「チョコレート」

  Monster's Ball

 (2002/09/30)


子供時代から引きずってきた忌まわしさ

 ご多分にもれず、僕も若い頃は自分の両親と折り合いが悪かった。父親の男性中心的無神経ぶりもイヤだったし、子供時代に親に甘やかされて育てられたらしきだらしなさもイヤだった。昔気質らしくそれに耐えてはいたが、父親不在の時には大いにグチっていた母親の言葉から、そんなイヤな男性像をウンザリするほど思い知らされて僕は育ってきた。そんな父親みたいな男になるまいと思っていたものだった。

 だが、父親は決して悪い人間ではない。むしろ善良で誠実な男と言えばそうだろう。そして平凡な男だ。すると、そんな部分は男の最大公約数的な部分なのかもしれない。案の定、僕も成長するにつれて、だんだん父親的な部分が出てきたんだね。そんな自分がイヤにもなってきた。

 一方、母親の父親に従っているようで軽蔑しているような態度に、僕は女の最大公約数的な姿を見ていた。女とは、あれほどまでに男を心底バカにしきった生き物なのか。しかも、その言い分にはどこか自分の非を棚に上げてるところも目に付いた。あれほど男を厳しく断罪するなら、自分にも厳しくあるべきではないか。僕は女がどこか汚く見えたし、恐ろしくも思えたんだよ。

 当然、父親と母親の関係がそんな部分だけではなく、子供の目には見えないつながりがあるなんて事は思いもよらない。口で言ってはいても…の世界があるなんて、夢にも思わない。人ってそればかりじゃない…って人情の機微も理解できない。だから、僕の目から見えた男も女もその関係も、とてもおぞましいものになっていたと思う

 自分が女との関係を築く年齢になった時に、そんな諸々が重くのしかかってきたのは言うまでもない。俺はおぞましい男という生き物だ、それで愛する女に失望を与えたくない、軽蔑されたくない、でも俺は男だからどうしてもそうなってしまう。そして、相手は女だから当然見えているところの裏がある、俺にいい顔を見せていても本音は別にある、そこでは自分勝手に一方的に俺のことを裁いているに違いない、自分にも非があるなどと決して認めはしまい。

 これでは女との関係をうまくやっていけるわけがない。僕は男社会も女たちも、両方が唾棄すべきもののように思えてならなかった。どっちにも与したくなかった。だけど、自分も同じ男だからその持っている性質には変わりがない。だから、自分もイヤだった。軽蔑していた。人に自信を持ってオススメなんか出来なかった。まして愛する女になどもってのほか…。

 おっと、そうだ。何を言おうとしたのか忘れていた。

 これは僕がかつてつき合ったことのある、ある一人の女の話だった。

 なぜ彼女に惹かれたのかは分からない。いろいろ言ってもたぶん屁理屈にしかなるまい。だが、彼女は僕が知っていた他の女とは明らかに違っていた。強いて言うなれば、徹底的に「悪気がない」女だったと言うべきだろうか。計算高いところとか皮肉っぽいとことか、虚栄心だとか卑下とかとも無縁の女だった。良くも悪くも、真に「善良」で「正直」な女だと言うべきだろうか。

 最初は良かった。これは素晴らしいと思った。彼女の存在で自分も励まされた。自分に自信が持てた。俺でもこれならうまくやれそうだと思った。だが、そんな思いはつかの間のことだった。

 現実面で、二人にはいろいろ隔たりがあった。それは世間のどんなカップルとも同じだろう。生活基盤も価値観も違っていた。だが、それはまだいい。

 彼女が僕の悪いとこ気に入らないところを、あれこれ指摘しだしたのがたまらなかった。そのうちのいくつかは図星だっただけに、余計自分としてはやりきれなかった。おまけにそんな事を指摘する相手の悪い点だって、当然のことながら目に付きだした。ふざけんな、オマエにそんなこと言われたくねえよ!

 俺の悪いところがどこに起因しているのかは、僕にもよく分かっていた。昔なじみの、僕が昔から引きずってきた忌まわしき歪んだ考え方が災いしているのだ。そして、これを指摘したら彼女は怒り狂うだろうが、彼女の問題点も彼女が昔から引きずってきたものだろう。どちらも子供の頃から、地底奥深くの洞穴で徐々に育っていった鍾乳石のように、秘かに培われてきたものであることは間違いない。

 だが、あるところで僕はハタと思いとどまったんだね。いろいろ俺も相手も問題があるのは間違いない。それがお互い気に入らないんだよな。

 でも俺のどこかは分からないが、相手は何か他では得難いと思っている部分を見つけて付き合っているのではないか。

 俺もそうなんだ。その「善良」で「正直」なところが何より尊いと思っているから。

 

父子三代に渡って受け継がれていく「憎しみ」

 アメリカ南部の田舎町。ビリー・ボブ・ソーントンはここの州立刑務所で長く看守として働いていた。その息子ヒース・レジャーもまた同じ刑務所で看守として働く青年。実はソーントンの父ピーター・ボイルもまたかつては同じ刑務所で看守…と、何と親子三代同じ仕事に就いてきた。今はボイルは呼吸器を手放せず、立って歩くのも不自由する身。そして家にはなぜか女手が一人もいない。

 ボイルは保守的な南部の男らしく、マッチョな考え方が根っから染みついた古い人種。しかも今もなおこの家に家長として君臨している。家の庭に黒人少年の兄弟がやって来れば、「目障りだ」とばかり騒ぎ出す。そう言われればソーントンも父親の言うことを聞かないわけにいかない。ましてソーントン自身がそうした偏狭な考え方で育ってきた男だ。彼は銃まで持ち出して、庭から黒人兄弟を叩き出す。兄弟の父モス・デフから抗議されても屁とも思わず、黒人をバカにした発言を平気で連発する。そんなデフから彼らが息子レジャーの誘いでやって来たと知り、息子のことを何とも歯がゆく思う今日この頃だ。

 そんなレジャーもどこか孤独に身をやつした青年だ。夜中にふらりとモーテルを訪れ、いつものように出張娼婦を買う。だが、それもやる事だけやって終わりの孤独な行為。レジャーは娼婦に一緒に飯を食わないかとか、話でもしないかと誘ってはみるが、そんな言葉はさりげなく無視される。癒されない孤独。

 しかし癒されない孤独という点では、ソーントンも五十歩百歩かもしれない。彼は深夜ふらりとひなびたファミレスに来ると、いつも同じチョコレートアイスを頼む。それを味わう孤独な時間が、ソーントンにとって強権的父親ボイルから離れられる大切な時間かもしれなかった

 そんな親子が働く刑務所には、執行を間近に控えた黒人死刑囚ショーン・コムズがいた。この日、処刑前の最後の面会が許される。やって来たのはコムズの女房ハル・ベリーとそのコロコロと太った息子コロンジ・カルフーン。息子は目を輝かせて自分の絵を見せたりしながら、父親との残された時間を惜しむ。だが、女房ベリーはどこか冷ややかだ。長い年月、彼女は女手ひとつで息子を育て、生活に追われて生きてきた。そんな日々の疲れが、彼女に夫への思いを擦り切れさせてきたのだろうか

 処刑を前に死刑囚用の独房に移されるコムズ。その監視にあたるのはソーントンとレジャーの父子だ。家族への電話は申請したが却下された。コムズはただそんなソーントンとレジャーの似顔絵を描くことで、最後の時間をつぶすしかない。そんなコムズに優しいいたわりの態度を見せるレジャー。だが、ソーントンには、そんな息子の姿が軟弱なものにしか映らない

 電話が許可されなかったと知らないベリーは、家で息子と電話が来るのを待っていた。疲れと苛立ち。家賃は滞納していて、いつ追い出されるか分からない。息子がついつい何かと言えばチョコバーを食べているのを見つけると、思わず苛立ちから激しく叱責して手を上げてしまう。甘いものの取りすぎで太ってしまった息子が、情けなくて仕方がない。だが息子もどこかやりきれない思いを甘いものに紛らわしているのが、ベリーには分からない。そんなベリー自身、小びんのウィスキーをチビチビやることで気持ちを紛らわせているにも関わらず

 いよいよ処刑の時が来た、処刑場までコムズを連れていくその時、極度の緊張からレジャーは思わず吐いてしまう。そんな情けない息子を舌打ちして見つめるソーントン。処刑は予定通り、粛々と行われた。

 処刑を終えたソーントンは、サッと表情を変えると息子レジャーの元へととって返す。俺の顔をつぶしやがって、だらしない奴だ! ソーントンは怯えるレジャーを励ますどころか、典型的マッチョ発想で彼をブチのめす。あげく、それを止めようとした黒人看守の同僚まで、人種偏見丸出しで罵倒するアリサマだ。

 しかも帰宅してからも息子を叱責するあまり、部屋から叩き出そうと大騒ぎ。これにはさすがのレジャーもキレた。拳銃を持ち出し父ソーントンを脅す。今度は攻守逆転だ。どうした、いつもの偉そうな態度はどこへいった? あげく居間のソファに座って親父を問いつめる。ずっと俺を嫌っていただろう、憎んでいただろう?

 その時、ソーントンは思わず言ってはいけない一言を言ってしまった。そうだ、俺はおまえがずっと前から嫌いだったよ。レジャーの絶望はもう限界点に達していたことを、愚かにもソーントンは気づいていなかった。

 「俺は親父を愛していたんだよ」

 自らに向けて引き金を引くレジャー。それはソーントンとボイルの目の前での、一瞬の出来事だった。

 一方、ベリーの方も追いつめられていた。働いていた軽食屋のウェイトレスの職を失ってしまったのだ。明日からどうやって生きていけばいい?

 目の前で息子を失ったソーントンは、静かに彼が死んだソファの血をぬぐい去り、食い込んだ弾丸をえぐり取って瓶に保存した。彼の世界もゆっくりと崩壊しつつあったのだ。看守の仕事を辞めると父ボイルにつぶやくと、ボイルは例によって例のごとく彼をマッチョに罵倒するのみ。しまいには彼の母親を引き合いに出して、腰抜け呼ばわりするテイタラクだ。そんなボイルの妻…ソーントンの母親は、マッチョなボイルとの暮らしに耐えられなくなって自殺した女だった

 ソーントンはそんな自分を取り巻く忌まわしい過去、忌まわしい世界そのものがイヤになっていたのだった。何かを変えたい。そんな思いが、彼をして看守商売から足を洗わせた。何とか新しい自分の生活を建て直すべく、車で街を走り回る日々。

 そんな彼を癒してくれたのは、例のデフが連れてきた黒人兄弟だった。彼らは息子レジャーに可愛がってもらった礼と、お悔やみを言いに来たのだ。さんざ蔑視のまなざしで罵倒した自分に…。ソーントンの中で、何かが静かに変わっていった。

 そんな彼がある夜、例によってファミレスでチョコレートアイスを注文したのは、新たにこのファミレスに雇われたベリーだった。彼女はこの店で息子を遊ばせながら、働いて金を稼いでいるのだった。

 そんなある夜、ポンコツ車が壊れて雨の中を帰ることになったベリーと息子。ところがそれが不幸なアクシデントを招いた。息子が車に轢かれたのだ。助けてくれと泣き叫ぶベリーに、往来の車は冷たい。そんな彼女の叫びに車を停めたのは、あのソーントンだった。

 深夜の救急病院に、瀕死のベリーの息子を運び込むソーントン。だが、結果は空しかった。すでに手遅れ。残ったのは血に汚れたベリーのハンドバッグとソーントンの帽子と車の後部シート。泣き叫び呆然となるベリーに、ソーントンはかける言葉もなかった。

 また、一人で車の後部シートの血をぬぐうソーントン。血をぬぐって元通りにしても、心は元通りにはなりはしない。

 だが、それでも人は生きて行かねばならない。ソーントンは街のガソリンスタンドを買い取り、新たな生活を誓った。そんな彼が車で道を走っていた時、徒歩で職場のファミレスまで行く途中のベリーに声をかけたのは、しごく自然なことだった。

 彼女を車に乗せてファミレスへ。ファミレスで例のチョコアイスを食べると、帰りに車で彼女を家まで送っていくと持ちかけるソーントン。そんな彼の呼びかけは、彼女にとって久しぶりに接する人の優しさだった。

 家の前で車を停めたソーントンに、彼女は思わず問いただす。何で私にこんなに優しくするの?…その問いに答えたソーントンの言葉は、そのまま彼の苦い苦い悔恨の思いだった。「俺は悪い父親だった」

 共に息子を失った者どうしの情が通じたのだろうか、自分の家にソーントンを誘うベリー。そこで他愛もない話をしながら、ベリーは例のウィスキーの小びんを次々とあおる。つらさを紛らわすために酔いたいのだろうか。だが、酒ではつらさは紛らわせない。彼女はソーントンに告げた。「私を気持ちよくして」

 お互いの傷をなめ合うように、二人は結ばれた。

 この結びつきがソーントンには新たな希望になった。ファミレスへの送り迎えを買って出るソーントン。ガソリンスタンドももうすぐ新装開店だ。彼は息子レジャーが残した車をあのデフの元に持ち込み、彼に修理を頼んだ。この様変わりぶりにデフもすっかり驚いたが、いつしかソーントンとデフは親しい仲になっていった。修理された車はベリーへのプレゼントだ。きっと息子もこの車を君に使ってもらえば喜ぶと思う…。

 そんなソーントンの思いに、ベリーも応えたかった。彼女は最後の最後にとっておいた結婚指輪を売りに出し、血で汚れたソーントンの帽子の代わりを買って、彼の家まで届けに来た。

 だが生憎とソーントンは不在。いたのはあの父親ボイルただ一人。ボイルが彼女に投げた言葉は想像に難くない。

 ソーントンが家に着いた時、ベリーは怒りに震えながら家を出てくるところだった。もうソーントンが何を言っても聞く耳を持たない。せっかく彼女と人生を建て直そうと思っていたのに…。いくら悔やんでも悔やみきれないソーントンだった。

 だから、今度という今度はソーントンの堪忍袋の緒が切れた。彼はボイルを老人ホームに有無を言わさずブチ込んだ。思えば、この父親こそが全ての元凶だったのだ。彼にはもはや父親に何の未練もなかった。父のいなくなった自宅で黙々と改装に汗を流す日々。

 その頃、ベリーはいよいよ進退窮まっていた。ついに家賃滞納が限界まで来て、家を立ち退かされるハメになったのだ。家財道具とともに往来に放り出され、放心状態のベリー。だが、そんな彼女の前にソーントンが現れた。

 彼は彼女を自宅に招くつもりだったのだ。彼女と暮らす新生活。美しく生まれ変わったソーントンの自宅を見て、彼女も彼の本気をハッキリと悟った。

 「大切にするよ」

 「ええ、大切にして。私は大切にされたいの

 それは彼の、そして彼女の本気…だった。ようやく二人がたどり着いた、ちっぽけな幸せ…だったはずだった。

 これでハッピーエンド…なのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 

苦い苦いエンディングではあるけれど

 何と言ってもこの映画、ハル・ベリーの黒人初のアカデミー主演女優賞受賞作として注目されていることは言うまでもない。都内では好評につきミニシアター作品としては異例の三館拡大公開となったが、それでも混雑のあまり入場制限まで出た。僕がこの作品を見るのがこんなに遅れたのも、あまりの混雑ぶりからなんだけどね。それと、こうも騒がれると見る気が失せるという天の邪鬼ぶりから…ってこともあるね。

 で、やっと見ることが出来た実物は、正直言って素直に好感が持てる作品だった。

 正直言って大傑作だとは言わないが、そもそもこれは小さな佇まいの控えめな小品としてつくられたはずだ。そんな小ぢんまりぶりが好ましい一編でもある。スイス出身というマーク・フォスター監督の演出も、ミロ・アディカ、ウィル・ロコスの脚本も、その映画の器を慎ましやかに守ったつくり方が好印象を与えてる

 人種を超えた愛情云々という要素はあるにはあるが、それよりも傷ついた者どおしの連帯として見るべきじゃないかと思うんだよね。傷をナメあって…とか言うとマイナスなイメージしかないが、実際のところ人間というものは、なかなか他人の傷まで伺い知ることは出来ない。知ったとしても、それが「分かる」ところまでは、なかなか行き着くのは難しいんだよね。だとすると、傷ついた人間の痛みは傷ついた人間しか癒せないのかもしれない。

 ソーントン扮する主人公は、父親ボイルから受け継いでしまった忌まわしいマッチョな精神構造で、息子レジャーまでも染め上げようとしてしまう。その生み出すところは「憎しみ」だ。それがレジャーを孤独にする。おそらく彼は他人との距離をうまく取れない人間になってしまったのだろう。映画最初の頃の娼婦とのやりとりの不毛さに、それがリアルに表現されている。もっともその点ではソーントンもご同様だ。映画には出てこない彼の妻と彼の間に、一体どのような葛藤があったかも想像に難くない。元々その父親ボイルにしたって、妻に自殺された過去がある。だが、ボイルはなぜ妻に死なれたのかが分からない。分かろうとしない。そんな独善と憎しみの系譜が、孫子の代まで脈々とつながっているのだ。そんな輪を絶ちたいと願った息子レジャーは、結局押しつぶされて自ら命を断つ。

 ソーントンが無念なのは突然息子に死なれたことではない。彼とても息子レジャーの思いに薄々感づいていたに違いないからだ。高圧的な父親ボイルのプレッシャーを感じ続けていることは、彼が夜な夜なファミレスに一人でチョコアイスを食いに来て、ささやかな憩いの時間を持とうとしていることでも伺えるだろう。

 そしてヒロインのハル・ベリーにしても、その輪から無縁ではない。彼女は夫が捕らえられてこのかた、ずっと一人で息子を育ててきた。そんな疲れゆえに息子のチョコ食いが我慢ならない。事あるごとに激しく叱責して、時には手を上げる。彼女は彼が寂しさとやりきれなさから過食症になっていることに気づかない。いや、気づいていても見て見ぬふりをしている。自分も半ばアルコール依存症になりかけているにも関わらず…だ。それゆえ彼女はソーントンに、酔って繰り返し繰り返しつぶやかずにいられない、私はいい母親だったのよ…と。

 二人は人生の岐路に立たされているのだ。ソーントンの方は特に、今までを何らかのかたちで清算して新たな生活を構築したいという思いに駆られてる。そこにヒロインのベリーが現れたかたちになるんだね。

 そんな二人が結ばれるシーンは、だから性的興奮よりも痛ましさが先に立ってしまう。マーク・フォスターの演出も、先に述べたように控えめに、まるでコッソリのぞくように隣の部屋越しに二人のラブ・シーンをとらえている。相手に触れている時だけは安心できる…というのは、すごくよく分かる。性欲の発散ではなく触れあっていることの安心感で満たされたいというのは、ある程度の年齢になれば誰でもピンと来るのではないか。

 不幸が、心の傷が呼び合う関係…って、先に述べたように世間的にはネガティブにとらえられがちだ。だけど人間がどこか求め合うっていうのは、究極のところはそんな自分の心の穴を誰かで埋めたいという気持ちがあるからなのではないか。大事にされたいと言うヒロインと、今まで出来なかった「誰かを大事にする」ということをしたいという主人公の気持ちは、僕にはすごくよく分かる気がする。

 そんなこの映画のラストは、だから安易なハッピーエンドにはならない。実は考えようによっては苦い苦い結末だ。主人公ソーントンの不在中、ベリーは彼が夫の刑の執行に立ち会った看守だということを知ってしまう。彼もそれだけは彼女に明かせなかったのだ。そんな彼女の気持ちを知らず、帰宅したソーントンは彼女につぶやく。「俺たち、うまくやっていけるよ」

 そうだろうか。彼女の目は虚空を見つめている。新たな旅立ちになるはずの関係も、忌まわしい事実を土台に出来上がってしまった。それって両手放しに喜べる訳ではないだろう。

 考えてみれば、ソーントンは彼女との新生活のために、父親を老人ホームにブチ込んでしまっている。確かにおぞましい父親、すべての元凶ではあるが、それとても新たな忌まわしさを生んでいないとは言い切れない。どう考えても無条件でハッピーとはいかないのだ。

 だが…と僕は考えるし、この映画もそう言っていると思うのだが…それでも人生は続く。人は生きているうちに、何らかの忌まわしさと無縁ではいられない。そういうおぞましいものを背後に抱えていない人間はいない。それでも生きて行かねばならないし、そんな相手を忌まわしさも含めて抱え込んでいくしかないのではないか。ソーントンの父親ボイルはそんなおぞましさに無自覚だったけれど、それをそれと気づいているだけでもマシではないか。

 おぞましさも全て含めての、自分であり相手なのだから。

 

 

 

 

 

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