「ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ」

  Hedwig and the Angry Inch

 (2002/04/22)


人は他人の言うことなんか聞かない

 あなたがいきり立って言うことを聞かない、生意気盛りの若い奴だと思って欲しい。

 誰でもそうだった時があるから、容易にその時の気持ちなり状態なりっていうものは想像できるよね。そういう時ってカッカしてるといろいろ回りが見えないし、とにもかくにも人の言うことなんて聞こうって気がない。

 そんな時、親父にでも小言をくらったと考えてみてくれ。そうしたら、あなたはどうするか

 親父の言ってることは一理も二理もある。ひょっとしてあなた自身その通りだと薄々感づいてることかもしれない。それを頭っからでなくジミジミと説得するように説かれたとする。あなたは親父の言うことを聞くだろうか?

 物事すべてに渡って例外というものがある。だから何でも一概には言えないだろう。人によって違うということだってあるだろう。だから結果は千差万別だと言えるだろう。だが、たぶん結論は五十歩百歩なんじゃないか? 

 あなたは親父の言うことに耳を傾けはしまい。

 むしろチャンチャラおかしくて、余計反発するだけじゃないか? 僕は体験的にそう思う。

 いや、そこに別の要素が絡めば分からないよ。やれ家を追い出されるだの、何かを奪われるだのといった脅しがあれば、その場は言うことを聞くかもしれない。だけど、納得はしやしないよね。そういうものだ。

 で、相手が親父でなくて、自分も生意気な若い奴でなかったらどうかと言うと、果たしてどうなるか?

 実はやっぱり結果は同じだろうと思うんだ。言うことは聞かないと思う。

 しょせん人間は他者の言葉に耳を傾けようとはしない。自分に受け入れる素地があって、聞こうとして聞いていれば別だよ。でも、一方的に有難いお言葉を頂戴する時ってのは、まず聞かないね。良くて、ハイそうですかと耳を素通りするだけ。人間ってのは他人の言うことを素直に聞いたりしないものなんだ。だから、言葉だけの説得で相手を納得させようなんてのは、土台無理なんだよね。

 そのことを頭に置いてから、この文章を読んで欲しい。

 

傷つきながらさすらう怒りの1インチ

 今日も今日とてヘドウィグが、ロックの轟音と共に雄叫びを上げる。

 ヘドウィグ(ジョン・キャメロン・ミッチェル)は金髪カツラでド派手衣装に身を包んだ女装のロックシンガー。たった今、自分のバンドを従えて全米ツアー中だ。と言っても、演奏場所はアメリカ各地のファミレス・チェーン店。グロくてアブないヘドウィグのパフォーマンスは、アメリカ地方都市のファミレス客にはちいとキツすぎの様子で、食事中の彼らはヘドウィグたちの演奏に唖然呆然か辟易というテイタラク。それでもわれらがヘドウィグは勇ましくも激しく演奏を繰り返す。マネジャーのフィリスも、何とか仕事をつなげて全米縦断を果たそうと必死。それと言うのも、今はある意味でヘドウィグの勝負どころの時期だからだ。

 それもそのはず。ヘドウィグは人気ロックスターのトミー(ノーシス・マイケル・ピット)を相手どって訴訟中なのだ。今ここでもノリノリで演奏中のこの曲、すべてトミーの名でCDリリースされてはいるが、実は全部このヘドウィグの曲。かつてはヘドウィグと旧知の仲だったトミーは、曲を一切合財かっさらって逃げた。そしてその曲を元手に売り出してスターになった。踏みにじられたヘドウィグは、今日もこんな場末のファミレスで演奏するハメになったわけ。

 だからフィリスと組んで訴訟に踏み切り、バクロ雑誌に記事も載せた。それで得たチッぽけな話題を唯一の武器に、トミーが公演する街のファミレスに出かけては演奏する「ストーカー・ツアー」。みじめな奴と言わば言え。それでも何でも、そうでもしなきゃ気持ちが済まない。それにヘドウィグだって食っていかなきゃならないもんね。

 バンド仲間の一人はそんなヘドウィグの「夫」(ミリアム・ショア)。だが、最近は何となくヘドウィグとの間にすき間風が吹いている感じ。ヘドウィグも常に苛立っている感じだもんな。いや、それだって故ない訳じゃない。例のトミーの裏切りだけじゃない。ヘドウィグには周囲の人間に、世の中に、それより何よりこんなザマになった自分に、苛立たなきゃならない理由があった

 彼は元々、共産圏東ベルリンで生まれた。少年時代は西側から聞こえてくるロックに惹かれて夢中。さらにアメリカ兵の義父によって「男」を知る彼。そんなアリサマに母(アルバータ・ワトソン)は激高して義父を追い出した。テンヤワンヤのヘドウィグの少年時代、彼は母からある寓話を聞かされる。

 昔、人間はみな顔が二つ、手が四本、足が四本の存在だった。だけど、ある時に神の怒りをかい、その身を二つに引き裂かれて現在の姿になった。そうなっても、いまだにかつての「片割れ」を求めて彷徨う。そんな「片割れ」を求める気持ち、それこそが「愛の起源」なのだ…と。

 そう、ヘドウィグ自身、そんな「片割れ」を求めていたのかもしれない。そして東ドイツで、彼は西側での自由を求めていた、自分を燃え立たせるロックを求めていた、何より自分の「片割れ」を求めていた。

 ある日、青年になったヘドウィグに、黒人米兵のルーサー軍曹(モーリス・ディーン・ウィント)が接近する。セクシーなルーサー軍曹はヘドウィグに求愛した。彼はヘドウィグが求めてやまない「片割れ」のような気がした。何より彼は「自由」を持っていた。彼と結婚したい、結婚してアメリカに行って自由になりたい!

 だが、何かを得るには何かを失わなければならないのだ。

 自由になるためにはアメリカに行かねば、アメリカに行くにはルーサーと結婚しなければ、結婚するには「女」にならなければ。そして、「女」になるには手術をしなければ…!

 ところが手術は見るも無残な失敗だった。

 どんな失敗だったって? 6インチから5インチとれて、1インチだけが残された。6インチから5インチはとれたけど、1インチだけ残っちまった。それが怒りの1インチ。男でいられなくなり女にもなり切れない、アタシのアタシのやむにやまれぬ、今に至っても収まり切らない苛立ちの発端の、惨たらしくもみじめな怒りの1インチよっ! 今夜もヘドウィグはファミレスで血のにじむようなレアなステーキを食らう客に、その自らの行きどころのない怒りをぶつけるように十八番の曲「怒りの1インチ」を絶唱する。これでもくらいなっ! えっ? あんたは元から1インチ(笑)?

 男であることが出来なくなり、女にもなり損なったヘドウィグは、それでもルーサーと結婚してアメリカに渡った。だが、すぐにルーサーには別の男が出来て、家を出て行った。彼は「片割れ」ではなかった。おまけに虚ろな思いでテレビを見つめるヘドウィグの目に、ベルリンの壁崩壊のニュース映像が飛び込む。

 アタシが身を傷つけてまで手にいれた「自由」は、一体何だったの?

 やりきれなく絶望感に苛まれる夜、ヘドウィグはある日フト気がつく。美しいカツラをかぶって大好きだったロックを叫べば、ホ〜ラ、アタシはロックスター。精神もロックスピリットで解き放たれ、自由になっている。その日からヘドウィグのロックシンガーとしての日々が始まった。演奏しているのはシケた食堂でも、バックはそこらのオバサン集めた急造バンドでも、ロックのスピリットさえあれば、その時アタシは自由なの。

 そう。「自由」だったはずのアタシ…それが、なぜこんな地方都市のファミレスくんだりでのた打ち回っているのか? それは、みんなあのトミーのせい

 ライブ活動を続けながらバイトで食いつないでいた日々。その時、ベビーシッターの仕事をしていたヘドウィグは、17歳のトミーと知り合った。親のプレッシャーで押しつぶされそうになっていたトミー。彼がヘドウィグに興味を持ってライブを見に来るようになり、やがて二人で曲をつくり音楽活動をするようになるまで、大して時間はかからなかった。だけどヘドウィグはトミーに知らせていなかった。いまいましくも自分の股間にいつまでも居座る、あの怒りの1インチのことを。しかし、当然のことながらヘドウィグを求めるトミーに隠しおおせるわけもなかった。

 驚きいきり立ったトミーは逃げた。そして曲も持って消えた。やがてその曲でスターになった。

 ヘドウィグは、またすべてを失った

 そんな焦燥感は、ヘドウィグのバンド仲間に常に重くのしかかっていた。経済的にも恵まれていない状態での演奏活動。訴訟の行方も見えない毎日。苛立つヘドウィグにキレたバンドメンバーとマネージャー。ついにみんな空中分解して、ツアーもそこで幕となった。

 それはニューヨークでのこと。ヘドウィグは厚化粧をして夜の街に立っていた。食うためだ、背に腹は代えられない。ヘイカモ〜ン、お安くしとくわよ。

 そんなヘドウィグの前に横付けした一台の黒塗りのリムジン。何と、それはあのトミーを乗せたリムジンだ。いまやロックスターとして君臨するトミーは、ヘドウィグを車中に乗せた。

 緊張が走る車内、やがて和解と懐かしさが流れ、やはりアタシの「片割れ」はこのトミーなんだと思う。しかし、再びつまんないことで仲違い。苛立ち怒り狂うヘドウィグはトミーにも手に負えない。そんな時、リムジンが交通事故を起こした!

 たちまちスキャンダル!

 トミーはヘドウィグのことなど知らなかったと否定。ヘドウィグは元気一杯、何もかも洗いざらいブチまけた。マスコミもヘドウィグをクローズアップ。マネジャーのフェリスも金のなる木は見逃さない。バラけたはずのバンドメンバーもみんな戻ってきた。しがないドサ回りには変らないが、今度は前と比べ物にならぬほどの注目を集めて、ヘドウィグ・ファミレス・ツアーが再開だ。

 ノリまくり暴れまくり叫びまくるヘドウィグ。

 バンドも観客も騒ぎまくる。これは確かに望んでいたことの一つではあるだろう。だが、その喧騒の最中に、ヘドウィグは決定的にシラケかえる

 これは本当にアタシの望んだものだったのだろうか?

 

発想、歌、演出すべて抜群の素晴らしさながら

 この映画、のっけからノリノリのいかしたロックミュージックとパフォーマンスで、ゴキゲンになること受け合いの映画なんだよね。元々はオフ・ブロードウェイのステージだったらしいが、映画としてもこの安っぽさいかがわしさが何とも言えない。監督脚本に主演まで兼ねるジョン・キャメロン・ミッチェルって大した男だね。

 そして、何よりこの映画は数々のメタファーに溢れてる

 映画のテーマ曲の一つともなっている「愛の起源」が、まずその一つだ。愛とは自分の失われた「片割れ」を求めようとする行為だというメッセージを実践するかのように、主人公ヘドウィグは「片割れ」を必死に探そうとする。最初、それは自分と結婚したがった米兵だった。だが、それは彼に身を傷つける結果を与え、しかもすぐに彼の前から去って行った。さらに、そんな目にあってまで手に入れた自由は、ベルリンの壁崩壊で誰にでも手に入るようになってしまった。

 主人公に残されたのは、「失った」という実感だけだ。あるいは「不完全」だという意識

 それを取り戻したくて主人公はもがく。欠けたところのない満月のような状態を求めて、飽くことのない苦闘を続ける。男にも戻れず女にもなれない自分を、金髪カツラをかぶることで完璧にしようとする。ボロボロのバンドで貧しいツアーを続けていても、ロックスターの気分だけは持とうと思う。そして「片割れ」を求める。そこで自分は、おそらくやっと「完璧に満たされた」状態になるのであろうから。だが、改めて今度こそと見初めた「片割れ」である青年、曲も共作して一緒に演奏活動もした真の相棒である青年も、主人公の秘密を知って去って行く。それだけではない。主人公がつくってきた曲まで持ち逃げされた。またしても主人公は、決定的に「失って」しまうのだ。この喪失感、不完全性、奪われたものを取り戻そうとするテーマの繰り返され方は執拗ですらあり、主人公が引き裂かれた街ベルリンの出身だというところまで、見事なまでのメタファーの網羅ぶりだ。

 だけど、「失った」「奪われた」「取り戻さなくては」…と、後ろ向きにもがくばかりで前進を試みようとしない間は、実は何も打開されはしないのだ。そして、今自分が置かれている状態が本当に「不完全」なものなのか…と問直すまでは、苦痛が続くだけだと言っているんだね。それは、ずっと自分にそんな不完全性を感じ、まっとうで当り前な人間になろう自分が望む完璧な状態をつくりだそうと、無駄な努力を何十年も続けた僕にも身に覚えがある。だってそうやってやっと積み上げたモノも、結局空しく崩れて奪われていく。そうすると、またしても失ったものを取り戻さなくてはと焦り苛立ちながら、ずっと後ろを振り返る繰り返しばかりになるんだよ。それはまるでバクチで大負けしたギャンブラーがその負けを取り戻そうとムキになって、さらにカスな手に大金つぎ込んでどんどんジリ貧になっていくのに似てる。そしてその掛け金はどんどんデカくなり、負けもますますこんでくる。この主人公の気持ちは僕のそうした気持ちそのものだったんだね。だから見ていて痛かった。僕はそうやって、自分で自分を不幸に追いやっていったからね。

 結局、僕がそんな悪循環から立ち直ったのは、そんな忌まわしい循環を断ち切るある人との出会いがあったからなんだが、やっぱりそういったファクターがなければ目が覚めなかったよ。

 で、着想抜群、曲はどれもこれも良くってノリノリ、演出もメリハリきいてパワフル、主役も適役好演と言うことなし。ならばこの作品に文句のつけようなしだろうって言うと、これが実はまことに残念ながら、たった一カ所誤算があるように思うんだね。それは物語の肝心要、その主人公の目覚めの部分なんだよ。

 スキャンダルで一時的とは言え注目を浴びた主人公のライブは珍しく大盛況。しかし、周囲のそんな喧騒をよそにシラケわたった主人公は、例のド派手なカツラもコスチュームも脱いで裸一貫の姿で、気付いたらあの愛した「片割れ」トミーのコンサート会場にいる。そこで彼の自分を賛美する歌を聞いているうちに心境に変化が生じてくるという按配なんだが、これってどうなんだろう?

 この映画を見たみなさんは絶賛の嵐で、感想批評の類でもまったく異論はなかったみたいなんだけど、僕は正直言ってこの部分には違和感を感じた。いや、違和感じゃないな。何だかここへ来て、それまでエッジが尖ってはっきりしていたお話が、急にボヤけて見えなくなったんだね。

 一応、映画として観客の目に見えているもので判断するなら、主人公はトミーの「言葉=歌」を聞いて、気が変ったんだか悟ったんだかしたはずだよね。でも、そんなことくらいで人間の人生観って変るんだろうか? ここで、今回の感想文の冒頭、親父の説教話に戻ってくるんだよ。実際はどうあれ、ドラマ設定上だとしても、いかにこれはロックミュージカルなんだと言ってはみても、主人公の一大転機となるにはちょっと弱すぎやしないか?

 ドラマを四コママンガの起承転結で考えた場合、その「転」に相当する部分ってのはかなり力業を要する大切で難しい部分なんだよ。例えば近作で考えてみよう。大ヒット作「ハリー・ポッターと賢者の石」だ。

 

 

 

 

 

以下は、できれば「ハリー・ポッターと賢者の石」を見た人だけお読みください。

 

 

 

 

 

 主人公ポッター少年が敵と向き合い絶体絶命のクライマックス場面。敵はポッターの持つ「賢者の石」が欲しくて、彼にある取り引きをもちかける。それは幼い頃に亡くなった両親との再会だ。いまは亡き両親と会いたいという気持ちは、このポッター少年の長年のオブセッションなのだ。危うしポッター!

 映画では当然の如く、そうした誘惑を振り払うポッターが勝利を納めるのだが、問題は彼がいかにしてその誘惑を振る払うに至ったか、見ている我々を納得させるだけの要素というものが一切提示されていないところなんだよね。ただ、本人にド根性があったか「いい子」だったか、そんな見ている観客には訳わかんない要素でポッターは誘惑を振り切っている。

 これじゃドラマは駄目なんだよね。

 やはり主人公が考えを変えるに足る原動力となる、何らかのファクターを提示出来ないとマズいと思うんだ。しかも、それは大概の人に伝わるシンプルかつ普遍性あるファクターである必要があるし、「映画的」な何かであることが本当は望ましい。

 で、残念ながらこの「ヘドウィグ」も「ハリー・ポッター」と同様なように思われるんだよ。何となく言いたいことは分かるんだけど、その肝心な一点が欠けているために、ヘドウィグの決意、心境の変化、精神的成長などといったものが、すべてボヤけたものにしかなっていない。いや、映像でもちゃんと描けてるとおっしゃる人もいるだろう。それにとやかく言うつもりはないが、少なくとも僕には今ひとつ届かなかった。おそらく見た人の中にも、映画の結論を誤解して受け取っている人もいるんじゃないかと思うよ。すごく面白い問題提起をしている映画なんだけどね。

 この映画の原作たるミュージカルでは、トミーなる人物は主人公の歌と語りで表現されて、役者が演じるかたちでは出てこないという。おそらく映画に脚色する際に、どこか誤算が生じてしまったんだろうね。ちょっと僕はこの映画に厳しすぎるかな? だけどここまではとってもいいから、ないものねだりも言いたくなるんだよ。だって、これだけいい映画だったら、映画史に残る大傑作になったはずじゃないか? 本当にあとちょっとだったんだもの。

 あと、ほんの1インチくらいだったんだからね(笑)。

 

 

 

 

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