「プロフェシー」

 (リチャード・ギア主演)

  The Mothman Prophecies

 (2002/011/11)


 ここはアメリカの首都ワシントンD.C.。ワシントン・ポスト紙の花形記者リチャード・ギアは、社内のクリスマス・パーティーも欠席して帰りを急ぐ。それと言うのも美しい妻デブラ・メッシングとの約束があったから。この夜は不動産屋に無理を言って、都心の高級住宅の物件を見せてもらうことになっていたのだ。早速その家を見せてもらうと、いい値段だけあっていい物件。そんな立派な家の内部をのぞかせてもらっているうちに、ギアもメッシングも妙な気持ちをもよおしてきた。いきなり狭いクローゼットに忍び込んでおイタを始める二人。さぁいよいよ…という時にいきなり電球めざして蛾が飛んできたため、ビックリして気勢をそがれる。なぁんだ、せっかくその気になってたのに…。とはいえギアももういい歳だから、一旦しおれたモノはなかなか勢いを取り戻さない。

 この家、買った!

 アッチの事で頭に血が上ってる時には、男って気が大きくなるもんだ。女房の前でいいとこ見せて気分もいい。嫁さんメッシングも立派な家を買ってもらったからすこぶるご機嫌で、帰りの車もアクセルふかしてブッ飛ばす。さぁ、早く家に帰っておっ始めましょうアナタとばかり、どんどんスピードを上げていったちょうどその時…。

 あっ?

 一瞬何かで目をくらまされたか、嫁さんはハンドル切り損ねて車は派手にスピン。ギアは何とか無事だったものの、嫁さんはウィンドウにしたたか頭を打ちつけた。

 ただちに病院にかつぎ込まれる嫁さん。

 何とか意識を取り戻した嫁さんメッシングだが、どうも様子がおかしい。何かに怯えている様子に、ギアは何が何やら分からずオロオロ。嫁さんは目を見開いたまま、奇妙なことをつぶやいた。

 「あれを見た?」

 あれって何だ…と不思議に思うギアだが、どうも嫁さんは錯乱しているらしい。それもそのはず。何とCTスキャンの結果、嫁さんの脳には巨大な腫瘍が出来ていると分かったのだ。しかもあまりに巨大なために手術で除去も出来ない。化学療法に頼る他はない。結果的にメッシングは治療の甲斐もなく、ひっそりとこの世を去った。

 後に残されたのはギアただ一人。

 病室で妻の遺品を寂しく整理している彼に、見知らぬ患者が声をかける。「彼女は知っていた」…何のことやらサッパリのギア。だが、ふと妻のメモ帳をめくってみると、そこには気色の悪い悪魔のような羽根の生えた人とも生き物ともつかない「モノ」の絵が一面に描かれているではないか。これは一体何だ? ギアが顔を上げて振り返った時、そこには例の見知らぬ患者の姿は影も形もなかった…。

 2年の月日が流れた。

 ギアはいまだに妻を亡くした痛手から立ち直ってはいない。知人がお膳立てしたお見合いもスッポかして、取材のためにリッチモンドの街に向かおうと夜道を車でブッ飛ばす。ところがある場所で車がエンコした。なぜか携帯電話も通じない。困った。回りはえらく寂しい田舎道だ。仕方ない、近くの民家に助けを求めるか…と、とある一軒の家を訪ねたとたん…。

 いきなり出てきた男ウィル・パットンに銃をつきつけられ、ギアは家の中に引きずり込まれた。なんだなんだ、一体どうしたんだ。やがて地元警察の女警官ローラ・リネイまで呼び出されてきて押し問答。だが、ウィル・パットンはギアに銃をつきつけたままキレた状態だ。そこを何とか女警官リネイがなだめすかして、パットンの家からギアをやっとこ連れ出した。

 そのパットンのキレた理由というのが何とも不可解だ。彼いわく、ギアがパットンの家を訪れるのはこれが三度目だと言うのだ。それもいつも同じ午前2時半。もちろんギアがここにやって来たのは、これが初めてなのは言うまでもない。なぜ彼はそんな事を言っているのか? 狂ってるのか?

 ところがそんなギアの方も、負けず劣らずおかしなことがあった。まず、彼はこの街に来るはずじゃなかった。この街ウエストヴァージニア州のポイント・プレザントなんて、リッチモンドに行こうとするコースにカスリもしないあさっての方角だ。なぜ、そんなまるで違う方角に向かってしまったのか? まだある。いや、考えようによってはもっとこっちの方が奇妙だ。ギアが今いるのが本当にポイント・プレザントであるのなら、彼の車は何と1時間半で600キロ以上移動したことになってしまう。これは一体何を意味しているのだろうか? そんなあれこれを考えていくと、ギアはとてもパットンが狂ってる…では片付けられないものを感じていた。

 そして、そう考える者がもう一人。地元警察のローラ・リネイだ。彼女もまた、ここ最近やたら増えてきたこの街の異変に手を焼いていた。そんな彼女の手を借りて、ギアはこの街の異変を調べていく。するとさまざまな報告事例の中に、あのギアの妻が描いたのと同じ、羽根の生えた人とも生き物ともつかない「モノ」の絵が…。

 ある者はそれが家の外の木の下に立っていたと言う。あるカップルは車の中でイチャついているところを襲われたと言う。そんな気味悪い報告例は後を断たない。それはあたかも、蛾の化身のような存在に見えたというのだが…。

 その頃には、ギアはあのパットンと個人的に親しくなっていた。そのパットンも、例の蛾人間に出会ったと言うのだ。それだけではない。この蛾人間は、パットンにある言葉を言い残した。「デンバー9、99人が死ぬ」

 その夜、パットン夫妻と食堂で会っていたギアは、テレビのニュースを見て驚愕した。何とデンバー発9便の飛行機が墜落して、99人が死亡したと言うのだ。これは何だ? 予言なのか?

 さらにパットンが再び例の蛾人間に出会って、またもや受けた予言は「赤道で300人が死ぬ」。これも翌朝の新聞で、南米の大地震が報じられたことで現実となった。

 蛾人間とは何か? なぜ予言が?

 しまいには夜中にパットンから、モーテルのギアの元に奇妙な電話がかかってくる。何と今パットンと一緒に、その蛾人間がその場にいると言うのだ。しかも電話に出てきた。気味の悪い声の「蛾人間」は、ギアの過去についてだけでなく、ギアが今何をしているのか、彼がたった今開いた本のページの内容まで言い当てる。これにはギアも胆をつぶさざるを得ない。しかもこの電話を録音したテープを鑑定に出したところ、相手の声は明らかに人間のものではないと言うのだ。

 その頃ギアは、そんな予言について書かれた一冊の本にたどり着いていた。その内容に興味惹かれたギアは、本の著者を求めてシカゴへ飛ぶ。だが、ようやく見つけた著者アラン・ベイツ博士は、ギアの質問に剣もホロロでまるで答えてはくれない。それどころか、えらく怯えた様子でギアにも手を引けと言い放つ始末だ。

 ポイント・プレザントの街に戻ると、パットンが完全にキレていた。明け方に電話で呼び出されてパットンの家に行ってみると、彼は家の外で凍え死んでいるではないか。だが彼の死亡推定時刻は8時間前くらいと聞いてギアはまたしても胆を冷やした。ギアがパットンから電話をもらったのは、早くてもせいぜい1時間前くらい。では、パットンは死後に電話をかけてきたのか?

 しかもポイント・プレザントの街にギアの亡き妻らしき人物がうろついているらしい事が分かって、いまだ妻への想いを断ち切れていないギアは大いにうろたえる。

 そんなある日、女警官リネイはギアに自分の見た夢の話をする。彼女が水に溺れている夢だ。周囲にはプレゼントの包装された箱や包みが漂っている。彼女はそれらの箱を掴もうとするが、どれも手からすり抜けて掴めない。やがて彼女は溺れて沈んでいく。それは確かに死を意味すると彼女にも自覚できるのだが、そんな時、彼女を呼ぶ声が聞えてくるのだ。「37番、引き返せ!」

 夢はそこで終って目が覚めたという。一体この夢の意味するところは何か? 「37番」とは、一体何のことなのか?

 そんなこんなしているうちにも、あれこれ異変相次ぐポイント・プレザントの街。何かがここで起きようとしている。もう一刻の猶予もない。シカゴのベイツ博士の元に強引にねじこんだギアは、何とか博士に真相を尋ねようとした。だが、博士とてもスッキリした回答は出せない。ただ蛾人間の報告例は古くからあり、近くはあのチェルノブイリ原発周辺など、大災害がある前に多数の目撃例が集まるというのだ。すると、今度はポイント・プレザントの街に何かが起きるというのか?

 街には巨大な化学工場があり、大きな河があり、その河に架かるランドマーク的な鉄橋がある。これのいずれかに何らかの異変が起きるのか?

 五里霧中のまま、ギアがたどり着いた結論とは?

 

 ギアがたどり着いた結論…そんなものはありゃしない(笑)

 最終的にあるカタストロフが起きて、そこがこの映画の派手な見せ場になる。そこで一応観客に提示されたさまざまな謎のうちの1片が解けるのだが、それって映画全体の謎からすればどうってことないものだし、それが全体の謎を解くカギにもならない。蛾人間とはなんなのか? 何の目的で予言がなされるのか? そもそも異変の一つひとつにどういう意味があるのか? 謎は謎のまま提示されるのみだ。しかも、それが差し示す方向には理路整然としたものはない。見事にバラバラ。

 聞くところによると、このお話は実際にポイント・プレザントという街で起きた異変の数々を、フィクションとして再構成した作品だという。おそらくは主人公にあたるリチャード・ギアやローラ・リネイのキャラクターあたりが架空のもので、彼らが謎を追っていくかたちでストーリーを構成し、フィクション化したものなんだろう。だから、どこまでホントかツクリかを厳密に云々することは出来ないが、怪奇現象の一つひとつは現実(にあったとされる出来事)ということになるのだろう。

 そして、その謎は解き明かされないままだから、当然のことながらスッキリとした説明がなされるはずもない。「サイン」の謎のように、映画の終りにすべてピタッとジグソー・パズルみたいにクリアーになるわけはないのだ。

 監督のマーク・ペリントンは「隣人は静かに笑う」をつくった人。だから、今回もジワジワ系の怖さの創出はなかなかウマい。だがこの人も、決して謎を説き明かそうとする気配はない。いや、結局謎の正体なんてウソでも何でも分かりようもないと思っているフシがあるのだ。

 この映画、そんな調子だから実話ものとも言い難いし、さりとて完全にフィクションとも言い難い。そして完全にフィクションとしてつくったなら、もうちょっとスッキリとした原因、理由、解決の筋道を立ててつくっただろう。だから娯楽映画として、この映画がよく出来ているという言い方はなかなかしにくい。奥歯にモノのはさまったような点は最後まで残るからね。異変もどれもこれも関連があるんだかないんだか分からないから、仮に無駄のない語り口が良質な娯楽映画の資質だとしたら、物語の進行上では無駄ばっかりのガタガタな映画ということになってしまう。

 だけどそんな要素のとっ散らかりようこそが、ここでのリアリティってもんでもあるんだよね。理屈が通らないからこその謎だということも言える。面白そうな序盤で始まるホラーやショッカー映画が終盤で得てして失速しがちだというのは、そこに妙に明快な説明がついてしまうからだろう。実際に怪奇な現象が起きる時なんて、絶対に説明がつかないに違いない。そういった意味でこの映画には謎や恐怖に実感があるし、要素がとっ散らかったままだからこその底知れぬ怖さ、得体の知れなさがあるんだね。それは田舎の便所みたいな理屈抜きの気色悪さと言ってもいい。アメリカの娯楽映画としてこのスッキリしない感じは極めて稀で、ちょっと面白いところでもあるんだね。

 そんな謎が謎のまま放り出されて、登場人物も観客もお手上げ状態の中、結局ある種の結論として導き出されるのが「人が人を思いやる気持ち」だ。それが主人公たちを救う。この「実話」ベースの物語の中でそこだけがつくられたものだから、妙に「結論」めいているかもしれない。だけど、それ以外の謎の部分がほとんど未知のまま放り出されて奇妙なリアリティを放っているから、そんな「人が人を思いやる気持ち」をうたいあげる結論がウソくさく見えない。それどころか、謎また謎でどうしていいか分からない迷宮に迷い込んだ時、人にとり得る手段って結局それしかないんだよなという、ある種の説得力さえ持つんだよ。これは不思議な映画だね。

 実際、そうかもしれないよね。

 そうすればうまくいくのか、危機から逃れられるのか…そんな理解や判断や人智が及ばない領域に入り込んでしまった時、どれがいい手か、何がうまい方法か…などと頭で考えた小手先のことなんて何も意味がない。どれが自分に得かなんて、いくら考えたって実現するわきゃないよ。

 そういう時はひたすら祈るんだ。そして思うままに行動するしかない。もう損得や合理性の問題でもない。そんなチマッとしたこと考えても無駄だろう?

 自分のことではない、どうしたら人が幸せになれるのかが問題なのだから。

 

 

 

 

 

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