「エネミー・ライン」

  Behind Enemy Lines

 (2002/03/18)


  

映画100年の歴史の中で

 僕も映画を見るようになって結構長い。考えてみれば30年は映画とつき合っているんだね。映画の歴史ざっと100年と言われるうちの30年だ。もちろん上には上がいることを承知はしているが、それでも僕もそれなりの映画の歴史の一端くらいは見てきていることになるんだね。

 映画の中にはいつの時代になっても感動させられるものが少なくない。「駅馬車」なんて何度見ても興奮する。分かっていても面白い。テレビでやってたら、ついつい見ちゃう。懐かしさからだろう…って言うけどさ、これなんて僕が生まれるずっとずっと前の映画だからね。最近になって見た「丹下左膳余話/百万両の壷」なんて、サウンドトラックの劣悪さに目をつぶれば、最近のハリウッド映画にだってひけをとらないよ。これは僕だけじゃないはず。

 それとは対照的に、何だこれが傑作なのかよ…って思ってしまうのもあるから面白いよね。僕の場合は「ウエストサイド物語」がそれだ。歌はいいよ、どれもこれも。踊りだって悪くない。だけど、カメラワークなんだろうか、演出なんだろうか。どこか古色蒼然と感じるところがあるんだね。これが今でもいいと言う人だっているから一概には言えないけど。それでいて、「雨に唄えば」「パリのアメリカ人」なんかは僕だって今見てもすごいって興奮しちゃうから分からない。こういう違いってどこにあるんだろ?

 そういや、僕が映画をちゃんと見始めた頃から今だって、映画の技術革新は進んでいた。CGとかSFXの進歩を見れば分かるよね。特にCGなんて、最初のCG大作とされた「トロン」なんか今ちょっと見れないかも。「モンスターズ・インク」を見た今言えるのは、CGはもう凄い技術でも何でもない。物語を語るための手段や道具でしかないってとこまで来てる。まぁ、それって当たり前と言えば言えるのだけれど。でも、「トロン」の時は違ってたよ。

 そんなコンピュータを使ったりした技術までいかなくても、映画って少しづつ違ってきてる。先日「ポセイドン・アドベンチャー」を見たけれど、冒頭のポセイドン号の模型のチャチさは隠しようがない。合成画面の切り抜いた跡が消えたのはいつからだろう? 「タワーリング・インフェルノ」あたりはまだ見えてた気がする。いやいや、そんな特撮のことでもないな。演出とか撮影とか編集のやり方だって違ってるはずだ。

 例えば手持ちで振り回してもブレが出ないカメラ技術としてステディカムが登場したのだって、たぶんそんな前じゃない。「シャイニング」から? いや、「カプリコン1」のカーチェイスはもうすでにあまりブレてなかった。アクション・シーンでスローモーションを多用したのはサム・ペキンパーからか? いや、すでに黒澤が「七人の侍」で使っていた。いつから回想シーンでオーバーラップをあまり使わなくなったのか? これはたぶん1960年代の後半くらい、アメリカン・ニューシネマあたりからずっとそうだろう。極端なズーミングとかジャンプ・カットって誰が始めたんだ? コーエン兄弟か? ブライアン・デ・パーマか?

 今やハリウッドのアクション映画に欠かせないワイヤーアクションも、当初は一部の香港映画のコアなファンだけが知っていた。2000年の秋頃に「グリーン・デスティニー」試写会を見た時には、ワイヤー使って登場人物がフワリフワリと舞い上がるたびに、場内に笑いが起こっていた。試写に来てたオバチャン連中は、ワイヤーアクションをまだ知らなかったのだ。今、同じ場面を見て笑う奴はほとんどいまい。ワイヤーアクションはギャグやコミカルな仕掛けでなく、アクションの約束事の一つであるとの映画の文法が確立されたからである。こんな小さな事一つとってみても、映画の語り口に変化が起きていることが分かる。

 何でもサスペンス演出にカットバックを使ったのって、最初はD・W・グリフィスらしい。スリラーやホラーで犯人の主観でカメラを使うようになったのはいつか? いろいろ考えていくと面白いよね。

 これから紹介する映画だって、たぶん後々にはそう言われるのかもしれない。お話としてはオーソドックスな戦争映画「エネミー・ライン」だ。

 

セルビア人は今が旬の悪

 ボスニア紛争も収束に向かいつつある某年、ここはアドリア海上の米空母。NATO軍の一員としてこの地に配置されている空軍兵士オーウェン・ウィルソンは、すっかりクサっていた。それなりに優秀な兵士だった彼がやる気なくしてブーたれてるわけはただ一つ。停戦監視の任務でずっと待機中。たまに任務と来れば上空から偵察の写真撮影のみという退屈な毎日でダレまくっていたわけ。俺はこんなことやるために軍隊に入ったわけじゃないと、フテくされているんだね。その勢い余って上官も上官、それも司令官のジーン・ハックマンにまでズケズケこんな口の訊き方。辞表まで提出した彼を何とか説得しようとするハックマン司令官だが、彼のダレっぷりは本物だった。軍隊ってものはそんな勇ましいことばかりじゃないと言っても聞かないウィルソンに、クリスマスだというのに偵察飛行の任務を命じるのも、ハックマンの親心なんだが親心子知らず。まぁウィルソンにとっては昔気質の軍人ハックマンの言う事なんて、時代遅れのオヤジの遠吠えとしか聞こえない。同僚のガブリエル・マクト共々ブーブー言いながら出動した。

 もっともハックマン司令官だって内心忸怩たるものはあった。NATO軍提督ホアキン・デ・アルメイダに、停戦協定で米軍撤退間近、八方丸く収まるんだから大人しくしてろなんて言われて、ちょっとウンザリしなくもない。実際、自分は物事単純にしか考えない昔気質の軍人。政治のことは分からねえよ悪かったな。…てな調子に、そんな各自の思惑を乗せて空母は浮かんでる

 さて、ボスニア上空を偵察飛行していたウィルソンとマクトは、レーダーに不審な反応を見つけて、ちょいとばっかり偵察コースをはずれることにした。戦闘機に搭載のデジタルカメラでパチパチと撮影始めたその時、彼らは自分たちが何かヤバいことに首をつっこんだとは分からなかったんだね。

 ところが地上ではセルビア軍が秘かに部隊を集結していたのだ。そこを見られたと知ったセルビア軍リーダーのオレック・クルパは、あわてて戦闘機撃墜の指令を飛ばした。

 突然のミサイル攻撃!

 これにはウィルソンもマクトも慌てた。何とか振り切って逃げようとしたが逃げ切れず、あえなく戦闘機は撃墜。ウィルソンとマクトは辛くも脱出した。

 パラシュートで地上に降りた両名だが、マクトは足に負傷して動けない。山の中で通信機も使えないとあって、無事だったウィルソンが単独で山に登って連絡をとることになった。マクトを励ましたウィルソンは、一人山の中へと消えていったんだね。

 ところがその頃、セルビア軍の大部隊は脱出した米兵の行方を追っていた。見つかったマクトは瞬時にヤバい状況を察して、自分一人しかいないと嘘をつく。ウィルソンは異変を感じて戻って来たが、手が出せずに物陰から様子を伺う。すると、セルビア軍リーダーのクルパは、自分の片腕のジャージ着た兵士ウラジミール・マシュコフに何かを命じた。そして…。

 ジャージ男マシュコフは、銃でマクトの頭部を打ち抜いた!

 「ノー!」

 思わず叫んだウィルソンの一言を、セルビア軍が察知。全軍が一斉に山に殺到してくるではないか。あわてて山に逃げ込むウィルソン。何とか山の頂上にたどり着くと、必死の思いで通信を始めた。

 一方空母では戦闘機の機影が消えたと大騒ぎ。そして何やら電波が入って来たとあって、さらに大慌てだ。墜落機のビーコン信号がうるさいので遠隔操作で止めてみると、かすかながら声が聞こえてくる。何とあのオーウェン・ウィルソンの声ではないか。セルビア軍が襲ってくる。同僚が殺された。早く助けてくれ!

 だが、ハックマン司令官はウィルソンを諭す。ともかく事前に決めた某ポイントまで移動しろ。助けに来てくれると思ってたウィルソンは焦ってわめくが、ハックマンは取り合わない。とにかく何とか某ポイントまで移動するんだ。そこでおまえを救出してやる。軍人魂を見せろ!

 それと言うのもハックマン、NATO軍提督デ・アルメイダにクギを刺されていたんだね。停戦間近なんだから余計なことをするなよ。でないと全部パーになるんだぞ。仕方なくついつい厳しくウィルソンに当たるハックマンだった。

 必死に逃げ回るウィルソンとそれを追うジャージ男マシュコフ。やっとの事で例の某ポイントまで移動したものの、今度はハックマンは安全地帯まで移動しろと言ってくる。実はハックマンが救出に出ようとしたその時、例のNATO軍提督デ・アルメイダにまたまた止められてしまったのだ。助けてやりたくともどうすることも出来ない。そんなハックマン司令官の胸中を察しながら、右腕のデビッド・キース曹長も歯ぎしりするしかない。

 実際のところはその某ポイントにもセルビア軍の追っ手が押し寄せ、ウィルソンはすぐにその場を離れざるを得なくなった。逃げ回るウィルソンの様子を衛星からの映像で監視するハックマンたち。衛星からの高感度映像で見ていると、ある地点でバッタリ倒れたウィルソン。撃たれたのか? 追っ手の連中はゆっくりウィルソンに近づいてくる。絶対絶命か?

 だが、追っ手の連中はなぜかウィルソンを発見できずに立ち去った。そして、追っ手がいなくなったのを見計らって、ゆっくりと動き出すウィルソン。何だこれは? 一体どうなっているんだ? 衛星からの映像を見ているハックマンたちには、まるで事情が分からない。

 実はウィルソン、逃げている途中で大きな溝に落ちてしまったのだ。その溝の底で倒れていた。では、なぜ追っ手に見つからなかったのか?

 それと言うのも、そこに倒れていたのがウィルソンだけではなかったからだ。あっちにもこっちにも、溝の中狭しとばかりに無数に倒れこんだ老若男女の人々の群れ。あたり一面にセルビア軍に虐殺された罪もない人々の遺体がうず高く積まれているではないか。

 元来がボスニア情勢なんか知ったことじゃなかったウィルソン、テメエの身の危険だけで頭がいっぱいだったウィルソンが、今自分が何をやるべきかに気付いたのはその時だった…。

 

アメリカ戦争映画の定番にして王道ではあるが

 この映画、アメリカ国防省全面協力でつくられた映画だから、空母も戦闘機も豪華にバンバン出てくるし、すごくリアルなんだよね。

 そしてこの映画は、ボスニアの微妙な政治状況とか、NATOのあり方だとか、アメリカの諸外国への軍事介入だとか、セルビア人は本当に悪なのか否かとか、そういうアップトゥデートで重要な問題の数々とは…。

 

 ハッキリ言ってまるで関係ない

 

 一応タテマエとしてそれらの問題は登場するけれど、かつてのナチみたいな絶対悪が少なくなってきた今時の戦争映画だから、今のところ国際世論からボコボコにしてもいいと公認のセルビアを敵として設定した…くらいの意味しかない。アメリカの軍事介入の是非についても、この映画をモデルに語っても仕方ない気がする。主人公が実戦に腕を奮えずにクサってる兵士だからと言って、軍国主義キャラだと目くじら立てても仕方ないだろう。むしろ映画の実物を見れば、ほとんど無邪気で単純なボーイスカウト的人物としてしか描かれていない。これはそんな映画なのだ。

 もちろんある意味で確かにプロパガンダなんだよこれは。アメリカの軍事介入は善であるということが前提にした映画なわけ。それについて肯定する気は僕にはさらさらないけれど、どうせプロパガンダつくるとしたらこの映画くらい堂々と面白く、みんなをノセるくらいのものつくらなきゃダメだとは思うね。そのくらい娯楽映画としてこの作品はキッチリ出来上がってる。

 お話はそのボスニアがどうしたこうしたという点を除けば、別に目新らしいものじゃない。敵地に単身残されてしまった男が、極限状況を逃げて逃げて逃げまくるお話。主人公はやる気がなくなってドロップアウトしかかった男…ただし妙な屈折まではいってない。アクション映画のストレート・ヒーローとしてのキャラは保っている。そして、その主人公を後方でバックアップしようとするベテラン。

 チンタラ平和維持活動だと思って今の仕事をナメてた主人公、もっと勇ましいことしたいなんて調子こいたこと言ってた主人公は、死ぬような思いをしてやっと戦いは甘くないこと、自分が今従事している平和維持活動こそが兵士にとって緊迫感溢れる最前線だと知るのであった。チャンチャン。

 主人公にオーウェン・ウィルソンという新顔の役者を得たのが何しろいい。ボスニアの地だろうとどこだろうと、どう見てもアメリカ人にしか見えない陽性アメリカン。平和維持活動なんてウンザリだ俺は戦闘がしたいんだとアブなく見えかねない発言してみても、このどこか軽い味の男が言うと軍国マッチョには見えない。せいぜい冒険ごっこがいいとこ。どう見ても力み返った正義振りかざしに見えないあたりが巧妙だ。「アルマゲドン」で注目集めたが、僕にはそれより「シャンハイ・ヌーン」の陽性カウボーイ役がピタリとハマって見える。彼がやったおかげで、この映画うさん臭く見えずにだいぶ得をしていると言っていい。対するのがベテランのハックマンで、叩き上げ軍人というあたりがまたキナ臭くなりそうなものだが、憎まれ口叩いても面倒見のいい頑固オヤジって感じで、ソツなく演じてる。この二人のキャスティングで作品のムードは決まったも同然だ。

 さてなるほどハマってるキャスティング、米国防省全面協力、新鮮味も驚きもゼロながらキチッと基本を押さえている王道の脚本と来て、実はこの映画を楽しめる一級の娯楽活劇たらしめている要素はと言えば、もちろん演出、撮影、編集といった映画としての構造を作り上げる過程であることは言うまでもない。そして、この作品にはその部分で実に特徴的な一面が見い出せるのだ。では、それは何か?

 

アクションの高速化、高密度化

 戦場の緊迫感、現実感の徹底的追求…と言ったら、そんなもん「プラトーン」だって「フルメタルジャケット」だってやってらぁと言われてしまうだろう。では、こうならどうだ? それら戦場の緊迫感、現実感を追求しつつも、それを見る側の視覚的快感、爽快感にまで昇華出来た作品…だと言えば? 「プラトーン」「フルメタル〜」みたいに戦場のウンザリ感をリアルに表現するなら確かにいろいろあった。だけど、この映画は娯楽映画。それが見る側の快楽とならねば意味がない。「戦争映画」は反戦じゃなくっちゃダメで、見てて楽しかったり快感感じるなんてもっての他…な〜んてことしか考えない人は、ここから先は頭来るだけだから読まないでね。でも、ついでに言うと「ナバロンの要塞」とか「荒鷲の要塞」とか「大脱走」なんて絶対見ないでね。もっと言うと「スター・ウォーズ」だって楽しんじゃダメだ。もし見てるとこ見つけたら、思いっきり偽善者呼ばわりしてやるから覚悟しろよ(怒)。

 さて、見る者に緊迫感と現実感、そして視覚的快感までもたらす演出のその一は、絶えまなく小刻みに揺れるカメラの視点だ。この一見手持ちカメラみたいに見えるカメラワークは、リアリティを増すため記録映画ふう映像を選択したこともあるだろうが、ここではその揺れっぷりにちょっとスタイリッシュな視覚的カッコよさが込められているようにも見える。

 だが、それより今回のアクション演出に顕著な特徴がある。それは激短カットのつるべ打ち的たたみかけ編集場面だ。それにはいくつかの例が見受けられるものの、一番目立つ部分はウィルソンたちの乗った偵察戦闘機がミサイルに撃墜される場面。これには驚いた。一体どのくらいのカットが重ねられているのか分からない。おそらく近年はアクション場面でのカット数はどんどん増え、1カットの時間はますます短くなっていく傾向にはなっていたように思う。しかし、それでもこれは別格ではないか? 

 僕もかつての8ミリ映画監督のマネごとをしてみたことがある。だから大したものではないが、編集器でフィルムを切ったり貼ったりしたこともあった。その編集体験からすると、一般的にカットらしいカットというものは、最低でも2秒間は長さがいる。8ミリ映画でもビデオでもカメラを買ったばかりの奴が撮った映像が見にくいわけは実はここにある。実際には1カットあたり5秒くらいないと落ち着いた感じは出ないんだけどね。ど素人は2秒以下の短いカットでパッパカどんどん撮ってつなげていくから、見ていて忙しない気分になってくるのだ。だが、カットというものは描くものによってその持続時間が変る。場合によっては、この忙しないカットの長さのつなぎが効果を挙げる時もあるのだ。スピーディーで激しいアクションを見せようとする時、短いカットをいくつも立て続けにつなごうというのは、アクション演出の常道なのである。

 僕の経験では1つのカットとして知覚可能なのは約1秒くらいが限界。あとは見えているんだけど、大概がちゃんとしたカットとして知覚出来てはいない。それでも、それは決して見えていない訳ではないのだ。ちゃんと見えて脳に信号として送られているから、そのアクションがスピーディーで激しいと認知されるのである。そして、それがより早く、よりテンポよく、よりピタリとキマったかたちをとった時、人はそれを視覚的快感と感じるのだ

 この映画の戦闘器撃墜場面では、1カット1秒どころか、ほんの何コマというようなカットも存在するように思える。そして、それより何よりカット数が異常に多い。ホンの一瞬の出来事なのに、戦闘機上と、地上の部隊に起こる大小モロモロのディティールを、すさまじいカット数で描き切るのだ。中にはブレブレで何が写ってるのか分からないような映像もあるだろう。そういう映像もスピード感や緊迫感を高めるための隠し味になっているのだ。

 実際には僕の2秒だ1秒だという長さの目安は、1秒18コマの8ミリフィルムでの話。だから劇場用映画のもっと面積が大きくて解像度の高いフィルム、しかも1秒24コマという動きの中では、もっと知覚可能な時間の長さは短くなっている可能性が高い。これはあくまで参考でしかないよ。

 だが、この「エネミー・ライン」のアクション場面のカット数の多さ、1カットごとの短さってのは特に抜きん出たものに思えるし、それが映画の爽快感と直結している気がする。 監督のジョン・ムーアってCF業界から上がってきた人らしいけど、さすがにこういうカッティングってのは、短い時間で勝負するCFならではの技法って気がしないでもない。

 近ごろの映画は刺激を強くしようと小細工しやがって…などとお怒りの方がいらしたなら、そういう技法は別に特別なことではなく、およそアクション映画と名の付くものなら程度の差こそあれ行われている技法だとここで申し上げたい。例えばあのジョン・フォード監督の名作「駅馬車」だ。終盤の対決場面でジョン・ウェインが発砲したとたん、実は画面一面真っ白な映像が1コマ挿入されていると言うのだ。それによって、発砲の激しさが強調されている。改めて申し上げるが、「駅馬車」は1930年代の作品だ。この頃からすでに映画は、いかに刺激を強くするかを工夫してきたのである。

 問題はかつては発砲一発1コマだった刺激的編集が、今ではそれでは到底とどまらなくなったことだ。それは生活のリズムとか刺激のエスカレートだとか、さまざまな理由があるだろう。だが一番の理由は、今の人々のビジュアルの知覚能力の向上があるのではないか?

 今時の歌をカラオケで歌おうとしてひどく難儀したことは、歳がいった人なら誰でも経験があるだろう。それにひきかえ若い人達はそれを難なく歌いこなす。それは音感やリズム感が格段に進歩を遂げているからに他ならない。そして、同じことはたぶん映像にも言えるはずだ。生まれた時から、朝から晩まで映像に浴びるように触れている人々なら、たぶん僕のような年齢の人間よりも映像の知覚能力が格段に進歩しているだろう。そして、彼らが元々1秒間24コマの映画フィルムではなくて、1秒間30コマのテレビ・ビデオ映像の方にこそ親しんでいることを考えても、その知覚能力が一層鋭敏になっていることは想像に難くない。逆に言うと、これからの映像表現に僕たち歳のいった人間がついていけるのか、そっちの方こそ難しいものがあるかもしれない。

 そしてこの極短カットを大量につなげたアクション演出は、もう一つの問題をも提起しているのだ。それは演出に際してのディティールの問題だ。

 数多くのカットを短時間にたたみかける演出の際、そのカットの一つひとつがしかとは確認出来ないにしても、そこにいいかげんでどうでもいいものが写っているわけにはいかないだろう。すると戦闘機撃墜という事件に関わるさまざまなディティールを、細かく分けて見せていくことになる。カットの数が多くなればなるほど、多くのディティールを積み重ねなければならない。そうなると、ロケット発射装置の実際、戦闘機のメカニズムの実際、それらを動かす際のオペレーションの実際、緊急事態の際の対処の実際、軍隊での人物の振るまい方の実際など、その場に関わるありとあらゆる要素の実際について細部にわたった知識かリサーチが必要になってくるのである。それも、これまで以上にさらに細密な部分まで。

 つまり細かいカットが短時間に多数重ねられるということは、スピード感の増大だけでなく情報量の増大をも意味しているかもしれないのだ。先ほど言ったように若い人達の映像の知覚能力が上がっているとしたら、それは大いにありえる。

 この映画の場合、監督のジョン・ムーアは軍事全般にわたって知識が豊富であり、かつ関心も深かったという事情があった。だからこそのディティールへの深い突っ込みだったのだろう。

 だが先のカットの高密度化が情報量の増大への要求でもあったとするならば、それは別にアクション場面に限らない。別に膨大なカットが短時間に消費されるような場面だけとは言い切れない。知覚能力がすぐれた若い観客は今後いかなる場面であっても、映像にさらに多くの分厚い情報を要求してくるのではないか? そうなると、映画は極端なディティールの情報勝負になるのかもしれないのだ。

 実際、元々はディティールは演出の命でもある。今回同時にアップする「キリング・ミー・ソフトリー」感想文のチェン・カイコーについての記述を読んでいただいてもお分かりいただけるはずだ。

 チェン・カイコーは文化大革命当時、都会から農村に飛ばされた。その時に見聞した現実が、初期に撮っていた映画のディティールともなっていた。その後に娯楽大作化してからも、中国が舞台の話ならば自分で知っている事も多いし、調べたり尋ねたりするのもたやすかったはずだ。

 それが「始皇帝暗殺」で何千年も前の話を手がけたからたまらない。誰もそんな大昔のことを知るわけもない。ディティールを描きえなかったチェン・カイコーは一気に失速した。同じことは、ロンドンの欧米人の生活習慣を知り尽くせるはずもない、「キリング・ミー・ソフトリー」にもいえるはずだ。

 つまり、映画の「エネミー・ライン」化…情報の高密度化は、世界中の映画作家にチェン・カイコーと同じジレンマを体験させかねない。要求される極度の高密度なディティールに、果たして演出や脚本、撮影、編集などなどなど…が追い付いていけるのか?

 これらはあくまで仮説だが、この映画が提起する問題は、実はかなり大きいのではないかと個人的には思っている。

 

 

 

 

 to : Review 2002

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME