「鬼が来た!」

  鬼子來了 (Devils on the Doorstep)

 (2002/06/17)


 

めでたさも中くらいなりワールドカップ

 サッカーのワールドカップたけなわの日本と韓国。だけど僕個人としては、めでたさも中くらい…ってことは、「アリ」感想文のイントロに書いた通りだ。FIFAとかいう怪しげな団体が気に入らないって話だったよね。いや。僕も試合を見れば結構面白がるし、興奮もするんだけどね。だけど試合中継が終わって興奮もさめて、新聞なんぞボケ〜ッと眺めていると、何だかイヤ〜な感じになってくる。

 だけど、「中くらい」な理由はそれだけじゃない。何せ巷の連中も何だかんだとうるさいからねぇ。急にサッカーの半可通が増えること増えること。口からツバ飛ばしてウンチク並べて、何だか滑稽なんだよねぇ。そんなにみんな詳しかったって初耳だったよなぁ。実は昔からサッカー好き…なんて聞いてねえよ。確かプロ野球のことしか口にしてなかったんじゃねえか?

 まぁ歳がいった奴でこの状態だから、若い奴つかまえればいっぱしの評論家気取り。いろいろしゃべらすと面白いよ。全部覚えておいて、ワールドカップ終わった後の酒の肴にしてやろうと思ってるぜ(笑)。まぁ俺はこういう時、思い切り性格悪いからね。

 特にイヤなのがテレビに出てきていろいろ語ってくれる自称「サッカー通」クズタレントども。あいつらヤメてくれないかね。本当に目障りなんだ。あと、日本代表に肩入れするのはいいとして、「我々は勝つんです!」とか「我々は勝ちました!」とかホザいてるバカ。オマエは何もやってないだろ、このボケ! テレビ局のブースの中で飲み食い自由にやって涼しい顔して生意気こいてる連中が、「我々」たぁどういう了見なんだ。本当にこいつら恥というものを知らない。それとも、サッカーのサポーターとかいう連中って、みんなこの調子のずうずうしさなんだろうか? 大体サポーターって何だよ、湿布でもしてるのか(笑)。

 俗にサポーターって「12人目の選手」と言うんだそうな。確かに大歓声が後押しするということはあるだろうよ。ホームとアウェーじゃ有利だ不利だってことも分からない俺じゃない。試合が終わって声援に応えて、選手がサポーターたちに「あなたたちは12人目の選手でした」って言って感謝するなら分かる。だけど、もしもこのサポーター連中が最初から「俺たちゃ12人目の選手なんだぜ」って当然のごとくデカいツラしてるんだとすれば、そりゃオメデたい以外の何者でもないね。それ自分で言ってたらバカだって。走りも蹴りもしない、ただ声上げて踊って顔に旗描いてるだけで12人目って本気で思ってたとしたら。それならまだ、「オマエらは選手でオレは客だ」ってフンぞり返ってる奴の方が、少なくとも自分の位置関係だけはちゃんととらえてはいる。何だかこういうサッカーを取り巻く雰囲気そのものってのが、何となくイヤではあるんだよね。

 ましてテレビに出てきて「私たちは勝つんです!」なんてホザいてるバカタレントは言語道断。今これを書いてる時点(6月12日水曜日)では、次の日本対チュニジアの試合の結果は当然分からない。だが前回対ロシア戦で勝ったとたんに、こいつらがチュニジアはチョロいだのイタダキだの言い出したのは見苦しかった。あるいは引き分けなら16強だの何だのって、とらぬ狸の皮算用。イヤだねぇみっともなくて。前もそんな事を言いながら何度ミジメに敗退したと思うんだ。次はチョロいと言ったそばからボロ負けなんて、いくらもあったよな? もう、こういう大本営発表みたいなおめでたい発言は、おやめになっていただきたい。大体相手に失礼だよ、こんなクズタレントどもにコケにされる筋合いないよな。

 だから、そんな連中が取り巻くサッカーってものが、何だか好きになれないんだよね。試合は面白いから見るし、日本代表の試合ならそれなりに夢中にもなる。だけど、あまり浸りたくないわけ。

 そんな今回のワールドカップに限らず、オリンピックやらの国際的スポーツイベントには、多分にナショナリズムを発散するという意図もあるんじゃないかね。実はそういうのも僕はあんまり好きじゃない。でも五十歩譲って、ワールドカップやオリンピックがナショナリズムの発散の場だとしたら、それはそれでいいのかもしれない…とは思ってる。

 確かにこういう国際的イベントってどこか代理戦争の様相を呈してくるよね。平和の祭典なんてまずウソっぱちだ。だけど、それだからこそ別の意味で、こういうイベントって「平和の祭典」と言えなくもないわけ。人間ってのは民族主義、国家主義にはしりたくなる部分が誰でもあるんだよ。いや、自分は違うと言い張る人は違うのかもしれないけど、大半の人にはそれがある。そして戦争したいという気持ちも、たぶん抑えられない人間の性なんじゃないかと思うんだよね。だから、それを定期的にガス抜きしなけりゃならない。こういう国際イベントってのは、たぶんそのために機能しているんじゃないかと思うんだよ。

 かく言う自分も先に言ったように、日本代表戦を夢中になって見るし応援もする。それって別に国粋主義的感情があってやってるつもりじゃないけどね。ごく自然にそうやっている。だから、そこでナショナリズム云々を問うのはヤボというものだとは思うけどね。

 まぁサッカーのことはこの際こっちへ置いておくとして、実際にはそういうヤバいことって、そんなさりげないかたちでみんなの心の中に自然に存在しているものなのかもしれない。そして、知らない間に表に顔を出してくるものなのかも。実はそれに身を委ねて浸ってしまえば、結構心地よいものなんじゃないか?

 だからこそ根強いし、タチも悪いんじゃないかと思うんだよ…。

 

「軍艦マーチ」高鳴る中国の寒村

 チャ〜ンチャ〜ンチャンチャカチャッチャッ、チャッチャッチャッチャッチャン!

 第二次大戦真っただ中の中国の海辺の寒村。この村は日本海軍巡視隊の直接支配下にあった。この巡視隊の隊長・宮路佳具は、毎朝ブラスバンドを率いて「軍艦マーチ」を演奏しながら村を練り歩くのが日課。当然、占領されている村の人たちにとっては、耳にタコな馴染みの音楽となっていた。

 そんなある晩のこと。村の男の一人チアン・ウェンの家の戸をドンドンと叩く者がいる。チアンウェンは驚いた。だって彼は今、女と一戦交えている真っ最中。それも相手が村の若後家チアン・ホンポーだから、大手を振って乳繰り合っている訳にはいかないんだよね。

 こわごわ戸を開けたら、入ってきた奴はいきなり銃を突きつけた。さては日本兵か? 思わず目をつぶって身構えるチアン・ウェンだが、どうも相手は日本人じゃないらしい。少なくとも同胞だ。

 この「私」としか名乗らない男は、チアン・ウェンに二人の男を預かるように言った。それも占領中の日本軍に気付かれずに。無茶な話は無茶な話だが、相手は銃を持っているのだからしょうがない。5日後に取り戻しに来るから、それまで預かって尋問もしておくようにとの言いつけ。チアン・ウェンが目を開けてみると、すでに「私」なる男の姿はなかった。そして麻袋に詰め込まれた人らしきものが二体…。

 早速ひそかに深夜の村の会議が始まった。困り果てたチアン・ウェンが集めたのは、村の長老を筆頭に、口が軽そうな男やら、すぐに麻袋の人物を殺そうと言い出す物騒な男などいろいろ。

 麻袋に詰め込まれているのは日本兵らしい。そして、それを日本軍に感づかれても駄目だし、殺す訳にもいかない。「私」なる人物が取り戻しに来るまで無事に生かしておかないと、その「私」がこの村にどんなことをするか分かったものではない。何とか逃がさず見つけられず殺さずに、その日まで捕えておかねばならぬ。

 仕方ない。行きがかり上、この麻袋の二人はチアン・ウェンが世話することになった。

 翌朝、この麻袋をば開いてみると、中から出てきたのは日本兵の香川照之と、通訳をやらされてる中国人のユエン・ティン。日本兵の香川はもう破れかぶれで、こうなったら中国人怒らせて潔く散るだの何だの大騒ぎしている。ユエン・ティンはそんな日本人のヤケに付き合う気はさらさらないから、何とか中国人に取り入って助けてもらおうと必死。香川の中国人への悪口雑言を訳すふりをして、村人へのオベンチャラやら日本軍の戦力バクロやらペラペラ。これにて尋問とやらは無事終了だ。

 だが、香川はあくまで抵抗し続ける。飯は食わないわ暴れるわ、朝の「軍艦マーチ」が聞こえると自分たちを知らせようとわめくわ。だけど、とてもじゃないが彼らの声は届かない。次に香川は飯を吐き出して中国人を怒らせようとする。日本武士は捕虜にならずに死ぬのが本懐と言う訳だ。だが通訳ユエン・ティンが小麦粉を使わない食べ物は食えないと機転をきかして誤訳(?)したため、チアン・ウェンは何とか物資がない村で小麦粉を見つけようとする。

 やがて。「私」なる男が二人を取り戻しに来る夜がやってきた。

 香川は何とか自分たちを村人に殺させようと必死。一番中国人を侮辱する言葉を教えろと通訳ユエン・ティンに迫る。チアン・ウェンが「最後の食事」を持ってきたところ、香川は目をギラギラさせて大声でわめいた。

 「オニイサン、オネエサン、アケマシテオメデトウゴザイマス!」

 これにはチアン・ウェンも驚くやら嬉しいやら。そうかそうか、ようやく分かってくれたか。何だやりゃあできるじゃねえか。対する香川は自分がとっておきの悪口雑言ブチまけたつもりなのに、相手がニコニコしてるから調子が狂う。仕方ないから覚えたてのこの悪口を何度も何度も繰り返すが、一向に手応えがないから泣くに泣けない。チアン・ウェンはチアン・ウェンで、もう分かったって言うのに何度も何度も「新年の挨拶」を繰り返すのが何とも解せなくはあるし、何せ「挨拶」の割にはやけに怒った顔なのが不思議だ。だがこれも、通訳ユエン・ティンに「日本人の顔はあんなもの」と言われれば、確かにそう思えなくはない。というわけで、両者の美しき誤解がどこまでも広がっていくのであった。

 だが、結局「私」なる男は来なかった。 

 翌朝、その代わり…というわけではないが、村に見知らぬ日本兵二人組がやってきた。こちら大した階級でもないくせに、村の男を脅し、鶏を食わせろと言いたい放題。これにはチアン・ウェン、思いっきり胆を冷やした。香川たちの存在を知られたら大変だ!

 何とかかんとか取り繕うチアン・ウェンや村の衆。そうとは知らずフンぞり返りいばりくさる日本兵二人。その頃納屋に閉じ込められた香川と通訳ユエン・ティンは、この期に乗じて自分たちの居場所を何とか知らせようとした。そこでとった手段が…。

 コッコッコッ…日本兵二人組のいるところにやってきた鶏の首に、何と香川のお守りが下げられているではないか!

 慌てて鶏に飛びつくチアン・ウェン。間一髪間に合った。事なきを得て、日本兵二人組は空威張りして去って行った。思わず安堵の一同。

 危機が去って緊張が解けるとともに、さすがのお人好しチアン・ウェンにも一気に怒りが込み上げてきた。彼は閉じ込めた香川たちのもとへ駆け寄ると、その胸ぐらをつかんで吠えまくった。

 「きさま、二度とやりやがったらこの俺がブチ殺すからなーっ!」

 さて、それにしてもいつまでもこの二人を村に置いておくわけにはいかない。いいかげん養っていくのもシンドイし、まるで安心というものが出来ない。そこで長老は街に潜む同胞の抵抗軍へと伝令を出して、この二人の処遇をどうするのか指示をあおぐことにした。

 すると、この同胞の軍では二人のことなど関知しないとつれない返事。おまけにさっさと処置せよと来た。処置…殺すのか? これには、世話をして接してきたうちに情が湧いたというわけでもないが、何となく同意できかねるチアン・ウェン。

 さぁ、そうなれば当然、誰が手を下すかと話になってくる。そして、どいつもこいつも殺せ殺せと簡単に言う割に、一人として自分でやろうとは言わない調子の良さ。揉めにもめた末に、結局またしてもお人好しチアン・ウェンが手を下すことになってしまった。

 いくら敵でも、人を殺すのは気が退けるに決まってる。結局、村の男二人が穴を掘ってくれたところに、チアン・ウェンが例の二人を殺して埋めることになったわけ。気が重い。

 そんなイヤな思いをして帰って来れば、今度はいい仲のチアン・ホンポーが白い目で見る。人殺しなんかとイチャつきたくないという事なんだろうが、一体なんなんだ。どいつもこいつも。

 結局チアン・ホンポーは彼を許してくれず、まるで彼を近づけようとしない。これにはチアン・ウェンは思いっきりこたえた。

 実は俺は奴らを殺してねえんだよ〜!

 そう。二人を殺せずに、崩れた廃虚の内部に隠していたのだ。これには村の連中は、どいつもこいつもテメエを棚に上げてチアン・ウェンを非難し放題。だが、もうこうなったらチアン・ウェンも強がる道理はなかった。自分には殺せないと泣き叫ぶより他はない。そんな彼を非難する連中だって、妙に勇ましいことを言って自分にお鉢が回ることを恐れているテイタラクだ。決まるものも決まらない。

 結局、チアン・ウェンは豆を一袋担いで街に出かけた。そこで長老が紹介してくれた「ある男」と会うために…。それは何を隠そう「殺し屋」だった。

 だがこの「殺し屋」、殺しはもっぱら銃でやるとのこと。チアン・ウェンにも村にも銃がない上に、あの状況下では銃声など立てられない。ならばどうする? 「殺し屋」は彼を銭湯に連れていく。するとそこに一人の老人が…。

 かつてあの西太后が8人の大臣の首をはねさせたことがある。その時に手を下したのがこの老人だと言うのだ。しかもそれら大臣の遺族たちは、いまだにこの老人に感謝の念を忘れない。

 なぜか?

 その剣の切れ味の鮮やかにして甘美なること、まさしく昇天、成仏を約束してくれる一振り。切られた首たちは、みな目を何度も瞬かせて満足しきった笑みを浮かべて死に赴く。まさに斬られる者に至福を与える剣なのだ。

 これはいい。これならあいつらも成仏出来るだろ。

 平身低倒拝み倒してこの老剣士と「殺し屋」を村に招いたチアン・ウェン。ある夜、いよいよ香川と通訳ユエン・ティンの「昇天」を決行することになった。

 緊張の一瞬。香川の回りを剣を構えて走り回る老剣士。チアン・ウェンはじめ村の衆は、息を飲んで見守った。

 ビュッ! 鮮やかな一太刀。

 やったぁ、お見事ぉ…の声がみなから漏れるか漏れないかのちょうどその時、斬られたはずの香川がムックリ起き上がるではないか!

 い、生きてる?

 隙を見て香川と通訳ユエン・ティンが脱出を図り、それを村の衆が取り押さえようとテンヤワンヤのその傍らで、今一度斬ってくれと頼む声に耳を貸さない老剣士。あれで死なないとはそういう運命だったのだ…という分かったような分からないような理屈を並べたあげく、老剣士は実は自分の剣の腕がサビついていることを悟って大ショック。もう自分のことで頭がいっぱいで二人のことも村人たちのこともどうでもよくなっていて、少しでも早くこの場を離れたがっていたわけ。調子のいい「殺し屋」ともども言い訳にもならないことをホザきながら、村をサッサと出ていく無責任さだった。

 またしても、例の囚われの二人と村人が残った。

 どうしてものかと万策尽き果てたチアン・ウェン以下村人たちの途方に暮れようもさることながら、この時点になると囚われの二人、分けても日本兵の香川の方の心境もかなり変わってきた。すっかり死ぬタイミングを逸してみると、もうとてもじゃないけど死にたくない、大体俺は武士じゃない、ここの連中と同じ百姓だ…とまるで目からウロコが落ちたような言いようだ。これには通訳ユエン・ティンも驚いた。そんな会話をしているうちに、今までまるでいいかげんな通訳をしてきた事までバレバレになったあげく、お互い派手に言い争う香川と通訳ユエン・ティン。俺は昔からおめえみたいなインテリ大っ嫌いなんだよ、な〜にが武士だよ百姓の分際で…とまぁ、目クソ鼻クソを笑うたぐいの言い争い。ともかくそんな訳で、この村の奴らは俺と同じ百姓、しかも俺に優しくしてくれた…と、日本兵香川の言い分は180度変わってきた。

 そして香川は提案したのだった。村の罪は問わない。ここの村人は半年の間、日本兵香川を助けてくれた。だから、褒美をとらせるように軍の上に働きかける…。

 この提案を、村人の方も歓迎した。殺すのどうのと殺伐とした論議にウンザリもし、二人を閉じ込めて養うことにいいかげん疲れもした。もうこの際、この香川の提案に賭けてみよう。それで褒美までもらえれば儲けものではないか。他の連中はともかく、一連の騒動に疲れきったチアン・ウェンは一も二もなく乗った。

 結局、何だかんだ言って村のみんなも同意した。

 …というわけで、香川と通訳ユエン・ティンにチアン・ウェン率いる村の衆が同行して、香川たちが元いた日本軍の兵営へと向かう。もちろんチアン・ウェンは香川が拇印を押捺した念書を携えていた。一同がたどり着いた日本軍兵営では、長く行方不明になっていた香川が帰ったということで、所内に一気に緊張が走った。さぁ、どうなる? 泣く子も黙る日本軍の兵営で、果たして彼らの思惑通り事は運ぶのか?

 チアン・ウェン、日本兵香川、そしてそれ以外の連中の運命は…?

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画の後で

 

 

 

 

 

 

 

日中戦争真っただ中での「ままならない人生」

 チアン・ウェンって言うと、僕にはまず「芙蓉鎮」に登場した有望な“若手”俳優って印象が濃いんだよね。次いで「紅いコーリャン」。あともいろいろ作品に出てるけど、まずはこうした映画でのイメージが強い。

 それが次には監督デビューと言うからいかがなものかと思ったら、出来上がった「太陽の少年」は、不思議な肌合いの作品。文革で大人たちが出払った北京でわがまま放題が出来た少年たちの追憶物語というユニークな設定をとり、そこに一人の女への鮮烈な思いを中心に置いた知的な作品だった。大体さんざ先輩映画人が文革恨み節をワンパターンに延々垂れ流しているのを横目に、文革だったからこそ自由の恩恵を得た少年たちがそれを十分に満喫してるって描き方は、斬新でありかつリアリティがあった。そりゃあ文革だからって毎日地獄みたいな日々が続いてるってわけもないもんね。いやぁ、この人ってかなりインテリだなぁ…とマジメに感心しちゃった。

 ただ、上記したような繊細な語り口から見て、野太くてスケール感のある作品ってのはちょっと手がけないんじゃないかと思ってたんだ。だから今回の作品は驚いた。

 あの暗黒の日中戦争時代、日本占領期の中国を中国人からとらえた作品。にも関わらず、こう言っては何だが…悲嘆と恨みと慟哭と憤怒にとどまらずにそれらを超えた部分で、何とある種の軽みさえ帯びた語り口で綴る人間悲喜劇を、こうも鮮やかにつくり上げるとは…。それってチアン・ウェンに限らず、そもそも中国映画人からこんなかたちで提示されるとは夢にも思ってなかったよね。

 何せ笑ってしまう。笑うしかない。日本軍に占領された中国人の村に降ってわいた災難…それが中国同胞のもたらしたものだというところからして、すでに皮肉は始まっている。日本武士として死にたい一点張りの香川照之扮する日本兵も相当滑稽だが、それを何とか巻添えにされずに生き残ろうとする通訳ユエン・ティンが、次から次へと曲げて訳すことによって起こるミスマッチの連続は爆笑もの。厄介になった村人は簡単に日本兵たちを殺せと言うが、いざとなると自分で手は下したくない。かと言って、殺しを遂行出来なかった主人公に対してはテメエのことを棚に上げて当然のごとく非難する。この卑怯さ狡猾さ、そしてその人間味。この映画の中盤あたりまで、クスクス…どころか爆笑の笑いどころが連発する。頼りにしていた「殺し屋」や老剣士が、ことごとくカッコつけてる割には見かけ倒しなところも苦笑を誘う。日本武士だとスゴんでいたが、死に場とタイミングを失いすっかりその気がなくなった香川日本兵が、今度は村人たちと「百姓」同士の連帯を感じ始め、インテリの通訳に反発するあたりの調子の良さも失笑ものだ。どいつもこいつも立派なもっともらしいことを言ってはいるが、結局のところ言ってるまんま出来れば苦労はない。 このあたり、日本だ中国だというレベルを超えて、人間の持つ滑稽さ弱さいいかげんさをキッチリ見せて見事だ。しかもそれがお説教ではない、爆笑コメディとして成立しているから大したものなのだ。

 その中で終始等身大の発言しかしていないのがチアン・ウェン本人が扮するお人好しの主人公だ。そして、そんな彼が終始割をくっている。この物語の中心に座って観客の感情移入を一身に受け止める彼にとって、ここで起こることは終始自分ではどうにもならない、予期せぬ災難以外の何者でもない。

 つまりは…またしても先日見た「活きる」や「バーバー」で描かれたのと同じことがここでも語られる。それは、「ままならない人生」ということだ。自分ではどうにもならない。災いは降って湧いてくる。いろいろやってはみるのだが、何一つ思ったようにはいかない。

 最初のうち観客はそれを笑って見ているが、いよいよ終盤に差しかかって笑ってる場合じゃなくなっていく

 面白いのはこのチアン・ウェンと香川日本兵が、ちょうど対照的なポジションでシンメトリーを成すような構成をとっているところだ。 どちらも何も悪いことはしていない。それぞれ自分の置かれた立場で頑張っているのに、チアン・ウェンは日本兵を殺さなかったと罵倒され、香川は死なずに捕虜になったと責められ、いずれも同胞からの身勝手な冷たい視線を浴びる。

 物語が異様な緊張感に包まれる、村での日本軍と中国の村人たち交えての大宴会のシーンを思い起こして欲しい。日本軍の隊長である澤田謙也は、中国人の捕虜であることに甘んじていた香川を腐敗分子と決めつけ、宴会に列席した中国人に対して銃で撃ち殺していいと言い放つ。

 一方、終盤では国民党軍の命によって、日本軍人によるチアン・ウェンの処刑が言い渡される。

 どちらも、マトモに考えれば矛盾した事の成り行きに思える。だが、その矛盾したオカシなことが実際に起こってしまうのも、また「ままならない人生」というものなのだ。あるいはそれこそが人間の世の中か…。そして「戦争」もそんな人間の世の矛盾した構成要素の一つだ。

 ここまで読んでいただいたみなさんならお分かりの通り、チアン・ウェンと香川は同じコインの表と裏だ。チアン・ウェンにとって人生がままならない(香川たちを詰め込んだ麻袋が否応無しに自宅に投げ込まれてから、一つとして自分の意思通り物事が運ばない)のと同じように、香川にとっても人生はままならない(自分が麻袋に詰め込まれてチアン・ウェンの家に置いておかれてから、彼の自由は全くきかない)状態だ。何も思うようになんてならない。

 だが、非常に似たようなポジションに置かれる「公開処刑シンメトリー」の二人…村の宴会での香川と処刑場でのチアン・ウェンが、結果的には180度違う運命を辿ってしまうのはなぜか? 両者の置かれた違いはどこにあるのか?

 それは「軍隊」というシステムがあるかないかだ。

 香川を殺せと呼びかけられた相手は、中国の寒村のただの村人。それまでも香川が邪魔で殺そう殺そうと何度も試みたのに、結果的に殺すことが出来なかったのを思い出して欲しい。一方、チアン・ウェンの処刑を命じられたのは、命令系統が確立された日本軍人。そこで結果的にチアン・ウェンを殺すことになった香川が、自分を助けてくれた恩を感じなかった非人間性を非難しても仕方がない。これは(奇跡的にも)そんな日本軍の非人間性“だけ”を告発するためにつくられた映画ではない。告発しているとすれば、「命令されたら遂行する」という思考停止状態をつくれてしまう「軍隊」というシステムと「戦争」というプロセスに対してではないか?

 硬直した軍隊の呪縛から解けた香川が感じたのは、「同じ百姓」という中国村人たちとの連帯感だった。だが、そんな個人の属性は「軍隊」と「戦争」の前では無に等しくなる。なぜなら、そこにいるのは香川「個人」ではなくなるのだから。さらに言うならば、誰を殺したところで「自分」がやったわけではなくなる。まして「命令」とあらば、自分は絶対に責任がない。だから、どんな凶悪なことも残虐なこともやり放題になれる。「軍隊」と「戦争」の絶対的、決定的な“悪”は、むしろそこにあるのだ。

 人間誰しも途方に暮れる「ままならない人生」について、そして「軍隊」と「戦争」の本質について…片寄った思い込みにとらわれずに普遍的に描ききったこの「人間喜劇」(あえて「喜劇」と言うべきだろう)は、思った以上に力強くて線が太い。これをあの線が細そうだったチアン・ウェンがつくり上げたとは、失礼ながら大したものだと感心しちゃったんだよね。

 で、よく出来てて立派でいい映画で…、それで片付けられれば苦労はないんだけど、僕にとっては実はそれで終わりではなかったのだよね。

 それはやっぱり僕が日本人であることと大いに関係がある。

 

正直言って日本人にはイタい部分も

 当り前の話だがアジアの映画で戦争を扱ったものになると、必ずと言っていいほど日本軍が出てくる。「紅いコーリャン」「風の輝く朝に」…などなどなど。これは仕方がないとは言え、正直言って自分も日本人である僕は、それを見ていて決して楽しいわけではないね。もちろん、日本軍の暴虐を描くなと偏狭なことを言うつもりはない。あれは正しい戦争だったなんて今時の若い奴みたいな寒いことを言うつもりもないよ。そんなテメエたちをどうしても正当化したいなんて見苦しいマネをする気なんてさらさらない。

 だけど、やっぱりこっちも人間だからして、それは愉快に見るって訳にはいかないね。自分が悪い奴だとか悪者の陣営の側だなんて、誰でも考えたくはないだろう?

 ただここでハッキリ言っておくけど、この「鬼が来た!」は、決して中国側ワンサイドで日本軍を非難する視点でつくられた映画ではない。もちろん日本軍が善と描かれているわけはないが、ヒステリックに槍玉に挙げられたり、「スター・ウォーズ」の帝国軍みたいにペラペラに描かれたりはしていない。むしろ、香川照之の日本兵に代表されるように説得力ある人間像を提示して、かなりの笑いもとっている。日本軍の隊長に扮する澤田謙也も、それなりの重みのある役者で決して薄っぺらな描き方はしていない。上記のチアン・ウェンと香川の「公開処刑シンメトリー」の比較と、そこに介在する香川の「同じ百姓」認識を考えると、この映画で描かれているのが「日本軍は悪」ってな単純な観念でないことは明らかだ。

 だが、この映画の日本軍の描き方は、正直言って結構イタい

 実は今までアジア映画でどんなに日本軍が出てきても、僕は大してこたえなかったんだね。割と冷静に見ていられた。まして「太陽の帝国」やら「パール・ハーバー」など楽勝もいいとこ。楽しくはないよ。だけどシンドくはなかった。それってなぜだろう?

 それは、それらの映画での日本軍の描き方が、どうにも不器用でいいかげんだったからじゃないか?

 日の丸つけてそれっぽい格好をしていても、どこか変な日本兵たち。言葉遣いがおかしい、上下関係が変だ、軍服が違ってる…戦国時代の武将よろしく原っぱで作戦会議をやってる「パール・ハーバー」の日本軍を引き合いに出すまでもなく、あれは日本軍なんだと分かっていても、とてもじゃないけどマトモに受け取る気なんてなくなる手合いの描写なんだね。それじゃあ「真珠湾攻撃」も「クローンの攻撃」と大して変わりない。ダース・ベイダー見てツラくなる奴なんていない。

 だが、この「鬼が来た!」の日本軍は違う。

 本物そっくりとは言うまい。本物を知らないんだからね。実際のところ細かいところを見れば、時代考証が間違ってる、階級に描きかたがおかしい、服装が変だ…とか、いろいろあるのかもしれない。だが、我々日本人が一見しておかしく思う部分はちょっと見受けられない

 それより何より凄いのは、この映画の日本軍には、まさに日本の軍隊らしいと僕らに思わせるリアリティが宿っているのだ。それは、あの時代、あの軍隊を知らずとも想像がつく。日本の男性社会に脈々と受け継がれた、ある忌まわしい空気みたいなものだ。学校、会社、地域社会…さまざまな場所に今もなおはびこる、いかにも日本的なイヤらしさだ。それが見事に息づいている!

 だから見ていてツラかったんだよね。

 僕がガキの頃にイジメ抜かれた当時から、今に至るまでイヤというほど見せられてきた、日本の(主に男性)社会のおぞましい部分を見事にとらえているもんだからねぇ。だから今回はグッとこたえた。むろん、それだけにかなりの見応えもあったんだけど。

 そして、実はこの映画の日本軍描写がことさらにイタかった理由がもう一つある。それは、ちょっと僕のプライベートな部分に触れてくるんだけどね…。

 僕がビデオ製作の仕事で中国に行った話は何度もしたと思うんだね。その時は一緒に行った日本のビデオクルーの連中より、ずっと現地の連中の方が僕を助けてくれた。だから、この時の中国側の人々には僕は一生の恩義がある。今でも感謝の気持ちは忘れたことがない。

 ところで実はこのビデオ撮影に先だって、僕はロケハンの時にも現地入りしているんだよ。実はその時にこれまた憂鬱な旅のお供が同行していたんだね。僕にとってはお客ということになる、ある企業のお偉いさんが一緒だったわけ。こいつがアジアでの日本企業人の典型みたいな人物で、金があるんだか何だか知らないが、現地の中国人をアゴで使って対等の人間扱いしていない。どうしてこういう時に、日本人って人品の卑しさが前面に出ちゃうんだろう? いや、別に「俺は善人だ」って言うつもりはないよ。だけど、こいつがヒドすぎるんだよ。

 ただ、うわ〜ヤダな〜っと横でずっと思ってはいても、あっちは客だから僕がそれを指摘できるはずもない。そうなると、そいつと同行している僕も同じ穴のムジナなんだよ。日本軍に入隊したも同然。中国人から見れば同罪。いくら僕自身はこんな奴とは違う…と腹の底で思ってはみてもね。

 そんなこんなで現地の村に入った時のことだった。村の子供が僕を見て、いきなりこう言ったんだよ。

 「日本鬼子!」

 今ではこう書いて何て読むのか忘れた。たぶん、リーベンなんとかって言ったんだ。でも、その意味は分かる。戦争中からずっと中国人が、陰で日本人を呼ぶ時の俗称だ。

 これを聞いた時、ショックでねぇ。ズシ〜ンと落ち込んじまったよね。だって、僕は自分で少しは「進歩的で良心的な戦後の日本人」的な気分でいたんだからね。偏見もないつもりでいた。それなのに、何で俺が「鬼子」なの? おまけに同行している「鬼子」そのものの日本企業野郎は何も言われなくて、何でこの俺が「鬼子」なわけ?

 そう思ってみると、最初の落ち込みから気持ちがグル〜リ回り回って、180度違う感情が込み上げてきた。

 このクソガキャア〜、張り倒してやる〜!

 信じられないかい? でも本当だった。鬱が転じていきなりカッと来た。本当に危なく殴りつけるところだった。そんなに瞬間湯沸かし器的に激しい感情が押し寄せてきたんだね。考えてみれば、「進歩的で良心的な戦後の日本人」だったはずの僕、少なくとも同行している日本企業野郎よりはナンボかマシだったはずの僕が、ほんのちょっとしたサジ加減で正真正銘の「日本鬼子」に変貌してしまう一瞬だったんだね。自分の中にも間違いなく「日本鬼子」はいたのだ。

 本当は人に打ち明けられる話じゃない。自慢になんかならない。ひたすら恥ずかしい思い出だ。だけどその時の体験があるから、僕は「鬼が来た!」の後半での香川日本兵の感情が分かる。あの一種矛盾するような感情の流れ…瞬間的で突発的な暴力衝動は、実際そういう場面になったら本当にあるんだよ。

 だから、この映画後半の日本軍描写はリアルだと断言できる。そしてそのリアルさがただ事ではないから、鋭い痛みを感じるんだよね。

 

 そんな「鬼が来た!」、確かに日中関係が…とか戦争が…とか言うと、えらく特殊な事情を映画にしたみたいで大半の人々には関係ないことに思える。それが必ずしも現代の我々とも関連ないわけじゃない…ということを何とか言いたかったわけだが、それでも多くの人々には自分には遠い世界のことのように思えてしまうだろうね。

 だけどね、少なくともこの映画が語ろうとしてる「ままならない人生」…って一点だけは、我々だって必ず共有する感情だと思うんだよ。せめてそれだけなら理解できるだろう?

 映画の一番最後、チアン・ウェン扮する主人公は、事もあろうに日本軍の手で処刑される。僕は最初の頃この映画の大笑いの快調なコミカル展開に、戦争を題材にした傑作コメディだと拍手喝采した。それが終盤に近づくにつれて重苦しさを増していったのが、自分の属する国の軍隊のせいということを差っ引いてもちょっと残念ではあったんだよ。そして、あの一触即発といった緊張感ビリビリの村の宴会。しまいには、よりによって必死に助けた香川日本兵の手で死ぬことになるのだから。皮肉な味を狙ったとは言え「そりゃないだろう」と言いたくもなった。別に日本軍が徹底的に悪者にされてもいい。でもコメディと思って見ていて実際大笑いさせてくれたこの映画の、愛すべき主人公がこんな末路を遂げるのでは、いくら何でも後味悪すぎではないか。もうちょっと何とかなんないの?

 だけど改めて考えてみると、あのエンディングはあれしかないかもしれないんだよ。

 哀れな主人公は、結局は香川の鮮やかな一太刀できれいに首を斬り落とされる。その首はゴロゴロゴロッと転がると…目を瞬かせてニッコリと満足げな笑みを浮かべる。それは香川を殺そうと村に招いた老剣士の伝説の一太刀…斬られる者に至福を与える剣の切れ味のようではないか。

 何とでも解釈出来るこのシーンだが、僕はこのラストを見届けた時、つい最近見たある映画のことを思い出した。先にもちょっと引用した映画、やはり「ままならない人生」を描いたコーエン兄弟によるアメリカ映画「バーバー」のエンディングだ。

 「ままならない人生」…生きている間は何一つ思うようにいかないのが人生。それが終わりを告げた時初めて、人は本当の安らぎを得られる…。

 ならば首を落とされた主人公の顔に広がるあの笑みは、確かに辛苦から解放された安らぎの表情と見てとれなくもない。

 例え立場がどう変わろうと、日本と中国の力関係が変わろうと、それ以外のどこかの国と国だったとしても、結局「人生ままならない」のは変わらない。そして人の世に、そんな「ままならなさ」が絶えることもない

 ならば主人公がたどり着いた最後の安堵の笑みも、ハッピーエンディングと受け取るべきではないのか。観客にとってはいささか皮肉なものではあるのだろうけれどね。主人公が生首となった後の目の瞬きは、見ている僕らへの目配せなのかもしれないんだ。こんな世の中に生きなきゃならない、アンタがたはご苦労さん…って。

 だってこれはコメディ…間違いなく「人間喜劇」なのだから。

 

 

 

 

 

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