「裸足の1500マイル」

  Rabbit Proof Fence

 (2003/03/17)


親父のありがたみは後から分かる

 うちの親父ってのは今じゃ病気しちゃって弱くなったけど、あれで結構怖いとこあったんだよね。

 普段は母親がガミガミ言って、子供としてはうるさくて仕方ないわけ。で、こっちも「うるせえな」とか言い返してる。親父はそういう時はずっと黙ってるんだよ。ところが、ここぞって時になると出てくる。この親父が出てくるともういけない。たまに怒るから怖いわけ。親父と対峙するときには、それなりの覚悟ってものがいるんだよね。

 それでなくてもうちは保守的な家庭。まぁ僕が何かやりたいと言えば、自分からやりたがる事にはまずオーケーが出ない。僕も道楽息子だからロクなことやりたいって言わないんだけど(笑)。ガキの頃なんか、ロックバンドやりたくてドラムスをやりたいとかヌカしてたわけ。そうなると、まずは親父の一喝が来るんだわな。

 その時の親父の言い草がふるっていて、一言目にこう来る。「絶対やるんだな、最後までやり通せるんだな」

 これねぇ、やりたいやりたいと言っても、単なる思いつきだとそこまで答えきれないんだよね。そんな親父の一喝でビビって、やりたい気持ちを引っ込めたことも何度かある。情けない話かとは思うが、そういう親父の言葉に答えられなくなっちゃってさ。

 じゃあ僕はいつも親父にやりこめられてグウの音も出なかったかと言うと、そうじゃないんだよ。実はど素人ながら8ミリ映画をやろうとした時もそれがあった。その時はどうしてもやりたくてやりたくて、親父が何を言おうが言うこと聞かなかった。そうすると親父はもう黙っちゃうわけ。自分が堅気の仕事をやめて、ライターになりたいって言い出した時もそうだったっけな。

 今、思えば中学の時にドラムスをやりたかったのは、単にいいカッコしたくてモテたかったから。だから、すぐに引っ込めても気にならなかった。たぶん、あれでやっててもダメだったと思うよ。だけど、ヘタっぴ8ミリ映画づくりやライターになるってことは、とにもかくにもある程度はやり通したからね。やっぱり本人のやる気と覚悟の程が違っていたんだろうね。本当にやりたいこと、自分が正しい、やるべきだと思うことってのは、誰が何を言おうとやってしまうものなんだろう。いや、ちょっとばかり反対されたからって引っ込めてしまうようなものなら、きっとモノになんかならないんだろう

 そういえば、ここで持ち出すべき話かどうかは分からないが、僕も人生で重大な決断を考えたことがある。それが何であれ、とにかくその後の人生をある程度決定づけることだと思ってくれ。一度はそれでイケイケでいってたものの、すぐに物言いがついた。今度は相手は親父じゃなかったけどね。その時、僕はなぜか押し切れなかったんだよね。そして結局時が解決するとか言っているうちにウヤムヤになってしまった。僕のその時の決断そのものは間違ってたなんて思わないけど、その時もう一つ強引に押し切れなかった理由は、僕にもちょいと弱いところがあったからだと今になってみれば思う。物言いがついたとか、反対されたとか、そんなつまんない事だけなら僕は言うことを聞かなかったと思う。つまりは、その時コトがすべて熟していたわけではなかったからだと思うんだよね。やはりその時点では、どこか脆弱なものがあったんだと思う。片づけなければならない問題が、まだ厳然としてあった。そんな不安が、実は自分の中にもまだあった。それなのに、目をつぶってやっちゃおうとした危なっかしさがあったんだろう。そう考えれば、挫折したこと自体は悔やまれるものの、その時点での結果としてはそれで良かったのかもしれない。思いそのものは正しかったと思っているが、それを実行に移すにはいささかまだ欠けた要素があったんだろうね。そして覚悟も甘かった。

 思い起こしてみれば、親父のおっかない言葉ってのは僕の「本気」を試していたものかもしれないよ。その事自体に賛成であれ反対であれ、物事がうまくいく確率はいつだって五分と五分。僕にだって、そして親父にだって分かるはずがない。人間には先のことなんか分からないんだからね。ただ、少なくともそこに本人の「本気」…強い意志の力がなければ、うまくいくもんだっていかなくなるだろう。それは回りが賛成だろうが反対だろうが同じだ。だとすれば、とにかく反対しておくってことは、ある意味で親心と言えなくもないだろう。今にして思えば、なるほどと思ってしまうわけ。そうやって叩いておいて、それでもやると言うなら出来るはずだ…と。

 何かを成し遂げるには、必ず意志の力が不可欠なんだからね。

 

広大な大地を舞台にした少女の逃避行

 1931年、ここは西オーストラリアの砂漠の村ジガロング。時にオーストラリア政府は、先住民族アボリジニへの抑圧政策を続けていた。白人政府がやったことはもう一つ。大陸を分断するようなスケールのデカい事業…ウサギ防護フェンスを張り巡らすことだった。

 そんなジガロングの村に平和に暮らす女の子たちがいた。14歳のエヴァーリン・サンピ、その8歳の妹ティアナ・サンズベリー、そして10歳の従姉妹モーラ・モナガン。彼女たちはみな、例のウサギ防護フェンスをつくるためにやって来た白人と母親との間に出来た子だ。だが、すでに父親たちはみな去ってしまった。それでも彼女たちはサンピ姉妹の母親と祖母に守られて、毎日アボリジニの知るさまざまな知恵を教えられていた。特にサンピは狩りの事や自然の事など、さまざまな知識を吸収して母親の目を細めさせていた。母親は大空を舞う一羽の鳥を指さすと、娘サンピに告げる。

 「あの鳥をごらん。あれが精霊の鳥よ。あれはどこにいてもおまえを守ってくれる

 ところが平和な暮らしは突如破られることとなった。オーストラリア白人政府は、アボリジニ保護局という機関を設置し、とんでもない政策を実行に移していたのだ。それは白人との混血のアボリジニの子供を、有無を言わさず親から引き離して「白人教育」を受けさせること。無茶な話だが、それを推進する保護局の局長ケネス・ブラナーには大マジメな話。それこそが子供たちを原始的で無知な暮らしから救い、文明を与えることと信じてのことだった。そして今まさにブラナー局長は、例のサンピ、サンズベリー、モナガンの3人の少女たちに白羽の矢を立てた。

 ブラナー局長の命を受けた警官がいきなりクルマでやって来ると、母親と祖母から無理やり引き離し、3人の少女たちを引っさらって行った。後に残された母親は大地に突っ伏して泣き続け、祖母は自らの頭を石で叩き続ける。もちろん少女たちは不安におののくばかりだった。

 彼女たちはオリに入れられ、列車で延々揺られたあげく、パースの街の北にあるムーアリバー先住民居留地に運ばれた。ここにある寄宿舎で、「白人教育」が始まるのだ。

 しかしそれは「教育」とは名ばかり。粗末なベッドに衣服をあてがわれ、部屋にはトイレ代わりのバケツが一つあるだけ。連日連夜、慇懃無礼な女教師たちに厳しくしつけされる。もちろんアボリジニの言語は厳禁。しかも、こうして「教育」されたあげくは、ほとんどが白人たちの使用人としてコキ使われる運命だ。たまに訪れるブラナー局長は、彼らの体の「白さ」を調べては学校教育に値するかどうか判断する。最初の何日かでサンピは何もかもウンザリした。

 もちろんイヤになって逃げる娘もいる。だが、脱走者には厳罰が待っていた。今日も今日とて脱走した娘が一人捕らえられ、寄宿舎に連れ戻されてきた。逃げた者は髪をザンバラに切られ、寄宿舎敷地のはずれにある掘っ建て小屋の「独房」に押し込められた。恋人に会いたい一心で逃げた、彼女に何の罪があろう。

 しかも脱走はまるで成功するアテがなかった。逃げた子供たちを追うハンターとして、やはりアボリジニの狩人だった「追跡者」デビッド・ガルピリルが控えていたのだ。大人の狩人の腕さえあれば、子供の脱走者など赤子の手をひねるも同然。こうして寄宿舎の秩序は保たれ続けていた。

 だが、この「追跡者」ガルピリルとて決して望んでこの役を引き受けているわけではない。彼の娘がこの寄宿舎に人質にとられている。しかも何だかんだと理由をつけては、ブラナー局長は彼をこの場に引き留め続けている。彼もまた否応ない立場に追いつめられていたのだ。

 「独房」に閉じこめられて泣きじゃくる娘を見つめて、サンピの心の内はさらに頑なになっていく。

 「こんなとこ最低!」

 ある日、サンピたちにトイレ代わりのバケツ当番が回ってきた。他の子供たちは教会に礼拝に行った。このチャンスを逃すものか!

 「今だ、逃げるよ! お母さんの元に帰るよ!」

 サンピはそう言い放つと、訳が分からない妹サンズベリーとしぶるモナガンを引っ張って、寄宿舎から逃げ出した。いや、何も無謀なわけじゃない。彼女サンピには勝算があった。見るからに怪しい空模様からして、夕立が降ってくるのは時間の問題だ。そうすれば足跡も消える。

 ほどなく3人がいなくなった事が発覚。「追跡者」ガルピリルが呼ばれ、馬を連れて後を追い始めた。だが案の定、激しい夕立が降って追跡は不可能になった。3人は最初の危機を雨に助けられてしのいだのだった。

 だが、「追跡者」ガルピリルの執拗な追跡は続く。サンピは今度も冷静に状況判断して、幼いサンズベリーの持っていたバッグを囮に草むらに置いて、追っ手の目をくらまそうとした。一度はまかれそうになったがガルピリルだが、敵もさる者。すぐにワナだと悟って引き返す。今度はサンピが人の気配を察して、3人とも草むらに身を隠す…てな調子で、子供たちと狩人の自然の知恵と知力を尽くしたあの手この手の攻防戦が続く

 それでも空腹には勝てない。途中で出会ったアボリジニの男に食料を分けてもらっても、次の日に食べ物のアテがあるわけではない。仕方なく忍び込んだ白人農家のニワトリ小屋で、そこの主婦に見つかってしまうサンピ。だが、この主婦は3人に食料を与えただけでなく、コートまで渡してくれた。そしてこの主婦から、付近にあのウサギ防護フェンスがあることを聞くサンピ。

 これだ!

 あのフェンスは、オーストラリアをどこまでも伸びている。ならば、懐かしい母の元までも伸びているに違いない。フェンスさえ見つければ帰れるのだ。

 こうして3人は、行く手に希望を見出した。フェンスが彼女たちの希望の灯なのだ。

 だがその頃ブラナー局長は、いつまで経っても子供3人捕まえられないことに業を煮やしていた。メンツ丸つぶれ。だが、あちこちの目撃証言を集めていくと、地図上の一つのコースが見えてきた。

 フェンスだ!

 あの子たちはフェンスに沿って移動しているに違いない。ただちにブラナーは決断した。行く手にフェンスが2つに別れている交差点がある。その先の方からクルマで探し、そしてこちら側からは「追跡者」ガルピリルが追って、挟みうちにすれば絶対に捕まる。もうこうなるとブラナーも本来の目的などどうでも良くなっていた。とにかく何が何でも捕まえるんだ!

 ところが運命のいたずらか。その頃、3人は一人の白人の旅人に出会っていた。食料をもらう3人に、男は奇妙なことを教えた。このまま行くと、この先フェンスは2方向に分かれてしまうぞ。おまえたちが目指す方向に行くには、ここから行ける近道がある

 神様も味方したか、3人は近道してフェンスから一時離れることになった。フェンス上でクルマの追っ手と「追跡者」ガルピリルがハチ合わせし、彼女たちがどこに行ったかキョトンとしたのは言うまでもない。

 さて、近道した3人はと言うと、とある農場にたどり着いていた。そこで洗濯物を干すアボリジニの女が一人。サンピが合図するとこの女はすぐに事情を察し、3人を自分の暮らす小屋に匿ってくれることになった。

 ところが夜、小屋で3人が眠っているところを、一人の白人中年オヤジが乗り込んできた。3人を見つけて驚いたオヤジは、慌てて小屋を出ていく。

 ヤバイ!

 すぐに小屋を逃げ出そうとする3人を、例のアボリジニの女が引き留める。彼女は使用人としてこの農場に使われる身だが、夜な夜な彼女の小屋に忍び込んでくるこの農場の主人に、オモチャにされていたのだ。子供たちさえいれば今夜はイヤな目に合わないで済む。あのオヤジも通報なんて面倒なことはしない。そう泣きつかれたサンピは、ついつい情にほだされ小屋に留まってしまうのだが…。

 やっぱり考えが甘かった。通報を受けた警察と「追跡者」ガルピリルが、クルマに乗ってやって来た。間一髪で夜の闇にまぎれて逃げ出せたものの、またも安心できない状況に陥ったことは言うまでもない。

 早速翌朝から3人の追跡を始める「追跡者」ガルピリル。しかし彼とてもこの時点になると、あの手この手で逃げ回るサンピの知恵と勇気にほとほと感心し始めるようになっていた。

 だが、危機は意外なところで訪れた。たまたま出会ったアボリジニの男が、親切に食べ物を分けてくれるだけでなく、彼女たちの母親が別の町で待っていると言うのだ。それは近くの町から列車に乗れば行ける。

 「ウソだ!」

 危険を察知したサンピは、他の2人を連れて早々にこの男の元から立ち去った。だが、元々この脱出行に乗り気ではなかった従姉妹のモナガンは、男の言葉に早速惑わされた。結局、彼女はサンピとサンズベリー姉妹と袂を分かって、列車の出る町へと歩いて行ってしまった。

 仕方なく彼女を置いて歩いていくサンピだが、どうしても気持ちが晴れない。結局彼女は幼いサンズベリーを連れて、モナガンを探しに戻ることにした。

 やはりモナガンは例の町で、駅の停留所のベンチに座っていた。合図をして彼女を呼ぶサンピ。さすがに心細さに耐えかねていたのだろう。モナガンもそれに応えてサンピたちの方へ歩いていこうとしたその時!

 警察のクルマが突進してきて、逃げるモナガンを捕らえてしまった。そこには彼女たちに列車に乗るように言ったアボリジニの男もいた。やっぱり裏切り者だったのだ。サンピとサンズベリーの見ている前で、モナガンはクルマで連れ去られてしまった。地面に突っ伏してただ泣くばかりのサンピ。

 その頃、ブラナー局長はさらに奥の手を出した。追跡予算も限りがある。行く手の砂漠に入られては元も子もない。どこで一歩手前に先回りしてキャンプを張り、子供たちを待ち伏せしようと言うのだ。こうして荒野のど真ん中に野宿を強いられる白人警官と「追跡者」ガルピリル。だが、子供の足のせいか待てど暮らせどやっては来ない。結局予算超過で引き払うことになった時、「追跡者」ガルピリルの表情に満足げな笑みが浮かんだのは気のせいか。「大した子だよ、まったく…」

 こうしてさまざまな危機を突破したサンピとサンズベリー。だが、今度は砂漠の猛威が彼女たちに襲いかかってきた。暑さと照り返しと飢えと乾き。ついには大地に倒れて動けなくなる2人。

 その頃故郷のジガロングの村では、彼女たちの母親と祖母が脱走を聞いて、連日連夜祈りに祈っていた。戻ってきておくれ、どうか無事でいておくれ…。

 だが、彼女たちの命は風前の灯だ。しかもブラナーはジガロングに打電して、警官に先回りして待ち伏せするように言い渡していた。

 さぁ、彼女たちは無事砂漠を乗り切ることが出来るのか? 待ち伏せしている警官に捕らえられることから免れるのか? 懐かしい故郷の村にたどり着き、母親と祖母の胸に抱かれることが出来るのだろうか…?

 

実は侮り難しフィリップ・ノイス

 この映画はまず、オーストラリアのアボリジニ政策の旧悪をえぐる作品であることは見ての通りだ。南アフリカのアパルトヘイトがつい最近撤廃されたのは記憶に新しいが、オーストラリアでも1970年代まではこんな事が行われていたなんて衝撃だよね。その事に憤りを覚えるのは当然だ。腹立たしい。だが、こう言っては何だが、こういう類のことは人類歴史上延々と行われてきたことなんだね。そして、わが日本でもやってきたことだ。だから、イギリス人って何てけしからん奴らなんだ…と僕らがしたり顔で怒れる道理は実はない。そしてこの映画も、その事を糾弾していることは言を待たないが、それが作品の主眼という訳ではないのだ。その事については、後々じっくり語ることにする。

 この映画を見て何が驚いたかって、何と言ってもこれがフィリップ・ノイスの作品だって事が一番の驚きだね。実はノイスって監督、僕にとっては大味なハリウッド映画を撮っているってことしか知らなかった。シャロン・ストーンのユルいエッチ・サスペンス「硝子の塔」、可もなし不可もなしの印象のジャック・ライアンもの二作…とまぁ、どれもとってもイマイチな印象しかない。この人がオーストラリア出身だということは知っていて、その頃ニコール・キッドマン主演の「デッド・カーム」という佳作をモノにしている事は聞いていたから、かつてはそれなりにいい仕事をしていたけどハリウッドでダメになったと思ってたんだよ。

 それをちょいと見直したのは、前作「ボーン・コレクター」を見た時。この映画は主人公二人の心情に寄り添った、何とも印象深い作品だった。これは僕の好きな映画だ。

 じゃあ本来はいい監督さんなのかもしれない、まして外国からわざわざハリウッドに呼ばれたのだから…とは思い直したものの、それでもこれら諸作品を見てきて、僕はこの人ってサスペンス専門監督だと思ってたんだよね。それが故国オーストラリアに戻っての、アボリジニに関する実話ものを撮るって聞いたら、ちょっとそれは畑違いじゃないのと思ってしまうよね。

 ところがこの人、実は故国ではすでにアボリジニを扱った作品を発表しているというんだね。考えてみれば、僕はこの人のオーストラリアでのキャリアを全く知らない。出来ないと決めつけるのが悪かったんだろうね。

 少女たちが母に会いたい一念で、遙かな荒野を旅する話。しかも苦難や危機や追っ手が襲ってくる。しかもただの荒野じゃない。世界一広大なオーストラリアの荒野だ。確かに想像を絶するドラマではあるだろう。

 だけど、正直言ってただ逃げる話じゃ一本調子になってしまうだろう…との懸念もあった。実話だから、あの手この手で盛り上げるって訳にもいかないだろうし。正直言ってこりゃ難行苦行かなと、映画館への足が遠のいてもいた。第一、ノイスだし(笑)。

 だけど、それをここまで見せきった手腕は大したものだよ。飽きさせない。僕は前作「ボーン・コレクター」とこの作品で、100パーセント見る目を変えた。しかも、アドベンチャー映画としても秀逸だ。そのへんはハリウッドでの職人仕事もマイナスになっていなかったのかな。主人公の少女が機知と工夫で乗り切っていくあたり、見ていて結構ワクワクさせてくれるんだよね。

 しかも人物像も奥深い。「追跡者」の置かれた複雑な事情。ハンターとしての本能で冷徹に追いつめながらも、少女の意外なまでの健闘に「おぬしやるな」みたいな自然の狩人同士の連帯感さえ覚える心情の移り変わりが、まるで男対男のアクション映画みたいな後味の良さを感じさせてくれるじゃないか。悪役である保護局局長も「悪を行う」つもりはなく本人は子供を守っているつもりというあたり、単純な悪役に仕立ててないと同時にかえって恐ろしいよね。これって僕らだって日頃他人にやりかねないところだし、大いにうなずけるところだ。いきり立って演説ぶつようなメッセージ映画とは一線を画している。ここが非凡なところなんだよ。

 そして何しろヒロインがいい。演じた子役エヴァーリン・サンピも見事なんだが、演技経験のない彼女からここまで引き出すとは素晴らしい。彼女の凛々しい顔を見ているだけでも喜びだ。不謹慎な言い方をすれば、近来希に見るアクション・ヒロインの誕生とさえ言いたい。「バイオハザード」のミラ・ジョボビッチも、彼女の前ではちょっと危ないぜ。

 さらにキャストで注目したい人と言えば、「追跡者」を演じたデビッド・ガルピリルがいる。彼ってうちの「SF映画秘宝館」でも取り上げた旧作「ザ・ラスト・ウェーブ」に、ちょっと気になる役で出ていた男なんだよね。「ザ・ラスト・ウェーブ」はピーター・ウィアーがオーストラリア時代につくった作品で、アボリジニ問題も織り込んだサスペンス。ここで彼はアボリジニのリーダー的役割の青年に扮していた。それが長い年月を経て中年の渋い男として再登場しているのは、何とも感慨深かったね。

 さて、先にこの映画の非凡さをさんざっぱら賞賛したけど、その原動力は何よりオーストラリアの広大な土地そのものを見せきったあたりにもあるかもしれない。絵はがき的な絵ではないけれど、その途方もなさがあるから、彼女たちの果敢な戦いが胸を打つんだよね。何とこの映画ってカメラがクリストファー・ドイルっていうから二度ビックリだ。香港を中心にいまやアジア全域で活躍のドイルは、だけど本来はオーストラリアの人だったもんね。故郷に凱旋ということになるわけだ。

 実は昨今名手とモテはやされるドイルだが、正直言ってウォン・カーウァイ作品あたりのブン回しだとか他のアジア作品での華麗なる絵づくりに、僕は少々食傷気味でもあった。はいはい、オマエはうまいよってな感じしか抱けなくなっていたんだよ。でもここでのドイルのカメラは、さすがにかって知ったる何とかなのか、圧倒的に素晴らしいよね。オーストラリアの途方もないデカさを知り尽くした上での絵づくりなんだろう。そして荒涼としてザラついたような厳しい風景描写。これがなければ、少女たちのドラマはあそこまで強烈なものにならなかったとさえ思えるんだよ。

 

正しい「意志」の力とは?

 そんなわけですっかりノイス再評価と言いたくなるこの映画だが、先ほど言ったようにその描きたい主眼は、アボリジニ政策の旧悪暴露にあるとは思えない。そんな事でとどまるなら、この映画ってつまんなく見えてしまう。それよりもっと崇高なものを描こうとしているように思えるからね。

 それは、意志の力だ。

 ヒロインは理不尽極まりないかたちで母や故郷から引き離されてしまう。そして寄宿舎の忍従の生活から、妹たちを引き連れて飛び出していく。待ち受けるはオーストラリアの荒野。そこで暮らしてその自然の厳しさを知っていればこそ、それは生半可な気持ちでは行えないものだろう。見ている僕らが当初思うほど無謀な思いだけでは出来ない。

 彼女は勇気を持っている。さらに勝算もそれなりにある。だからこれほどの事をやろうとしたし、かつ成し遂げたと言えるのだ。

 だが、何よりも大事なのは「意志」の力ではないのか?

 自分が今置かれている状況は、どう考えてもおかしい。ここにはいるべきではない。自分がいるべきは、故郷の母の元だ。それは正しい。

 そこには自分たちを引き離した白人たちへの怒り、そして寄宿舎への耐えきれない不快感…それもあるだろう。だがそれより何より、自分が正しくあるべきところに自分を戻すのだ…という意志こそが、最も強く働いての行為だと思えるんだよね。翻ってはヒロインに同行していた従姉妹が挫折する理由も、おのずから知れてこようではないか。彼女には元々モチベーションが稀薄だった。そんな中途半端な思いでは、いかなる目的も遂行できる訳がない。それがオーストラリア縦断という途方もないことなどでなく、例え校庭マラソン10周の類であったとしても、最初から及び腰である限り彼女には成し遂げられるはずがないのだ。

 そして、この映画がアボリジニ政策への糾弾なんて見方じゃつまらないと言った意味もそこにある。この映画はそんな特異な状況に追い込まれた人間の怒りのドラマと見てはそれっきりだ。それよりも、正しいと思うことを成し遂げようとする、人間の意志のドラマだと捕らえるほうがもっと適切だし、見る者の胸に崇高なものを抱かせるように思う。そして、それこそが僕らにとって価値のあるところだ。アボリジニも白人の横暴も関係ない僕らにとって、普遍的な価値が見いだせるのはそこだ。

 面白いのは、片や敵対する保護局長もまた意志の人と言えるところだ。彼もまた、混血アボリジニ児童は「白人化」すべきだと信念で考えている。だから、脱走許すまじとシャカリキになる。本人は自分が正しい、間違ってないと思い込んでいるのだ。その意味で、彼とても「正しいと信じるものに突き進む意志の人」と捕らえたって間違いじゃないだろう。

 では、この両者のどこが違うか?

 実は、ここがこの映画の「アボリジニ政策糾弾」ではとどまらない所以だ。挫折したのは保護局長の信念が間違っていたから…では決してない。それが間違っていたと分かるのは、人権やら何やらの意識の洗礼を受けた現代の視点から見るからであって、この時代のあのポジションにいた白人にそれが分かるはずもあるまい。問題はそこではない。彼はその信念を、その意志を、自分の持つ強大な権威や権力で遂行しようとしていた。そして自分はいつも快適で何不自由ない安全な位置…都会のオフィスにとどまっていた。実行に移すのはいつも自分の力で動かせる他人だった。そもそも本来、彼は絶対安全な立場にある白人の大人だった。

 対するヒロインたちは…と言えば孤立無援、子供の頼りない非力な身で、装備も食料もなく放り出され、自分の足を棒のようにして進まざるを得ない。周囲は自然から追っ手から敵がウヨウヨだ。それを自分だけの知力と体力を振り絞って戦う

 結局、意志の力とは裸一貫になってこそ、初めて意志の力と言えるのだ。その時点ですでに保護局長は負けている。彼の「意志」は、意志のようで意志とは言えない。勝手に自分が正しいと思っているだけの、それは「独善」でしかない。自分が正しいと思うだけなら誰でも出来る。それが本当に正しいと言えるのは、それ相応のリスクを背負い、それにも関わらず自力で遂行し、かつ貫徹して初めて言えるのではないか。その覚悟があるか?…というところが大事なんじゃないか。

 今にして、子供時代の親父のおっかない言葉が脳裏に浮かぶ。

 「絶対やるんだな、最後までやり通せるんだな」

 そう。例え敗れ去ったとしても、それなら納得も出来る。自分の思いの正しさだけは、何かのカタチで自分の中に残る。それは他の誰にだって否定は出来ない。

 自力で戦ってこそ、「意志」の正しさを証明出来るのだから。

 

 

 

 

 

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