「ピアニスト」

  La Pianiste

 (2002/04/08)


  

 前にもどこかで書いたことがあると思うんだけど、ある時にテレビに風俗嬢が出てきて、自分がとったお客たちの性癖についてしゃべっていたのを見たことがある。彼女に言わせると、お客たち(つまり男たちだが)は一人として同じようなセックスの流儀を持っている奴はいなかったとのこと。うまい下手は関係ない。どこが感じる感じない、何を好む好まない…中には世間的に変態的な性癖を持っているのもいたそうだが、彼女に言わせればどいつもこいつも五十歩百歩。つまりは、誰もが変態じゃないとも言えるし、みんな変態だとも言えるということなんだろうね。

 これはセックスの話だから極端になるけれど、日常のことでも人間は千差万別だ。そして人には分からないクセや考えを持っている。それが生来のものか後天的なものかは別にして、何かしら持っているものなんだろうね。そして、それは意外な時に顔を出す。

 ある女性は非常に男の子ぽいサッパリした性格だと思ってたら、実は極度に依存性の強い性格だったと分かり、唖然としたことがある。ある人は非常に冷静でバランスのとれた温厚な紳士だったが、ある一点に話がいったとたんヒステリックに反応した。ある人は妙に細かい性格のクセに金銭にはルーズ。ある男は人の考えや流儀を片っ端からケチつけるが、そんな自分に問題ありとは露とも思わない。

 そう。人間は他人の突出したそういうクセや考え方は気になるのに、自分がオカシイとはほとんど考えない。だから、いろいろトラブルも起きるのだろう。

 では、自分の非を認める人間がいいかと言うとこれはこれで程度問題で、あまりにそれが高じると自分に自信がなくなって人の言われるままになるしかない。それでどこまでもいければいいが、早晩耐えきれず爆発してしまうだろう。第一、非を認めない人間たちの間で、すべてを言われるままにしておくことがいいとは思えないね。

 人間はそれぞれ異なるもので、人の数だけ常識があり、人の数だけ異常がある。ハッキリ言うと、人間はすべて変態だし異常なのだろう。人である時点で、みな少なからず病気なのだ

 そうすると、人と接して深く関わりを持つ時点で、とるべき態度は二つだ。完全に相手を自分の流儀に合わせてしまう。しかし、それは実際できっこないね。

 では、相手の異なる部分を理解し受け入れてやるのか。確かにそれは理想的なことのように思える。どこまでもやれるかどうかは別にして、やれるものならそうしてやるのがいいのだろう。

 でも、そうやって受け入れたところで、それは本当に相手を理解したことになるのか

 第一、相手の人間が思っている「自分自身」って、本当にその人本人なのだろうか?

 

 アパートの部屋にオールド・ミスのイザベル・ユペールが帰ってくる。すると、待ちかまえていた母親アニー・ジラルドが、早速ガミガミとツバ飛ばしながら質問責めだ。帰りが遅い、今までどこに行ってた、一体何を考えているの。もういい歳のユペールにガキじゃあるまいし何をそんなにガミガミ言うのか知らないが、ともかくここの母子関係ってのはずっとその調子だったみたい。結局、ちょっとした買い物をして服を買っただけだったのだが、この母ジラルドにはそれも我慢ならない。何でこんな派手な服を買ってきただの、もったいないだの似合わないだの大きなお世話の小言が続く。実際のところユペールは化粧っけもなくカサカサした感じの女で、少し派手な格好でもした方がいいように思うが、この母親にはオシャレなんてとんでもないということなのだろう。あまりの高圧的なうるささに、キレたユペールはジラルドにつかみかかる。だが、いつしか何となく和解してごめんなさいと謝るユペールは、おそらく今までずっとこの調子で「一線」を超えられなかったのだろう。服を買う金がもったいないだの、家賃が心配だのとブツブツ言い続ける母ジラルドに、あの服は安かったとか、長持ちするとかしょうもない言い訳をしてその場は収まる。

 ユペールはピアノ教師だ。

 かなり名門の音楽学院の教師をしてはいるが、一介のピアノ教師と言えばそれだけのこと。おそらくは母親に何もかも幼い頃から抑えつけられてきたのだろう。今でもそれが続いての、先ほどのテイタラクだったに違いない。それもこれもピアニストとしての大成のためだったというのは想像に難くない。だが、その行き着く先がピアノ教師だったとは、おそらく母親にとっては不本意だったのだろう。おそらくは本人にとっても

 そのピアノの道の厳しさを知り尽くしているがゆえに、彼女の教え方も一切妥協がない。情け容赦がない。今も学生アンナ・ジーガレヴィッチに接する態度は厳格そのもの。その厳しさに気弱そうな彼女は半ばめげそうになっているが、そんな素振りにはまるで気づかぬようだ。だがそれは常にコントロールされ続けだった自分の、ドロドロとした思いのはけ口でないと言い切れるだろうか。こう言ったら彼女には酷だろうか?

 そんな彼女にはもう一つの顔がある。街のポルノ・ショップでエロ・ビデオに溺れる彼女。その場のくずかごに捨てられたティッシュの山をつかむと、思わずそれを顔に当てて「男」の臭いを思いっきり吸い込む彼女は、そこで何かを発散しているのだろうか。

 ある夜、お金持ちの家で行われた演奏会に演奏者として招かれた彼女は、その家の息子ブノワ・マジメルに見つめられる。彼女の演奏に感じ入ったマジメルは彼女相手に音楽論を吹っかけるが、それがユペールには少々気にさわる。ところが、その後で聞かされたマジメルの演奏は見事そのもの。思わず聞き入ったユペールには、音楽の快感以外の何かが感じられた。それは、彼女にとって危険な予感だったのか。

 帰宅したユペールは、バスルームで自らの股間を剃刀で傷つけた。それはマジメルの演奏によって彼女の中にわき上がった何かの衝動か。 その衝動を抑えようとしたものか。

 やがてマジメルはユペールが教師を務める音楽学院に入学を志望する。それも彼女の個人授業を希望とあって、ユペールはますます不愉快になる。ところが実地試験でのマジメルの演奏は申し分ない。試験官となった他の教師たちが絶賛する中、ユペール一人は彼の入学に反対する。元々が音楽専攻ではなかった彼を入れていいのか、そもそも演奏も何かハッタリが感じられて好感が持てない。ユペールが激しく反対したのは、彼に何かの危険を感じたからだろうか。そんな彼女の反発も空しく、彼の入学は認められた。

 早速始まるマジメルのレッスン。しかし案の定、彼の目当てはピアノの上達ではなかった。彼はユペールと会う機会を求めて入学したのだ。そんなマジメルに彼女はつれない。それは今まで男との関わりを閉ざしてきたことの延長でもあるだろうし、怖れもあるだろう。さらにもっと言うと、こんなカサカサした色気なしのオバサンの自分に若い男が言い寄ってくるなんて、どうも話がうますぎるという警戒心もあったに違いない。

 これにはさすがのマジメルも憮然として最初のレッスンを終えるが、そんな彼の後をユペールは秘かにつけていた。スケート場でアイスホッケーに興ずるマジメルを見ながら、ユペールは内面に抑えきれない衝動がわき上がるのを感じていた。

 学内のコンサートの日。ユペールの教え子ジーガレヴィッチも出演することになっていたが、緊張に腹をこわして遅れに遅れ、大顰蹙で迎えられてまたまた顔を歪めていた。それを見かねたマジメルが、彼女に優しく語りかける。そのおかげか彼女の顔から緊張が消え、演奏も伸びやかに生き生きとした。だが、それを見ていたユペールは、どうしようもない不快感に襲われる。それは彼女がマジメルと親しげに話す態度に嫉妬したからか、それとも自分がどうしても解けなかった彼女の堅さを、いとも簡単にマジメルが解いてしまったことへの怒りか。彼女は秘かにグラスを割ると、その破片を彼女のコートのポケットに忍ばせた。

 案の定、コンサート終了後にジーガレヴィッチは手を切って悲鳴を上げた。血を見たくないと言い捨てたユペールは、マジメルに彼女を世話するように言い残してトイレに立った。そしてトイレの個室で放尿するユペール。それは自らのドロドロとした行為の結果に興奮したがゆえの放尿だったのか。

 だが、彼女の秘かな悦びは破られた。マジメルが女子トイレに乗り込んだのだ。そして扉にカギをかけると、個室から出てきたユペールを抱きすくめ、激しく抱擁し口づけをした。まるで息せき切ったようにそれに応えるユペール。

 これでようやく自分の望みが叶えられるとマジメルは思っただろう。だが、ユペールは彼の下半身をむき出しにして愛撫するが、自分への行為は頑なに禁じた。そしてマジメルの興奮を煽るだけ煽っておきながら、途中で止めた。切ないやら苛立つやらで狂おしい気持ちになるマジメルに、彼女は自分の流儀に従うことを強いた。これには参ったものの、その場は何とか興奮を納めて彼女の言いなりになるマジメル。おそらく彼女は男女の行為に慣れてない。それがゆえの言動なのだろうと自分なりに解釈したのだろう。

 手のケガによって、ジーガレヴィッチは休学となった。憤る彼女の母親は、全てを音楽に捧げてきたのに…と口走るが、ユペールには同情の気持ちなど起きなかった。全てを捧げた? それは、こういうことを言うのよ、この歪んでしまった私の人生のようなことを。

 例の続きをせがむマジメルにも、彼女はつれなかった。レッスンでは「例のこと」には全く触れず、続きを求める彼に手紙を渡して別れるユペール。だが、若いマジメルはそんなことでは収まらなかった。何と彼女のアパートまで押しかけ、当惑する母ジラルドも無視して彼女の部屋に閉じこもる。今度はユペールも観念したのか、母親が入って来れないようにドアをタンスで押さえる。だが早速迫るマジメルに、まずは手紙を読めと言い張るのだ。

 長い長い手紙。

 それはマジメルにとって恐るべき内容だった。彼女を縛り、傷つけ、殴るように懇願する手紙だった。当惑するマジメルに、ユペールはそれが長年の望みだったと言い放つ。今まで男と関わることなど諦めていたが、そこにあなたが現れた。だから、望みを叶えて欲しい

 だが、そんなことは思ってもみなかったマジメルには嫌悪感以外の何者でもなかった。憤って帰るマジメル。ユペールの欲望は宙ぶらりんのまま未遂に終わった。

 満たされぬ思いのままベッドに入るユペールを、母ジラルドはいつもと変わらず罵った。だがユペールは何を思ったか、そんな母親にのしかかっていく。燃え尽くせない欲望を、どんなかたちであっても満たそうとするのか。これにはジラルドもさすがに当惑し、拒否し続けざるを得なかった。

 そして、この一件の後で攻守が逆転した

 ユペールはマジメルが練習するアイススケート場に押しかけ、詫びを入れるとともに再び愛を求めるユペール。今度は彼の望むやり方でいいと懇願する彼女に、戸惑いながらもスケート場の道具部屋で愛撫を受けるマジメル。だが、口での愛撫の途中で吐いたユペールに、さすがに興ざめするマジメル。二人はまた気まずく別れた。

 そんな夜、寝ているユペール一家のアパートにマジメルが押しかけた。憤る母ジラルドを部屋に閉じこめると、望み通りにしてやるとばかりにユペールを殴り倒す。それはマジメルとしては精一杯彼女の望みを叶えようとしたが故のことだろう。しかし、いざマジメルの暴力に直面すると怯えきるユペール。そんな彼女の固い体をマジメルは抱いた。マジメルはユペールを激しく犯しながら彼女の能動的な行為を求めるが、彼女は応えられない。一人で果てたマジメルは、行為の終わりとともに去っていった。呆然とするだけのユペール。

 翌日はまた学院のコンサートの日だ。出かける支度を整えるユペールは、なぜかカバンに包丁を忍ばせた。母ジラルドと連れだってコンサート場に向かうユペール。そこには教え子ジーガレヴィッチもやって来た。みんなは客席へと向かう中、ユペールはひたすらロビーで待ち続ける。

 彼女はマジメルを待っているのか? そして、包丁を一体何に使おうというのか?

 

 この映画にはともかく当惑するほかなかったね。

 一応ここに筋書きらしきものも書いてはみたけれど、これが本当に正しい解釈かどうか僕には分からない。何となくこんな話じゃないかと思って書いてはみたけれど。

 ただ、抑圧されたヒロインがなぜこうなったのかは分かる気もするね。徹底的にコントロールされたことで歪んだ性格が、絶対的に優位に立てるピアノ・レッスンの場で吹き出すのも分かる。男との触れあいを抑えられたあげく、その幻想だけが膨れ上がって歪んだ行為への願望になったというのも分かる。そして、男に対して自分がコントロールする側に立ちたがるのも分かる。それがサディスティックではなく、マゾヒスティックな行為になるのは、実は立派なコンサート・ピアニストにはなれなかった自分への戒めか、それともこんな歪んでしまった自分への戒めか。

 だが、それが一度現実のものになると、彼女が思っていたようなものではないんだね。だから男の暴力に怯えきる。抱かれてもそこには悦びも満足もない。それに気づいた彼女はますます不毛な思いに捕らわれる。なぜなら、彼女はもうどうやっても自分の幸せや悦びなど掴みようがないと思い込んでしまったから。

 音楽を通して何がしかのパッションは知っていたのだろう。だが、だからこそタチが悪い。だって、それは現実ではない。イリュージョンでしかないから。本当に分かっていたわけではないからね。現実と対峙せずにセックスの幻想の中に閉じこもっていたわけ。そういう意味で、これはまたもう一つの「アメリ」の物語の変奏曲だとも言える。だから、その一介の不毛の行為で即断するのは早計なのだけれど、もう彼女にはそこまで考える余裕がないのだろう。

 男は嫌悪感にさいなまれつつも、彼女のために良かれと思って働いた暴力なのだろう。そんな彼女を受け入れようとした。だが、それも受け入れたつもりであって、実はそうではないというところまでは思い至らなかったのだろう。

 そう言うと、かなり特異な人物の特異なシチュエーションに限られた物語のように思える。だが、そんな他人事なら、わざわざ監督ミヒャエル・ハネケも映画になぞしまい。なぜなら、歪んでしまった性格なんてものは誰にでもあるからね。歪んだと言えば聞こえが悪ければ、人にはその人なりの特異な部分が必ずあるはずだから。セックスのことを言っているわけではない。日常のどうということにない言動でもそうだよね。

 人と接していくということは、真摯に受け止めれば受け止めるほど難しいものだ。僕もこのヒロインほどでは当然ないが、この長い人生でさほど人と真剣に向き合ったことは無かったように思える。いや、誰でもそれはそう多くないのではないか。

 だから、この人とは徹底的に突き詰めてつき合いたいと思った時、少なからず当惑することが多かったよ。最初は自分の流儀でいこうと思ってもみた。さらには相手にトコトン合わせてみようとも。だけど、どちらも正解ではないみたいなんだよね。

 結局、人はそう簡単に分かり合えはしない。だけど、それを拒んだり諦めてしまってももったいないと今では思っているんだ。妥協の産物と言えばあまりいい言葉じゃないが、たぶん人と人の間にぶら下がる中途半端な何かこそが、人を最終的に結びつけるものなのだと思っている。甘いだろうか? たぶん、甘いだろうね。

 でも、所詮人は分かり合えない寂しいものだと、涼しいことを言っていられること自体が甘くはないか? 僕も昔はそんな聞いたふうなことをヌカしていたが、今はちょっと考えが違う。傷つけ合っても、一人よりはナンボかましだと思うんだよね。だって、こうだああだと思いこむのは早いんじゃないか? もっと弾力的に考えられないだろうか? 

 自分だって自分のことを本当に知っているとは限らないのだから。

 

 

 

 

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