「オースティン・パワーズ

  /ゴールドメンバー」

  Austin Powers in Goldmember

 (2002/09/02)


犯罪者はなぜか必ず手がかりを残す

 先日、DVDでヒッチコックの「サイコ」を改めて見たんだよ。面白かったねぇ。今週、感想文も「Archives」にアップしてあるから読んでもらいたいけど、もうすでに「怖い映画」ではなくなっていたが、ドラマづくりにうまみがあってね。

 ま、それはまた別の話。

 実はこの「サイコ」に、ちょっと興味を惹くくだりがあったんだ。会社の金を横領したジャネット・リー扮するマリオンという女が、その後プッツリと失踪する。彼女の行方を探す探偵のマーティン・バルサムがたどり着いたのは、人けのない寂しい宿「ベイツ・モーテル」。探偵はそこの管理人である、アンソニー・パーキンス扮するノーマン・ベイツに頼んで、宿泊人の台帳を見せてもらうことになる。そこでこの探偵は、偽名にも関わらず目指す女の名前をすぐに見つけ出すんだね。

 では、なぜ彼には偽名が分かったのか?

 書いてあった名前は「マリー・サミュエルズ」。名の「マリー」は本名の「マリオン」から、姓の「サニュエルズ」は彼女の恋人の「サム」からとっていた。だから、探偵には難なく見破れたんだね。

 これは簡単な例だが、人間って真っ赤なウソをつこうと思っても、そうそうつけるもんじゃない。どこか自分の現実や事実に即した部分を、知らず知らずに残してしまうものなんだ。

 そして、映画だってそれは同じことだ。映画だって、どこかつくり手そのものを反映するものなのだろうと思うんだよね。

 実際、映画ってある意味ではウソの塊のようなものだ。カメラも編集も演技も全部ウソ。ならばウソをつく時についついホントを混ぜ合わせてしまう人間が、映画にもどこか真実を含めないわけがない。いや、映画だけじゃないな。フィクションというものは、すべてそんな要素を多分に含んでいると言えそうだ。

 そう言えばウソってどこか犯罪の臭いもする。犯行を犯す時にはウソが必要だし、犯行が起きてしまってからも、犯罪者は自分の安全のためにウソをどこまでもつき透さねばならないだろう?

 それなのになぜか必ず残してしまうだよね、犯罪の手がかりを。

 

父親へのトラウマに悩むオースティン

 人工冬眠から覚めて以来、めざましい活躍で大人気の英国スパイ、オースティン・パワーズ(マイク・マイヤーズ)。何と彼の活躍がハリウッドで映画になるほどの人気沸騰ぶりだ。

 だが、そんなオースティンの活躍ぶりを苦々しく思っているのが、誰あろう宿敵ドクター・イーブル(マイク・マイヤーズ二役)。今日も今日とて腹心のナンバー2(ロバート・ワグナー)、フラウ・ファルビッシナ(ミンディ・スターリング)らを率いて悪だくみに余念がない。本当のところは実の息子スコット・イーブル(セス・グリーン)がいつまで経っても自分に反抗的な態度をとっているのが気に入らないイーブルではあったが、その代わりと言っては何だが自分の8分の1クローンであるミニ・ミー(ヴァーン・トロイアー)がいるのがせめてもの慰めだ。

 イーブル今回の計画は、ある強力なエネルギーを使って小惑星を地球に衝突させ、北極南極の氷を溶かしてあらゆる陸地を水没させようというもの。それをやることで果たしてどんな効果があるのかは分からないが、とにかくこのエネルギーを手に入れるためには、1975年に行ってオランダ人の黄金狂ゴールドメンバーを連れて来なければならぬ。このゴールドメンバーなる男が、問題のエネルギーを開発した人物なのだ。

 ところがイーブルがそんな悪だくみを語っているところをオースティンが急襲。イーブルはミニ・ミーとともに捕まってしまう。今回は陰謀が始まる前から不発なのか?

 悪の帝王イーブル逮捕により、オースティンは晴れて女王陛下より勲章を授与されることになる。だが、そんな晴れの舞台…授与式にオースティンの父親は来なかった。その父親こそ、オースティン以上に伝説的なスパイ、ナイジェル・パワーズ。思えばオースティン、この父親にはずっと父親らしいことをしてもらったことがなかった。完全無欠のスパイ=オースティンの、それが意外にも唯一最大のウィークポイントだったとは。

 ところがその父親ナイジェルが行方不明になり、オースティンはその捜査に乗り出すこととなった。妙な胸騒ぎがするオースティン。父の身に何が起こったのか? その秘密に迫るためには、毒をもって毒を制せ…だ。かくして特別刑務所に厳重に監禁されたイーブルに、今回の父親誘拐の手がかりを聞きに行くオースティン。そんなオースティンにイーブルは忌まわしき父親の思い出を蘇らせる。自分をないがしろにし続けた父親。それはオースティンの絶対的トラウマだった。そんなオースティンにイーブルは、1975年に行ってゴールドメンバーに会いに行けと告げるのだった。

 タイムマシンを駆使して1975年に向かったオースティン。そこはニューヨークの名物ディスコ「スタジオ69」。例のゴールドメンバー(マイク・マイヤーズ三役)が経営する店だ。そして黄金の魅力に取りつかれた奇妙な中年オランダ人=ゴールドメンバーを狙う人物がもう一人。かつてのオースティンの顔馴染み、ソウルなボディの女スパイ=フォクシー・クレオパトラ(ビヨンセ・ノウルズ)だ。彼女は友人をゴールドメンバーに殺されたため、先行してこの店に潜入。捕えるチャンスを狙っていた。オースティンとは昔のよしみだ。快く協力を申し出てくれたのは言うまでもない。

 さて店の内部に入ってみると、案の定オースティンの父親ナイジェル(マイケル・ケイン)が捕えられていた。だが、彼は救出に来たオースティンにさほどありがたそうでもない。いつも父親はこうだった。どんなに大きくなっても、どんなに頑張っても、父親はオースティンのことを認めてくれようとはしなかったのだ。思い出したくもない苦々しい思い出が蘇るオースティン。

 ところがそんな父子対面の場に現われたゴールドメンバー。さらにそこにフォクシーも乱入して大乱闘の挙句、結局父親を連れたゴールドメンバーはタイムマシンで現代へ。彼らこのままでは何をされるか分からない。オースティンもフォクシーを連れて、タイムマシンで現代に戻って来た。

 その頃、オースティンへの捜査協力の褒美でミニ・ミーと一緒の刑務所に移されたイーブルは、フラウの協力によって脱獄に成功した。ところがイーブルの留守中に実の息子スコットは殊勝にも組織を継ごうと志していた。これによってファミリー内の風向きはそれまでと大いに変わり、気の毒にも我が世の春を謳歌していたはずのミニ・ミーの居場所がなくなる。

 ゴールドメンバーを迎え、特殊潜水艦で何と日本に向かうイーブル・ファミリー。実は例のエネルギー発生装置は、日本で開発されていたのだ。その情報は二重スパイとしてイーブルファミリーに潜入していたナンバー3(フレッド・サヴェージ)からオースティンの下に伝えられた。

 敵は日本にいる! オースティンはただちにフォクシーを連れて日本へと向かった。しかしそこには、今は力士に身をやつして悪事に手を貸すようになっていたあのファット・バスタード(マイク・マイヤーズ四役)を初めとする恐るべき敵、驚愕の事実が待ち構えていたのだ!

 

実は真摯な人、マイク・マイヤーズ

 何だか今回のこの感想文のストーリー部分、まるでコメディ映画のそれとは思えないみたいに読めるかもね。まぁ、シリアスな映画のストーリーだってふざけて書いたりしているんだ。逆にコメディ映画のストーリーをシリアスに書くことだってある。そして、実は今回そうしたのには意味があるんだ。それについてはまた後で…。

 あの「オースティン・パワーズ」が三作目まで数えることになろうとは、正直言って夢にも思わなかった。一作目はカルチャーギャップを軽〜くからかいながらも、ボンド・シリーズあたりの往年のスパイ映画もネタにして笑わせてくれた。よもやこのネタ二回は使えまいと思ったら、何と巨額の制作費をつぎ込んでさらに賑やかに続編「デラックス」を制作。正直言って一作目のセンスは望むべくもないが、とにかく力業でそれなりのバカバカしさのてんこ盛りで逃げ切ったような案配だった。そこに今回の三作目。ネタはいいかげん擦り切れて、もっともっと金をかけて盛大にバカバカしくするしかないか…と内心「やれやれ」と思ったのが正直なところ。その予想は確かに間違ってはいなかった。

 映画が始まってすぐのオースティンをモデルにしたハリウッド映画の場面では、トム・クルーズのオースティン、ケビン・スペイシーのイーブル、ダニー・デビートのミニ・ミーに、グウィネス・パルトロウまで担ぎ出してのハデハデ趣向。これがかなりお金をかけた本気のアクション映画になっているので、おおっ今回はコメディとしても結構スピード感溢れる面白さで勝負か?…と思いきや、マイク・マイヤーズ扮するオースティンその人が登場すると、とたんに画面はユルみだす。それに続いてスティーブン・スピルバーグは出てくる、クインシー・ジョーンズは出てくる、ブリトニー・スピアーズは絡む…と来るあたりは単なる賑やかしの延長(実はエンディングにはジョン・トラボルタまで出てくる)だしね。ところがタイトル・クレジットの最後には「雨に唄えば」での「ブロードウェイ・メロディ」のナンバーを思わすクレーン・ショットまで飛び出すに至っては、僕も改めてちょっとばかり考えを改めたくなった。くすぐりはくすぐりでも、マイヤーズは結構気合い入れてやっているのではないか? 実は今回の「ゴールドメンバー」で僕が一番感じたのは、このマイヤーズのマジメさ、本気ぶりなのだ。

 今回の作品、ボンド・シリーズの「二度死ぬ」あたりをパクって…な〜んて薬にもならないことを言っても、ハッキリ言って意味ないね。相変わらず下品で幼稚なネタと今回は1975年を背景にチラつかせたカルチャーギャップの笑いは、このシリーズの恒例だから別にことさらに触れるまでもない。くだらないお笑いはハッキリ言ってスベっているものも少なくない。あと、アメリカの観客以外にはピンと来ないネタもあるから、正直言ってちょっと寒くなる箇所もある。だけど、とにかく次々とくだらない小ネタをよくもまぁドンドンとくり出してくるんだね。

 普通は一つギャグ出してスベったらそれっきりだが、ここでは一つどころか二つたて続けにスベっても、メゲずにもう一つギャグを出してくる…といったアリサマ。このしつこさに、しまいにはこっちが根負けして笑ってしまう。今回の「ゴールドメンバー」にはそんな思わず苦笑…という細かい笑いがやたらに満載されている。このへん、明らかにこの「オースティン」ネタ自体がますます鮮度を落としていることをマイヤーズ自身がよく分かっているということなのだろう。このくだらなさも寒さも、マイヤーズは先刻承知、すべて了解済みだという印象が強いのだ。

 そして今回の最大のお楽しみは、オースティンの父親スパイ役に大物マイケル・ケインを引っぱり出したところにある。

 この「オースティン・パワーズ」、ボンド・シリーズはもちろんだが、メインのキャラであるオースティンその人にはマイケル・ケインが演じたメガネのスパイ、「国際諜報局」のハリー・パーマーが強く意識されていたのは元々有名な話だ。そのケイン自身を引っ張ってきて、堂々とオースティンの父親役に起用しているのが何よりお手柄。このケインの起用が今回の作品の格をぐ〜んとアップさせた。

 今でこそケインと言えばオスカー二回受賞の名優であり、曲者スターとして知られているが、昔はケインと言えばセクシーな俳優として有名だった。「探偵<スルース>」でのローレンス・オリビエの妻を寝取った色男役なども、そんなケインのイメージがあればこそ。だからハリウッドでもケインは二枚目のヒーロー役を多く演じた。もっともそんなケインのハリウッドでのヒーロー映画は、「アシャンティ」とか「スウォーム」とか「アイランド」とか、駄作凡作の宝庫になっちゃってるけどね(笑)。ともかく、1970年代あたりのケインってのは、そんなイメージのスターだったわけ。それをここではバッチリ生かした起用となる。まぁ、正直言ってもうちょっと活躍してくれるんじゃないかとは思ってたんだけど、まずはこのセンスのいいキャスティングを実現させただけで嬉しくなった。

 そして最も注目すべきは、そのケイン投入によって作品の骨子を父と子の葛藤に仕立てたところだ。

 父親に認められずに悩むオースティン、イーブルに認められようと努力する実の息子スコット、そのスコットの台頭によって存在を脅かされるイーブルのクローン(これも息子のようなものだ)=ミニ・ミー。こんな映画にちゃんとしたテーマを探ることの愚を考慮したとしても、ここまで執拗に繰り返される「父と子」のイメージには、ちょっとマイヤーズ自身の何がしかの思惑を感じずにはいられない。

 考えてみると、イーブルとスコットの葛藤は三作通じて延々と繰り広げられたテーマだ。しかも二作目「デラックス」においては、同時期公開の「スター・ウォーズ/エピソード1」を意識したギャグとは言え、イーブルがオースティンに言い放つセリフに気になるフレーズも飛び出していた。こうまで何度も何度も繰り返される「父」のイメージ。これは一体どういうことなのか。

 かつてドナルド・リチーの「黒澤明の映画」という本の中で、黒澤本人のコメントして紹介されていたものに、ちょっと気になる言葉がある。実は僕がこのサイトで書いてきた映画感想文の、一つの指針となっているものでもある。それは正確な引用ではないが、思い起こせば次のような文句だ。

 「映画とはその出来如何に関わらず、作り手そのものが反映されるものだ。それ以上でも以下でもない」

 だとするならば、こんなくだらないギャグ満載の映画であったとしても、主演し脚本を書いて全体をコントロールしているとおぼしき、マイク・マイヤーズその人の人間性を少なからず反映しているものであり得る。劇場パンフレットなどにマイヤーズ自身が寄せたコメントには、父親の存在が「オースティン・パワーズ」をつくる原動力となった云々とあるが、これはコメディアンである彼が公にしたものだから確証のほどはない。しかし、これほど作中で「父」との葛藤に執着するには何か彼のトラウマなり思いがあると考えるのが自然だろう。彼は長く父親へのコンプレックスに悩まされていたのだろうか?

 日本で父親のナイジェルを奪還したオースティンが父親の心ない言葉に傷つき、またしても仲違いして別れてしまうシーンのエンディングを思い出して欲しい。これほど賑やか単純下品大バカギャグ満載の、サイケでカラフルな作品にして初めて…おそらくこの三部作でも唯一、フェードアウトで暗く画面全体が暗転してしまうのだ。まるでオースティンの気持ち自体が暗くふさぎ込んでいくかのように…。これってこの手のコメディ映画一般から考えても、極めて異例の処理だと思わないか。この暗さは尋常なことではない。それだけこの映画の「父」への思いには、陰影が異様なほど色濃く塗込められているんだよ。

 思えば一作目「オースティン・パワーズ」では、バカバカしいカルチャー・ギャップ・コメディながら終盤のセリフに思わぬメッセージを込めて僕を驚かせた。懐かしの1960年代、あの頃はよかった…てな方向に結論は落ち着くのかと思いきや、何とオースティンに「1990年代は“責任”の時代だ、素晴らしいじゃないか」と言わしめた。単に昔は良かったとは終わらせなかったあたりに、僕はほんのちょっと彼のマジメさを感じたんだね。たぶんマイヤーズは、とても真摯な人なんだと思うんだ。二作目「デラックス」では“好評につき第二弾”という宿命から、ネタの鮮度が落ちたこともあってバカバカしさとスケールを拡大する方向に持っていくしかなかった。その結果、娯楽映画としての面白さは何とか確保はしたものの、大風呂敷を全部広げたあげく広げっぱなしにしちゃった観があった。あれはマイヤーズとしては不本意だったんじゃないか。

 今回、マイヤーズは「オースティン」ものは打ち止めと言っていて、それは商業上の理由でどうなるか分からないけれど、たぶん今の時点では本気なんだと思う。だからこそ、シリーズの「父」であるマイケル・ケインを引っぱり出して、自分の思いの根本にある「父」の問題に決着を着けようと思い切ったんじゃないか。最後、思わぬ展開を迎えて父子が抱き合うエンディングには、実はマイヤーズの思わぬ本音が見え隠れしているように思うんだよ。

 だけど今度はイーブルの息子スコットが背を向ける。そんなに問題はたやすく解決はしない。それもまたマイヤーズの本音だろう。ここですべて円満解決しないところが、マイヤーズの本音たる所以を感じたところなんだ。もし単に面白おかしさだけで描いていたんだったら、こうはつくらないだろうと思うからね。そんなスコットにマイヤーズが告げる一言も象徴的だ。「父親とは違う道を行かなきゃいけないんだ」…それはマイヤーズが何より自分自身に告げたい一言ではなかったか。そんなこの映画のエンディングを、バート・バカラック本人が弾き語る歌の一節がすべて締めくくってくれる。「今、世界は愛を求めてる」…。

 だけどそんな個人的思いを吐露するだけでは、コメディアンである自身が許さない。何より真摯でマジメな人であるならば、きっと「照れ」の思いも人一倍強いに違いない。ならばここまで「本音」を吐いてしまった以上、その反動としてトコトン笑わせなければ我慢できない。スベってるの寒いのも含めて、あれだけメゲもせずにくだらないギャグのつるべ打ちで全編押し通したのも、そんなマイヤーズの心理状態がさせたものに違いないのだ。言ったことが真摯なら真摯なほど、お下劣で幼稚でバカバカしくなくてはいけない。

 この映画の制作費は日本円で160億円にも及んだ…と宣伝文句には書いてある。それも至極もっともだ。これだけ個人的な思いを吐露したからには、彼は大いに照れているに決まってる。それもちょっとやそっとでは納まらないほどにね。

 160億円もかけて照れ隠しせずにはいられなかったのだから。

 

 

 

 

 

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