「カンダハール」

  Kandahar (Safar E Gandehar)

 (2002/02/18)


  

モフセン・マフマルバフは映画バカ

 今はちょっと違っちゃったけれど、前は東京国際映画祭っていうと知られざるアジア映画、第三世界の映画を発掘する映画祭って色彩が強かったんだよね。かつては「アジア秀作映画週間」、今では「シネマ・プリズム」部門という名称になっている部門は、だからこの映画祭でも力の入ったところだったわけ。ただ、客の入りは…というと、年末まで待てばほとんど劇場で見れる「特別招待作品」などの映画に俄然人気が集中していたね。まぁ人は好きずきなんだけど、僕は今でもあのへんの気持ちってのが分からないねぇ。スターの舞台挨拶とかってそんなに見たいものなのか?

 それはともかく、そんな中で僕が当時必ず押さえたのが韓国映画だった。そしてそれ以外の珍しい映画も必ず一本は見ようと思っていた。だってこういう時しか見れない映画見なくちゃ、映画祭なんて意味ナイじゃないか。だけど、いつの間にか韓国映画は人気アイテムになって切符を手に入れるのも難しくなった。そして「シネマ・プリズム」自体、東京フィルメックスなんて訳の分からない映画ファンのお祭りのあおりをくらって、あまり魅力的なプログラムを組めなくなってきた。だけど、フィルメックスまではなかなか行こうという気にならないんだよねぇ(笑)。

 まぁともかく、「アジア秀作映画週間」または「シネマ・プリズム」がまだ活気があった当時、たまたま僕が期待もせずに競馬で言ったら穴狙いで切符を買ったのが、イランのモフセン・マフマルバフ監督の「ワンス・アポン・ア・タイム、シネマ」なる作品だった。

 だからって、当時日本には紹介されていなかったこの監督に注目した先見性を自慢したいわけじゃない。実際、なぜこの映画の切符を買ったかと言えば、恐らく仕事との兼ね合いで見に行ける日にちが限られている中で、何か見ることが出来るとしたらそれしかなかった…ってなやむにやまれぬ事情があったからだろうね。だって、この監督とこの作品の情報なんてなかったわけだから。

 ただ、切符を買う際に目にした映画祭のチラシの紹介文には注目した。この映画、タイトルからも彷彿とさせられるように、「映画についての映画」だったからだ。

 うちのサイトのタイトルがトリュフォーの「アメリカの夜」からいただいたことは、ここに来ているみなさんにはすでに耳にタコの話だろうね。でも、それに限らず「映画についての映画」って秀作が多い。「エド・ウッド」だって「蒲田行進曲」だって「映画についての映画」だからね。だからこの「ワンス〜」だって面白いんじゃないかと踏んだわけ。

 大昔、王様の宮殿に活動写真の映写技師が映写機を抱えてやって来る。やがて活動写真の映写アトラクションを行ううちに起こるてんやわんやを、コミカルにちょっと幻想的に描いた作品だったように思う。だけど残念なのは、やはりこの国そのものとこの国の映画事情に、僕が徹底的に疎いってこと。映画を見ていると、そのへんの事情が分かれば面白いんだろうな…って箇所がたくさんあったからね。でもそんな隔靴掻痒的な状況でも、作者の意欲的な意図は伝わってきた

 しかもこの映画の終盤は、さまざまな映画の断片がドンドンつながっていく構成をとっていくんだよ。つまり「ザッツ・エンタテインメント」とか「ニュー・シネマ・パラダイス」の例のキス場面編集フィルムのように。そこに映し出されるのは恐らくはイラン映画の代表的な名作傑作話題作ぞろいなんだろう。あるものは文芸作のようであり、あるものはアクション映画のようであり、時代もまちまちでかなり古いものも混在しているようであり、ただ見ているだけでもかなり興味深いものではあった。「あの俳優って、きっと昔のイランの石原裕次郎みたいなスターだったんじゃないか?」とかツッコミ入れられそうな感じだし。ただ、やっぱり僕にはそれらの作品が何だか分からないから、ドドドドッと見せられた時の懐かしさとか感慨みたいなものはないんだよね。それが何とも残念。たった一本だけ、その名場面集の終盤にアッバス・キアロスタミ監督の作品が入っていたのが分かっただけだったからね。でも、この映画の作者マフマルバフのやりたい事は痛いほど分かった。絶対にこいつ自身もかなりの映画ファンに違いない。こんな「ニュー・シネマ・パラダイス」パクり企画やっちゃうなんて、間違いなく「映画バカ」としか考えられないもんね(笑)

 これでちょっと気になる映画作家となったマフマルバフの作品は、その後の東京国際映画祭で「サラーム・シネマ」とか「パンと植木鉢」なんかを見ることが出来た。これらを詳しく説明するのは避けるけど、いずれもドキュメントと劇映画のスレスレの線を狙う構成をとっているあたりはイラン映画の十八番。何でイラン映画にこの手の作品が多いのかは、いつかちゃんと分かる人に説明してもらいたいな。イランに子供映画が多いのは厳しい検閲を逃れるためらしいんだが、そういうのと同様に、この虚実スレスレ映画が多いってことにも何か理由があるんだと思うからね。

 しかもこの二本には、もう一つの共通点があった。マフマルバフが映画製作をするために出演者をオーディションしたり、役者に起用した奴と制作準備をする過程を題材にした、映画づくりがテーマの映画なんだよ。つまりはまたまた「映画についての映画」

 面白いことに、これと同時期かすぐ後に公開されたキアロスタミ作品「クローズ・アップ」がまた凄くて、イランでの人気監督であるマフマルバフを騙った男が主人公なんだよね。おまえを俺の映画に出してやるって言ってタカった奴の話。これが何と実話の映画化で、しかもダマされた奴ダマした奴本人が同じ役で出演してるって、一体何を考えているのか分からない構成(笑)。イラン人ってこうしたヤラセとかに抵抗がないんだろうか? だから当然、マフマルバフ本人まで出て来ちゃう(笑)。これも、ある意味では「映画についての映画」ではあるね。

 で、このあたりになるとマフマルバフ作品のテレビ放映なんかもあって、この人の出世作とされている「サイクリスト」を見ることが出来たわけ。生活に困窮した男が金のために不眠不休で自転車に乗り続ける…というお話、どこかで聞いたことはないかな? そう。これってシドニー・ポラック監督、ジェーン・フォンダ、マイケル・サラザン主演のアメリカ映画「ひとりぼっちの青春」の趣向に酷似しているだろう? もっとも、あっちは自転車でなくてマラソン・ダンスだったけどさ。どう考えても、マフマルバフの頭にはこの映画があったと思えるんだよね。パクりとは言わない、でもヒントにはなったはずだ。

 で、長々と何を言いたかったかと言うと、モフセン・マフマルバフって監督さんがかなり映画好きで映画を引用することを好む映画作家なんじゃないかと言うこと。例えばアメリカ映画でも、コッポラ、ボグダノビッチやらスピルバーグやらスコセッシやらって連中は、映画が好きで映画を引用することで自作の活性化を図ってきた人たちだよね。そんな彼らの出現で、アメリカ映画も息を吹き返してきた。そういう人々と同じ地点に、たぶんこのマフマルバフって人はいるんじゃないかというところから、今回のお話は始めたいと思ったんだよ。

 今回取り上げるこの「カンダハール」って映画、アメリカ同時多発テロ以来のいろいろな状況やら、アフガンに対する政治的人道的な思惑とかもあって、どうしてもある色合いで見られがちなところ。もちろん作者のマフマルバフ自身メッセージを持って、ある種の論議を呼ぶことを想定しそれを期待してつくっているのだから(もっとも彼も同時多発テロまでは想定していなかったろうが)、そのことを無視しろとは言わない。だけど、それだけならプラカード描いてどこかをデモ行進すれば済むことであって、それだけと考えればあまりに映画に対して寂しいだろう?

 この問題についてそれなりにマジメに考え、意見を持っておられる方々からすれば不謹慎な話かもしれない。だけど、それだけなら映画の評価でも感想でもなんでもない。結局アフガンって大変で可哀想って言うだけで話で終わっちゃう。だから一旦それは了解した上で、ちょっとそれから解放して見てあげてもいいんじゃないかと思うんだよ。まずは映画というものをよく知っていて、映画が好きでたまらない男がつくった映画だということから見てはどうだろうか? 

 そんな気持ちで「カンダハール」を一本の映画として見てみれば…。

 

恐怖が支配するアフガンに女一人

 1999年8月。アフガニスタンとイラン国境上空を飛ぶ赤十字のヘリに、一人の女が乗っていた。彼女の名はナファス(ニルファー・パズィラ)。カナダに亡命したアフガニスタン女性だ。彼女は先日、アフガニスタンに残った妹から手紙をもらった。それには、アフガンの現実に絶望した彼女が、20世紀最後の皆既日食の日に自殺を図ると書いてあった。妹のいるカンダハールの街にたどり着き、何としても彼女の命を救わなければ…。だが、それはわずか三日後。妹の命を救うためにあらゆる手段を試みているうちに空しく数ヶ月が過ぎ去った。もはや待ったなし。彼女は最後の望みをアフガン・イラン国境のアフガン難民キャンプに託すことにした。

 飛行中のヘリがパラシュートで何かを投下していく。遙か眼下のアフガンの荒野に、松葉杖の男たちが狂ったように飛び跳ねて集まってくる。ぴょんぴょんぴょんぴょん…ハッキリ言ってそれは壮絶な光景だ。これは一体何なのだ?

 難民キャンプでは母国への帰還が迫る女の子たちに最後の授業が行われている。明日はアフガンに帰る、もう勉強は出来ない、家からも出られない、でも決して絶望しないで、いつかきっとそのうち…。

 情け容赦ない現実を象徴するかのように、女の子を狙った人形爆弾の説明が行われている。道ばたに人形が落ちていても、可愛いからといって拾おうとしてはいけない、それは危険な爆弾なのだから。

 国連難民キャンプのスタッフにアフガン入国を相談するナファスだが、アフガンで女の一人旅はあり得ないということから、誰かの嫁さんと偽って入国することにする。すぐにアフガンに帰国するガハハな雰囲気のオヤジの第四夫人ということで、アフガン入りすると話がついた。もちろんナファスの金をこのオヤジに握らせたのは言うまでもない。他の三人の嫁さんは何を考えているか分からない。何しろ頭からすっぽりとブルカという頭巾を被っているのだから。女はこいつを被るのが、アフガンでは義務なのだ。そしてこの三人の妻たちとの間に出来たジャリがウヨウヨ。

 こうした大勢がちっこいオート三輪トラックに乗り込んで、何とかヨタヨタと出発だ。お守り代わりのチビ国連旗を付けて、えっちらおっちらとオート三輪は行く。

 カナダ暮らしが長いナファスとしては、息が詰まるブルカなんか被っちゃいられない。だが、一歩アフガンに入ったらガハハなオヤジは本領発揮。わしの女房となれば女らしくブルカを被ってもらわにゃ困る、女はおとなしくブルカ被らにゃな。オヤジ、調子こいてこんなこと日本で言ったら女たちにブチ殺されるぜ。

 ところが男の威厳を発揮したはずのオヤジも、いきなり出てきた盗賊にはお手上げ。オート三輪と財産を搾り取られ、それでも命あってのものだねだの神様に感謝しろだの男らしいことこの上なし。腰抜けマッチョオヤジは嫁さんたちとジャリども連れて砂漠をウロウロ歩くハメになる。

 何とか辿り付いた村で馬車を手に入れると、もうアフガンはコリゴリと尻尾巻いて退散のガハハなオヤジ。お金を払ったナファスは怒るが、もう亭主の威厳もクソもへったくれもなかった。たまたまそこに居合わせた村の少年ハク(サドュー・ティモリー)がガイドを頼むと、やたらめったら金カネとうるさいが何とか引き受けてはくれた。で、オヤジ一家と別れてハク少年と旅を続けるナファス。

 ところがこの少年、もとい、このクソガキ、ガイドのくせに金目のものを拾いたいので一人回り道すると言って、ナファスと離れてトットコ一人で歩いて行ってしまう。置いてけぼりを恐れたナファスがこのガキの後を追っていくと、ガキは砂漠のど真ん中で何やらガサゴソやっている。一体どうしたのよ?

 「この指輪、買って」

 いきなり指輪を差し出して買えと迫るクソガキのハク。ナファスがハクの足下を見ると、そこには白骨になった死体が横たわっているではないか。何とこのガキ、死体からはぎ取った指輪を差し出して、ナファスに買えと迫っていたのだ。

 きゃ〜っ!

 アフガン入りに際してそれなりに覚悟を決めていたナファスも、このホラー映画並みの状況にはキレざるを得ない。

 何とか冷静さを取り戻して旅を続けるナファスとハク。そのうちにアフガンに残した妹のことをいろいろ思い出す。アフガンがおかしくなって、一家で亡命しようとしたある日、妹はついつい足下に落ちていた人形に目を奪われてしまった。人形爆弾で足を失った妹は、このケガで国を去ることが出来なくなった。父もそんな妹に付き添うことになった。そしてたった一人ナファスだけが国外に出ることとなった。気の毒な妹。父も亡くなった今、状況は彼女にとって耐え難いものになってきているのだろう。

 そんなことをやっているうちに、井戸水がいけなかったのか白骨見たのが悪かったのか、どうも腹の調子が悪くなったナファス。ハクに連れられて村の医者の元に急ぐ。

 ところが女の露出をことごとく禁じている今のアフガンでは、彼女たちが医者にかかるのもままならない。カーテンを隔てて、そこに開けた穴ごしに目や口を見せて診察するというアリサマ。医者から女の患者への指示は子供などを仲介して行われるという徹底ぶりだ。何ともオカシイがこれは笑えない現実。

 ところがこの医者、たまたまナファスを診察するうちに英語をつぶやいた。そこで自分も英語で答えるナファス。これには医者も驚いた。ハクは二人の様子がオカシイと気づくが、何を言ってるか分からないのでどうすることもできない。

 医者はハクにガイドを続けさせるのは危険だとナファスに忠告する。この手のガキはカネのために何をするか分からない。日本だってガキはオヤジ狩りとか何するか分からないけどね。何とかかんとか説得したあげく、ハクとはここでバイバイと言うことになる。金づる手放すことに納得できないながらも、渋々帰っていくハク。もう充分稼いだからもういいだろ。

 ハクを帰した医者は、カーテンを剥いでナファスと直接話し始める。彼の名前はタビブ・サヒブ(ハッサン・タンタイ)。何とアメリカ黒人だと言う。かつて神を探して戦士としてこの地を訪れ、ソ連軍との戦いに参加した。その後の内戦でもあっちへつきこっちへつき、そして人の命を救うことこそが使命と悟って医者となった。当然、彼に医者の資格はない。だが、それでも通り一遍の西洋医学の知識で通用してしまうのがここなのだ。

 そんな彼の立派なあごひげは、何と付け髭だった。「ヒゲは男のブルカだ」…何と女にブルカの着用を義務づけているように、男にはあごひげを生やすことを義務づけているアフガンの現政権。その途方もないアホらしさ…。そんなところに、もう立ち去ったかと思ったハク少年が舞い戻ってきたので、タヒブ・サヒブ医師はまたあわててあごひげを付け直す。 これ繰り返してたら、本当にドリフ「全員集合」のコントみたいにバカバカしいアリサマ。でもこの国では笑ってられない、生命線を決する行為なのだった。

 舞い戻ったハク少年は、あくまで例の指輪をナファスに売ろうとする。何度か押し問答があったあげく結局彼女に指輪をただで渡したハク。果たして彼の胸中にあったものは一体…。

 やがて馬車を仕立ててナファスを乗せていく医者。彼女の目的地カンダハールまでは行けないまでも、彼女をカンダハールまで連れていってくれる誰かを見つけてやろうと、医者は馬にムチをくれて先を急ぎに急ぐ。途中で赤十字キャンプを行く男を乗せて、さらに道中は進む。

 赤十字キャンプは地雷で足を無くした者たちのための義足を用意している施設だった。医者とナファスが乗る馬車に同乗した男も、妻のために義足を取りに来た男。この日のために仮の粗末な義足で一年待ってきたのだった。

 その赤十字キャンプで待ちに待った義足をもらっても、なぜか大きすぎたりサイズが合わなかったり…。それでも、これがダメなら他はないのだ。中には足があるのに義足をくれなどと言う者もいて油断がならない。ここでカンダハールに同行してくれる者を探すが、めざす人間はいない。ついさっき帰した男が行くかもしれないというキャンプの職員の言葉をアテにして、その男を追うことにする。

 そんなキャンプの上空には赤十字のヘリコプターが飛ぶ。朝、ナファスが乗ってきた例のヘリだ。乗っていた時は分からなかったが、ヘリからパラシュートを付けて投下しているものは、このキャンプから注文を受けた義足だった。ヘリから投下され、舞うようにゆっくり降りてくるパラシュートの義足に、群がるように必死に駆け寄っていく松葉杖の男たち。ぴょんぴょんぴょんぴょん…そうか、これはなかなか手に入らない義足を何とか確保しようと焦る人々の群だったのだな。

 さて、キャンプ職員に教えてもらった男に何とか追いつく医者とナファスの乗った馬車だが、問題のこの男も声をかけたらいきなり義足を売りつけようとしたり、何とも油断がならない信用できないこすっからい男。それでもカンダハールには訳あって行けない医者としては、こんな男にでもナファスを託すしかない。最初はこの男もカンダハール行きをシブったが、最後は何だかんだ言って金で解決した。

 さて、ではどうやってカンダハールまで行くのか? 何とたまたま通りかかった結婚式の花嫁を取り巻く女たちの集団に紛れて行くことにする。例の男も女のふりしてスッポリとブルカを纏った。世話になった医者に別れを告げるナファス。道中はまだまだ長い。

 フラフラと花嫁行列のブルカの群に紛れながら、いざという時に備えて花婿の名前を聞き出すナファス。問われた時には「花嫁のいとこ」で逃れようというわけだ。ナファスと同行の男は自らをハヤト(ハヤトラ・ハキミ)と名乗り、彼女とは夫婦ということで通すとか言っているが、自分が男なのにブルカを被っている怪しさは何と説明するつもりなのだろう(笑)? やがてこの集団から次々と別れて別の道を行く連中が現れる。何と花嫁行列に紛れて秘かに移動しようとする人間は、ナファスたちだけではなかったのだ。こんな厳しい状況下で、何とか不可能を可能にしようとする試みは、秘かにしかし確実に行われていた。

 だが、やっぱり銃を持った検問の連中に捕まった。ブルカの女たちを厳しく調べる彼らは、その下に隠されていた書物や楽器をことごとく押収し、隠し持っていた人々を捕らえていった。ハヤトもブルカの中を覗かれ、男だとバレて連れて行かれる。だがこの男、いいかげんそうに見えながらも最後までナファスの身を案じて囁いた。「テープレコーダーを捨てろ!」

 そしてナファスが質問された。「私はナファス、花嫁のいとこです」

 ナファスのブルカに開いた覗き穴からは、地平線に沈んでいく夕日が見えていた。先行きはまだ遠い。間に合うのかどうか、いや、果たしてたどり着けるかどうか分からない。たどり着いても、どうやって死を選択した妹を救い出せるのだろう? そもそもこの底なしの状況は、一体いつまで続くのだろうか?

 

不思議で「面白い」ロード・ムービー

 見た後どうしたって厳粛な気持ちにならざるを得ない映画ってのはある。正直言ってこの映画がまさにそれだ。ただ、お説教を聞かされに映画館に行く者はいない。それに、今話題のアフガンの映画…だけでオススメするのもどうかと思う。何とも一言で語りにくい映画だからね。

 だから、ここでタリバンが悪いの、アメリカの報復攻撃がどうの…なんて聞いたふうな政治的発言はするつもりはない。作者自身はどういうつもりか知らないが、この映画自体は決してそんなつまんない事を言ってはいないから。それに、そんなありきたりの問題提起の指摘なら、僕以外にも何か言いたい奴がゴマンといるだろう。そういう「いかにも」発言はそんな人たちに全部任せたよ(笑)。

 そもそも見る側は、こんな映画一本見ただけで何かいい事したみたいな錯覚を持つべきじゃないだろう。何と言おうと、これはたかが映画なのだ。

 このお話自体は主役を演じるニルファー・パズィラの身に本当に起こったことを題材にしているようだ。当然のごとく、彼女は本来役者じゃない。実際は手紙は妹ではなく友人からのものということだが、ともかくアフガン国内に入る道が閉ざされていたため、彼女はマフマルバフ監督に一縷の望みをかけたようだ。つまり彼女のアフガン行きを映画にしてくれという申し出をしたらしいんだね。実際にはそれは無理だということで、あくまで劇映画ということでアフガン国境近くのイラン領内で撮影されたらしいけど、それでも場所が場所だけに緊迫した状況はあっただろうね

 先にイランではドキュメンタリーとと劇映画の境界線上にあるような映画が多くあると言ったけれど、この作品なんかそうしたイラン映画が本来持つ性質によって、何ともアクチュアルな迫力を獲得したと言えるんだね。限りなく本物に近いヤラセ。こういう映画風土が元々イランの映画にあったればこそ、この映画も成功したんだろう。

 でも、だからと言ってCNNヘッドラインとかNHKスペシャルみたいに見ちゃ、ちょっと寂しいとは思うんだよね。あくまでドキュメンタリーじゃないんだから。そして実際にこの映画を見た印象は、そんなものじゃなかった。不謹慎恐れず言えば、何とも不思議でナンセンスな国を行くオデッセイ、冒険旅行の映画だった。

 映画ってのは1時間半から2時間の旅だということは前にも言ったよね。だから旅の映画ってのが、映画の機能を一番生かしたジャンルなんだよ。アメリカ映画と言えばロード・ムービーだなんて言われるのもしかり。そしてこの「カンダハール」も、まぎれもなくロード・ムービーには違いない。地上で今まで僕らが見たことも聞いたこともない、不可思議な世界を行くロード・ムービーになっているわけ。

 だって松葉杖の男たちが砂漠をぴょこぴょこぴょこぴょこジャンプしながら駆け寄ってくる空撮なんて、こんなこと言ったら不謹慎だということは重々承知ながら、何とも奇妙な風景じゃないか? 「或る夜の出来事」じゃあるまいし、カーテンを隔てて体に一切触れず見ることもなしに女を診察する医者の姿なんてバカバカしくて笑っちゃうとは思わないか? 子供が道ばたに落ちている人形一つ怖くて拾えない国、そして女たちがスッポリとブルカを被らないと歩けない国、男だってあごひげ生やさないとマズいので付け髭する国…どう考えたって冗談みたいな場所だよね。すごくシュールなコメディみたいだ。

 そして観客の我々は、ヒロインと一緒にアフガンを旅することでこうした驚くべきナンセンスを目の当たりにする。それはやはりとても非凡な光景で、良識ある方々のご批判恐れずズバリと言ってしまうとかなり「面白い」。冒険映画、ナンセンス・コメディ映画、そしてある意味ではSF映画かファンタジー映画のように奇妙な面白さで見る者を魅了する。この映画は決してシリアスに説教くさく見る者にメッセージを押しつけたりしない。まるで「ガリバー旅行記」みたいに楽しませながら、アフガンという国を紹介していく。だからウンザリするようなメッセージ映画にならない。

 問題はこれがコメディでもファンタジーでもなく現実だということだ。

 そして、このナンセンスな国では、人々の一挙手一投足がすべて命に関わることになってくる。それまで見ていて面白かった部分、不思議だった部分、可笑しかった部分がすべてこの国の恐るべき問題点だと気づかされた時、見ている僕らは戦慄を覚えずにはいられない。これは押しつけがましいメッセージ映画にしなかったマフマルバフの作戦勝ちだろうね。いや、この人にそんなメッセージ映画なんて撮りたくたって撮れるはずがなかったんじゃないか?

 先に長々と述べたように、そもそもが映画が好きでたまらないのがマフマルバフという男だ。最近では愛娘のサミラ・マフマルバフが初監督作「りんご」をつくり、18歳で監督デビュー。妻のマルズィエ・メシュキニも「私が女になった日」で監督デビューと、一家全員映画浸けみたいなマフマルバフ一家。その様子を見ると、何だか自作「ゴッドファーザーPART III」で無理やり役者として起用した娘ソフィアが、つい最近「ヴァージン・スーサイズ」で監督デビューに至ったフランシス・コッポラのことを思い出すね。その映画にどっぷり浸かったアリサマを。

 正直言ってこんなに映画浸けな一家、映画バカな男とあまりお近づきになりたくはない(笑)というのが本音だけど、それほどまでに骨の髄まで映画が好きだというマフマルバフの性根の部分は理解出来る。そんな男がジャーナリスティックな興味や慈善意識、メッセージ発信だけのために一本の映画をつくるなんてあるわけないね。

 だからまず何よりも最初に、映画「カンダハール」は面白い映画だと断言してしまおう。

 今回最も面白いのは、「これは一体何だ?」と観客に一瞬「?」を提示して興味をひっぱるミステリアスな語り口だ。冒頭、赤十字のヘリから見下ろすと、砂漠を松葉杖の男たちがぴょこぴょこ飛び跳ねてる。後になるとその理由が分かる仕掛けだが、まずはそのシュールな光景に「?」となり、次に「!」と惹きつけられていく。

 映画の主要人物としてはヒロインと、アメリカから来て住みついた医者の二人がいるのだが、それ以外にドラマに深く関わってくる人物二人…少年ハクとハヤトという男の紹介の仕方もユニークだ。映画はヒロインの旅の先回りをして、観客に一足先に彼らの人となりを紹介してしまう。見ている僕らは、お話がいきなり飛んで知らない人物を描き始めるので意表を突かれる。後でその人物がヒロインと合流してくるのだが、その時には観客が彼女よりもその人物について知っているわけで、だからこその緊張感なり感慨がある。この語り口は実に巧みだ。

 しかも、そこで描かれる人間像も一筋縄ではない。ハク少年は学校を追い出されて食い扶持を稼がなければならない。だからこすっからく金をせびるのも理解出来る。ここまでは観客はヒロインよりも彼を分かっていると言える。そして白骨から盗んだ指輪を売りつけようとするのも分かる。だが、さんざヒロインに指輪を売りつけようとしたあげく、最後に売るのを諦めてタダでくれてやるのはどうだ? そこに少年なりのヒロインへの好意みたいな感情は見てとれないか?

 あるいはハヤトという男、赤十字キャンプでも口からデマカセ。何とかかんとか言って職員から義足をせしめる油断のならない男。もちろんこいつも売り飛ばして金にしようと目論んでいて、ヒロインのカンダハール行き同行にも、金さえチラつかせれば乗ってくる。だが、こんな怪しげな男でもいざ検問に差し掛かった時には最後までヒロインの身を案じる。自分は捕らえられても、彼女の無事を願って口をつぐむ。

 確かに常にヒロインよりも観客のほうが彼らのキャラを先に知らされてはいる。だから僕らはヒロインが彼らにガイドを任せようとする時、こいつは信用できねえぞ〜などと考えながら一種のサスペンスを感じて物語を見つめてる。だが、そんな彼ら…貧しさと過酷さゆえに油断のならない世知辛い人間になっている彼らが、それにも関わらず予想を覆すもう一つの顔を見せる時…これは見る者をいい意味で裏切る展開だ。そしてこの意外性は、単に展開の妙や効果だけにはとどまらないんだね。どんなに現実が厳しく夢も希望もない状況でも人間性だけは消えないのだ…と、わずかでかすかではあるが、光みたいな貴いものの存在をそこに指し示してはいないか?

 スッポリとブルカを被らされて完全に自由を剥奪されたかに見える女たちが、花嫁行列にかこつけて秘かに移動するさまはどうだ? 検問で捕まってしまうことがあるとは言え、ブルカの中に本や楽器を隠し持っているあたりはどうだ? 完全に抑圧し弾圧しようと思っても、人間性は決して消えないのだとは言えないか?

 不条理そのものの国や制度を作りあげ、人を恐怖と暴力で押さえつけるのも人間なら、そこで生き延びるためにえげつなく世知辛く立ち回るのも人間。狂信のあまりにどう考えてもおかしいとしか思えないことを押し通すのも人間なら、哀しみに耐えられず命を絶つことを決心するのも人間…そんな中でも、かすかなりとも残されている人間性。人間、この何とも不可思議な存在…。

 もちろん、実際はそんなに甘いものではないだろう。だが、「カンダハール」の持つそうしたミステリアスさと、一種独特な意表を突いたユーモアのような味わいは、そうした不滅の人間性というものを界間見せてくれていると思う。少なくともマフマルバフはそんな人間の強さを信じているのだ。

 人間と、映画の可能性だけは。

 

 

 

 

 to : Review 2002

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME