「ハッシュ!」

  Hush !

 (2002/06/24)


ロズウェル空軍基地のエイリアン

 みなさんは、ロズウェル空軍基地に捕まっているエイリアンの写真をご覧になったことがあるだろうか?

 たぶん実物を見れば、誰でも“あぁ、あれね”…と思い当たるであろう有名な写真。空軍将校にそれぞれ両手をつながれて、白っぽくてひょろっとした小柄なエイリアンがぶら下げられるように立っている写真。それはまるで、遊園地かどこかで両親に連れられたまだ幼い子供のように見える写真だ。

 ロズウェル空軍基地のエイリアンやUFOがらみの話は枚挙にいとまがなくて、この他にもエイリアンの解剖フィルムとかを見た憶えのある人もいるだろう。だが、僕にとっては、ロズウェルのエイリアンと言えばあの写真だ。それは信憑性がどうのという理由ではない。単にあの写真が僕に訴えかけてくるものが、僕の心情にピッタリとくるからだった。

 見知らぬ地球で・軍服に身を固めた大柄な男たちに囲まれながら・手をつなぐと言えば聞こえがいいが・ぶら下げられるように連れて行かれる・小柄で頼りなげな・たった一人の孤独なエイリアン…。

 この決定的な心細い寂しいイメージ

 僕は子供の頃からなぜか周囲の子供たちから浮いた存在だった。幼い頃は病弱で周囲の子と遊べなかった。運動が出来ないから友達が出来ない。おまけに病床では本が友達だったから、余計他の子供たちの目の敵にされた。どうしても人とコミュニケーションをとることが出来なかった。

 そして一人っ子だった僕は、ワガママだからちゃんとした大人になれっこないと親に繰り返し言われて育った。

 確かにワガママだった。いまだにワガママだ。ちゃんとした大人になれなかったのも親の予言通りだった。

 自分はろくな人間になれないんだ…と思って生きてきた僕は、だから子供の頃から生きていて申し訳ないと思ってきた。実はつい最近まで思っていたんだね。

 そして、自分はこんなに世間に申し訳なく生きているのに、大手を振って大いばりで生きる無神経な他人たちが我慢ならなかった。自分と比べて、何か彼らの脳天気ぶりがえらく不当なもののように思えた。連中の気持ちが分からなかったし、その醜いところ目障りなところばかりが目についた。いいところなんて見えなかった。コミュニケーションがとれない…ではなく、とる気がなかった。

 そんな僕には、あのロズウェル空軍基地のエイリアンの写真が身近に感じられたのだ。

 ロクな文明も持っていない、好戦的で原始的でデリカシーのない地球人に囲まれて、こんな地球でひとりぼっちで暮らすエイリアン。苦痛でたまらないだろうな…。僕はエイリアンに同情せずにはいられなかった。そんな自分もまた、何かの間違いで見知らぬ惑星に漂着し、好きでもない異星人に囲まれて暮らすエイリアンだと思えたんだよね。今から考えれば、これって相当傲慢な考えなんだけど。

 異星人だからマジメに接しようとも思わなかったし、仮住まいの惑星だったから地に足が着いた暮らしをしなかった。他人の世界に深入りすることなど夢にも思ったことはなかった。だってそれは、自分にとっても相手にとっても苦痛でしかないだろうからね。

 そんな僕は、他人たちを異星人と見なしていたのは確かだが、実は自分のことだって“本来あるべき姿”とは思っていなかった。自分もまたエイリアンだったのだ。分かるだろうか、このニュアンス。

 僕は自分を愛することが出来なかった。生きてて申しわけないような奴を好きになれる訳がない。そんな自分を好きになれない人間に、他人を愛することなど出来るわけもなかったのだ。だからここは見知らぬ惑星で、他人も僕も別々の異星人だった。異星人にいいところを見つけようなんて奴がいるか。

 でも今、僕は地球にいる

 帰ってこれたのは、僕の力じゃない。でも、今ならハッキリと言えるよ、生きてることが申しわけないなんて思わないと…。

 

ゲイカップルに降ってわいた子づくり騒動

 早朝、あるアパートの一室。男がゆっくりとベッドから起きあがる。どうやら昨夜一戦交えたらしくスッポンポン。雑然とした部屋でで身づくろいを始めたこの男は、どうやら部屋の主ではないらしい。たった今ベッドから起き出してきたもう一人の男…高橋和也がどうもそのようだ。そう、今までベッドを共にしていたこの二人は、いわゆるゲイのカップルだ。

 ただどうもこの両人、「カップル」と言うには時期尚早な気配で、何となく気まずい雰囲気。どうやら昨夜が初対面である可能性が濃厚だ。高橋は何とかもてなそうとするが、相手の男はつれない素振り。身づくろいを済ませると、そそくさと部屋から出ていってしまった。携帯の番号を教えようとする高橋を部屋に残して…。後に残る白々しさ。

 そんな高橋の職場は、自転車で通える場所のペットショップ。まめな性格で世話好きの高橋には向いた仕事だが、ブーたれ気味のオバチャン店員、アトピー患って性格もどこか歪んでるネエちゃん店員、そしてどこかエッチなお客の主婦にゾッコンの中年店長…と、職場のみんなはどいつもこいつもどこかおかしくて、高橋には気の許せる奴がいない

 さて、ここにもう一人の男がいた。それは、土木研究所なる奇妙な職場に勤める田辺誠一。この職場、プールに船の模型を浮かべて波を起こし、その浮かび具合を測定したり観測したり…といった、およそ大の大人が何人もかかってやるような事とは思えない遊びみたいな職場…と言ったら叱られてしまうか。そんな彼に熱い視線を送る職場の女の子つぐみもいるが、彼は全く気づいていない…か、気づいてないふりか。それもそのはず、彼もまたゲイだから、実はそんな反応は迷惑でしかない

 今日も今日とて同僚が結婚するとあってお祝いの飲み会にカラオケ…。おとなしい田辺は最後までつき合うが、その会話も人間関係もどこか空虚だ。何軒めかの店から出たところで、結婚が決まった同僚を見つめる田辺の目。もしかして、その同僚に報われぬ淡い想いを抱いていたのか。だが田辺は黙ってそんな自分の気持ちにフタをした。満たされない彼の心…。

 そして、ここにもう一人…ただし今度は女だ。断わっておくと彼女、片岡礼子は同性愛者ではない。一応、異性愛ということになるんだろうが、今もって「愛」などと名の付くものを持ったことがない。例えば今日のこと、いつぞや引っかけた行きずりの年下男、ちょっと氷川ひよし似のニヤケた兄ちゃんにしつこく絡まれる片岡嬢。つれなくしても「やだねったらやだね〜」なんて言ってメゲやしない年下男だが、口振りだけでなく実際あまり彼とは今夜おつき合いしたくない様子だ。しかし何だかんだと押し問答しているうちに、この年下男のしつこい押しに否応もなく部屋に上げてしまうハメになった。およそ小汚い片岡の部屋。服も脱がずベッドにも横たわらずに、氷川激似年下男は一方的な性欲をぶつけてくる。もちろん、「いいねったらいいね〜」と勝手にいっちゃう年下男。そりゃ勃ちはいいだろう、パワーもあるだろう。だがどこまでも自分勝手でガキな今時の若い男なんかにやらせちゃダメだよ。男は40過ぎにしなさいお嬢さんがた。若いのはカッコつけてばかりでダメだよ(笑)。

 実は片岡、歯医者の入れ歯などを加工する歯科技工士という至って地味な仕事をしているが、それにさしたる情熱も感じられるわけではない。そして前述したような荒れた素行がたたったか、子宮に雑菌が入って入院しなくてはならなくなる始末。過去に二度中絶したこともあるため、産婦人科医に「もう子宮なんて取っちゃったら?」とまで言われるテイタラクだ。

 でも片岡には身から出たサビのところもある。コンビニで立ち読み中に一度ならず二度もぶつかってきながら「ゴメン」の一言もない時には、相手が幼いガキだろうとささやかながら実力行使に出る彼女。そりゃ確かに忍耐力に乏しくてキレやすいとは言える。だがそんな彼女の荒れた心根は、故なきことではなかった。例の子宮の病での入院話にさすがに不安にかられて、それまで疎遠になっていたタクシー運転手の父親・寺田農に会いに行った片岡は、そこでまるで突き放されたような扱いを受けて深く深く傷つく。それまでどんな事情があったかはしらないが、この父娘にそれまで心の交流があったのか否や

 まず第一の出会いは夜の街だった。ゲイの男たちが集まる新宿二丁目の飲み屋。今まさにその店からバカ話して出てきた高橋和也は、一人の男とすれ違った。例の同僚の結婚祝い帰りで、心に空虚なものを抱えていた田辺誠一だ。二人の目と目が合う。

 翌朝、いつぞやのように男と朝を迎えた…はずの高橋。だが、目覚めてみるとまたしても相手の男はいない。あぁまたか…といつもの事で慣れっこになっているとは言え、どこか切ない気持ちを噛みしめる高橋は、しかし今回だけは自分の失望が早合点だったことを知る。相手の男は帰ってなかった。ヤカンでお湯を沸かしてコーヒーを煎れようとしてくれていた。そんな相手…田辺を見つめながら、今度だけは違うと深い幸福感に包まれる高橋だった。

 続いて第二の出会いは、そんな田辺と高橋がとあるソバ屋で食事をとっているところ。田辺の職場の近くまで行って食事しても良かったのに…と言う高橋だが、あくまで職場の人間には自分がゲイであることを隠したい田辺。そんな会話を、その場にたまたま居合わせソバを食べていた片岡が立ち聞きするともなく聞いていた。やがて片岡が勘定を済ませ、店を出ようとしたらカサがない。これにはまたまたキレる片岡、店員相手に大荒れ。根っから事を穏やかに済ますことが出来ない片岡ではあった。

 外はドシャ降り。カサがない片岡は熱くなった頭が急速に冷えて、一気に落ち込みモード。勘定を済ませて外に出た高橋と田辺は、そんな彼女の様子を見ていた。元来優しい性格の田辺は困っている片岡に同情したか、彼女にゆっくり駆け寄る。そして驚く彼女に自分の会社の置きガサを貸すと、呆れる高橋と相合いガサでその場を去っていった。

 その夜、雨の中をアパートに帰ってきた片岡を待っていたのは、ビニール袋をマスク代わりにした不気味な男。慌てて突き飛ばしブン殴り大立ち回りの片岡に、笑ってマスクを取ったのは例の年下男だ。だが、それを見た片岡はより一層大荒れに荒れて、手に持ったカサでボコボコに殴りかかった。這々の体で去っていった年下男。そんな男の悪ノリを許してしまった自分が情けない片岡は、さらにどし〜んと落ち込んだ。田辺から借りたカサもボロボロになってしまったのが、なおさら情けなさを助長する。

 翌日、新たに買ったカサを田辺の会社まで返しに行った片岡だが、そこで応対したのが例の田辺にゾッコンのつぐみ。後々考えれば、これが良かったか悪かったのか…。

 そのつぐみはと言うと、何だかんだと田辺に好意を伝えようとするが、正直言って田辺はそれが煩わしくてたまらない。それでもキッパリやめてくれとも言えない田辺に、つぐみの想いは勝手にエスカレートする。自分の足に障害があることまで打ち明けて、何とか迫ろうとする。だから、カサを返しに来た片岡にも変な疑惑がわく。何と片岡の職場まで押しかけて飲みに連れ出したあげくに、自分は田辺と結婚を前提としてつき合ってるなどと一方的な思いこみをブチまける。これには片岡も閉口したが、この一連のてんやわんやが彼女にあるヒントを与えたのは確かだ。

 何と今度は片岡が田辺の職場に直接押しかけ、彼がつぐみの恋人でもないこと、ゲイの恋人がいることまで確かめたあげく、とんでもないことを言い出した。

 あなたは父親になれる目をしてる。

 戸惑う田辺に畳みかけるように片岡が言った言葉は、さらに彼を驚愕させるに足る一言だった。

 「私の子供の父親になって!」

 別に恋人になりたいとか彼氏との関係をどうこうするつもりはない。それにセックスがなくても子供はつくれるはず。だからあなたの子種をちょうだい!

 それまで世間的にはゲイであることを隠しきっていた田辺。それを、押しかけてきた片岡にズバリ指摘されただけでも困惑していた彼。一方ではつぐみの積極攻勢に困り切ってもいた彼。そこに加えての「子種をくれ」の一言に田辺はスッカリ動転。せいぜい態度を保留するくらいしか為す術もなかった

 そして、そんな田辺と片岡のやりとりを遠目で見たつぐみは、二人の関係をスッカリ誤解した。

 いまやマンションに引っ越して、やっと落ち着いてきた高橋と田辺の愛の巣。そこにやっとの思いで帰宅した田辺は、もう頭の中のヒューズが飛んで訳が分からない。そんな心ここにあらずの田辺の様子にフテくされる高橋。そんな険悪ムードにマズいと思った田辺は、片岡とのやりとりの一部始終を打ち明けた。

 だがそれが高橋でなくたって、そんな話をマトモに聞ける訳がない。大体ゲイの男が父親になるって何なの? その女は何なの? 高橋の機嫌はさらに悪くなる一方だ。そんなやりとりをしていくうちに、田辺の方でも考えがまとまらないながらも気づいてきたことはあった。そう言えば、俺って子供が何となく好きだったんだよな。それに家族とかが欲しいって気もする。…それはゲイとして生きていこうと決意した時点で、一生涯孤独でも仕方がないと覚悟を決めていた高橋には到底理解出来ない発想だ。会話はすれ違ったまま、だけど片岡の子づくりに協力するってのは現実的じゃないという常識的なところに話は落ち着いてきた二人。田辺も渋々ながら、片岡の申し出を断ろうと思うのだったが…。

 田辺が片岡に断りの言葉を告げようと訪れたのは、彼女が入院していた産院。そこで彼女の子どもを欲しい気持ちの思いのたけと、改めて自分が子供を可愛いと思う気持ちを再確認した田辺。そんな彼には、すげなく断りの言葉を言う気持ちがなくなっていた

 だが、隠し事ってのは出来ないものだ。たまたま携帯を取り違えて持ってきてしまった高橋が、片岡からの電話をキャッチしてしまったのがマズかった。怒った高橋は片岡の元に直談判。さらに帰宅した田辺にも怒りをブチまけた。いつもそんな優柔不断にしてるからいけないんだよ!

 だが、今度は田辺にも言い分はあった。ゲイの自分には家族がつくれる希有なチャンスだ、そう考えるとと無下に断れはしない。もちろんそんな言い分は高橋には受け入れられる訳もない。今度こそお互いうまくいきそうだと思っていた二人だが、これは決定的な溝になった

 問題が解決しないまま、田辺は東京を離れた。旧友の結婚式に出席するため、郷里の京都へと旅出ったのだ。今も京都に済む兄のもとに泊めてもらって、しばらくゆっくり考えたい田辺だった。

 兄の家に上がってしばしの安らぎを得る田辺。だが、兄嫁の秋野暢子は何とも満たされない日々を送っているように見えた。兄と見合い結婚で結ばれた秋野。だが、今は兄との間に目に見えない溝があるのだろうか。彼女はポツンと一言、田辺につぶやいた。「本当に好きな人と一緒にならんとつまらんよ」

 やがて帰宅してきた兄の光石研としばしの再会を喜ぶ田辺だったが、兄の光石は妻の秋野をまるでないがしろにしているかのようだ。兄は悪い人ではない。夜中に田辺と昔話に興ずる時には、昔通りの優しい兄貴。だが、兄嫁の秋野に対する態度はあんまりと言えばあんまり。そこに夫婦の、家族の、そして人間関係の難しさを噛みしめる田辺。ゲイだ何だは関係ない。人はどこかで孤独を噛みしめる生き物なのだ。

 東京に帰った田辺は、手みやげを持参して高橋の職場のペットショップに直行した。なぜだか無性に彼に会いたくなった。高橋もそんな彼を素直に受け入れてくれた。そして田辺に告げるのだった。「したいようにしていいよ」…と。

 早速、子づくりについての前向きな話が持たれることになった。相変わらず人の世界に土足で上がりこむずうずうしさを発揮する片岡。その無神経さに閉口するものの、子づくりに対する真摯な気持ちだけは高橋も認めざるを得なかった。何と子づくりの手段として精子をスポイトですくい取るなんて提案をされた時には、さすがに高橋ばかりか田辺も腰が退けたが…。飯を食ったりボウリングをしたり子供用品を見に行ったり…まだ承諾をしたわけではなかったものの、共に顔をつき合わさざるを得ない三人は、いきおい不思議な親密度を増していった。途中、ジャンクフード好きの片岡と高橋の見解が激しく食い違うなどの妙ちきりんなやりとりはあったものの、こうも顔を合わせているとお互いのいいところ悪いところを熟知しないわけにいかない。そのうち対立していたはずの片岡と高橋にも、奇妙な情が湧いてきたから人間は面白い

 そんな三人に青天の霹靂が訪れた。高橋と田辺の愛の巣…いまや片岡も入り浸っているマンションの一室に、何と田辺の兄の光石研と妻の秋野暢子に娘の真柄佳奈子、さらには高橋の母親の富士眞奈美までが押しかけたのだ。なぜにこんなメンツが一同に会することになったかと言うと、実は光石の元にある手紙が送られてきたため。それは例のキレたつぐみが送ってきたものだった。

 彼女は田辺と片岡の仲を邪推して、あれこれ調べ上げて送りつけて来たのだった。これがとんでもない爆弾となった。田辺の兄の家では彼がゲイであることは知られていなかった。これだけでもとんでもないところに来て、神経を病んだことがあるとか中絶をしたことがあるとか片岡の過去まで明るみにされていたので、大騒ぎとなったわけだ。他方、息子がゲイであることを知っていた富士としては、自分の息子が田辺にもて遊ばれていると勘違いして怒り心頭。説明しようにももつれにもつれて大騒ぎ。

 しかも、よせばいいのに片岡が今回の子づくりについて一席ぶったものだから、ますますモメにモメる。意外にも兄の光石は怒る素振りがなかったが、兄嫁の秋野が黙っていなかった。子づくり子育てはそんなナマやさしいもんじゃない、あんたに母親の資格はない…などと、今まで抑えられてきた分の怒りが爆発したのかブチギレるの何の。勢い余って夫の光石に「あんたの家族はみんなオカシイ」などと言ったものだから、光石もキレて秋野をひっぱたくやらのてんやわんや。片岡もこれには激高して大暴れしたあげく、興奮がオーバーヒートしてぶっ倒れるアリサマ。もうメチャクチャ。

 この片岡の卒倒で一応の幕となり、家族はそれぞれ帰っていった。一つだけ救いがあるとすれば、兄の光石の田辺への優しさ。彼は兄の直感で、弟がゲイであることを感づいていたのだ。

 やっと三人だけになったマンションの一室。だが、いまや片岡も真剣に考えざるを得なくなった。家族を持とうなんて、母親になろうなんて、自分には甘すぎたのか。もはや自分にはやり直しのチャンスを持とうなんてムシが良すぎるのか。思えば親に愛された思い出がない片岡。愛されたことのない人間に、人を愛するなんて出来るはずもないのか…。そう言って去っていく彼女の後ろ姿に、それが彼女なりの「さよなら」なのかと、高橋も田辺も察するしかなかった。

 だが、もう高橋にも田辺にも分かっていたのだ。自分たちはすでに深入りしてしまった。そんな彼女なしの生活なんて考えられるのか?

 

人間同士に“いいとこ”どりはありえない

 僕は橋口亮輔監督の作品って見たことなかったんだよね。「二十歳の微熱」も「渚のシンドバッド」も、世評が高いということだけは知っていたけど見てはいなかった。情けないけど、こと邦画に関して言えばずっとこんな調子だったんだよ。だけど、ここんとこはチビチビと見るようになって(いや、それもほんのチョビっとだけど)気分的に下地が出来てたところに来て、この「ハッシュ!」の予告編が何となく面白そうな雰囲気だったわけ。予告編面白そう…ですっかりダマされちゃったっていうSABU監督の「MONDAY」もあったけどさ(俺、最近であんなに腹が立った映画もないよ。つまらなかったからじゃない。面白くなりそうな素材をつかんでいながら、自分でみすみすブチ壊していたからだ)。知人の力強い言葉も頂戴して、ならば見るかと重い腰を持ち上げた次第。

 結果は? 大正解だった!

 何が良かったって、何しろ面白い。笑える。その楽しさだけでも入場料の元はとれる。もっとも、当然の事ながらギャグ満載だの何だのって面白さではない。登場するキャラのたくまざるおかしさ。そして会話ややりとりのおかしさ。それも、例えば田辺が高橋に「怒るといつもアイスクリームを食べるんだから」と指摘するあたりとか、片岡が入院している病院の患者が、人の言うことなんか聞いてないでとめどなく自分の眉毛についてダラダラしゃべっているあたりとか、グツグツ煮えてる鍋の蓋をとった時の、高橋、田辺、片岡が異口同音に思わず「お〜っ」と声をあげるあたりとか、メインのキャラから脇に至るまで「いかにもありそう」的なおかしさが充満している。橋口監督ってかなり人間洞察力が豊かなんだなと思わせる、「どこかで見た」人間のリアクションの見事さだ。

 それと同時に、実は僕は橋口監督ってひそかにフランソワ・トリュフォーのファンじゃないかと思うよ。そう言うのには、実は理由がある。それは、この映画における田辺扮する男の職業だ。プールに船の模型を浮かべて波を起こしたり…ってな子供っぽい仕事、これってかなり珍しい職業じゃないかと思うんだけど、実は僕はこれと同じような職業を映画で2回も見たことがあるんだよ。一度は「隣の女」のジェラール・ドパルデューの仕事、もう一度はアントワーヌ・ドワネル・シリーズのどれかの作品でのジャン=ピエール・レオーの仕事。どちらもご存じフランソワ・トリュフォー監督の作品だ。これは偶然ということはないだろう。

 考えてみると今回の「ハッシュ!」、ゲイとか子づくりとかちょっと独特な要素が少なくもないが、男二人と女一人の理想的な関係を描いた作品…と考えてみればピンとくるものがある。橋口監督はこれをつくるにあたって、トリュフォー作品の「突然炎のごとく」をどこか意識しない訳にはいかなかったんじゃないか? もちろん全く肌合いも毛色も全く違う両者だし、世界観も人生観も悲観と楽観という以上に大きく隔たりがある。だが人間へのデリケートなまなざしという一点に絞れば、どこか一脈通じるところも感じない訳じゃない。少なくとも僕はそう受け取ったが、こじつけに過ぎるだろうか? もちろん橋口監督はトリュフォーをパクったと言う気などない。だってこちらの方がもっとずっと軽みがあり、明るく、肯定的だ

 人間洞察力の豊かさと先に言ったけど、この映画の原動力はまさにそれに尽きる。お話そのもので言えば、ゲイのカップルに見ず知らずの女が子づくりを持ちかける…という、およそ突飛でリアリティのかけらもありそうにないもの。そして展開はほとんどが偶然が偶然を呼んで…という類のもの。これ下手にこさえちゃうと見るに耐えないものが出来上がっちゃうところだ。

 だが、出てくる登場人物に何とも言えない実感がこもっていて、それぞれがたくまざるおかしさを抱えているから、見ている僕らは不自然さなんか感じないし退屈にもならない。一体この話どうなるんだろうとグイグイ引き込まれていくし、身につまされてもいくんだね。

 それはこの映画のキャラが持つ、見事な立体感のなせる業なんだよ。

 田辺扮する男は、今まで何かをキッチリさせずにここまでやってきた。だからつぐみ扮する若い娘の想いを断ち切ってやれることも出来ないし、片岡扮する女が土足で上がり込んでくるのを止めることも出来ない。でも、それって必ずしも悪いこととばかりは言えないんだよね。優柔不断と言えば問題あるが、それは優しさの現われでもあるのだから。自分がゲイであることを隠してきたのも、コソコソとした卑怯さや臆病ではない。そう割り切ることによって自分だけでなく、周囲に波紋を起こすことが出来なかったのだろう。それはそれで一つの優しさでもある。そして、彼自身の信条として、意識はさほどしてこなかったにしろ、世の中や人生ってそうそう割り切れることばかりでもないだろうという思いがどこかしかにあったんだと思うよ。だからこそ、片岡からの「子づくり」なんて飛んでもない提案に、断定的にノーとは言えなかった。

 片や高橋扮する男の方はと言えば、自分がゲイとして生きていこうと決意した段階である種の犠牲やら失わねばならないことを自覚し、実際に割り切って生きてきた。だからこそ、田辺の「優柔不断」に見えるところが我慢できない。ゲイは孤独な人生を割り切っていくべきだ…という主張は、自分が実践していることだからウソはない。だが、それって自分だけがそう念頭に置いておけばいいことで、決してそれを人にまで押し付けるべきものではない…というところまでは頭が回らない。キッパリ決めて、割り切って…だけど、そこに独断と押しつけと思い込みが潜んでいることには気付かない高橋。だがそんな割り切ったはずの高橋も田辺と会う前は、ゆきずりの関係が続く空しい毎日に、何とも埋め難い心の隙間を感じずにはいられなかった。

 さらに片岡扮する女は、この中でも最も心の振り幅が大きい人物。とにかく思い込みが激しい。自分の考えは正しいと思ったら、トコトン突っ走って人のテリトリーも土足で上がりこみ、それが他人には迷惑かもしれないとは考えない。そして思った通りいかないとすぐにキレる。あるいはけだるくフテくされて、すべて投げ出す。徹頭徹尾、自分というものを客観視出来ない人間だ。だが、その思いは一本気で真摯なもので、オチャラけて誤魔化したり揺らいだりなんてしない。

 この三人三様のいいとこも悪いとこもひっくるめた性格設定が、まったくもって見事なのだ。しかもそれは主役三人に限らず、彼らを囲む登場人物たちにも一貫してる。富士眞奈美扮する高橋の母親は迷惑がる息子の家に上がり込んでは、「いつ性転換手術するの?」なんてトンチンカンな発言をするデリカシーのかけらもない女。だがその的外れな発言も、ゲイである息子という現実を彼女なりに受け入れようと思った結果の産物と思えば憎めない。光石研扮する田辺の兄は、弟がゲイであることを気付いていながら心の奥にしまってきた。一同がマンションの一室に集合しての修羅場でも、終始一貫して田辺たちに気を使い多くを語らずにいた。だがそんな思いやりがあるはずの人物が、なぜ自分の妻にはかくも冷淡な扱いしか出来ないのか? その当の妻…秋野暢子扮する田辺の兄嫁は、そんな愛のない暮らしの中で何かを諦めてしまった人間だ。そんな気持ちがついつい田辺への、「本当に好きな人と一緒にならんとつまらんよ」…という言葉となってこぼれ出る。そんな人のツラい気持ちを誰よりも分かっているはずの秋野が、マンションの修羅場では一番三人をコキ下ろす急先鋒となる皮肉。それは今までずっと虐げられてきたと思っていた気持ちが、どんな非難をブツけても正当化されそうなハケ口を見つけたことから噴き出したということなのか。それともあれもこれも我慢してきた彼女からしたら、自由に振るまい幸せを享受しようとする三人の主張が不当なものとしか思えなかったからか。妬ましくてならないからか。

 この映画はこうしたキャラクターの描き込みが実に生き生きとなされているので、ドラマが豊かで面白いものになっているし共感もできる。だが、この映画の最も見事なところはそこではない。そんな立体感あふれるキャラの描き込みが、ドラマをリアルに見せ面白く見せるためのテクニックとして使われているだけでなく、映画のテーマそのものとして立ち上がってくるところにこそ非凡な点があるのだ。

 人間は一筋縄ではいかない。善人と悪人に分けられれば苦労はない。普通は、そして実際は、そんないいところ悪いところが不可分に混じり合っているものなのだ。だから、辛い言い方をしてしまえば、どんな人間も“悪い人間”だとさえ言える。人と関わりを持つ、その究極である「家族」を持つということは、言ってしまえば自分が“悪い人”である他者と抜き差しならない関わりを持ってしまうことでもあるのだ。あるいは、気付いたら自分が他者にとっての“悪い人”になっている可能性だってある。

 君はそれに耐えられるのか?

 片岡は子どもをつくろうとした。だが、それは自分の腹から生まれてくるものとは言え、いずれ「他者」となるものだ。そして、子づくりをする上で関わりを持ってしまった田辺と高橋も「他者」だ。最初はギクシャクしてうまくいかないこの「他者」同士が、徐々に溶け合っていくあたりの展開は、観客を喜ばしい気持ちにさせる至福の時だ。それだけでもこの映画は「いい感じ」の映画として出来ていただろうが、橋口監督はさらに念には念を入れた“もう一押し”、ダメ押しとも言える一撃を用意する。それが、例のマンションの一室でご家族一同が顔を揃える「修羅場」の場面だ。

 確かに片岡、高橋、田辺…という「他者」同士が何となく関わっていくことなら、そのままでも出来たような気がする。普通の映画ならこれでハッピーだ。だけど、世の中そんな単純なものじゃない。望む者同士の結び付きが、望んでもいない人間たちをも否応なしに結び付けてしまうのだ。それは確かに煩わしいが、それなしにオイシイところだけいただく訳にはいかない。なぜなら、それが人間関係というものだから

 ここでの「修羅場」場面で片岡、高橋、田辺を囲む家族たちを、単なる無理解な「世俗」代表者と描かなかったあたり、橋口監督は実に大人だ。この手のお話なら、自由に善意で生きようとする主人公たちと、それを一方的に断罪しようとする手垢のついた既成概念との対立という構図を持ち出すのが定石であり、かつ見る方もストレートに分かりやすくはある。

 だが、この映画に出てくる周囲の人間たちは単に“無理解”なわけではない。仮にそれが“無理解”としても、その“無理解”には一片の正論や真理もある。逆に、彼らの非難から浮かび上がってくるのは、主人公三人の甘さでもある。彼らがそこまで突き詰めて考えてきたか、決意を固めて来たかが試される。

 特に独善的思い込みで突っ走ってきた片岡が、その矢面に立たされるのは当然なことだ。新たな人間関係の構築を試みることで、自分をやり直せる気がする。その結果として子供がいれば、それもいいではないか…ハッキリ言ってテメエのことしか考えてない、先の見通しも覚悟もまるっきりない片岡の姿勢が、ここで徹底的に断罪されるのだ。確かに他の映画やドラマなら“自己主張が強いヒロイン”というだけでモテはやされ甘やかされそうなところだが、そんな安易な甘えを許さないのが橋口監督の非凡さなのだ。一本気なのはいい。だが、そう思い込んでればいいというものもないだろう。そんな自分の主張のモロさを、少しでも頭を冷やして考えたことがあるのか?

 彼女はここで生まれて初めて自分の至らなさに心底気付く。それを自ら潔く認める。そして、自分が悪かったかも、至らなかったかもしれない…と気付くことによって、初めて彼女は自分が望んだ「幸せ」にふさわしい人間になるのだ。その時には勢い余った彼女は、自分にはその資格がないと思ってしまうところまで一気に落ち込んでしまうのだが…。

 そんな厳しい「世俗」の洗礼を受けて初めて、主人公たちの覚悟は定まっていく。そういうネガティブ要素も目をつぶりたいことも、あえて視野に収めた上で考えてこその人間関係ってものじゃないか?…と橋口監督は言っている。そして、それは決してすべてネガティブに見ろということでもない。相手も自分も、いいことも悪いことも「等身大」で見つめるということなのだ。

 迫ってくるつぐみを切るに切れない田辺を、高橋が「優柔不断」と切って捨てる場面で、事はさらにハッキリしてくる。それまで言われっ放しだった田辺は、自分の思いのたけをブチまけるように切実な言葉を吐き出すのだ。「だって、それが俺なんだもの!」

 悪いところだけチョン切る訳にはいかない。それは相手の一部だし、相手のいい部分と背中合わせになったものでもある。悪いところがあるのは当り前だ。だから相手を欲しいと思ったら、丸ごと引き受けるしかないんだね。“いいとこ”どりはありえない。

 それと同時に自分のことも、過信せずとも卑下もしないで「等身大」で見なければいけないはずだ。自分のいいところも悪いところもまるごと認めて愛さなければ、他人なんて愛せるわけもないんだよね。

 だから、人は自らに問わねばならないのだ。相手の悪いところ、合わないところ、不都合なところ、相手が引きずってくる諸々の望ましくない関係も、残らず一緒に引き受けることが出来るかどうか。あるいは逆に、自分が抱えているネガティブ要素を自分でキッチリ認めて、その上で自分を肯定することが出来るのか…。確かにウンザリもしてくる。それを考えると途方に暮れちゃうこともある。でもね、この映画を見ると勇気づけられる。例えどんな事があったとしても、保ち続けていたい人間関係ってのはきっとあると思えてくる。

 相手にはその価値があり、自分もきっとそれに値いするのだから。

 

 

 

 

 

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