「アバウト・シュミット」

  About Schmidt

 (2003/06/30)


  

 先日、老眼になった話をしたんだけど(「コーリング」感想文)、ホントに歳くったって気持ちになるのは寂しいもんだよね。最近特にそれを強く思う。今がイケイケで金もガッポガッポ入って仕事ガンガンやっててバリバリの実力者ってならそんな事も考えないんだろうけどさ。これからどうなっちゃうんだろうって不安になってくる。正直言って暗い考えしか頭に浮かんでこないのだ。だからこの映画も見る気がなかなかしなかった。

 その映画…「アバウト・シュミット」

 それでもこの映画の主人公ジャック・ニコルソン演じるシュミット氏は、僕よりナンボかマシだ。会社でもそれなりに出世したようだし、嫁さんもらって子供も出来た。ファースト・シーンはそのシュミット=ニコルソンがリタイアの時を自分のオフィスで刻一刻と待っているところから始まる。

 この人は仕事人間だったみたいで、だから自分の親父たちの世代とあまり変わらない。どこの誰が日本人とは違ってアメリカ人は豊かな人生を謳歌してるなんて言ったんだ。

 リタイアの夜に「ご苦労さん会」なんて開いてもらえるのは、それなりにこの人会社では評価されていた証拠だろう。それだけでもオレよりマシだ。みんないろいろオイシイ事を言ってくるが、そんなものは空しいのは洋の東西を問わない。後任の若いのが「いつでも会社に遊びに来て」なんて言ったって、そんなもの真に受けちゃいけないのもお約束。元の同僚で長年の友人レン・キャリオーの言葉についホロッときちゃうけどね。

 翌日から案の定やる事がない

 僕は自分の親父を見て、こうはなるまいと思った。なるほど確かに僕は会社人間にはならなかった。だけど、それじゃあリタイア後にバリバリ何かをやれるかって言うと、それはどうだろう。結局ヒマになってテレビでもボケッと見ていない保証はないよね。で、シュミット=ニコルソンは居所なくって、よせばいいのに会社に行くんだけど、行っても相手にされないのは分かり切ってる。そういや、僕も人の事は言えない。辞めた会社に一度つい顔を出して、スッカリ懲りたこともあったっけ。あの時の苦い気持ちは忘れないね。いや、そんな事は何度もあったな。さっきの、会社に行った事に限らない。昔友だちだと思ってた奴の、その後の手の平返したような冷たさは何度も経験したよ。

 で、あんまりヒマなんで、ついついテレビでアフリカの恵まれない子供の里親になる話に飛びつく。このエチオピアのンドゥグって少年に手紙を書くことになるわけ。だけど、書き始めるうちについついグチになる。いやぁ、ここは実に痛かった。そんな事はよしとけよ…ってこっちは思うのに、ついついシュミット=ニコルソンは筆を滑らせてしまう。最初はアフリカの子供に言ってもしょうがない、後任の若造のグチ。そして、一緒にベッタリ時間を過ごすようになって鼻につき始める嫁さんのグチ。見ていてホントにやめりゃいいのに…って痛々しくなるのは、僕もついついそんな事をどこかでやってるからだろう。そうそう、この映画感想文のカタチでずいぶんオレもグチたれた。頭に来るたんびにここに書いちゃったっけ。そういうのの多くはネット上に載せる前に没にしちゃってる。だから没原稿がドンドンたまる一方だ。映画見て楽しい思いをしようって人に、そんな僕の怒りをブチまけられても困るもんねぇ。だけど、そうは思ってもアップするまでに目が覚めないこともある。それはそのままアップされて、全世界に僕の恥をさらしてるわけだ。僕が小物の大したことない男だって証拠をね。

 ところで少年へ手紙を出して帰ってくると、あんなにウザったがってた女房が死んでいる。女房がいなくなってみると、その寂しさが身にしみる。早速少年の手紙には先日のグチの言い訳が並ぶというわけだ。これも僕は何度もやっている。

 手を離れて長く経つ娘ホープ・デイビスが婚約者を連れて帰ってくる。ガックリしたシュミット=ニコルソンとのしばしの心の交流があるんだけど、問題は連れてきた婚約者ダーモット・マルロニー。これがどう見たってアホにしか見えない。だから娘との結婚も認めたくない。

 で、女房が死んで恋しい事は恋しいんだろうけど、棺をケチったりしてセコいとこ見せたり、飯の支度も娘に頼り切ってるあたり、結局はシュミット=ニコルソンは自分勝手な男なんだよね。そこらへんを突かれると、僕もちょっと痛い。女房はもらったことないけど、僕も似たようなところはあるよ。あくまでガキみたいに自分勝手。で、人にどこか頼っている。頼れる者がなくなると不安になる。だらしないと言われれば、返す言葉がない。シュミット=ニコルソンは結局元々気に入らない結婚を延期しないか…などと言わずもがなの事を言って、娘と気まずくなる。それを言っちゃオシマイ。それは映画で見ていれば分かるんだけど、実生活っていうと僕は何でそんなこともちゃんと分からないのだろう? 言わずもがなの事を言っては、言わなきゃ良かったとその都度思うのに。そして言ってイヤな気持ちになるのも自分なのだ。だけど言わずにはいられない。

 で、娘も結局帰っちゃって、一人になったら生活が荒れ放題。僕も元から整理整頓は自信ないところにきて、精神的にガックリ来た時には何もする元気がなくなった。ホントに生活がその都度荒れるわけ。なかなか建設的になるまでには時間がかかるんだよね。それって言うのも自分が弱いからだろう。

 で、やっぱり嫁さん恋しいって事になるが、今度は嫁さんの昔の秘めたラブレターが見つかってしまう。しかも相手は友人のはずのレン・キャリオー。これには可愛さ余って…の悔しさ。アフリカの少年には「悪く言ったのはマズかった」と反省の言葉を書いたのに、それがまたまた一転。このへんのいいかげんさってのも僕には覚えがある。それまでホメてた人をケナしまくったり、ケナした人を悪かったって思ったり、まあ忙しくコロコロ変わる。僕も人を見る目は全然ないんだよ。

 そんなこんなですっかり煮詰まって、シュミット=ニコルソンは一念発起する。それはいいんだけど、一念発起して思い付いたのが、娘の結婚式を手伝うためにキャンピング・カーで押しかけるってのはいただけなかった。電話をしたら迷惑がられて体よく断られてしまう。結局今さら家に戻るわけにもいかず、そのままキャンピング・カーで人生思い出の旅に出ることになるわけだ。

 ところで僕も、人生の中で何度かリセットの時を迎えたことがあったけど、そのたびにやるのが昔の仲間を訪ねたり…って「儀式」なんだよね。結局なんだかんだ言っても依存しているわけ。そんな事しなきゃいいのに…って毎度毎度自分でも思うのに、やっちゃうんだよねぇ。だからシュミット=ニコルソンが同じような事をやってるのに、また痛い気持ちがした。なんてダメなオレ。

 案の定、自分の生家を訪ねてみれば、ただのタイヤ屋になっちゃってたり、大学に訪れてみても相手にされなかったりと散々。僕もかつての知り合いに連絡とったら、剣もホロロだったりするからね。こんな事を言うのも恥ずかしいんだけど、ホントにオレの人生一貫してカッコ悪かったよ。

 それでついついオートキャンプ場で親切な夫婦に迎えられたりすると、それまでがそれまでだからハシャいでしまう。これは気持ちが分かる。で、亭主の方がビールを買いに行って留守した時に、嫁さんから暖かい言葉をかけられたりしたら、ついつい甘えたくなるのも分かる。それが度を超して嫁さんに叩き出されるあたり、僕は笑えなかったねぇ。僕も例えば女と別れた直後に、別の女についつい引っかかっちゃったりしたり、昔の女と焼けぼっくいに火がついたりしたことあるもんね。そんなみっともないマネもした。いや、ホントに恥ずかしい事いっぱいしているよ。他のみなさんと違って、キッパリと格好良く人生歩んで来なかったと思うよ。それもこれも、やっぱりどこか誰かに依存していたんだろうね

 結局、尻に火がつくような思いで旅を切り上げ、シュミット=ニコルソンはまるで天啓を受けたかのように、娘の婚約者の家に乗り込む。それは娘の結婚式を手伝うというタテマエではあるが、ホントはその結婚を未然に阻止したいって気があったから。そんな事を企んでもムダ、そんな事を娘に言って説得しようとしてもムダ。分かっていてもどうすることも出来ない。人はみな冷静に、どうすることも出来ない事を淡々と受け入れているような事を言う。だけど本当はどうだろう? みんなカッコいい事を言うけど、ホントにジタバタしたことはないかい? 僕はあるよ。いつもジタバタしている。どんな事でも、いくつになってもジタバタしている。未練たらしく何とかならないかと思ってもがく。それでホントにイヤ〜な思いもするんだけど、そこまで痛い思いをしなければ目が覚めない。おそらくはそこまでやらずに諦めたら、自分がずっとそれを引きずるって思ってるんだろうね。世間の人々は思い切りがいいんだろうか?

 で、やって来た娘の婚約者の家の人間ってのが、母親のキャシー・ベイツを筆頭にどいつもこいつも変なのばっかし。ますます意を強くするシュミット=ニコルソンなわけだ。これはだけど、自分とは異質な人間たちを見た時の、ちょっと誇張された表現なんだろう。常識というものは、人の数だけ存在する。他者はみんな変なのだ。それを誇張して分かりやすく描いてはいるんだろう。それにしたって、こいつらのオカシさを分からない娘が無念だ。

 だけど娘のためを思って…と、またしてもよせばいいのに忠告するシュミット=ニコルソンにしても、それは娘のためというより自分のエゴでもあるわけ。やっぱりここでも依存している。だからやっぱり娘を怒らせてしまうだけ。それでも言わずにいられない。

 あげく首を痛めたりいろいろあるんだけど、それでも結婚式の日はやって来てしまう。もうどうしようもない。そんなシュミット=ニコルソンが花嫁の父からのスピーチを求められる。ここは見ていた僕も思わず緊張したよ。アレを言っちゃうのか。言っちゃいけないアレを言っちゃうのか。「私は、ここでどうしても言いたいことがある…」

 だけど、結局シュミット=ニコルソンは新郎とその家族をホメちぎって終わった。最後は観念した。もう何をしてもムダだ。

 すべてを失い、喪失感に苛まれて自宅に戻ったシュミット=ニコルソンに、思わぬ便りが届くところで映画は幕となる。ここはうまくやったな…と思って僕もホロリと来たよ。不覚にも。

 だけど…やっぱりこの映画は、本当に何かを失って絶望を心底感じた人のつくったものじゃないと思う。監督・脚本のアレクサンダー・ペインは、やっぱり頭の中でこれをこさえているんじゃないか。悪いけど、そしてよく出来てるけど、あんなものでは決して癒されはしないんじゃないかと思うからね。喪失感は癒されない。それはずっと残って、あとは時間と諦めで薄めていくしかないんだろうと思うよ。そして諦めの悪い気持ちがどこかに宙ぶらりんになって残っているんだろう。いや、キッパリと振り切れる人もいるんだろうね。それはそれであるだろう。でも、僕はたぶんそう格好良くは振る舞えない。情けない話だけど。

 一生僕のような思いをしないで済む、他の人々がうらやましい。僕もそう生きられればと思う。でも、きっとそうできずに死ぬんだろう

 そして過去にわだかまりがある人間が弱り切って頼って来た時には、あるいは甘えて来た時には、どうしたって振り切れない。みんながみんなじゃないよ、振り切って見捨てた奴だっている。そこまで博愛主義の善人じゃない。だけどどうしても振り切れない奴もいるんだ。その心の痛みを考えると無下にうっちゃれなくなる。その痛みを自分も経験しているから、それが分かるから出来ないんだね。それはきっと僕って人間が甘いってことなんだろうけど。

 それに考えてみれば、子供の頃から僕はずっと寂しかった気がする

 どんなに回りに人がいて、どんなに賑わって楽しい笑いに囲まれていても、癒されない乾きのように僕は寂しかったように思う。その思いから、僕は一度も解放されたことはなかったような気がする。

 僕は、たぶん何かに、そして誰かに依存している人間だ。それは情けないと思う。自立しなくては…と思ったりもする。それはそうだろう。だけど、別に開き直って言うわけではないが、僕はあえてみなさんに問いたい。

 あなたは本当に徹底的に自立しているかい?

 本当に心底誰にも依存していないと言い切れる?

 そして、人にまったく依存しないってのは格好良いだろうけど、そういうことって本当に本当に良いことなんだろうか?

 

 

 

 

 

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