「ウインドトーカーズ」

  Windtalkers

 (2002/09/30)


相撲取りって国民じゃないの?

 もう大昔…ってことになるのだろうか。例のロッキード事件によって田中角栄元首相が逮捕された時、日本中が大騒ぎになったのは、今でも僕には鮮やかに記憶に残る出来事だった。何しろ一度は総理大臣にまで上りつめた男が逮捕されるなんて前代未聞。こんな事が起こったとは…と嘆く者、こんな事まで出来るようになったか…と日本は変わると期待した者。当時まだ高校生だった僕だが、さまざまな思いが渦巻いていたことは何となく伺えた。

 そんな時、ある雑誌で各界の名士にその田中元首相逮捕についてコメントをとったんだね。政界、経済界はもとより文化人、学者、はては芸能人にまで取材されていた中で、一際僕の注目を引いたのは当時の横綱・北の湖のコメントだった。

 「国民が良ければいいんじゃない。俺、相撲取りだから

 いや、正直言ってこのコメントには笑った。政治になんか無関心だとズバリ言っているようなコメントに、申し訳ないけど大笑いしてしまった。でも、今改めてこのコメントを噛みしめてみると、そこにはまた別のニュアンスが感じられてならない。

 これって「相撲取り」と「国民」が別のところにいるみたいに思える。「相撲取り」は「国民」じゃないのか。確かに今はハワイやらモンゴルから来た相撲取りもいるなんて話を、ここでしようなんて気は全くない。それよりもっと奇妙なことを、このコメントは物語っているからだ。無意識下に北の湖は、自分たち相撲取りの世界を一般国民の別の世界に置いていたのが明白だからだ。

 確かに考えてみると、未だにチョンマゲ結ってあんなに太らねばならない世界は、普通の国民の世界とは一線を画しているだろう。最近、貴乃花の去就について横審のナベツネが云々したが、これも奇妙だ。人気商売の常としてマスコミが「辞めろ」と言うのは分からぬでもないが、誰かが職業を廃業するしないについて他人がとやかく言うことが公然と行われるなんて、どう考えても普通の価値観ではない。さよう、北の湖が言っていたように、「相撲取り」は「国民」じゃないのかもしれないよ。

 この相撲取りの例は特殊ながら、僕らって人間生活を営む上でさまざまな枠の中に帰属せざるを得ない。会社や地域、国籍などといったオフィシャルなものから、年齢や生活水準と言った明確に取り決められてはいないが区切られてしまうものまで、僕らは絶えず何かに所属し、取り込まれている。そこのしきたりや決まりや習慣に少なからず影響され、拘束されているものなのだ。

 それは自分だけでなく回りの人間もそうだ。だから人は、相手を品定めしたり評価したり判断したりするときには、自然とその人間が何に帰属しているかをモノサシとする。でも、そうすると相手の「人間」が見えなくなるんだね。「日本人」とか「会社員」とか「東京もん」とか「オヤジ」とか、たぶんそんな顔の見えない存在になってしまうのだろう

 そして、その最たるものが、国対国の「戦争」というものではないか。

 

絶対命令は「暗号」の死守

 時は太平洋戦争の最も激しさを増していた1943年。アメリカはモニュメント・バレー。先住民族の一つナバホ族の青年アダム・ビーチもまた、この戦いに身を投じることになっていた。愛する妻と幼い息子を置いて、出征兵士用のバスに乗り込むビーチ。そんな緊張の極といった表情の彼も、バスの中に親友のナバホ男露ジャー・ウィリーを見つけて頬を緩める。このナバホ族の青年たちは、果たしていかなる任務に就くことになるのか。

 同じ頃、ガダルカナル島ではアメリカ軍と日本軍が熾烈な戦闘の真っ最中。特に海兵隊員ニコラス・ケイジが率いる小隊は、弾薬も人員も乏しい中である沼地を死守せよとの特命を帯びて奮戦していた。だが、何しろ多勢に無勢、仲間は次々銃弾に倒れる。部下たちは口々に撤退を懇願したが、ケイジはあくまでこの場所を死守せねばと譲らない。そんな中でついにアメリカ兵は全員殺され、ケイジも近くで炸裂した砲弾にやられてその場に倒れた。

 その後、野戦病院に収容されたケイジは深手を負って回復もままならない。片耳も砲撃で聞こえなくなった。それでも何とか戦場に復帰せねばと気ばかり焦る。その脳裏には「撤退しましょう!」と懇願する部下の声。自分の判断のために部下を死なせ、自分一人がおめおめと生き残ったことへの自責の念が胸をさいなむ。そんなケイジを見かねた看護兵フランシス・オコーナーは、彼を何かと励まそうとするが逆効果。結局ケイジに頼まれたオコーナーは、ロクに回復してもいないのを偽装工作。こうしてケイジの戦場復帰が決まった。

 だが、その任務とは…。

 今回の対日戦で敵の暗号解読に悩まされたアメリカ軍は、戦場での通信に特殊な暗号を採用することを思い付いた。それは解読不能な難解な言語、ナバホ族の言葉を使った暗号だ。それを操れるのはごく少数のナバホ族兵士だけ。そのナバホ兵士を戦場で徹底的に守りきるのがその任務だと言うのだ。前線でバリバリ戦いたい、死んだ部下の分まで暴れ回りたい…そう思っていたケイジには不本意な任務。だが、命令とあらば逆らえない。しかも実はこの命令、厳密には「ナバホ兵を守れ」ということではないのだ。兵ではなく「暗号」を守れ…もしナバホ兵が敵の手に落ちそうになった時は、この兵士を殺してでも暗号を守れ…そんな非情な命令に、さすがのケイジもますます気が重くなる一方だった。

 ケイジはハワイ島の駐屯地で今回の任務の仲間たちと落ち合った。その中にはケイジと同じ「暗号死守」の任務を帯びたクリスチャン・スレイターもいた。そしてケイジがコンビを組まされる相手がくだんのビーチ。スレイターが組まされたのがウィリーだ。元々気のいいスレイターは、何かと親しげに彼らと接する。だが、ケイジは彼らとは距離を置いていたかった。いざとなった時に情が移るのが怖かったのだ。まして虚無的に暗くなっていたケイジと、居住区とは勝手が違ってオタオタしているビーチでは、噛み合う訳もない。その顔合わせは最悪のムードで始まったわけ。

 そして1944年6月、彼らはサイパン奪還のため出動した。ナバホのビーチとウィリーは初陣となるこの戦い。しかし戦場はまさに最悪の状況と化していた。奪還させじと激しく抵抗する日本軍の前に、バタバタと倒れるアメリカ兵。その凄惨な状況にはさしもの勇猛なアメリカ兵もたじろがざるを得ない。まごつくばかりのビーチをどやしつけながら、ケイジはそんな中で無茶な戦いを続ける。それはまるで殺された部下たちの仇討ちでもするかのような激しさだ。やがて日本軍の砲台を攻撃しなければラチが空かないことがハッキリして、ビーチとウィリーの出番となる。沿岸に停泊している艦船に連絡して艦砲射撃。さすがにこれは日本軍もひとたまりもなく、一応ここでの戦況はアメリカ軍の勝利に終わった。しかし勝利の喜びはない。あたりに広がる味方兵の墓を見つめて、そんな勝利のおめでたい気分に浸れる者などいるわけがない。

 そんな夕方、ウィリーはビーチに何やら部族の儀式を施している。悪霊をはらう儀式だというビーチは、ケイジに痛い一言をつぶやいた。「霊を見たことがあるのでは?」

 そう。今も片耳の激痛とともに、ケイジの脳裏にあの死んでいった部下たちの声が蘇る。「撤退してください!」

 そんなビーチは味方兵ノア・エメリッヒの人種偏見の嫌がらせにも耐えていた。そんな彼の毅然とした態度に、ケイジも心動かされざるを得ない。スレイターはと言えば、相棒のウィリーの部族の笛と自分のハーモニカとの即席ジャムセッションに興じるうちに、徐々に心を通わせていく。

 ある日、進軍中のアメリカ軍に襲いかかる砲弾。何と遊軍が誤射しているのだ。しかも周囲からは雲霞のごとく日本軍が襲ってくる。ビーチの持っていた通信機は破壊されて、味方との連絡もとれない。絶体絶命。

 そんな時、ビーチが命知らずな作戦を持ちかける。自分が日本兵に化けて敵の陣地に潜り込み、その通信機で連絡をとるというのだ。これには躊躇したケイジだが、戦況は予断を許さない。かくしてケイジが捕虜として同行するということで、この決死の任務が行われることになった。たちまち日本兵に取り囲まれて危機的状況になった時、味方が攻め込んで気を逸らす。電光石火で日本兵たちを倒したケイジは、ビーチとともに敵陣地を占領して通信機を奪取。遊軍の間違った砲撃をやめさせるとともに、日本軍陣地への砲撃地点を連絡。またしても辛くも危機を脱出した。

 ある夜、日本軍から奪った酒で泥酔するケイジは、思わず過去のつらい思い出をビーチに吐露してしまった。撤退したがっていたあいつらを、俺は引き留めて殺してしまった。そして俺は一人生き残った。命令に絶対服従のクソ海兵隊員のこの俺が…。そんなケイジを、ビーチは優しく慰める。「命令だったんだ、仕方ないよ」

 こんな危機的状況を共にするうちに、ケイジは図らずもビーチと心を通わすことになってしまっていた。ますます良心の呵責に耐えられなくなるケイジ。一等曹長ピーター・ストーメアに任務の解除を直訴しても、こんな状況下でそれが聞き入れられる訳がない。そして、そんなケイジの懸念はすぐに現実のものとなってしまった

 ある村でつかの間の休息をむさぼっているところを、日本軍の猛攻が開始されたのだ。たちまち押し寄せる日本軍相手に絶望的な戦いを強いられることになったスレイターとウィリー。だが、スレイターにはウィリーを殺せない。笛とハーモニカのジャムセッションで心を通わせてしまった彼には、もはやウィリーは単なる「暗号用の道具」ではなくなっていたのだ。その一瞬の隙にスレイターは殺された。日本軍はウィリーに目を付けて連行していこうとする。その現場を目撃したケイジは、任務と友情との板挟みになった。出来ない。俺には殺すことなんて出来ない。だが、そんなケイジにウィリーは、目で「俺を殺せ」と訴えた。悲痛な思いにさいなまれながら、目をつぶって手榴弾を投げ込むケイジ。

 戦闘が一段落した後、ビーチはウィリーの死とその真相を知らされた。幼なじみの親友、しかもその親友を戦場に誘ったのも自分…そんなビーチはケイジのことを許すことが出来ない。もはやケイジが「命令だった」とつぶやいたところで、彼は背を向けるばかりだ。

 そんなケイジとビーチに、新たに任務が下ったのはまもなくの事だった。日本軍最後の砦、山頂の陣地を偵察に行け! そこでは日本軍が袋のネズミ状態になって、ムチャクチャな反撃に出ることは間違いない。

 果たしてこんなギクシャクした状態で、ケイジとビーチは任務を遂行することが出来るのか? そしてケイジは、ビーチに対してあの冷徹な命令を実行に移すことが出来るのだろうか?  

 

やはり義理と人情を追求するジョン・ウー

 ハリウッドに移ったジョン・ウーの最新作は、太平洋戦争を舞台にした戦争大作。戦う男たちというウー格好の素材であることはもちろん、義理人情にも似た葛藤が出てくるのもこの人らしい題材だ。

 ハリウッド上陸作「ハード・ターゲット」は未見ながら、「ブロークン・アロー」「フェイス/オフ」と、いかにもこの人らしい作品が続き、前作はトム・クルーズの大ヒット作続編ミッション:インポッシブル2という出世ぶりだ。スローモーションの華麗なアクション、スタイリッシュな映像、二丁拳銃…と、この人の独自の意匠はハリウッドに移ってからも健在。「M:I-2」はトム・クルーズのスター映画でハリウッド娯楽大作という構えだったから、映画ファン…ことに香港時代からのウーのファンには大不評だったものの、ここはウーがこれほどの信用をハリウッドで勝ち得たことを評価すべきではないか。娯楽映画としても高水準で創り上げていたのが見事だったし、彼独自の意匠も生かされていた。香港映画好きがトム・クルーズ映画“ごとき”を認めるわけには断固としていかないだろうから、例によって例のごとしで「香港時代はこんなもんじゃなかった」とさんざ批判されたけれど、スパイとしての任務と潜入させた女への愛への葛藤、さらに女に救出することを約束したクルーズがその約束を全力で守ろうと奮闘するあたり、やはりウーらしい展開と言うべきだろう。凡百の空疎な大作とは、一線を画していたと評価してあげなきゃ気の毒だよ。

 で、それだけの興行的実績も引っさげての今回の作品、やっぱりウーのハリウッドでの発言力はかなり増したと言うべきだろう。これほどの大作、そして主演にニコラス・ケイジとクリスチャン・スレイターという馴染みの役者を起用したあたりも、彼の意志を感じるね。特にスレイターは最近作品的に恵まれてなかっただけに、ウーの心意気と義理堅さを感じさせる。作品同様に義理人情の男なんだろう。

 ただ、今回は太平洋戦争の戦場というリアリスティックな舞台の物語だけに、ウーはいつもの意匠をいささか控えめにしているように思える。鳩も飛ばないしね。大娯楽映画、西洋電気歌舞伎の趣もあった前作「M:I-2」では、いささか例のウー印を全開に出しすぎた。今回はそんなマンネリ、食傷気味のきらいも出てきた従来路線を、ちょっと見直そうとしているのかもしれないよ。

 それでも、アクションの激烈さはこの人ならでは。昨今の戦争映画は「ブラックホーク・ダウン」「ワンス&フォーエバー」と戦闘シーンのリアリティと激しさはエスカレートの一途を辿っているが、今回は画面にニコラス・ケイジが初めて登場するシーンで、のっけから強烈にやられて驚かされる。そして戦闘シーンはどれもこれも火薬の量からして群を抜いている感じだ。観客はアッという間に戦場に放り出される。

 だが今回ちょっと驚かされたのは、艦砲射撃の場面でそこだけ画質が落ちるニュース映像を使用している点だ。確かに艦船が登場するのはこのカットだけとあって、予算的にもホンモノを使用することは出来なかったのかもしれない。それにしても、いきなりの画質の荒れたカットの挿入にはかなりの違和感を感じる。他の場面での多数のエキストラ動員、大量の爆破などを考えると、これはちょっと異例な感じがするね。単に予算の都合だけだったんだろうか? 今の技術ならCGでも可能ではないかと思わされるだけに、何となく意図的なものも感じるんだけど、どうだろう? これは「実話」だったんだというリアリティを、そこだけでも出したかったと考えるのは邪推に過ぎるだろうか?

 そしてやっぱり、ウーの描きたいことは変わってはいない。義理人情=義務と友情、その葛藤に苦しむ主人公のボルテージは今まで以上に上がっている。ここでの主人公は海兵隊員としての本分に忠実であったがあまり、部下を殺したことを悔やみ苦しむ男だ。彼が戦場に舞い戻ることを切望するのは、部下の敵討ち的思いもあるだろう。だが、それより何より、実はこの男、戦場で戦って死ぬことを望んでいるのではないか? 部下への贖罪の思いもあるのではないか。野戦病院で親しくなった看護兵からの手紙に一切返事を出さないのも、生きて帰る気がないからのように見える。また、立ち寄った村でふと台の上に教会の絵を描くあたりに、彼のそんな「救われたい」気持ちが現れているようにも思える。

 ところが結果的にはナバホ兵のフォローという任務で、またしてももっと厳しい葛藤を強いられることになるのだ。そして忠実な海兵隊員なだけに、またしても命令には背けない。これは無限地獄ではないのか。

 ナバホ族兵士と人種差別的なアメリカ兵との軋轢も、この映画のテーマの一つだ。しかし差別するアメリカ兵も悪人ではない。ただ無知が偏見を呼んでいるだけだ。そんなアメリカ兵もナバホ兵に命を救われるうちに、その心根が変わっていく。そして、ナバホもジャップも同じ…とうそぶいていた彼には、さらに新たな感慨も湧いてくるのだ。昔は戦い合っていた白人と先住民がこうして肩を並べられるなら、ひょっとしたらいつかは敵の日本人たちとも肩を並べるときが来るのではないか? それが現実のものとなっているだけに、この問いは極めて重い意味を持つ。それならば敵対するイスラム原理主義者だって…現実に戦争の危機が迫っている今、この思いは重要だ。「オマエ、考えすぎだよ」と言われて、この無知だったアメリカ兵が苦笑する。

 「考えすぎだなんて…そんなこと俺言われたことなかったよ」

 今まで考えることもしなかった単純無知な人々、それだっていつかそこに思い至ることは出来るんじゃないか?

 主人公ケイジの葛藤は、自らが海兵隊員として忠実であったが故のことだった。だが、海兵隊という枠、ナバホという枠、アメリカだ日本だという枠…そんな括りではなくて人間個人として考え行動したら、果たしてどうだろう?…究極の個人主義者ジョン・ウーの意図がそこにあるはずだ。

 最後に残るのは一人ひとりの人間の「情」なのだから。

 

 

 

 

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