「過去のない男」

  Mies vailla menneisyytta (The Man without a Past)

 (2003/04/14)


「スクラップ&ビルド」こそ我が人生

 いつの頃からか知らないけれど、僕は「スクラップ&ビルド」という言葉をよく使うようになった。

 これって「破壊と再建」みたいな言葉なんだけど、いつ何で覚えたかは分からない。だけど、自分の生活信条をどこかで言い表している言葉のように思えるんだよね。

 僕も今まで何度もピンチと思える事に遭遇した。まぁ、ホントに大変な人生を歩んでる人からすれば些細なことに見えるだろうが、本人としてはその時点その時点でそれぞれ大変なことではあった。まぁ一番最初に覚えているのは、やっぱり小学生の時に集中的なイジメにあった時かな。体が弱かったから、まぁターゲットにされたわけ。それが僕を一番叩いていた奴がいなくなった時にガラッと周囲の接し方が変わったあたりで、僕も何かを感じたのかもしれない。僕はその日からそれまでの自分を捨てようと思った。絵の勉強もやめたし、キャラクターから何から一変させようとした。たぶん、あれが僕にとっての「スクラップ&ビルド」の最初の時だったと思うよ。

 そういう挫折を経てすべてをチャラにするってこともあるけど、物事順調にいってても行き詰まりってのはある。マンネリとか垢みたいなものが溜まって、だんだん耐え難い感じになっていく。そうすると「スクラップ」。一旦チャラにするってのが心地よいことがあるんだよ。もちろん、むやみに「スクラップ」にはしない。というか、僕はむしろ自分の築いてきたものには、人一倍愛着も未練も執着もあるタイプなのだ。出来ればそれを維持したいと願う。そのために出来ることは何でもする。何でもやって妥協に妥協、譲歩に譲歩を重ね、それでも何とかしたいと願う。僕はまた、出来れば自分が船の船長のようでありたいとも思っているとは、かつてどこかで書いていたと思うよ。船が沈みかけて、乗客や乗員が全部逃げ出しても、最後まで船を何とかもちこたえさせたいと願っている…それが僕という男だ。

 だけど、どうにもならない、こりゃもうダメだとなったら、そこからはちょっと違う。放置したり逃げ出したりはしない。ただ「スクラップ」…自分の手で破壊する。すると、物事に別の面が見えたりし始めることもあるんだよ。そうして、また別の「船」を見つけるかもしれない。でも、そうして見つけた「船」は、もうかつてのそれとはどこか違うものなんだよ。で、たぶんそれはもっといいものだ。

 僕がそれを自覚したのはいつ頃だろうか。おそらくは昔、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドをやってた頃の宇崎竜童のインタビューを読んだからかもしれない。彼はその頃、バンドの活動に煮詰まっていたみたいで、過去の曲を一切演奏しないと封印したばかりだった。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドって言えば、「スモーキン・ブギ」とか「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」とか、それなりにヒット曲もあった。コンサートでそんな曲をやればそれなりに盛り上がったし、まずはまだまだ大物バンドとして顔が利いていた時期だ。

 だが、彼はなぜか過去の曲を封印しちゃったんだよね。そして新曲だけで勝負しようとした。案の定、コンサートではブーイングをくらったり、客がみるみる減ってもきたりしたみたいだ。それでもあえてやったんだね。

 最終的にその試みがどうなったかは知らない。ただ、僕は宇崎竜童のファンでも何でもなかったんだけど、彼がやったことの意味ってのは分かる気がしたんだよ。そして、すごく素晴らしいことに思えた。

 人生には自分の意志で「スクラップ」するばかりでなく、否応なしに「スクラップ」されちゃうことだってある。その時は空しい気持ちで一杯にもなる。だけど、「スクラップ」は悪いことじゃない。なぜなら余計なものが何にもなくなって、もはや妥協も譲歩もない、何も人質にとられない、自分の足を引っ張る何者もない気楽さってのがあるじゃないか。失うものがないってのは、こりゃ究極の自由だよ。

 世の中には「スクラップ」を体験して、それから自分を失ってしまう人間も数多くいる。結局最初の「船」と共に沈んでしまう者もいる。一旦はすべてから脱出出来たはずなのに、また性懲りもなく沈んだ「船」に舞い戻る人もいる。きっと自分の何が悪かったのか、そこから何も学べない人なんだろうね。でも、僕は断じてそうはならないと決めた

 だってそれは、すべてを自分の望む通りにやり直すチャンスが出来たってことじゃないか。

 

自分の過去をなくした男の新規巻き直し

 夜汽車に揺られる一人の男。彼はある街にたどり着き、そこの公園のベンチに一人腰を下ろす。ところが後ろから襲いかかる三人組の暴漢。ボコボコにされて荷物は持って行かれ、財産もスッカラカン。気を失った彼の顔に、暴漢の一人は溶接工のマスクをかぶせてからかう。それは「男」の持っていたカバンに入っていたものだった。

 やがて「男」は頭から血を流しながら、ヨロヨロと夜の駅に舞い戻る。そして、そのまま駅のトイレでバッタリ倒れてしまった。

 「男」が担ぎ込まれたのは、深夜の救急病院。頭の打ち所が悪かったか、包帯グルグル巻きの「男」の心臓は、そのままだんだん弱くなって停止してしまった。

 医師は身元不明の死者として、彼の元から去る。だが誰もいなくなった病室で、「男」はいきなりムックリ起きあがった

 手近にあった自分の服を着て病院を去った「男」だが、またしても力尽きて港で倒れる。そんな彼の残り少ない財産であるブーツも、浮浪者によって持ち去られた。だが、そんな包帯の「男」を、たまたま通りかかった二人の少年が見つける。

 この二人の少年、港の側に蔵置されたコンテナを住まいとする、貧しい一家の子供だった。一家の亭主ユハニ・ニエメラはこの「男」を助け、狭い我が家に迎え入れた。妻のカイヤ・パカリネンは甲斐甲斐しく介抱した。その甲斐あってか、「男」は急速に回復する。やがて包帯を取って口をきくようにもなった「男」。だが、彼は自分が誰かを忘れていた。記憶を失っていたのだ。

 それでもコンテナの一家は彼を暖かく迎えた。貧しいながらも淡々とした暮らし。亭主は週に三日の警備員の仕事で収入を得て、妻もそれを誇りに思っている。決して自分たちを恥じたりしていない。周辺に住む貧しい人々も、それぞれに淡々と暮らしを営んでいる

 金曜日にはディナーだ。それは救世軍のスープの配給がある日。亭主のニエメラに誘われて、「男」も配給の列に加わる。そこでスープを配っているのは、救世軍の女カティ・オウティネンだ。そして「男」の配給の番がやって来た時、二人は初めて目と目を合わせた。

 ここで会ったが百年目。

 オウティネンの面影は、「男」」の脳裏に強烈な印象を焼き付けた。

 だが、「男」の気分はすぐれない。自分が何なのか、何の仕事をしていたのか、何が好きだったのか、まるで分からない。だが、亭主のニエメラは彼に淡々と告げる。「前を見ろ。決して人生は後ろには進まないんだよ

 一方、救世軍の女オウティネンはどんな女かというと、これもつましく生きる寂しい女ではあった。毎日、救世軍の事務所と救世軍の寮を往復する単調な暮らし。友だちもいない。まして恋人などはとてもとても、彼女のシャイな性格では望むべくもない。毎夜寮の殺風景な自室に引き揚げた後でドアの隙間をタオルで塞ぎ、救世軍お約束の毒にも薬にもならない音楽の代わりに、ひそかにロックンロールのラジオを聴くだけが楽しみだ。それでも、そんなひそかなロックの楽しみに、彼女の胸の内に秘めた情熱のかけらがかい間見えていたのかどうか。

 やがて「男」は、この港の一角に住居を得ることになった。ここら一帯を仕切っている警備員サカリ・クオスマネンの手引きで、ここに打ち捨てられていたコンテナの一つを借り受けることになったのだ。ただ、この男はいささか強欲で、貧しい人々にしたら法外な家賃を要求する。それでも人々は、黙ってそれに従わざるを得ない。「男」はともかくコンテナを手に入れると中を掃除し、貧しいながらも住み良い空間へとつくり変えていった。あの亭主ニエメラや近所の連中も手伝ってくれて、捨てられたジュークボックスまで設置されたイカした住まいだ。コンテナ住宅の前にはジャガイモを植えてちっちゃな家庭菜園までつくり、夜にはジュークボックスでブルースやロックンロールを聴く悠々自適な日々。

 あとはお金が必要だ。

 「男」は職安に出かけるが、名前も何も分からない人間に職安は冷たい。疲れ果ててたどり着いた一軒のカフェ。「男」に金がないと見てとった女主人は、残り物の食事を分け与えてくれた。

 「男」の心に、食事の暖かみと人情がしみわたる。

 結局、「男」はいつしか救世軍の事務所にやって来た。そこで困り果てた「男」の窮状を察した例の女オウティネンは、救世軍の仕事を斡旋してくれる。だが、給料日の前に家賃支払いの日が来てしまった。

 案の定、例の強欲な警備員クオスネマンが彼の家に脅しにやって来る。結局支払いを待つことには同意してくれたものの、クオスネマンは出張のために自分の犬を預かるようにと「男」に言い渡した。その犬はひどくどう猛で、知らない人間には凶暴に襲いかかると言う。これが警備員クオスネマンの彼一流の脅しだったのだろう。

 だが、連れてこられた犬…その名もハンニバル(笑)は、なぜか借りてきた猫のように「男」になついてしまった

 そこから、「男」の人生再構築が始まった。

 仕事の終わりに救世軍の事務所前で待ちかまえ、オウティネンに話しかける「男」。彼はドサクサにまぎれてオウティネンにキスし、遠慮がちな彼女の心をとらえてしまった。ある夜には自分のコンテナ住宅に彼女を招待して、夕食の後に彼女と暖かく抱き合った。

 ついにはクルマを駆り出して、彼女とキノコ狩りに出かける。「男」がとってきたのはどれもこれも毒キノコだったが、そんなことは問題ではない。「男」は、そしてオウティネンは幸せだった。

 さらには救世軍で人畜無害で活気のない音楽を演奏していたバンドの面々に、もっとイキのいい音楽をやってはどうかと提案する「男」。彼はそんな音楽など耳にしたことのないバンド連中を自宅に招き、ジュークボックスでお気に入りの音楽を聴かせる。バンドの連中もその音楽に、ついつい足がリズムをとり身を揺すりだした。そんなバンド演目の刷新に、救世軍のお偉いさんたちも耳を傾けた。堅物とばかり思っていた救世軍のおばさんアンニッキ・タハティまで「昔は私も歌ってた」と言いだし、野外コンサートではシブいブルースが演じられて大好評

 ノリにノッた「男」は救世軍バンドを引き連れ、夜のささやかなロックコンサートを開催した。お客はみんな付近の浮浪者や貧しい人々。だが、久々の娯楽にみんなウキウキしていた。そんな様子を聞きつけて、あの強欲警備員クオスネマンも駆けつける。

 「入場料は?」

 無料と聞いて驚くクオスネマン。みんなが喜べば本望とでも言いたげな「男」に、クオスネマンは心底驚いていた。そんな「男」の頼もしい変わりように、オウティネンの気持ちもはずんできた。「男」のささやかな人生建て直しが、この界隈の人々の何かを変えていった

 そんな「男」は、ある日、港の港湾労働者の溶接作業を目撃し、自分でもやってみたいと申し出る。すると、かつて腕に覚えがあったのだろうか、その技術は確かなものだった。早速採用が決まって会社の事務所に出向く「男」。だが案の定、自分の名もないことがネックになった。いや、実は名前は問題ではない。銀行口座がないことが問題だった。

 街のひなびた銀行に出かけた「男」は、自分の口座を開こうと相談する。だが、名前のない「男」に口座は開けない。しかも、そんなやりとりの最中に初老の男エスコ・ニッカリが銃を持って押し入ってくる。彼は銀行強盗だが、ただの強盗ではなかった。自分の凍結された口座から金を引き出したいだけだったのだ。この強盗ニッカリは必要な金だけ口座から下ろすと、銀行員と「男」を金庫に閉じこめてその場を去った。

 さて、警察によって解放された銀行員と「男」。だが、警察は名前のない「男」を何だかんだと杓子定規なことを言ってブタ箱にブチ込む。万事窮すと思いきや、急を聞いた救世軍のオウティネンが凄腕弁護士を送り込み、「男」は何とかシャバに出てこられることになった。

 やっとこ難を逃れた「男」がバーでビールを飲んでいると、一人の男が彼に近づく。何とそれはあの強盗ニッカリではないか。彼は「男」に相談があると言う。ニッカリに連れられて行った先は、すでに倒産して閉鎖された廃工場だった。

 実はこの初老の強盗ニッカリ、元はこの工場の社長だった。ところが不況のあおりで銀行には資産を凍結させられ、従業員に給料も払えなくなり倒産。それでも従業員たちへの不義理を何とか返したい一心で、あの強盗を行ったというのだ。だがその結果、ニッカリはお尋ね者となった。そこで従業員への給料の返済を、この「男」に任せたいと言うのだ。「男」はしかとこの役目を引き受けた。そして「男」が廃工場を後にするや否や響く一発の銃声…。自分の命と引き替えにスジを通したニッカリに、「男」の胸は痛んだ。

 こうしてニッカリの遺志を全うすべく、かつての工場の従業員たちを尋ね歩き、未払い分の給料を手渡していく「男」。だがそんな「男」に、ある日思いもかけぬ知らせが舞い込んだ。

 「男」の身元が分かったと言うのだ。

 「男」の名はマルック・ペルトラ。例の銀行強盗騒ぎの時に彼の顔写真が新聞紙上をにぎわし、それを見た彼の妻が、警察に届け出たと言うのだ。

 彼の妻?

 何とマルック・ペルトラこと「男」には妻がいたのか? このペルトラ、かつては溶接工だったと言うから、たぶん間違いはないだろう。そして、そうと分かったら元の生活に戻らぬわけにはいかない。

 駅には「男」の恋人となっていたカティ・オウティネンが見送りに来た。戻りたくない、離れがたい…だが、妻のある身である以上戻るしか道がない

 「俺を忘れるのか」

 「あなたは初恋の人よ」

 かくして切ない思いを胸に抱きながらも、数奇な運命で引き裂かれてしまう二人。果たしてこのまま二人は、離ればなれになったままになってしまうのか。そして、記憶から消え去ってしまった「男」の過去とは、一体どのようなものだったのだろうか…。

 

毎度おなじみカウリスマキ節と見えて

 フィンランドのアキ・カウリスマキ監督の最新作。今年のアカデミー外国語映画賞にもノミネートされた作品。カウリスマキがイラク戦争に抗議して、授賞式をボイコットしたのはみなさんもご承知の通り。実は今回も、例によって例のごとしのカウリスマキ作品…と一言で片づけてしまおうと思えばそう出来るような映画だ。ドラマティックな要素がほとんどないこと、寡黙で無表情な登場人物たち、およそ熱くならないドライでクールなタッチ、そこかショボくれた設定、たくまざるユーモア…カウリスマキが小津の信奉者だと聞くと、全然違う作風ながらもそのどこかストイックな語り口…饒舌さとは対極にある寡黙さに共通点ありと見えなくもない。

 だから、いつもと同じカウリスマキ映画…と言えるのかと言うと、実は僕の中ではちょっと違うのだね。それはこれから徐々に解き明かしていこう。

 そもそも僕とカウリスマキとの出会いは、「マッチ工場の少女」から始まった。

 惨めな女の子の日常を描いて、何ともシュール。どこの国かいつの時代かも分からないほど、徹底的に絞られた情報量の中で展開する物語。それは悲惨と言えば悲惨なんだけど、あまりに悲惨すぎて涙も乾いちゃったくらいドライでクール。悲惨すぎて笑っちゃうほどユーモラスでもあった。そして悲惨ではあるが、このヒロインの健気で一途な思いは見る者の心に届いた。このカウリスマキ体験は衝撃的だったよね。好きとかいいとか言うより、とにかく衝撃的。スゴイもの見ちゃったって気がした。

 この「マッチ工場の少女」ではもう一つ、映画で使用される音楽の趣味の特異さに驚かされた。いつもカウリスマキ映画と言えば、地元フィンランドのバンドの演奏らしき時代遅れなポップ・ソングみたいなものばかりゾロゾロと出てくる。「マッチ工場の少女」でも、ヒロインが立ち寄るダンス・ホールのバンドが奏でるタンゴの歌が何とも絶妙。耳にこびりついて離れない。その後、カウリスマキはレニングラード・カウボーイズの映画をつくるに至って、音楽に強いことを証明して見せた。だが、それにしてものユニークな音楽の趣味だ。

 さて、この次に見たのがイギリスで撮った「コントラクト・キラー」。珍しく有名俳優ジャン=ピエール・レオを起用してのこの作品。決してレオは浮き上がることなく見事にカウリスマキ世界に溶け込んではいたが、何となくレオという見知った顔がいただけで「普通」の映画に近づいた気がした。「普通」に面白い映画だ。その後、「ラヴィ・ド・ボエーム」「愛しのタチアナ」…などなどカウリスマキ作品を見て、毎度のように感心し楽しんではきた僕。だが、そんな諸作品を目にするようになってくると、実は大きな声では言えないがちょっと物足りなさも感じてたんだね。

 いや、別にそれらの作品がキライなわけじゃないんだよ。どれもそれなりに楽しんだし、他の映画では味わえない独得な良さも感じていた。だけど、最初の「マッチ工場」の衝撃があまりにデカかったせいか、その後の作品はどれも好ましくは見えても、なぜかぬるま湯のように思えなくもなかった。それも、作品を追うごとにそのユルさは増していった気がするんだね。

 あのねぇ、実際ユニークで独自な話法や文法を持つ作家ってのは、そのユニークさが鮮烈な印象を残すし、それを何度も見たいという根強いファンもつくるんだけど、その強烈さ故に色あせてくるのも早いんだよね。最近での例を挙げれば、たぶん台湾のホウ・シャオシェンがそうだろう。僕は「非情城市」まではとても感心していた。だけどその次の「戯夢人生」からハッキリ言って退屈した。それはおそらくホウ・シャオシェン自身もそうだったのだろう。その次から彼は作品のスタイルをがらりと変えた。だが、その路線変更ってのはそれまでの作風が強烈なら強烈なほど簡単には出来ない。あのスピルバーグでさえ、「E.T.」以後の作風変更による低迷を「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」で打破するまでに長い長い時間を要した。どうもホウ・シャオシェンは、現段階では新たな段階に到達出来てないように思える。

 話が脱線した。ズバリと言うと、アキ・カウリスマキはマンネリだったかって話だ。でも決して彼の作品って、世間的にはマンネリだなんて言われてはいなかったよね。じゃあそれは単に僕の偏見なのだろうか。そうかもしれない。そうでないとは言えないよ。ただ僕はちょっぴりそう感じ始めちゃったんだよね。そして、カウリスマキ作品はその基盤に寡黙さやストイックさがあったから、そうはマンネリが露呈しなかったと思うんだね。…いや。意地悪な見方をすると、表現というものを語る上でいまや絶対的な美徳である「寡黙」「ストイック」が作品のレッテルであるために、なかなか批判されにくかったとも言える。こう言っては少々キツいだろうか?

 だから僕は、世評が高かった「浮き雲」も、実はあんまり印象がない。何となく面白かったかな〜くらいの気持ちしかない。もちろん決して悪くはないよ。嫌いじゃない。むしろ好きな映画だ。でも、特に傑出しているとは思わなかった。世間がホメそやすほど、いい出来とは思わなかったんだね。今見たら違うかもしれないけど。

 そして前作にあたる「白い花びら」。ここでは何と珍しや完全サイレント映画(ただし音楽だけは入っているが)という奇策に出たカウリスマキ。だけど、元々が「寡黙」で「ストイック」な彼のこと、これもそんな彼の映画作法をさらに推し進めた結果だろうと誰しも思った。僕でさえ思った。饒舌な表現を嫌うがあまりの、それは一つの挑戦状的作品とさえ思った。そして、現代にサイレント映画をつくれる男はこのカウリスマキぐらいのものだろうと、それなりに感心もした。これはその手法への驚きからか、ちょっとした新鮮味さえ感じたんだよね。

 ところが僕がそんな「白い花びら」に、少々懐疑的な気持ちになったのは間もなくのことだった。それは「ツバル」を見たからなんだよね。この映画もある意味ではサイレント映画の手法を現代に蘇らせたかのごとき作品。だが、作品それ自体はワイドスクリーン、カラー、ドルビーステレオで、音楽以外のサウンドトラックもちゃんと付いてる。そしてセリフがバンバン入った「今」の映画以上に雄弁だ。要はセリフに頼らない映画づくりをしたいということが、こういう手法を選ぶ目的な訳だろう。それならカウリスマキだって、わざわざ窮屈な昔のサイレント映画のお約束を、何から何までがんじがらめに踏襲する必要はなかったはずだ。モノクロ、スタンダード、サイレント…そこまでやる意味ってあったのか。「ツバル」を見た目には、そんなカウリスマキ流サイレント回帰が、ひどく無理で不自然なものに感じられたわけ。意地悪い見方をすれば、ちょっと映画マニアっぽい自己満足にさえ思われ始めたんだよね。

 ところが今回の「過去のない男」を見て、この「白い花びら」に対する評価はまたしても一転した。その理由は後に述べる。

 この「過去のない男」、一見従来のカウリスマキ作品と同様に思えるのだが、その依って立っている土台は、実は微妙に変わっているように思えるんだよね。

 基本的にはこの作品、それまで築いてきたもの一切をなくした男の、人生再構築物語だ。そんな基本パターンだけを引っこ抜いて見ると、この作品のベースはほとんどアメリカ映画十八番のそれと重なる。自分のすべてを失うことに始まり、厳しい現実と周囲の暖かい人情を交え、そして積極的な立ち直り。途中で試練が襲いかかり、決定的な危機が訪れるが、最後には奇跡のような至福が主人公と観客に訪れる。基本にあるのは人生の大肯定。その中心にお互い心に傷を持つ者どうしのロマンスが据えられているのもお約束。何とこのカウリスマキ作品、語り口の寡黙さゆえにそれとは気づかされにくいが、彼の作品群とあまりに対照的に見える、世界で一番饒舌で明快で説明的なアメリカ映画の典型とほぼ同じような展開になっているんだよ。「人生は後ろには進まない」なんて、まるで「ロッキー」のスタローンだって口にしかねないセリフなんだよね。

 しかも立ち直り始めた主人公の行動が、何とも積極的で前向き。自分の生活を改善するだけでなく、周囲にもどんどん働きかけていく。最後には回りの人々すべてを変えていく。またしても「ロッキー」を引き合いに出せば、シリーズ第4作ラスト、モスクワのリングでスタローンが「みんな変われるんだ!」なんて叫んだことまで思い出させる。確かに今までもアメリカ映画の人情話に通じるものは持っていたものの、ここまで前向き建設的な話ってなかったんじゃないか?

 でも、ひょっとするとカウリスマキってこのアメリカ映画の良質な部分ってのを、本当はすごく重要視していたのかもしれない。「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」でアメリカでのロードムービーを敢行したり、短編で「ロッキーVI」(上記スタローン=ロッキーがモスクワへ行く作品とは当然のごとく別物で、僕は未見だが、おそらくは何らかの関連があり?)なる作品を発表してもいるのだ。絶対その意識の中にアメリカ映画がないわけがない。先に指摘したように、それ以外の作品にもささやかなりともそんな傾向はあったように感じる。今回のオスカー授賞式ボイコットだって、アメリカ映画をこよなく愛する彼だからこその、悔しさも手伝っての抗議行動と見ればより理解できる。

 だとすれば、カウリスマキはここで改めて、自分の本当に追い求めていたものを改めて見い出したと言えるのかもしれないんだよ。

 そして、そんなあたりから前作「白い花びら」も、別の見え方をし始めたんだよね。

 

映画づくりにおける「目的」を取り戻すために

 「白い花びら」はサイレント映画…そして、それは一見、「寡黙」で「ストイック」なカウリスマキ・イズムを突き詰めていったが故の作品と見えた…ってことは、先の述べた通りだ。

 だが、本当にそんな饒舌さを取り除きたいが故の思いだけで、あんなまんま昔のサイレント映画を再現する必要があっただろうか…という疑問も、「ツバル」との比較で語った。

 さて、それではカウリスマキは単に「映画マニア的自己満足」で、あの作品を撮ったのか…という点に触れていこう。

 僕はここで検証しておきたいのだ。すなわち、サイレント映画=寡黙でストイック…なのかどうかを。

 サイレント映画は確かに表現上の制約や限界がある。だから、饒舌さを嫌うカウリスマキ映画と一致する。…実はこれは誤りではないのか?

 サイレント映画はセリフや効果音に頼れない。そこでどうなるかと言うと、映像勝負と言えば聞こえがいいが、そこに出てくる演技者たちはひどくオーバーアクションを強いられる。わざとらしいのだ。それはサイレント故に許される表現でもある。そして演出も映像も、微妙でデリケートな表現よりもザックリと分かりやすいことが望まれる。黒か白か。ぼんやりした表現はあり得ない。

 それってむしろカウリスマキ映画のあり方の、むしろ極北にあるものとは言えまいか?

 よくよく見れば、「白い花びら」の物語は起承転結メリハリがついて、実は結構ドラマティックではある。と言うか、そうならざるを得ないのだ。いつもは淡々とした演技を見せる常連女優カティ・オウティネンでさえ、この作品では意外にも目だった芝居をしている。寡黙どころではない。音がしないだけで、実はこれほど饒舌な作品もないのだ。だからサイレント映画という形を借りて、カウリスマキは従来のスタイルをガラリと変えていることになる。これは検証してみた僕にとっても意外な事実だった。

 こうなると「白い花びら」は、カウリスマキにとってペースとスタイルを一変するための実験作であった可能性が強くなる。なぜサイレント作品を選んだか…という問いには、普通の映画スタイルでの饒舌さはカウリスマキには不向きであろうし、また観客もそんなカウリスマキに戸惑うことは必至だろうからだと答えられよう。サイレント映画はスタイル変更の隠れ蓑だったと言えば言いすぎかもしれないが、カウリスマキ流饒舌映画をつくる上で必要な形式だったとだけは確実に言えるはずだ。

 では、カウリスマキはなぜ一時的にでも、そんなスタイルの変更を余儀なくされたのだろう?

 それは単にマンネリのせい…だけでは説明にならない。では、そもそも僕がマンネリと感じたものは何かを、しっかりとらえる必要があるのだ。

 実は同一のスタイルを堂々と最後まで踏襲しきって、そのまま観客を飽きさせないで全うした映画作家だっていっぱいいる。同じスタイルを続けるとマンネリになる…とは一概に言えないと僕は思うんだね。では、なぜマンネリと感じられることがあるのか?

 それはおそらくルーティン・ワークの持つ誘惑なんじゃないかと思う。

 そもそも映画作家が作品をつくる時には、お金とか映画会社からの要請などの要素を抜きにすると、まずつくりたいモチベーションが必要だ。「何を語りたいか」…これは映画づくりにおける「目的」と言えよう。

 そしてそれを実現するための語り口、スタイルというものがいる。表現と言ってもいい。ここではそれは「手段」だと言えよう。

 そして他のすべてのいろいろな事柄同様、「手段」は「目的」のためにある。それが物事の道理というものだ。その逆はあり得ない。

 ところが、おそらくある種の特異な語り口、スタイル、表現を持つ作家の作品づくりでは、これら「表現」がもてはやされて一人歩きし始めることがある。ペキンパーだったらスローモーション、ブライアン・デパーマだったらカメラ長回しのままのパン、ウォン・カーウァイだったらダラダラのアドリブとか、まぁ明らかにその人の意匠が前面に出てくるものだ。これらが成功すればするほど、そして評価されればされるほど、時として思わぬことが起きる。

 すなわち、この語り口、スタイル、表現を行使するための映画づくりを始めるのだ。

 それはすでにレールが敷かれたことだから、楽だし安全だ。みんなもそれを望んでいる。しかも好きで編み出した手法なのだから、やっている自分だって心地よい。こうして表現が優先された映画づくりが始まる。

 だが、それは単なる「手段」が「目的」化することでもある。本来なら語りたいことがあって使われる「表現」なのに、「まずそれがありき」になったら主客転倒だ。こうして作品は空洞化し形骸化していく。これすなわち、いくつか考えられるマンネリの原因のうちでも、最も多いケースではないかと僕は考えているんだけどね。つまりは策士が策に溺れるがごとき状況だ。

 で、やや酷な言い方かもしれないけど、カウリスマキもここに溺れ始めたのではないかと思うんだよね。完全にハマっちゃった訳ではないかもしれないけど。

 あるいは、少なくとも彼自身はその危険性を感じ始めたのではないか。

 そこで、あえて自分の「寡黙」「ストイック」なスタイルを一時的に転換してみた。それが「白い花びら」ではなかったか。

 それを行うためにサイレント映画という器が必要だったこと、そうまでしても他人には自らの転換を悟られたくなかったこと…そんな「さりげなさ」を切望したあたりは、やはり「寡黙」で「ストイック」なカウリスマキらしさと言えなくもないけどね(笑)。

 そしてカウリスマキが改めて気づいたのは、アメリカ映画の良質な部分が持つ、ある種の明快さと善良さへの憧れじゃないかと思うんだよ。それが元々自分の根底にはあったんだと再認識した。それこそを描きたかったはずだと思い出した。

 ただ、いまや本家本元のアメリカ=ハリウッドは、この自らの良質な部分を生かすことが少なくなってしまっている。それはあまりに饒舌だし派手だし過剰だからだ。物量、音響、制作費、SFX…何でもトゥマッチな今のハリウッドでは、それは再現困難な良質さなのだ。それを自分なりに再構築してみようというのが、本来の…そして今回改めてのカウリスマキの試みだったと考えるんだよね。

 カウリスマキの「寡黙」で「ストイック」な語り口だからこそ、そんな典型的アメリカ映画ふう人生再構築物語がクサくならない。終盤はどうしたってハッピーエンドにならなきゃいけない話だが、ヘタに扱えばアホらしくなる。そこをあれほどご都合主義な結末をつけながら、ウソっぽくなくリアリティを持って描けたのもカウリスマキ・スタイルであるが故なのだ。これはだから、従来までのカウリスマキ・スタイルの単なる踏襲ではあり得ない。あくまで「目的」のために「手段」を行使することを強く再認識し直した、本来あるべき健全なつくり方に戻ったカウリスマキ映画の姿なのだ。

 何だって? 神聖なるアキ・カウリスマキをアメリカ=ハリウッドになぞらえたのが、そんなにミニシアター好きのアナタには不愉快か? くだらないアメリカ映画とカウリスマキを一緒にするなとお怒りか?

 そして、カウリスマキは小津に影響を受けたのは周知の事実だって? 劇中で主人公が寿司を食い、バックに夜のムード歌謡みたいな日本のバンドの歌が流れてるのが、その何よりの印だって? そりゃどうか知らんが、確かに小津に影響を受けてはいるんだろう。

 だけどね、その小津がそもそも若き日にアメリカ映画の直接影響をモロに浴びているんだよ。そして、おそらくは小津映画の乾いたタッチには、アメリカ映画へのシンパシーがあるはず。あのドライさは、実はアメリカのハードボイルド映画譲りだったのはおそらく間違いない。だったら、カウリスマキ映画の源流にアメリカ映画を見いだしたって、おかしなことはないだろう?

 ともかく人生の力強い再構築を描いたカウリスマキ最新作「過去のない男」は、今の僕の心に直球ストレートで届いた。僕も今、何より人生再構築のためにまた一から出直そうと思っているからね。この映画は何よりそんな僕への応援歌になってくれた。人生はいくらでもやり直せるんだと言ってくれた。だから、この映画は僕にとって一番好きなカウリスマキ映画になったよ。これは極めて個人的な話だけどね。ひょっとして自殺したあのレスリー・チャンだって、この映画見てたら死なずに済んでたかもしれないよね…。

 そして、この映画がそんなに僕の心に実感として届いたのには、きっと理由があるに違いない。それは主人公の人生の「スクラップ&ビルド」を描いたこの作品が、カウリスマキにとっても人ごとではなかったからだ。

 彼もまた人知れず、自分なりの「スクラップ&ビルド」をしていたはずだからね。

 

 

 

 

 

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