「シッピング・ニュース」

  The Shipping News

 (2002/04/01)


  

 今回はどう書こうか困ってるんだよね。

 元々、映画を「批評」するなんて柄でもないのだが、今回はますますそんな気がしなくなった。ハッキリ言ってこの作品の優劣なんて判断出来ないな。僕は好きだ。でも、それがどうしてかと言うと、うまく説明できない。かなり個人的な部分に触れたとしか言いようがない。見ているうちに、何だかいろいろ思い出しちゃったし。それが、この映画とどう繋がってるのか、よく分からないんだけれど…。

 

 

 彼には幼い頃から取り憑いて離れない、忌まわしくもその後の人生を決定づけたひとつの思い出があった。

 父親から泳ぎを覚えてやると、海に放り出された記憶がそれだ。でも彼は泳げない。叱咤する父親の声をよそに、彼の体は水中深くどんどん沈んでいく。この泳げずに溺れたという出来事が、その後の彼の人生を決定づける。父親はこれ以後息子に失望して侮蔑しか与えなかったし、彼もまたそんな自分を無能な人間と思い込んだ。ズブズブと沈み込むイメージは彼の人生の象徴そのもの。長じて大人となった彼…ケビン・スペイシーは、まさにそれ通りの人間となっていったのだ。

 何をやっても満足に勤まらない。どうやったって自分はダメだ。結局落ち着いた職業は、新聞社印刷部門のインキ係…と言えば聞こえはいいが、ただただ刷られていく新聞を、機械の傍らに座って見つめているだけの仕事。それでも自分にはそれが見合っていると彼は思っていた。誰からも見捨てられ省みられることのない人間。例えそうでも仕方がない。自分はそれだけの人間なのだから。

 そんな彼が初めて人に求められた時、かすかに人生が変わったような気がした。それはスペイシーが車で街を走っていた時のこと、たまたま目の前で大喧嘩を始めた男女がいた。キレた女の方が勢い余って男への腹いせに、いきなりスペイシーの車に乗り込んでどこでも連れていってと言い放ったのだ。スペイシーがいいも悪いも言わないうちに、事は進んでいた。この少々ケバい女ケイト・ブランシェットは、もうスペイシーとくっつく事に決めていた。わずか2時間もしないうちに、二人はベッドの中にいた。夢中になったスペイシーが彼女と結婚したのは、それからすぐのことだった。

 妻となったブランシェットが妊娠した頃から、事態は思わしくない方向に回ってきた。妊娠で自由がきかなくなったブランシェットは、スペイシーに毒づき始める。娘が生まれても面倒なんか見やしない。元々ブランシェットは勝手でだらしなく、男出入りの激しい遊び好きの女。スペイシーと合うはずもなかったのだ。そんな彼女のゴキゲンを何とかとろうとするスペイシーの大人しげな態度が、なおさら彼女を苛立たせる。そんなスペイシーには、幼い頃のズブズブと沈み込むイメージがまざまざと蘇ってくるのだった。

 そんな頃、両親が人生に絶望して自殺。さらに、大きくなった娘にも平然とスペイシーを退屈な男と言い切るブランシェットは、彼を見捨てて娘を連れて男と出ていった。そんな折りもおり、スペイシーの元に父親の妹=叔母のジュディ・デンチが訪れた。兄の死を機に故郷に帰ろうとしていたデンチは、そのついでにスペイシーの元に立ち寄ったのだ。しかし、彼女には秘められたもう一つの目的があった。スペイシーが彼女の前を離れた隙に、骨壺から兄であるスペイシーの父親の遺灰を抜き取るデンチ。果たしてその真意は?

 ところが呆然自失のまま叔母デンチを迎えたスペイシーに、追い打ちをかけるように衝撃的な知らせが届いた。何と妻ブランシェットが男と出奔中に車で海に突っ込んで死んだと言うのだ。

 またしても、海。スペイシーの人生を決定的に沈み込ませた、恐ろしくも忌まわしい海

 おまけに連れていった娘は途中で人買い業者に売り飛ばしていたという。警察が娘を取り戻して家に連れてきたのはいいが、これらのダブル・トリプル・パンチの応酬に、スペイシーは決定的な打撃を受けた。母親の死でショックを与えまいと、娘には眠ったんだと言い聞かせるのがやっと。そんな慰めの言葉は自分の方が欲しかった。またしても沈み込む俺の人生。ズブズブズブズブ…。

 そんなスペイシーのアリサマを見るに見かねた叔母デンチは、自分と一緒に一家の故郷に帰ろうと言い出す。スペイシー一家の故郷…父親の代で去ったため、スペイシー自身一度も足を踏み入れたことのないその場所は、北の最果ての地カナダのニュー・ファンドランド島。しかしスペイシー自身にはこの家に踏みとどまる理由も気力もありはしなかった。

 しかし故郷であるニュー・ファンドランド島は、スペイシーの想像を超えた寒々しく辺鄙な土地だった。もう5月というのにまだ雪に覆われている厳しい土地。おまけに身近にはスペイシーがあれほど忌み嫌っている海が広がっていた。早くも後悔の念に襲われるスペイシーと、ただただ呆然とする娘とは対照的に、やけに生きいきと振る舞う叔母のデンチ。この地ではスペイシー一族はかなり知られた家柄のようだった。そしてデンチの生家がいまだに残っているという。

 早速やって来たその生家は、岬の突端にポツンと建った古るび果てた家。激しい海風に耐えるように、太いワイアーで地面に縛り付けられた家。それを見た娘は、本能的に家が解き放たれたがっているとつぶやいた。風に煽られるたびにギーギーと恐ろしげな音を立てるそれは、確かに娘の言葉を裏付けているかのようだ。

 叔母デンチによると、この家はかつてもっと村の近くにあったものを、寂しい岬の突端までわざわざ持って来たのだと言う。激しい吹雪の中、村の人間総出で太い綱で括って家を引っぱった当時のイメージが、スペイシーの脳裏に甦る。それは、常に厳しい自然と共に生きる人々のイメージだ。

 中に入ってみると、当然荒れ果てていて雨漏りもひどい。それでも所々に往時の面影は残っていた。そんな部屋の中に落ちていた古い写真が一枚。それはまだ子供時代のスペイシーの父親とデンチの兄妹で撮った写真だったが、それを見たデンチの表情が一瞬曇ったところまでは、スペイシーも娘もさすがに気付かない。

 思えば一家がこの家を去ってからもはや数十年。老朽化が激しいのも無理はない。それでも、直せば住めると言い張る叔母デンチの言葉に従って、早速今夜からこの家に寝泊まりすることになったスペイシーたちだった。

 その夜は豪雨。冷たい雨が激しく降りしきる中、家は哀しげな悲鳴を上げていた。そんな夜中に目覚めた娘は、窓の外に亡霊のようなやせた白髪の老人と白い犬の姿を見かける。あわててスペイシーを起こした娘だが、すでにその姿はない。それはこの曰くありげな家が見せた幻想だったのか?

 翌朝は嘘のように晴れ渡った。家の古びた便所に籠もったデンチは、スペイシーの家から持ち帰った兄の遺灰を、さりげなく便器の穴から捨ててそこに用を足す。その奇妙な行動は他の人間に知られることはなかった。

 ここに移り住むことになったスペイシーは、職を得るために地元の新聞社を訪れた。自分には勝手知ったる新聞社のインキ係くらいしかこなせる仕事もない。やって来た地元紙「ギャミーバード」紙の事務所にいたのは、わずか3人のスタッフ。むくつけき初老の独身男ゴードン・ピンセントは、にも関わらず柄にもない生活家庭欄を担当させられていた。ブラジルから船でこの地に流れ着いてしまったリス・エヴァンスは、ラジオからニュースをパクって海外ニュースを書いていた。頑固者らしい編集長のピート・ポスルスウェイトは、社長がほとんど社を留守にしていることをいいことに、社長室を自室として使ってやりたいようにやっていた。

 こんな妙ちきりんな地元新聞者のせいか、やってきたスペイシーはその場で採用。ただし記者として働くことになると聞いて、予想もしなかったスペイシーはうろたえた。俺に出来るはずもない。俺は「退屈」で「能がない」、万年インキ係が似合いの男。だがスペイシーがどうあっても抗弁は許されない。そのまま社長のお目通りを受けることになった。社長は年がら年中船で海に出て一人きりの、風変わりな人物スコット・グレンだ。グレンはスペイシーに一方的に記者としての心得を伝えて採用は決定。彼の担当は港での船の情報を伝える「シッピング・ニュース」と、何とよりによって交通事故の記事担当。会社に戻ると席が与えられたものの、他の連中には与えられているパソコンではなく、旧式のタイプがあてがわれた。しかもスペイシーが戸惑いを隠せないうちに、交通事故の報が入って早速取材開始。同僚となったピンセントが彼を現場に連れて行くが、たちまち事故で死んだ妻ブランシェットの記憶が蘇ってゲロ吐く始末だ。あげく苦心さんたんで原稿を書き上げたものの、アッと言う間にクズ篭行きの憂き目を見るスペイシー。これでホントにやっていけるのかねぇ?

 スペイシーの心配はそれだけではなかった。娘の様子がどうも思わしくない。毎晩のように白髪の老人の亡霊を見るし、昼間は「退屈だ!」と喚きながら、虐待するかのように人形をバラバラにする。彼女の父スペイシーを「退屈だ」と言って捨てた母ブランシェット。彼女自身が母から見捨てられたのも、彼女が「退屈」だったからなのだろうか? この娘にとって「退屈」は、なかったことにしたいが直視せずにいられない、忌まわしさの象徴としてのキーワードなのだろうか?

 そんなうちにもこの土地でさまざまな新たな出会いを経験するスペイシー。例えば例のボロボロの家の補修に来た大工ジェイスン・ベアは、何と新聞社社長スコット・グレンの息子。一族代々が海で命を落としているだけに、息子が海で働くのを厳しく止めたグレンに対して、そんな親父の言葉を無視して海で働こうとする息子。それ以来、二人はこの狭い村でお互いを無視しあう犬猿の仲となっていた。

 そして、一際目立つ美人のジュリアン・ムーア。彼女は漁師である夫を失った後、女手一つで知的障害を持つ息子を育ててきた。託児所を営んでいる彼女との最初の出会いは、偶然皮肉の応酬という最悪のものになってしまったが、そのうちにスペイシーの娘とムーアの息子が親しくなるにつれ、二人の距離は縮まっていった

 考えてみれば、そんな女の存在を気にするようになったこと自体、かつてのスペイシーにはなかったことだ。そして、会社の同僚にはボロ舟と揶揄されながら、小さいボートを購入したことも大きな進歩だ。海に囲まれた暮らしに舟がないと何かと不便とは言え、子供の時のトラウマと妻の転落事故死というダブルパンチで、水と海に徹底的な嫌悪感しか持っていなかったスペイシーならば、これは画期的なことと見ないわけにはいくまい。この寒々とした海辺の小さな村の暮らしが、スペイシーの心に何らかの作用をもたらしているのだろうか。

 そんなある日、ある事ない事でっち上げてもいいからネタ取ってこいと言われたスペイシーは、港で出会ったヨットの夫婦の奇妙な振るまいとその諍いに注目した。しかも、この夫婦の乗ったヨットが、かつてはヒットラーの持ち物だったと言うではないか。興味惹かれたスペイシーは、編集長ポスルスウェイトから命じられた記事の執筆を放ったらかして、独自の記事を書いた。ポスルスウェイトはこのスペイシーの独走に、お灸を据える代わりに一面に取り上げることで応えた。さぁてどうなることやら、見てのお楽しみというわけ。

 だが、この賭けが効を奏した。一面に載ったスペイシーのコラムは好評。あのコワモテ社長スコット・グレンも、わざわざ社を訪れての激励だ。おまけにパソコンを買ってやれとの直々のお達しに、スペイシー生まれて初めて大胆になって、編集長ポスルスウェイトにパソコンのご指定。「I.B.M.だ、I.B.M.のパソコン。間違えるなよ

 この高揚感、この充実感。何か意味のあることをやったような、自分が意味のある存在だと実感できるような、この「感じ」。今まで自分を捨てたような人生を送ってきたスペイシーだが、これを味わったらもう元には引き返せない。未亡人ジュリアン・ムーアへの淡い関心や、ボートの購入などによってジワジワと進んでいたスペイシーの心の中の雪解けは、この記事採用を機に一気に加速した。俺だって「退屈」なばかりの人間じゃないんじゃないか?

 そんな一方で、スペイシーは地元の人間たちとの交流から、自分の一族にまつわる意外な過去を知る。実はスペイシー家は悪辣残虐極まる地元海賊の末裔。その手口は非道そのもので、灯台の火をずらしてわざと船を座礁させるなど朝飯前。もちろん殺した人間数知れず。あまりの鬼畜ぶりに、見るに見かねて村から追放となってしまったという。つまり、例の岬の突端にポツンと建つ家は、村から引っ越してきたわけではない。村から“追い出されて”きたのだ。それは衝撃的な話でもあったが、スペイシーに不思議な感慨をももたらした。確かに残虐行為など決して誉められた話ではない。忌まわしい話ですらある。だが、この去勢され切って何の存在意義もなくなっていたかのような俺、いてもいなくてもどうでもいいようだった俺の中には、激しく荒ぶる祖先たちの海賊の血がその野蛮なバイタリティーごと潜んでいたのか。それは、彼の中に初めての記事が与えた熱い実感とどこかでつながっている気がした。そして、ここ祖先の地に帰ってきたからこそ、眠っていた血潮がうごめき出したかのように思えた。

 だから、編集長ポスルスウェイトが記事に口出ししてきた時には、スペイシーは初めて反抗した。そして石油タンカーよりも帆船を…と、心を打つコラムを書いた。反抗されたポスルスウェイトは自身が石油会社の株を持っていることもあって、この記事には反発すること必至だろう。だが、自分は譲れない。これは生まれて初めて自分が熱く生きていることを実感させてくれた証だから。そんな彼の記事を読んだムーアは、彼を「誇らしい」と言ってくれた。父親に水の中に投げだれた時以来、自分から残らず剥ぎ取られたかのようだった自尊心が、遅ればせながら今やっと自分の中に戻ってきたかのようだ。

 だからポスルスウェイトがこの記事をボツにしようとするや、スペイシーは苦手な海も何のその。海で一人きりで誰にも邪魔されずにのんびり過ごすスコット・グレン社長の船に押しかけ、記事の差し替えを直訴した。この行動力はこの反骨ぶりは、一体どこから来たのか? そしてついに勝利を勝ち取るスペイシー。もはやこの男を、最初この島にたどり着いた時の抜け殻のような彼とは誰も思うまい。

 そんな時、好事魔多しとはよく言ったもの。スペイシーがご自慢のおんぼろボートで沖に出ると、何と男の首なし死体が浮いているではないか。慌てふためいたスペイシーはバランスを崩し、ボートを横転させてしまった。ブクブクと海底に沈んでいくボート。やはり同僚たちの言っていたボロ舟評価は本当だった。そして浮いていた首なし死体は、あの「ヒットラーのヨット」夫婦の夫の方に違いない。男と女の抜き差しならない地獄の行き着く果てか。

 いやいや、そんな事を言ってる場合じゃない。何より本来水には弱いスペイシーだ。慌ててもがいて、たまたま近くに浮いていたクーラーボックスにしがみついた。だが、助けが来るわけもない。しがみついて水面を漂ううちに救助船がやってきたからいいようなものの、そうでなければスペイシーは死んでた。そのまま熱を出して寝込むスペイシー。だが、悪いことばかりじゃない。そこにあのムーアがお見舞に来てくれて、二人の仲はまた一気に近づいた。

 そんなある晩、スペイシーは家の外をウロつく「亡霊」の正体を知った。娘が毎晩見ると言っていた、白い犬を連れた白髪の痩せた老人。それは一人はぐれて暮らすようになった、やはりスペイシーの血筋の末裔の一人だったのだ。そしてこの老人は、スペイシーの父親とデンチ叔母の兄妹の間にかつて起きた、衝撃的な事件を語り出したのだった…。

 

 

 今回は本当にどう書こうか困ってたんだよね。

 それは、この映画もたぶん酷評を浴びること必至と見ているからで、それも特にあまり映画を見ていない人よりは映画に詳しい人、映画好き自認する人からの激しい非難を浴びるだろうなと思う。

 それは何と言ってもラッセ・ハルストレムの新作だからだろうね。

 スウェーデン映画界から「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」で一躍世界的に有名になった彼が、いまや毎年のように「ハリウッド」から新作を発表していることがその理由だ。一般的に深遠なるヨーロッパ映画、俗悪で金儲け主義のハリウッド映画という住み分けは歴然とあるわけで、しかもハルストレムは元々ハリウッドにいたわけでなくて、ヨーロッパから「金に目がくらんで」(としか思わなくては納得できない)ハリウッドに転んだ、言わば「転向者」。しかもそのキャストは毎回作品を重ねるごとにオールスターキャスト化している。だから映画を見る前に見る側のスタンスはほぼ決定してしまっている度合が大きい。

 そして近年のハルストレム映画の傾向がそうであるように、この映画が、まぁごく世間一般的に言うと「癒し」の映画である点も、非難の対象になるポイントだ。

 この「癒し」という概念も曖昧で、僕も確固たる定義づけをしてこの言葉を使っているわけではない。だから、こんなの「癒しだ」「いや、癒しじゃない」なんて揚げ足論争にならないことを望むよ。まぁ、ここでの「癒し」とは心安らぐ、あるいは救いがある結末を迎える映画…というくらいに解釈して欲しい。

 ところが上記に挙げたハンディキャップもあって、ハルストレムはハリウッドイズムに毒されて安易なハッピーエンディング映画を連発している…と結論づけられるわけだ。現実はそんな甘くはないんだ、考え方が甘ったるいんだよ…ということになる。

 まずハルストレムのこの新作は、日本においてすでにこういう冷ややかな視線の前に投げ出されていることを前提として公開されているんだと、あえてここでは言っておきたい。これがアメリカではどうか、スウェーデンではどうかってのは分からない。案外これって日本だけの現象じゃないかって怪しんでいるんだけどね。ともかく、わが国では作品本体がいい悪いの前に、こういう「お約束」の論議がある。だからこれをまずは差っ引かないと、普通の他の映画と同じようなマトモな評価が得られそうにないと思うんだよ。すでにこれを読んでお怒りの向きがいることは重々承知だが、それでもこういった視点が陥りやすい弊害はお分かりいただけると思う。

 では、おまえはこの映画に対してどういう感想を持っているんだと言われれば、それはハッキリ肯定だ。とても気に入った。自分の鑑賞眼に全幅の信頼は置けないんで、それが正当な評価かどうかは分からないが、少なくともこの映画を“僕は”好きだ。逃げも隠れもしないよ。以下はそれを前提にお読みいただきたい。

 

 ともかく、この映画のこれみよがしでないところが好きだ。そこがハルストレム映画と「単なる甘いハッピーエンディング映画」の違いなんだけど、どうも映画ファン的にはそうは分かってもらえてないようだね。今回はケビン・スペイシーという、近年メキメキ売り出し中の役者が主役。だけど、およそこのスペイシーって役者、僕はあんまり好きじゃないんだよ。何か頭良さげで芝居うまそうで、本人もそう分かっててやってるって感じで、それが何となくイヤミだったんだよね(笑)。サスペンス映画などではその持ち味がこすズルい雰囲気となって生かされていたが、ストレート・ドラマの場合はそれがいささか鼻につく。でも今回の彼はいつもとちょっと違うよ。何だか風呂上がりのようなアクの抜けぶりに、まずビックり。前半のサエない男ぶりも、後半の自分に目覚めるあたりも、とってもさりげないのだ。これはスペイシーの演技力なのだろうか、それともハルストレムの演出のおかげか? いつもの光ってる感じ、キレ者イメージが微塵もない。全然魅力的じゃないってファンは怒るかもしれないね。だけど当り前なんだ、だってここでの彼は魅力的でない男を演じているんだから。

 先に触れた「さりげなさ」っていうのは映画の全編にわたって強調されており、実はいろいろな事が起きてるお話なのに、およそドラマティックなものを感じさせない。スペイシーがボートを転覆させるくだりの展開を思い起こしていただきたい。あれはもっともっとサスペンスフルにしようと思えば出来た展開だ。

 幕切れ近くの象徴的な岬の古い家の崩壊もそうだ。このくだり、さまざまなトラウマやしがらみに縛られてきた主人公たちの解放をシンボライズする描写として、あまりに図式的だと批判されそうだなぁと見ていて思ったんだね。だけど、人物の感情を映像で視覚的に分かりやすく見せる意味で、あの描写は必要で必然なんだ。映画としてあれなしには、やはり肝心なことは描き得ないと思う。

 で、ここからがさすがハルストレムなんだが、そんな図式的すぎる構図になりがちな家の崩壊場面を、いかにも映画らしいスペクタクルとしては撮らなかったところが非凡なのだ。引き千切れはずれるワイヤーなどの描写で、あくまで控えめに間接的に描かれるのみ。そのおかげで、主人公たちの「解放」イメージを伝える意味での家の崩壊は表現しつつ、決して図式的過ぎるところまでクドく描き切らなかった。このあたりの匙加減がなんとも絶妙なのだ。

 特に僕はボート転覆の場面が、ハルストレムらしいキメの細かさだと思うんだよね。スペイシー演じる主人公は、諸々の偶然やら自らの海賊の血への目覚めによって、自分が無能ではないと自信を取り戻し始める。悪妻によって徹底的に踏みにじられた女への夢と希望を再び持つようになり、自分を去勢してきたトラウマの諸悪の根源である海=水へあえて乗り出していこうとボートに乗る。それがそのまま進行していったら、それこそ安易なハッピーエンディング癒しドラマだ。だが、現実はそんなチョロいものではあるまい。それを寓意と共に分かりやすく、説得力あるかたちで見せてくれるのがハルストレム映画なのだ。

 だから、克服したはずの海で事故にあう。しかもその発端となった首なし死体は、主人公が再び夢と希望を抱くようになった男女関係がもたらした悪夢だ。自分で自分をコントロール出来るようになった自信は、海の上でクーラーボックスにしがみついているより他はないという無力感で打ち砕かれる。

 だが、それは主人公の立ち直りを阻むのかというと、そうではない。この事件を境にスペイシーはもっと強くなり、もう二度とひ弱な彼には戻らないのだ。だから、あれは主人公が真に強くなるための試練…子供がはしかにかかるような、一種の通過儀礼のようなものではなかったか。これはこれで、僕自身が実感として感じる立ち直りの「リアリティ」なんだよね。実際ああだと思うよ。僕には覚えがある。

 

 …なんて書いてはきたけど、これは批評でも何でもないよ。この映画が好きで、僕はいいと思うってことを書き綴っているだけだ。今回はいつもの映画感想文のように、この作品がいかに優秀なのかという持論をここぞとばかりに展開する気もない。異論があっても結構だ。反論する気はない。俺一人これを気に入ってるなら、後はどうだっていいんだよ

 だって、これは僕には身に覚えのある話だ。実際こんな感じだったし、こんな気がした。それが確かに捕えられていれば、僕には他の人のことはどうでもいいんだよ。

 だって個人の思いは、たった一人でかみしめるものだから。

 

 

 

 

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