「北京ヴァイオリン」

  (Together)

 (2003/06/23)


「復活」の手応えを求めて模索する人々

 人間の絶好調というものは、一体どのくらい続くものなのだろうね?

 僕は昔からそれに関心がある。そして自分がある程度の年齢になって、人生の全体像が少しづつ見えてきた時、それは単に興味じゃ済まなくなってきた。考えてみたことがあるかい? 若いうちはいい。これからピークに向かって上昇する可能性があるから。だけどある程度の年齢になったら、ひょっとしたらもう上がらないかもしれない。下がっていく一方かもしれない。もっとイヤなのは、オレのピークってあんなもんだったの?…と思い知らされることだ。その時、自分の人生全体がすごくつまらないものに感じられるかもしれないからね。

 この人生のピークというものを仕事だけでとらえれば、いろいろなアーティストに例えると分かりやすい。

 例えばビートルズだ。これは一人の人間じゃないから事情は違うだろうが、その辿った軌跡には人生にも似た浮き沈みが見てとれる。1962年にグループがあのカタチになってからずっと上昇あるのみ。作品的にもセールス的にも評価的にも右肩上がり。このグループは、その初期からハッキリ言っていいことしかない状態だった。ところがそれが1966年から1967年にかけて陰りを帯びてくる。コンサート活動の停止、それによってスタジオに籠もってつくられた「サージェント・ペパーズ」のアルバムの大成功…まではまぁいいとして、彼らをここまで率いてきたマネジャーのブライアン・エプスタインの死。テレビ映画「マジカル・ミステリー・ツアー」の製作とその惨敗は、彼らの活動での最初の汚点だ。その後は、アルバムこそ一定水準の内容を保ち続けたものの、グループとしての活動はゴタゴタ続き。最後は泥仕合での解散へ…と追い込まれる。

 手塚治虫を例にとろうか。デビュー以来順風満帆で、虫プロで自主制作した「鉄腕アトム」でテレビ・アニメにまで進出。「ジャングル大帝」「ワンダー・スリー」などなど、自作を次々アニメ化して好調の波に乗ったものの、折から劇画ブームでマンガの流れが変わった。アニメが当たらなくなったところに、元々高くつく制作費のツケが回った。手塚自体も時代遅れのレッテルを貼られた。かくして虫プロは倒産。手塚は雑誌マンガの新連載の声もかからないほどの危機にみまわれたと言う。だが彼の場合は、たまたま「死に水をとってやろう」とした雑誌編集長の温情からスタートした「ブラック・ジャック」が奇跡的大ヒット。かくして見事にマンガ界に復権。後年にはアニメ制作にも再挑戦していた。こういう人もいるんだよね。

 もう一人だけ挙げよう。黒澤明だ。子供時代の云々はこっちへ置いておいて、ともかく助監督時代はその腕を買われた。監督デビュー作「姿三四郎」で大ヒットをとってからは、途中戦争の不幸な時代を挟んではいるが、割と順調な監督人生だった。「白痴」のカット事件などキャリアに暗雲たれ込めそうになったところで、今度は「羅生門」のベネチア・グランプリ。かくしてここから黒澤明の巨匠人生がスタートする。以後、海外をはじめとする高い評価と作品の連続ヒットが彼を支え続ける。名実共に日本を代表する映画監督となり、それを自身も自負していた1960年代半ば、日本映画の斜陽から彼はハリウッドの仕事を引き受けることを決意。ところがこれがうまくいかないだけでなく、「トラ!トラ!トラ!」降板では自身が神経症だと報じられ、信頼していた人間には裏切られて公私ともにどん底となる。小規模映画「どですかでん」で再起を図るも興行的には苦戦。このため、黒澤はついに自殺未遂を図ってしまう。傷が癒えてからの黒澤は、ソ連に招かれての「デルス・ウザーラ」製作など奮闘を続けるが、いかんせん経済的な事情でコンスタントな作品発表ができない。だが、ハリウッドに黒澤の弟子を自認する映画人が活躍し始め、さまざま海外の資本協力を得るに至って事態は好転。作品発表の場は増え、海外からの評価も得た。その頂点はアカデミー賞名誉賞の受賞だろう。こうして晩年の黒澤は非常に恵まれた日々を送っていたと言える。

 実はこの「DAY FOR NIGHT」の映画感想文をずっとご覧になっている方ならお分かりのように、今年の僕の映画感想文には一つのテーマがある。いや、そうしようとしたわけじゃないが、いつの間にかそうなった。

 それは「復活」だ。

 世界的に知られた映画作家、ヒット作を連打した巨匠、人気絶頂だったスター…一時は何をやってもうまくいき、時代の寵児となって怖いモノなしだった人々。だけど、そんな連中にも浮き沈みはやってくる

 ある日突然映画が当たらなくなる。何をやってもうまくいかなくなる。いろいろ手を打ってもダメ。そのうち何をやっていいのか分からなくなる。昔はなぜうまくいっていたのかも忘れてしまう。

 そういう事って僕らの人生にもないかい?

 僕はある。実は何度もある。僕はそんな浮き沈みの中を何とか生き抜いて来た。いや、もっとどん底経験した人はいっぱいいるよ。そういう人から見ればナマぬるいと言われるだろう。それでも何がしかの波があることは間違いない。人生ずっと勝ち続けってことは絶対にあり得ないのだ。

 かのスピルバーグだって「ジョーズ」「未知との遭遇」から「E.T.」までの栄光の日々が一転。つい先日「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」を発表するまでは低迷の中にいたんだからね。世間じゃずっと彼がヒットメイカーとして絶頂だったと思っているかもしれないが、長年のシンパだった僕には分かる。彼は不調の中にいた。そこから這い上がるのは、きっと並大抵のことじゃなかったと思うよ。

 スピルバーグ、チャン・イーモウ、アキ・カウリスマキ、ローレンス・カスダン、ホウ・シャオシェン、エディ・マーフィー、ペ・チャンホ、ウィリアム・フリードキン、ケビン・コスナー、ヴェルナー・ヘルツォーク…彼らはそれぞれのピーク=全盛期を持っており、その時には我が世の春を謳歌していた。だが、それはいつまでも続かなかった。ある者は派手に転落して醜態をさらし、ある者は衰えを隠して高い評価を保ちつつも実は往年の力を失っている、またある者は作品発表の場すら減らした…。

 そんな人々の復活への苦闘が、なぜか今年は目につく。

 その中で、劇的な完全復活を遂げた者もいる、結果は出なかったが復活への手応えだけは手に入れた者もいる、いまだに暗中模索の者もいる…。だが、いずれも「自分の一番いい状態」を取り戻そうと必死なのは同じだ。なぜ、こういう人々のもがきが目につくのだろう? それはたぶん、僕自身がそんな暗中模索の真っ只中にいるからだ。だからこそ、こうした低迷する人々のことが分かる。そのつらさ、焦り、そして何より彼らが低迷の最中にいるということが分かる。そんな彼らを見ながら、僕も自分の糧としたいに違いない。共に立ち直りたいと思っているのだ。その手がかりが欲しいということもあるし、単純にそんな復活劇を喜びたいとも思っている。まぁ、彼らは僕のことなんか知っちゃいないけどね(笑)。

 そんな僕が気にしている映画人がもう一人…。

 一時は中国映画のトップランナーとして君臨していた男…チェン・カイコーだ。

 

志を胸に花の北京へ来たものの

 ここは中国の田舎町。13歳のタン・ユン少年が床屋で髪を刈ってもらうのもそこそこに、バイオリン・ケースを持って足早に走っていく。行き着いた先は何やら多くの人が出たり入ったりで大わらわのお屋敷。

 「遅いぞ!」と声をかけるのは、料理人でタン・ユン少年の父親リウ・ペイチー。彼はこのお屋敷のお祝い事のため、ご馳走をこさえている真っ最中なのだ。そしてやって来たタン・ユン少年を、お屋敷のご主人が出迎える。「よく来たな。なかなか生まれないんだ。ひとつ威勢のいいのをやってくれ」

 そう言うとお屋敷の主人は、妻が陣痛に苦しんでいる奥の部屋にタン・ユン少年を連れて行く。タン・ユン少年はおもむろにケースからバイオリンを取り出した

 確かに凄い。早弾きと言えば鮮やかな早弾き。このバイオリンの音色に触発されたか、やがて部屋に元気な赤ちゃんの泣き声が響いたのは言うまでもない。

 さぁ宴会だ! 家の主人はバイオリンの礼にリウ・ペイチーに金を渡そうとするが、この男何だかんだと恐縮したあげく受け取ろうとしない。その点、タン・ユン少年は現代っ子らしく、サッとお礼の金をもらって感謝の言葉を返すソツのなさ。この父子どこからどこまでも対象的な二人ではある。

 そんな父子に一通の手紙が届いた。

 何と北京で行われるバイオリン・コンクールに、タン・ユン少年の出場が決定したのだ。

 これには父親リウ・ペイチーも大喜び。この日のために必死で貯めたお金をイケてない毛糸の帽子の中に収めて、花の北京へと出発だ。父子はまるでブラザー状態で、「イエ〜イ!」と奇声を挙げてお互いの手をバチンとぶつけ合う。さてはあのイケてない帽子もラッパーのノリなのか?

 そしてやってきた北京駅。駅舎の外に出てきた父子。便意を催した父親リウ・ペイチーは、タン・ユン少年に「その場を動くな」と言い残して便所へ。一人待っているタン・ユン少年だったが、たまたま通りかかったあるカップルに目が留まる。どちらも派手めの服装に身を包んだ二人だが、サングラスをかけた女の顔が、タン・ユン少年の気を惹いた。この二人が人目をはばからずイチャついているのを、じっと見つめるタン・ユン少年。そもそもこの少年、今が女や色恋沙汰に一番関心のある時期。楽譜にもペタペタとグラビア・アイドルの「海ガメの産卵ポーズ」みたいな際どい写真を貼っつけてるくらいだ。目を背けようったって出来ない。

 そんなタン・ユン少年に気づいたこのカップル。男の方は少年を煙たがったが、女の方は少年を手招きし、「手伝って」とばかり持っていたスーツケースを持たせる。こうしてタン・ユン少年は、「じっとしてろ」と父親に言われたにも関わらず、またまた駅構内に入って行った。

 このカップルはどうも訳ありらしく、女が札束を渡してやると、男は「借用書を書く」などと言っている。やがて別れの愁嘆場。去っていく男を見送った女は、タン・ユン少年にスーツケースを運んでくれたお礼のお金を渡すと、涙をこらえながらその場を足早に立ち去った。そんな彼女を見て、タン・ユン少年も戸惑わざるを得ない。

 だがその頃、北京駅の外では、父親リウ・ペイチーが警官を連れて大騒ぎ。待っていろと言っておいたタン・ユン少年がいなくなったので、さらわれたのではないかと恐れているのだ。だがそれにしても、この尋常ではない慌てよう…。

 さて、そんなこんなで無事にコンクールの日を迎えた父子。ここは会場となる音楽学校だ。舞台に上がり、堂々の演奏を繰り広げるタン・ユン少年。身じろぎもせず聞き惚れる聴衆たち。だがそんな聴衆たちを横目に、客席の隅に置いた折り畳みイスに座り、のけぞって居眠りこいてる男がいた。髪はボサボサ、服装もぞんざいなその男…実はこの音楽学校の講師の一人でもある変わり者のワン・チーウェン先生だ。だがこのワン・チーウェン先生、居眠りこいてるのかと思いきや、タン・ユン少年のバイオリンを聞いているうちに突然電気ショックでも受けたかのようにガバッと飛び起きた

 さてコンクールの結果はめでたく5位入賞。気を良くした父親リウ・ペイチーは、審査員の連中にお礼を言いがてら、息子タン・ユン少年をこの学校に入れてくれないかと頼み込む。だが、北京の住民票がないから…と審査員たちの返事はつれない。

 そんな音楽学校のトイレに入ったリウ・ペイチー。たまたまそこに審査員の連中とあの変わり者ワン・チーウェン先生が入ってきたので、思わず聞き耳を立てた。だがワン・チーウェン先生に言わせると、今回のコンクールは語る価値もないとケチョンケチョン。そもそも優勝者はコンクールの後援者の子供。金の力にモノを言わせての結果だ。見るべきものを持っていたのは5位の子だけ。

 「あの子を入選させただけ、まだ良心は残っていたか

 これを聞いたリウ・ペイチーはいても立ってもいられない。便所を出ていったワン・チーウェン先生を追って、彼の家まで押し掛ける。「5位のタン・ユンの父親です」

 そんなリウ・ペイチーが差し出した手を、ワン・チーウェン先生はまるっきり無視。ついでに冷たく一言言い放った。「それがそんなに自慢かい?」

 かくして軽く一蹴されたリウ・ペイチーだが、むろんそんな事で引き下がる彼ではない。タン・ユン少年を連れて改めてワン・チーウェン先生の家を訪れるリウ・ペイチー。「息子をお願いします!」

 だが彼の態度は変わらず、北京観光でもして帰れと相変わらずの冷たさだ。そしてこうも付け加えた。「本当はこの子が優勝すべきだ。だが、うまいだけではダメなんだよ。それが現実ってものなんだ

 そう言うとドアを固く閉ざしてしまうワン・チーウェン先生。それでもリウ・ペイチーは引き下がるわけにいかない。

 「死んだ母親が遺したバイオリンで、母親恋しさに練習してきたんです。そこを何とか…」

 だが、ドアは閉まったまま。これにはタン・ユン少年もたまりかねて、その場から走り出してしまう…。

 そんなワン・チーウェン先生も、何事も金のためとは言え、意に添わぬ音楽教師の仕事をあの音楽学校で続けていた。今日の生徒はやる気も才能のかけらもないガキで、自分の鳴らしているバイオリンが調子っぱずれな事すら気づいてない。おまけに付き添いで来ている母親と来たら、成金根性丸出しでレッスン中にも関わらず携帯電話で金の話をがなりまくる始末。これにはワン・チーウェン先生もキレた。「出ていけ!」

 そんなウンザリしている最中に、またしてもあのリウ・ペイチーが懲りずにやって来た。頑なだったワン・チーウェンの心が少しづつ開く…。

 タン・ユン少年を前にワン・チーウェン先生は告げた。いいか、まずは一生懸命に弾け。そして弾くなら楽しく弾け。イヤイヤで弾くな。母恋しさなんてのも願い下げだ!

 さて、父子は北京で腰を据えるため、何とかアパートを見つけた。早速アパートの裏庭でバイオリンを練習するタン・ユン少年だが、そんな彼に誰かが声をかけてくる。

 見上げると、別の高いアパートの窓から一人の女が声をかけているのだ。しかもその女…チェン・ホンは、あの北京駅でタン・ユン少年が出会ったサングラスの女だった。「ちょっとちょっと、上がって来てちょうだい」

 この女チェン・ホン、退屈しのぎにタン・ユン少年にバイオリンで一曲弾いてくれと頼む。実は駅で見かけた時から彼女に惹かれていたタン・ユン少年にも異存はない。彼女のリクエストのテレサ・テンの曲を奏で始める。

 そんな最中にもチェン・ホンはあちこちダチに携帯で電話だ。実は彼女、つい今しがたまで例の相手の男とイチャついていたところ。その男の金回りが悪くなってきたことから、このアパートに引っ越してきたらしい。どう見てもあの男はロクでもない野郎だが、チェン・ホンはすっかりホの字。あげく奴に貢ぐために、金づるになりそうな男の物色をする始末だ。今もダチから自分に気がありそうな金持ち男の事を聞くと、早速電話番号を聞き出して連絡をとるテイタラク。結局タン・ユン少年は彼女と満足に口をきくこともなく、小遣い銭をもらって追い返されてしまった。それでも最後には「あの晩、駅にいた子ね?」と思い出してもらっただけで、十分幸せ気分のタン・ユン少年ではあった。

 そんなタン・ユン少年に、ワン・チーウェン先生のレッスンが始まった。

 だがワン・チーウェン先生は、タン・ユン少年がバイオリンを弾いている最中も隣のオバサンと大喧嘩。あげく猫のエサをつくるわ、なくなった片方の靴下を探し始めるわ、とてもレッスンどころではない。そもそもワン・チーウェン先生の部屋は汚すぎるのだ。だがそんな汚い部屋の床の上に、一枚の写真が落ちているのをタン・ユン少年は見逃さなかった。それは若く美しい女の写真だ。

 そんなこんなで、ようやくレッスンを始めようと言い出したワン・チーウェン先生に、今度はタン・ユン少年がキレた。

 「父はお金を払っているんだ!」

 こう吐き捨てるように言い放つと、タン・ユン少年はその部屋から飛び出して行った。

 だがその頃、父親リウ・ペイチーの方ではとんでもない事が起きていた。あの全財産を入れた帽子を盗まれてしまったのだ。うなだれるリウ・ペイチー。だがタン・ユン少年には、あの女チェン・ホンからバイオリンで稼いだお金があった。「あんなダサい帽子、なくなってかえって良かったよ」

 

父子を取り巻く人々との心の触れ合い

 さて、気持ちを入れ替えてのワン・チーウェン先生の家でのレッスン。タン・ユン少年は、なぜか写真立てを持ってきて、ピアノの上に置いた。まるで、例の女の写真をそこに入れろとでも言うように…。

 この日は譜面拭き…譜面のホコリを払いつつ、その楽譜を指で追って読んでいく。その譜面は、例の写真の女が書いたものだった。彼女はワン・チーウェン先生の音楽学校の同級生。先生は彼女のことが好きだったが、卒業が迫ったある日、彼女から妙な事を言われた。彼女に言い寄っている男がいる…と。だが、先生は彼女に「いいことじゃないか」と答えただけだった…。

 本当は彼女も先生が好きだったのだ。だが、それが分からなかった。結局、彼女はその男と結婚して…その後、離婚したと聞くが会ってはいない。

 「フン、子供相手にしょうもない事を…」

 いつの間にか、ワン・チーウェン先生はタン・ユン少年に心を開いていたのだ。そんな先生の言うことを、タン・ユン少年も素直に受け止めるようになった。ひたすら譜面を読むタン・ユン少年に、ワン・チーウェン先生のまるでブルース・リーの教えみたいな言葉が飛んだ。「弾くんじゃない! 音楽を感じろ!」

 その夜、一目散に例の女チェン・ホンのアパートに駆けつけるタン・ユン少年。実は今夜、タン・ユン少年はチェン・ホンから頼み事をされていた。この日は彼女の例の彼氏の誕生日。彼女のアパートでささやかなバースデー・パーティーを開くことになっていた。だから、その余興としてバイオリンを弾いてくれ…と。

 彼氏をわが家に迎えるとあって、チェン・ホンはハシャいでいた。そんな彼女の着る物を見立てたり、足の指のマニュキアをドライヤーで乾かしたりして、時間はたちまち過ぎ去った…。

 だが、夜遅くなっても男はやって来なかった。さすがに沈んだ表情のチェン・ホン。そんな彼女を見るに見かねて、タン・ユン少年は心を込めてバイオリンを弾き始めるのだった…。

 だが、その夜遅く帰って来たタン・ユン少年に、父親リウ・ペイチーはすっかり心配になった。早速翌朝、例のチェン・ホンのアパートにやって来る。それでもチェン・ホンに拳銃型のライターで脅されれば、マジでビビってしまう他愛なさだ。

 一方、ワン・チーウェン先生の家でのレッスンはと言うと、タン・ユン少年が勝手に部屋を掃除してしまったので、先生はすっかりおかんむり。だが、これにはタン・ユン少年も納得が出来ない。「こんな豚小屋でバイオリンを弾きたくない。どうして先生は自分の非を認めないの? だから彼女にも逃げられたんだ!

 これは言ってはいけない一言だった。怒り心頭に発した先生は、「出ていけ!」と絞り出すように怒鳴るしかなかった。渡りに船。先生の家を飛び出したタン・ユン少年は、あのチェン・ホンと一緒にデパートに買い物に出掛けた。

 ところがこのデパートで、二人はあのチェン・ホンの彼氏が別の女を連れ歩いているところに出くわす。これにはショックを受けたチェン・ホン。タン・ユン少年と共に彼氏の前で一芝居打って溜飲を下げては見たものの、ショックは隠しようもない。気晴らしに高そうな白いコートを試着してみるが、とても手の出せる値段ではない。そんなチェン・ホンを、タン・ユン少年は何とか励ましたいと思ったのだが…。

 そんなある日、今は出前屋で働く父親リウ・ペイチーが、同僚たちと食い物を運んだ先は巨大なコンサート・ホール。そこでは世界的に大成功した若いバイオリニストが、凱旋コンサートを開いていた。拍手喝采。そしてこのバイオリニストは、世話になった恩師としていかにも大物然としたチェン・カイコー先生を壇上に上げる。

 だが舞台がはねた後のトイレに忍び込んだリウ・ペイチーは、思わぬ光景を見てしまう。いまや飛ぶ鳥落とす勢いの例のバイオリニストが、大物らしきチェン・カイコー先生に思い切り罵倒されているのだ。こんな金儲けの仕事ばかりしてどうする! お客はオマエが有名だから来るんであって、オマエの音楽なんて聞いてない! 今からそんな調子でどうするんだ…! これにはリウ・ペイチーもビックリ。それと同時に、ある思いつきがピンと頭に浮かんだ

 ある日、リウ・ペイチーはあのワン・チーウェン先生の家にやって来ると、腕によりをかけた料理を並べて大盤振る舞い。一体どうした風の吹き回しだと驚きながらもゴキゲンなワン・チーウェン先生。次にリウ・ペイチーの口から出る言葉を予想もしなかった。「先生のレッスンをやめさせてください」

 何とリウ・ペイチーは、息子タン・ユン少年の教師をあの大物チェン・カイコー先生に切り替えようと考えていたのだ。そのためのこの心づくしの料理。あんまりにもあんまりな発言に、ワン・チーウェン先生は「帰ってくれ」と言うのが精一杯。

 その足で今度はチェン・カイコー先生の豪華マンションをアポなしで訪れるリウ・ペイチー。もちろんチェン・カイコー先生は驚いたが、リウ・ペイチーはそんな事構っちゃいない。ズカズカ上がり込んで、ご相談があるの一点張りだ。

 そうとは知らぬタン・ユン少年、今日もワン・チーウェン先生の家にレッスンにやって来ると、何と部屋がすっかりキレイに片づいているではないか。おまけにワン・チーウェン先生自身も風呂上がりみたいに小ざっぱりしてる始末。これにはタン・ユン少年も驚いた。何だか先生の様子もいつもと違う。ともかくタン・ユン少年が一心に集中してバイオリンを弾くと、ワン・チーウェン先生は一言つぶやいた。

 「素晴らしい。これでレッスンはお終いだ

 最初に冷たくしたのは、バイオリンの腕だけでは認められるとは限らないからだ。世の中は不公平だ。お父さんは正しい。オレは君に成功を約束出来ない。チェン・カイコー先生についてしっかりな。

 突然のワン・チーウェン先生の言葉に、タン・ユン少年は思わず涙ぐんだ。

 その足でタン・ユン少年が現れたのは、何とあの女チェン・ホンの留守宅。ところが合い鍵であの例の「彼氏」が来ていた。タン・ユンはそこにリボンのかかった大きな箱を置いて出ていった。

 そんなタン・ユン少年がいなくなった後、入れ替わりに帰って来たのがチェン・ホン本人。当然彼女は先日のイキサツから機嫌が悪い。だがこの彼氏、腹黒さは人一倍。タン・ユン少年がいないのをいいことに、置いていった例のプレゼントを自分が買ったと偽ったのだ。まんまとダマされてしまうチェン・ホン。プレゼントの中身が欲しかった白いコートだけに、無邪気にハシャいで喜んだ。

 さて、タン・ユン少年は、イヤイヤながら父親リウ・ペイチーに引っ張られて、あのチェン・カイコー先生のマンションへとやって来る。ところが、さぁ弾いてみろとなってバイオリン・ケースを開いてみるとカラッポ。何とタン・ユン少年、バイオリンを売っぱらってしまったと言い放った。ならば代わりのバイオリンを…と差し出すと、「弾きたくない」とあくまで突っ張るタン・ユン少年。これにはさすがに父親リウ・ペイチーも激怒したが、こうなるまでにはタン・ユン少年にも退くに退けない言い分がある。

 タン・ユン少年がバイオリンを売った店に出向くと、もう品物は法外な値段がついている。とてもリウ・ペイチーには手が出ない。かくして煮詰まったリウ・ペイチーは、例のチェン・ホンを連れてくる。ここでやっとあのプレゼントはタン・ユン少年からのものだと気づいて、彼女も臍をかんだ。だが、例のコートもあの男のために金に換えた後。腹が立つやら悔しいやら情けないやら…そんな気持ちがグチャグチャながら、ここはとにかく金をつくらねばならない。あちこち今までいい顔をしていた男たちに電話をかけまくるが、人間弱り目に祟り目。どいつもこいつもここぞとばかりに冷たい仕打ち。そのうち半分は拝金主義で男に貢がせてた自分の身から出たサビとはいえ、さすがにチェン・ホンもこのアリサマには情けなさに涙が出そうだ。

 かくなる上は体当たり。チェン・ホンはチェン・カイコー先生が講師を務める大学まで出向いて、学生と偽って講義に参加。これはやっぱり場違いで大ヒンシュクを買ったものの、何とかチェン・カイコー先生に近づいて必死の直訴だ。

 「私のためにあの子がこんな事に! あの子だけが私の事を考えてくれたんです!

 かくしてリウ・ペイチーの小汚いアパートに、大物チェン・カイコー先生がわざわざやって来た。チェン・ホンは先ほどの必死な様子を毛ほども見せずに、あえてタン・ユン少年に素っ気なく言った。「弾きなさい、私の汚名を晴らしてもらうわ!」

 こうしてタン・ユン少年はバイオリンを弾き始める。その音色を聞いて、いいかげん迷惑そうだったチェン・カイコー先生の目が変わった。「いい度胸してるじゃないか。自分があるのはいい

 かくしてタン・ユン少年は、チェン・カイコー先生のお弟子になった。そしてもう一人いる女の子のお弟子チャン・チンと共に、間近に迫る国際コンクールへの選抜大会への出場をめざすことになった。これにはもう一人のお弟子の女の子チャン・チンは面白くない。「私に決まったんじゃないの?」

 さらにこの選抜までは、タン・ユン少年はチェン・カイコー先生の家に寝泊まりすることになった。それを聞いた父親リウ・ペイチーはどこか寂しそう。おまけにチェン・カイコー先生に、着るモノでも買え…とお金までもらって立場がない。リウ・ペイチーはもらったお金をその場に置いて、静かにチェン・カイコー先生の家を後にした。

 だが、同じチェン・カイコー先生の家で同居するお弟子のチャン・チンは、ライバル意識ムキ出しで嫌がらせのし放題。おまけに父リウ・ペイチーはお金を稼ぐために田舎へ帰ると言う。これにはだんだんタン・ユン少年も気が重くなってきた。

 そんな彼の心理は、バイオリンの音色を通じてチェン・カイコー先生にも伝わって来た。どうした、なぜ身が入らない? そんなチェン・カイコー先生に、タン・ユン少年はもうコンクールに出たくない…と言い出した。父と一緒に田舎に帰りたい…。

 「お父さんは反対するよ。お父さんの夢は君の成功なんだから」…かくしてチェン・カイコー先生は、一計を案じてタン・ユン少年にある事実を告げた。それはタン・ユン少年が予想もしていなかった話だった…。

 

チェン・カイコーの崩れ去ったプライド

 現代中国の二大映画作家と言えば、誰が何と言ってもこのチェン・カイコーとチャン・イーモウの二人だろう。それまで国際的には知られざる国だった中国を、一気に世界の檜舞台へと押し上げたのがこの二人。そしてチェン・カイコーの最初の作品「黄色い大地」ではチャン・イーモウが撮影を担当していた…というように、この二人浅からぬ縁で結ばれてもいる

 ところがここ数年、この両者には大きな差が生まれていた。まずは「さらばわが愛/覇王別姫」あたりから本格化していたチェン・カイコー作品の娯楽大作化が、その頂点を極めたかのごとき「始皇帝暗殺」で一気に破綻をきたした。その後しばらくの沈黙を強いられた彼は何とロンドンへ出向き、今度はアメリカ資本をバックに完全な非中国映画「キリング・ミー・ソフトリー」を発表する。この間、作品制作ペースからその評価、そして興業に至るまでずっと安定していたチャン・イーモウと比べて、ここ数年のチェン・カイコーの動向はまさに山あり谷ありの状態だったのだ。

 それがまた忽然と現代中国に戻り、このような比較的小規模な人情話を映画化するとは…正直言って僕は驚いたよね。そして、この心境の変化はいかなるものから来たのかと考えてもみた。

 ところで今回のこの映画、ストーリーを綴るのが久々にツラかった。というのも、おそらくはお話が非常に月並みなエピソードの連続だからだろう。月並みと言っても別にケナしているわけではない。すべてはドラマを実に巧みに進める工夫があちこちになされている。だが、話だけをとってみたら定石の連続だ。例を挙げてみれば、彼氏に誕生パーティーをすっぽかされるチェン・ホンのエピソードなど、有名なチャップリンの「黄金狂時代」での同様なシーンを彷彿とさせる泣かせどころ。思わず観客はチャップリン=チェン・ホンに同情と共感を寄せずにはいられない。また、ワン・チーウェン先生が最後のレッスンの時、小汚いアパートをキレイにしているあたりのお約束ぶりはどうだ。さらには終盤の北京駅での盛り上げどころの涙を搾り取るようなコッテコテなヤマ場はどうだ。あの主人公の少年の過去の秘密と、故郷に帰ろうとする父を駅に追っていく少年、さらには彼が抜けてライバルの女の子が演奏するコンクールの三者が交錯するかなりの泣かせどころ。しかもこの終盤ではコンクールの演奏と北京駅での少年の演奏がシンクロするというあざといばかりのコテコテぶり。それをメチャクチャ強引に盛り上げていくので、思わずチェン・カイコーのうまさに力ずくでノセられてしまうけど、本当のところはかなりクサい設定ではある。大衆演劇的とでも言おうか、つまりは泥臭い

 まぁ、ストーリーにはどれもこれも観客をホロリとさせる挿話ばかりが散りばめられている印象で、典型中の典型。どこにもあの「黄色い大地」あたりで鋭さを見せたチェン・カイコーの姿は見えない。さすがに典型で固めたお話を巧みに操る脚本のうまさや力業でそれを引っ張る演出は、余人にマネの出来ないものになっている。だが、あのチェン・カイコーにしてこの小ぢんまりして典型で固めた作品…というのは、少々意表を突くものがあるよね。いくら「さらばわが愛/覇王別姫」以降は娯楽映画志向だと言ってみても、まだどこか“アートな香り”(笑)が漂ってはいた。それがここではコテコテの泥臭さ。しかもスケール拡大の一途を辿っていたチェン・カイコー作品だったのに、ここへ来てのこの小品ぶり。

 それと言うのも、やっぱりあの「始皇帝暗殺」が祟っているのかなぁ…。

 その話をするには、少々時計の針を逆回転させねばなるまい。それはチェン・カイコーがチャン・イーモウと激しいデッドヒートを繰り広げだした頃にさかのぼる。デッドヒートと言っても両者が対立していたと言うわけではない。だが、やはりこの二人が傑出して中国映画をリードしていた印象がある以上、それぞれがお互いを大いに意識はしていたはずだ。そんな中、チェン・カイコーはいち早くステップアップを図ろうとした。

 中国映画として国際映画祭の常連になりつつあった彼ら二人だが、やはりどうしてもアートシアター系の限られた狭い観客しか獲得出来ないジレンマは付いて回った。おそらくは、そんな現状を打破してもっと自作の世界を広げたいという意図があったのだろう。チェン・カイコーは一足先に行動を起こした。香港資本と組んで「さらばわが愛/覇王別姫」という娯楽大作路線を歩み始めたのだ。チャン・イーモウ作品で有名になったコン・リー、ピッカピカの香港ビッグスターのレスリー・チャンというなりふり構わぬ印象のキャスティングに、そんなチェン・カイコーの意欲が伺われる。これでカンヌのパルム・ドールを受賞し、商業的にも大成功。その姉妹編とも言える「花の影」も後に続く。だが、この路線も早々にこのあたりで行き詰まってしまった。

 さてどうするか? 娯楽大作としてこの新路線はある程度受けた。だが、ハリウッドも驚嘆するほどの大成功にはなっていない。そんな事を成し遂げた中国映画の作家はいない。ならば中国映画として世界中の映画マーケットや映画ファンが注目せざるを得ない、スーパースケールの映画をつくってやろうじゃないか。そうすれば、外国映画やらアートシアターやら、そんなチンケなワクなんてブチ破れるに決まってる。そして、それがやれるのはオレしかいない。チェン・カイコーが「始皇帝暗殺」に突っ込んでいった舞台裏には、そんな意図が見え隠れする。そして、彼がそんな性急なスケールアップに血道を上げざるを得なかった理由には、おそらくはライバルのチャン・イーモウの存在があったはずだ。

 かつては自分のデビュー作「黄色い大地」でカメラを回していたチャン・イーモウ。「黄色い大地」はロカルノ国際映画祭でグランプリを獲り、中国映画の国際評価の先駆けとなった。当然、チェン・カイコー自身も自らをパイオニアと自負していただろう。ところが後発で監督になったチャン・イーモウがデビュー作「紅いコーリャン」でいきなりベネチア映画祭グランプリを獲得。アジア人の監督では「羅生門」の黒澤明以来の快挙…という報に、チェン・カイコーは内心穏やかではなかったはずだ。

 このクラスの連中がそんな俗っぽい事を考えるかって? 考えるとも。彼らだって人間だ。僕らと同じ、競争心だって劣等感だって持っているはずだ。ならば人情として、後進…しかもそれはついこの前まで同僚だった男…に追いつき追い越される気持ちは想像がつくよね。結局、その後「大閲兵」「子供たちの王様」「人生は琴の弦のように」…と連打してそれなりに評価されるが、大ホームランはなかった。しかもアートシアター向け映画として考えても「人生は琴の弦のように」は行き着くところまで行き着いてしまった観があった。ピッタリ後ろにはチャン・イーモウがくっついてる。この規模の映画では、やるべき事はひとまずやり尽くした感じがする。いいかげんここらで作風も転換を図る必要がある。ならば、一発大逆転狙ってやるしかない…チェン・カイコーが「さらばわが愛/覇王別姫」に向かって行った裏事情ってのは、そんなところだったんじゃないか?

 それが早くもまた煮詰まってしまったとなれば、とりあえず拡大の一途しか彼には見えなかった。退くことはあり得ない。前進あるのみだ。なぜなら、オレはパイオニアなのだから

 ただねぇ、結局それってのは「さらばわが愛/覇王別姫」からの路線を、さらにバカでかくしただけなんだよね。ヒロインは、またコン・リーだし。デカさのレベルが上がっただけ。何ら変質は遂げてないわけ。そして、それは残念ながら、チェン・カイコーという映画作家のコントロールを超えたところまでいってしまった。

 パイオニア=チェン・カイコーにとって、「始皇帝暗殺」の作品的・興行的失敗のもたらした痛手は、相当なものだったろうと思うよ。中国映画界の期待を一身に集めての大プロジェクトだったのだ。これは彼のプライドをいたく傷つけたはずだ。もうみんなに顔向け出来ない。片やチャン・イーモウは何とか手堅くやっているのに…。とてもじゃないがカッコ悪くて中国にはいられない。おそらくその後のチェン・カイコーが欧米を目指した理由は、そこにあったはずだ。

 あと理由があるとしたら、彼は自分の再起の道を考えていたのだろう。ここ中国で再起作を模索したところで、どうしたって「始皇帝暗殺」の失敗の影がそこに差してしまうだろう。もうデカい映画はしばらく撮れないし、ここまで拡大路線を来た以上チマっとした映画は撮れない。それは作品にとってプラスにならないし、自分も本調子を出せないだろう。

 何より自分のパイオニアとしてのプライドが許さない。それじゃチャン・イーモウに比べて、あまりに自分がミジメじゃないか

 だから彼はあえてすべてが白紙になる欧米映画を選んだ。向こうに行けばオレのキャリアはゼロ。その代わり、「始皇帝暗殺」の大失敗もゼロだ。彼は海外での映画づくりの不自由さよりも、むしろその白紙のキャリアを選んだ。それを考えてみても、彼にとって「始皇帝暗殺」の失敗がいかに痛手だったか分かるだろう。

 そして、欧米映画を監督するためには手段を選ばなかった。サスペンス映画でも何でもいい。いや、むしろエンターテインメント映画の方がいい。オレにも商業映画が撮れるのだと映画会社やプロデューサーたちに証明したい。ゼニをとれる監督だとハリウッドに認めさせたい。アメリカ資本のイギリス映画…そんな欧米エンターテインメント映画を撮れる中国の監督は、このオレしかいないだろう。黒澤明だってダメだったんだ。これを成功させれば、それが例えどんな映画であろうとも、オレは自らのプライドを立て直せるはずだ。…そんな彼の脳裏には、ハリウッドでのジョン・ウーやアン・リーの大成功も浮かんでいたに違いない。香港や台湾の奴に出来てオレに出来ないはずがない。中国の代表選手はこのオレだぜ!

 こうして発表された「キリング・ミー・ソフトリー」は、だからチェン・カイコーがこの時点で撮る必然性があった。僕も最初に見た時、何でこんなありきたりのサスペンス映画を撮ったのか…と首をかしげたが、ずっとチェン・カイコーの軌跡を考えてみると、それは当然の帰結だったのだ。虚勢と言うのはたやすい。でも人にはどうしても譲れぬ一線がある。この決着をつけねば、どうしても先には進めないという勝負どころがあるのだ。これからどう進むにしたって、彼にはここで崩れ去ったプライドを立て直す必要があった。この映画の製作を成功させることが、すなわち彼のパイオニアの証明となるのだから。

 そして、自らのプライドを再建し何とか深い心のキズを癒したチェン・カイコーは、やっと母国に帰って来た。

 

今、“だからこそ”のコテコテの泥臭さ

 先に、チェン・カイコーがなぜこのような比較的小規模な人情話を映画化したのか…って書いたよね。確かに、彼の今までの作品系譜を見てみると、ちょっと意外ではある。だけど、今まで語って来た彼の近年の歩みを考えると、この作品の成立過程はかなり見えてくるんだよね。

 まずは母国中国という舞台、それも現代劇、そして小ぢんまりとした規模、そしてそして典型の連続とも言える人情劇というカタチを、なぜあえてとったのか?

 考えてみると、まずはチェン・カイコーが思わぬ遠回りをしなくてはならなかった原因となった「始皇帝暗殺」以降、彼は安心して演出に打ち込める映画をつくれてなかったんじゃないか?

 「始皇帝暗殺」は紀元前の物語。当然、当時の生活再現には限界がある。ディティールを描きようがない。そこで自ずから演出のうまみみたいなものが失せていく。しかも大スケールすぎて、それを持ちこたえるので精一杯だ。人間を描くところまでいかない。

 続く「キリング・ミー・ソフトリー」は、生活習慣から何から違うロンドンの欧米人の話だ。これまたディティールを膨らますのに限界がある。おまけに物語がミステリー仕立てでそっちを展開するのに主力をそがれる。プロデューサーや映画会社への気兼ねもあるだろう。そもそも典型的ハリウッド話法のセオリーに則る以上、チェン・カイコーの独自性は出せない。

 こうして卓抜した演出力を持ち、そのことを自負していたはずのチェン・カイコーが、その持てる演出力のすべてを披露できない作品が続いた。これは本人は悔しかったと思うよ。演出にさえ専念させてもらえれば、好きにやらせてもらえれば、どこの誰よりもうまく撮れるオレなのに…。

 ならば、今度こそ…オレの演出のうまさを十二分に発揮出来る映画をつくろう…と思うはずではないか。

 そうくれば、やることは決まってくる。まずはよく知っている自分の国・中国で撮るべきだ。時代は余計な時代考証などですり減らされない現代に限る。そしてやれ巨大なセットだ何万ものエキストラだ、莫大な制作費だクレーンだマルチ・カメラだ…などと、余計な要素が出てくる大作ではなくて、自分が手を伸ばせば何でも手が届くような範囲の、臨機応変がきく小ぢんまりした映画がいいに決まってる。そして演出のうまさを十二分に発揮して見る人に堪能してもらうには、物語やら構成やら展開が凝ったものでない方がいい。ストレートで典型…それこそが演出のうまさを際だたせる。ハズした脚本でなければ、ありきたりの設定や展開からいくらでも面白く見せられるこのオレだ。そして観客に映画の面白さ素晴らしさを実感させるのは、何を置いてもやっぱり“感動”だろう。ならば人間の人情の美しさを描くに限るではないか。

 パイオニアのチェン・カイコーが今度は守りに入ったのか?

 いいや、オレはロンドンで欧米エンターテインメント映画も撮れることを実証済みだ。もうパイオニアであることは証明出来た。誰にも文句は言わせない。だから、これからは好きに撮るんだよ。一番得意な方法で、自分の最良のものを引き出して撮る。…きっとチェン・カイコーは一旦は崩れたプライドを立て直せた段階で、次の段階へと入っていけたのだ。そこでは、彼はもう虚勢を張る必要がない。何かに追われるように憑かれるように急かされるように撮る必要がない。そうして映画づくりを楽しみながら撮ったのが、たぶんこの「北京ヴァイオリン」という映画なのだ。考えてもみてくれ。そんなに数多くない今回の主要キャストの中に、チェン・カイコー自身と妻のチェン・ホンが名を連ねているではないか。これってまるで自主制作映画、プライベート・フィルムの趣ではないか。少なくとも「始皇帝暗殺」などの有り様と極北の位置にあることは間違いない。

 だが、ここでチェン・カイコーが自ら重要な役どころを演じているのには、もう一つの大きな意味が隠されているように思うのだ。

 主人公のバイオリン少年を中心にして、ここには二人の先生が登場する。最初のワン・チーウェン先生は自らの世をすねたようなペシミズムが災いしているとは言え、成功とは無縁の孤高の道を歩んでいる。それゆえの限界も常にはらんではいるが、彼の中には芸術において「成功」必ずしもすべてではないとの信念が見え隠れしている。

 だがもう一方の対極に存在するチェン・カイコー先生は、口では「金のために演奏するな」「音楽にはハートが必要」と言っていながら、そして自身もその重要性を知っていながら、世俗の成功の中にどっぷり身を浸している。住んでいるのは高級マンション。何一つ不自由のないそのいい暮らしぶりは、ワン・チーウェン先生の小さく汚い住まいと好対照を成す。

 そして物語の核心に入ってきた時、このチェン・カイコー先生がやった事は、どれも成功のためには手段を選ばないエゲつなさ。少年の父親が隠していた出生の秘密の暴露と、売られたバイオリンを秘かに買い戻す企みだ。結果、少年はいわゆる世俗の成功に背を向けるカタチで物語は終わる

 これは一体どういうことか。

 それまで自作では「始皇帝暗殺」での小さな役どころ以外、ほとんど演じることがなかったチェン・カイコー。しかも今回はかなり大きな役で出番も多い。これをわざわざ彼が演じるのは何か理由がありそうだ。

 一つには世間的に認知された著名人にして芸術家というこの役が、世界的映画監督という名士チェン・カイコーにピッタリ当てはまるからだろう。演じて確かにサマになる。だが、それだけではないだろう。彼自身がこの役を演じなければならない必然性があったはずだ。「キープ・クール」でチャン・イーモウ自身が演じた役を考えてみれば、絶対に何かあるに違いない。

 ハッキリ言おう。僕はそれを、チェン・カイコーの自戒の念だと思う。

 おそらくは香港資本と組み、さらには超大作「始皇帝暗殺」に突っ走っていた頃のチェン・カイコーには、かなりギラギラした野心があったはずだ。その時にはキレイ事では済まないこともあったろう。派手な虚飾に目を奪われていたこともあるだろう。そしてチャン・イーモウへの対抗意識も強かったはずだ。芸術=映画にはハートが大事…と分かっていても、そんな虚飾にどうしても走ってしまった、その結果の大失敗

 転じて欧米映画界でのチャンスを模索した時期も、やはり口に出せない汚い面をたくさん見てきたはずだ。ハリウッド資本が絡んで、それこそキレイ事で済むはずがない。そんなダーティーな映画ビジネスの中で自ら手を汚しながら、それでも彼はプライドを立て直したい一心ですべてに目をつぶった。

 今こそそんなすべてに終止符を打ちたい気持ちがあるんじゃないか。

 だから、この映画では感動のラストからチェン・カイコーは閉め出されてしまう。まるで自らを断罪するかのように、もっともらしい事を言っていた大先生の化けの皮は、最後の最後にひっぺがされてしまう。それまでがええカッコしいだっただけに、これは相当にカッコ悪い

 しかもこのチェン・カイコーの弟子になっている女の子の性悪ぶり。過度のライバル心から音楽のための豊かな心さえ枯渇しているこの女の子には、自らチャン・イーモウに異常な競争心を燃やしたチェン・カイコーの後悔が見てとれないか? まぁ、ちょっとこいつは邪推に過ぎるかな? でも、この映画の中で彼女だけはやけに救いのない辛い描かれ方をしていたよね。その厳しい断罪のされ方は尋常ではない。最後、彼女は主人公の少年をまんまと追い出し、コンクール出場の座を手に入れる。だけどそんな事をしたってどうなるっていうんだ…という問いかけは、そのままかつての自分に投げかけられたもののように感じるんだよね。

 そして何よりこの映画では、物欲・拝金主義に浮かされた北京の人々と、それに拮抗する人の善意がうたい上げられている。

 主人公の少年の現代っ子としてのチャッカリぶりと、だけど性根のところの純真さ、そして音楽に結晶した心の美しさ。それがシニカルにひねくれた音楽教師も、カネとオトコを追いかけ回すのに夢中な若い女も、いつしか洗いたてのシーツみたいにスッキリと美しく変えていく。変わらなかったのはチェン・カイコー先生とライバルの女の子だけ…というのは、先に挙げたようにかなり皮肉だが、その二人以外はみんなこの少年とバイオリンの音色に触れて変わっていくのだ。

 音楽が…芸術だけが…そして映画が…それを可能にする。

 それが、今回の作品に託したチェン・カイコーのメッセージに違いない。劇中で彼自らが登場人物になり変わって語っているではないか。いくら技術が完璧でもダメだ、ハートがなければ無駄なんだと。映画のために映画をつくる愚、何かのお題目やら欲得のために映画をつくる愚、自らの虚栄のために映画をつくることの愚を、イヤと言うほど思い知った彼のそれが解答なのだ。

 だから主人公の少年とバイオリンの音色も、父親と引き離されたところでその神通力を失いかける

 あの愚鈍でヤボを絵に描いたような父親、カッコ悪くてバカにされっぱなしの父親、人が良いだけが取り柄みたいな父親…だが、それが少年とバイオリンの原動力だったことが最後に示される。何とあの泥臭いことおびただしい父親こそが、今回の作品の真のヒーローだったのだ。この映画の登場人物たちは、結局はその崇高なまでの心の美しさにひれ伏さぜるを得ない。そのピュアな心こそ本物だと、チェン・カイコーは本気になって言っている。

 ならば映画終盤の泥臭さたっぷりのコテコテ演出、北京駅でのヤマ場がああなったのもうなずけるだろう。もうチェン・カイコーはええカッコしいはしない。ケレン味たっぷり、すべての迷いも振り捨てて、持てる演出力のすべてをここぞとばかりに注入して、なりふり構わずパワー全開で突っ走る。ソフィスティケーションがなんだ、エッジの鋭い表現がなんだ、シャレたセンスがなんだ、アートな感覚がなんだ…そんなものは全部まるっきり意味がないじゃないか

 本当に人の心に訴えかける、堂々たる泥臭さの前にはね。

 

 

 

 

 

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