにもなる。だけど本当に取り戻せるものなんてあるんだろうか? 取り戻せもしないとしたら、会う意味なんてあるのだろうか?

 仮に取り戻せたとして、果たしてそれで何になるというのか?

 

タルコフスキー版「惑星ソラリス」の切なさ

 アンドレイ・タルコフスキーの最も有名な作品「惑星ソラリス」は、僕にとっても印象深い作品だ。

 SFファンとして、まずスタニスワフ・レムの原作「ソラリスの陽のもとに」という小説の存在は知っていた。そしてソ連のSF映画「ソラリス」が製作されたことも、風の便りで聞いていた。その「ソラリス」が、レムの小説の映画化であることは、僕にはすぐ分かったんだね。だけど当時は日本ではヨーロッパ映画不毛の時期。公開されるアテもなかった。だから、僕にはそれがタルコフスキーの映画だって事も知らなかった。そもそもタルコフスキーそのものを知らなかったんだけど。

 「惑星ソラリス」が岩波ホールで公開された時も、駆け出し映画ファンである僕には岩波ホールの敷居が高すぎて、見に行くことが叶わなかった。今にして思えばこの時点で見てなくて良かったけどね。たぶん相当退屈しちゃったんじゃないか。ハリウッド映画しか見てなかった僕には、タルコフスキーは重すぎたはずだ。

 映画「惑星ソラリス」に接するに至るにはいろいろ紆余曲折あったのだが、ここでは僕が“オリジナル版”映画「惑星ソラリス」に“スクリーン”で対峙した時の話から始めるべきだろう。

 生い茂る樹木としたたるような青葉、朝露を光らせる雑草たち、川の中でゆっくりと揺れる水藻、水面を埋め尽くす浮き草…静けさに包まれながら、無数のゆたかな生の営みに囲まれている充実感。

 そんな豊かな緑と水の田園風景。そこに主人公クリス・ケルヴィン(ドナータス・バニオニス)は佇んでいる。彼は年老いた父親の郊外の家に遊びに来ていたのだ。

 のんびりとした景色と自然との触れあいにリラックスしたかのような主人公。だが彼の表情には憂いが見られた。それは目前に迫った彼のある「任務」への重圧もあったろう。だが、どうもそれだけではないように見える。

 そんな家に、ある一人の老人(ウラジスラフ・ドヴォルジェツキー)が現れる。実はこの老人、若かりし頃にパイロットとして地球から遙か離れた惑星ソラリスに派遣され、その上空を飛行中に異様な現象を目撃した。主人公ケルヴィンの目前に迫った「任務」もまた、この惑星ソラリスへの派遣なのだ。この老人は主人公に予備知識を与えようと、あるビデオテープを持参していた。

 ビデオ・スクリーンに映し出された映像。それは惑星ソラリスについての会議を収録したものだった。惑星ソラリスはコロイド状の海に一面を覆われた謎の天体だ。そこで今では老人となっているこのパイロットは、飛行中あり得ないものを目撃した。しかし、それがあまりに突飛なものであったため、彼の目撃報告は一笑に付された。以来、このパイロットは老人になった今に至るまで、ずっと心を閉ざしてきたのだ。

 そんな元パイロットの老人は、主人公に忠告を与えようとする。だが、この主人公にはどこか冷徹すぎるところがあった。ついついズバズバものを言い過ぎて、人を傷つけることもしばしば。この時も元パイロットの老人に向かって、少々キツい言い方をしてしまう。主人公の歯に衣着せぬ言い草にさすがに激怒した老人は、そのままクルマで帰ってしまった。

 それにしても一体何があったのだ? その後、地球から数人の科学者が派遣され、ソラリス海上に研究ステーションを建設して研究を始めた。だがつい最近、そこで何らかの変事が起こったようなのだ。科学者たちも連絡を絶った。一体ソラリスで何が起こったのか?

 そこで主人公は惑星ソラリスに向かい、研究者たちの安否を確認すると共に事件の真相を解明する任を受けたのだった。その出発は明日だ。遙か彼方のソラリスへの旅は、主人公にとっては父親の死に目にも会えなくなることを意味する。主人公も父親もあえて口には出さないが、胸の内には万感の思いを秘めていた。主人公はそんな立ち去りがたい思いを残しながら、自然に囲まれた父親の家を後にする。

 ともかく、主人公は単身ソラリスに向かった

 ソラリス・ステーションに一人降り立つ主人公。だが、誰一人出迎える者はいない。そもそもステーションに人影がない。おまけにやけに荒れ果てている。一体みんなどうしてしまったのか?

 やがてステーションに残ったメンバーたちと遭遇するが、みなどこか変だ。最初に出会った一人スナウト(ユーリー・ヤルヴェト)はどうも挙動不審で、しかも部屋には他の何者かがいるような物音がする。もう一人の生き残りサルトリウス(アナトーリー・ソロニーツィン)は部屋に閉じこもって中に入れない。おまけに部屋には確かに何かがいた。そしてもう一人、ステーションで研究していた友人の科学者ギバリアンは自殺を遂げていた。みななぜか口を閉ざして真相を語ろうとしない。一体何があったのだ? そして、突然どこからともなく現れる不可解な人影。あれは少女のように見えるが…。

 そのうち、眠りについた主人公の枕元に、一人の女が現れる。主人公はそれが誰だかすぐに分かった。それは主人公の妻ハリー(ナタリア・ボンダルチュク)だった。だが、そんなはずはない。ここは地球から遙か離れた惑星ソラリスだ。そもそも彼女が今ここに存在するわけがない。なぜなら彼女は、もうずっと以前に自殺してこの世のものではなくなっていたのだから…。

 まぁクドクドと物語を説明しても仕方がない。この映画の物語はみなさんも先刻ご承知のことと思う。この映画は冒頭部分を除いて、ほんの数人の登場人物しか出てこない、ステーション内部に限られた室内劇だ。だが、ステーションのセットはかなり巨大で重厚感あるもの。確かタルコフスキーが「惑星ソラリス」撮影中に、黒澤明が「デルス・ウザーラ」製作のためモスフィルム撮影所を訪れてこのセットを見学しているはずだ。その時に撮影所長はこのセットの巨大さを自慢していたと言うが、確かにかなり大がかりなセットに見える。セットというより本物のような重厚感があるよね。

 それ以外のこの映画の話題としては、何と東京の首都高速を走行するクルマから撮影して、それを未来都市のシーンとして使っていることが知られている。確かに「惑星ソラリス」本編を見ると、東京はすでに1970年代初頭の段階で、十分未来都市の様相を見せていたんだね。

 映画そのものはタルコフスキーらしい長丁場で、ダメという人はダメだろうが僕にはすごく面白かった。ゆったりと進む物語のテンポも、気にはならなかった。まぁ、冒頭の地球のシーンがやたら長いのには驚かされたが、後々にこれが効いてくるのは見ていて分かったよ。

 主人公と「妻」との葛藤も見応えがあった。妻を自殺に追い込んでしまった主人公を、蘇った「妻」の存在が情け容赦なく苛んでいく。いや、何も「妻」は彼を責めたりはしない。彼女はそこにいるだけなのだが、それだけに主人公にはつらいのだ。忘れかけていた記憶を引きずり出されて、主人公は自分を責めずにはいられない。最初は往生際悪くジタバタもするが、途中からそれも諦めて彼女を受け入れるようになる。だが、彼女はソラリスの知性を持った海が生み出した幻影でしかないのだ。

 まぁ、分かっていたのかどうか今ではもう分からないが、まだ若造だった僕にも「惑星ソラリス」の尋常ならざる迫力は感じ取れたんだね。そしてそれを補強してくれたのが、タルコフスキーがこの映画に選んだバッハのコラール前奏曲「イエスよ、私は主の名を呼ぶ」なるオルガン曲。物語のよく分からないところ、僕の人生経験不十分なところも、このバッハの曲一曲が十分すぎるくらい穴を埋めてくれた。一聴して誰の胸にも、人間の原罪やら宿命やらその他もろもろの抜き差しならない思いをズバッと感じさせてくれるこの曲。

 何となく幼稚な映画ファンの僕にも、取り戻したいが取り戻せない、何か取り返しのつかないもの…そんな思いを感じさせてくれた。僕はレコード店で分かりもしないクラシックのレコードを漁りまくり、このバッハの曲のレコードを買い求めた。聞くたびに切ない思いにとらわれてしまうこの曲は、僕にとって「惑星ソラリス」と切っても切れないものなのだ。そして聞き込んでいくうちに僕には分かった。

 そうだ、その取り戻したいが取り戻しがたいものって、「ホーム」…人にとっての“心の拠り所”なんだ。 帰りたい帰りたい帰りたい、母なる地球に、故郷に、懐かしいあの頃に、あの人の元に…。そんなさまざまな人にとっての「ホーム」への思いを映画にしたものなんだ。冒頭の瑞々しい地球の自然を、あれほどこれでもかこれでもかと見せつけた意味はこれなんだ。それって自分のちょっとした不注意で失われてしまうものかもしれない。どうしようもない理由から自分で捨て去ってしまうものかもしれない。あるいは時というものが失わせてしまうものかもしれない。それとも自分の年齢とイノセンスの消失によって失われてしまうものかもしれない。ともかくは、人間はそんなかけがえのないものをどんどんなくしていく。その思いだけが淡く残る。

 その後、他のタルコフスキー作品に触れた僕は、そのテーマが彼の「鏡」にも描かれていた事を知る。

 タルコフスキー作品をこういう風に見るのは邪道なのかもしれない。だけど僕にとって「惑星ソラリス」はそんな映画だ。当時まだ振り返るには浅すぎる歴史しか持っていなかったにも関わらず、そんな取り返しのつかないもの、かけがえのないものの尊さを感じさせる映画として、「惑星ソラリス」は強く僕の記憶に残ったのだった。

 

意外な面白さのテレビ短縮版とハリウッド・リメイク

 ところで先に僕は、“オリジナル版”映画「惑星ソラリス」に“スクリーン”で対峙した…というような、えらくまどろっこしい書き方をした。だけど、それには理由がある。実は僕が「惑星ソラリス」と接したのは、それが初めてではなかった。それに先立つこと数年前、僕はテレビ放映の「惑星ソラリス」をビデオ録画したもので見ていたんだね。

 ところでこれが実に無茶なモノだった。「惑星ソラリス」は3時間くらいの長尺な映画だ。全編タルコフスキーお得意のゆったりしたスピードで語っていく。しかし僕が最初に見たテレビ版「惑星ソラリス」は、何と1時間半枠のもの。当然放映時間とCMブレイクのため、あちこちをズタズタにカットしたものだったのだ。1時間半枠と言えば、映画は正味1時間ちょいくらいしかない。何と半分どころか3分の1程度に短縮された「惑星ソラリス」を見せられるハメになったのだ。

 これでは見るに耐えないものになったと思うだろう?

 ところがこれが違った。実はそれなりに面白いのだ。一つにはすぐれた映画というものは部分を見てもそれなりにすぐれた部分が伝わるということがあるのだろう。短縮版「惑星ソラリス」には、あの尋常ならざる雰囲気が十分残っていた。

 もう一つにはタルコフスキーの映画話法が極めてゆったりしたものだということもあるだろう。映画のリズムは損なわれるかもしれないが、カットすることで物語が理解不能になることはない。だから見ていて訳の分からない無惨なものにはならなかった。

 そしてこの短縮版「惑星ソラリス」は、タルコフスキー作品の良質な部分はどこか受け継ぎながら、新たな側面も加えていたのだった。

 まず、何と冒頭40分ぐらいかかる地球の場面が、ほんの数分にまとめられている。そして本編にはない主人公のモノローグが追加され、説明不足のところを補っている。だからテンポがすごくいい。アッと言う間に主人公はソラリスに到着する。結果としてオリジナル版を見た時に迫ってくる「帰りたい」という気分はかなり減退せざるを得ない。だが、短縮版には新たな味わいが出た。

 何とメロドラマとしての側面だ。

 無神経から死に追いやってしまった妻への主人公の後悔。そして主人公への愛を抱きながら、自分は「人間」ではないと思い悩む「妻」の葛藤。やり直したい、やり直せるかも、でもやり直すことなど本来は許されないはず…これは真っ当なメロドラマだ。そこにタルコフスキーが選曲したあのバッハのオルガン・コラール曲が、本編には入ってなかった箇所にまで、泣かせどころとなるとここぞとばかりに流れる。「私は人間ですっ!」と「妻」に扮するナタリア・ボンダルチュクが叫んでヨヨヨと泣き崩れると、例のバッハがさながら「愛のテーマ」的扱いで流れるんだよね。

 これにはマイッタ。メロドラマもメロドラマ。やりようによっちゃお昼の「花王・愛の劇場」かどこかのワクで、「真珠夫人」みたいに主婦向けのメロにつくり直せそうだ。どうだろう、この企画をどこかの局で買ってくれないだろうか?…連続ドラマ「愛のソラリス」(笑)。主題歌は鶴岡雅義と東京ロマンチカが歌う「君は心の妻だから」(笑)。まぁ、何しろ元が元だからそれはいささか大げさだが、かなりメロドラマ臭の強い処理は施されていたんだよね。

 映画のテレビ放映におけるカット問題は、いろいろ論議を呼んできたところだよね。僕ももちろんオリジナルがいいに決まっているとは思う。だがそれにしても、このテレビ版製作者のセンスには恐れ入ったよ。タルコフスキー映画が泣かせるメロドラマに生まれ変わっていたんだから。いや、それは正確ではない。実は僕はこっちから見たんだからね。僕にとって「惑星ソラリス」は、ストレートなメロドラマ風の映画としてまずは入ってきた。邪道と言えば邪道。だけど、それは「惑星ソラリス」のとっかかりとしては良かったと思えるよ。だって、とにかく面白かったもんね。その素晴らしさの一端には触れられた。

 さて、今回この「惑星ソラリス」が、アメリカ映画「ソラリス」としてリメイクされる。いや、あくまで制作者側は、レム原作の新たな映画化だと言い張ることだろう。ともかくはその布陣がジェームズ・キャメロン製作、スティーブン・ソダーバーグ監督、ジョージ・クルーニー主演と聞いて、僕はちょっとギョッとしたんだよね。

 まぁSFはSFだからキャメロンって言うのも分からぬでもない。そしてソダーバーグとクルーニーはずっとツルんでる仲間だ。それだけ見ればなるほどと言えなくもないが、それにしたって「ソラリス」とは。

 まずはどうしたってタルコフスキー版は無視できっこない。タルコフスキーとキャメロンってどうなんだ? それよりキャメロンとソダーバーグってどうなんだ? そもそもソダーバーグはクルーニーと組んでから「オーシャンズ11」をはじめ娯楽作に急速に傾倒したが、それとタルコフスキーってどうなんだ?

 いやぁ、こりゃあちょっとどうかなって思うよね。

 昨今のハリウッドのリメイクばやりには、僕も眉をひそめないでもない。いくら企画が枯渇してるからって、こうしたメンツでハリウッドが「惑星ソラリス」をリメイクって、一体どうなんだよって言いたくもなる。

 案の定、カンヌかどこかで上映した時には、かなり不評をくらって会見場でのクルーニーを激怒させたりもしたらしい。なるほど、そりゃそうだろうな…と思いつつ、僕は一方で「待てよ」と思い始めもしたんだね。

 名作のリメイクは、常々オリジナル版の冒涜と見なされがちだ。だけど、例えばウィリアム・フリードキン版の「恐怖の報酬」のように、的はずれな不当な非難である場合もある。リメイクするだけで許し難いっていう態度だね。それはそれで、ちょっと違うんじゃないかって思ったりもする。

 だが、タルコフスキー版を見ればどう見たってハリウッド向けとは思われない。それだけ考えればリメイクが成功するとは到底思えないのだ。ならば、世間でのリメイク版「ソラリス」不評は正当な評価なのだろうか? うまくいくはずない企画なのか?

 僕はテレビ短縮版「惑星ソラリス」をすでに見ていた。

 それがメロドラマ的に処理されているのを見てとってもいた。短縮版はタルコフスキー版を素材として活用しながら、タルコフスキーの意匠であるゆったりしたテンポと冒頭部分の瑞々しい地球場面を切り離すことで、独自の味わいを生み出していた。

 ならば、ハリウッド・リメイク版もその方向を踏襲すれば成功するのではないか。文字通り、タルコフスキー版とは違った魅力で、この物語をつくれるのかもしれない。

 ハリウッド・リメイク版「ソラリス」に接する前の僕の心境は、ざっとそんなものだった。果たしてその予想は当たったか、はたまたハズレだったのか?

 

惑星ソラリスに訪れた「客」

 今日もしとしと雨が降る。心理学者ジョージ・クルーニーは、多くの患者を抱えて毎日を忙しく過ごしていた。そんな彼の元に、ある男たちが訪ねてくる。

 彼らは惑星ソラリスの開発会社から派遣されてきた人間だ。

 クルーニーはこの男たちから、旧友の科学者ウルリッヒ・トゥクールが彼に託したメッセージ・ビデオを見せられる。トゥクールはすでにソラリス研究ステーションに派遣されていたが、そこでとてつもない異変が起こっていると言うのだ。彼はこのメッセージ・ビデオを送信した後連絡を絶った。その後、救援隊が派遣されたが、これもソラリスで連絡を絶ったと言う。トゥクールはビデオで語っていた。「君ならこの問題を解決出来るかも知れない」

 ソラリスには自動操縦の宇宙船で行ける。クルーニーは単身謎の惑星ソラリスに旅立った。

 ところがステーションに降り立ったクルーニーを出迎える者は誰もいない。人けのないステーション内を歩き回るクルーニーは、そこで不吉な血痕を発見する。そして安置された二体の遺体。その片方はあの旧友トゥクールだった。一体このステーションに何が起きたんだ?

 そんなクルーニーは自室に佇むジェレミー・デイビスを見つけた。だがジェレミー・デイビスはブツブツと訳のわからぬ事をつぶやいて要領を得ない。分かったのは、トゥクールは自殺したこと、それ以外のメンバーも自殺したか行方不明なこと、そして残ったのはジェレミー・デイビス自身ともう一人女性科学者のヴィオラ・デイビスだけだということだった。

 今度はヴィオラ・デイビスに話を聞きに行くクルーニーだが、彼女は自室に籠もったまま出てこようとしない。だが、自室からは何か騒々しい物音がする。何かがいる。それでもヴィオラ・デイビスはクルーニーに多くを語らず、今は何を言っても分からないと告げるだけだった。

 しかもクルーニーは、ステーション内で意表を突いたものを目撃する。それは走り去る少年の姿だった。あれは一体何だ?

 ともかくは自室に引き揚げるクルーニー。そう言えばジェレミー・デイビスは自室にカギをかけるように言っていた。胸騒ぎを覚えて言うとおりにするクルーニーは、やがてベッドで眠りについた。

 惑星ソラリスの表面にはオーロラのようなエネルギー塊が光り輝く。

 地下鉄で、クルーニーは彼女と出会った。

 それは陳腐な言い方を許していただければ、まさに電撃的な出会いと言えようか。彼女もクルーニーに微笑む。そして駅で彼女は地下鉄から降りて行った。

 クルーニーが出かけた先は、友人トゥクールの家のパーティー。彼は何とそこで、あの地下鉄で会った女ナターシャ・マケルホーンと再会する。友人トゥクールは来たるべき惑星ソラリスでの任務について語りかけてくるが、もはやクルーニーの耳には入らない。彼はゆっくりとマケルホーンの元に歩み寄って行った。

 そして恋に落ちた。

 その夜のうちに、クルーニーは彼女を自宅に誘う。そしてベッドにもつれこんで愛し合い…。

 目覚めてみると、そこに彼女がいた

 目覚めのおぼろげな意識の中でも、クルーニーはその異変に気づいた。慌てて飛び起きるクルーニー。そんなはずはない。これはありえない。ここにいる女はあのマケルホーン。だが、ここは地球から遙か離れたソラリス研究ステーションだ。それに、これが彼女ではないのには、もう一つ理由がある…。

 だが、マケルホーンはまさに彼女そのものとしてクルーニーに接した。その態度にはまるで疑いの余地もない。何でここにいる? ここをどこだと思っているんだ?

 「ここは家でしょう? 私たちの家」

 すっかり動揺するクルーニーだったが、それがマケルホーンであることは間違いなかった。でも彼女であるはずもなかった。怯えきるクルーニーは、マケルホーンと何とか調子を合わせる。そして彼女を脱出ポッドに誘い込み、そのままステーションの外の宇宙空間に放出してしまった。ポッドの窓からは慌て叫ぶマケルホーンの表情が見えながら…。

 慌てふためいたクルーニーの元を、あのヴィオラ・デイビスが訪れる。「もうアレを見たのね?」

 そう、このソラリスでは、来訪者たちすべてにこの現象が起こっていた。彼らの元にそれぞれ、「お客」が訪れていたのだ。それらが訪れるわけはないはずなのに…。

 眠りたくなくとも睡魔は襲ってくる。クルーニーはまた夢を見た。求婚してもなかなか同意してくれなかったマケルホーン。そんな彼女は、かつて母親が精神に異常をきたした過去があった…。

 そんな夢から覚めると、再び何もなかったかのようにクルーニーの前に現れる「お客」のマケルホーン。彼女はまさしくあのマケルホーンだ。彼女しか知り得ない記憶もある。なのに彼女は徐々に不安を覚えて来ていた。なぜか自分がその場にいたという実感がない。自分は本当は何者なのか…そんな不安を訴えるマケルホーンに、もうクルーニーはつれない素振りを見せられなくなった。そして、彼女は一人にさせられることを極度に恐れていた。

 船内の会議室で他メンバーと語り合う際も、マケルホーンを同席させるようになるクルーニー。そこでヴィオラ・デイビスは新たな提案を持ち出す。「お客」にある科学的処置を行えば、彼らは二度と現れなくなると言うのだ。だがクルーニーはそれを望んではいなかった。もはや彼はマケルホーンなしにはいられなくなっていたのだ。

 そんな折りにも、マケルホーンは過去の記憶を反芻していく。クルーニーが眠りにつくたびに、夢から記憶が再生されていく。

 結婚した二人の幸せは長く続かなかった。情緒不安定になり言い争いが絶えない。彼女が結婚を躊躇したのはこれだったのか。友人トゥクールの自宅パーティーに招かれても、そこでのトゥクールやクルーニーの論議に納得できない。彼らは人間の存在を単に科学的に論じるだけだ。神の存在を含めた何か…に思いを馳せるマケルホーンには、それが耐え難いものに感じられた。そんなマケルホーンに苛立つクルーニー。やがて妊娠が分かるが、クルーニーに無断で堕胎したマケルホーン。これにはクルーニーも激怒した。家を出ていこうとするクルーニーに、追いすがるマケルホーンが叫ぶ。

 「行かないで! あなたなしには生きていけない

 「では生きるな、オレの知ったことか!」

 そして…マケルホーンは死を選んでしまった…。

 そこまで知って、「お客」のマケルホーンはついに思い至った。自分がマケルホーン自身ではない、人間ではないと…。

 ソラリスに出現してから、絶えずマケルホーンを悩ましていた不安はこれだったのか。思いあまった彼女は、「本家」をなぞるかのように、液体酸素を飲んで自殺を図る。悪夢の二の舞。だが、マケルホーンはそんなクルーニーの見ている前で、奇怪な様相で蘇生を果たす。「お客」は決して死ねないのだ。

 彼女は所詮クルーニーの記憶の中の彼女だ。だから自殺も繰り返す。何も変わりはしない。マケルホーンの絶望は日に日に強くなる。だが、クルーニーは違っていた。自分の無神経さから妻を死に追いやった過去。それを取り戻せるチャンスかもしれない。そう思うと、何としてもマケルホーンは手放せない。

 だが、ヴィオラ・デイビスは着々と「お客」たちの消滅を図ろうとしていた。このままではいけない。私たちは「お客」を消して、地球に戻らなければいけない。

 放っておけばヴィオラ・デイビスはマケルホーンを消滅させようとするだろう。いや、いまや自分はいるべきではないと考え出したマケルホーンが、自ら消滅を志願するかもしれない。そう思うとクルーニーはおちおち眠っていられない。何とか眠らずに、そんな暴挙を阻止するべく頑張るしかなかった。

 だが、そんなクルーニーもいつしか睡魔に襲われる…。

 

スティーブン・ソダーバーグの本卦帰り

 いろいろな思いを胸に見たリメイク版「ソラリス」。まずは予想はすべて当たっていたとも言えるし、ハズレていたとも言える。

 テレビ短縮版の引き写しではないが、冒頭の地球場面を大幅削除、全体のテンポもタルコフスキー版よりはかなりアップしていることは事実で、主人公が「妻」と出会うまではアッと言う間だ

 だが、これがテレビ短縮版のごとくメロドラマ化していると言い切るのは無理がある。それより何より、このリメイク版は意外にもタルコフスキー版のテイストをかなり色濃く残しているのだ。

 先にスピードアップしたとは言ったものの、それはあくまでオリジナル版と比較しての話。ハリウッドSF大作としては異例のスロー・テンポで物語は進行する。物語の要素としても、地球の場面が刈り込まれたことを除けば、実はソラリスに到着してからしばらくはオリジナル版とほぼ同じ展開だ。終盤にはリメイク版独自のちょっとした趣向もあるが、同じ原作を使っているとは言え作品全体の印象はかなり類似している

 ステーションのセットも、造形的にはオリジナル版を踏襲したイメージが濃厚だ。つまらない事を言えば、主人公クリス・ケルヴィン役を演じるジョージ・クルーニーの容姿ですら、タルコフスキー版で同じ役を演じたドナータス・バニオニスに近い。地球の場面で終始雨がしとしとと降り続けているのは、「水」のビジョンに取り憑かれていたようなアンドレイ・タルコフスキーと、その「惑星ソラリス」冒頭の地球場面でにわか雨が降るくだりへのオマージュに他ならないだろう。違っているのはソラリスの海が光るエネルギー帯になっていることだが、それは映画全体の印象にはほとんど影響を与えていない。そもそもしんと静まり返ったステーション内で展開する淡々としたドラマというつくりは、タルコフスキー・オリジナルほどではないにしろ、かなりタルコフスキー版と似た印象を与える。

 これは本当にハリウッド大作として、異質なものと言わざるを得ないのではないか?

 作り手側はリメイクではない、タルコフスキー版とは別物と強調しているようだが、やっぱりこれはかなりタルコフスキー版を意識した再映画化だ。それだけは間違いない。ただアメリカ観客を意識したのか、ハイブロウ過ぎる内容をやや大衆化しようとしたのか、この映画化は多少わかりやすくはなっている。それでも全体のイメージはかなり似通って見えるのはかなり意外だった。これではアメリカ観客にはとっつきにくく感じられるだろうね。

 そして僕にはこれが、スティーブン・ソダーバーグの本卦帰りのように思えたんだね。

 「セックスと愛とビデオテープ」で衝撃的に登場したソダーバーグ。その次には「KAFKA」なんてハイブロウな作品を発表して、てっきりインディーズの雄としてやっていくものと思いきや、突如「アウト・オブ・サイト」でスタイリッシュな娯楽映画に転換。その後もヒット作を連発してハリウッドでの地位を確立したのは驚いた。だが、それ故にこの人って「つかみどころのない人」って感じがしたんだね。まぁ実はそうした娯楽作の合間に、かなり異質な小品もつくっていたみたいだが、僕には最初の「セックスと嘘とビデオテープ」は何だったんだ?…って気持ちが残った。

 ところが今回の「ソラリス」、ソダーバーグが「セックスと嘘とビデオテープ」に立ち返った作品という感じがするんだね。

 ジェームズ・キャメロンと組んだSF大作が、何で「セックスと嘘とビデオテープ」なんだ?…とお思いの向きもあるかもしれない。だがこの映画、製作規模もデカいしジョージ・クルーニーなんてスターも出演している、SFXもふんだんに使った宇宙映画ではあるけれども、ソダーバーグの過去の作品群で何に一番近いかと言えば、ためらわず「セックスと嘘とビデオテープ」に最も近いと言い切れる。

 主人公の胸に秘めてくすぶっていたものが、ある意表を突いた出来事から露呈していく…そんな物語を真摯に描いていく手つきが、何より共通するではないか。「ソラリス」は確かにSFX大作ではあるが、そこに描かれているのはひどく小ぢんまりした個人の心の中だ。この映画から惑星ソラリス自体と宇宙ステーションをはぎ取れば、「セックスと嘘とビデオテープ」の作品世界と大した変わりはない。それより何より、この「ソラリス」は「セックスと嘘とビデオテープ」と共有するものを持っている。

 これは愛に関する物語なのだ。

 タルコフスキー版がかけがえのない何か、取り戻したいが取り戻し難い何か、それへの思いと尊さ…という極めて広い概念を描いたとするならば、このソダーバーグ版が描いたのはもっと求心的な対象…人間の愛情だ。その違いはおそらく、冒頭の地球場面の長さの違いと、タルコフスキー版ではソラリスへの旅が父親の死に目にも会えないであろうほど長期に渡るものが、ソダーバーグ版では割と短期間で行き来出来る印象に変貌しているということから生じているのだろう。

 だがそれだけのせいではあり得ない。

 今回のソダーバーグ版が描こうとしているものをクローズアップするなら、かのテレビ短縮版のメロドラマ性とは明らかに異なるものの、方向性はかなり近い。おそらくテレビ短縮版のメロドラマ性は、テレビマンの持つ嗅覚が作品を相当に通俗化させた結果なのだろう。だが、狙った方向はリメイク版「ソラリス」と近かったはずだ。それも確かにこの作品の持つ要素のひとつだ。

 ソラリスによって実体化した「妻」は、あくまで主人公の記憶の産物だ。それが「妻」を悩ませる。でもその悩みって、別にわざわざ宇宙に出てソラリスまで行かなくても僕らがみな共有しているものだ。

 人が人を愛するとは、実はその人の「実体」を愛しているのではない、自分がつくり出した虚像を愛しているのではないか?

 恋に恋するとは乙女の特権だが、それでなくても大なり小なりそういうことは誰にでもある。人は得てして自分に都合良く物事を考えるものだ。そうでしかない。だから、相手を自分にとって都合よくしか見てはいない。見たいところしか見ていない。そしてそんな虚像から時に実体が覗く時、人は愛を疑ったり苦しんだりする。それって本当に愛と言えるのだろうか。

 前に「A. I.」の感想文を長々と綴った時にも、僕は同じことを言ったように思うよね。あの作品は一見、愛とは何か…を問おうとしているかのように見える。そこに出てくるのは、疑似親子の愛、ロボットの愛、クローン母親への愛…それは本当の愛と言えるのか? まるでその真偽をテストするかのように、あの映画では主人公に試練が次々襲いかかる。その試練は、この「ソラリス」でも主人公たちに降りかかる。

 でも結局のところ、人には…そして人の姿をしている者には、愛とは何かなんて分かりはしない。それは「ソラリス」の主人公にしたって「妻」にしたって同じ事だろう。

 だが、それでもいいのではないか?

 「ソラリス」のラストはその意味で象徴的だ。おそらくソラリスの中に飲み込まれたであろう主人公…彼は自身の実体がなくなって、改めて「妻」との再会を果たす。それが一体何を意味するのかはこの際どうでもいい。

 愛とは何かなんてどうでもいいではないか。

 いま愛している実感…否、それはすでに失われたものであってもいい。愛していたという確かな思いがあれば、それはきっと真実なのだから。

 

 

 

 

 

 to : Review 2003

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME