「ギャング・オブ・ニューヨーク

  Gangs of New York

  ロング・バージョン

 (2002/12/30)


 

 

手早く結論知りたい人はこちら

 

 

 

 

藤岡弘、二代目探検隊長襲名はいかに?

 テレビでまた、あの「探検隊」番組を見ることになるとは思わなかったよ。

 先日たまたま夕飯を食いながらテレビを見てたら、それはだしぬけに現れた。何を隠そうテレビ朝日の「水曜スペシャル」。最初から見ていたわけではないし、ほんの10分程度見ていただけで席を立ったから、詳しいことは分からない。ただ、どうも南米かどこかのジャングルに、幻の「猿人」を探し求める探検を行っているらしいんだね。「探検隊」は数人の日本人に現地のガイドらしき者が同じく数名。やたら気配がしたとか音がしたとか足跡があったとか言いながら、全然その実像に近づいていないにも関わらず「これは猿人に間違いない」と強気の断定をするあたり、確かにこれは往年の「探検隊」番組の正統な後継者であるに「間違いない」(笑)。

 その往年の「探検隊」番組と言えば、誰だってあの川口浩探検隊を思い出すに決まってる。

 それは、俳優・川口浩(もっとも彼が「探検隊」づく頃には、もうすでに俳優としての仕事はほとんどしていなかったに等しい)を隊長とする探検隊が、世界中の秘境という秘境を探検。自然界やら超自然の神秘を調べ尽くす、文字通り手に汗握る…と表現するにふさわしい番組だった。川口浩は学者でもスポーツマンでもジャーナリストでも何でもないのに、探検隊を組織して危険にあえて踏み込んでいく。そのターゲットは、ある時は金色に輝くゴールデン・コブラであり、またある時は未開の人食い人種。その多くで数多いナゾの痕跡に迫りながらも、常に真相には惜しくも迫れない。それでも川口浩は諦めずに、また新たな冒険に旅立つのだ。何と素晴らしい番組だろう!

 この川口浩探検隊番組をご覧になっていない若い人たちのためにあえてここで暴露すれば(というか、暴露せずともバレバレなのだが)、当然これはテレビ朝日のスペシャル番組のためのでっち上げプログラム。当時は何曜スペシャルだったか忘れたが、ともかく川口浩は月イチくらいの頻度で探検に出かけなければならなかった。だから、ゴールデン・コブラは哀れ金色のペンキを塗りたくられた普通のヘビ。人食い人種にはなぜか腕時計の日焼け痕があるといった按配。まぁ、真剣に見ていたらアホらしくなること請け合いの番組ではあった。

 だが、お茶の間に非日常を持ち込んでくれるこの「探検隊」番組、言ってみれば罪もない内容であり、昨今の売れっ子タレントがスタジオでふんぞり返って無名タレントをイビるのを「お笑い」と称しているような番組などよりはナンボか高級だと思えた。基本的には「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」と同じことやっている訳だしね(笑)。そして何よりポイントが、川口浩という男を探検隊長に据えたことだ。

 何しろこの人って緊迫感がゼロ(笑)。どこかのジャングルに行ってもテレビ東京の釣り番組のゲストやってるみたいなさりげなさ。その普通さ加減が、この手の「やらせ」番組には必要不可欠なリアリティを注入してたんだと思うんだね。一体どこの誰がこの役に川口浩を持って来たのかは知らない。だけど売れなくなった往年の俳優があまたいる中で、軽〜い持ち味の川口浩をこのポジションに起用したのはまさに卓抜した発想だと言わざるを得ない。なぜならこの手のやらせ番組は後を絶たなかったが、結局語り草となって人々の記憶に残るまでのものになったのは、川口浩探検隊にとどめを刺すではないか。

 ところが僕がたまたま久々に目撃した「探検隊」番組…テレビ朝日「水曜スペシャル」は、この川口浩探検隊を今日に甦らせるべく、リバイバルというかリニューアルを試みたものだったのだ。しかし、川口浩が探検隊長として活躍していた日々は今は遠い過去。肝心の川口浩も闘病の末にガンで亡くなってもう長い。

 では誰がその探検隊長の不在を埋めるのか?

 そこで颯爽と登場したのが、藤岡弘探検隊長だ!

 藤岡と言えば「仮面ライダー」で名を売って以来テレビ朝日とも縁が深い。フェロモンとエネルギーに満ちている感じが探検にピッタリ。何より最近仕事がない(笑)。確かにこの人選はピタリと決まった。

 …ように見えた。

 鬱蒼と茂るジャングルの中、エサとなるバナナの房に発信器をつけて猿人をおびき出す探検隊。その中心で活躍するのは、もちろん藤岡弘だ。何かこういう場面でも妙に場慣れしている感じで、確かに川口浩などよりも頼もしくは見える。発信器をつけたバナナが何者かに取られ、受信機からの信号音を頼りに猿人探索を始める探検隊。その時の藤岡弘の一挙手一投足がまさに見ものだ。

 まずは額からしたたり落ちる玉の汗。躍動感溢れるその身のこなし。そして何か物音が聞こえたり何かが見えたりした時に、意味ありげにピクピクッと動く黒々としたブッとい眉毛。デカイ目玉がギョロギョロ。さらにおもむろに何の意味があるのか呻く時の野太い声。「んむむむむぅ〜」

 ドラマチック! まさにドラマチックそのもの。「役者バカ」の面目躍如で、藤岡弘はサスペンスフルな状況を「演じきって」いる。確かにこれがサスペンス・ドラマや探検映画なら、この藤岡の振る舞いが面白さを倍増することは間違いない。そういった意味で、藤岡弘も真剣に手を抜かず100パーセント全力投球でサービスにこれ努めているわけだ。

 だけどね、今回に限ってはちょっと違うんだよね。

 これは確かに「つくり」「やらせ」を分かった前提で楽しむエンターテインメントではある。だけど、探検ドラマやサスペンス・ドラマではないんだよ。あくまで疑似ドキュメントであるところがミソなのだ。ウソだと分かっていても、あくまで疑似ドキュメントなの。それを分かった上で、つくり手と見る側が一緒に夢を楽しむ時間なんだよね。だからそこで、思いっきり「演技」しちゃっているのはいかがなものかと思っちゃうんだよ。実際に見ていてかなりツラかった。

 考えてみると、川口浩って俳優業やってた時もいわゆる「うまい」俳優じゃなかった気がする。芝居をやってるという感じがしなかった。それではそのくらい「自然な演技」だったのかと言うと、「肩の力が抜けていた」と言えば聞こえがいいが、芝居っ気そのものがなかったと言う方が正しいように思える。おまけに個性もあまり強いとは言えない。何となくノホホンとして出てきてボンヤリ演じている。これってプロの役者としちゃどうかと思っちゃうよね。

 だけど「俳優」という仕事として考えれば致命的なこの川口浩の力の抜け方が、「探検隊」にはピッタリとマッチしたんだね。ドラマじゃない“疑似ではあってもドキュメント”の日常性や自然さが、川口浩の普通さ加減とハマっちゃったわけ。これはやっぱり余人ではマネの出来ない境地かもしれないんだよ。普通だから妙にリアルなのだ。だからシラけずに見れる。

 転じて今回の藤岡弘。彼も「うまい」役者かどうかについては態度を保留したいが、「役者バカ」たる芝居っ気だけは過剰に持ち合わせていることは誰もが認めるだろう。その風貌と相まって、何とも「濃い」個性、「濃い」芝居、「濃い」男性味…何から何までトゥマッチなのがこの藤岡弘という役者なのだ。

 だから今回も思いっきり力込めて「演じて」しまっている。そんな彼がハッキリクッキリ演じきればきるほど、実はこの疑似ドキュメントというフレームから浮いてしまうんだよ。ハッキリ言って一人だけマジになって寒いんだよね。

 平板だ、メリハリがない…それっていい意味で使われるってことはまずない。だけどこの「探検隊」に限っては違う。平板でメリハリがない…ってのは普通であり日常だ。ましてや、実は作り手も見る側もそれが「やらせ」と分かってやっているのなら、さりげなく力入れないでやるのが粋ってもんじゃないか

 メリハリつけりゃいいってもんじゃない、クッキリハッキリやればいいってもんじゃない。それをやるべきは「ドラマ」だ。

 「探検隊」番組ではつくり込んで“ドラマっぽく”なればなるほど、実はみんなが揶揄する「やらせ」疑似ドキュメントなんかよりずっと、ウソっぽさに近づいていくんじゃないか…?

 

黎明期ニューヨークの一角を巡る覇権の果てに

 一人の少年の前で、その父親リーアム・ニーソンが旅立ちの準備のようにひげ剃りをする。ニーソンは神父だ。だが、その表情にはただならぬ気配がある。ニーソンがこれから出かける「旅」が、容易ならざる覚悟を彼に強いていることは、息子である少年にもハッキリ見て取れる

 やがてニーソンは少年を連れて出かける。穴蔵のような部屋を出て、息苦しい回廊のような場所を通り、むくつけき男たちがひしめいて働く薄暗い場所を横切って…そのニーソンと少年に連れが一人ひとりと増えていく。穴蔵のようなこの場所で働いていたジョン・C・ライリーも、ゲイリー・ルイスもそこに加わる。やがて数多くの男たちの集団が形成され、彼らはこのカオスのような建物の出口へと差し掛かる。ここは「オールド・ブリューワリー」と称する巨大な建物。目下のところアイルランド出身の移民たちがひしめいて暮らしている場所だ。

 そんな彼らの前に立ちふさがる屈強な男一人。太い棍棒を握ったブレンダン・グリーソン。そんな彼にニーソンは声をかける。「棍棒に一刻み増えるごとに10ドル払う」

 「よしきた、助太刀するぜ」とグリーソンはつぶやくと、棍棒でドアをバ〜ンと開け放した。

 「オールド・ブリューワリー」の前に広がる小さな広場。雪に白く彩られたその場所に、男たちは集結した。そんなニーソンはじめ男たちの前に、別の男たちの一団が集まってくる。

 それは「ネイティブ・アメリカン」と称する一団。先頭に立つ男こそ、この男たちを率いるダニエル・デイ=ルイスだ。この「ネイティブ・アメリカンズ」と今回一戦を交えようとするリーアム・ニーソンの一団こそアイルランド移民の軍団「デッド・ラビッツ」。この一戦には、彼らが住む街「ファイブ・ポインツ」の支配権がかかっていた。

 時は1846年。場所はアメリカ随一の大都市としてのカタチを整えようとしていたニューヨーク。自分たちこそ「ネイティブ=先住民」と主張するアメリカ生まれの白人たちは、雲霞のごとく港から押し寄せてくるアイルランド人をはじめとする移民たちに、苦々しい思いを抱いていた。そんな積もりつもったひずみが、今日ここに火花を散らすことになったのだ。

 決戦の火ぶたが切られた!

 銃を使わない、素手と刃物と棍棒がうなる肉弾戦の幕開け。その凄まじい戦闘に、白い雪はたちまち血で真っ赤に染まった。肉が裂け骨がきしむような壮絶な戦闘の中、「ネイティブ・アメリカンズ」のデイ=ルイスは確実に一人ひとりと敵を倒していく。彼の視野にあるのはただ一人。敵のリーダーである神父ニーソンの姿だった。

 そしてデイ=ルイスのナイフがニーソンの体をとらえた!

 戦場に倒れ込むニーソン。たちまち周囲のカオスがサッと退いた。沈黙が辺りを支配する。敵も味方も立ちつくす中、倒れた父ニーソンの元に駆け寄る息子。今まさにここ「ファイブ・ポインツ」の雌雄が決した瞬間だった。

 息子が泣きながら父にすがる最中に、デイ=ルイスはニーソンのとどめを差した。そのナイフを握りしめた少年は、デイ=ルイスをにらみ付けるとパッと走り出した。慌てて少年を追う男たち。

 「オールド・ブリューワリー」に逃げ込む少年。追いかけてきた男たちを、少年の幼なじみが邪魔して倒す。その隙に、少年は「オールド・ブリューワリー」の奥深くに逃げ込み、父を倒したナイフを穴に隠した…。

 以来、16年の月日が流れて…。

 少年はいまや体格も立派な青年レオナルド・ディカプリオとなっていた。教会が開いた孤児院から晴れて出る日、ディカプリオはもらった聖書を惜しげもなく川に捨てた。それはあたかも彼の良心を捨てる覚悟のようでもあった。

 いまや見違える姿でかつての「ファイブ・ポインツ」を訪れるディカプリオ。しかし「ファイブ・ポインツ」の街はディカプリオ以上に変わっていた。この街はすべてあのデイ=ルイスの支配下にあった。しかも、民主党の出店とでも言うべき「タマリーホール」の政治家ジム・ブロードベントと組んで、いまや公然とその権力を振るっていたのだ。ここに住む者で、デイ=ルイスの庇護を受けない者はいない。そして今この街では、リーアム・ニーソンが率いていた「デッド・ラビッツ」の名は御法度となっていた。その名前は、誰もデイ=ルイスを恐れて口にしようともしない

 やがてディカプリオは一人の青年と再会する。ディカプリオは忘れていても、彼はディカプリオを忘れていなかった。彼の名はヘンリー・トーマス。少年のディカプリオが父の死んだ日に逃げた時、彼を陰ながら助けたのがこのトーマスだったのだ。幼なじみの気安さからか、ディカプリオの面倒を何かと見るようになるトーマス。近所に火事があるとなれば、消防隊が駆けつけながらも縄張り争いで揉めている間に火事場泥棒。トーマスに誘われて火事場に乗り込むディカプリオだが、そこで逆に危ない目にあうトーマスを助けることになる。こうして彼らは無二の親友となった。

 やがてトーマスが入っているコソ泥団に迎えられるディカプリオだが、他の仲間は彼に疑いの目を向ける。そんな一触即発の時にやって来たのが、何とかつてはニーソンと共に戦ったはずのジョン・C・ライリー。だがライリーはいまや警官としてデイ=ルイスの手下と化していた。しかもこのコソ泥の上前をはねる見下げ果てた悪徳警官だ。だが、ライリーはディカプリオを見てもその正体には気づかない。

 こんなコソ泥風情でも、街の大ボスのデイ=ルイスには上納金を納める義務があった。ディカプリオはトーマスに付き添って、上納金を納めにデイ=ルイスのいる酒場にやって来る。そこで見たものは、やはり父ニーソンの片腕だったゲイリー・ルイスが、あのデイ=ルイスの腹心となっていた姿だった。またしてもルイスはディカプリオの素性を気づかなかったが、ディカプリオの胸には苦い思いが広がる。

 やがてディカプリオをそれとは知らぬルイスがケンカを吹っかけてくるが、ディカプリオはそんな彼をノシてしまった。この未知ながら骨のある若者に、デイ=ルイスは思わず注目した。ポッと出の若造なのに、親しく声をかけてくるデイ=ルイス。図らずもディカプリオは、思いの外容易に敵のフトコロに転がり込んでしまったのだ。

 だが、そんなディカプリオの姿をじっと見つめる人物が一人。それは金のために戦ってきたため、デイ=ルイスにも従う必要がなかった男、あの棍棒を奮ったブレンダン・グリーソンだった。

 そしてディカプリオが出会った人物がもう一人。いまや彼の親友となったヘンリー・トーマスが憧れる美人、しかし手強い女スリのキャメロン・ディアズだ。たまたま彼女に大切にしていた品物をスられたディカプリオは、彼女を追っていくうちにその正体に舌を巻く。金持ちの屋敷に乗り込んではメイドに化けて金目のものを奪うという荒稼ぎ。これは並大抵の度胸で出来るものではない。屋敷を出たところでディアズを捕らえたディカプリオは、彼女から自分の品を取り返しながらも彼女に惹かれるものを感じるのだった。

 そんなこんなしているうちに、どんどんデイ=ルイスの信頼を勝ち得ていくディカプリオ。そしてデイ=ルイスは傲慢で冷酷無比な男ながら、心の内ではディカプリオの父リーアム・ニーソンに敬愛の情を持つ男でもあった。敵ながら天晴れ、あれほどの敵には出会うことはない。そんな彼一流の想いと誇りを持つデイ=ルイスに、なぜか惹かれるものを感じていくディカプリオ。敵の軍門に下って生き恥をさらすライリーやルイス、そのアリサマを苦々しく思っていたディカプリオ。だが最初は自らの思惑のためと腹をくくって敵の掌中に飛び込んだものの、いまや自分自身宿敵デイ=ルイスの厚い信頼を勝ち取り、しかも自分自身がその不思議な人物像に惹かれつつある。その皮肉な巡り合わせに、複雑な想いを抱かざるを得ないディカプリオではあった。

 そんなある日、「オールド・ブリューワリー」で開かれたダンス・パーティーに参加するディカプリオとトーマス。当然トーマスのお目当てはあのディアズだ。だが彼女が選んだパートナーは何とディカプリオ。退けられたトーマスの表情が悲痛に歪む。

 ダンスの間見つめ合い、お互いの気持ちを知ったディカプリオとディアズ。二人は誰もいない空き部屋で愛を確かめ合おうとする。だが、その時にディカプリオはディアズがデイ=ルイスの愛人であることを知った。責めるようなディカプリオの口調に、ディアズは思いの丈を込めて反論する。幼い頃孤児になり、拾ってくれたのがデイ=ルイスだった。他にどうすることも出来なかった…そんな彼女の訴えを聞いても、ディカプリオは彼女を抱くことが出来なかった。

 そんな二人が一緒にいたことを、デイ=ルイスは知っていた。だが彼はディカプリオを責めるわけでもなく、ニーソンの思い出と自分の真情を吐露するのだった。ますます二つの感情に引き裂かれていくディカプリオ…。

 それでも復讐はなされなければならない。デイ=ルイスと「ネイティブ・アメリカンズ」は、父ニーソンが死んだ日を祝日として祝っていた。その日こそ復讐の日。ディカプリオは短刀を胸に忍ばせ、その日に臨んだ。だが、彼は知らなかったのだ、あのトーマスがデイ=ルイスの元に駆け込み、彼の正体を明かしたことを。

 待ちに待った復讐の瞬間。しかしデイ=ルイスは彼の企みに気づいていた。たちまち取り押さえられるディカプリオは、衆人環視の下に痛めつけられたあげく、辱められて放り出された。それはデイ=ルイスが信頼を裏切った彼に与えた、怒りを込めた屈辱だった。

 そんな瀕死のディカプリオを助けたのがディアズだった。彼女はディカプリオを「オールド・ブリューワリー」の奥深くに匿い、必死の看病を続けた。そんな彼女の献身が功を奏して、何とか立ち直るディカプリオ。

 ディアズはディカプリオに一緒に西部に逃げようと誘う。だが、ディカプリオは首を縦には振らなかった。そう、彼にはまだやるべき事がある

 「ネイティブ・アメリカンズ」がディカプリオを探していたその最中、「ファイブ・ポインツ」の中心部の広場に歩み寄る一人の青年の姿があった。彼こそすっかり傷を癒されたあのディカプリオだ。彼は広場の柵にウサギの死体をくくりつけると、キッと周囲を見据えて仁王立ちした。

 ウサギの死体…それはいまや禁句の「デッド・ラビッツ」の象徴だ。

 いまやディカプリオは、宿敵デイ=ルイスに公然と挑戦状を叩きつけたのだった!

 

独自のアメリカ史観を展開するマーティン・スコセッシ

 この映画のことは映画ファンだったら誰でも知っているよね。あのマーティン・スコセッシが手がける大作中の大作。そしてレオナルド・ディカプリオの注目の新作でもある。そのお金のかかり方から言ってもスコセッシにとっては映画作家生命を賭けた作品と言えるだろうし、ディカプリオにとっても「ザ・ビーチ」が不発だっただけに失敗は許されない作品だろう。

 ところがこの作品、あのニューヨークでのテロ騒ぎのあおりをくらって編集が長引き、公開がほぼ1年遅れてしまった。そうなればイヤが上にも憶測が煽られちゃうよね。一体どういう出来映えになっているんだろうと、みんな期待と不安でいっぱいだったろうと思う。

 今時の風潮に背を向けて、ほとんどCGを使わずにチネチッタ撮影所に大セットを建造し、そこにエキストラを多数動員しての撮影。今回のプロデューサーにフェリーニ作品やベルトルッチ作品、パゾリーニ作品を手がけたイタリアのアルベルト・グリマルディが絡んでいるのは、このチネチッタ使用によるものなんだろうね。ともかく、この厚ぼったさというか重量感というものは、近来の映画には見られなかったものだ。正直言ってあのマーティン・スコセッシがこんなスペクタクル・ロマンをつくれる監督とは知らなかった。このスケール感に終始圧倒されることは間違いない。まぁ、ディカプリオやキャメロン・ディアズなんてビッグ・スターを起用すること自体驚きではあるんだけどね。

 ビックリしちゃったのは終盤のクライマックス。僕はこの話が最終的にはせいぜい対立する二つの集団の小競り合いで終わるものだとばかり思っていたから、最終的にニューヨークを破壊するような大戦争になったのにはドギモを抜かれてしまった。いや〜ここまでやるとは。さすがの僕も完全に驚いたよ。

 映画のテーマとしては先住民(と自ら称する人々)と移民の軋轢というアメリカ先史的なお話があって、そのあたりマイケル・チミノの「天国の門」なんかとも似通ったところがある。重量感たっぷりなスペクタクルの器があり、その中にメロドラマ的趣向があるあたりも共通項だ。冒頭が主人公のイノセントな時代であり、物語の本題はそこから長い年月を経たところから始まるあたり、そしてクライマックスの決着が軍隊の出動で終結するあたりにも、両者の共通性は見てとれる。見せ物的スペクタクル性ではなく微細なところまで逃さないような圧倒的リアリズムによるスペクタクル映像という点で、「天国の門」ヴィルモス・ジグモンドと「ギャング・オブ・ニューヨーク」ミヒャエル・バルハウスのカメラの狙いは視覚的にもかなり近いものがあるしね。おそらくスコセッシのこの作品には、「天国の門」が多大な影響を与えていると思うよ。

 ただ、僕は「天国の門」がすごく好きなんだけど、スコセッシはたぶんその溢れかえるセンチメンタリズムがいささか邪魔に感じたんじゃないだろうか。あるいは“つくったドラマ”臭を濃厚に打ち出したあげくに、その(自称)先住民対移民問題がいささか単純化してしまったと思ったのかもしれない(マイケル・チミノの「歴史観」「政治観」なるものがひどく単純で近視眼的であることは、すでにその前作「ディア・ハンター」で露呈していた)。そのへんが「天国の門」へのアメリカ本国での過剰な反発の要因となったことをスコセッシは知っているから、そうはならないように神経を使ったのかもしれないね。このへんの事についてはさらに後述するが、父を殺された青年の復讐と成長、宿敵に見え隠れする「第二の父親」的男性像との葛藤、愛する女への思慕と宿敵の愛人であることへの反発、友の嫉妬と裏切り…など、スコセッシはこの映画のストーリーに典型的メロドラマ的設定をふんだんに持ち込んではいるものの、メンタルな意味での“ドラマっぽい”感興を盛り込もうとはしていないように見える。参考としたか反面教師か…ともかく絶対にこの作品には、「天国の門」が何らかのカタチで影を落としているはずだ。

 だからスコセッシはこの対立の構図を、そう単純には描かない。偏狭な「ネイティブ・アメリカンズ」の親玉ダニエル・デイ=ルイスを単純な悪玉に描かないあたりがそれだ。あるところでは主人公のディカプリオまでが惹かれてしまうような魅力的人物に描かれていて、しかし偏狭で傲慢で冷酷な人物であることも再三観客には提示される。ここがこの映画のポイントだよね。考えてみれば、物語上はデイ=ルイスが悪玉、殺されるリーアム・ニーソンが善玉という色分けがされるものの、暴力で「ファイブ・ポインツ」の利権を押さえようとした点においてはどっちもどっちなんだし。しかも、そんなデイ=ルイスでさえ最後は時代の流れの中で一掃されてしまう人物になってしまう。そんな彼を排除してしまうのは「政治」と「軍事力」というさらに巨大で徹底的な悪だ。

 人権を勝ち取るための闘争ともっぱら扱われている南北戦争さえ、ここでは一味も二味も違うねじくれた描かれ方をする。北軍側のニューヨークであっても、この戦争の意義を誰も見い出し得ないでいるのだ。そんなニューヨークが兵力として差し出すのは、移民として着いたばかりで愛国心も何も関係ない、国からまだ何の恩恵も被ってない移民たちを中心とする貧しい人々。豊かな人々は金で徴兵を免れることが出来るのだ。「南北戦争にも汚辱に満ちた部分がある」…これは確かに今までの歴史観とは違った、新鮮な見方ではあるよね。それでもこのあたりまでなら、「良心的」社会派作品などなら取りあげるかもしれない。そして、そんな南北戦争と徴兵への不満から民衆の蜂起が起こったところまででも、ひょっとしたら描こうとする者がいるかもしれない。問題はそれから先だ。その民衆の蜂起も「正義の戦い」かと思いきや、黒人の虐殺という悪しき副産物を生んでしまう。とにかく暴力が暴力を生む。そこに正義はない。スコセッシはそれを言いたかったのだろう。単純に“ドラマっぽく”“つくった”ステレオタイプな善悪を配置しても、何も描いたことにならないという覚悟が感じられるのだ。

 そして、そんな悪と暴力のカオスからアメリカは生まれたとでも言いたげな語り口。政治家も警官も消防士も軍隊も、誰も正義を遂行しない。欲望むき出しで弱肉強食で原始的としか言いようのない国。元々アメリカなんてこんな野蛮な国なんだとスコセッシは語っていく。その語り口の行き着く先は、たぶんそんな野蛮から生まれた国が人権だ民主主義だ正義だなんて世界に押しつけがましく言えた義理かという、たぎるような怒りがあるはずだ。今アメリカがやっていることの根底にも、こんな野蛮があるんだよと言っているに違いない。

 ところがスコセッシはそこでカッコいい事を言って、キレイ事を披露するところにとどまらない。それどころか、そんな野蛮なパワーの中に確かに魅力も感じているようなのだ。でなければ、あの大セット、モブ・シーン、暴力描写がこんなに魅力的に感じられるわけはない。このカオス、バーバリズム、ダイナミズム、エネルギー…これこそがアメリカの魅力なのだとも言っているようなのだ。彼は一人いい子になっている訳ではない。そんな忌まわしくも魅力的な部分に惹かれる自分も確かにいる。そこに非凡なものを感じるんだよね。否定すべきものと惹かれるものと、二つに引き裂かれるアンヴィヴァレンツな感情。この、筑紫哲也「ニュース23」的なウソ寒い偽善の正義感とは対極にある歴史観にこそ、僕はスコセッシのインテリジェンスを強く感じる。そして、ここがこの映画のスケールのデカイところでもあるのだ。決してでっかいセットと大勢のエキストラのスペクタクル映像だからスケールがデカイわけじゃない。

 そんな物語の結末にたどり着くのが、しっかりと世界貿易センター・ビルが写し出される現代のマンハッタン。これは最初から意図していた訳ではないだろうが、やはりすべての出発点にこれがある…というスコセッシの気持ちがこもっていると思う。暴力の果ての暴力…つまりは彼はやはり現代アメリカに視点を置いているのだ。

 レオナルド・ディカプリオはこの大作の主役を堂々と演じきって、スケール感では決して負けてない。ただ残念なのは、彼がどういう気持ちを持って今行動しているのか、その思いが今ひとつ伝わって来ないことだ。彼が宿敵に惹かれる想いも、それでも戦わざるを得ない心情も、ヒロインに惹かれる気持ちも、お話の進行上そうだろうと伺えるだけで、彼の演技や存在からは伝わって来ない。正直言ってキャメロン・ディアズに至ってはもっと酷い。彼女の場合は伝わって来ないを通り越して、何を考えているのか「分からない」のだ。ダニエル・デイ=ルイスはさすがに矛盾した人物像を魅力的に創り上げてはいるが、これは元々クセの強い役柄だからね。彼だからこそこれほど魅せる役になったとも言えるが、たぶんある程度はこの役柄の造型をすることはたやすかったはずだ。

 では、僕はこの映画の演技に不満があるのか?

 いや、僕はそうは思っていない。実はこれら人物造形の平板さについては、僕はすべてスコセッシの責任だと考えている。少なくともキャメロン・ディアズはともかく、他の俳優たちのせいではないのではないか? こうした登場人物の感情表現の乏しさは、たぶんスコセッシが単なる“ドラマっぽさ”から逸脱しようと過剰に意識したがための副産物であると思えるんだよね。元々、彼はここにドラマを描く喜びよりも、上記したようなアメリカ史観の再構築、ニューヨークの原点の再検証をする喜びを見出していたのかもしれない。それを描く「劇映画」としての体裁を整えるためのドラマ構築なら、どうしても二の次にならざるを得ないだろうしね。特にディカプリオが敵側に反旗を翻し始める後半は、保安官選挙などの描写で主要登場人物がどんどんお留守になってしまう。このあたりを見ても、スコセッシ自身がこの映画の登場人物にあまり関心がないように思えてしまうんだね。また、出来るだけ「天国の門」的攻撃を受けないように、そして誤解を受ける乱暴な描き方にならないようにと、神経の使い方が偏ってしまった可能性もある。例のテロ後の編集作業では、なおさらそうした気持ちが強く働いたはずだと思われるんだね。その過程で、本来は描かれるべきだった演技やドラマが、バッサリと切り捨てられてしまった可能性は大だ。さらに“ドラマっぽい”趣向の「情」に流されることで、冷静な「歴史的視点」がぼやけたり、誤解されたり、単純矮小化することも恐れたのだろう。

 だから人物描写は総じて平板であると、残念ながら僕は言わざるを得ない。この映画の主人公たちを見て、我が事のように思ったり、共感したりすることは困難だ。ストーリーを進行させるためにだけ、彼らは存在しているのだから。逆に言えば平板に過ぎるドラマにボリューム感を出すがゆえのビッグ・スターの起用ということはあるだろう。だが、それ以上の役割をスコセッシは彼らに負わせてはいない。後はディカプリオ、ディアズ、デイ=ルイスという名前による興業上の保証だけだ。彼ら主演者たちには申しわけないが、この映画での彼らの存在意義はそれくらいでしかないだろう。

 だけど、それでもこの映画は見るべき価値がある。そうした重層的な歴史観、アメリカ観を打ち出したこと…いや、何よりそのボリューム感たっぷりなスペクタクル映像だけでも見る価値はある。スペクタクル映画好きの僕としては堪能したよ。

 だから僕は少なくとも失敗作だとは思ってない。例えドラマが平板だったとしても。

 

 

 

 

 

 

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