「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」

  The Royal Tenenbaums

 (2002/010/14)


●みるまえ

 ある日忽然と映画館の予告編に現れたこの映画「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」。各紙絶賛てな謳い文句に今さら躍らされもしなければ腹も立てないが、「天才監督ウェス・アンダーソンいよいよ日本上陸!」てな煽りは、少々気になった。ウェス・アンダーソン? 誰だよ、それ? まるでその予告編のうたいっぷりじゃ、ウェス・アンダーソンが天才なのは周知の事実で、知らなきゃモグリとまで言いかねないイバリかただ。でも、こちとらそいつの名前すら知らない。ハッタリにしても度が過ぎやしないか?

 だが、何と映画はジーン・ハックマン以下豪華絢爛たるオールスター・キャストだ。それは確かに相当優れものには違いない。興味を引いたのが、彼らの顔合わせと予告編での容貌を見ると、どうも「スターを集めました」的なキャスティングとも思われない。だが、それにしたってものものしいキャストじゃないか。お話がこれまた「天才の子供たちを中心にした一家の物語」とくる。まったく「天才」「天才」ってうるせえんだよ。こっちは知りもしないような監督なら、一応はこの国じゃ新人じゃねえか。それをまるで「見るのが当り前」「見ない奴バカ」「見せてやってもいいぜ」的な偉そうな宣伝ぶりって何だか腹立たしいじゃないか。客を何だと思ってるんだ。…とか何とか、こっちは内心面白くない。

 とは言ったもののキャストには惹かれる。それに元々集団ドラマ、人間群像ドラマは大好きな僕なのだ。う〜ん、気になる。千々に乱れる思い…。

 

●すじがき

 ニューヨークに大邸宅を構える法律家ロイヤル・テネンバウムことジーン・ハックマンは、妻アンジェリカ・ヒューストンとの間に二男一女をもうけた。…と言っても長女は養女だったのだが。

 この子供たちがなぜか揃いも揃って素晴しい才能を発揮。長男は金融・経済の分野で幼い頃から頭角を表わしボロ儲け。例の養女の長女は劇作家として早熟なデビューを果たし、数々の傑作をものにする。次男はというとこれまたテニスプレイヤーとして破竹の勢い。つまりは三人とも「天才」だったわけだ。

 ところが晴天の霹靂。ロイヤル=ハックマンが突然離婚を宣言。この男、邪気はないのだが極めて自分勝手で我がまま、口の聞き方から人への接し方までデリカシーが皆無。当然女房に対しての態度がたたっての離婚話と相成った。だが、結局別居どまりのまま。ロイヤル=ハックマンはホテル住まいで悠々自適を続けていたし、時には子供たちとも遊んでいた。だが、一緒に鉄砲ごっこに興じている時に味方のはずの長男を銀玉鉄砲で撃ったり、長女の芝居を見に駆けつけても祝福どころかケナしたあげくの「養女」呼ばわり。本人悪気が一切なさそうだけに始末が悪い。末の次男だけは相変わらずなついていたものの、上の二人は父親ロイヤルなどウンザリのトラウマとなってしまった。

 これが悪かったのか長男ベン・スティラーは長じてやたら神経質で、あらゆる危険回避に敏感な男になってしまった。もっとも彼との間に二男をもうけた妻が飛行機事故で死んだという不運も、それに拍車をかけるところがあったのであろうが。長女のグゥイネス・パルトロウも元々明るい性格でなかったところに、度重なる家出を繰り返したあげく刹那的男性遍歴を続けた。現在は精神科医ビル・マーレーの妻に収まってはいるものの、朝から晩まで風呂場に居座ってテレビを見たり煙草をふかしたり。その喫煙癖についてすら夫マーレーも知らないほど、周囲に心を閉ざしていた。劇作はとうの昔に筆を折った状態。次男のルーク・ウィルソンはというと、これまたある時突然試合中に失速。それ以来テニスから遠ざかって、世捨て人のごとく船での一人旅を続けていた。果たして彼が失墜した真の理由とは?

 そんな事の発端、ロイヤル=ハックマンの別居から22年…。

 テネンバウム家に変化が訪れる発端となったのは、またしてもあくまでロイヤル=ハックマンの勝手な都合。実はハックマンはある事情で法律家の資格を剥奪されており、無収入の状態が続いていた。あげくホテルの料金滞納が限界まで来て、住み慣れた部屋を出なければならなくなった。さぁ、困った!

 一計を案じた彼がとった手段は、自分が余命いくばくもないという狂言。せめて残された日々を家族と過ごしたいと、かつて住んでいた大邸宅に戻るべく元(いや、まだ籍は入ってる)妻ヒューストンに働きかけたのだ。これにはさすがのヒューストンも同情した。だが、ハックマンにはもう一つの思惑があったのだ。妻ヒューストンが出入りの会計士ダニー・グローバーに言い寄られているとの情報を、ロイヤル=ハックマンはかつての忠実な執事クマール・パラーナから聞いていたのだ。ずっと放っておいたくせに、人に取られるとなると惜しいわが妻。そんな一時が万事勝手わがままなハックマンではあった。

 さぁ、懐かしのわが家にやってきたロイヤル=ハックマン。長年のホテル住まいで親しくなったエレベーターマンのシーモア・カッセルを医者と偽っての狂言を開始。家に医療機具やらベッドを持ち込んでの病人演技が始まった。そして奇しくも家には、父ロイヤルの帰宅を迎えるため、あるいは全然関係ない偶然の巡り合わせで、三人の子供たちが帰って来た。すると次男ルーク・ウィルソンの旧友オーウェン・ウィルソンもウロチョロ家を出入りするようになったが、彼の目当ては実はルーク・ウィルソンではなかった。

 しかし帰った父ハックマンに暖かく接したのは次男ルーク・ウィルソンのみ。長女パルトロウはまるで無関心。長男スティラーと来たらまるっきりの敵視で取りつくシマもない。そんな中、ハックマンはまずスティラーの息子二人を手なずけるなど、早速老練な手管を使い始める。

 果たしてロイヤル=ハックマンは子供たちの心を取り戻すことが出来るのか。バラバラだった家族の気持ちを一つにすることが出来るのか。そもそもロイヤル=ハックマン自身に、真の親子の情が復活するや否や…?

 

●いろいろ

 「天才」監督の各紙絶賛オールスター映画。僕が見る前にその大げさぶりにウンザリしたこの映画実物のたたずまいは、実は意外にも何ともひっそりとおとなしいものだった。

 僕がまったく知らなかったこのウェス・アンダーソンなる監督。劇場公開作品こそまだなかったものの、前作「天才マックスの世界」(またしても天才か!)はビデオリリースだけはされているらしい。ビル・マーレー主演というこの作品、たまたま見ていた知人に言わせると結構面白いらしい。なぁんだ、それなら「天才」レッテルでイヤ〜な気分になることもなかったのだ。

 この映画、お話のシチュエーションから見てもお分かりの通り、決してリアルでシリアスな作品ではない。どこか誇張されて不可思議なお話。出て来る人物もどこか奇妙だ。そんなオカシさはビジュアル面でも強調されていて、とにかく全カットの中でも人物が画面の中心に居座って、カメラを(つまりは観客を)まるで鏡を見据えているように見つめているカットが多い。それがシネマスコープの極端に横長な画面で行なわれているのだ。人物の左右に広がる余白部分には、かなりつくりこまれた背景がいつも存在する。わざとらしい。実にわざとらしい。まるで絵本の絵のような構図。そうなのだ。何でも極端なこの映画のあり方というのは、この映画がリアリスティックな物語ではないですよ…と観客に終始信号を送っていることを意味している。それは「おとぎ話」であり、「例え話」だと誰でも分かる仕掛けだ。

 さらに、時代が現代に下って登場人物全員が改めて全員紹介され(それも、上記した画面中央でカメラ目線の撮られ方でだ!)物語の本筋がスタートするまでの導入部、カバー・バージョンながら何とビートルズの「ヘイ・ジュード」を延々流しているのだが、このセンスの良さたるや! 同じ「ヘイ・ジュード」(しかもビートルズのオリジナル)を使いながら、まるで床屋で流れるラジオのBGM並みにしか使えなかった「帰郷」でのハル・アシュビーの演出ぶりと比較してみると、アシュビーには気の毒ながらこの「天才」アンダーソンの音楽センスの素晴しさはいやが上にも際だってしまう。彼は「ヘイ・ジュード」後半の延々続くリフレインの効果を熟知して、この曲を使用していることが分かるのだ。

 しかもこれに続く曲の数々が、ボブ・ディラン、ポール・サイモン、ジョン・レノン、ヴァン・モリソン、ローリング・ストーンズなどなどの、錚々たる1960年代から1970年代のロック・オンパレード。これにはこの時代のロックを聞いて育った僕には涙チョチョ切れるラインナップだったよね。それも、これらの曲がMTV感覚とやらでこれみよがしに使われるのではなく、ドラマの邪魔をしないように実にさりげなく使われているのだ。このあたりのセンスは実に素晴しい。同じロック通を自認しているかのようなヴィム・ヴェンダース、レオス・カラックスのセンスのなさ、音痴ぶりを想起して比べていただければ、このアンダーソンの素晴しさがお分かりいただけるはずだ。

 奇妙なのは、このドラマの発端はおそらく1980年前後であり、そこから現在に至る物語であるということ。明らかにBGMとしての1960年代〜1970年代ロックは、時代設定からの選曲としても主人公たちの心情音楽としてもいささかズレている。これって一体どういうことなんだろう? 単にアンダーソンが好きだとかいう理由だけで、映画への必然性もなしに使われたものなんだろうか?

 そうではない…と僕は断言したいんだよね。

 この映画の豪華キャスト、誰しもがジーン・ハックマンあたりからグウィネス・パルトロウあたりまでのキラ星スターを注目するだろう。確かにそれは間違っていないが、実はここにもう一人の異色スターが出演している。それはシーモア・カッセルだ。

 彼は確かにハックマン、パルトロウ、いわんやマーレー、ヒューストン、スティラーなどと比べれば実に地味な存在ではある。だが、そんな彼も、アメリカン・インディーズ映画というフィールドに置いたとたん、たちまち一つのイコンとして輝き出すんだね。あのジョン・カサヴェテス映画を支え続けた彼。「フェイシズ」などの若き日のカッセルを覚えていらっしゃる方も多いだろう。僕も最近のカサヴェテス映画再公開で、すっかり彼がお馴染みの顔になったよ。だから、最近では同じくカサヴェテス映画常連のベン・ギャザラと同様、カサヴェテス映画やそれらアメリカン・インディーズ映画に敬意を表わす映画人の作品に、リスペクトの意味でキャスティングされることが多い。そう考えると、この異常に豪華なキャストに加えられたカッセルの存在も、まさしくインディーズ映画へのオマージュやリスペクトであることは疑いがないだろう。そして、彼がカサヴェテス映画で活躍していたのが、やはり1960年代から1970年代のことだった。これは決して偶然とは思えない。

 これはアンダーソンがこの時代の映画や音楽に、何か特別の思いを持っているってことなのかねぇ? 残念ながら今回初見参ではそこまで判断つかなかったが、いずれ別のアンダーソン映画に出会った時には、この謎を解明出来るものと期待したいと思う。

 

●けつろん

 で、どうだったの?…と言われると、面白かったという当り前な感想しか出ない。むしろ登場人物の感情の表出という点で言えば、あざとさが徹底的に排除されているからね。作者=監督がどんな方向、どんな結論に観客を誘導したいのかということはなかなか掴みにくい。でも、そんなものが丸見えになる寒々しさこそ、アンダーソンが避けたかったことじゃないのかな。

 その面白さというのはかつて天才だった子供たちを抱える一家と、かつてその家長だった自分勝手男というシチュエーション、そして人物一人ひとりの奇妙さ、奇想天外さから来る面白さであることは否めないだろうね。そして、そこにキャスティングされた適材適所の豪華スター陣。特にジーン・ハックマンの邪気のなさ、勝手強引さ、幼稚な単純さ…は、この人がそれこそ「フレンチ・コネクション」から手を変え品を変えして表現してきたキャラクターを集大成したようなところがあって、圧巻だね。

 でも、もう一方での面白さはそんな奇妙さではない。それは意外に真っ当な家族再生物語としての面白さなんだね。それは物語の中盤で、いきなりひょっこり顔を出してくる。かつて知ったるわが家に戻ったロイヤル=ハックマンは、それまで没交渉だった家族たちと真っ向からブツかりあう一週間を過ごす。しかしそれも束の間、瀕死の病床が単なる狂言であることがバレて、結局は家を叩き出されることになってしまう。周囲の子供たちの冷たい視線を前に、自らのプライドを何とか保とうと取ってつけたような文句を告げるロイヤル=ハックマン。「この一週間は、私の人生で最良の一週間だった」…だがその言葉が彼の口をついて出たとたん、それは本当の気持ちだとロイヤル=ハックマンは悟るんだね。

 21世紀の今どき、往年の藤山寛美の松竹新喜劇のように「やっぱり人間ちゅうもんは、家族が一番大切なもんとちゃいまっか?」などとまくしたてても、そりゃあ受け手だって退くしかないだろう。…だからこその変化球ピッチャーぶり、どこか奇妙な感覚ということなのだろうか。確かにそれもあるだろう。だが、そればかりでもない。むしろ作者は、タガが弛んで「再生」しなければならなくなった家族を“元々そうせしめたのは何か”ということを、ここでは言いたいのではないかと思うんだね。

 このドラマの原動力にして中心の家長ロイヤル・テネンバウム。演じるジーン・ハックマンの培ってきたキャラクターとこの主人公のキャラは、ピッタリかぶってくると言ったよね。邪気のなさ、勝手強引さ、幼稚な単純さ…それって何だ? 長男ベン・スティラーの二人の息子たちと喜々として悪ふざけして遊ぶロイヤル=ハックマン、責任感というものがゼロで妻からも愛想尽かされるロイヤル=ハックマン、収入の道が断たれているのに優雅なホテル住まいを続ける無計画なロイヤル=ハックマン、そして必要に迫られての「わが家」への帰還も難病の狂言を打ったりしてどこかイタズラや遊びじみているロイヤル=ハックマン、悪気はないけど言いたい放題やりたい放題で子供の心を傷つけ続けたロイヤル=ハックマン、要はいつも自分が楽しくて都合のいいことに流れるロイヤル=ハックマン。そんな彼の資質って、つまりは「子供」ってことじゃないか? いつまでもガキ。

 そして、悪しき性質は得てして受け継がれるもの。舞い込んだ不運は気の毒なものの、それに縛られ周囲に怒りを振りまかずにいられない長男スティラー。自分探しを繰り返したあげく自分を見失ったままで、他人を自分の世界からシャットアウトしている長女パルトロウ。やはり決定的に傷ついたあげくに、自分も世間も捨ててしまった次男ウィルソン。…ロイヤル=ハックマンのガキ要素って、子供たち全員の中にもどこかに形を変えて引き継がれているんだね。むしろガキっぽい邪気のなさで陽性に見えるロイヤル=ハックマンに対して、もっとタチの悪いネガティブなかたちで芽をふいてしまった。うまくいかない人生に怒って、そのやりきれなさを誰かのせいにしたくて、フテくされてヤケを起したまま。三人が三人とも自分の怒りや悲しみから、輝かしい天才としての資質さえ台なしにしてしまっている。それだっていかにも子供の考え方だもんね。でも、いくらそんな事をしたって問題は解決しないし、自分をダメにするだけだということが彼らには分かっていない。

 そして、それは現代に生きる僕らの病理なのかもしれないのだ。

 だが、ロイヤル=ハックマンは家族との一週間で、「本当に大切なものは何か?」「本当に自分が欲しいものは何か?」に気付いてしまった。それから彼は、何と自分が長年住んだホテルのエレベーターマンとして再出発するのだ。自分も“何か責任のある役割を果たすことが出来る”と証明するために…。それってつまり、「大人になる」ってことじゃないか?

 それ以来、彼は離れたところから子供たちに慈愛の目を向け出す。困った子供の相談に乗ってやる。妻にも離婚届を渡して自由にしてやる。家も子供たちも妻も、我がものとして縛りつけていることの無為を知る。自らの意思を通すばかりが、自分の気持ちを一方的にぶつけるばかりが人生じゃないと悟ったのだ。そんな彼の目覚めが、知らず知らずのうちに家族全体を少しづつ変えていく。

 僕もねぇ、人生のままならなさに憤りを覚える時があるよ。自分は何も悪いことしてない、ベストを尽くしたのにどうしてこうなるんだって嘆きたくもなる。そして怒りと悲しみとどうにも行き場のない思いのたけをブチまけるため、何もかもメチャクチャにしたくもなる。実際、そうしかかった。

 だけどねぇ、そんな事をしても何もならないんだよ。そうしたところで自分の気持ちが晴れるわけでも何でもない。それってガキがフテってヤケを起しているだけなんだね。ある時、そんなことをしても無駄なんだと悟った。そんなことをやっていると、自分も何もかもダメにするだけだ。

 映画の終盤、ロイヤル=ハックマンは次男に看取られながら救急車の中で大往生を遂げる。その今際の際に、彼はニッコリと微笑むんだね。

 僕もいくら理不尽な不運と怒りと悲しみが覆いかぶさってきても、自分のくだらない思いを押し付けて相手を責めるのはやめた。

 「その時」が来た時に、僕もニッコリと微笑みたいからね。

 

 

 

 

 

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