「8人の女たち」

  8 Femmes

 (2002/12/30)


近年のストーンズ公演恒例の「儀式」

 確かかつてローリング・ストーンズ初来日の時のことを、「ステイ・クレイジー」感想文で長々と述べたような気がする。繰り言を述べて申し訳ないが、とにかく1990年の初来日は僕にとって忘れがたい出来事だったんだよね。何しろその直前というものはストーンズの中心人物のミック・ジャガーとキース・リチャーズの関係が最悪になっていて、いつ解散してもおかしくなかったからね。だから、突然のニュー・アルバム発表、ワールド・ツアーの開始、そして初来日公演という畳みかけるような展開に、僕なんか狂喜乱舞した覚えがあるんだよ。

 ストーンズはその長い歴史の中で、ビートルズとの交流とライバル意識、麻薬やセックスやスキャンダル、元々のリーダーだったブライアン・ジョーンズの失墜と脱退の末の死、公演中に起きた観客の刺殺事件…などなど、数限りないトラブルや問題を乗り越えてやって来た。それでもこの時期のミックとキースの軋轢ほど、ファンに危機感を抱かせたものもなかった。それぞれがソロ・アルバムを発表し、ミックは単独で日本公演をやらかすなど、こりゃもうダメかなと思わされていたんだよ。

 だから初日本公演には期待した。そして、それは期待以上だった。メンバーは気合い十分だった。ミックとキースの関係もかなり良好に見てとれた。

 そして一番嬉しかったのは、演奏が終わった後に観客の歓呼の声に応えて、ストーンズのメンバーがステージに並んだ時。メンバー全員が肩を組んで、観客に向かってお辞儀したんだね。これには驚いた。

 それでなくてもスキャンダルと危険なイメージが売り物のストーンズだ。恐らくはこの時のワールド・ツアー以前には、エンディングにこういう趣向はなかったんじゃないか。それが和気あいあい、仲良さそうに全員で肩を抱いている

 この後、ストーンズのコンサートは都合4回見ている僕だが、このエンディングの肩を組み合っての儀式は毎回恒例で行われることになった。おそらく来年3月に行われる今度の日本公演でも、この儀式は再現されることだろう。でも、僕にはなぜかちょっと違って見える。実はその後オリジナル・メンバーのビル・ワイマンが脱退して、ストーンズは4人組になってしまった。僕が本当の意味でストーンズを見たと言えるのは、実は最初の日本公演の5人組の時だったと個人的には思っているんだよ。

 さまざまなトラブルや諍い、お互いの複雑な思いを乗り越えた末での、全員で肩を組んでのお辞儀。その時にメンバーの胸の内に流れていたのは、いかなる思いだったんだろう?

 僕たちファンもそれを知っているからこその、万感胸に迫る思いだったんだろうね。

 

家の主の死から始まる疑心暗鬼

 フランスの雪深い田舎町。人里離れた場所に、その屋敷は建っていた。今まさにこの家の長女ヴィルジニ・ルドワイヤンが、イギリス留学からクリスマス休暇に帰ってきたところだ。

 出迎えたのは車椅子に座る母方の祖母ダニエル・ダリュー母親のカトリーヌ・ドヌーブ妹のリュディヴィーヌ・サニエも、この家で長年家政婦を勤めるフィルミーヌ・リシャールも長女の帰郷を歓迎した。母親ドヌーブの妹にしてルドワイヤンの叔母イザベル・ユペールはメガネをかけたオールド・ミスで、彼女の帰郷にもいつもの皮肉な口調を変えずにいたが。彼女は母のダリューとともにこの家に世話になる身。だからダリューは身の程を知ってかドヌーブに感謝する様子を見せていたが、ユペールはどうもドヌーブとはギクシャクしている様子。ドヌーブも彼女には高飛車な口調を抑えようとしない。しかも、彼女のちょっとお高く止まったようすは別にユペールに対してだけではなくて、新入りのメイドのエマニュエル・ベアールに対しても、その態度は対して変わらなかった。

 さて、まだ現れていないのは、この家の主人にしてルドワイヤンの父親

 昨夜遅くまで仕事をした末の朝寝坊にしても遅すぎる。そこでベアールが食事を持って部屋に入っていくと…。

 キャ〜〜〜〜〜〜ッ!

 な、なんとこの家の主人氏は、ベッドで背中をグッサリ刺されて横たわっているではないか。

 それからはさぁ大変。部屋の証拠を保全すると次女サニエは部屋にカギをかけるわ、電話で警察を呼ぼうとすると電話線は切られているわ、大騒ぎ。しかも昨夜から今朝に限って、飼い犬が吠えてない。知らない人が来れば犬は激しく吠えるはずだ。すると侵入者はいない? ここにいる誰かの犯行か?

 そこに主人の妹ファニー・アルダンがやって来たから、事はさらにややこしくなる。彼女はどうもいかがわしい過去があり男出入りも激しかったようで、ちょくちょく兄であるここの主人に金の無心に来ていた。最近この屋敷の近所に引っ越してきたのもそのためだ。それがイヤさに、ドヌーブは彼女を毛嫌いしてこの屋敷には出入り禁止にしていたという経緯がある。

 ところがアルダンはズカズカと屋敷に乗り込むと、知らないはずの主人の部屋に乗り込もうとする。何でも今朝彼女あてに女から電話があって、「主人が殺された」と告げたということだが。

 不審なのはそれだけではない。今朝ここに到着したルドワイヤンがにわか探偵になったかのように一人ひとりに話を聞いてみると、出てくる出てくるボロボロと各人の秘密が。まず殺された当の主人は、最近ビジネス・パートナーを替えたらしいが、どうも事業に行き詰まっていたらしい。祖母ダリューは秘かに株券を握っていて、それを盗まれたの何だのと言っている。叔母のユペールは胸の内では殺された主人に気があったらしい。母ドヌーブは主人が死ねば遺産が転がり込む、一番得するポジションにいる。アルダンは実はこの屋敷に来たのは今回が初めてではないし、家政婦のリシャールはそんな彼女を自室に招き入れてトランプに興ずる仲だった。メイドのベアールも何やら謎めいた挙動不審のところがあったし、次女のサニエも何やら語らずにいる秘密がありそうだ。

 そして、探偵風情を気どるルドワイヤンですら、実はみんなに隠していた秘密をすっぱ抜かれる。実は彼女が屋敷に到着したのは今朝ではない。昨夜ここに着いて、主人の部屋に入るところをサニエに目撃されていたのだ。

 だが、外界との連絡は全く絶たれていた。車で通報しようにも、これまた何者かに壊されて走らない。外に連絡もできず、この屋敷に閉じこめられた8人の女たちは、お互い疑心暗鬼になりながら真相を暴こうとする。その都度明るみになる新事実。入り乱れる各人の思惑。見直さざるを得ないお互いの関係。

 さて真相は果たしていかなるものか? そしてお互いに言い争い疑いの眼を向ける8人の女たちの関係は、この後いかなる展開を見せるのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

葛藤や軋轢の果てに、人は何を信じればいいのか?

 先日「まぼろし」を見たばかりのフランソワ・オゾンの新作。と言っても「まぼろし」の時にも言ったように、僕はこの映画作家の実体がよく見えてない。「まぼろし」はこの人の従来の作品と比べて、かなり様変わりしたものだったようだしね。そしてこの「8人の女たち」は、その「まぼろし」よりもさらに一層様変わりした作品であるように思われる。

 物語は見ての通りで、典型的なアガサ・クリスティっぽい殺人推理劇。閉ざされた場所での事件で、そこに居合わせた主要人物すべてが容疑者という、いかにもな展開だ。当然その物語はかなり舞台劇的なものになっていて、実際この映画自体わざと舞台劇的につくっているフシが見受けられる

 何と言ってもこの映画の売りは、その登場人物にフランスを代表するような大物女優を大挙して起用しているところだろうね。そんな豪華さがたまらない。典型的推理劇、舞台的展開、スターの大挙起用というあたりが映画黄金時代のハリウッド娯楽大作風な豪華さを醸し出しているのも、みなさん予想の通りだ。

 当然オゾンもそれを大いに意識して、色彩もテクニカラー風と言ったらいいのか、総天然色が爆発。オープニングのタイトル処理から往年の作品ふうにつくって遊び心を見せている。それが楽しい人には楽しめるはずだ。

 さらに遊び心を極めているのが、この一人ひとりに歌と踊りの見せ場があるところ。これは犯罪コメディ・ミュージカルなのだ。はてさて、それとオゾンとどう結びつくのか心配だったが、まぁ僕にはやっぱり楽しめたよ。

 さすがに最初こそアレレ?という気にはなったものの、成長株セニエが歌い踊る後ろで、大女優ドヌーブと若手の中でも国際的活躍もめざましいルドワイヤンがコーラスつけながら振りを見せているんだから、嬉しくなってくるのを禁じ得ない。既成曲を焼き直しての有名女優によるミュージカル場面の連発は、やっぱり見ている側としては楽しいよ。

 ただ、歌もうまくはないし踊りも誰でも踊れそうなほど簡単なもの。つまりはあくまで「ミュージカル気分」なんであって、本格的にミュージカルをやろうという気はないのがアリアリ。このへんで引っかかる人も出てくるかもしれない。プロ中のプロが本気で取り組んだ「遊び」ではあるが、オゾンが功なり名を遂げて好きなことやってみましたの、ひけらかしと見えたらノレない可能性もあるね。そのテクニカラー・タッチ、往年ハリウッド豪華大作ノリ(ファニー・アルダンなどの踊りはモロにリタ・ヘイワースのパクりだし)、わざとらしく人工的につくってみました的な色彩や演技やセットに、オゾンの映画優等生的イヤらしさを感じないかというとウソになる。僕も大女優たちの共演ぶりや歌や踊りに嬉しくなりながら、こいつ何がやりたかったのだと疑問を感じないわけではなかった。少なくともエンディングまでは…。

 大団円についてはお約束の通りお教えするわけにはいかないが、それなりにアッと驚く趣向がある。その時、彼女たちは自分たち全員が主人を殺したことを悟るのだ。いや、正確には8人のうちに「あなた方がみんなで殺したのよ!」という台詞を吐く人間はいる。彼女にしてみれば、自分以外の女たちがいろいろ大っぴらには言えないさまざまなドロドロした事情で主人を「殺した」のだということになるのだろう。だが、実は彼女も気づいてはいるのだ。自分が良かれと思ってやった、そんな家族全員の真相追求、それこそが一番重い罪なのだと。何でも明るみにすればいいというわけではない。明るみにしなければその方がいいことなど、世の中にはいくらでもあるのだから。

 そして、誰も誰かのことをみだりに責められはしない。望むと望まざるとに関わらず、人は時に悪しき事をせざるを得ない。自分可愛さにやることもある、人のために良かれと思って行うこともある、知らずに手を染めていることもある。ともかく手を汚していない人などこの世の中にはいやしない。ウソを言わない人などいない。ウソを言ってこそ成り立つ人の世ということもあるのだ。

 では、人は何を信じればいいのか?

 そんなこんなの大団円を迎えて、女たちの最長老ダニエル・ダリューが大貫禄で歌い上げる「幸せな愛などはない」という歌は感動的だ。そう、完璧で傷ひとつない、ウソも隠しもない、満月の欠けたところのないような愛などこの世にはない。だけど、人は愛を求めてやまない。それなしには生きられない。例えどんな影や汚れがあったとしても。なぜなら、例えどんなものであったとしても、それがこの世で最も尊いものだから。そんなダリューの歌を聞きながら、それまでさんざ疑い合いいがみ合っていた女たちが手に手をとって踊り始めるんだよ。

 ここへ来て、この映画になぜオゾンが歌と踊りを持ち込んだのか、僕には何だか分かる気がしたんだね。社会での属性や理屈や言葉や見た目では、いろいろ面倒くさいことやウソや誤りもあるだろう。エゴや打算や思わせぶりや虚勢や虚栄や傲慢や気まぐれや…。それはその人とその回りにこびりついた余計なものだから。

 だが、人間その存在そのものは真実だ

 その人が何に属していて、何を持って何を言って何をやったところで、そんなものは真実ではないかもしれないし、真実であってもそのひとかけらでしかないかもしれない。そんなことに目を奪われていては大切な何かを見失うのではないか? 本来愛というものはそこに関わるものであるはずではなかったか。ならば人は相手の存在そのものと向かい合うことで、信じることだって出来るのではないか。

 歌と踊りというパフォーマンスは、そのうまい下手に関わらず、極めて肉体的行為だ。その人の肉体…存在こそが行う行為だ。その真実こそ受け入れるべきではないか。オゾンがこの映画の各人の感情表現に歌と踊りを用いたのは、そこに気づいたからだと思うんだよね。

 そして最終ショットで、女たちはお互い手をとってカメラ…観客に向かって手をつないで横一列で並び立つ。その勢揃いする姿は、豪華キャスト揃い踏みの素晴らしさ以上のものがある。

 その時、僕の脳裏に浮かんだのは、あのローリング・ストーンズだった。さまざまな葛藤や軋轢を乗り越えて、観客の前に肩を組んで現れた1990年のストーンズ…。

 人はさまざまな心の引っかかりを経て、それでもハダカの相手を信じ、受け入れなくてはならないんじゃないのか? 今の僕にはそれこそが真実だと思えるんだよね。

 

 

 

 

 

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