「ワンス&フォーエバー」

  We Were Soldiers

 (2002/07/08)


人が生きるか死ぬかに直面した実感

 僕の父親が重病に陥り、手術を受けることになったのは1999年の秋のことだった。その日のことをかつての母の眠りの感想文に書いたのは、みなさんも覚えていらっしゃるかもしれない。

 元々わが家では肉親が大病にかかったり手術を受けたりといった経験がほとんどなかった。だから、大病院に入院だ手術だというだけで十分重苦しい気分になっていたところに、僕と母親とを待っていたのは担当医師の冷徹な宣告だった。

 今回手術することになっている患部は、場合によっては命に関わる箇所でもあった。一応その部分を切除すれば安全ということだったが、実は手術によって開胸しなければその実態は完全には分からない。場合によっては予想以上に患部が広がっていて、手術はしたものの切除不可能な場合もありえる。例え切除出来ても、病気の進行具合によっては手術中に容態がどうなるか余談を許さない。つまり実際にメスを入れなければ、手術の行方は分からないと宣告されたのだ。事によっては手術途中で中断し、僕ら肉親への確認を経てからしかるべき処置をすることになるかもしれない。これはさすがに僕も母親もこたえた。

 実際の手術当日、僕と母親は朝から病院に行き、父親が手術室に消えてからは待合室に待機していた。成り行きによっては肉親として何らかの意思表示や決断や承諾をしなければならない。だから僕らは手術が終わるまでは、必ずその場に居合わせなくてはならなかったのだ。だが途中で呼び出しがあるということは、すなわち手術の失敗を意味しているはずだ。少なくとも当初の予定通りの手術続行に支障があるということだろう。これだけで肉親にとっては十分だ。僕らは医師の呼び出しがないことを祈った。そして、「そんなことは絶対にありえない」と思い込もうとしていた。

 だから、朝から何も食べてない母親を食堂に行かせた。呼び出しはありえないんだから何も問題はない。僕は文章を書くことで必死に気を紛らわしていたが、そういう時には気を紛らわそうとすればするほどその事ばかり頭に浮かんでくるもんだ。

 気付いたら僕の前に看護婦が立っていた

 たぶんあの時、僕は口をポカンとバカみたいに開けていただろうと思う。ありえないこと、あってはならないことが起ったんだから。空しく回りに目をやったが、母親はまだ戻って来ていない。口の中がカラカラに乾いたのは、たぶん大口を開けていたからだ。看護婦は無表情に、全く抑揚のない口調で言った。「先生が呼んでいます」

 俺がそれを聞かなきゃダメ?

 我ながら40に届こうという大人の思うことではないと思った。だが、その時にはそれが正直な気持ちだった。俺は何て言えばいいんだ。分かりました先生、諦めます…か。どうぞ先生、いっそのことバッサリやってください…か。それより何より決定的な「あのこと」を聞かされたら、俺はいったいどうすればいいのだ。情けないと言わば言え。俺は自分の両肩に、自分の肉親に限らず、誰かの命を乗っけられたことなどなかったのだ。

 看護婦の後について病院内を歩いていく間…その時間の長さたるや永久に続くかに思われた。だがそれと同時に、手術室には自分が望んでいるより早く着いてしまうことも分かってはいた。その間にさまざまな思いが脳裏をよぎり、まとまった考えなど出来ようはずもない。その時の自分の気持ちは今でも鮮明に覚えている。それは自分や、運命や…ひょっとしたら神と、何かの奇妙な取り引きをしているかのような感じだった。ひょっとしたら何とかならないか、ムリ?そこを何とか…じゃ、あと1年、ダメ?ならばせめてあと半年。それもダメ…。手術室に向かっていく間、僕はシタタカな外国人観光客の前に立った秋葉原電気街の新米店員みたいに、ただなす術もなく“値切られて”いった。

 不思議なものだ。手術室までのコースとそこに行き着くまでの所要時間を計ったわけでもないのに、待合室の椅子から立ち上がって手術室にたどり着くまでの間に、僕はきれいなほどピッタリ自分のはかない希望を剥ぎ取られていった。手術室の前にはオペの服装の医師が立っている。その場に僕がたどり着いた時には、ある種の諦めと現実を受け入れる気持ちで僕の心は満たされていた。仕方がない、これが現実なんだ、納得するより他ないんだ。

 医師の言葉にはただ「分かりました」と答えるつもりだった。もう何を逆らってみても始まらない。医師は紙に患部の絵を描いて、手術の経過を説明し始めた。おいでなすったぞ、分かった分かった。いかにこの手術が難しくかつ危険でリスクのあるものだったか。いかに事前にはそれを知ることが出来なかったか。つまりは最悪の事態も仕方なかった、俺は悪くないと言いたい訳だね。五十歩譲ってこういう事情だから、肉親の方も諦めつくだろうとそういう訳か。分かってる、俺はもう抵抗しない。だからひと思いでズバッと言ってくれ。

 「…で、手術は成功しました

 その瞬間、またしても僕は口をポカンと開けたままで立ち尽くした。…と思う。実はその時のことはよく覚えてない。ただ、何だか頭も体も固まってしまって動かなくなったような気がした。嬉しいより何より、二階に上がって梯子をはずされたような気持ちとでも言おうか。嬉しかったことは嬉しかったし、何より安心したのだろうが…。

 我に返ってまず最初に胸に沸き上がったのは、腹にずしんと感じたのは、今までにないほどの深い怒りだった。わずか待合室から手術室までの短い距離と時間。だが、その間に俺はどんな思いをしたと思う。冗談抜きでその時に、自分の一生ぶんくらいの時間が流れたよ。事前になぜ手術が成功でも失敗でも呼び出すと言わなかった。なぜ最初に声をかけてきた時に、それを伝えてくれなかった。おまえらは一体俺に何をしたと思う? 一人の人間の気持ちを徹底的に弄んだんだぞ!

 ここは病院、今は父親の手術中。だから僕は不満を口にせず、黙ってその場を去った。だが、これが自分の家で父親もすでに無事だったら、僕は確実にあの医師に怒鳴り散らしていただろう。手術というものはそういうもので、そこで怒るのは筋違いだとご指摘の事情通の方もいらっしゃるかもしれない。だが僕らは知らなかった。

 そしていかに理不尽であろうとも、思慮を欠く振る舞いかもしれなくとも、あの感情の爆発は僕の本当の気持ちだったのだ。

 一人の人間が生きるか死ぬか…「そんな時」に直面した人間の実感として。

 

軍人であり父親であることとは?

 ここはベトナム山間部にある谷、イア・ドラン。今は静けさに包まれたこの谷に、過去に激烈な戦いが行われた跡は跡形もない。だが、それはかつて確かにあった。その発端は遡れば限りがない。だが、あえてこれと挙げるとするならば、1953年にここベトナムの地であった、ある戦闘に端を発すると言えなくもない。

 それは行軍中のフランス占領軍の一隊に突然襲いかかってきた、北ベトナム軍の猛攻だった。突然灌木と草むらから出現した北ベトナム軍兵士たちが、あっという間にフランス軍を殲滅。わずかに生き残った兵士たちも、見せしめのためにすべて殺された。それはまさに対共産圏陣営としては衝撃的事件だった。

 1964年、ベトナム解放を求める戦いは激しさを増し、アメリカもここに介入を余儀なくされることとなった。緊張が高まるアメリカ軍フォート・ベニング陸軍基地に、今まさに一人の男が家族を連れてやってくる。これぞ朝鮮戦争はじめ歴戦の勇士として誉れの高い陸軍中佐メル・ギブソンその人だ。だが、彼が連れてきた妻マデリーン・ストウや5人の子供の前ではごく普通の家庭人。そんなコワモテの表情など素振りも見せない男だ。

 だが彼は、アメリカ軍のベトナム戦争介入という命題を掲げられ、そのために何をなすべきかを求められてこの基地へとやって来た。あのフランス軍がひとたまりもなく敗退した猛攻北ベトナム軍。それは決して侮るべき相手ではなかった。アメリカ軍のこの戦争でのカギはヘリコプター…山間部と谷とジャングルに囲まれた難所を戦い抜くにはこのヘリ部隊の力が重要視される。かくして基地内でも命知らずの勇者として知られるヘリコプター・パイロットのグレッグ・キニア少佐に、真っ先に声をかけるギブソンであった。そして、キニア少佐もこのギブソンの名誉ある誘いに応える決意をした。

 ギブソンは片腕であるサム・エリオット上級曹長とともに、まだ実戦経験の乏しい士官たちに戦場での心得を伝授していく。戦場に着いたら、まず自分が一番先に降りたって部下たちの志気を鼓舞しろ。それはギブソン本人が常に戦場で実戦している心得でもあった。

 続々と基地に集結する新兵たちを鍛えるのは骨の折れる仕事だったが、その中からもギブソンが期待を持てる人材が育ってきていた。その中でもクリス・クライン少尉は若くして隊長としての器を感じさせる人物として、ギブソンも一目置いていた人物だ。

 一方ギブソンの妻ストウも、銃後の妻の心得を兵士の妻たちに伝える婦人連中の要として貢献していた。そんな妻の協力や家族の存在をありがたく思いながら、ギブソンにはどうしても今回の戦争を考えた時、気の晴れない一点が残った

 フランス軍が全滅。全員が虐殺された。その果敢にして大胆にして徹底的なやり口。明らかに今回の敵は手強い。そんな折り、末娘が彼に素朴な問いを発する。「戦争ってなあに?」

 人と人とがどうしても起こしてしまう争いであり、そのために人が人を殺す。自分のことを殺そうとする者もいる。…そんな単純な問いに分かりやすく答える時、ギブソン自身その事を自らに問い直さずにはいられない

 しかも今回、ギブソンが率いるのは第1騎兵師団第7騎兵連隊。第7騎兵隊とは何と皮肉な巡り合わせか…ギブソンはアメリカン・インディアンとの戦いで非業な最後を遂げたカスター将軍率いる第7騎兵隊を想起せずにはおれなかった。

 そんな折りもおり、ギブソンが目をかけていたあのクライン少尉の妻ケリー・ラッセルが赤ん坊を出産する。教会で一人祈るクライン少尉のもとを訪ねたギブソンは、クライン少尉にも素朴な疑問を投げかけられる。「軍人であり父親であるということとは?」

 だが、それにギブソンが答えられるわけもない。ただ共に神に祈るだけだ。

 兵士たちの壮行会の夜、ギブソンは上官に自分の思いをぶつけずにはいられない。「上の人間は朝鮮戦争から何も学んでない」…だがそんな彼も一兵士である以上、黙って戦場に赴くより道はないのだ。

 出陣式の壇上でギブソンは、せめてもの自分の思いを託して語った。「私は戦場に誰よりも先に立ち、誰よりも最後までとどまることを誓う。そして生死に関わらず、誰一人置き去りにはしない

 ギブソンもそして他の兵士たちも、妻や家族を家に残し、静かに戦場へと出かけていった…。

 同年11月、ギブソンはじめとする部隊は、ベトナムの前線基地にいた。そして、ある運命の出撃命令が下る。2日前に米軍キャンプを攻撃し、そのまま山間部イア・ドランの谷に逃走した北ベトナム軍の部隊を攻撃するというその命令に、ギブソンは何とも釈然としないものを感じていた。米軍キャンプを襲撃した北ベトナム軍は、何者も傷つけることなくその場を逃走した。これは米軍を山間部におびき出すための罠ではないのか。そして、敵の戦力はまったく分からない。だが命令は下された。ギブソン率いる部隊はヘリでイア・ドランの谷の「X-レイ」と称する着陸地点にやって来る。部隊はあたり一面に銃弾の雨を降らせながらその場に降り立つが、そこは恐ろしいほど静まりかえっていた。

 おかしい、何かある

 あたりを偵察に行った一団は、やがて斥候の北ベトナム兵士を一名発見。これを捕らえようと山にどんどん入って行った。一方、着陸地点付近にとどまった残りの部隊は、さらに一人の北ベトナム脱走兵が潜んでいるのを発見した。この兵士を無理やり問いつめてみると、山には大部隊が潜む北ベトナムの秘密基地があると言うではないか。やっぱり罠だった!

 ギブソンが北ベトナム斥候兵を追って行った一団に引き返すよう指令を出したちょうどその頃、当の彼らは灌木に潜む北ベトナム軍たちに迎え撃たれていた。不意を突かれて慌てる米軍兵士たちからは負傷者が続出。彼らは付近の小高い丘の上に避難するが、そこに孤立したまま一歩も動けない状態になってしまった。

 着陸地点付近にいた残りの部隊も、次々と雲霞のごとく押し寄せる北ベトナム軍の兵士たちの猛攻にたちまち押される結果となった。負傷者は続出。阿鼻叫喚の中、グレッグ・キニアはじめヘリ部隊は、必死に物資や増援部隊と負傷者のピストン輸送を続ける。だが激しい銃弾の雨はヘリにも襲いかかり、墜落するヘリも出てくる始末。

 地下壕の秘密基地に隠れて指令を出す敵司令官ドン・ズオン中佐は、米軍の次の一手次の一手を読みつつ、次々圧倒的人海戦術で攻撃を続ける。その敵の動きをさらに読みながら手をうつギブソンにも、米軍の劣勢は明らかだ

 負傷者を基地に送り返しては、さらに増員部隊と物資を運ぶグレッグ・キニアのもとに、UPI特派員のバリー・ペッパーが戦場に送ってくれと頼み込む。「死にたいなら来い」とのキニアの言葉にヘリに乗り込んだペッパーの見たものは、まさにこの世の地獄としか言いようのない戦場だった…。

 

時代遅れで凡庸な作品となる予感

 最初にこの映画の予告編を見た時には、作品的にここのところツブぞろいなメル・ギブソン主演作と言えども、ちょっと心配になったんだね。ベトナム戦争話でしかもかなり兵士の家族の話も出てくるみたい。兵士は大変だった、銃後の家族たちも大変だった…というのは理屈では分かるものの、それを今どういうかたちで映画にするのか。何となくアメリカ・ワン・サイドの映画になってしまっているのではないか。それも戦場の兵士たちをドキュメンタリー的に活写するならともかく、これはどう見てもアクションスター、メル・ギブソンのスター映画であることが前提の映画にならざるを得ない。そうなれば、メルギブのヒロイズムを賛美したものになるしかないではないか。どう見てもよき家庭人であり、立派な軍人然として描かれている様子のメルギブを見ると、ますます兵士たちはかく戦った…的な軍人魂賛美の映画になるしかないだろうと思われた。あるいは兵士たちはかくも悲惨な犠牲を払った…的な悲壮感を、戦った相手の犠牲をまるっきり無視したかたちの一方的被害者意識で盛り上げた映画になるに違いない。それって、これだけ戦争映画にも複雑な視点が要求され、事実さまざまな視点で描かれた作品が登場した今、どう見ても古色蒼然たるシロモノにしかなりえないのではないか。そこに「反戦」がとって付けたように描かれることがあっても、せいぜい兵士が受けた苦痛から描くしかないではないか。それもアメリカ軍人たちの…。

 これが実際の戦闘で戦った軍人が記した実話ベストセラーの映画化と言うのも、イヤな予感のひとつだ。軍人の視点で描かれた場合、当の軍人が戦争に懐疑的になる以外でヒロイズムを描くのは、英雄的犠牲的行為以外あり得ないんじゃないか?

 すでに戦争アナクロニズムは到底受け入れられる余地はない。まして過ちとの評価が定まったベトナム戦争に、今さらジョン・ウェインの「グリーン・ベレー」的視点が許されるわけもない。徹底的なゲーム性の面白さで描くには、ベトナム戦争はフィクショナルな視点を持ち込みづらい。そして今や単に「反戦」と叫ぶことさえあまりに単細胞的に見える、戦争を敵だ味方だ善だ悪だという切り口で見ることが難しくなったご時世だ。一体この題材でどう料理するのか。

 監督・脚本がランダル・ウォレスというのも、評価を難しくしそうな点だった。脚本家として「ブレイブハート」という自由と抵抗の英雄談を堂々たる風格で描いた彼。監督としても「仮面の男」でキッチリ娯楽映画のツボをはずさない仕事をした彼。だが、「ブレイブハート」の自由と抵抗とヒロイズムがアメリカ独善主義の方向に傾けば、これはこれで妙な姿勢の映画が出来上がりかねない危険性はある。「仮面の男」の豪華スターをうまく使った娯楽職人ぶりも、戦争をシリアスに描こうという時には足かせになりかねない。まして今回は主役の「アメリカ軍人」にメルギブというビッグスターを起用しているのだ。彼がダーティーな役柄になるとも思えなかったし、彼をヒーローとしてうたい上げるならどうしてもアメリカ万歳にならざるを得ないではないか。あるいは悲壮な愛国心をかきたてるか。しかも間の悪いことに、ウォレスは昨年の「パール・ハーバー」の脚本家でもある。あの映画のズレた感覚でベトナム戦争を描くと考えると、これはどう見てもロクなことにならない。へたすれば偽善の臭いがプンプンする作品になる可能性が高い。

 ここ最近の出演作を見ると、絶妙のバランス感覚と自分のスター・イメージをうまく両立させて、質の高い娯楽作品を送り出してきたメルギブ。だが、今回はちょっとマズかったのではないか。まぁ、この作品を見る前の僕の予感というのは、ざっとこんな感じだったわけなんだよね。

 ところがいざ映画を見た人に話を聞いてみると、予想通りの悪評にまじって意外に評価する声も聞かれるのだ。はてさてこれはどうしたことか? これだけ難しい要素が絡むこの作品を、一体どうさばいたのか?

 結果から言うと、僕が先に挙げたさまざまな予想はほとんど当たっている。メルギブはよき家庭人で立派な軍人、映画の視点は基本的にアメリカ側から描かれる(アメリカ映画だからこれは当たり前)。兵士は大変だった、銃後の家族も大変…も、まさにその通り。 では、やっぱりこの映画ダメだったのか?

 いや。これがなぜか好印象なんだよ。しかも、ある種の感慨もある。

 ではどうやってアナクロニズム映画から脱することが出来たのか? さらにどうやってとってつけた反戦メッセージからも脱することが出来たのか? …問題はここだよね。僕もどうしてそうなったのかが最初は分からなかった。そこでよくよく考えてみたわけ。

 するとまず当り前のことながら、何と言っても戦闘シーンの激烈さが映画の出来に貢献していることを言わないわけにはいかない。

 これは「ブラックホーク・ダウン」の時も言ったことで、またしても月並みな評価になってしまうのだけど、意表を突かれた作戦、圧倒的人海戦術、地理的な不利などなどによって、たちまち劣勢に立たされる米軍から見た戦闘の地獄絵図を、圧倒的なリアリティで見せることが出来た点でまずは成功と言わざるを得ない。それはあくまで生理的感覚的な衝撃であり、かつ米軍ワン・サイドのものとは言え、見ているうちに有無を言わさぬ厭戦気分に陥ってくるのは必至。まずはこれをキッチリ描き込めなきゃどうにもならないよね。 おそらく強烈な撮影技術と音響技術を駆使できるようになった現代映画は、このあたりまではどうやっても無条件で出来るみたいだ。ただ、これだけでは単に厭戦ムードがイヤ〜な気分と共に広がっていくだけにとどまるんだけど。

 そして激烈な戦闘シーンの真っただ中で、映画はいきなりアメリカ国内で夫たちの帰りを待つ兵士たちの妻に場面を転じる。予想外の苦戦に手配が後手後手になった米軍が、兵士たちの訃報をタクシーで運ぶテイタラクになった時、メルギブの妻マデリーン・ストウがそれらの自分で家族に手渡しに行くことになる。しかもこの場面が意外に長い。

 戦闘場面の途中にいきなりこんな場面を挿入するなど、通常で考えれば緊張感がそがれてしまうので避けるはず。だが、そもそもこの映画の作者たちが描きたいのはそんなものではない。兵士の視点で映画を語るというのは、ドキュメンタリー的発想で戦争を再現しようということではない。兵士一人ひとりに密着して戦争を語ろうということなのだ。それは兵士が「兵士」という集団のその他大勢として描かれるのではなく、個々の個人として描かれることでもある。兵士たちはそれぞれ家族もいる。そこらにいる普通人と変わりない。決してアクション映画で、バタバタと倒れるエキストラ的存在ではないと、ここでは語ろうとしているのだ。 エンディングに出てくるワシントンD.C.の戦没者の名前が刻まれた石碑の意味は、まさにそういうことなのだろう。

 ただ、国内で兵士を待つ家族たちを描いた戦争映画など、実は別に珍しいものじゃない。そもそもそういう手法そのものが、いまや古くさく平凡なものという観がある。“家族を出せば兵士たちの背景が描かれる”なんて偽善的で月並みで取ってつけたような発想だ…たぶん今どきの観客は、戦争映画の中に「銃後」を描くことについてこのような印象しか持たないように思える。だからこそ激烈戦闘場面が始まった最初の頃、その最高潮の瞬間にいきなりパッと大胆にも国内場面にふってしまうという、他に例を見ないような意表を突いた場面転換をやってのけたのではないか。今時のひねくれて斜に構えた観客相手にオーソドックス・スタイルの映画を改めて見せるということは、並大抵の苦労ではないのだ。

 そしてこの映画のさらにすぐれた部分は、作者たちが北ベトナム軍兵士の存在を描く、その描き方にある。

 実はアメリカのベトナム戦争映画で、北ベトナム側の兵士が画面にハッキリと登場するものは少ない。どこからともなく弾丸が飛んできて、爆弾が炸裂する。もちろん突撃してくる兵士たちは登場してくるが、それらは宇宙人やゾンビと何ら変わりがない。まるで人格がないのだ。「地獄の黙示録」から「プラトーン」、「フルメタル・ジャケット」に至るまで、その点では見事に一致している。それはベトナム兵が実際に闇やジャングルに紛れて攻めてきたからでもあり、アメリカ軍にとっては得体の知れない未知の敵でもあったわけだから、そう描くしかなかったのかもしれない。実感としてはまさにそうだろう。

 だが今回は、地下壕の基地の中の北ベトナム司令官がちゃんと登場し、彼が知恵を絞り焦燥にかられながら指令を出す場面が描かれる。それと平行して米軍のメルギブが、敵の動きを読みながら次の手を考える場面も登場する。このことから、北ベトナム司令官がある意味でメルギブと同格の位置づけをされていることは明らかだ。しかもメルギブが戦闘の後にある種の感慨を抱く場面の後に、やはりこの北ベトナム司令官が深い哀しみを抱きながら戦場を歩く場面が登場する。この北ベトナム司令官に「季節の中で」のシクロ乗りでいい味出していたドン・ズオンを起用しているあたりに、この映画の本気を感じるんだね。しっかりとした格を持った役者を据えて、北ベトナム側にもある程度のボリュームを与えようとしているのを感じる。

 それだけではない。北ベトナムの一兵士が妻の写真を胸に、決死の突撃に赴く場面も出てくる。この兵士はその後メルギブに襲いかかって、呆気なく殺され画面を去る。普通の映画なら映画が終わった時に誰も彼の存在など覚えてないだろう。だが、ヒーロースターに一瞬に殺される存在にも妻がいて、映画の終わりにはその訃報を受け取る妻本人も画面に登場する。それはアメリカ国内で訃報を受け取る米兵の妻たちとどこも変わりない。ここが最も重要だ。

 そんな敵側の描写も挿入してバランスをとったつもりの偽善映画なんて山ほどあるとおっしゃる向きもいるだろう。そんなもの「良心的な作品」を装おうとした戦争映画が使う、最も平凡な手法ではないかと指摘される方もいるだろう。確かにおっしゃる通り。実はこの点についてはさらに後述するのだが、とりあえずここではその「狙い」だけでも明快にしておきたい。

 この北ベトナム兵士側を描く場面は、確かに米兵のドラマと比べるとごくわずかの比重しか占めてはいない。だが、その描かれ方が明らかに両者呼応して描かれているために、敵味方双方に同じようなドラマが同じだけあったの違いないと想像することが出来る。もう一つ例を挙げよう。米軍のナパーム攻撃で身を焼かれもだえ死ぬ北ベトナム兵士の描写があった後で、今度は味方のナパーム誤爆で大やけどで死んでいく米兵の描写がこれでもかと連続して描かれる。この痛み、この惨たらしさを見た時、当然同じ目にあったはずの北ベトナム軍兵士たちの苦しみも理解できる仕掛けになっているんだね。

 それもこれも、敵も味方もいわゆる「兵士」というワン・オブ・ゼム的くくり方で見ないで、それぞれ名前があり、家族がいる、ちゃんとした個人なのだということを見せたい…という姿勢の表われなのだ。最初は胡散臭い企画になりかねないと危惧した「兵士」からの視点というこの映画のコンセプトが、こういう意外な描写や方向性を生んでいると気付いた時には、ちょっと僕も驚いたよ。

 思い起こしてみれば、僕らは意外に「兵士」の目で見た戦争映画を大して見ていないのかもしれない。やたら勇ましい映画もあったけど、あれはもっと上の人間が戦意高揚や自分の思想の正しさを掲げるためにやったことで、実はよく考えれば真の「兵士」からの視点ではありえないよね。イデオロギーを前面に出したものもしかり。「反戦」などと理屈が勝ったものも、それはたぶん戦場から遠く離れた僕らのような人間が言うことだろう。最初から好戦的姿勢や反戦思想を前提として存在して組み立てられたドラマは、たぶん理屈から入ったがゆえの限界がある。正しいとか間違っているとか、そんなことは弾丸が飛び交っている現場では誰一人口に出すはずもないだろう。そういう意味では、この映画は希有なケースかもしれないのだ。

 

月並みや偽善とは辛くも一線を画する

 ただ実際のところを言えば、“兵士の目の高さで描く”“兵士一人ひとり個人レベルで描く”“敵も人格を持たせて描く”…などという演出意図や製作意図は、だいぶ前から戦争映画ではバカの一つ覚え、決まり文句のように言われていることだ。戦争映画をつくる製作者たちは、大概の場合そう主張する。だが、それが本当に実行されている作品は少ないんだよね。ま、それって正直言って、大抵はキレイ事だからなんだろうね。それでは、なぜ今回の作品ではそれが単なるお題目に終わらず、ある程度作品として結実したのだろうか。

 その前に、真摯な戦争映画であろうとすることと、メルギブのスター映画であるという矛盾点について考えてみる必要がある。

 今回の映画の兵士一人ひとりをミクロに描くというスタンスは、実は普通に考えればヒーロー=メルギブ映画の在り方としては極めて矛盾している。だから本来ならバランスを崩した作品になってもおかしくない。ではメルギブをヒーローとは描いてないのかと言えば、むしろ逆にメチャメチャに賛美して描いているのだ。華も身もある勇者。何しろ戦場で兵士がバタバタ倒れていく中で、勇ましく仁王立ちしているにも関わらず流れ弾一つ当たらない(笑)。何と平然と戦場に立ちはだかるメルギブの体を弾丸がかすめながら本人平然…ってな“超人ぶり”を強調する描写があるのだから、作者たちは気付かなかったわけでもウソで観客を丸め込もうとしたわけでもない。これは確信犯としてやっている

 …というか、ここまで人間としても軍人としても素晴しく、弾丸さえ避けてしまうような男は、もはや人間とは言えないではないか(笑)

 もし兵士をミクロに描く=戦場をリアルに描こうとすると、普通に考えれば上官メルギブを描くにもきれい事では済まなくなる。だがこれはあくまでメルギブのスター映画であり、演じるのはこの物語の原作者の役だ。リアリティのためとはいえ汚すわけにはいかない。またここで下手にそれをやると、この作品に別の方向(単純でステレオタイプな戦争批判)を持ち込みかねない。やれる事は限られている。ならばどうするか? そこで作者たちは逆の極端を狙ったのではないか? いっそ徹底的に人間業でないほど賛美してしまう。そうやって、完全に周囲の兵士たちとは別格の位置付けに置いてしまう

 ただし、それを現実味ある戦場や兵士の中に置いたら違和感ありすぎだ。だからこの主人公から一切の生臭い主張や行動を剥ぎ取った。すると、それはもはや人物ではなくイコン化された理想的軍人像だ。

 考えてみると、この映画の戦闘中に兵士の士気を鼓舞し、戦場の実体を把握し、さまざまな指示を小出しにしているメルギブは、意外にもあまり実際の戦闘行為に深く関わっていない。それよりも彼の会話や指示やつぶやきが、この映画のメッセージを間接的に伝えるかたちをとっている。しかも注意深くこの映画でのメルギブの台詞を聞き取っていくと、意外なほど彼の意見や主張が少ないことに気付くはずだ。

 映画が彼のナレーションにより始まるのも象徴的。それも個人的回想と言うより、まるで「天の声」みたいな内容だ。もはや彼は一般的な人物ではなく記号だから、それは「あり」なのだ。そう、彼はその英雄的なヒロイズムで賛美されながらも、生臭く能動的に行動する人間というより物語の「狂言回し」的役割をふられているんだね。考えてみればそれは当り前だ。彼は「原作者」の役なのだから。

 だが、そんな“物語の「狂言回し」的役割”であり記号化された存在として描かれてしまうと、普通は薄っぺらで軽量級なキャラになってしまいがちなところ。それではスター映画=娯楽映画としては困る。ここはメル・ギブソンという、華があってボリューム感があり、なおかつ体温を感じさせる俳優の存在で何とか踏みとどまった綱渡り的な部分だったのではないかな。だから、ヒーロー=メルギブ映画にして兵士のミクロな視点で描く映画という、矛盾する要素を何とか共存させることが出来たのだろうと思う。

 そしてそんなヒーロー=メルギブ映画だから、その見事な男ぶりに惚れ惚れしながら見てしまう。本来、戦場のリアルをひたすら厳しく見据えるなら、正直言って気が滅入ってウンザリもしてくるだろう。この映画はそのあたりを面白さ楽しさでくるんで見せる。そんなもう一方の矛盾した要素を両立させてもいるんだね。

 そして「敵の人格」も描くという手法…これって前述のごとくアメリカ製ベトナム戦争映画ではたぶん初めて。さすがにベトナム戦争から長い年月が経ち、アメリカ社会が成熟してきたからこそ出来るようになった描写ではあるんだろうね。僕らには簡単なことのように思えるけど、アメリカ社会ではこれ結構大変なことじゃないのか?

 ハッキリ言って、ベトナム戦争に限らなければ敵兵の場面を挿入した戦争映画はザラにある。そして実はそれらの大半は、取ってつけたような描写に終始して失敗してしまっている。現に悪名高いあの作品、今回の作品の監督ランダル・ウォレスが脚本を手がけた「パール・ハーバー」でも、山本五十六らの作戦会議やら決戦に備えて覚悟を決める日本の飛行兵らの姿がとらえられてはいる。だがそれらはどう考えても「一応民主的プロセスを踏みました」的な、“一方的に描いているんじゃない”ってフリだけのためのアリバイ場面にしか見えない。特に作戦会議の場面など、黒澤明の「影武者」のパロディのような戦国武将みたいなふざけた描写にされてしまったから、余計マトモには受け取れなくなってしまった。

 では、なぜこの「ワンス&フォーエバー」ではそれらが「取ってつけた」ようにならなかったのか? いや…完璧にそれがうまくいったとは、実は僕も思わない。平凡な類型になりかかっているところもないわけではない。だが、これはアートシアター映画ではない。娯楽映画としてのある種の分かりやすさと単純さと面白さを要求される中で(しかも「実話」という前提の下で)、どこまでやれるかという制約がある。そういう意味ではまたしても綱渡り的ではあるものの、何とか渡り切ったのではないかと思うんだね。

 作者たちが考えたのも、たぶんそこだったと思う。戦争というそれでなくても解釈が難しい題材、そして分かりやすく楽しい大衆娯楽映画という大命題。そこではグレーゾーンがいっぱいあって複雑な陰影を含んだ描き方はおそらくうまくいかない。ならば逆に徹底的に極端なまでに単純化してシンボライズして描いてしまうしかない。先のメルギブ扮する主人公の描き方と同様、作者たちは恐らくそう決意したのではないか。だから北ベトナムのドン・ズオンが作戦を指示すればメルギブがそれを読む、メルギブが敵の次の手を読んだら北ベトナムのドン・ズオンが指示を出す。絵に描いたように同じパターンが繰り返される。

 お互い腹の探り合いし合う敵同士というのは、戦争映画では多く描かれてきたパターンだ。だがこの二人の詰め将棋みたいな手の内の読み合いは、例えば「眼下の敵」のロバート・ミッチャムとクルト・ユルゲンスみたいなゲーム性のあの手この手の面白さを描く趣向は乏しい。お互いがお互いの存在を意識し、称え合うような描き方はなされていない。それは両者が全く同じポジションにいて、同じことを同時に行っているということを表わしているだけだ。しかもそれらの類似性は極端なほど強調されて、ほとんど不自然でわざとらしいほどだ。他の一兵士の描写や銃後の妻の描写についても、アメリカと北ベトナム双方をことさらにそっくりなかたちで描いている。それでなくとも「わざとらしい」との批判を受けかねない敵側描写。しかもリアリズムをもって良しとされる現代映画の、それでなくてもウソが嫌われる戦争映画というジャンルだ。普通はここまで不自然なまでに同じようには描くまい。

 そこで思い出すのはつい最近公開された中国映画「鬼が来た!」だ。ここでこの映画のタイトルを持ち出すと、“良心的なアートシアター系の大傑作をこんなハリウッドの俗悪戦争映画を語るのに引き合いに出すな〜”などと好きな人に怒られてしまいそうだが、この際それは置いといて…(笑)。ま、正直言ってこの「ワンス&フォーエバー」に、「鬼が来た!」の複雑で陰影に富んだ人間洞察や世界観は期待すべくもないのはもちろんだ。だが、一つだけ興味深い点がある。「鬼が来た!」では中国人チアン・ウェンと日本兵香川照之の共通性をあぶり出すために、僕が感想文の中で“シンメトリー”と称した対立する存在双方の徹底的な相似性の強調と繰り返しを行った。「ワンス&フォーエバー」のあまりに単純で極端なまでに図式化された敵味方の同一性の強調は、この“シンメトリー”化と極めて似た作戦とは言えないか? 敵味方双方での執拗なまでの同一イメージのリピート…その明快ぶりが他作品の同種の描写よりも徹底的に確信を持って全うされている点が、この作品を他と一線画させているところなのではないか? ナパーム弾の爆発に焼かれて同じように悶え苦しむ敵兵と味方兵の連続した描写を、ここでもう一度思い出して欲しい。

 だからこそあの「パール・ハーバー」と比べても、敵を描く上でどこか似て非なるものになりえたのかもしれない。

 そしてここに着目した今になって、僕は「パール・ハーバー」の日本軍の描き方をちょっと見直す必要がある気もしてきたよ。ランダル・ウォレスによる原脚本、あるいは監督やプロデューサーの意向が大幅に取り入れられる前の第一稿は、一体どのような内容だったのか? あるいは現場での追加やら演出で付け加えられたり変更されたのはどの部分どの程度のものだったのか? 世間的な悪評や先入観、企画そのもののやドラマ本体(平凡でユルい三角関係メロドラマ)の弱体ぶり、さらに恐らく演出によって付け加えられたであろう黒澤「影武者」パロディみたいな俗悪趣味をすべて取り外して見た時、ひょっとしたらそこに今回の「ワンス&フォーエバー」でのアプローチの原形が埋もれている可能性は十分ある。もし仮にそうではなかったとしても、ランダル・ウォレスにとって「パール・ハーバー」が、今回の「反面教師」や「糧」となったと考えるのは自然かもしれないね。ウォレスが今回の原作の映画化権を自力で買い取って製作にこぎ着けたといういきさつにも、そういった部分を濃厚に感じる。このあたりは十分検証の余地があるのではないか?

 何度も繰り返すようだが、上記に挙げたこの映画の美点は決して作品の中に揺るぎないかたちで結実してはいない。かなり足取りもフラついて怪しい感じで、ヘタすれば偽善アナクロ平凡その他もろもろの、凡百ハリウッド戦争映画と同じ出来映えに逸する恐れは十分あった。事実、作中でもそんなフラつきが露呈してしまうところがいくつかある。…にも関わらず、上記した数々の落し穴やハンデを乗り越えて、難しく親しみの持てないアート映画ではなく、あくまで大衆娯楽映画としての明快な分かりやすさでこれを何とか達成したところに価値があると思うのだ。メルギブ見に来たらクソ難しく見たくもない抹香臭い話を押し付けられた…という気には決してならない、そのへんがこの映画の一番得難いところではないかな。

 今さら当り前と言えば当り前で誰も声高に言わなくなったこと…戦争で実際に戦うハメになった兵士一人ひとりに、それぞれ「人格があり」「家族があり」「幸せがあったこと」を描き、まるで一筆描きの「へのへのもへじ」みたいな単純さで分からせようとするこの映画。敵であろうとなかろうと、上官から歩兵に至るまで兵士ならばすべて、いや、これが例え兵士じゃなかったとしても、人ひとりの存在って大きいし意味がある…というメッセージを、愚直なまでのバカ正直さ加減で描いたのがこの作品なのだ。実際これらの言葉をここに書き記してみても、あまりにあんまりな言葉ばかりなんで寒くなりそう。だが、そいつを照れずに覚悟を決めてやり通したところが最も優れた点かも。

 そういう意味で、映画のラストにおいてこの戦いでのアメリカ側戦死者名をすべてクレジットで列挙しながらベトナム側戦死者名を出していないあたりは、いささか画竜点睛を欠いた惜しい部分になってしまった。恐らくはベトナム側の戦死者名を入手する術がなかったのだろうと推察されるものの、それを実現できたらこの作品の意図がさらに際立ったはずだけに余計悔やまれる。それともアメリカの軍人会あたりにはまだそこまでやるのに抵抗があって、こんな中途半端なかたちになってしまったのだろうか。

 この映画、手法的にも今時珍しいくらいオーソドックスな娯楽映画であって何ら表立った新味があるわけでない。革新的な技法や展開や構成、気の利いた感覚やセンスや思想性、さらに美的で芸術的なエッジの尖った部分があるわけでもない。だから、いとも簡単に平凡で時代遅れな作品として片付けられかねないところはある。こんなの偽善だ、やっぱり取ってつけたみたいだ…この映画を表層だけ見れば、やっぱりそう思われるかもしれない。いや、ひょっとすると…実際にこの映画の構成は、意図していたようには機能していないのかもしれない。

 だが僕には、この映画の言っていること…少なくとも言おうとしたこと、その根本にあったものは、決して「偽善」ではなかったはずだという確信がある。それを感じたのは映画の中盤、激烈な戦闘場面が一転して米国内の静かな場面に切り替わったあたりのある描写を見た時だ。

 前線での苦戦が相次ぐ一方、銃後を守る兵士の妻たちのもとへは続々と訃報の電報が届いていた。それらの電報をすべて運んでいるのは、イエローキャブの運ちゃんたち。しかしマデリーン・ストウ扮する主人公の妻はそんなズサンさに唖然としながらも表面上は感情を抑え、不安を心の中に常に抱き続けていながら気丈に振る舞っていた。だがそんなある日、彼女は自宅前にあのイエローキャブが停ったのに気付く。

 爆発しそうな感情の嵐の中、彼女は電報を手にわが家に近づいてくる運転手をじっと見つめているしかない。その運転手が自宅の扉にたどり着くまでの時間は、まるで永久とでも感じられるほどの重苦しい時間だ。その間も彼女の感情は千千に乱れる。ジリジリするような時間が流れる中、彼女がほぼ観念して運命を受け入れるしかないと思い至ったちょうどその時、この運転手は彼女に向かって口を開くのだ。「この宛先がどこか教えてもらえませんか?」

 その時、冷静に気丈に振る舞っていた彼女、「軍人の妻」の鑑として他の妻たちの手前も落ち着いた素振りを見せていた彼女が、思わず感情を爆発させるんだね。「あなた、自分が一体何をしたのか分かってるの!?」…それは気の毒な運転手にとっては理不尽な怒りかもしれない。冷静に振る舞うべき彼女の立場からすると、いささか思慮に欠く態度かもしれない。

 だがこの場面での彼女の反応には、確かに「そんな時」に直面した人間の実感があった。そんな時…人の生死がかかっているギリギリの時、人間は自分の感情を爆発させるしかないじゃないか。少なくとも僕はそうだった。だってそうだろう?

 例えそれが誰であっても簡単に殺されちゃかなわない、たやすく死なれちゃ困るんだ。人ひとりの命というものは…。

 

 

 

 

 

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