「春の日は過ぎゆく」

  One Fine Spring Day

 (2002/08/12)


君は「悲しみのアンジー」を聞いたか?

 音楽や本や映画ってのは、それなりに出会うべき時ってのがあるんだろうかね。

 何でそんなことを思ったかと言うと、今日、昼飯を食っていた時にラジオからローリング・ストーンズの「悲しみのアンジー」が流れてきたから。

 「悲しみのアンジー」…この曲ってストーンズ・ファンじゃなくても、若い人でも結構知っているんじゃないかな。曲の題名は知らなくても、おそらくメロディを聞けば「あぁあれね」とピンと来るはず。日本では一番ヒットしたストーンズの曲だし、実際1973年のアルバム「山羊の頭のスープ」(今考えると何ちゅうアルバム・タイトルなんだろ)からシングルカットされたこの曲は、1970年代を代表するストーンズのヒット曲のひとつだ。

 ポロンッとこぼれるようなミック・テイラーの生ギターのつまびきから始まり、ゲスト参加したニッキー・ホプキンスのきらめくピアノの音色も印象的なこの曲は、実は代表曲と言いながらストーンズでは異色ナンバーのひとつでもある。ストーンズと言えばキース・リチャーズのグイグイ突っ込むようなリズムギターが売りだが、ここではそのキースも静かに生ギターをつまびいている。ギターバンドであるストーンズの二人のギタリストとも、エレキを使わず整然と生ギターを聞かせているのだ。そこに前述ホプキンスの澄みきったピアノの音色…。

 そのメロディのメロウさ美しさから、この曲は1960年代の「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」に始まり、「ワイルド・ホーシズ」「メモリー・モーテル」「ビースト・オブ・バーデン」と続いていくストーンズ・バラード代表曲の一つにもなっているし、また多くの人に受け入れられもした。だけどこれがストーンズ・ファンとなると、ちょいと事情が違うんだよね。

 何せストーンズとくれば昔からコワモテが売り。ストーンズ・ファンは、タフでクレイジーなストーンズが好きでなければ勤まらないところがあったんだろうか。大体ファンと称する人々の間では、この曲ひどく評判悪い。まぁ大ヒット曲だからってこともあったんだろうね。映画ファンが「タイタニック」をバカにするのと同じ。通ぶってるわけ。

 そもそもストーンズの曲にも関わらず、この曲たるやレイモン・ルフェーブルやらカラベリやらといったイージーリスニングの大御所にも取り上げられるに到ったのだからなおさらだったのだろう。「二人で涙に暮れた日のことを覚えているかい?」とか「コートのポケットにはお金もなかった」とか…まるで南こうせつの「神田川」みたいな歌詞も、ロックファンとしては勘弁してほしかったのか。当時はデヴィッド・ボウイの妻とミックの不倫をうたった歌だというもっぱらのウワサで、そんなワイドショー的側面も大いにシラケさせたのかもしれない。「あんな曲、甘ったるくてさ」と言われれば、気弱だった僕も「あ、うん…」ととりあえず賛同しておくしかなかった。

 でも、僕はこの曲を何となく気に入ってたんだよね。

 ただ僕が惹かれていたのは、やっぱりこの曲の美しいサウンドだったのだろうと思う。特にニッキー・ホプキンスのピアノと来たら! おそらくはブルース・スプリングスティーンの「ザ・リバー」におけるロイ・ビタンのピアノ(特にフェイドアウト直前が聞きもの!)に匹敵する、ロックバラードのピアノ二大名演と言っていいのではないか?

 そんなこの曲の印象が僕の中でガラリと変わったのは、それから何年も経って知人に借りたストーンズの海賊盤を聞いてから。確か1970年代の全米ツアーから勝手に録音したライブ・アルバムだと記憶しているのだが、これが凄かった。

 ここではライブということもあってか生ギターは使っていない。キース・リチャーズもミック・テイラーもエレキだ。しかもライブ。ひずんだギターの音がワイルドに響く中、ミック・ジャガーが一声吠える。「アンジーッ!」

 当然のことながら甘く切なく美しいスタジオ盤とは違って、ナマナマしくラフな演奏だ。そこに乗ってくるミック・ジャガーの歌声も荒々しい。こんな盗み録りをしているとも知らないから、それはかなり荒削りな歌と演奏だった。

 それが妙に真に迫っていたんだよね。

 何と言えばいいのか分からなかったが、それはまるで「血を吐くような…」とでも言えばいいのか。とにかく絶対的な「痛み」を聞く者に感じさせる音だった。英語などは分からなくてもそれは伝わる。この曲をつくり演じている人間たちは、明らかに終わってしまった恋の痛みと苦しみを伝えようとしている。これを聞いたら、とてもじゃないけどイージーリスニングにしようなんて発想は出ない。その時、僕は自分がそれまで「悲しみのアンジー」という曲を、本当には分かっていなかったことを思い知ったんだね。もちろん「甘ったるい」などと言っていた、ファンたちだって分かっていなかったはずだ。

 その頃、僕はこの「悲しみのアンジー」という曲の別の由来についても耳にしていた。実はこの曲、ボウイの妻なんかでなく、ミックのかつての恋人マリアンヌ・フェイスフルについて歌っていたというのだ。

 マリアンヌ・フェイスフル。1960年代にミックと恋人になり、自身もストーンズのバックアップで歌手として売り出したかわいい女性。彼女はいわゆるいいとこ出の「お嬢様」で、ストーンズの連中たちとは本来は身分が違った。それがミックと付き合ってストーンズの世界に引っぱり込まれ、ショービジネスも知った麻薬にも溺れた。そうしてボロボロになったあげくミックに捨てられた。一体この二人の間にいかなる葛藤があったのか。それは余人の知るところではないだろう。マリアンヌ・フェイスフルはその後しばらく表舞台から姿を消し、後に奇跡的カムバックを遂げる。その時の彼女は壮絶とも言えるハスキー・ボイスで愛の痛みを歌う、ビターな味わいの濃いシンガーに変貌していた。…まぁ実際のところ、この曲がフェイスフルについて歌ったものかどうか、真偽のほどは明らかではないけれどね。

 それはさておき、スタジオ録音と海賊盤ライブの2バージョンの「悲しみのアンジー」。並べて聞けばイメージがガラリと違うのかと言えば、実はそうでもないのだ。もちろん音の違いは歴然。印象も多少違うことは違う。だが、曲の解釈まで一変してしまうほどの違いは実はそこにはなかった。ライブ海賊盤に驚いて改めてスタジオ盤を聞き直した時、僕にはもうスタジオの「悲しみのアンジー」も、以前と違って聞こえていたのだ。これはどうしてだろう?

 考えてみれば、僕が「悲しみのアンジー」を最初に耳にしたのは中学生の時。レコードを手にいれてちゃんと聞いたのも高校生の時だ。そんな年頃で“終わってしまった恋の痛みと苦しみ”を分かれというのが無理な話ではないか。その後、拙いながらも幼いながらも自分なりにいろいろ経験も経て、初めてそれが分かる状況になったのだろう。あるいは僕がそのライブ盤を聞いた時に、ちょうどそんな状況に陥っていたのか…今となっては思い出すべくもない。ひょっとすると、幸せいっぱいだったがどこか不吉な予感を抱えていて、見て見ぬふりをしていたのを掘り起こされてしまったんじゃないか…今にして思えば、何となくその最後のケースだったかもしれないと思う。

 その後時は流れて1995年、ストーンズがMTVアンプラグド・スタイルのライブアルバム「ストリップド」を発表した時、その中に本来は生ギターで演奏すべき「悲しみのアンジー」が収録されたのは、ごく自然な成り行きだっただろう。

 だが、そこでのミック・ジャガーの歌声やストーンズの演奏には、もはや血管をザックリ切った直後に血がドクドク流れるような海賊盤ライブの凄味はどこにもなかった。ゆったりとリラックスしきった歌と演奏。達観したような懐かしむような、去っていった時に対する追憶の思いだけがそこには漂っていた。その時には僕も、たぶん恋愛沙汰からは遠く離れてしまったような、一種の枯れたような心境があったような気がする。

 演奏者の状況…そして聞く側の心境によってその姿を変える「悲しみのアンジー」という曲。今この曲を聞いたら、僕の耳には一体いかなる音色で響くのか…。

 そんな先日のこと、昼飯を食っていた喫茶店で「悲しみのアンジー」が流れ出したのだ。僕は慌てて席から立ち上がると、勘定を済ませて外に出たんだよ。

 なぜだって?

 今の僕に「悲しみのアンジー」がどう届くのか、それを知るのが怖かったからね…。

 

バスと女は、去っていったら追うもんじゃない

 それはまだ冬の寒い朝のこと。凍てついた道をヒョコヒョコ歩く老婆が一人。この老婆ペク・ソンヒを孫のユ・ジテが走って追いかけて来た。「おばあちゃん、どこに行くの? 帰ろうよ」

 だが老婆ペク・ソンヒはまるっきり言うことを聞かず、ずんずん歩いていくばかり。ついには駅まで行ってしまう。どうもすでにボケ入ってしまったペク・ソンヒ、ここで誰かが来るのを待っているようだ。帰ろう帰ろうと孫のユ・ジテが繰り返しても、一心不乱に駅のホームを見つめるばかり。

 さてある晴れた日、そのユ・ジテは車を飛ばしていた。手には行き先を書いた地図を持っている様子。だが、その紙が風で飛ばされて慌てること慌てること。

 そのユ・ジテ、やっとこ目当ての場所にたどり着いた様子。ここは田舎のバス・ターミナル。ベンチに腰かけているまばらな人影から、今日の待ち合わせの相手を探しているが見つからない。すると…。

 マフラーを巻きに巻いて居眠りこいてる女性が一人。どうも彼女が目当ての相手らしい。だが声をかけても全然眼を覚まさない。そこでユ・ジテは次なる作戦に出た。

 携帯を鳴らす。

 案の定、居眠り女性の携帯が鳴った。アクビしながら携帯を取った彼女を、横からつついて自分を知らせようとするユ・ジテ。しかしまだ寝ぼけているのか彼女はユ・ジテには無関心だ。仕方なくユ・ジテは彼女の隣にいるのに携帯で話しかける。「もしもし、もしも〜し、隣りにいますよ!」

 やっとこ目が覚めてユ・ジテに気づく彼女。その名をイ・ヨンエと言う。彼女はラジオ局のプロデューサー。ユ・ジテは録音技師だ。

 行き先は山の竹林。そこで風と竹の音を録音しようというわけ。竹林の中で耳を澄まし、マイクをセットして音を録音するユ・ジテ。その手並みをじっと見つめるイ・ヨンエ。静かな竹林に風が流れていく。

 仕事も無事に終わり、古い家の軒下でくつろぐイ・ヨンエとユ・ジテ。イ・ヨンエはカバンから書類を出そうとして、紙の端で指を切ってしまった。「イテテッ!」

 それを見ていたユ・ジテは、指を頭上高く挙げてゆっくり揺するといいと教えてやる。「心臓より高くすると血が止まるんです。祖母から教わりました」 素朴で無口な青年の、ちょっとした親切。イ・ヨンエは言われたように指を頭上高く挙げてみた。

 帰り道の車の中。無口なユ・ジテに気詰まりを感じたか、イ・ヨンエはカー・ラジオのスイッチを入れる。すると聞こえてきたのは聞き覚えのある声だ。「あなたの声?」

 ユ・ジテはプロデューサーとアナウンサーを兼ねているのだ。

 ラジオ番組は聴取者のお便りコーナーらしい。別れた彼氏が恋しいとかいった内容だ。アナウンサーのイ・ヨンエは語りかける。つらいですね。でももし再会できたら、それは運命の愛。私には運命の電話のベルが聞こえますよ。リ〜ンリンリン…曲はフィンガー5の「恋のダイヤル6700」…。

 「恥ずかしいわ」とイ・ヨンエは夜中なのにサングラスなんかかける。それはフィンガー5なんか選曲しちゃった自分に恥ずかしいのか、番組の内容が恥ずかしいのか、それとも「運命の愛」などと心にもないことを口走った自分の言葉が、シラジラしいと恥じたのか…。

 ラジオ局に着いてスタジオ入りするイ・ヨンエとユ・ジテ。早速番組の準備を始める二人。録音してきたテープの確認作業だ。「2番目ね」「3番目の方がいいですよ」…プロデューサーの自分の決定にガンとして譲らないユ・ジテ。これにはイ・ヨンエも驚いた。結局番組では3番目を使用することになる。

 深夜に及ぶ収録が終わって一息入れる二人。こんな夜中までかかるんじゃ家族が心配するでしょうと言葉をかけるユ・ジテに、イ・ヨンエはつい誰かに心配されたいわと口走る。調子こいたユ・ジテは、ついつい彼女にツッコミを入れた。「ならば結婚すれば?」

 「してみたわ、一度」

 さて、そんな仕事が終わって自宅に帰ってきたユ・ジテ。彼は自宅に父親パク・イヌァンと叔母シン・シネ、そして例の祖母ペク・ソンヒと一緒に住んでいる。今まさに家庭カラオケで父親パク・イヌァンが絶唱している真っ最中だ。“あ〜なった〜に、あ〜わっせ〜てっ、い〜ったっいっけっどぉぉぉ〜〜〜わったっし〜は、み〜ぎっき〜きっ、すっれっ違っいぃぃぃぃ〜〜〜、いじぃ〜わるぅ〜、いぃ〜じぃ〜わ〜る〜な〜の〜”

 楽しい家族団らんの後、祖母ペク・ソンヒに昔のアルバムを見せるユ・ジテと叔母のシン・シネ。それはまだ祖母が若く美しい頃の写真。そしてそこには今は亡き祖父の若い頃の写真も。その二枚目ぶりにウットリの祖母。だが、祖母は同じ祖父の年老いてからの写真は見るのも嫌がる。汚ねえジジイの写真は婆さんでも見るのもイヤか。 それとも老いてからの祖父に、何か忌まわしい思い出でもあるのだろうか。

 そんな祖母の姿を見たユ・ジテは、思わず叔母に祖母と祖父の昔の話を問わずにはいられない。何でも祖父は祖母のことをネコっ可愛がりして大変だったとか。だが、それならなおさらユ・ジテには腑に落ちないことがある。「ならばおじいちゃんは何で浮気なんかしたの?」

 そう、祖父はかつて愛人をつくって祖母を泣かせた。深く愛し合っていたはずなのに、なぜ?

 そんなある日、何とあのラジオ局のイ・ヨンエから電話がかかった。新たな仕事の話だったのだが、ユ・ジテ何となくニヤニヤして寝付かれない。それは何かの予感だったのか…。

 その仕事は山寺での録音だった。風狙いの仕事だったが今日はまるで風がない。ユ・ジテもイ・ヨンエも静かな山寺で、まるで休日のように過ごした。だが夜になると風が出た。それに気づいたイ・ヨンエが布団から起き出してみると、すでにユ・ジテはマイクと録音機をセットして仕事を始めていた。そんなユ・ジテの隣りに静かに腰を下ろすイ・ヨンエ。二人の心に降り積もるように、ゆっくりゆっくり静かに雪が降ってくる。

 帰りはまたユ・ジテがイ・ヨンエを車で送った。彼女の家まで着いて、車から一旦は降りたイ・ヨンエだったが、何を思ったか再び車に戻ってくるではないか。「うちでラーメン食べる?」

 アパートの彼女の部屋はえらくとっ散らかった汚い部屋。ラーメンも当然インスタント・ラーメン。別に話も盛り上がるわけでない。だが、彼女はさりげなく言った。「泊まってく?」

 これにはユ・ジテもニヤニヤと照れ笑いするしかない。

 だが、そうそううまい話はない。翌朝目覚めてみると二人とも別々に寝ていた。一足先に目覚めたユ・ジテが寝そべっているイ・ヨンエの横に身を横たえると、彼女も静かに眼を覚ました。ニッコリして抱き合い、キスする二人。さぁ先に進もうとユ・ジテが手を伸ばしたら、イ・ヨンエはさりげなく彼を遠ざけた。「もっと親しくなってから…ね」

 彼女のアパートから出てくるユ・ジテは、さすがにちょっと恥ずかしかった。「寒い〜」と一人モジモジしていると、何と当のイ・ヨンエが部屋の窓からおいでおいでしているではないか。

 早速彼女の部屋に戻ってキスの続き。甘えてくるイ・ヨンエが可愛くてたまらないユ・ジテ。何と二人で職場に電話してズル休み。もちろん二人で一日シッポリ…としゃれこんだことは言うまでもない。

 さぁそうなると毎日が楽しくてしょうがない。様子が変なことは職場の同僚にも分かる。同僚と飲んでいてもイ・ヨンエに電話。会いたい会いたいとお互い盛り上がって、したたか酔っているのに彼女の家へ。こんな時にダチがタクシーの運ちゃんやってるのは助かる。もう明け方にもなろうというのに、彼女のアパート前までやって来ると、ちゃんとイ・ヨンエも待ちかねて道まで出ているではないか。うれしいねぇ。

 ベタベタしたりスネたマネしたり、幸せ絶好調の二人だ。イ・ヨンエに車の運転を教えてやったりしながら、楽しい時間が過ぎていく。あげくイ・ヨンエはユ・ジテにつぶやく。「一緒にお墓に入ろうか?」

 そんな二人にも気がかりがないわけではなかった。もしイ・ヨンエの職場に二人のことがバレたら、ユ・ジテはクビにされてしまう。そうしたらもう会えなくなる。しかしそんなちょっとした陰りも、幸せ真っ直中の中では取るに足らないことではあった。

 だが、そのちょっとした取るに足らないことが、いつしか思いの外大きくなることもある

 ある日、ユ・ジテはイ・ヨンエに「キムチが漬けられるか?」などと聞いたのもマズかったのだろうか。実は彼は家のみんなに恋人がいることを知られ、結婚しろだの連れて来いだの言われ始めていた。そのあたりをちょっとばっかり意識した発言だったのかもしれない。彼女は最初こそ「漬けられる」などと言っていたが、結局は漬けられないことを白状して、何となく気まずい雰囲気が流れる。

 それでもユ・ジテは陰りなんか感じてなかった。元気いっぱい。ヘッドフォンで音を聞いていたイ・ヨンエに向かって、録音マイク片手に愛の歌なんかうたってゴキゲン。“ふたりのお〜も〜いはぁ〜かわらない〜い〜つぅ〜んまでもぉ〜〜〜” おまけにその後、鼻の横をこすりながら「シアワセだなぁ〜」などとモノマネやらかしたのが寒かったのか、イ・ヨンエの表情が少し曇ったのを、彼は気づかなかった。

 実はイ・ヨンエの周囲に、別の男が暗躍し始めていたのだ。それはスカした音楽プロデューサーのペク・チョンハク。ギョーカイ人に女は弱い。ギョーカイ人の方でも、女の扱いには慣れている。それが彼女の気持ちを揺らし始めていたのだろうか。

 ある日、イ・ヨンエのアパートで彼女の待っていたユ・ジテ。だが彼女が帰ってきたのは夜遅く。それもしこたま酔っていた。酔っぱらってユ・ジテにベタついて、そんな異変をさすがにニブいユ・ジテも感じずにはいられなかった。ユ・ジテと絡まり合ってベッドに倒れ込むイ・ヨンエは、いつの間にか泣き出すではないか。「つらいのかい? つらいんだね」

 翌朝、健気に朝飯までつくって彼女の目覚めを待つユ・ジテ。優しく起こそうと声をかけるユ・ジテだが、「食べたくない、起きたくない」の一点張り。あげく「放っておいてちょうだい!」とわめかれるに至って、ユ・ジテも何ともシラけかえらざるを得ない。

 次の仕事の後、帰りの車の中でも二人の様子はおかしかった。そしてついにイ・ヨンエから出た一言。「この仕事ももうすぐ終わるけど、その後はどうするの?」

 何とかこわばる顔を微笑ませて、「どういう意味?」と答えるのが精一杯のユ・ジテだが、イ・ヨンエにはそんな態度が気に入らない。勝手にイラだち怒り狂うイ・ヨンエに、ユ・ジテもどうすることも出来ない。彼女のアパートまで着いた時、ラーメンでもつくってとくるイ・ヨンエに、さすがのユ・ジテも堪忍袋の緒が切れた。「俺がラーメンにでも見えるのか? 言葉に気を付けろ!

 フテってそのまま車を走らせて去ってしまうユ・ジテ。怒りが収まって彼女のアパートに戻ってみれば、イ・ヨンエはベッドでフテ寝。そして部屋に置いてあったユ・ジテの着替えが全部袋に入れられて出されていた。出ていけということなのか?

 やりきれない思いを胸に、ユ・ジテは着替えを持って彼女の家を去った。

 つらい、これは何よりつらい。あの楽しい日々は何だったのか? 自宅にくすぶるユ・ジテの心中を表すかのように、今日も外は涙雨だ。じっと我慢と分かっていても、ユ・ジテは自分の気持ちを爆発させずにはいられない。窓の外の雨に向かって、ヤケクソな歌声をぶつけるしかない。“あ〜なった〜に、あ〜わっせ〜てっ、い〜ったっいけっどぉぉぉ〜〜〜っとぉ〜。わったっし〜は、み〜ぎっき〜きっ、すっれっ違っいぃぃぃぃ〜〜〜っとくらぁ〜。あ、いじぃ〜わるぅ〜、いぃ〜じぃ〜わ〜る〜な〜の〜っときたもんだ、バカヤロ〜ッ!”

 そんな気持ちをスタジオでの仕事に紛らわすユ・ジテ。折りもおり、忙しくててんてこ舞いの最中、何と携帯にあのイ・ヨンエから電話がかかってくるではないか。クソったれ、どうして女ってのは必ずこう間の悪い時に何だかんだと言ってくるんだ。だけど、このチャンスを逃すと後がないしな〜っ。

 仕方なくスタジオを出て待っていたイ・ヨンエと会うユ・ジテ。忸怩たる思いのユ・ジテの気持ちも知ってか知らずか、イ・ヨンエはフテるユ・ジテに絡みつく。「私が来て嬉しい? 私に会いたかった?」

 結局、彼女を抱きしめずにはいられない。

 夜、またしてもイ・ヨンエの部屋にしけこむユ・ジテ。だが一戦交えた後で彼女が口走った一言は、ユ・ジテには到底理解し難い言葉だった。「一ヶ月会わないことにしましょ」

 一体あれは何だったのか。家に帰れば彼女を連れてこいだの何だのと言われて面白くない。電話してもイ・ヨンエの態度はつれない。あげくうるさいから電話するなとさえ言われる。仕事でもヤケクソになってロクなことがない。その頃当のイ・ヨンエはと言えば、例の音楽プロデューサーとあちこち遊び歩いてゴキゲンな日々だ。やっぱりギョーカイ人には敵わないのか。ついに我慢しきれず彼女に会いに行ったユ・ジテは、イ・ヨンエがギョーカイ人とツルんでるのを見てしまった。これで完全にキレたユ・ジテ。

 よせばいいのに酔って彼女のアパートに転がり込むが、もうイ・ヨンエにとっては迷惑以外の何者でもない。結局翌朝彼女からキッパリと別れましょうと言われるに至っては、ユ・ジテも「なぜ愛が変わるんだ?」の一言を絞り出すように口走るのが精一杯。

 それでも男らしく諦めようと思った。タクシー運チャンのダチに慰められたり、何とあの祖母のペク・ソンヒにまで慰められながら、何とか思い切ろうとしてはみた。だが、どうしてもダメだ。夜中、彼女のアパートまで車を飛ばしてほとんどストーカー状態。窓の外から部屋を見つめても入ることは出来ない。だがまずいことに、翌朝彼女に見つかってしまった。もうプライドもガラガラ崩れた。出かける彼女を車で送っていこうと言ってはみたが、彼女はチャッカリ自分の車を持っているではないか。あのバカにした態度。俺が車の運転教えてやったのを覚えていないのかよ〜。完全にアッタマきた!

 彼女の車の後をつけていくと、何と彼女はシャレたリゾートのホテルにギョーカイ人とシケこむところ。もう理性など吹っ飛んだ。どうしようもないやり場のない怒りに、彼は彼女の車のボディーをカギで傷つけた。

 ギギギギギ〜。

 それはそのまま彼の心がズタズタに傷ついていく音でもあった。それに気づいてあわてて駆けつけるイ・ヨンエ。彼女の顔を見て憑き物が取れたのか、呆然としたまま去っていくユ・ジテであった。

 家で抜け殻のようになっているユ・ジテ。そんな彼を祖母のペク・ソンヒだけが見守っていた。思わずサメザメと泣き始めるユ・ジテ。そんな彼の肩に、ボケたはずの祖母がやさしく手をかけた。「バスと女は、去っていったら追うもんじゃないよ」

 その時、長年の夫への思いで混濁した祖母の心も、何らかのかたちで晴れたのだろうか。まもなく祖母は一張羅の白装束に身を包み、死への旅に出た

 

 ある日、イ・ヨンエはラジオ局で仕事中、紙で手を切ってしまった。思わず血を止めようと指を頭上に挙げる彼女。その時、彼女にはあのユ・ジテとの思い出が、鮮やかに蘇ってきた…。

 

気が進まなかったのには理由がある

 これはあの大評判をとった「八月のクリスマス」のホ・ジノ監督の新作なんだね。で、やはり前作の大成功のおかげか、本国韓国の映画会社に日本の松竹、さらに香港資本も乗っての3国合作体制。しかも香港側のプロデューサーには「ラヴソング」「金枝玉葉」のピーター・チャンがクレジットされるという豪華さ。やっぱり「八月のクリスマス」って世界的にも大ヒットしたんだね。

 だから僕もこの映画が気にはなってたし、見たいとも思っていた。いい映画なんだろうなと期待もしていた。

 だけど、公開されてもなかなか足が運ばなかったんだね。なぜか?

 まずは、僕が前作「八月のクリスマス」と、不幸な出会い方をしちゃったってことがあるかもしれない。

 「八月〜」の公開前には、繰り返し見た予告編に僕の期待は最大限に膨らんでいたんだよね。元々、「誰かがあなたを愛してる」とか上記の「ラヴソング」とか、香港製メロドラマには大いに泣かされた。コッテコテの素朴さの虜になって、どうも自分はこの手の映画と相性がいいらしいと思ったのが運の尽き。「八月〜」の予告編は実によく出来てて、それ見ただけで泣けとばかりにつくられていた。昔から好きだった韓国映画、そこに相性のいいアジアのメロドラマ、これは絶対思いっ切り泣ける!…こう踏んだ僕は、公開間もなく劇場に飛び込んだ。さぁ早く泣かせてくれ、忙しいんだ俺は(笑)!

 泣けない。

 全然泣けない。何しろ抑えに抑えた演出で、コッテコテ…の極北にある映画なのだ。確かに優れた映画だとは思った。だけど、これって僕が期待していたような映画じゃなかった。こっちは感情揺さぶられまくって泣くつもりで劇場に行ったもんだから、気持ちの持って行きようがない。たぶん無色透明で見に行った人は結構涙腺揺さぶられたんじゃないかとは思うけど、こっちはワ〜ワ〜泣くつもりだったからねぇ。アテがはずれて何とも空しい気分。八月のクリスマス」感想文には「後から涙が込み上げて…」みたいなことを書いたものの、それは出来そのものは優れているこの映画がつまらないみたいな書き方はマズいと自主規制した結果だ。実際にはかなりガッカリして劇場を後にしたこのあたりの顛末は、当サイト開設三周年記念特集の「ザンゲ録を読んでいただきたい。

 まぁ、そんな因縁のあるホ・ジノ監督の作品。何となくイヤ〜な予感がしていたのも確か。だけど、もうすでに「八月〜」を見ているわけだし、この監督の映画との付き合い方は分かったはず。そうなら「八月〜」も出来が良かったことは分かってるんだし、素直に期待すればいいものを。

 いや、実は今回気が進まなかった理由はそんなことではないのだ。

 それは、この映画のコンセプトを聞いた時から、何となく薄々感づいていたことではあった。

 

全編に充満する尋常ならざる「実感」

 今回のこの作品、またしても抑えに抑えて表現されていることは「八月のクリスマス」の出来映えからある程度予想はついた。

 コテコテのつくり込んだ演出から一番遠いところに落としてくることも、だから当然お約束。で、それはまさしく予想通りだった。しかも前作よりさらにその抑えぶりは研ぎ澄まされて、純度100パーセントに限りなく近づいた完成度だ。

 ところで、説明的なセリフやしぐさや描写を削りに削り、演出と演技と撮影をナチュラルにナチュラルに極め尽くし、結果カメラ据えっぱなしの長回しカットを連発してリアリティを突き詰める…という作戦は、実は現在のアジアのアート系映画では一種トレンドになりつつあると言ってもいいんだよね。

 台湾のホウ・シャオシェン、ツァイ・ミンリャン、そしてこの韓国のホ・ジノをはじめ、正直言ってアジア映画にはこの手の描写が氾濫しているとさえ言っていい。こんな事を行ったらアート系映画のファンに怒られてしまうかもしれないけれど、ここだけの話、この手の話法は早くもちょっと陳腐化しつつあるんじゃないか? もちろん力のある作家はそんな話法の中にも独自性や、単なるメソッド以上のものを盛り込んでいるけれど、そこまで到達しない作家の中にはそろそろ話法の中に溺れてしまった人もいるかもしれないよ。元々ハリウッド的ルーティン話法へのアンチ的手法として出てきたこの「抑制ナチュラル長回し」だけど、それが新たなルーティン化しちゃったらシャレにならないと思うんだが、みなさんどうだろう?

 さて、そんな八つ当たり的ワキ道の話はさておき、さすがにホ・ジノ監督はそんなルーティンに逸することはなかった。話法のための話法、表現のための表現には終わっていない。リアリティを追求するその手法にはまったくそんなコケ脅し的な部分は見受けられない。それよりも、そういった同傾向の手法を使った映画よりも群を抜いて、さらにリアリティが増した。ただし、これはドキュメンタリーみたいだ…というわけではなく、あくまで「映画的実感」だけどね。

 いや、そんな表現では生やさしい。とにかくこの映画、尋常ならざる「実感」が充満する映画なんだよ。

 この映画をご覧になる方は、少なくも一度は恋愛のマネごとぐらいしたことあるだろうと思うんだけど、この映画での恋愛の「実感」はちょっと空恐ろしくなるほど。「いかにもありそう」を超えている、ちょっと見ている人間の感情やら現在の実生活までが脅かされかねない、「実感」ぶりなわけなんだよ。どうしてここまで描けたのかねぇ。

 ハッキリ言ってこの映画をただ「いい映画ねぇ」なんて泣いて見ることの出来る人、どこか懐かしく甘酸っぱい思いを噛みしめながら見ることの出来る人は、幸せな人だと思うよ。それはある程度この映画に距離を持って接することが出来る人だから。それは最初っから人ごと、つくり事と思って見ることが出来るか、もう遠く過ぎ去ったことと自分の中で片をつけた人に限られる。これはあるいはいちばん幸せなことかもしれない。

 だが、そうでない人にはこの映画は極めて重い障害を残しかねない。少なくとも見ている間、いや、見た直後まで強烈なインパクトを残す。正直言って僕は見ていて具合が悪くなった。気分が悪くなった。見た後の状態はさらに最悪だった。気分がウツになるとかいうのではない。本当に肉体的に体調が悪くなった。食欲も湧かないし動きたくない。僕は土曜日にこの映画を見て、結局日曜日まで何もする気がなくなった。

 いや、この映画は極めて優れた映画なんだよ

 「アタック・ザ・ガス・ステーション!」の若手ユ・ジテ、「JSA」の美人女優イ・ヨンエの生きいきした演技、周りを盛り立てる老婆役ペク・ソンヒやら、「クワイエット・ファミリー」にも出ていた父親役パク・イヌァンなども素晴しい。

 脚本も、始まってまもなくにユ・ジテがイ・ヨンエに教える止血の方法あたりから、伏線が巧みに、しかも自然に(!)張り巡らされていて見事だ。若い二人の話を脇で補強するかのように、祖母のつらい愛の記憶の物語が配されているあたりも巧みだ。

 また録音技師とラジオ・プロデューサーの物語ということで、音響設計が緻密に行なわれているらしいところも聞きもの…と言いたいところだが、僕が見た渋谷の「ル・シネマ」では、すでにフィルムがヘタっているのか映写機のせいか音が若干割れていて残念だった。もうちょっと何とかならなかったのか。神経を使って音づくりしていることは、そんなコンディションでの上映でも察することはできたけどね。

 音に意識的なのは現実音に対してばかりではない。この映画、全編に歌がかなり意識的に使用されているようなのだ。このあたりは日本の我々には分かり得ない部分もあるのだが、字幕を通しても歌詞に映画の内容とダブってくる部分があるのは明らか。実はこの映画のタイトル「春の日は過ぎゆく」というのも、韓国の古い歌からとったらしく、その歌は劇中で老婆ペク・ソンヒによって披露されている。

 ぼくが注目したのは、映画のはじめの頃に家庭のカラオケでユ・ジテの父親が披露している歌と、終盤近くなって恋がうまくいかなくなってからユ・ジテがヤケクソ気味に歌う歌が同じ歌であること。ちょっと古い演歌ふうのその歌、サビの部分で歌われる「憎くてももう一度」…がタイトルと思われる。なぜここに注目したかと言えば、僕はこのタイトルに見覚えがあったのだ。

 実は1968年から1971にかけて、韓国映画にはこの「憎くてももう一度」というタイトルのメロドラマ連作が4本シリーズで製作されていた。しかも1980年代に二作リメイクされ、何と今年も「憎くてももう一度2002」として装いも新たに製作されていることからも、かなりの大ヒットを記録したらしいと思われる。

 さて、なぜ僕はこのメロドラマ映画を引き合いに出したか。もちろん僕はこの実物には対面していないので単なる憶測に過ぎないのだが、ひょっとすると今回の「春の日は過ぎゆく」で二度に渡って歌われる歌、この「憎くてももう一度」という映画の主題歌じゃないかと思ったわけ。

 で、早速僕はある韓国映画に詳しい方にメールでお尋ねしたのだが、結局その曲が「憎くてももう一度」主題歌かどうかは確認できなかった。その方によると、そもそも「憎くてももう一度」というフレーズ自体が韓国歌謡にありがちなフレーズらしいので、ますます確証が持てなくなったけどね。だが、「春の日は過ぎゆく」で歌われている歌詞(2種類あるのは同じ歌の1番と2番ということなのだろう)の内容を考えると、これが「憎くてももう一度」主題歌である可能性は依然として高いと思われる。「憎くてももう一度」はある会社の社長が妻ある身ながら別の女性と道ならぬ関係となり、子供まで産まれてしまうという愛憎のドラマらしい。だとすれば、これも「春の日は過ぎゆく」のテーマと重なってくる。つまり“時が経てば愛も移ろう”“愛とは危うげなもの”…ということだ(筆者注:本文の最後を参照のこと)

 歌ネタではもう一つ、川でブラスバンドが演奏し、直後のシーンでイ・ヨンエが口づさむ歌が印象深い。これはフランスの古い歌「愛の喜び」だ。エルヴィス・プレスリーの「好きにならずにいられない」の原曲と言った方が早いか。そこで歌われている内容は、“愛の喜びは一時、だが苦しみは一生”…何だか「注意一秒ケガ一生」みたいだが(笑)、つまりはまたしても、“時が経てば愛も移ろう”“愛とは危うげなもの”…ということを表わしていることは言うまでもない。

 長々と例を挙げさせていただいたが、つまりはかなり周到につくり込んである映画なのだ。それなのに、一見極めて自然体に見えるあたりのうまさには驚かされる。しかも観た後かなり経ってからでないと、それが「うまさ」だと気付かないのだ。いかに自然かがお分かりいただけるだろう。

 なるほどその巧みさ、見事さは分かった。そのさりげなさも分かった。

 では、なぜ僕は体調を崩しかねないほど気分が悪くなったのか。

 

別離シーンの不自然さが物語るもの

 この映画は清廉でピュアで自然…何だか健康食品のキャッチフレーズみたいな印象が並ぶ感じの作品なのだが、それと気分が悪くなるというのはどう考えても相反する。最初は見る者の個人的な体験か何かに、この映画がダイレクトに触れてくるからではないかと考えた。確かにこの「実感」だしね。そうなってもおかしくない。だがそういう部分は実際にあるにしても、やはりこの映画にはそれ以外の要素があるように思えるわけ。

 ところで僕はこの映画に再三イチャモンつけているように見えるかもしれないけど、この映画が優れているということについては僕の中で揺らぎがないんだよ。素晴しい。で、それは前述したような「抑制ナチュラル長回し」をやれば必ず達成できるってもんでもない。しかも、尋常ならざる「実感」…これは一体なぜなんだろう?

 一つにはこの映画がホ・ジノ監督自身の物語だということがあるのだろう。これは本人がインタビューで何度も告白している。まぁ、だからと言ってすべてが真実ではないだろうし、何より「自伝的」だから「実感」がある…なんて考え方は「精神論」っぽくて好きではないから、それがすべてだとも思わない。だけど、確かにそういう側面があることは否定できないだろうね。

 でも、それにしたってあの悪寒がはしるほどの異常な「実感」

 遠回しな話はやめよう。この映画をこよなく愛する人からは非難ごうごうになってしまうかもしれないが、ぼくはこの“清廉でピュアで自然”な映画には、ホ・ジノ監督の「悪意」と「怨念」が渦巻いているように思えてならない。

 それは、なぜか? なぜこんなピュアな作品に、僕はこんな言いがかりみたいなひどいことを言うのか?

 イ・ヨンエ扮するヒロインが一見ひどい女にみえるからだ…と、指摘する人がいるかもしれない。勝手に気分が醒めて、他の男と遊んで、それでも主人公を振り回して…それを見ているのが気分悪いんだろうと言われるかもしれない。でもねぇ、僕はこの映画の中でヒロインの心の中はそれなりにちゃんと説明されているように思うよ。実際、程度の差こそあれ女ってああいうものだ。あれにいちいち腹を立てていたら女とは付き合えない。男も40過ぎるとそういうことをとやかく言う気がなくなるよ(笑)。それに、彼女には幾分愛に対してシニカルになったりペシミスティックになったりする動機がある。だから、この映画での彼女の心の動きをどうこう言う気はないんだね。

 むしろ「いかにもありそうな女性心理」として、過去さんざ振り回された側としてはそのリアリティにうなるし、それゆえ「さすがに実話だわい」と思わされもする。

 では、どこが問題か?

 それは二人の関係の最後の最後、ユ・ジテとイ・ヨンエがお互い別れを告げる屋外での長回しのシーンだ。

 ふとした事でユ・ジテのことを思い出したイ・ヨンエが、喫茶店に彼を呼び出して旧交を暖め合おうとする。あげく、「今日一日一緒にいようか」とさえ戯れに言ってくる。だが、ユ・ジテは彼女を拒絶する。断腸の思いがありながら、自分からキッパリと思いを断ち切って別れを告げる。

 これって、全体的に研ぎ澄まされたように自然でリアルなこの映画の中で、妙に不自然なシチュエーションだとは思わないか?

 そこまでのイ・ヨンエのフラついた言動は何となく理解出来るのだ。だが、ここに到ると「おまえ何考えてるんだ」の域に達するんだよね。それがどうにも解せない。

 そもそも女って別れた男…それも自分から切った男を懐かしむことなんてあるんだろうか? しかもその終わりのころはボロボロ状態で、女にとっては幻滅でしかなかったわけだしね。男は懐かしむこともあるかもしれないが、女に普通それはないんじゃないか? しかも自分から相手に会おうとするなんて、極めて稀だと思う。

 そう考えてみると、この二人の関係の終焉場面はいろいろな意味で興味深い。最初の関係がうまくいっていた頃をのぞいて、実は男のユ・ジテは女のイ・ヨンエにコケにされっぱなしだったではないか。彼の自尊心はズタズタだ。一方、彼女は仮に良心が痛むことはあっても(それも極めて疑わしいが)自尊心が傷つくことはなかった。もう一度繰り返せば彼は実にカッコ悪い。一方的にやられっぱなし。

 それが一転。この別離場面では彼女が彼に言いより、彼がそれをつらいながらもキッパリ拒否するかたちで終わっている。終わり良ければすべて良し。サヨナラ逆転満塁ホームランじゃないが、最後の最後での攻守逆転によって、二人の関係がゲームで言えば彼の勝ちで終わったかたちになっているわけ。これがどうも妙だろう?

 この最後の別離。ホ・ジノ監督の実体験だと言っているこの映画の、実は唯一の創作部分じゃないのか?

 ウソと言っては酷なら、「かくありたかった」理想の終わり方とでも言うべきか。

 何しろ最後の頃はストーカーまでいっちゃってるんだから、女の脳裏に残っている印象も最悪なはずだよね。自分も素朴な好青年のはずなのに、そんなザマさらして不本意だったはず。相手の女への恨みもひとしおだよね。ただ、「女が全部悪い」「女が許せない」と言ってしまったんじゃ余計カッコ悪い。負け犬感が深まるだけ。それより何より周囲の人から「いい人」だと思われたい自分可愛さの気持ちも強い。

 そんなこんなで彼が苦汁の末に自分を納得させるべく引っぱり出してきた結論というのが、おそらくは“時が経てば愛も移ろう”“愛とは危うげなもの”…ということなんだろうね。しょうがないんだ、誰が悪いわけでもない。

 でも、それでは自分を癒し切れなかった

 だから最後に女に対して溜飲下げた結論を付け加えずにはいられなかった…というのが、この不自然なシーンがつくられた裏事情ではなかったのか。ちょっとばかり酷な言い方ではあるけれども、そうでもしなければ気持ちのやり場がなかったとでも言うか…。これがそんなホ・ジノ監督の歪んだプライドの産物である理由は、実はもう一つある。

 劇場パンフレットによると、このシーンは2つのバージョンが撮影されていたらしい。一方は現在のバージョンで、別れてから彼ユ・ジテが手前に彼女イ・ヨンエが彼方に去っていくもの。途中から画面のピントがイ・ヨンエの顔からはずれるため、彼女の表情は読み取れなくなる。もう一方はまったく逆で、彼女イ・ヨンエが手前に彼ユ・ジテがが彼方に去っていくもの。ホ・ジノはこの2バージョンを両方撮影しながらどちらとも決めかねて、何と日本でのポストプロダクションでも決めることができなかった。とりあえず後者の彼女イ・ヨンエが手前のバージョンで韓国での試写を行なったものの、結局は現行のバージョンに変更になったという。

 何でこんなことが起ったのか?

 最終的に彼ユ・ジテが手前に歩いてきて、ピントは彼に終始合っているバージョンになった理由を、ホ・ジノ監督は「この映画は結局彼の物語だから」と説明しているんだね。でもねぇ、そんなことは当り前じゃないか? なぜ2バージョンもわざわざ撮らなくてはならなかったのか、なぜ最後の最後まで迷わねばならなかったのか、その理由には到底なり得ないと思うんだよね。あなたが考えたってそう思うだろう? そのどっちをとるか迷ったという一点だけでも、この場面が実話の中の創作部分だったことを如実に表わしていると思うんだよね。他の部分は実話だったから迷いは少ない。だけどこの部分は実際にはなかったことだから、扱いや判断に苦しむのも当り前なんだよ。

 ただ、これだけ迷ったということにはもっと深い事情があるように思う。一旦決めて、試写までやったものをまたはずすんだからね。それでは、なぜホ・ジノ監督はもうひとつのバージョンを捨て難く思っていたのか?

 もう一度考えてみよう。現行のバージョンは、彼ユ・ジテが手前に彼女イ・ヨンエが彼方に去っていく。途中から画面のピントがイ・ヨンエの顔からはずれるため、彼女の表情は読み取れなくなる。その代わり、彼ユ・ジテの表情はハッキリ見てとれる。苦しさをあくまで内面に噛み殺した、男らしい辛い表情だ。不採用のバージョンはこれがまったく逆になるわけだが、それは一体何を意味するのか。おそらく彼ユ・ジテの表情が途中で見えなくなる一方、彼女イ・ヨンエの表情は最後まで観客に見えていることになるだろう。そこで彼女はどんな表情を見せているだろうか?

 おそらくは後悔の表情、バツの悪い気まずい表情、傷ついた表情…がそこには現われたのではあるまいか?

 ここからは極論になるが、ホ・ジノ監督も人間ならばこれはおそらくハズれてはいないと思う。彼は彼女のこのみじめな表情が見たかったのだ。踏みにじられたまごころやプライド、そんな俺の気持ちを思い知れという悪意と怨念が、このシーンをつくらせた。だが、意地悪く言えば周囲に「いい人」に見られたいであろう「八月のクリスマス」監督は、これが自身のエゴの肥大と見破られるのを極度に恐れた。彼女がみじめに去るエンディングを試写会で一度公にしたら、それで自分の気持ちもある程度晴れたのかもしれない。結局、間際に現行のバージョンに変えたというのは、そんな事情なんだろうと僕は思う。

 しかし、ホ・ジノの悪意と怨念は、たぶんそんなものでは完全に収まってはいなかった

 

未だ癒されていないホ・ジノの思い

 悲惨な結末を迎えたホ・ジノ一世一代の愛は、たぶん彼に「恋愛」そのものへシニカルでペシミスティックな思いを向けさせることになったのだと思う。だから、自分がつらい思いをした「あの」恋愛ではない。恋愛「すべて」に対して悪意と怨念を発揮し始めた。映画のところどころに挿入される歌の数々は、まるでお経のように同じお題目を繰り返す。おまけにそこに祖母の愛への絶望が、まるで全体の補強材のように仕掛けられている。“時が経てば愛も移ろう”“愛とは危うげなもの”…そして二人の「あの」恋愛が、研ぎ澄まされた表現とリアリティと、何よりホ・ジノ監督がたっぷり塗り込めた「実感」でもって、まるで世の中の恋愛全般に普遍的なものであるかのように観客の胸に届く。静かで端正な作風、抑えた描写ゆえにそれはあざとくは見えない。受け取る側もまさかそんなことを言っているとは気付かない。しかもこれはあくまで男側からの実感だから、ひょっとすると恋愛映画の主要観客たる女には極めて届きにくい信号かもしれない。だが、それはサブリミナル効果のように、静かに確実に見る者(特に男性観客)の胸に浸透する。恋愛そのものに憤りと無念を抱いた、ホ・ジノの呪いであるかのように…。「恋愛なんて無駄だ、恋愛なんてしない方がいい」…先ほど挿入されたフランスの歌「愛の喜び」を紹介する時、交通標語「注意一秒ケガ一生」を引き合いに出したけど、たぶんそれはあながちハズれてはいまい。ホ・ジノ監督はその傷ついた心の痛みを抱えたまま、行き場のない悪意と怨念をぶつけて交通標語よろしくこう言っているのだ。「気をつけろ! 恋愛なんかに溺れるとロクなことはないぞ!」

 およそ100年の歴史を通して、映画はその黎明期から一貫して「愛の物語」を描き続けてきた。例え作品としては「愛の不毛」を論じてはいても、愛そのものに否定的な作品と言うものは存在し得なかったと思う。あるいは作品としてはそう訴えてはいても、つくり手の愛を信じたい思いは、隠しきれずにこぼれ出しにじみ出していたように思う。しかしこの作品は、映画の歴史100年を通じて初めて、恋愛の否定を前面に押し出して悪意を持って言い切ってしまった映画かもしれない。僕は大袈裟に言ってないよ。それが、見た時に僕が感じた“いたたまれなさ”なんじゃないかと思ってる。

 でも、この映画は外見的にはとてもそんなヤバい作品に見えない。何しろ恋愛真っ最中の描写は、それこそ溢れんばかりの「愛の喜び」に満ちている。それが映画の後半では徹底的に否定されてしまうのが怖いところなのだ。彼の静かで押さえた上品な話法や美しい意匠によって、あたかも「愛の美しさ」を描いているかのように見えるのが、彼にとって幸運でもあり不幸でもあるんだろうね。

 そしてここまで見てくると、あの前作「八月のクリスマス」ですら、まったく違う見え方をしてくるのだ。秘めた想いを女に伝えて愛を成就させることもなく、自らの不治の病いについても何も告げぬまま、黙ってこの世から去って行った主人公。観客はみんなそれを、女を苦しめたくないがゆえの沈黙だったし、想いを秘めているからこそ美しい…と納得した。しかし、本当にそうだったのだろうか? ひょっとしてあの抑えた演出、ハン・ソッキュの控えめな演技に惑わされて見えなくなっていただけで、実際のところはこう言っていただけではないのか。女に何を言ったところで意味がない、恋愛を成就させても仕方ない…女の気を惹きながらも何も告げずに去ってしまうのは、一見男の愛情と受け取れはするが、ある意味で男の傲慢と言えなくもないじゃないか? それは男の側が一種の精神的な絶対優位に立った状況だからね。「春の日は過ぎゆく」の男女の別離シーンをもう一度想起してほしい。ホ・ジノは男が精神的に劣勢の状況で、事が終わってしまうのがイヤみたいなのだ。それは、彼の心の痛みに一番触れるところなんだろう。だから、もしホ・ジノがこの点を指摘されて図星だったとしても、彼は絶対に否定するに決まっているだろうけどね。

 いろいろ勝手なことを並べてきたが、僕は決してホ・ジノの人格を揶揄しているわけではない。理不尽きわまりない事の成り行きへの憤りや哀しみ、心の傷は誰にでもある。それが作品のかたちで表出することは何らおかしなことではない。もし僕がここまで述べてきた予想が当たっていたとしても、彼の気持ちは人間として至極当然で当り前のものだからだ。

 この映画が気に入っていて、僕の言い分が邪推に過ぎないと思われる方も、彼にこの作品をつくらせたモチベーションが何だったのかを考えていただきたいと思う。僕の意見と全く同じ結論ではなかったとしても、そこでホ・ジノの癒し難い心の痛みに思い到ることができるならば、彼に対する人間としてのシンパシーが増すのではないだろうか。僕もその卓抜した映画話法や技法に感心するとともに、そうまでして自らの痛みを表現せざるを得なかったということに、彼の自身への誠実さへに対する一種の感銘を受けとらずにはいられない

 ただ、ホ・ジノが自分のそんな感情を意識してこの作品をつくり上げたのだろうかという点については、実は疑問が残る。おそらくは自身のネガティブな思いにはいまだに気付かぬままであるというのが本当のところではないか? 表現を突き詰めていったその先に図らずも露呈してしまった本音…それがこの作品であるように思う。それは、何かを作品化しようとした時に必ず起きることだ。あえて言えば、僕にこの文章を書かしめたのも、そんな潜在意識の中の何かであると言えるかもしれない。それは言ってみれば腹わたのようなものだ。そんなはみ出した腹わたに、僕は思わず目をそむけたくなった、気分が悪くなったというのが本当のところだろう。

 そしていくら気付かなかったとは言え、ホ・ジノ自身もそのどこかデモニッシュな感情、忌まわしい何かは感づいていたのかもしれない。あれだけ繊細に緻密に映画をつくる彼が、エンド・クレジットとは言え松任谷由実作曲の甘ったるい主題歌を免罪符のように許したのも、彼の内心の困惑や焦りがさせたものかもしれないと今では思う。

 あのラストシーン、自然の中で満面の笑みを浮かべている主人公のショットも、そう考えれば余計に痛々しいではないか。あのショット、それまでの恋愛の物語が哀しくも美しく描かれているために、主人公がすべてに納得がいって、美しい思い出として受け入れるに到ったと見えなくもない。

 だが、本当にそうか?

 俺には音=映画があるからそれで満足だ…と言っているようには見えないか? 恋愛なんてもうなくていい…と言っているようには見えないか?

 あえてあの主人公の「納得宣言」とも言える微笑みのショットを入れずにいられなかったことが、何よりそれを物語っているとは言えないか?

 癒やされていないからこそ、大丈夫と言わずにはいられないのだから。

 

 

 

 

(筆者注:この映画で歌われた「憎くてももう一度」なる歌については、韓国映画と歌と本が大好きなてじょんさんのサイト「てじょんHP 韓国映画と歌」に興味深い記事が載っていますので、ぜひご覧ください。)

該当記事はこちら

韓国映画と歌(23) 「憎くてももう一度」 〜「春の日は過ぎ行く」より

てじょんさんのサイトの玄関はこちら

てじょんHP 韓国映画と歌

http://member.nifty.ne.jp/taejeon/index.htm

 

 

映画「憎くてももう一度」についての当サイト感想文

(DAY FOR NIGHT - Archives」内に収録)

http://members6.tsukaeru.net/sammy/archive/again.html

 

 

 

 

 

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