「シカゴ」

  Chicago

 (2003/05/05)


ゲームは参加することに意義がある

 誰でもそうだと思うけど、人間ある程度の歳になるとそれなりの浮き沈みって経験するよね。

 僕も確かにそうだった。それは決して自慢出来ることじゃない。「浮き」より「沈み」が多かった気がするからね。それって大部分の人もそうかもしれないけど。

 人に裏切られたこともある。なぜ?…と悔しがるような理不尽な目にあったことも。それは確かにその時は本当に悔しいよ。腹も立つ。だけど、最近はそれを哀しく思うことはあっても、昔ほどの憤りを感じることが少なくなったかもしれない。

 人はそんな僕を、時として「大人だね」と言ってくれることもある。

 それは単に同情で、そうやって僕を慰めてくれてるだけかもしれない。あるいはからかってバカにしているだけかもね。だからあまりそんな言葉を真に受けようとは思わない。それに、僕はまるっきり「大人」なんかじゃないし、別に悟りを開いた訳でもない。むろん、何もかも諦めちゃったって訳でもないよ。

 頭には来る。悔しくもある。忘れることなど出来ないけれど、それをいつまでもガタガタ言っても仕方ない…と思えるんだよ。

 それは、僕にとってこの世の中が、一種のゲームのように思えて来たからかもしれない。

 ゲームだとすれば真っ正直にやってりゃいいって訳じゃない。みんな勝ちたがってる。ハッタリもブラフも必要だ。そして勝つ人間がいれば負ける人間だっている。それは仕方がない事なのだ。

 負けたとすれば、それは単に不運かもしれない。あるいは自分の手がマズかったのかも。とにかくみんな勝とうとしているんだ。何も手を打たずにいれば負けるのが当然だろう。やり方が汚ねえぞと怒鳴ってみたところで、ゲームはもう次の回に移ってる。だから負けた時は素直にそれを認める。気持ちよく負けてやるんだよ。

 かつて実際に自分が窮地に追い込まれた時、僕も自分がやられた手を使ってやり返した事がある。それは仕返しなんてものじゃない。自分が生き残るための必死の手段だった。そうしないと自分が破滅するところだった。あげく起死回生、何とか自分は首の皮一枚助かった。僕を陥れた人間は立ち直れないほど激しくコケた。でも、その時には僕には同情する余地も何もなかった。見返してやったなんて得意になっていたわけじゃない。何とかギリギリ助かった僕は、他人を同情する余裕なんかなかったんだよ

 そう思ったら、僕は負けたことをクドクド嘆く気があまりしなくなった。そりゃ人間だからグチも言う。文句だって出る。先にも言ったように頭にも来るし、罵ることだってあるだろう。だけど、昔ほどそれを長く引っ張らないようになった。悲しみはなかなか癒えないし、忘れることは出来ないまでも、だ。

 とにかくヤケを起こしてゲームから下りてはいけない。下りたらそれで終わりだ。ゲームに参加して賭け続ければ、そのうちにまた芽が出ることもあるだろう。自分を負かした人間のことはどうでもいいが、あえて言うなら勝った人間もいつまで勝ち続けられる保証だってないだろう。とにかくこれはゲームだ。過度に自分を怒りに追い込んだり憂鬱に落ち込んだりして、もっと負けが込んだらバカげてる。負けは負け。それを潔く認めて次のゲームに賭けるのだ。

 それに自分だって、そんなに人の事を言えるほどキレイな人間ではあるまい。僕だってもう十分手を汚している。潔白だった昔の自分ではない。だから腹をくくって、ゲームにはゲームのルールで臨めばいいのだ

 そう思ったら、少しは気が静まった。だから、僕はそれから人生や世の中をゲームと思うようになったんだね。そして投げちゃ損だとも思った。

 この次に自分が勝てばいいんだからね。いやぁ、負けなけりゃそれでよしとするか…。

 

人殺しでも有名人になれる街

 ここは1920年代のシカゴ。キャバレーでは華やかなショーが繰り広げられている。この店一番の出し物はキャサリン・ゼタ=ジョーンズと妹のペアが演じる歌と踊り。だが、肝心のこの二人がまだ来ていないため、店の支配人はハラハラ。やっとゼタ=ジョーンズはギリギリ駆けつけたものの妹の姿はない。彼女に言わせると、今日は妹なしでいくとのこと。しかたない、ショー・マスト・ゴー・オンだ!

 ステージ狭しと演じられるゼタ=ジョーンズの姿にウットリするのは客席のレニー・ゼルウィガー。彼女は思わず自分がステージに立つ夢を見る

 そう、彼女の望みはスターになること。そんなゼルウィガーは連れの男に促され店を出て、この男と自宅にシケこむ。だがゼルウィガーは夫ある身。これは浮気だ。彼女はこの男がショー・ビジネスとのつなぎを持っていると聞き、口説きに乗って身を任せる気になった。

 ステージではゼタ=ジョーンズの迫力のショーが続く。「この世は何でもありよ!」 だが、そんな彼女を待ちかまえていたのは、彼女を逮捕するために駆けつけた刑事たち。何とゼタ=ジョーンズは、自分を裏切ってベッドを共にしていた、妹と夫を銃で撃ち殺していたのだ

 それから一ヶ月。ゼルウィガーは今日も今日とて例の男とベッドを共にしながら、いつになったら自分を売り込んでくれるのか心待ちにしていた。だが、それは見果てぬ夢。男はショー・ビジネスとは何の関係もないセールスマンだった。ゼルウィガーを口説くために口からデマカセを言ったのだ。あげくうるさく売り込みを催促するゼルウィガーがうっとうしくなり、邪険に扱って別れようとした。これにはゼルウィガーは逆上。思わずタンスにしまってあった銃に手が伸びた。

 ダ〜〜〜〜ン!

 殺人現場に駆けつけた刑事たちに、その時の様子を語るのはゼルウィガーの夫ジョン・C・ライリー。彼は愛する妻のために、家に忍び込んだ強盗を自分が撃ち殺したと狂言を打ったのだ。だが、刑事の聞き込みのうちに真相を知ったライリーは、さすがに激怒。実はゼルウィガーの仕業だとすべてをブチまけた。かくしてゼルウィガーは監獄行き。

 監獄では女看守「ママ」ことクイーン・ラティファが女囚たちに君臨。すべてを仕切っていた。彼女に金さえ握らせれば、すべて快適に過ごせる。中でも特別待遇は、妹と夫を殺した例のゼタ=ジョーンズ。彼女はすでに時の人で、監獄にも取材が殺到。かつての二流ダンサーが、いまや大スターのようなモテはやされぶりだ。裁判で勝ってシャバに出られた暁には、一流劇場でのショーも待っている勢い。もちろんその時のプロモーターは「ママ」ラティファが勤めることになっているチャッカリぶりだ。

 そんなゼタ=ジョーンズに憧れの眼差しで近づいたゼルウィガーだが、剣もホロロ。これにはゼルウィガーも悔しさを隠しきれない。そんな彼女に「ママ」ラティファが近づいて来た。

 「腕利き弁護士のリチャード・ギアを雇う気はない? 口をきいてあげてもいいよ」

 リチャード・ギア、向かうところ敵なし。負け知らずの弁護士。確かに味方につければ心強い。だがこの男、弱者の味方を自認する言葉とは裏腹にえらく強欲だ。ゼタ=ジョーンズの裁判のため監獄を訪れたギアにゼルウィガーがすがって弁護を頼むが、彼の答えは実に明快。「金を用意すれば話を聞こう」

 そんなギアに何とかかんとかゼルウィガーの弁護を取り付けたのは、何と彼女の夫ライリーだった。彼は裏切られたにも関わらず妻のゼルウィガーを見捨てられずに、なけなしの金をかき集めて何とか弁護を…とギアに頼み込む。最初はその金も全然足りないとにべもないギアだったが、途中で気が変わって弁護を引き受けることにした。それはこのゼルウィガーという女に、弁護士としての野心をかき立てられたからなのだろうか。

 ともかく彼女の弁護を受けて立ったギアは、ゼルウィガーの立ち振る舞いから話す内容、着るモノに至るまで一から十までをコントロール。徹底的イメージ作戦で彼女の同情を勝ち取ることを企んだ。ゼルウィガーもギアの操り人形に徹して、マスコミの注目を集める。こうして最終的にはマスコミすらギアの操り人形と化した。

 これが図に当たり、どんどん話題を呼んで「時の人」となるゼルウィガー。もはやギアも、ゼタ=ジョーンズよりゼルウィガーの弁護に夢中になった。内心穏やかでないゼタ=ジョーンズ。

 それどころかゼルウィガーは、もはやスターも夢ではない状況だ。「ママ」ラティファの関心も、もっぱらゼルウィガーに移ってしまった。世間の関心もゼルウィガーに集中。もはやゼタ=ジョーンズも「過去の人」だ。

 頭に来た!

 いや、こうなりゃ背に腹は代えられない。内心面白くはないが、ゼタ=ジョーンズもゼルウィガーになびくしかない。「アタシと組んで売り出さない?」

 だが、ゼルウィガーの鼻息は荒い。もちろんかつてのゼタ=ジョーンズの仕打ちも忘れてはいない。今度は剣もホロロにするのはゼルウィガーの番だ。かように世の中の移り変わりは激しい

 だが、そんな移り変わりからはゼルウィガーも無縁ではいられなかった。

 何と金持ちのご令嬢ルーシー・リューが夫と愛人を殺害。監獄に担ぎ込まれてきた。そうなるともうゼルウィガーを省みる者などいない。今度は自分がしっぺ返しを受ける番だった。焦り狂うゼルウィガー。彼女はみなの前で失神して倒れた。

 「あぁ、お腹の子が…」

 何と今度はゼルウィガー。狂言の妊娠で話題を勝ち取る作戦に出た。たちまちまたしても話題はゼルウィガーに集中だ。これにはゼタ=ジョーンズもギアも舌を巻くしかない。ついでに調子に乗ってギアにタンカを切るゼルウィガー。「弁護士なんかアンタだけじゃないんだからね!」

 だがそんな折りもおり、女囚仲間の一人が絞首刑を受けるに至って、ゼルウィガーもさすがに頭を冷やした。間もなくギアが彼女の弁護士に返り咲いたのは言うまでもない。

 かくしてゼルウィガーの裁判が始まった

 さすがに怯えるゼルウィガーに、ギアは自信たっぷりに言い放つ。「裁判はサーカスだ。この世の中は、すべてショー・ビジネスなんだよ!」

 その通り。この世界でギアはまさにスターだ。ど派手なパフォーマンスとハッタリで、裁判官も証人も陪審員もすべて自分ペースに巻き込む。裁判は一気にギアの思い通り、ゼルウィガー無罪で決まり…のように思いわれた。

 ところがそこに登場したのは、検察側の思わぬ証人だった。

 ゼタ=ジョーンズだ! 彼女が「ママ」ラティファの肝いりで、何とゼルウィガーの日記を携えてやって来たのだ。

 さぁ、裁判の行方はどうなるのか? ゼタ=ジョーンズの反撃は効果を挙げるのか? はたまたゼルウィガーは、無事に無罪を勝ち取ることが出来るのだろうか?

 

現代にミュージカル映画をつくる難しさ

 ボブ・フォッシーの有名なミュージカル作品の映画化…ってことぐらいは、いくらブロードウェイ音痴の僕でも分かる。この映画化の話はだいぶ前から囁かれていて、一時はライザ・ミネリ主演って話もあったはずだ。だけど、結局今の今まで具体化しなかったんだね。それはどうも舞台そのものの構成では映画になりにくいって事情があったようだ。このあたりは舞台版を見ていない僕には、多くを語れないんだけどね。

 実は僕もこの映画が評判が良くて話題になっていることは知っていても、その出来については疑問視していたんだよ。それと言うのもフォッシー作品って映画になったものだけ見てもかなりクセが強いものばかり。だから余人を持ってしても、その映画化は難しいんじゃないかと思ってた。予告編を見てみても、実はあまりミュージカル・シーンは出てこない。それって見せる自信があまりないからじゃないか? そんな危惧もあって、この映画にはあまり期待をしてなかったんだね。

 そもそも、現代の映画でミュージカルを実現するってことは、容易なことじゃない。

 夢の世界だった昔のハリウッド映画ならいざしらず、現代アメリカ映画でそれを具体化するのは難しい。映画の話法がリアリズムに傾斜して、一旦はアメリカン・ニューシネマがハリウッドを席巻。現在では改めてのエンターテイメント映画が盛り返してはいるが、それは昔のハリウッド映画とは質的に全く違っている。そんな中でミュージカル映画を再構築しようってのが、かなり無謀に近いことなのだ。

 それは映画話法が変わってしまい、世情が変わってしまい、ミュージカルの伝統ってものが作り手からも観客からも失われてしまった現代だからこそなんだよね。ミュージカルの世界ってのは本来リアリズムではあり得ないから、一旦完全な虚構の世界をつくり出さねばならない。しかしミュージカルの約束事自体、「ウエスト・サイド物語」あたりでカメラをスタジオからロケに持ち出しちゃったあたりで死に絶えてしまった。そんな「ウエスト・サイド」的アプローチも言わば当時だから許された「一発芸」みたいなものだから、改めてそれを繰り返すわけにもいかない。だからその後のミュージカル復活のさまざまな試みも、数少ない例外を除いて無惨な結果に終わっているわけ。例えば、かつてハリウッド娯楽大作の復活ののろしを掲げて「大空港」で成功したプロデューサーのロス・ハンターが、次にミュージカルだとばかりにつくった「失われた地平線」あたりの大失敗などは、覚えている人も多いと思うよ。

 つい最近の「ムーラン・ルージュ」が大成功したのは、特撮も交えて徹底的な虚構の人工的世界を構築した上で、ムーラン・ルージュのショーという仕掛けを組み合わせたからうまくいった。ただミュージカルをつくればいいという訳にはいかない。作り手の環境づくりと、何よりミュージカルには簡単にノレなくなった観客をうまいことノせる仕掛けづくりが必要なんだよね。

 で、そんな不安を抱きながら見た「シカゴ」。僕は実際見てみて感心したよ。

 まずはこの作品を、現代のミュージカル映画として仕立て直しているのが見事だ。この映画、昔のミュージカル映画というジャンルを念頭に置くと、厳密な意味では全く作り方が違う。昔の定義で言う「ミュージカル映画」ではないのだ。ドラマはドラマ、ミュージカルはミュージカルと見事に分離しているんだよね。

 これはヒロインがショー・ビジネスに憧れている女で、一方の重要登場人物がショー・ビジネスに身を置いている女である…ということから可能になった仕掛けだ。ある意味で、ミュージカル場面が幻想場面となっている。昔は現実世界としてそのまま歌と踊りに移行していったつくりが成立したんだけど、現代ではそうはいかない。そこで一旦は物事万事ショー・ビジネスに見立ててしまうヒロインの頭の中をフィルターにして、そこを通して観客にミュージカル・シーンを見せるという作戦だ。これはある意味で「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と似たようなアプローチだね。監督のロブ・マーシャルも、この「ダンサー〜」がヒントになったと答えている。またもうひとつの手段としては、実際のショーの場面として丸ごと見せてしまったりするわけで、こちらも当然ながら構成上まったく無理はないわけだ。

 一旦そういう約束事を構築してしまったら、作り手と観客との間に一種の共犯関係が成立する。後はミュージカル映画経験なしとは言え、そこは一流のハリウッドの俳優たちだ。踊りだって歌だってそれなりにこなすだろう。

 実際にこの映画では、レニー・ゼルウィガー、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ、リチャード・ギアといった、ミュージカルとはイメージが結びつけられないような俳優たちが見事に歌い踊る。それどころか何とジョン・C・ライリーまでが歌って踊るのだ! ハリウッドの役者たちっていろいろ訓練してこなすとは言え、ここまでやるとは驚きだ。ゼルウィガーのマリリン・モンローもどきのチャームとか、ゼタ=ジョーンズの驚くべきエネルギッシュなパフォーマンスとか、ギアの堂々たるミュージカル・スターぶりとか、これは付け焼き刃のものではない。大したものだ。彼らのパフォーマンスを見ているだけで楽しくなること請け合いだ。

 ともかくはこうした役者たちの健闘に支えられているとは言え、まずはこうしたミュージカル映画として成立させるための約束事の構築に成功したのが勝因だろう。なるほど、うまいこと考えたものだ。自身もブロードウェイの演出家というロブ・マーシャル、大した策士だなと感心した。おそらくは今回のオスカー受賞も、この映画化困難な題材、現代では難しいミュージカル映画の実現ということへの功労賞的意味合いが強いんじゃないかな?

 だが、この作戦は厳密に言うとロブ・マーシャルが初めて導入したわけではない。僕は映画を見ながらそれに気がついた。この方法には先駆者がいる。

 それは他ならない、ボブ・フォッシーその人だ。

 

隅々に生きるボブ・フォッシーのスピリット

 現代アメリカ映画ではミュージカルは不毛だったと先に述べたよね。だが、その中でも数少ない例外がある。そのうちの一つが「キャバレー」であったことは言を待たないだろう。その監督としてオスカーを受賞したのが、ボブ・フォッシーだ。

 フォッシーはブロードウェイの振付師・演出家としての名声とともに、映画監督としてもさまざまな傑作を生んだのはみなさんご存じだと思う。そんな彼の映画監督としての地位を確立したのは、この「キャバレー」だ。ストレートなドラマの傍らで、ヒロインのライザ・ミネリによるショー場面が展開。厳密には昔のミュージカルとは異質な構成ではあるが、このミュージカル場面がドラマの展開やらヒロインの真情とダブるあたり、単に取って付けて入れたものではない。そのあたりの構成の妙は、今回の「シカゴ」にも当てはまる。

 だが今回の「シカゴ」の構成には、さらに強い影響を与えている映画がある。それがボブ・フォッシーの自伝的な映画「オール・ザット・ジャズ」だ。

 ロイ・シャイダー演じる演出家がフォッシー自身を描いているのは有名な話だ。この映画の中でショー・ビジネスの喧噪に囲まれながら自身の人生を反芻する主人公は、たびたび幻想の世界に浸る。それがそのままミュージカル・シーンに移行するのだ。先に今回の「シカゴ」を、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と似た作戦とは語ったものの、実は「ダンサー〜」自体がこの「オール・ザット・ジャズ」の手法を踏襲している可能性が強い。だから今回の「シカゴ」も、「オール・ザット・ジャズ」に多くを負っていると見るのが妥当なのではないか?

 ここで問題になるのは、果たして上記したようなボブ・フォッシーの手法が、舞台版「シカゴ」にすでに内包されていたのかどうか…ということだ。

 ここからは舞台版を見ていない僕としては憶測の域を出ないが、おそらくはそうではないと思うんだね。舞台版は今回の映画版と構成の面でかなり変わっていると言うのは、いろいろ語られている通りだと思う。何と振り付けさえ、今回は映画オリジナルのものと取り替えているらしい。たぶん監督のロブ・マーシャルは、今回の映画化にあたってボブ・フォッシーへの敬意を払いつつ、その映画化に際して最適な方法を、フォッシーの他の映画作品に見出したと言うべきなんだろう。つまりは舞台版そのままを映画に移す愚を避けて、フォッシーのスピリットそのものに忠実な映画化を試みたと言うべきなんだろう。

 そうした舞台から映画への移行、そしてミュージカル映画としての構成面で、この「シカゴ」は映画ならではの作品になっていると言える。だが、先に述べたようにロブ・マーシャルがボブ・フォッシーへの敬意を込めて、そのスピリットに忠実に映画化したのならば、この映画版「シカゴ」にその他の点でもフォッシーの匂いが充満していることは間違いない

 そもそもフォッシーにとって「シカゴ」は特別な作品であったように思われる。「オール・ザット・ジャズ」には、フォッシーが演出している「NY/LA」なる新作ミュージカルが登場する。これが「シカゴ」のことらしいというのは、そのタイトルからも明らかだろう。「NY/LA」は最初毒にも薬にもならない「健全な」ミュージカルとして企画されるが、ロイ・シャイダー演じる主人公は別れた妻主演ということで引き受けることにする。これも舞台版「シカゴ」が初演ではフォッシーの実際の元妻グエン・バードン主演だったことと重なる。そしてシャイダーの主人公は元々「健全な」ミュージカルを、何とセクシーで妖しげなショーへと変貌させてしまう。このあたりは、昔の夢いっぱいミュージカルと違って悪徳が堂々と勝利する「シカゴ」の内容を、ちょっぴり戯画化して描いているんだろう。

 このように自伝的映画で自身の死を見つめた「オール・ザット・ジャズ」に「シカゴ」を思わせるエピソードがふんだんに出てくるのは、決して偶然とは思えないのだ。「シカゴ」のオープニング・ナンバーとなっている「オール・ザット・ジャズ」という曲が、そのままこの映画のタイトルとなったのもその現れだろう。

 ならば、元々「シカゴ」はフォッシーがフォッシーらしさを充満させた作品だったとは言えまいか?

 そう考えると、フォッシー・スピリットを十二分に生かしたロブ・マーシャルの作戦は、あらゆる意味で正解だったと言えるのだ。

 思えば、踊り子や歌い手を描いた「スイート・チャリティ」「キャバレー」、漫談芸人を描いた「レニー・ブルース」、自身の自伝的作品「オール・ザット・ジャズ」、プレイボーイ誌のモデルから映画女優へと転身して殺された女の物語「スター80」と、映画監督としても終始ショー・ビジネスの世界を描き続けたボブ・フォッシー。彼はこの世界に人一倍愛着を持っていたと同時に、その汚辱の面にも目をつぶらずにいた。そもそもが自伝的作品「オール・ザット・ジャズ」の主人公からして、やや自惚れの面もなきにしもあらずだが、酒とタバコとドラッグと女に溺れたいい加減な面も持つ男として描かれていたではないか。特に遺作となった「スター80」は、そんな汚辱の面を最大限に拡大して描いた作品だ。そんな彼がそうしたショー・ビジネス…彼が一番よく知っている世界の「オール・ザット・ジャズ=なんでもあり」状態を、全面肯定していたとはとても思えない。この「シカゴ」もしかりだ。

 みんながみんな、相手を出し抜こうと鵜の目鷹の目。人を殺したって話題を集めりゃいいの世界だが、飽きられるのも早い。しかも自分のトクになるのなら、プライドだって平気で捨てる。この映画で徹底的にバカを見るのは、唯一正直者で善良なヒロインの夫だ。彼は何と物語の最後に至ってもまったく浮かばれない。こんなバカげた世界があるか…とフォッシーは(そして映画版の監督ロブ・マーシャルは)自身への自戒も含めて、唾棄するように主人公たち一切に感情移入してはいない

 そんなこの映画を見ているうちに、僕は最近見た別の映画を思い出してしまったよ。

 それはギャング・オブ・ニューヨークだ。

 あの映画では、初期のニューヨークの野蛮さ愚劣さ猥雑さが徹底的に描き出されていた。そんな諸々が実は現代にも引き継がれていると語られていた。それはマーティン・スコセッシが自分が知りつくして愛して止まないニューヨークという街を通して、アメリカ論を語った作品でもあった。それって今回の「シカゴ」の方法論とも相通じるところはないか? そういやスコセッシも「ギャング〜」の中で、登場人物に一切の感情移入をしてなかったしね。

 フォッシーは自分が慣れ親しんで知り尽くしたショー・ビジネスの世界を通して、アメリカ社会を描こうとしたのではないか? そもそもここで言うショー・ビジネスとは、他ならぬアメリカ的な世界でもある。この野蛮さいい加減さ胡散臭さ…これがアメリカだと言っている。

 そしてスコセッシがそんな唾棄すべき世界ではあっても、そのダイナミズムには抗いがたい魅力を感じていたように、フォッシーもそれを愛せずにいられないのだ。その空気を肺いっぱいに吸い込んできたし、その魔力の虜となってしまった男で、何よりそこで生きていくしかない人間だから。

 いやいやいや…ここでまるで水野晴郎みたいに、アメリカ社会が云々なんて言うのは間違いだった。それではあまりにつまらない。確かにそうかもしれないが、それにとどまるものではあるまい。もちろんこんな楽しいミュージカル作品を、シリアスに考察するなどヤボの骨頂だ。だがそれを分かった上でさらに続けさせてもらえれば、別の意味でそこで描かれているのはアメリカ社会云々にとどまらない

 つまりは、それって僕らの住む世界そのものじゃないか?

 現に「シカゴ」では終盤の裁判に及んで、リチャード・ギアが高らかに宣言してる。「この世はショー・ビジネスだ!」 そして裁判自体が一種のショーとして進行していく。もっともアメリカの裁判は、元々ショー的意味合いが強いという戯画でもあるんだけどね。

 裁判が終わってもショーは続く。昨日の敵は今日の友。それがショー・ビジネスでは可能なんだとゼタ=ジョーンズは言ってるけど、そんなのは別にショー・ビジネスの専売特許ではない。実際の僕らの世界なんてそんなものだ。それが僕らの世界のゲームのルールではないか。考えてみれば、この映画「シカゴ」が「ファイブ、シックス、セブン、エイト!」とカウントをとるところから始まるのも象徴的だ。この世はショー・ビジネス…浮き沈みは付き物だ。

 何だかんだ言ってもみんな油断ならない奴ばかり。手段はどうあれこすっからく立ち回った奴が生き残る。だが、生き残った連中も安心してはいられない。おまけに善良な人間が必ずしも浮かばれはしない。まったく唾棄すべき世界だ。忌々しい。しかも薄っぺらいことこの上ない。俗悪と軽薄の極み…だけどそれを無視しては生きられない。それは時として素晴らしいものを生み出すエネルギーにもなる。向上心や創意や努力は、これすべて言ってみれば俗悪の産物なんだからね。おまけに軽薄は活力の源とも言える。それが世の中って言うものだ。

 そして、そんな俗悪と軽薄こそが人間なのだ

 それをいいとは言わないが、それを否定してばかりはいられない。ゲームはまだまだ続く。下りずに参加し続けていくことが大事なんだよね。

 だって僕らは人間で、この世界で生きていかねばならないのだから。

 

 

 

 

 

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