「ミレニアム・マンボ」

  千曼禧波 (Millennium Mambo)

 (2003/04/28)


  

希望に満ちた21世紀の正体見たり

 考えてみると、人間が一生に一度迎えられるかどうかのビッグ・イベント…世紀をまたぐ年末年始ってのを体験したのは、ついこの前のことだったんだよね。

 まず最初はそれまでの千九百何年…って西暦がいきなり二千年になったって衝撃。子供の頃から見慣れたものが変わったのは、やはり大きかったよ。昔、変動相場制に変わって、1ドルが慣れ親しんだ360円でなくなった時もビビッたけど、それでもその頃海外になんか行かなかったから、ただそれだけだった。今回のは毎日読む新聞から何から変わるんだからね。大きかったよぉ。

 そしてそれは、昔から未来の代名詞だった21世紀が、自分の生きる世紀に変わる序章でもあった。

 そんなこんなで始まった21世紀。別に年号が変わろうが世紀が変わろうが、ホントは人の人生に何の変わりもないはず。でも、何だか人間ってそこに意味を見出そうとするんだね。2000年になって、21世紀になって、俺の人生何かが変わった…って思っちゃうもんだ。

 そして、実際のところ僕の個人的な人生も大きく変わった。

 やっぱり2000年だよなぁ、21世紀だよなぁ…何だかいろんな事がガラッと変わる予感がした。それまでの煮詰まった人生に、スカッと新たな展望が開けた気がしたよ

 そんな2000年代、21世紀にケチがついたのが、あのアメリカのテロだったんだろうね。そして奇しくも僕個人にとってもこの9月から10月にかけてってのは、後々考えるとその後の悪夢の始まりだった。僕もテロを受けたようなものだった。

 今になって、世の中に起きていることをご覧よ。日本の経済は最悪。イラクじゃ戦争が起こって、北朝鮮は核を振りかざして、中国を中心に変な肺炎が蔓延する。人類の終わりはマジで近いんじゃないか? あの、いろんな明るい展望が約束されていたはずの21世紀は、一体どこへいっちゃったんだ? それともこれが21世紀の正体だったのか?

 僕も今頃になって、スカッと抜けたように感じていた自分にとっての21世紀の正体が分かって、愕然としているところだ。こんなミレニアムだったなら、決して来て欲しくなんかなかったよなぁ。でも、このままなんだろうか? もう俺ってこのままで浮かび上がれないの? そんなことないよね?

 僕は今、必死でこんな状況から抜け出す道を模索している。

 

煮詰まってどうにもならないヒロインの日常

 みんな21世紀を祝ってる。この物語のヒロインの名はスー・チー。長くつき合っている男トゥアン・ジュンハオとの仲はどうも思わしくない。貯金を使い果たしたら、彼とは別れようと思っている

 シケたアパートに居を構えているスー・チーとジュンハオ。今夜も彼女はパーティーにクラブにと遊びほうけて、疲れてアパートに帰ってきた。するとそれまで部屋に籠もっていたジュンハオが出てきて、何やら彼女の体をアチコチ嗅ぎ回る。最初は愛撫のように見えたが、実はそうではない。彼女の全身を嗅ぎ回り、何やら探ろうとしているのだ。そんなジュンハオにスー・チーはウンザリ。

 スー・チーは高校時代にジュンハオと出会った。つき合ってからは彼にドップリ。だが、この男との出会いが彼女にとって良かったか悪かったか。卒業試験の前日も、スー・チーはジュンハオとホテルでしっぽり。彼が「試験なんかやめちゃえ」と言うので、彼女は高校を中退してしまった。

 そして出てきた台北。アパートに愛の巣を構えたものの金がない。彼はまるで甲斐性がない。親父の時計をくすねて売り飛ばし、やっとこ金をつくる始末。その親父が警察に届け出たものだから、ジュンハオは逮捕されブタ箱入りという情けなさだ。

 クラブでたまたま居合わせた男とスー・チーが言葉を交わすと、ジュンハオはキレて殴りかかる。スー・チーが出かけて帰ってくると、ジュンハオは彼女のバッグを引っかき回して根掘り葉堀り探る。これには彼女もキレて何度出ていこうとしたことか。

 そして金がない。

 ジュンハオは働く気なんかまるでない。仕方なくホステスとして働くことになったスー・チー。その店で出会ったのが、この界隈では顔のヤクザ…ガオ・ジェだ。スー・チーはだんだんこのガオ・ジェが気になりだしていた

 そんなある日、日本人と台湾人の混血の兄弟と知り合ったスー・チーは、彼らの日本への里帰りにつき合ってみようと思い立つ。まるで衝動的だが、彼らの故郷…雪深い北海道の夕張という未知の土地に惹かれた

 雪に埋もれた夕張の町。そこで久々の安らぎを覚えるスー・チー。

 だが、台湾に帰ればまた元の木阿弥だ。仕事から疲れて帰って来ても、ジュンハオは自分の部屋でDJのマネ事に没頭して彼女に声もかけない。彼女がフテ寝を始めると寝室にやって来て、今度は例によって例のごとしの嗅ぎ回り。これにはスー・チーもイヤになり、ちょっとそこまで…と外出する。しかしスー・チーが家に戻ってみると、ジュンハオは何を考えているのか仲間たちを呼び寄せてパーティー真っ最中。彼女の気持ちなんかお構いなし。これにはさすがのスー・チーもキレた。

 もう帰らない。出てく!

 スー・チーは例のヤクザ男ガオ・ジェの元に身を寄せた。だが彼女の携帯には昼も夜ものべつまくなしジュンハオから電話が入る。戻って来いの泣きが入りまくり。あげくクラブで友だちと楽しんでいるところに乗り込んできて、話をしようの一点張り。心配したガオ・ジェが止めに入ろうとするが、スー・チーはよせばいいのにこのジュンハオの言葉に乗ってしまった

 だがその晩のうちに、泣いてガオ・ジェのマンションに戻ってくるスー・チー。聞けばジュンハオに殴られたと言うではないか。「だから言わんこっちゃない」などと無粋なことはガオ・ジェは言わない。ただ黙ってスー・チーを受け入れた。

 そのうちスー・チーはホステスを辞めて、堅気の人生を歩もうかと言い出す。それもいいだろう。ガオ・ジェは自分の経営する喫茶店で彼女を使おうかと話を持ちかけたりする。

 だが、今度はガオ・ジェの方でトラブルが発生した

 ある晩、スー・チーを連れて訪れたクラブで、ガオ・ジェの携帯に電話がかかってくる。それを受けたガオ・ジェの表情は曇った。何やらもめ事に巻き込まれたガオ・ジェは、酔っぱらったスー・チーを先に家に帰す。夜遅くマンションに戻ってきたガオ・ジェがその手に拳銃を握っていたことを、酔いつぶれて眠っていたスー・チーは知る由もなかった。

 そのまま、高飛びしたガオ・ジェ。

 彼の去った先は日本だった。秘かにガオ・ジェからの誘いを受けて、後を追うように東京を訪れるスー・チー。ガオ・ジェは彼女にホテルの部屋と連絡のための携帯を用意してくれていた。

 だが、ガオ・ジェとは連絡がつかずじまい。たった一人で東京に滞在するスー・チーは、来る日も来る日も待ちくたびれるだけだった。

 そんな彼女の脳裏には、あの夕張の思い出が蘇る

 真っ白い雪に包まれ、澄み切った空気としんとした静けさに包まれた夕張の町が…。

 

新機軸を模索してきたホウ・シャオシェン

 台湾の巨匠ホウ・シャオシェンの新作。…と言っても、実は心が全くときめかない僕だ。これもどうしようかだいぶ迷ってから見に行った次第。見に行った結果は? それはちょっと待っていただきたい。まずは僕が思うホウ・シャオシェン作品の印象を整理しなくてはいけないからね。

 僕が見たホウ・シャオシェン作品の一本目は、彼の日本紹介作となった「往年童時」だ。それまでいろいろ名声は聞こえてきていたから、それなりに期待して見に行った。結果は…と言うと、別にさほど気に入ったという印象は残ってない。ただ、それなりに感心はした。良い映画だとは思ったよ。でも、僕の個人的な心の琴線には触れなかったかな。

 ところが次の「情城市」にはガツ〜ンと来たよ。あのスケール感、そしてホウ・シャオシェン・スタイルとも言うべき長回しの成果。終盤に写真館の若夫婦が一人息子と共に写真に収まるシーンは、「JSA」のラストの「記念写真」と並んで忘れがたいシーンだ。スゴイ監督だよなと本当に驚いたよ。

 同じ頃、彼の旧作も次々公開された。その中でも感銘深いのは「恋恋風塵」だ。これにはある意味で、「情城市」以上にまいっちゃったかな。スケールでは「情城市」には譲るものの、これはまた何とも心にしみる作品だった。ますます僕はホウ・シャオシェンに感心しちゃったんだね。とくれば、新作として公開された「戯夢人生」に期待がかかるじゃないか。

 これがねぇ、僕はダメだったんだねぇ

 カメラ据えっぱなし長回しでじっくり撮っていくスタイルは変わらない。だけど、僕は全然面白いと思わなかったんだよね。この映画もみんな傑作としてモテはやしているから、今まで僕も声を大にしては言わなかったんだけどね(笑)。つまらなくってつまらなくって、退屈で退屈で死にそうだった。同じ事やってるのになぜ?…と言われようと、眠くてしょうがなかった事だけは間違いない。みんなこの映画って面白かった?

 ここでその訳を長々と書く必要はないかもね。というのは、その答えを僕は先日の、アキ・カウリスマキの過去のない男感想文で書いちゃってるからね。ともかく多くを繰り返しはしないが、おそらくそのつまらなさはカウリスマキの時に語ったのと同じ事だと思うよ。スタイルが形骸化してしまった。そしてスタイルのために映画をつくってしまった。それが最大の原因じゃないか? ハッキリとそれと分かるスタイルを持つ映画作家ならば、きっと誰でも陥るワナなんだよ、それって。安住の地が出来ちゃった訳だからね。そしてそれに溺れてしまう。ペキンパーやらウォン・カーウァイも陥ったワナだね。

 で、実はホウ・シャオシェン自身もそれに気づいたんじゃないか?

 その次の「好男好女」ではちょっと作品の質が変わってきた。もうあまり覚えてないんだけど、映画撮影中の女優とそのヒロイン像が、現在と過去を交錯しながら重なり合っていくような構成だったと思う。現代のシーンなんか、若者風俗なんかもチラつかせているのが様変わりだったかな。相変わらずじっくり据えっぱなしは変わりなかったと思うけど、題材の扱い方が変わってきたように思ったんだね。

 でも、やっぱりつまらなかった

 その後の「憂鬱な楽園」もつまらなかった。これなんかどんな映画だったか内容忘れちゃって、ただ見て憂鬱になったことしか覚えてないよ(涙)。前作と同じ伊能静とかいうアイドルが出てたけど、とにかくつまらなかったとしか覚えていない。哀しいね。

 で、このあたりってのは僕もホウ・シャオシェンの気持ちが分かる気がしたんだよ。ホウ・シャオシェンのスタイル…据えっぱなしカメラの長回しってのは、ご本人のトレードマークにもなったし、そこら中のアジア映画でマネされ放題にマネされた。いい加減僕なんかこの手のスタイル見るのが飽き飽きしてるくらいだよ。

 しかもホウ・シャオシェンの場合、そこにどこか懐かしげな素朴さがプラスされてもいた。それがアジア映画としてのエキゾチシズムとして西欧には認知されていたきらいもあったろうし、日本ではどこか「かつての日本」を思わせる懐かしさにもなっていた。ホウ・シャオシェン映画を見る喜びの中に、作品的な出来いかんの他にそうした魅力があったことは否定できないよね。もちろんホウ・シャオシェン映画のスタイル…据えっぱなしカメラの長回しで、それが引きの画面で淡々と語られるというあたりが、こうした素朴さ瑞々しさの醸成に役立っていたことは言うまでもない。

 だからそれがパターン化することの怖さは、本人が一番感じていたことだったんだろうね。だから、それが「戯夢人生」で表面化するや否や、何とか方向転換を図った。とりあえず素朴な思い出や過去から、アクチュアルな「いま」と対峙したいと思ったんだろう。そして「淡々」からもっとエッジの尖った表現にいきたいとも思ったに違いない。

 それって実は、近年のスティーブン・スピルバーグとも重なり合うところがあるんだよね。

 ここでホウ・シャオシェンとは縁もゆかりもないスピルバーグなんか引き合いに出して、アジア映画ファンやらミニシアター映画ファンにはヒンシュクを買ってしまうかもしれない。だが、僕にとってはこの両人の抱えていた問題は、非常に似通っているように思えるんだよ。そのあたりはE.T.20周年記念バージョン、マイノリティー・リポート、そしてキャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン感想文を読んでいただければお分かりいただけると思う(今回は何やら過去の感想文の引用が多いねぇ。しばし我慢して読んでいただきたい)。強烈なスタイルを確立しちゃった映像作家が、そのスタイルの限界を感じてからの新機軸の模索…それって天晴れな心構えだとは思う。だが、それまでのスタイルが強烈であればあるほど、そこで出来上がった作品の成果が素晴らしければ素晴らしいほど、そこから逃れるのは容易ではない。そこでホウ・シャオシェンもスピルバーグも、長い不調期に突入しちゃったんだと思うよ。

 僕は途中に入る「フラワーズ・オブ・シャンハイ」を見ていない。だから、ここで断言するのはちょっと早計だとは思う。だけど、まずはこんなコースをホウ・シャオシェンが辿ってきたとは思っている。そのくせ巨匠としての期待と評価と勘違いの声援ものしかかってくるしね。彼もきっと「こんなはずじゃなかった」と思ってるんだろうなぁ…。そしてやって来たのが今回の新作「ミレニアム・マンボ」だ。

 いまや売れっ子のスー・チー主演、日本ロケもあり…と、ちょっとした話題性もある。で、ちょうどカウリスマキもスピルバーグも何かを掴んだように思える昨今だ。彼らとホウ・シャオシェンは何の関係もないとは言え、ひょっとしたら彼も何かが変わったのでは…と見る気になったというのが、僕の今回の正直な気持ちだ。で、見てみた直後の正直な感想は…。

 また、やっちまったかぁ…。

 現代の台北を舞台に、若い主人公たちが無為な毎日を送ってる。上記したストーリーを参照していただきたいが、かなり丁寧に書いてみてもあの程度のあれっぽっちのお話なんだよね。たったあれだけ。そんなパッとしないお話を、ホウ・シャオシェン映画のかつてのスタイルとは違えど、やはり延々とカメラを回しているのは変わりない。こんなダラダラしたメリハリのない話を、こんなスタイルで撮られたひにはダラけるに決まっているではないか。つまんねえ〜。

 そしてヒロインを演じるのはスー・チーだ。またスー・チー。「トランスポーター」に「クローサー」に、これ…何でまたこの人ってこんなに売れてるんだ? 元々、僕はスー・チーって女優さんに全く魅力を感じてない。だからヒロインに全然共感出来ない。まぁ、もっともホウ・シャオシェンは共感とか感情移入をさせようとして撮ってはいないみたいだ。観察記録みたいに撮っている。これはついていけない。

 ダメだこりゃ…とばかりに席を立ち、またしてもホウ・シャオシェンのフィルモグラフィーにダメ映画が一本加わったなと思いながら、それでも崇拝者がありがたがってベタ褒めするんだろうな…などと劇場を後にして、ブラブラ歩きながら喫茶店に入る。

 だが、そこで僕は妙なことに思い当たったんだよね。

 あんなにつまんないと思っていながら、全然眠くなかったのはどうしてだ(笑)?

 

ハマったのは偶然か必然か?

 懐かしさと憧れと追憶と素朴さと…そんな世界をじっくり見つめるように描いていたホウ・シャオシェン。そのまなざしに、据えっぱなし長回しはすごくピッタリきてたんだろうね。だから、そんな淡々描写は飽きなかった。瑞々しくて素晴らしいと感じた。だけどそれが形骸化して、そこから脱皮を図った以降のホウ・シャオシェンは、一転してエッジの尖った題材の方向に舵取りしてきたと思っている。すると、何ともダラダラ…退屈。かつてみたいにじっくり見る喜びが起きてこない世界や対象をカメラに収めているんだから、距離を置いて観察するようなスタイルはキツいんだよね。で、毎回毎回見るたびに眠くなってきた。

 それってどうしてなんだろう?

 僕は今回の「ミレニアム・マンボ」を見て、その退屈さの正体が見えた気がした。冒頭、スー・チーが参加してるパーティー場面やらクラブでの喧噪やらがそれだ。

 それって気乗りしない宴会かパーティーに出るようなもんじゃないか(笑)?

 元々、ホウ・シャオシェンが登場人物への感情移入や過度の共感を即する映画づくりとは無縁の人だったのは言うまでもないだろう。懐かしさと憧れと追憶と素朴さと…それを控えめに淡々と見つめているからこそ、初期の作品は好感が持てた。ところがその後は見つめているに耐えうるだけの対象を見てはいない。そりゃツラいわな。

 僕は実は宴会とかパーティーとかって全然好きじゃないんだよ。オフ会ってのも苦手だ。そこでは妙な盛り上がりと賑わいがある。我こそはと派手にアピールする輩がいる。ワイワイ騒いで相手の言ってることも聞こえないような状況で、それでも自分の存在を誇示すべくみんな大声を張り上げ騒ぎに騒ぐ。僕はそんな状況ではマジメに話す気なんかしないんだよね。

 そもそもそこにいる人間たちをよく知らないか、別に親しみもなかったりした場合には尚のこと。話しかけられるのも苦手だ。何か気の利いたことを言わなきゃならないからね。あれってイヤだねぇ。仕方なくその場で思い付いた一番くだらない冗談を言うと、大げさに周囲の人間は喜ぶ。そうすると、この程度の話で大喜びかいとまたイヤになる。だからしまいには黙ってしまうんだよ。

 そうすると周囲の喧噪の中で一人ポツンとしてしまう。退屈で仕方ない。来るんじゃなかったと思う。早く帰りたいと思う。最近のホウ・シャオシェン映画って、ちょうどそんな感じだなって思い当たったんだね。

 そういう会合での周囲とのバリアの張られ方っていうか、距離感の感じ方ってのが、こうした最近の彼の映画の主人公との距離感とピッタリ重なり合うんだよ。だから眠くなってしまう。どうでもいい連中のどうでもいい話なんか、もういいから早く終わらせてくれって気になっちゃうんだよね。

 で、この映画のスー・チーが身を置いている状況も、ちょうどそんな感じ。連日連夜、遊びほうけてバーか飲み屋かクラブか…回りは騒音と喧噪。僕はそこに思い当たってヤレヤレと思ったわけだ。またこれかい。

 それなのに、あの毎度のように覚えた強烈な眠気が、今回ばかりは起きなかったんだ。これはどうしたことなんだろう?

 スー・チーと男との同棲生活も、まるで発展性がない。この男がダニみたいな奴でウジウジグジュグジュ実にイヤな男。それを吹っ切ればいいのに何やらグズグズ。あ〜ウンザリする。

 だけどハタと気がついた。要するにこれは、そんな状況にウンザリしてる人の話じゃないか。ウンザリしちゃう映画…じゃなくて、ウンザリしちゃう状況を描いた映画(笑)。だったら、これくらいそんな状況をリアルに写し出した映画もないだろう。

 僕も昔だったらとうに投げ出していた人物たちだし、そんな状況だけど、今のこの歳になればこいつらの気持ちが分かる。というか、男と女の煮詰まった関係ってのは、実際こんなもんだよな。程度の差こそあれ、実はかなり発展性がない。だけどなかなか解消も出来ない。どうしていいか分からないってのは確かにあるよ。

 スー・チーだってこいつがダニと分かってはいても、それでも誰もいないよりはマシと心のどこかで思って依存してもいる。つき合いの初めの頃の輝かしい記憶がどこかに残っているということもある。それに長くつき合った人間に、惰性ではあっても情が湧いてもいる。実はそう悪い奴でもないと思ってるところもある。割り切れなさってのはあるはずだよね。

 このスー・チーという女のそんな割り切れなさ、決断力のなさ、流されやすさって、こう言ったら申し訳ないがどこか女の最大公約数的なところもある。しかも、相手が年上ヤクザに変わるや否や、今度はそんなズルズルぶりが別の方向に働いてくる。一旦は昔の男にほだされて、また殴られたと言って泣いてゴロニャンと戻ってくる。よくもまぁおめおめと…と言いたいところだが、考えようによってはその図々しさ、あつかましさ、悪びれのなさって、みなさんの人生の中で出会った誰かに思い当たるフシはないか? ヤクザのマンションに上がり込んでは、人のタバコを吸いまくったあげく、「もっと軽いタバコはないのか」とワガママは言う。酒は勝手にガンガン飲む。あげく酔っぱらって、当のヤクザが本業で大変な事に巻き込まれているのに、自分を構ってくれと言わんばかりにベタベタ寄ってくる。

 男二人も二人で、若い男の方は独占欲が強く抑制できず、楽しい事ばかり自分勝手に楽しんで、女に愛想尽かしされそうになると泣きが入る。執着心丸出し。年上ヤクザはと言えば、普段はコワモテで鳴らしているくせに若くて可愛い女には何も言えない。黙って甘やかしていると言えば聞こえがいいが、結局はこの女の言いなりだ。こちらも、二人合わせて何やら男の最大公約数的な見え方がしてくるんだよね。

 何とも発展性のない連中、そしてどうにもならない関係…でも、それって言うのが男と女ってもんだろうね。残念ながらドツボにハマってくるとそんなもんなんだよ。ダメな奴ら。それが僕たちではないか?

 冒頭のパーティーとクラブの喧噪と惰性と倦怠…そこを見て、僕は最近のホウ・シャオシェン映画のつまらなさの理由を思い当たったと言ったよね? 確かにそうだ。だが、今回はまさにそんな喧噪と惰性と倦怠…その真っ直中にいる人間を描いたものだとしたらどうだ? 確かにドンピシャ。そんなものを見せられて面白いかどうかは別にして、そういう世界の持つ実感というものは抜群にあると思うんだよね。そして、そういうものを実際に通過した者にとっては、登場人物たちの気持ちが分かる気がする。他人事ではないと思うんだよ。

 今回は題材と彼の表現がジャストミートした結果、おそらくは少なくともそのへんを知る人にはピンとくる映画になったように思うんだね。

 ただしねぇ、やはり残念ながら傑作とは言い難い

 まずは冒頭から途中何度かヒロイン=スー・チーのナレーションが入るんだけど、ここでヒロインが自分のことを「彼女」と言っていること、なぜかこの話が10年前の追憶だと言っていること…このあたりが意味不明なんだよ。何か意図はあるんだろうけど、頭が悪いせいか僕には分からない。意味ありげなんだけど、それが効果的に機能しているとは思えない。ハッキリ言って単なるコケ脅かしの気取った思いつきにしか見えないんだよね。アートな雰囲気っつうんですか(笑)。

 そんな点はそこだけじゃなくて、途中で唐突に北海道の夕張に行っちゃうあたりも分からない。いや、やりたいことはおぼろげながら分かるよ。要は閉塞状態のヒロインがかい間見る開放感の象徴として、純白の雪の夕張というものを持ってきたんだろう。エンディング、ヒロインの人生どころか物語そのものがどうしていいか分からなくなっちゃって、何らかのカタルシスが必要になって雪の夕張の残像を持ってきたんだろう。まぁ、そういうスカッと抜けた状態を希求するヒロインの心情を出したかったんだろう。それは確かにそうだろう。

 だけど、それが「雪」の「夕張」でなければならない必然性が乏しい。ホウ・シャオシェンがファンタスティック映画祭で来ていい思いをしたとか、雪がキレイだったとか、そんな思いつき程度のことでしかないように思えてしまう。あの場所は知ってるし、楽しかったからあそこでいいや…とか(笑)。何だか内輪受けみたいでねぇ。そんなので設定を決めちゃっていいのかい?

 おまけに唐突に行ったはいいが、行って何をする、何が起きるというわけでもない。ただ行っただけ。たったそれだけの、取って付けたようなエピソードになっちゃってるんだよ。日本に行って雪見せるのもいいかな…ぐらいのノリって感じで。

 どうも、そうした「思いつき」でやっちゃった点が多すぎるように見えるんだよね。そりゃちょっと安易じゃないか? 本当はそうじゃないのかもしれないが、そう見えちゃうという時点で致命的だ。やはりその設定に観客を説得するだけの力がないってことだからね。

 だから、今回のリアルなどん詰まり男女の物語も、題材と表現がジャストミートしたとは言え、それがホウ・シャオシェンの狙ったことかどうか釈然としないんだよ。こうまで映画の中に思い付いただけみたいなスベった部分が点在しているとなるとね。今回ハマってる部分も、おそらくは偶然の産物ではないか? もちろん、力のある作家は偶然も自分の味方にする。映画は特にそんな偶然性に支えられてもいる。だけど、カッタルい映画話法になってしまったホウ・シャオシェン映画が、今回「たまたま」カッタルさを描こうとした(笑)ゆえにうまくいったとなると、それをそうそう喜んでばかりもいられまい。現に眠くはならなかったしリアルな実感もあったけど、決して面白い映画じゃなかったよ(笑)。それに僕は身につまされはしたけど、万人向けって訳ではないだろう。わかんないって人がいても無理ないと思うよ。

 おそらくはホウ・シャオシェンはいまだに苦闘し模索している。何が何だか分からないものを自分の中でも探りながら、スッキリ見えてない状況で手探りに映画をつくってる。そんな時には説明出来ない思いつきにも頼りたくもなるだろう。ツラいだろうねぇ。思えば、登場人物たちのどうにもならなさってのは、ホウ・シャオシェン本人の真情吐露かもしれないよ。そう考えれば、あのリアルさ加減もうなずける。

 でも僕は、彼がいつかきっと本当にやりたい事、やるべき事を見つけるはずだと今回確信したよ。絶対に活路を見出すはずだと信じてる。あれだけの人だ、これで終わりはしないはずだ。今回だってそうだろう?

 偶然とは言え、ツボをちょっとカスりはしたんだからね(笑)。

 

 

 

 

 

 

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