「ロード・トゥ・パーディション」

  Road to Perdition

 (2002/10/21)


帰国した「拉致被害者」の言動に思う

 小泉首相の北朝鮮訪問は、まさに晴天の霹靂とでも言うべき出来事だったよね。

 そして、北朝鮮側が日本人を拉致していた事実を認めたことも…。この北朝鮮訪問と首脳会談の成果、また拉致されたとされる人々の生死の確認などなど、その事の是非についてはここで一言で語れるものではないし、語るつもりもない。だが、「拉致疑惑」を認めたという一点においては、確かに事態は一歩進んだと言っていいのかもしれない。

 しかも、そこで生存が確認された「拉致被害者」については早くも一時帰国が実現したわけだから、これは急展開だと言わざるを得ないだろう。これについてもいろいろ論議はあろうが、少なくとも「拉致」された人たちが一時とは言え日本の土を踏むことになったのは、驚くべき進展と考えるべきなんだろうね。

 ただその帰って来た人々の言動については、やはり一般の人々やマスコミ、そして何より拉致された人たちの家族などにとっても、どうもスッキリしないものが残るんだよ。

 どうにもこの「拉致被害者」の人たちの口が重い。語っていることもどこまで真実か本音なのか分からない。

 確かにこの人たちの家族は北朝鮮に「人質」のごとく足止めされたままだ。おまけに日本国内にもどれだけ工作員やシンパがいるか分からない。そんな状況下で下手な発言なんか出来るわけないだろう。そんなアレコレを考えてしまうと、彼らの言っていることには何かオブラートがかかっていると思わざるを得ないよね。それは長年再会を願ってきた被害者の家族とてそうだろう。

 こうなっちゃうと、例え誰が何を言ったとしても、もう最初っから額面通り信じることが出来ないってのが本音じゃないか?

 彼らを誰よりも案じ、心配してきた家族ですら、面と向かっての彼らの言動をもう信じることができないのだ。それって実に悲しいことだよね。でも、それはどうしようもない。だって、「信じる」ってそういうことだからね。

 親しみや愛情を持って接している相手に対しては、人間は絶対的に「信じて」いるもんだよね。というか、「信じる」ことが親しみや愛情の大前提だ。人は信用も出来ない相手に、親しみを持ったり愛情を抱いたりなんて絶対にできない。

 だから親しみや愛情を持ってる相手が多少腑に落ちない言動を見せても、人は何とかそれを自分に納得させようとする。ツジツマの合わないことでも自分の中で理路整然とさせてあげる。「信じる」ってのはそういう事だからね。「信じて」いる間は、相手に対する許容範囲はかなり広いものなのだ。

 ところが何かの原因で相手に対する信頼が揺らぐと、同じことを言ったりやったりしても、全然別の見え方がしてきちゃうもんなんだよね。そうなると、相手に対するモノの見方はどんどん辛口になってくる。正直言って人間なんて生モノだから、多少理屈に合わなかったりツジツマが合わなかったりすることはあって当然。だけど一度信頼が揺らいだ後は、もうそんな事が1ミリでもチラつくと疑いの眼を向けずにはいられないわけ。いや。酷いことになると、「信じて」いる時には好ましく見えたことまで胡散臭く感じられてくるんだよ。もっとフェアな目で見なきゃ…と言おうが思おうが、なかなかそうは問屋が卸さない。それが人間というものなんだよね。

 「拉致被害者」とご家族については、そこに国家と人の生死というデカいものがかかっているから、それが「不信感」にまで育って相手に対する親しみや愛情がなくなるってことはないだろう。誰もがそんな事情を分かっているからね。どうしようもないと理性で分かっている。それでも、本来は本音のつき合いであるはずの肉親に、奥歯にモノの挟まったような接し方をしなければならないのは残念でならないだろうなと僕も思う。

 まして、国家だ生きるの死ぬのだってことが関わらない日常で、相手に対してそんな不信の芽がふいちゃった時には、自分の視野に覆いかぶさった色メガネをかなぐり捨てるのは至難の技だと言わざるを得ない。実はこの場合、「信じられなくなる」ってのは正確ではない。何事も「疑いたくなる」というのが、本当のところだろう。

 そして、「信じる」ことは親しみや愛情の大前提だ。

 だとすると、それが一度でも揺らいだ時には、もう相手との関係は修復不可能なんだろうか? 確かに信用が揺らいだ時、「信じて」いた側は鈍いプライドの痛みを感じるかもしれない。「信じたオレがバカだった」…そして相手と自分との関係に、ひどく宙ぶらりんでうそ寒いものを感じてしまうのかも。だが、本当にそれですべてが終りなんだろうか? 終りにしていいんだろうか?

 「信じるに足る」から「信じる」のか、「信じる」ところから「信じるに足る」ものが生まれてくるのか。

 そもそも「信じる」って、「信じたい」って思うことから始まるんじゃないか?

 

お互いしか頼るものがなくなった父と子

 時は1930年代のアメリカ、雪つもるイリノイ州ロックアイランドの街。タイラー・ホークリンとリーアム・エイケンの兄弟は平凡な家庭の平凡な少年として育っていた。母親ジェニファー・ジェーソン・リーはいつも優しい。父トム・ハンクスはもの静かで真面目そうな男。そしてホークリン少年には、父親にどこか近寄りがたいものを感じていた。いつも可愛がられている弟のエイケンと比べて、なぜか父は自分に距離を持って接している。ホークリン少年は、常にそんな思いが拭い去れない。そんな中で少年は、父が帰宅時に拳銃をそっと置くのを目撃してしまう

 父の職業…それは家の中で語られたことがない。

 ある日、この一家はハンクスの「雇い主」である地元の大物ポール・ニューマンの屋敷に出かけていった。ハンクスたちの仕事上の仲間である男の葬儀が、ここニューマンの屋敷で行われたのだ。集まってきた人々も、みなハンクスの仕事仲間でありニューマンの部下たち。そんなハンクスはニューマンの信任も厚く、二人の息子たちはニューマンにまるで孫のように可愛がられていた。だが、なぜかハンクスは自分の息子たちがニューマンに猫っ可愛がりされている様子を快くは思っていないようだ。そして、やはり場の雰囲気を快く思っていない男がもう一人。それはニューマンの実の息子であるダニエル・クレイグだ。ハンクスを信頼し、何かというと頼るニューマンを見ながら、その表情は時として醜く歪む

 葬儀が粛々と進む中、なぜか死んだ男の兄キアラン・ハインズはスピーチの途中で興奮しだし、その場にそぐわない言葉を口走りだす。彼は遠回しに、ニューマンへの不満や批判を口にし始めたのだ。すかさず異変を察知したハンクスが彼を止めたためその場は収まったが、何とも言えない苦い後味が残った。

 父親の職業…それは一体何だろう? ホークリン少年の心にはそんな疑念がジワジワと広がる。日頃の父に感じる自分との距離感も、彼の疑念を助長していたかもしれない。そんな気持ちを抑えきれなくなった彼は、ある日、父の乗る車の後部座席に忍び込んだ。それは陰鬱なしと降る雨の夜のこと。父ハンクスは例のニューマンの息子クレイグを車に乗せて、とある倉庫にやってくる。ハンクスとクレイグが車を降りた後で、ホークリン少年は様子を伺うために秘かにその後を追った。

 倉庫の中では葬儀で激高したハインズが、クレイグに叱責されていた。そしてハインズの部下たちを牽制するかのようにその場に仁王立ちの父ハンクス。会話の内容はどうも例のハインズの弟の死に関連したことのようだ。死んだ弟が裏切り者の汚名を着せられたと訴えるハインズは、その真の罪はクレイグにあると名指しで非難する。だがクレイグはそんな自分への告発を聞いたとたん、ハインズの頭を拳銃で狙った。

 一撃でその場に倒れるハインズ。

 たちまち派手な銃声が飛び交い、ハンクスはたちまちハインズの配下の者たちを仕留めてしまう。これには中を覗いていたホークリン少年も驚いた。

 ハインズの配下の者をあっという間に仕留めたハンクスは、翻ってクレイグの無思慮な行いを叱責する。だがその時、覗いていたホークリン少年が見つかってしまった。

 逃げようとしても腰が抜けて動かない。うずくまる人物が自分の息子であることを見てとったハンクスは、もはや返す言葉もない。クレイグは殺人を目撃したのがハンクスの息子と知って、「口は難いだろうな」とせせら笑いながらその場を去った。激しく降る雨の中、何ともやりきれない思いで黙りこくる父子二人

 父の秘密を知ったホークリン少年は、もはや父親を以前の目では見れない。逆に、反抗的な態度を返されても何も言うことが出来ないハンクス。心配したニューマンが様子を見にやって来たが、もうホークリン少年は無邪気に飛びついていく気はなかった。学校に行っても勉強なんか手につかない。ちょっとしたきっかけで旧友と派手なケンカまでしてしまう。どうしようもない苛立ち。

 一方、ニューマンの屋敷で行われた組織の幹部会。息子クレイグの無思慮な行いに怒ったニューマンが、一同の注視の前でクレイグを怒鳴りつけた。激しい屈辱。歪んだ思いがさらに拗くれたクレイグは、さらによからぬことを企み始める

 クレイグがハンクスに頼んだ金の取り立て。それが実はワナだった。クレイグに託された手紙を取り立て相手に渡したとたん、その男はハンクスを殺そうとしたのだ。間一髪の機転で相手は倒したハンクスは、すべてのからくりに気づいて慌てて自宅へととって返した。

 同じ頃、ケンカの罰で学校に残されていたホークリン少年は、とっぷり暮れた夜道を自転車で自宅へと向かっていた。ところがそんな彼の目の前で、自宅から銃声と閃光がひらめく

 とっさに物陰に隠れたホークリン少年は、自宅から立ち去るクレイグの顔を見た。

 ようやく自宅に到着したハンクスは、そこに呆然と佇むホークリン少年を見つける。さらに浴室に入ったハンクスは、そこで妻ジェーソン・リーと次男エイケンの変わり果てた姿を見つけて呆然となるばかりだ。そしてこみ上げる嗚咽…。

 事態を知ったニューマンは怒り心頭。愚かな息子クレイグを叱りとばすと「地獄に堕ちろ」とばかり殴り倒す。だが、バカな子供でも息子は息子。例えどんな事があっても息子を見捨てるわけにはいなかなかった。

 怒りに燃えたハンクスは、ホークリン少年を車に乗せてクレイグのアパートに乗り込む。しかしそこにはすでにクレイグはいなかった。代わりに先回りしたニューマン配下の部下が、和解金を持ってハンクスを説得するために控えていた。バカなことは考えるな…そんな説得の言葉も空しい。ハンクスはその説得役の男を冷徹に仕留める。

 サイは投げられた。

 ハンクスとホークリンの父子は車でシカゴまで旅立った。大都会シカゴ。そこには、昔ハンクスが世話になったアル・カポネの片腕スタンリー・トゥッチが幅をきかせているのだ。彼ならば話を聞いてくれるかもしれない。だが、そんな期待も空しかった。ヤクザ社会は義理が重たい男の世界。大ボスであるニューマンにタテつく者を、どんな事があろうと支援する人間などいない。結局失意のうちにシカゴを後にするハンクス父子だった。

 そしてニューマンは、長く信任していた片腕ハンクスに対する、苦渋の決断を迫られていた。バカな息子でも守らねばならない。クレイグの身柄をトゥッチに託したニューマンは、すべてを守るためにハンクスを倒すための刺客を雇うことになった

 その刺客…手強く恐ろしい異常性を秘めた殺し屋、ジュード・ロウ。

 殺しの現場で死体を撮影することをこよなく好む男。この冷徹で血も凍るような殺人者は、ハンクスを倒すために彼の足取りを追い始めた。

 今はもう住む者もいなくなったハンクスの自宅。そこで営まれた葬儀に出席した妻の姉ダイアン・ドーシーに、ハンクスは秘かに電話で連絡をとった。こうなった以上、当座の身の置き所が必要だ。ハンクスは息子ホークリンの身柄を、このドーシーに匿ってもらおうとしたのだ。だがそんな電話のやりとりを、殺し屋ジュード・ロウが見つめていた。電話をかけた先からハンクスの足取りを見つけ、ジュード・ロウはハンクスたちを追いつめていく。

 夕暮れのダイナーに食事のために立ち寄ったハンクス。だが、息子ホークリンは頑なになって車から降りようとしない。仕方なく息子を車に残したまま、ハンクスは一人でダイナーに入る。そこに現れたのは、ご存じ殺し屋のジュード・ロウだ。

 ジュード・ロウは食事中のハンクスにさりげなく話しかける。ロウが何者かを知らないハンクスは、その会話につき合いながら食事を続けていたが、途中で中座してトイレに立った。だが、さすが腕利きハンクス。彼はロウのみなぎる殺気に感づいたのかトイレから外に逃れ、あっと言う間に車で逃走してしまった。地団駄を踏むロウ。だが、彼の車のタイヤはパンクさせられているという周到さだ。

 安全な距離まで走り去ったと判断したハンクスは、路肩に車を停めると息子ホークリンを叱責した。何が飯を食いたくないだ、俺の言う通りしろ、さもないと二人ともあの世行きなんだぞ!

 だが、それまで呆然と無表情を装っていた息子ホークリンは、ここで一気に緊張が解けたのだろうか。わっと泣き出すとともに、血を吐くような叫びを上げた。みんな僕のせいだ、僕があんな事をしたからこんな事になったんだ!

 そんな息子の叫びを耳にした時、初めてハンクスの冷徹な殺し屋の表情が崩れた。氷が溶けるように、そこに血の通った父親の表情が浮かんだ。

 「違う。おまえのせいなんかじゃない

 本当に悪いのは…ハンクスがそれから後の言葉を飲み込んだことを、まだ息子は気づいてはいない。

 だがそれが父子の新たな旅立ちの始まりだったのだろうか。ハンクスは、息子ホークリンにそれまでと違った接し方をし始めた。それは、まるで相棒のように…。忍耐強くホークリンに車の運転を教えたハンクスは、復讐のための新たな作戦に出た。

 それは銀行強盗行脚

 さまざまな銀行にアル・カポネが隠し持つ隠し預金を狙って、ホークリンが運転する車で銀行に到着。ハンクスが銀行に乗り込むとカポネ預金だけを奪い、再びホークリンの運転でその場を立ち去る。この手口であの街この街さまざまな銀行からカポネ預金を奪う旅を続けた。金が惜しいカポネは、いずれ匿っていたクレイグを見捨てるはず…という段取りだ。

 ところがある時、カポネ預金がことごとく銀行から引き揚げられてしまう。そこでハンクスは、その段取りをつけた会計係のディラン・ベイカーをホテルで襲った。彼が持つ帳簿を奪おうという魂胆だ。

 だが、その場にはあの殺し屋ジュード・ロウが待機していた

 間一髪、何とか帳簿を奪ってその場を後にしたものの、ハンクスも逃走の際にジュード・ロウの弾丸を腕にくらった。意外な深手に苦しむハンクスを見ながら、息子ホークリンはどうすることも出来ない。どうしていいか分からなくなったホークリンは、慌ててある農家に助けを求めることになった。

 この農家の老いた夫婦は、いかにも訳ありのハンクス父子に何も問わず、黙ってハンクスの傷を癒してホークリンの世話を看てくれた。平凡で慎ましい暖かい家庭。やがて回復したハンクスにも、この農家の静かな佇まいは心にしみた。久しぶりに息子の笑顔を見るハンクスの心には、確かに新しい何かが宿っていた。

 ある夜のこと、奪った帳簿を広げて調べていたハンクスの傍らに息子ホークリンがやって来る。珍しく何か語りたそうな息子を促したハンクスは、そこで思いもしなかった言葉を聞く。「パパは弟と僕では接し方が違ったね。僕のことは好きじゃなかったの?

 不意打ちをくらったようなハンクスは、静かに息子に向かって言った。その最初の言葉は、もしかしたら息子の心をちょっと傷つけたかもしれない。「そうだな、おまえの弟は可愛い男の子だったからな」

 だがそれに続く言葉は、息子にとって最高の贈り物となったのだった。

 「そしておまえは、俺にそっくりだったしな…」

 

決定的な「絵」の力で見せていく映画

 ハッキリ言って英国出身の舞台演出家サム・メンデスの映画第一作アメリカン・ビューティーは、僕にとって不愉快この上ない映画にしか見えなかった。この考えは実は今でも変わらないと思う。主人公の中年男をトコトン甘えさせたような物語が、まず何より僕にはイヤ〜な感じにしか思えなかった。それはおそらくは映画の出来如何ではなかったと思う。僕の人生に対する考え方と、あの映画の発するメッセージにまるで合意点がなかったということだろうと思っているんだね。だから、この「DAY FOR NIGHT」始まって以来の罵倒感想文になってしまった。思えばあれ以前は僕は罵倒感想文はほとんど書いていなかったのだ。そう考えれば「アメリカン・ビューティー」の罪は重い(笑)。同時に僕の感想文が、映画の分析でも批評でもないことを如実に表してもいるんだね。でも、どう感じたかと聞かれれば、正直な感想があれだ。

 だから次回作が変に楽しみでもあり、かつまた不愉快な思いをするのかと戦々恐々なところもあった。そしてやって来た最新作。豪華キャストを配したこの作品は、何と1930年代を舞台にしたギャング映画。これには驚いた。そして見てみて、二度ビックリ。

 素晴らしい! 最高だ! こんな豊かな気分になれたのも久しぶりだ。

 「ゴッドファーザー」「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」以来の、分厚いボリューム感と見応えを持ったギャング映画。圧巻と言う他はない。節操がないと言わば言え。僕はこの映画が気に入ったよ。好きな映画だ。

 すべての場面にギューヅメになったようなボリューム感がある。ご馳走を食べているような充実感とでも言えばいいだろうか。長さを感じない。もっともっと続いて欲しいと思う。「ロード・オブ・ザ・リング」の時もそんな事を思ったが、こちらはまたちょっと違うんだけどね。でも、この見た後の充足感はなかなか味わえないよ。

 それはどこから来ているのかと考えてみたんだけど、「絵」の力なんじゃないかと思うんだね。

 実はこの作品、物凄く風格もあってどっかりとした佇まいを見せているんだけど、別に長尺であるということはないんだ。約2時間。最近の映画じゃアベレージな長さだよね。見ている間はゆったりとしたドラマのテンポとスケール、堂々とした絵づくりに、優に3時間はあるんじゃないかと思わされるが、これが意外に短い。「ゴッドファーザー」クラスの重量級な雰囲気がありながら、実はかなりのコンパクトぶりなのだ。

 しかし、これはちゃんと数えた訳ではないけれど、おそらくワン・カットの長さは最近の映画でも長めの方じゃないのか? あるいは平均すれば別に長くはないのかもしれないが、長めのショットが目に付く。少なくともチョコマカ短いカットをつないでテンポよくドラマを進めてはいない。なのにこのボリューム感はどういうことだろう?

 しかもよくよく思い起こしていくと、人物のキャラクターはあまり説明されているように思えない。語り手の少年も手短に説明され、彼が父にどういう感情を抱いているか、どうして父の仕事を知りたいと思うに至るのか、実に最小限度の描写で手際よく説明されるのだ。少年の家庭のありようも、さほど説明はされない。そして肝心要の少年の父については、最初から謎めいた存在として描かれることもあって、語られてない部分が大きい。

 もっとそれが顕著なのが、父の負傷によりたまたま世話になる農家の老夫婦の描写だ。ほとんど会話らしい会話もない。老夫婦の夫の方など、ロクに顔も写し出されない。

 なるほど、普通のドラマでは幾多のエピソードと会話や演技で描き出すところを、ほとんど語らないことで済ましているのだ。映画の尺数が短くても済むのが道理というものだろう。だが通常の場合、これだと説明不足のそしりは免れないはずだ。では、なぜこの作品ではそれが説明不足、描きこみ不足には思われないのだろう。

 それが「絵」の力なのだ。

 どの場面もシネマスコープ・サイズのどっかりとしたフレームに、陰影に富んだ「絵」が描きこまれている。しかもそこに描きこまれているのは、実は僕らが昔むかしから脳裏に刷り込まれてきた、「典型」としか言いようのない「絵」だ。少年の家庭は、昔ながらの厳格な父を中心とした家庭。実はいまや失われつつある、懐かしい家庭の原風景だ。何も語らずとも、母が父を信じ、子供たちを優しく見守っていることは疑いがない。それが昔の家庭というものだからだ。それを一瞬も疑わせぬほどの、完璧なまでにみんなが見知ったかつての家庭の「絵」がそこにあるから、誰もがそれを瞬時に納得する

 少年は気づいていなくとも、父が身を置いている世界が典型的ギャング社会だということは、大ボスの屋敷に招かれたシーンを見れば観客は納得せざるを得ない。かつてのギャング映画の残像や、「ゴッドファーザー」や「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」で見知ったギャング社会が典型としてそこにあるからだ。父がそんなギャング社会をどう思っているか、少年とそんなギャング社会との距離をどうしたいと思っているか、大ボスの息子が少年の父をどう思っているのかは映画ならではの細かな描写で描かれるものの、それも言ってみれば典型、お約束の世界だ。

 大都会シカゴにやって来た父子の孤立無援な状況も、そんな「絵」で一瞬で描かれる。街路を埋め尽くす男たちの群れ。みな一様に帽子を目深に被って黙々と歩いていく中、この父子は大勢の人波の中にいるのに徹底的に孤独だ。実に典型。絵に描いたよう…という言葉そのものの描写で見せられると、誰もがそれを納得せざるを得ない。

 主人公父子を匿う農家の老夫婦が素朴で善良なことも、「絵」が見せてくれる。これほど典型的な素朴さを前にして、この夫婦が父子を裏切るなんて可能性はゼロに等しい。理屈じゃない。そうに違いないのだ。これほどの「典型」を極めた「絵」を見せられると。

 観客を説得するのは、すべて観客が昔から培ってきたはずの記憶に訴える「絵」。アクションでも会話でもない。「絵」だ。それは映画としては、かなり異例なことと言わざるを得ない。いわんやアクションでドラマを描き抜いてきたはずのアメリカ映画としては…。いや、世界の映画全体としても、これはかなり異質なものだと言える。なぜなら、ここにはドラマ的にも意外なものが何一つない。まったく典型で埋め尽くされた物語だからだ。

 また典型を絵にするということは、一つ間違うと陳腐で凡庸なものになりかねない。実際にこの映画、ストーリーや設定だけ語ると、これほどありふれたものも珍しい。あっと驚くような要素は何一つないのだ。その代わりこの映画では、典型中の典型を描き出すために「絵」の造型に異例なほど力を注いでいるように思える。重大な局面はすべて降りしきる雨の中で行われる…こんな「いかにも」描写にも、これだけボリューム感ある「絵」づくりをされたら、シラける前に酔わずにいられない。この周到な計算は、なかなか余人には出来まい。「アメリカン・ビューティー」ボロクソの僕が言うのはいささか説得力を欠くが、サム・メンデス監督の映像設計と演出は、かなり非凡だと言わざるを得ない。

 そして、彼がこの表現方法をとったという一因には、実はこの作品の成り立ちがあるのかもしれないと思うのだ。

 

映画における「劇画」的表現が生み出すもの

 この映画、一見堂々たる文芸大作の風格があるが、原作はマックス・アラン・コリンズとリチャード・ピアーズ・レイナーによるグラフィック・ノベルだという。グラフィック・ノベルという言葉は聞き慣れないが、日本語で言うなれば劇画ということにでもなろうか。コミカルな題材や描写でなく、リアルな表現を用いるがゆえに、あえてコミックではなくグラフィック・ノベルという言葉を使うのだろうか? この劇画の作者、特に原作者にあたるマックス・アラン・コリンズが日本の劇画の信奉者だということで、この「ロード・トゥ・パーディション」が実は日本の「子連れ狼」の翻案にあたるという説もあり、僕も見終わった今はかなりその説が信憑性が高いと思ってはいるが、それはまた別の話。この映画の雨のシーンが印象的なのは、「子連れ狼」主題歌の「しとしとぴっちゃん〜」から来ているのか…な〜んて勝手に納得しないで欲しい(笑)。

 正直言ってアメリカのマンガ事情に僕はあまり明るくないので、この一点を持ってすべてを断定するのははばかれるものの、僕はこの映画の表現を決定したのはこのあたりの事情があったと思えるんだね。

 それを僕に確信させたのは、この映画の二つの描写だ。

 一つは父子がさまざまな街で次々銀行強盗を重ねる描写。街も銀行も違えど、父子はどれもこれも同じように、淡々と強盗を繰り返す。その描写が、単なるカットの積み重ねではなく、ゆっくりとしたカメラの横移動を伴って表現される。見事なのは、すべてのカット、エピソードがここのシークエンスに限って一定のスピードに保たれた横移動で統一されていることだ。撮影場所、日時、シチュエーションも違う銀行強盗の場面が、同一スピードの横移動で表現されているために、独特な統一感で貫かれている。だからこそ観客はそこに連続性を見出すし、また見る側の快感もある。これは技術的にかなり難しい撮影になるよ。やってみれば分かる。

 もう一つは映画のヤマ場のひとつ。主人公トム・ハンクスがポール・ニューマンの大ボスを襲撃するシーンの描写。降りしきる雨の中、暗闇からマシンガンを乱射するハンクス。その弾丸に、ニューマン配下の者たちは次々と倒れていく。ここで映画は現実音を一切消して、ゆっくりとした横移動ですべてをとらえていく。バタバタと倒れていく配下の者たちを横目に、大ボスのニューマンはハンクスに背を向けるかたちで立っている。不自然といえば不自然。だが、画面上は必然性がある。立ち姿が美しいばかりか、そこにいるニューマンの感情をも象徴している名場面だ。そして先にも述べたように、ここでもゆっくりとした横移動。

 僕が問題にしたいのは、この横移動がどちらも左から右へと行われていることだ。 それって一体何を意味しているのだろうか?

 カメラ・アイは言わば観客の目の代用と言えなくもない。映画の世界では一応観客の目となって画面を構成することになるのがお約束だ。

 ならば、このゆっくりとした左から右への横移動もまた目の動きを代行した動きと言ってもいいわけ。では、そんな目の動きとは一体何だろう? それにはいろいろ思い当たることもあるだろうが、一つには本をめくって見ている時の目の動きに似ていなくはないか?

 アメリカのマンガや劇画なら、横書きの文字を読ませる関係上、日本のそれとは逆に右から左にページをめくっていく。そして目は左から右に絵を追っていく。このカメラ・ワークは、それをフィルムで表現しようとしているのではないか?

 そして劇画描写を映画に移植しようとした試みと解するなら、この映画のすべての表現が納得できる。

 劇画にしろマンガにしろ、どれも「絵」という手段で物語を伝える。それは視覚的な記号なのだ。マンガがいくらか誇張を強調し、劇画がリアリズムを基調としようとも、そこには何らかの記号化が必要になる。そこに描かれているのが人の顔であり、拳銃であり、誰かが撃たれたり走ったりしていることを意味しているのだと伝えるためには、そこに描かれたグラフィックが誰もが共有できる記号として機能しなくてはいけないのだ。それには多くの人々が瞬時に理解できる「典型」がなければならない。はげしい横線がいくつも描かれれば、それは素早いスピードの動作なのだという約束事が存在するのだ。

 そして「ロード・トゥ・パーディション」という映画は、そうした「絵」の約束事…典型がそこかしこに登場する。だから、マンガや劇画同様に必要最小限度でドラマが描かれる。それを映画という超リアリズムに移植するために、一つひとつの「絵」の典型ぶりを徹底的な細密さで描いていく

 こうした表現をとった理由はいくつか考えられる。まずこの原作劇画自体が多くのファンを抱えているという事情もあっただろう。それらファンの気持ちを尊重しつつ、原作の持ち味を壊さないように映画化するという命題がまず存在したに違いない。だから、こうした劇画から映画への移植が慎重な配慮で行われたということは最も考え得る理由だ。

 だが、僕にはもう一つの理由が考えられるんだね。

 サム・メンデスはイギリス人だ。そして元々舞台の人間でもある。他文化、他ジャンルの人間は、当然「アメリカ」の「映画」を製作するにあたって、当のアメリカの映画人があたるよりも特別な意識を持って臨むに違いない。アメリカ的なギャングの世界、アメリカ的なコミックやグラフィック・ノベルの世界(いまやその一翼を担っているのはこの日本なのだが)。今回の作品を取り上げるにあたっては、そんな異質な世界に挑みたいという意欲がメンデスを突き動かしたのではないか。そうでなければ、大成功した「アメリカン・ビューティー」から、こうも遠く離れた世界を描こうとは思わないはずだ。そして彼はオスカーを獲得したとは言え、まだ映画に対してもヨソ者意識を持っているのかもしれない。映画というメディアに意識的だからこそ、このような劇画の映画への移植などという芸当を思い付いたとしか考えられないのだ。

 だからトム・ハンクスもポール・ニューマンも、風格でそこに存在してはいるが、驚くほど芝居はさせてもらってない。「典型としてそこに立っているという芝居」を強いられている。ここでトム・ハンクスが起用された理由はただ一つ。数々の過去の作品で培われていた彼の市井の善人イメージだ。だから彼が黙して語らず、人を次々殺しても、観客は彼の善性を信じて疑わない。それは「典型」だ。ポール・ニューマンはそのビッグ・マンとしての風格、時には反骨としても表現された戦ってきた男の凄み、そして決して単なる悪人に逸し得ない人間味のイメージの集積として存在している。年齢による円熟の味というものは確かに加わっているものの、それもまた「典型」だ。一人だけ芝居らしい芝居をしているかのようなジュード・ロウでさえ、実は恐ろしく凶悪な男の「典型」を演じている。これらを僕は演技をしていないとは言ってない。「典型」を演じるというのは極めて難しいよ。これは真にすぐれた俳優しか出来ない技だ。そして、昨日今日出てきた役者にはどうしたって出来ない。過去の作品の巨大なイメージの積み重ねがあってこそ、これは表現出来る技なのだ。

 そんな周到な計算があるからこそ、この映画は巨大なボリューム感を持ちながら一気に見ることが出来る。これは、久しぶりに映画を見る喜びを観客に与えてくれる映画だ。

 そして、実は僕にはもう一つ、この映画を見る喜びがあった。それは逃亡の旅の果て、父子が改めて向き合って語り合う場面なんだね。

 この映画で初めて、少年は父に問う。弟は可愛がられていたが、自分は父とは疎遠なものを感じていた。はたして自分は父に愛されていたのか…と。それに対して父は、極めて簡素な言葉で答えるのだ。それは今まで寡黙だった父が、彼に初めて真情を吐露した瞬間だった。

 「弟は可愛かった、そしておまえは俺によく似ていた

 父子であれ、あるいは他のどんな人間関係であれ、人は自分が信じる相手にどう思われているか、時にひどく頼りない気持ちになることがある。愛していると言うのは簡単だ。それが信じられる時もある。だが、事が重大な局面に来た時、あるいは思いもかけぬ事が訪れた時、人はそれを改めて問わずにいられない。そんな時、実は「愛」なんて言葉は、極めて無力なものでしかないんだね。一体自分は相手の何だったのだろうと、全てを空しく思いたくなってしまう。 そして何もかも信じられなくなっていく。

 ここでの父の少年への言葉が何を証明すると言うのか、それを問われても困る。でも相手への信頼が揺らいだ時、人にはそんな「何か」が必要だ。自分が信じるに足る「何か」が欲しいと、心から切に願うものなのだ。ごくごく小さな事でもいい。それがありさえすれば、どんな事でも人は受け入れられるのではないか。

 たとえ愛に迷った時でも、人はやっぱり相手を「信じたい」のだから。

 

 

 

 

 

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