A. I.

「エイアイ」でなく「アイ」と読め

A. I. - Artificial Intelligence


キューブリックかスピルバーグか

 

 今回の映画、そもそもスピルバーグ作品なのかキューブリック作品なのかという点が受け取る側の大きなポイントとなるかもしれない。それは、クレジットにスピルバーグの会社アンブリンとスタンリー・キューブリックのプロダクションの合作と書かれている…というだけのことではない。実際のところ、劇場パンフレットに掲載された関係者の証言を読む限り、単にキューブリックが映画化権取得した小説をスピルバーグが映画化しただけではないようだ。かなりの程度までキューブリックが構成をつくり込んでいたようで、逆にキューブリックが作品化のプロセスを進めている段階で、かなり踏み込んだかたちでスピルバーグが関与した形跡(*1)もある。ということになれば、これは名目だけでなしにキューブリックとスピルバーグの共同作業による作品と言うことが出来るだろう。

 実際に出来上がった作品を見ると、従来までのスピルバーグ作品らしい題材と見えて、その語り口は過去の彼のそれとは大きく異なる。娯楽映画としてのメリハリを大きくつけたウェルメイドな語り口、そしてここぞという時にまるでアニメのようなめまぐるしいカット割りや誇張をきかせた演出とキメのショットを連発して、そこにジョン・ウィリアムズの明快なメロディが鳴り響く…というのが従来よりのスピルバーグ勝利の方程式とでも言うべき手法だが、それらは今回全く影を潜めている。語り口は極めてクールなもの。音楽もいつものウィリアムズ作曲にも関わらず控えめそのものだ。

 また、ロボットをなぶり壊す「フレッシュ・フェア」なる催しでの描写の強烈さ、ジゴロ・ジョーに代表される「ルージュ・シティ」のギラギラさは、スピルバーグよりもキューブリック作品、特に「時計じかけのオレンジ」あたりを想起させる。実際にはキューブリック作品ほどの突き放した冷たさはないものの、これがスピルバーグ作品と見れば異例なほどクールで残酷、毒の効いた描写だ。

 さらに驚くべきは、水没したマンハッタンに着いた主人公のロボット少年が、「もう一人の自分」と対面した場面。ここで主人公が衝動的に自分の分身を壊す=殺すくだりは、従来のスピルバーグならば絶対やらない描写だろう。

 スピルバーグも暴力的表現は数多く見せてきたが、それらはすべてサメ、恐竜、秘境の異教徒といった「異物」がやったことだ。彼の作品系譜においては、感情移入可能な人間の凶悪行為が真っ正面から描かれたことは極めてまれだ。「太陽の帝国」「シンドラーのリスト」「プライベート・ライアン」では確かにそれも描かれたが、それは人間が非人間化している軍隊での行為だ。これもある意味で「異物」のなせる業と言えるだろう(その点から言っても「フレッシュ・フェア」での暴力表現は異例だ。この場面のラストで観衆たちは、ロボット少年を破壊することに抗議する程度までは「人間的」なのだから)。主人公がロボットだから「異物」なのだとは言っても、このくだりまで来ると彼は観客の感情移入が出来るまでに「人間化」している。映画の初めの頃のロボット然とした描かれ方とは違って、決して「異物」として描かれてはいないのだ。

 また、終盤近くで宇宙人がロボット少年のために用意した、懐かしい我が家のバーチャル空間の描写は、どこか「2001年宇宙の旅」でボーマン飛行士が体験する疑似地球空間の場面や、「シャイニング」でジャック・ニコルスンが迷い込む魔界のバーの場面を彷彿とさせるが、これはキューブリックに敬意を表したスピルバーグのご愛敬のシーンだろう。

 だからこれらのスピルバーグの新生面は、いわゆるキューブリック効果と言うことも出来る。

 しかし映画前半部分、まだ家庭に溶け込む前のロボット少年の表現はそれらとはまた異なっていて、キューブリックの一言では到底片付けられない。可愛らしい外見ながら、どこか異質で不安感を醸し出すその描写…この主人公を「少年」と見ればスピルバーグらしからぬ…とも言えるが、前述のようにこの段階ではまだロボット=「異物」と見なしての描写であると考えれば、その表現ぶりも理解出来る。あの得体の知れなさ、どことなく怖いイメージは、まぎれもなく「激突!」や「ジョーズ」の監督のものだからだ。

 そして映画が後半にいくに従って、このスピルバーグ作品の変貌ぶりは単にキューブリック効果だけでは説明がつかなくなっていく。

 特にマンハッタンの海底で、ロボット少年が祈って祈ってそのまま氷漬けになっていくくだりの残酷さ。僕はこの場面を見ながら、「ここで変な救いが用意されていたら、やっぱり“所詮スピルバーグ”になってしまう」…と大いに懸念していたから、この展開には正直言って目を見張った。

 しかも数千年後に解凍した後に、宇宙人にもたらされた愛する母との愛の一日は…確かにロボット少年にとっては救いかもしれないが、これも考えようによってはかなり残酷な幕切れとは言えまいか?

 今回、物語の要所要所にナレーションが用いられて、最初はこれが多少の違和感を醸し出す。だが「ルージュ・シティ」の描写や満月型の飛行船などのリアルとは言い難い表現を見ていくうちに、僕は遅ればせながらこの作品が「おとぎ話」として構築されていることを悟った。いや…本当はもっと早く気づいてしかるべきだったんだよね。そもそもベースにあるのは「ピノキオ」なのだから(*2)。「おとぎ話」には語り手がいる。ナレーションはこれが「おとぎ話」であることを強く印象づけるためにあるわけだ。そして「おとぎ話」とくればスピルバーグ自家薬籠中のものだ。「未知との遭遇」「E.T. 」をはじめ、彼はそれを繰り返し繰り返し語ろうとしてきた。ただし今まではあくまでハリウッド娯楽映画のパターンの枠内、特にディズニー的人畜無害なボキャブラリーの中だけではあったが。

 しかし、本来「おとぎ話」とはどこか残酷さを秘めたものだ。遠い昔から現実や真実のメタファーとして語り継がれてきたものだから、そこには残酷なものが含まれていないほうがおかしい。それなのにスピルバーグは、今まで「おとぎ話」をディズニーなどが代表するハリウッド製メルヘンの範疇で表現しようとしてきた。だから、どこか人工的砂糖菓子のような甘ったるさ食い足りなさを見る者に感じさせたのだ。そして、本人もそこが限界だったと悟ったのだろう。「太陽の帝国」など彼のシリアス路線への挑戦は、すべてそれを克服するために行われたのに違いない。

 こうした点から考えると、この「A.I.」での残酷さを伴った「おとぎ話」は、彼の新生面でありながら本卦帰りとも言える。本来的な意味での「おとぎ話」を取り戻した彼がそこにはいる。ナレーションを務めたロビン・ウィリアムズは、かつてスピルバーグが童心とおとぎ話の復権を狙いながらも、あまりにそれを安易に実行して大失敗した「フック」でピーター・パンを演じた俳優だ。その彼をここで語り部として再起用したことも、おそらく偶然ではないだろう。

 この作品ではスピルバーグ一人の名が脚本担当としてクレジットされているが、脚本も自分で書いた監督作は確かあの「未知との遭遇」以来ではないか? それゆえ彼の力の入りようも伺えるし、キューブリック構想が土台にあったとは言え、これが100パーセントどこを切ってもスピルバーグ作品であることは疑いようがない。決して借り物のコンセプトでこれをつくった訳ではないのだ。だからこれをキューブリックで見たかった…という意見は、申し訳ないけどナンセンスじゃないだろうか。作家として格上のキューブリックなら今より出来が良くなるという発想なのだろうが、それが仮に実現したとして果たしてどうだろう? 絶妙の両巨匠のブレンドぶりとスピルバーグの脱皮ぶりこそが、実はこの作品の最大の見どころなのではないか?

 そして、本当の意味での「おとぎ話」に初めて肉薄したスピルバーグ映画の感触は、どこかビタースイートな大人の味。ぞっとするような怖さと残酷さに彩られた、現実世界のシビアさを含んだ味なのだ。

 ではこの「おとぎ話」、実際のところ何を言わんとする話なのか?

 

 

 

(注*1)やはり劇場パンフレット掲載の証言として、キューブリックは当初からスピルバーグが監督して自分は制作に回ることを希望していたような記述も見られるが、実際のところはどうなのだろうか? ただ、これまた劇場パンフレットの受け売りではあるが、成長の早い子供が主役の映画を撮影するとなれば、一本の映画の撮影に何年もかけるキューブリックは最適任者とは言えないことは確かだろう。

 

(注*2)余談だが、この映画がどこか手塚治虫の「鉄腕アトム」を想起させるのはとても興味深い。「アトム」も典型的ピノキオ・ストーリーだ。原作小説をどこまでアレンジしたかは不明だが、企画の当初からキューブリックがこの映画をSF版ピノキオ・ストーリーとしてつくりたがっていたという証言を真に受ければ、「アトム」の影響も検討してみる必要があろう。また、やはりロボットの「人間性」をテーマに置き、それを悠久の時の流れの中で展開した手塚の大作「火の鳥/復活編」との関連も検討する必要があるかもしれない。キューブリックが「2001年宇宙の旅」で手塚を美術監督に起用しようとしたことは有名な話だ。少なくとも「鉄腕アトム」のテレビアニメ・シリーズは目にしているに違いない。

 

 

 

 次ページへつづく

 To Be Continued...

 

 


 

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