「戦場のピアニスト」

  The Pianist

 (2003/03/03)


人はどうすればわだかまりを捨てられるのか?

 人はどれだけ年月を重ねれば、自分の中にこびりついたわだかまりを手放すことが出来るのだろう?

 僕のたかだか40年余の人生の中でも、深い憤りを覚えることはいくつもあった。そのうちにはいくら月日が経っても怒りが消えないものは少なくないし、そもそもどう考えようと理不尽極まりないことも数多くある。だがその多くについては当時の怒りは薄れ、少しづつ見え方が変わってきた事もあるんだね。

 例えば前々から繰り返しているようで恐縮だが、僕の幼少の頃のイジメ体験がある。もちろんやられた事についての理不尽さは今に至るまで消えないし、心の傷も癒されてはいない。それがきっかけで芽生えた、集団になった時の人間に対する不信感も消えてはいない。だが、そこで起きたことの見え方だけは、僕の中で少しづつ変わってきたんだね。

 僕は体が弱く、友達もいなかった。子供たちの集団ルールも分かっていないかたちで小学校になだれ込んだわけだ。やることなすことマイペースな上に、言動もどこか周囲の子供たちとは違って奇妙に見えたはずだ。そして周囲の子供たちは、何だかんだ言っても年端のいかないガキ。思いやりを持てというのが酷な話だろう。やられたこっちからすればたまったものではないし、その気持ちには今でも変わりはないものの、当時の彼らとしてはあの反応も致し方ないかな…と、今になってみれば冷静に思えるところがあるんだよ。もちろん許せる道理はないんだけどね。

 社会人になって最初の職場でのあれこれも、職場が職場だった…と言うのは簡単だが、一向に仕事が好きになれなかった僕にも問題はあった。もちろん何で好きになれなかったのか…と言うと、ニワトリが先か卵が先か…みたいなところがあるけどね。ただ、どう考えても向いてない営業マンを抱えた会社の方も不幸だった気がする。だから、この職場への恨み辛みは元よりない。

 そして、若い頃関わりを持った女たちにも、申し訳ないことをしたと今では思う。あの頃は他人との関わり方を本当の意味で知ってはいなかったのだ。何でこんな理不尽なことを…と大いに女たちに怒った僕だけど、今なら彼女たちの気持ちも少しは分かる。仮に理不尽であるとすれば、そもそも女とは理不尽なものなのだ…と笑って構えられる心の準備が出来た(笑)。まぁ、当時はいろんな意味で僕にキャパがなかったんだろうね。だから昔はそんな女たちが忌々しくてならなかったし、女と関わるとロクなことがないと思ってもいた。あまりお近づきになりたくもないとさえ思っていた。まぁ、実際にはそうも言ってられなくて、いろいろ揉めたりもしたんだけどね。

 時が怒りや心の傷を癒してくれる、熱した頭を冷やしてくれる…ってところは確かにある。痛い目にあった直後には、別の見方なり相手の立場なりまでには思い至らないものだろう? まして坊主憎けりゃ袈裟まで憎い的に、悪くもない相手に対してまで怒りをぶつけていたりもした。それでイヤな思いをさせた相手も何人もいると思う。他の女たちの分までかぶって僕の怒りをかった彼女とか、何を責められているのかサッパリ分からずじまいだった彼女とか…今更ながら悪いことをしたよ。

 でもね、そこに至るまでには長い年月が必要なのかもしれないんだよ。

 あるいは年月を経ても変わらないことだってあるかもしれない。結局は時間の違いじゃないかもしれないよね。自分は正しい相手が悪い…そんな感情的なものは一旦手放して、本当のところ自分の身に降りかかったことって何なのか…それをフェアな視線で見極めようという気持ちがなければ出来ないんだと思うよ。

 それは自分の考え方をオープンに開けるかどうか、その勇気があるかどうかの違いなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

ここでは映画「戦場のピアニスト」のほぼ全容を語ってしまっています。どうか映画をご覧になった後でお読みください。

 

 

 

 

 

 

ジワジワと厳しくなる一方の締め付け

 1939年9月、ポーランドはワルシャワでのこと。ここラジオ局のスタジオでピアノに向かってショパンを弾いているのは、ポーランド一のピアニストとの呼び声高いウワディスワフ・シュピルマンことエイドリアン・ブロディ。その静かな調べは、突然の衝撃に打ち破られた。

 ドッカ〜ン!

 突然の爆発音であたりがグラグラ揺れる。ラジオ局の技師もビビりまくり。結局慌ててスタジオから逃げ出してしまった。もう放送や演奏どころじゃない。次々と爆発音相次ぐ中、みんなこぞってビルから脱出しようと大わらわだ。

 この日、ナチス・ドイツが宣戦布告なしにいきなりポーランドを侵攻。今起こっている爆発音は、ドイツ軍によるワルシャワの空爆だ。

 だが、脱兎のごとく逃げ出す群衆の中に、なぜか彼を呼ぶ声がある。

 「シュピルマンさん!」

 一体誰だ? それは彼の友人に連れられた一人の美女…友人の妹であるエミリア・フォックスだ。彼女は前々からシュピルマン=ブロディのファンだった。そこで兄にせがんでわざわざラジオ局まで連れてってもらったところに、この間の悪い爆撃というわけだ。

 シュピルマン=ブロディの脳裏に、彼女の面影が残った

 帰宅したシュピルマン=ブロディを待っていたのは、荷造りに大わらわの家族の姿だった。彼らはナチが毛嫌いするユダヤ人。年老いた父フランク・フィンレイも母モーリーン・リップマンも、ジュリア・レイナーとジェシカ・ケイト・マイヤーの二人の妹も、どこか冷笑的な弟エド・ストッパードも、みんなポーランドから脱出しようと躍起だ。だが、何もそんなに慌てなくても…と、シュピルマン=ブロディは落ち着いて構えていた。

 やがてラジオ放送は、イギリスとフランスがナチス・ドイツに参戦したことを伝える。

 よしきた! これで大丈夫、これで百人力だ。列強さえ本気で立ち上がれば、ナチなどすぐに滅びるに違いない。わがポーランドは安泰だ。すっかり安心したシュピルマン一家だったが…。

 たちまちポーランドに進駐し、ワルシャワ市内を行軍するナチス兵士たち。

 やはり見通しは甘かった。ポーランドはあっけなく降伏した。一体これからどうなるのだろう?…と一家は先行きを案じてはいたが、実はこの時点でまだまだ甘く考えていたことは否めない。

 そのうちユダヤ人の所持金は限られてしまう。そしてユダヤ人はすべてダビデの星の腕章をつけるように…とのお達し。鼻っ柱の強い弟ストッパードを筆頭に妹二人など若い連中はみんな反発した。だが、そんな言い分が通るわけはない。

 それでもシュピルマン=ブロディは、空爆の日に出会った友人の妹エミリア・フォックスを呼び出して会ったりしてたのだから、まだだいぶ気持ちに余裕はあったのかもしれない。聞けば彼女も音楽が好きでチェロを弾くと言う。じゃあ僕がピアノ伴奏を…とイイ気分になったところで、店に入ってお茶でもしようと思ってみると、入口にはいかめしい張り紙が一枚。「ユダヤ人はお断り」

 では公園へ…と言っても公園のベンチもユダヤ人お断り。なるほど日常の至るところで、ジワジワと締め付けは始まっていたのだ。そのうち父フィンレイが歩いていると、挨拶がなかったとナチ将校に殴られるわ、明日の食べ物にも困るほど金がなくなってくるわ…ひとつ、またひとつと暗い材料が増えてくる。仕方なく大事なピアノを売ろうということになると、買い取り業者は思い切り足下を見て値切ってくる。怒り心頭の弟ストッパードだが、家族のためにはもはや背に腹は代えられない。シュピルマン=ブロディは黙ってピアノ売却に同意するしかなかった

 どんどんどんどん…まるで値切られるように、酸素が目減りしていくように、日一日と財産と自由と安全と心の余裕がなくなっていく。一体どこまで締め付けられればいいのか?

 やがて1940年のこと、ついに来るべきものが来た。ユダヤ人は身の回りのものだけ持って、ワルシャワのごく限られた区画にだけ住むことを強制されることになった。ゲットーと呼ばれるこの狭い地域に、ワルシャワ中の何十万ものユダヤ人がどうやって住めばいいのか? だが反論は一切許されるわけもなかった。

 住み慣れた家を離れることになった一家。一般ポーランド人たちが見つめる中、同じようにゲットーへの道のりを歩むユダヤ人たちとともに、重い足取りで歩くシュピルマン=ブロディたち。彼は自分たちを見つめる群衆の中に、あの憧れの彼女フォックスがいるのに気づいた。だが、ゆっくり話してはいられない。別れを惜しみながらも、シュピルマン=ブロディは後ろ髪を引かれる思いで彼女の前から去って行くしかなかった。

 ゲットー…そこは閉ざされたユダヤ人居住区。何とか一家の住む部屋をあてがわれたシュピルマン=ブロディたちは、何とかまた平和な日常をそこに見いだそうとした。

 弟ストッパードは蔵書を売って金にしようとするが、思うに任せない。シュピルマン=ブロディも仕事を探すがアテはない。そんなある日、ユダヤ人警察隊の知人が訪ねてきた。ユダヤ人でも裕福な一握りの人間がユダヤ人警察隊になれる。この日やって来た彼もかなり羽振りがいいようだ。この日は彼の「親切心」からシュピルマン=ブロディと弟ストッパードに職を斡旋しようと言ってきたのだ。

 だが、何だかんだ言ってもその実体はナチへの協力者。弟ストッパードはまるで聞く耳を持たない。だがこの緊急時にシュピルマン=ブロディは彼の「親切心」にすがることにした。ゲットー内のレストランでピアノを弾く職を手に入れたのだ。

 それはザワザワと騒がしい食事客の前で、聞かれているのか聞かれてないのか分からないBGMとしてピアノを弾く仕事。広く名を知られたピアニストのシュピルマン=ブロディのする仕事ではない。だが、今はそうも言っていられない。騒音に愕然とする日々ながらも、シュピルマン=ブロディは黙々とピアノを引き続けるのだった。

 そんなある日、弟ストッパードが警察に捕まったとの知らせが届く。慌てて現場に駆けつけたシュピルマン=ブロディの目に飛び込んだのは、あのユダヤ警察隊の知人だった。弟を助けてくれと懇願するシュピルマン=ブロディに、いつぞや冷たくされた警察隊の知人は厳しい言葉を投げつける。それでも彼は黙ってその場を離れると、捕まっていた弟ストッパードをシュピルマン=ブロディの前に放り出すのだった。

 解放された弟ストッパードは、しかし仕事にありついたシュピルマン=ブロディに冷たく当たる。それでも空腹で倒れた弟を見ると、食事をおごって世話を焼くシュピルマン=ブロディだった。やがて腹が満たされて気持ちに余裕が出てきた弟ストッパードは、シュピルマン=ブロディへの頑なな態度を和らげ始めた。そして彼に驚愕の事実を明かし始めたのだった。

 な、何とユダヤ人はゲットーからも追い立てられる

 列車に乗せられどこぞに連れて行かれると言うではないか。行けば地獄の一丁目なのは火を見るよりも明らか。だが、就労許可証を持っていない奴から次々引っ張られると言う。

 これを聞いて大慌てのシュピルマン=ブロディは東奔西走。何とか家族全員の就労許可証を入手しようと努力する。だが、どうしても父フィンレイのものだけが手に入らない。だがシュピルマン=ブロディがはたまたま知り合った地下抵抗組織のメンバー、ダニエル・カルタギローンの尽力で、何とかこれも手に入れることが出来た。

 一安心。

 だが、やっぱりそれでも見通しは甘かった。1942年の夏のこと、シュピルマン=ブロディら一家はとある広場に連れ出される。そこには他のユダヤ人たちも連れてこられて、たちまち広場はごった返す始末。炎天下野ざらしで待たされる中、一家の間にはどう考えても先行きの決定的な不安が立ちこめる。やがて移動させられたユダヤ人たちは、ことごとく駅の操車場へと連れて行かれた。そう、彼らはここに停車している貨車に乗せられ、「ある場所」に連れて行かれることになるのだ。この状況に、さすがのシュピルマン=ブロディも観念せざるを得ない。

 だが、突然そんなシュピルマン=ブロディを呼び止める声がする。かと思うと、いきなり腕を掴まれ引っ張られた。声の主であり、彼を引っ張ったのは例のユダヤ警察隊の知人。せめてシュピルマン=ブロディだけでも…と救ってくれたのだ。他の家族は為す術もなく貨車に乗せられていくが、さすがにどうすることも出来ない。シュピルマン=ブロディは一列に整列するユダヤ警察隊たちの後ろに隠れ、そそくさとその場を離れるしかなかった。

 誰もいなくなったゲットー。おびただしいゴミと死体だけが残った。ついついピアノに惹かれてかつての職場であったレストランに戻って見ると、シュピルマン=ブロディを呼び止める声がする。やはり収容所行きの難を逃れて、このゲットーに舞い戻って来た者がいたのだ。彼はピアノの演壇の下の空洞に隠れて、当座をやり過ごそうとしていた。シュピルマン=ブロディも彼に習って、ピアノの下に潜り込むのだった。

 

ゲットーを逃れても自由とは程遠く

 やがてゲットーに残された住人に紛れて、シュピルマン=ブロディは他のユダヤ人たちと働き始めた。地下抵抗組織のダニエル・カルタギローンとも再会した。彼が入手した情報では、ドイツ軍もロシア戦線で劣勢に転じた様子。もう少しの辛抱だとみな思いを新たにするが、日々の過酷さに変わりはない。やがてカルタギローンは蜂起の日に備えて、外に働きに出た隙を見計らって武器を調達し始めたが、もうシュピルマン=ブロディは限界だった。

 「僕は外に出たい。知り合いにつなぎを頼んでくれ」

 シュピルマン=ブロディはカルタギローンにかつての仕事仲間の名前を告げて、外に脱出する算段を頼んだ。カルタギローンはそんな彼の頼みを黙って聞き入れたものの、静かに一言だけクギを刺した。

 「外に出ることより、外で生き延びることが難しいんだ

 ともかくその日はやって来た。外出の日に紛れてゲットーを脱出したシュピルマン=ブロディは、かねてからつなぎを付けてもらっていた知人ルース・プラットの家まで何とか辿り着いた。そこから多くの地下協力者の力を借りて、あるアパートの部屋を借りることになったのだ。

 もちろん部屋から一歩も外に出ることなど出来ない。食料その他は協力者のオッサンが運んで来た。シュピルマン=ブロディと外界との接点は、このオッサンと部屋に開いた窓一つ。そこからは彼がそれまでいたゲットーの建物、そしてゲットーと外の街とを隔てる壁が見えているだけだった。

 そんなある日、窓の外で何やら騒々しい音がする。何と細々ながら武器をゲットーの中に運び込んでいた抵抗組織が、ついにドイツ軍に対して反旗を翻したのだ。思いも寄らぬ抵抗に驚くドイツ軍。そんな有様を、シュピルマン=ブロディの部屋を訪れたルース・プラットは小気味良さそうに見つめる。だが、シュピルマン=ブロディの気持ちは晴れない。自分も壁の向こうに留まって、彼らと共に戦えば良かった…。今はただ為す術もなく部屋に閉じこめられている我が身を考えると、シュピルマン=ブロディの気持ちが優れないのは無理もなかった。

 抵抗は予想外に続き一ヶ月にも及んだが、結局はナチス・ドイツが鎮圧してすべては終わった。あとにはゲットーの廃墟が見えるばかり

 冬が来て、いつも来るつなぎのオッサンが突然部屋にやって来ると、シュピルマン=ブロディに「すぐに逃げろ」と告げた。すべてをお膳立てしてくれた友人プラットが捕らえられたのだ。このオッサンの身にも危害が加わるに違いない。だが、もうシュピルマン=ブロディは慌てて逃げる気力がなかった。そんな彼にオッサンも無理強いはせず、ただ何かあった時のための連絡先メモを渡して去って行った。

 そのうち食料も底をついた。周囲の物音にも怯える日々。

 ひょんな事から部屋の外に出たシュピルマン=ブロディは、アパートの他の住人のヒステリックな声にさらされた。「ユダヤ人よ! 早く誰か捕らえて!」

 もうここにもいられない。雪が降る夜の街を、シュピルマン=ブロディは空腹を抱えながらひたすら走った。頼りはオッサンにもらったメモ一枚のみ。そのメモに書いてあった住所を必死にめざす。凍てついた体を無理にも動かしながら、辿り着いた問題の場所はとあるアパートの一室。扉を開けて出てきたのは…。

 あの愛しいエミリア・フォックスじゃないか!

 ゲットーへ移転させられた日に会って以来、会うこともかなわずにいた愛しい彼女。そんな彼女フォックスがユダヤ人の地下協力者になってくれていたのは嬉しい。だが、流れた月日は重かった。彼女はもはや人妻…シュピルマン=ブロディの心に苦い痛みがはしる。やがて彼女の夫であるヴァレンタイン・ペルカが現れ、シュピルマン=ブロディを助けるための手だてを語り出す。かつて愛していた女が嫁いでしまったこともツラいが、その女の夫となった男にすがらねばならない現実もツラい。だが、それもつかの間。激しい空腹にすべてを忘れ、差し出された食料に飛びつくシュピルマン=ブロディ。それはかえって幸福と言うべきか、はたまたやはり不幸と言うべきなのだろうか。

 やがて改めて見つけてもらったアパートは、何と真っ正面がドイツ軍の病院、その横が秘密警察本部という敵のフトコロ真っ只中の場所にあった。まさしく虎穴に入らずんば虎児を得ずとでも言うか、あるいは灯台もと暗しとでも言おうか

 今回、彼のつなぎになって食料その他を調達してくれるのは、やはり地下組織のアンドルー・ティアナンなる男。この男、かつてはラジオ局で働いていたとかで、やけにシュピルマン=ブロディに馴れ馴れしい。おまけにこんな非常時の割にはキャラが明るすぎで調子も良すぎ。まぁ、それでもちゃんと働いてくれるなら問題ないのだが、何かと忙しいと言ってはこの部屋にやって来るのが滞る。だからいつも食料不足でシュピルマン=ブロディは飢えていた。

 そしてここでもシュピルマン=ブロディは孤独だった。そんな孤独な部屋に置いてあった一台のピアノ。思えばあのゲットーでの初めの頃の日々以来、彼はピアノに触れていなかった。弾いてみたい気持ちはやまやまだったが、この部屋で音は立てられない。仕方なくじかには触れないように、そっと鍵盤の上で指を滑らせて弾くマネをするしかない。奏でたいのに触れることさえ出来ない。それはピアニストのシュピルマン=ブロディにとって、あまりに切ない代償行為だった。

 やがて例の調子いい男ティアナンは、まったくシュピルマン=ブロディの部屋に来なくなった。飢えと心労で病いに伏せる日々。様子を見にやって来たフォックスとペルカ夫妻は、ヒゲもぼうぼうでやつれ果てたシュピルマン=ブロディの姿を見て呆然とした。聞けば案の定、あのティアナンなる男は怪しい奴だった。彼はシュピルマン=ブロディの名をフルに活用して、金を集められるだけ集めるといずこかへトンヅラしていたのだ。味方で、しかも地下組織の闘士だと聞いたからこそ信用したのに…シュピルマン=ブロディは疲れ果てた意識の中で、皮肉な思いをかみしめざるを得なかった。

 やがてワルシャワでは、今度はポーランド人によるドイツ軍への抵抗が始まった。折りからのヨーロッパ戦線での敗走もあって、慌てふためくドイツ軍。しかし、戦いが激化すればするほど、ナチスによってますます無駄な血が流されるのだった。

 やがて戦火はシュピルマン=ブロディが潜むこのアパートにも飛び火した。ナチ戦車の砲台が、アパートの建物に狙いを定めたのだ。

 ドッカ〜ン!

 壁が吹っ飛ぶ。慌てふためいた住人が避難を始める。だがシュピルマン=ブロディの部屋は外からカギが欠けられている。ええい、ままよ。シュピルマン=ブロディは壁に開いた大穴から隣の部屋に入って、阿鼻叫喚の階段踊り場に飛び出した。

 またしても逃げて逃げて逃げて。

 今度は助けてくれる人も誰もいない。本当に独力のサバイバルだ。とりあえず、アパートの向かいにあったドイツ軍の病院に迷い込む。今はそこもうち捨てられた廃墟と化していた。

 病院の中に潜む孤独な日々。食料などありはしない。ただじっとしているしかない。

 だが、それもつかの間だった。ドイツ軍があたりの建物を、火炎放射器で焼き払い出したのだ。病院の窓から外をうかがっていたシュピルマン=ブロディは、慌てて部屋から建物の奥に駆けだした。

 ゴォォォォォ〜〜〜〜ッ

 火炎放射器の吐き出す紅蓮の炎が、辺り一面焼き尽くす。シュピルマン=ブロディは病院の奥へ奥へと逃げ込み、やがて反対側へと飛び出す。だが、火炎放射器は容赦しない。さらに病院の裏から逃げ出したシュピルマン=ブロディの目の前には…。

 がらんとしたゲットーの廃墟が、彼方まで広がっていた。

 あの抵抗勢力の蜂起の後、ここは人ひとりいない墓場のような場所となってしまったのか。だが、シュピルマン=ブロディにとっては格好の隠れ家。それでも人けを感じて慌てて階上と避難するシュピルマン=ブロディ。下からは人の話し声と、かすかなピアノの音色が聞こえて来た。

 ピアノ…があるのか?

 やがて夜になって、空腹に耐えかねたシュピルマン=ブロディは、建物内で見つけた缶詰の缶を何とかこじ開けようと悪戦苦闘していた。暖炉の火かき棒でつついて、穴を開けられたと思ったその時、缶は手元から落ちて、転がって転がって、どんどん転がって…。

 真っ暗な室内に立ちはだかる、ドイツ軍将校の足下で止まった。

 さすがに予想外の事態に固まってしまうシュピルマン=ブロディ。

 それはドイツ軍将校トーマス・クレッチマン大尉とても同じこと。目の前のヒゲぼうぼうのこの男、どうも見るからにユダヤ人らしいが、こいつはここに住んでいるのだろうか? クレッチマン大尉はシュピルマン=ブロディをいぶかしげに見つめると、オマエは誰だと言わずもがなの問いを発した。

 「私は…ピアニストです

 ならば弾いてみろ…とクレッチマン大尉はシュピルマン=ブロディに告げる。見ると、目の前には一台のピアノが置かれていた

 シュピルマン=ブロディがかつては生きる糧として生涯の友として、苦楽を共にしてきたピアノ。苦しいゲットー時代からは弾くことも叶わず、孤独なアパートの部屋では目の前にありながら音を出すことも出来なかったピアノ。今、そんな彼が、ピアノを弾け…と言われた。それも自分の生死の分かれ道とも言えるこの重大な局面で…。

 シュピルマン=ブロディは、ドイツ軍将校クレッチマン大尉の見ている前で、大きな息を吸い込むとおもむろに鍵盤に向かうのだった…。

 

見る者に演出を感じさせない、淡々とした映画づくり

 ロマン・ポランスキーの新作は、カンヌ映画祭のパルム・ドール受賞作。今年のアカデミー賞レースも騒がせて、ポランスキー久々の話題作になってるんだよね。それと言うのも、これって彼が幼少の頃のゲットー体験をダブらせて、ポーランドにおけるユダヤ人受難劇を初めて世に問うたから。彼は今までこの個人的な体験を反映させたような作品を、決してつくっては来なかったんだね。実際、劇場パンフやいろいろなインタビューを見てみても、彼はあえて今までそんな過去の体験に封印をして、作品化しようとはしなかったと言っている。それどころか今回このユダヤ人の受難劇をつくるにあたっても、ポランスキー個人の物語ではなくピアニストのウワディスワフ・シュピルマンの物語として語れるからこそ取り上げたと明言している。つまりは自分の過去がどこか反映しているとは言え、個人的な思いを塗り固めたドラマとしてはつくりたくなかったと思ってるみたいなんだよね。これは、こういう題材を取り上げるユダヤ人…それも自身が同様な体験をしてきた人物が言うには、極めて珍しいコメントではないかと思うよ。

 でも、ポランスキーはなぜこの題材をとりあげるのを今までためらい、取り上げても個人的な物語としてはつくりたくなかったのか?

 その話をする前に、まずはこの作品を全体から見渡してみよう。

 今回、僕の感想文を読んでいる人は、そのあまりのストーリーの取り上げ方の長さに辟易しているんじゃないかな? そう、さすがにいつもはこうも執拗に語らない。もうちょっとはしょるんだよね。それでも問題ない物語だ。でも、僕は今回あえてそうしたんだね。ポランスキーはこの物語にこれだけのキメの細かさと長さを要求している…何となくそんな気がしたわけ。

 ポランスキー作品っていうと、僕なんかどこか才気走った鋭さみたいなものを連想する。今までの作品では実際そうだったと思う。だけど、今回だけは違うんだよ。淡々と物語をただ撮っているように見える。演出しているという手つきが画面から伺われない。これはポランスキー作品としては異例のことじゃないかと思うよ。そして、その淡々ぶりが映画全編に渡って流れているわけ。

 今回の映画は大きく二つに分けられると思うんだよね。まずは前半、ナチのポーランド侵攻が始まって、ユダヤ人迫害、ゲットーでの生活…と、主人公はじめユダヤ人たちの生活が真綿で首を絞めるように苦しくなっていく様子。最初は何だかんだ言っても、主人公たちはタカをくくってる。まさかそう酷い事もやるまい、そういつまでも続くまいと思う。だからこそ主人公は、すでに迫害が始まっているにも関わらず女の子とデートなんかしている。これって重要なことだと思うよ。

 僕らはこの手のナチの侵略を描いた映画を見た時、いきなり厳しい生活が始まって、いきなりユダヤ人がメッタメタに迫害されたかのように感じる。歴史的事実として知っていて、ユダヤ人のその後の運命も知っているから、身構えて見ちゃったりしてる。でも、実際はそうじゃなかったって事が分かるんだね。最初はみんなそれほどとは…と思っていた。そりゃそうだ。まさかあんな事を大っぴらにやるなんて正気の沙汰じゃない。ところがそれが実際には起きてしまった

 しかも最初はついついみんな甘く見ちゃうほど、事態は深刻ではなかったようなんだ。だとすると、これは特異な時代の特異な出来事…とばかりも言ってられなくなる。僕らもうかうかしていると、さりげなく知らない間にとんでもない事に巻き込まれているかもしれない。いや、実はもうそのレールは引かれているのかも…そう考えさせられるあたりが恐ろしいんだね。ポランスキーは僕らに対して、人ごとじゃあないんだよと言っている。その視点は実は現代の我々にも向いているのかもしれないんだ。そのへんまで含めたかたちで、あの時代をリアリティを持って描き出したのが、今回の作品の一番注目すべき点だ。

 その中で主人公たちはどんどんどんどん奪われ続ける。自由を、お金を、尊厳を、住居を、潤いを、仕事を、食料を…そして人生そのものを。主人公のピアニスト自身も、愛する女性と結ばれるチャンスや輝かしい音楽家としての名声を奪われる。そして何より自分のすべてであるはずのピアノさえも、最初自分の持っているピアノを手放すところから始まり、やがては目の前にあっても弾くに弾けないという状況に追い込まれる。上でも語ったように、このへんの息が詰まってくるような感じが妙にリアルなんだよね。そういえば僕らが窮地に追い込まれる時も、実はこんな感じじゃないかい? いきなりドカン…じゃあない。最初はまさか…と思っていたが、どんどん状況が悪くなっていって…僕がつらい思いを味わったいくつかの体験もそんな感じだったから、今回のポランスキーの語り口に思わずリアリティを感じたよ

 そして映画を大きく分けたその後半部分、そこからは主人公が孤独に耐えていく描写に終始する。何しろ一人でいることが多いので、セリフも極端に少ない。その間、主に主人公は部屋の窓から、周りの状況の進展を見つめていくことになる。だから当然全体像はつかめない。そのもどかしさ、分からなさってのがやっぱりリアルだよね。僕らも自分たちが自分ではどうにもならない大きな流れに押し流されているような時、その全体って見えてないものだよね。見えてないから恐ろしい。見えてないから先行きを見誤る。そこに、やっぱり大変なことを通過してきたポランスキーならではの経験が生かされているように思う。

 後半はそんな調子に主人公の行動なりセリフで語る部分が乏しいので、だからこそ前半控えめだったポランスキー演出が少し前面に出てくる。火炎放射器の炎に焼け出されるように病院の建物から飛び出した主人公が、目の前に広がるゲットーの廃墟を見るあたりの圧倒的な虚無感はどうだ。スペクタクル…と言っては適切ではないだろう。これは決して目を楽しませる光景ではない。どれだけCGを使ったのかどれだけセットをつくったのかは知らないが、とにかくは手間とお金をふんだんにかけて、そうしてでもお客さんに見せたかった徹底的なカラッポ感だ。これには唖然とするよ。

 そしてこの廃墟でドイツ軍将校が対峙することになった主人公が、それまであんなに弾きたくとも弾くことが出来なかったピアノを弾くことになるくだりは万感胸に迫る。それとても、特には目につく演出技巧を施しているようには見えないのに、何とも圧巻に思えるから不思議だ。僕のようなクラシック音痴ですら身を引き締められるような思いがするんだからね。

 ただ、いかに淡々と語ってこれ見よがしの演出術を弄していないとは言え、この真綿が締まっていくような緊迫感、得体の知れない混迷感、閉ざされ追い詰められていくような閉塞感には、「ローズマリーの赤ちゃん」「マクベス」「フランティック」などの諸作で見せた、ポランスキーの手際が見てとれる。今回は見る者がそれを演出とは気付かないかたちで、ごくごく控えめに使ってみせたってところなんだろうね。

 と言うわけで、あえて淡々とあざとさを排し、あの時代の異常な出来事をキメ細かく描いていったこの作品。それだけで終われば、それはそれで真面目に真摯につくり上げられた、よく出来た感動作でした…で話は終われるかもしれない。しかし、この映画ってそれほどヤワでも簡単でもないんだよね。もっと一筋縄ではいかないところがある。それは先にも触れたように、ポランスキーがこの映画をつくるにあたって語ったコメントに秘密があるんだよね。

 

“あの時代”を描くにあたってのポランスキーの覚悟

 先にも挙げたようにポランスキーはポーランドのユダヤ人として、この映画でも彷彿とされるような辛酸をなめたようだ。そして戦争が終わった後は共産主義体制が立ちはだかった。たまたま映画という武器を得た彼は西ヨーロッパに渡り、そこで自由を謳歌出来たけどね。そして自由の権化であるアメリカにも行けた。そこで美しい妻シャロン・テートも手に入れて、おそらくは今まで奪われ通しだった人生の穴埋めが出来たと思ったはずだ。

 だが手に入れたと思った自由と幸福は、はかなく消えてしまった。狂信者マンソン一味によって惨殺された妻とそのお腹の子。普通の人間にはそれだけでも悲劇なのに、幼少からの体験を考えれば、その時のポランスキーに去来した思いはいかばかりのものだっただろう。

 さらにポランスキーに悲劇が追い打ちをかける。少女淫行の罪でアメリカを追われるように去るハメになったのだ。確かにこれは身から出た錆だ。だが伝え聞くところでは、ポランスキーを告発した側に有名人狙い討ちのような意図があったようでもある。

 かくして逃亡者のごとく世界を転々としてパリに居を構えることになったポランスキー。奪われ続けの人生。僕が彼なら、たぶん世界や人間や社会や、何より自分の人生を呪うことだろう。決して希望などは持たないだろう。彼のように表現者なら、一生かかって恨み辛みを作品として産み落とし続けるだろう。そうなっても仕方がない、そんな過酷な人生だからだ。

 だが、ポランスキーはそうはならなかった。

 何よりこの作品がそれを証明している。ここには悪のナチス・ドイツ兵。悪のナチ協力者ユダヤ人、かわいそうでひたすら善良な一般ユダヤ人…などというステレオタイプは存在しない。そうつくろうと思えばつくれるし、そうすることも許されている。そう描いたところでリアルでありさえすれば賞賛されこそすれ、誰も非難する者などいないだろう。実際、世の中の大半の戦争を題材にした作品がそうしている。それは虐げられた側の当然の権利であり、また虐げられた側から見れば、そう見えるのがリアリティだという方便もあるからだ。ここ最近つくられた戦争や紛争をテーマにした映画だって、そういうつくり方をして立派に良心作として評価されてもいる(あえて挙げれば、昨年公開された「ノー・マンズ・ランド」にしたって、一見フェアな視点でとらえているかのように見えて何となくスッキリしないとこあるもんね。こう言ってしまっては身も蓋もないが、僕はあの映画とても苦手だ)。

 だが、ポランスキーはそうしない

 主人公のピアニストを見れば、それが如実に分かる。彼はひたすら逃れに逃れる。食うに困った時にはナチ協力者の力にもすがる。家族が収容所に送り込まれる時でも一人で逃れる。いくつかの幸運も彼を助けたが、とにかく生きるためにひたすら逃げるのだ。抵抗して自滅する仲間たちを見た時には反省もするが、実際には彼はそうせずに生き延びた。まぁ極限状況だし、それは仕方がないことだとは言える。では、ポランスキーはそれを偉大なサバイバルとしてヒロイックに描くのか? 耐える姿を壮絶に過酷に描くのか?

 いや、彼は主人公をことさらに英雄視はしない。生きるためにした事の仕方のなさも、あえて言い訳がましく美化はしない。主人公は割とさりげなく家族たちと別れるし、アッサリとゲットーを捨てるのだ。しかも自ら状況を打開する訳ではなく、すがれる人間なら誰であっても手当たりばったりにすがるという一貫した他力本願ぶり。その一方で絶体絶命の自分を救ったドイツ軍将校の命さえ助けることが出来ない。彼の助命嘆願に奔走したかもしれない主人公の姿は、なぜかここでは一切描かれない。ただ涼しい顔をして美しい身なりで、悠々自適の演奏活動をしている主人公の姿で物語は終わる。徹頭徹尾受け身の傍観者であり続ける主人公。でも、それが本当のところだろうとポランスキーは訴える。この主人公は、腰抜けとも卑怯者とも非難はされないものの、英雄ともすごい善人だとも描かれはしないのだ。

 そこに彼を助けるドイツ軍将校、ナチ協力者のユダヤ人、さらにはユダヤ人を食い物にする地下組織の人間あたりを加えると、ますますポランスキーの意図は明白だ。ドイツ軍が悪、ナチ協力者が悪…それで済めば苦労はない。こいつらは悪…と決めつけられれば楽だが、実際にはただ個々の悪い人間、悪い行い、悪い状況があるだけだ。いや、こいつらは悪…でかたずけることこそ悪だ。ナチの占領が終わって命拾いしたと喜んだ主人公が、たまたま着ていたナチの軍服のせいで同胞に撃ち殺されそうになるくだりは象徴的だ。ナチの服やバッジやマークや旗や、はたまた「ナチ」という言葉そのものが悪いのか? それを身にまとっただけで悪か? いいや、本当はそうではないはずだ。

 やられた事の憤りは誰よりもある。だがその怒りに身を任せてしまった時、自分が瞬間湯沸かし器的にヒステリックに何かをむやみに煽ってしまうのがイヤだ。そんなヒステリー状態にいたぶられるだけいたぶられ続けたポランスキーには、それがたまらなかったに違いない。だって、もしドイツとナチ協力者はみんな悪だ…でかたづけるとしたら、あの旗やバッジやマークですべてを決めつけてしまうなら、ユダヤ人はユダヤ人であるというだけですべて殲滅してよし…という思想とどこが違うのだ? 自分を痛めつけてきたナチや共産党やマンソン一味やアメリカや…そんな諸々のヒステリーの囚われ人たちと、どこが違うのだ? 自分はそうしたおぞましいものと自らとの間に一線を画したかった。それゆえに、自らの生々しい怒りから脱することが出来たと確信出来るまで、この体験に基づいた作品をつくろうとはしなかったのだろう。しかも自分のパーソナルな体験としては、この題材を取り上げようとはしなかった。そんな手っ取り早い目先の安易な怒りや悲しみに、甘えようと思えば甘えられる状況には、身を委ねたくなかった。

 これはすごく勇気がいることだよ。

 でも、だからこその誇り高さでもある。そして厳しさだ。それは…自分はナチを許さない、ナチが持っていた思想を許さない。カギ十字のマーク…なんかではなく例えどんなもっともらしい別の旗印の下であったとしても…そんな“偏狭”という歪んだ思想こそを決して許しはしないのだという、潔癖とも言うべき厳しさなのである。

 

 

 

 

 

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