「ふたつの時、ふたりの時間」

  (What Time Is It There ?)

 (2002/03/11)


  

「あの頃」を丸ごと取り戻そうとするのは無理

 僕がこのホームページ始めた動機については、今まで何度もここで語っているよね。実際の仕事で思うように「書く」ことが出来てない状況なんで、その欲求不満と手がなまることを解消するためにやっているって。

 かつては僕も、自分なりにはいい環境で仕事を進められてた時もあったんだ。まぁ、もっと華やかな仕事をしている同業の人から見たら、大したいい環境でもいい仕事をしてた訳でもないと笑われてしまうだろうけれど。でも、少なくとも現状よりは良かった。それなりに腕のある人とも組めたし、張り合いもあった。何より今より僕自身も自信に満ちていた。もちろんイヤなこともくだらない奴もいろいろあったけどね。

 その職場を離れて現在に至るまでの僕のキャリアって、日本経済を取り巻く環境もあいまって正直言ってあまりいい状態にいるとは言えない。いい仕事にもいい環境にもなかなか恵まれない。僕の友人知人たちにも、かつてのその職場にいた頃が一番生きいきしていたなどとよく言われる。それは自分が一番よく分かっているよ。

 そして、その職場を辞めなければよかったのに…とも。でもねぇ、それはよく考えればありえない話なんだよね。

 それは、今その職場自体が変質を遂げていて、当時いた人たちの大半は姿を消していることからも分かる。みんな僕と同じ理由で辞めた。あのいい環境が失われてしまったから。そして、あとから入ってきた人間が、場の空気をメチャクチャにしてしまったから。僕が去る時にはまだイヤな前兆だけだったが、去った後には本格的にその職場は崩壊してしまった。だから、やっぱり僕が辞めたのは必然だった。あの時辞めなくてもいつか辞めることになっただろうし、当然今戻っても昔のあの職場ではないだろう。

 そして、もし辞めなければ僕は多くのものを新たに得ることがなかった。このサイトを立ち上げることもあり得なかった。サイトを通じて多くの方々と親しくなることもなければ、大きな意味を持つ出会いもなかった。これらは全て、前の職場を去ることが発端になって手に入れたものばかりだ。だから僕には、到底辞めなければよかったなんて発想は起きようもないのだった。

 ただ僕にも未練というか、残念な気持ちになる時はあるよ。あの「職場」そのものではなく、その時に僕が持っていて今では失ってしまったいい環境、いい仕事、腕の立つ人々…これらを何とかして取り戻したいと思う時もある。いや…取り戻したい“時もある”なんてもんじゃないな。実はそう思わない日はあれ以来一日とてない。新たに職場とした環境で、あの頃の「良さ」を何とか再現し移植したいと試みることもある。でも、そんな試みはいくらやっても無駄なことだなんだね。

 なぜなら自分は「あの頃」を丸ごと取り戻そうとしているからだ。そんな事は出来っこない。今、当のその職場ですら失ってしまった、この地球上にはすでになくなったものを再現しようとしているのだから。

 そして、そう思っているうちは何をやっても人生を立て直せないのかもしれないね。後ろを向いてしまっているうちは…取り戻せないのだと骨の髄まで痛感して諦めるまでは…。

 

 

 

 

 

 

できるだけ映画を観てから!

 

 

 

 

 

 

みんなツラい思いを満たそうとはするが

 オッサン=ミャオ・ティエンが飯の支度をしている。飯をテーブルに置いて、どうもセガレらしい奴の名前を大声で呼ぶ。

 「シャオカン!」

 だが、そいつは待てど暮らせど部屋にやってこない。

 場面変わって、車に乗っているのは先ほど呼ばれたセガレのリー・カンションことシャオカン。膝の上に載せているのはお骨の箱。何と先ほどの親父ミャオ・ティエンは死んでしまった。坊さんが来て、図書館か資料室みたいなお墓の団地=納骨堂に納められるお骨。坊さんが来て読経。なんまいだ〜成仏しろよ。

 がらんとした家の中の雰囲気は、いやが上にも親父の不在を感じさせる。シャオカンは寝床でビニール袋に小便する。便所へ行けっつうの。

 そんなシャオカンは路上で腕時計を売る小売商。今日のお客はかわい子ちゃんチェン・シアンチー。いろいろ品を見ていたが、シャオカンがしている時計を気に入り、売ってくれ売ってくれとうるさい。ところがシャオカンはシブい顔。自分が気に入っていて手放したくないのかと思いきや、親父の喪が明けてないのでこの時計は縁起が悪いとシブってるんだね。悪運を呼び込むぞと拒んだものの、別のがあるか探すと言って自分の電話番号を彼女に渡した。だが、シアンチーちゃんは明日パリに行くのだ。結局、電話でもしつこく売れ売れと迫られ、シャオカンは彼女に時計を売ることにした。

 シャオカンの家では神棚を供えて親父ミャオ・ティエンを祀り、母親ルー・イーチンは早速熱心に拝む。その熱心がが高じてゴキブリも殺すなと言い出すやら、やたら食べ物を供えるやら。何だかちょいと妙な雲行きだ。その頃、シャオカンがパリの時間を問い合わせ、自分の売り物の時計の時間をパリ時間に合わせだしたのはいかなる風の吹き回しか。あげく中古ビデオ屋でパリの映ったビデオを…と購入したのが、フランソワ・トリュフォーの「大人は判ってくれない」。大人どころかテメエもよく判ってないそのビデオを食い入るように見つめるシャオカンの様子も、何だか妙な感じだ。

 そんな折りも折り、家の時計の時刻が遅れた。母親はこれぞ父親の帰ってくる兆しと夜中に食事の準備をしようとするわ、拝むわで大騒ぎ。

 パリではホテルの一室で、例のシアンチーちゃんが天井の妙な物音に眠れずにいた。孤独なパリの日々。支えになるのはそれだけとばかり、例の時計を必ずお供にしていた。彼女、パリに何しに来たのか知らないが、何とフランス語も出来ないので食事の注文すらおぼつかない。地下鉄でも駅員に呼び止められた理由が分からない。フランス人は判ってくれない。ある時、東洋人の男を見かけて、無視しつつもちょっと気になる彼女は、たぶん誰か話せる人を求めていたんじゃないか。

 シャオカンのパリ時間熱はさらにひどくなり、街の時計屋の時計を片っ端からパリ時間に合わせるテイタラク。そこをメガネをかけた別の客に不審げに見られて立ち去るものの、今度は映画館に入ってロビーの置き時計を盗んでは、それをパリ時間に合わせようとする。だが、そこに通りかかったのは例の時計屋で見つめてたメガネ男。あげくその時計を奪われてしまう。メガネ男を追って便所まで来ると、こいつが何を勘違いしたか永井豪の「ハレンチ学園」の先生のコスチュームみたい(笑)に全裸の股間にこの時計をあてて誘ってくるからさすがにマイッタ。どっちもどっちのオカシサ加減だね。

 シアンチーちゃんは部屋から電話ボックスからいずこかへ電話しようとするのだが、つながらなかったり電話をかけられなくなったり。そもそも一体誰にかけようとしているのか。ひょっとして台北でもらったシャオカンの番号にかけようとしているのか。また地下鉄に乗れば電車が止まるが、アナウンスが何を言っているのか分からない。夜道が怖いので通りかかった通行人の後をピッタリついて歩くが、それじゃストーカーと同じで警戒されるアリサマ。あげく自分のホテルの入口も通過してしまう程のウロタエぶりだ。

 シャオカンの家では母親のオカシサはさらにエスカレートして、夜中に飯はざらなこと。昼間っから窓を暗幕で塞いで真っ暗にすると、便所の中まで電灯を消してロウソク生活に入る。さすがにこれには今まで黙っていたシャオカンもたまらなくなり文句ブーたれるが、母親は「お父さんが光をイヤがる」の一点張り。あげくヒステリー状態になられて匙を投げる。

 パリではシアンチーちゃんがなぜか墓地にいた。ベンチに座って探し始めたのは、やっぱりシャオカンの電話番号。ところでそのベンチには先客がいて、それがフランス人の中年男。彼は一心不乱にバッグの中を探す彼女に「何をお探しですか?」と親切に聞いてくる。彼女が「電話番号だ」と答えて再び捜し物に熱中すると、このフランス男は何を勘違いしたのか勘違いではないのか、彼女に自分の電話番号を手渡した。思わず「????」と絶句してしまうシアンチーちゃんだが、実はこの男、かつて「大人は判ってくれない」主役を演じたジャン=ピエール・レオとは気づかない。いや、そもそもそんな映画知りっこない。

 そんなこととは露知らず、シャオカンは台北のビルの大時計まで、屋上から長い棒を使ってパリ時間に直していた。時計を狂わせると(シャオカンにとっては「合わせた」んだろうが)満足したのか、満足げにワインをラッパ飲み。やっぱフランスはパリーとくればワインだろうが。

 そのせいで悪酔いしたかトイレでゲロ…と思いきや、ここはまたまたパリのカフェーのトイレだ。ゲロ吐いてるのはシアンチーちゃん。ところがその場にたまたま香港女イップ・トンが居合わせた。彼女が気を利かせてお湯を注文してくれたおかげで気が楽になり、久々の同郷の言葉にお喋りもはずむ。どうやら彼女も異境の孤独に食傷気味だ。シアンチーは一も二もなく荷物を持って彼女のホテルに移動。ホッとした。

 もう家には帰りたくないシャオカンは、車の中に籠城。するとそこに娼婦が寄ってきた。こうなりゃ構うもんかと車の中に彼女を迎え入れるシャオカン。そこからワッセワッセと男と女のねぶた祭りが始まった。

 シャオカンの家では母親が何を血迷ったかチャイナドレスにドレスアップ。食卓の準備をするものの、夫が帰ってくるわけもない。寂しさあまった母親は、親父の部屋に入って寝床に横たわると、かつて親父愛用の枕を股ぐらに抱え込んでオナニーを始めた。

 パリのイップ・トンの部屋では、ベッドに横たわった彼女とシアンチーちゃんが妙な雰囲気。顔を見つめ合ったあげくキス

 ワッセワッセ、オナニー、キス。

 だが、イップ・トンは途中で我に返ったかソッポを向いた。取り残されやりきれない思いのシアンチーちゃん。

 親父の部屋の母親は、枕抱え込んだままフテ寝。

 車でコトが終わった後寝込んだシャオカンを横目に、娼婦は彼の商売道具の時計入ったカバンをゲット。パリ時間とともに持ち逃げした。

 シラジラとした雰囲気の中、スーツケースを抱えて行き場のないシアンチーちゃんは、イップ・トンの部屋を後にした。

 シャオカンは家に帰ると、窓の暗幕をひっぺがす。親父の部屋でフテ寝の母親見つけると、切なくなって添い寝してやった。

 やりきれない思いで公園のベンチに座るシアンチーちゃんは、泣いて泣いて泣き疲れて居眠りこいた。居眠りこいてるうちにスーツケースは持ち逃げされ、中味をカラッポにされたあげく池に捨てられるが、まだ気づかずに鼻ちょうちんだ。

 ところが親切にも池からそのスーツケースを引き揚げた男がいた。

 それは、何とシャオカンの父親=ミャオ・ティエンではないか。

 

さらに一歩先に行ったツァイ・ミンリャン

 台湾のツァイ・ミンリャンの最新作はフランス資本の台湾映画。冷え冷えとクラ〜い作風を「河」で行き着くとこまで行かせたあげく、前作「hole」でいきなり近未来を舞台に、飯坂温泉「ホテルじゅらく」のショーみたいなミュージカル仕立ての作風にハジけた観があるミンリャンだが、今回は一見また元の冷え冷え路線に戻ったかのように見える。まして主人公はおなじみグンゼの白いブリーフ大好き(ただし今回はパンツご開帳はなし)のシャオカンことリー・カンション。親父がミャオ・ティエン、オフクロがルー・イーチンというゴールデントリオ(笑)もいつものまま。ヒロインであるチェン・シアンチーも「河」に続いて二度目の出演とおなじみメンバーだ。だが、大きな違いがある。それは台湾から出なかった彼の作品が、パリまで舞台にしたことかな?

 正直言って、この映画最初はちょっとどうかと思ったんだ。シャオカンがなぜパリ時間にこだわったのか、最初のシアンチーちゃんとのあれだけの出会いでは納得出来なかったんだね。そこらじゅうの時計をパリ時間にしてしまう真意がよく分からなかった。そして、なぜパリ?

 そして「hole」で一旦はハジけた作風を逆行させたがごときに見えるのも、よく分からなかった。ただ、それでも何となく嬉しく見れたのは「大人は判ってくれない」の引用と、ジャン=ピエール・レオの出演があったからだね。ハッキリ言ってこれは理由になってないけど。トリュフォー・ファンとして単純にミーハーに嬉しかった。ただし、これも「なぜトリュフォー?」という必然性を問われると困っちゃうんだよね。何でこれはダメでこれはいいんだよ?…なんて聞かないでくれよ。俺も困ってるんだ(笑)。

 ただし、お話がパリのシアンチーの孤独を実にリアルに描き出すに至って、この映画の言いたいことは何となく僕にも分かりかけて気がするんだよ。元々、この人の孤独描写には「愛情萬歳」の頃から凄みがあった。今回のパリのシーンの孤独感にはただならないものがあったんだよね。

 終盤で公園のベンチで泣きに泣くシアンチーの表情なんか、やっぱり「愛情萬歳」のエンディングのヤン・クイメイ突如の大泣きを想起させざるを得ない。ただ、そうなるとツァイ・ミンリャンはまた元に戻ったのかということになるんだけど、僕はちょっとそれは違うんじゃないかと思うんだね。今回の女の涙は、かつてと似て非なるものだ。

 まずよ〜くこの映画全編を見渡してみると、たくまざるユーモア風味がケロッとした感じで盛り込まれているのに気付く。特にシャオカンがらみの場面にその雰囲気は濃厚で、映画館でメガネ男に誘惑されるくだりも、ビルの大時計の時間を変えちゃうあたりも、何となくバカバカしい笑いが浮かんで来るんだよ。これってちょっと新しいんじゃないか? やっぱりこんなところに「hole」を通過した痕跡が認められるんじゃないだろうか。

 実際のところハジけてたとは言え、「hole」にだって冷え冷えジトジト描写の部分はあったわけだしね。だから今回もちょっとばかりそういう場面が出てきたからって、すわ旧来の作品傾向に戻ったと騒ぐのは早計だったかね。

 そして今回のツァイ・ミンリャン、単に従来の冷え冷えした孤独を表現したというより、僕には分からないながらも、もっと別なものを表現しているような気がするんだよ。

 それは、「喪失」した人間の心のありようとでも言えばいいだろうか。

 存命の頃には、せっかく食事を用意した親父に声をかけられても、姿も見せないし返事すらしないシャオカン。いなくなって初めて、父親のいない冷え冷えした家庭の空気に気づくあたりが結構痛いじゃないか。このあたり、自分も人のこと言えないってとこあるもんなぁ。母親はって言うと寂しさにキレまくって家庭はメチャクチャ。こうなるとつき合いきれないシャオカンは家になんかいられないってことになっちゃう。母親のツラさまで思い至れないよね。袖スリ合うも多少の縁のシアンチーにすがりたくなるってことじゃないだろうか?

 シアンチーも調子こいてパリまで出かけてはみたものの、台北で「あたしパリに行くのよ」と意気揚々と語った面影はまるでない。僕もこのサイトでやれロスに行ったニューヨークに行ったなんて偉そうに書いてはきたけど、その実際ってのは悲惨なもんで、言葉が不自由だから食事に店に行くのもおっくうになってくる。カッコ悪いんですよ、ホントの話は(涙)。だから、彼女がどこかのコンビニみたいな店で買い込んだ情けない食事を、ホテルの部屋でがっつく様がリアルに感じる。彼女も自分の基盤や自信がどんどん揺らいでいっちゃう。自分の確かな居場所を「喪失」しちゃうんだよね。

 そんな寂しさツラさを、何とか何かで塞ごうとするのは人間の常。シャオカンは娼婦と寝ることで自分を癒そうとするし、その母親はドレスアップして夫を待つものの、帰ってくるはずもない。ついつい夫愛用の枕にやり切れぬ思いをぶつけるのも、ある意味じゃ代償行為と言えなくもない。シアンチーですら、同じ中国人とすがりつく思いで部屋に転がり込み、はずみとは言え相手の女に何かを求めてしまう。

 でも、みんなそれが空しいものだと悟るんだね。

 実際、人間って何かを失うってツラいんだよ。元々なかったものなら別にどうってこともないんだけど、あったものをなくすってのは耐えられない。地位も名誉も収入も、友人も恋人も何もかも、あったものがなくなるのってのはこたえるよね。だから未練が残るし、出来れば取り戻したいともがく。だけど、よほどの例外は別として、それを取り戻せるってことはまずないんだよ。で、取り戻そうとするうち、取り戻せると思っているうち、取り戻さなくてはと思っているうちは幸せになれない。これは実感として僕にもある。そう分かっていても割り切れはしないんだけどね。

 この映画の主人公たちは、みんな各人各様にそれが無理だと悟ってしまう。だけど、エンディングに示されているのは、取り戻せないと悟った絶望感ではないと思うんだよ。取り戻せないと諦め、自分で納得し、現状を受け入れるところから何かが新たに生まれるんじゃないかと言っている気がするんだよね。そこが今回のツァイ・ミンリャンの新しさではないかと思うんだ。いや、今までよりもまたさらに一歩先に行ったと言い換えてもいい。

 シャオカンとシアンチーは、お互いのやりきれない思いの中、孤立感だけが深まっていた。そして、わずかながらも接する機会があったお互いを求めるが、それは望むべくもない。だけど、実はどこかでシンクロしてもいたんだ。シャオカンがパリへの思いをつのらせて見た「大人は判ってくれない」、その主演者レオとシアンチーは遭遇していたのだ。だけど、シアンチーはそれと気づかない。ただ不審なフランス男としか思えない。まだ彼女が失った自分のアイデンティティーにどこかこだわっていた時には…。ところがスーツケースの中味という、彼女の手持ちの全てを喪失したその時、現れたのはシャオカンの父親だったと言うのは象徴的ではないか。これは邪推にすぎないけど、スーツケースには彼女の「パリでカッチョよくやってるぞ」ってなクソつまらないプライドまで詰まっていたのではないかね。

 ついでに言えば、シャオカンの父親登場も別に幽霊とか超自然的な何かを意味しているわけじゃないだろう。シャオカンとのつながり…つまりはシンクロを表現しているのではないか。その頃、シャオカンも商売道具のカバンごと彼のすがりついたパリ時間を失ったのは偶然ではあるまい。そして、シャオカンもそうなって初めて、母親と対峙し生活を建て直そうとしたんだね。

 失ったものや過去にこだわって前が見えなくなっている時には、新たに訪れるチャンスもチャンスとは思えない。そして、そんな時には得たチャンスさえ失ってしまう。その時点でシャオカンもシアンチーもお互いを求めようとしても、たぶんうまくいきはまい。 だから、それまで電話がつながらなくて良かったのだ。

 何かを失ったという事実を受け入れて初めて、新しい何かをも受け入れることが出来るのだから。

 

 

 

 

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