A. I.

「エイアイ」でなく「アイ」と読め

A. I. - Artificial Intelligence


裏切られることの喜び

 

 いい映画というものは、どこか見る前の期待を裏切るものだ。

 この映画を見る前に、いろいろな懸念を持っていたことは先に挙げた通りだ。だがこの映画は、それらをことごとく裏切っていた。まず、いかにもスピルバーグらしい題材を得てスピルバーグ・タッチが全開…という予想。これは完全にはずれた。ここでは詳しくは語らないが、甘く優しく、見る者の感情をうまいことすくい上げてうたいあげるいつものスピルバーグお得意の手法は、今回全くと言っていいほど姿を見せなかった。

 前半のロボット少年の受難劇も、例えば引き合いに出しては気の毒だが、「マレーナ」のトルナトーレのようなこれ見よがしのあざとさがない。だから、無理やり胸ぐらつかまれ涙を搾り取られるようなこともない。そもそもここでは人間の身勝手さは責められていても、そうならざるを得ないやむにやまれぬ人間への視点が最後まで失われてはいない。てめえだけ高いところに上がって登場人物を見下すような傲慢さが微塵もないのだ。だから、ロボット少年と義母の別れの場面の悲劇性が際だつ。もっとも僕はここで泣かずに済んだとホッとしていたら、何と頬がいつの間にかビッショリではないか。まるで「太陽にほえろ!」のジーパン刑事の最後状態で「なんじゃこりゃ〜〜〜〜っ」と叫びたくなったよ(笑)。いつの間にかさりげなく泣かされるとは何とも不思議な体験だったよね。まぁ、どこか僕の極めて個人的な心の琴線に触れるところがあったのかもしれないけど…。

 ところがこの泣かせどころもイヤミになる前にサッと切りあげ、歓楽街でのジゴロ・ジョーの口説きシーンに転換。この鮮やかさ、語り口の巧みさこそがスピルバーグなんだよね。これを僕はずっと忘れていた。

 また地球温暖化の影響で都市の大半が水没し、ロボットが当たり前のように存在している未来社会を表現するのに、スピルバーグは多くの尺数を必要としていない。残念ながら物語の世界観を語ることで力を使い果たしてしまったような、わが国のアニメ「メトロポリス」などとは対照的だ。明快にして的確。だから人間の物語にたっぷりと腕を振るえる。じっくり見せていくことが出来るのだ。

 そして一番の驚きが、何と言ってもロボット少年のオスメントだ。決していい子ぶりっ子でわざとらしくって…という事前の予想が裏切られた訳ではない。驚くべきは、スピルバーグがそんなオスメントの資質を逆手に使って、それをロボットの持つ違和感の表現として巧みに活かしたことにある。ロボットだからわざとらしい、ロボットだからけなげ。「愛」をインプットされるまでは、その出来過ぎな子役ぶりが怖いくらいな得体の知れなさとなり、「愛」をインプットされてからは、彼がいい子ぶりっ子すればするほど裏目に出て気の毒に思えてくる。回りの人間たちがその「いい子ぶり」を持て余すあたりが説得力を持つ。さすが百戦錬磨のスピルバーグ、目先の可愛らしさに目がくらんでのミス・キャスティングなんてするはずがなかったんだよね。そこに思いが至らなかった僕がバカだった(笑)。オスメントという子役のスター・イメージを知り尽くした上でのキャスティングだとは、さすがに今回恐れ入ったよ。気の毒だけど、オスメント本人はそんな自分のイヤミな個性が買われての起用とは夢にも思っていないだろうね(笑)。だがオスメントが、この作品の成功において最大のファクターであることは間違いない。

 そしてジゴロ・ジョー役のジュード・ロウのキラキラぶりも見事だ。この作品の未来社会の毒っぽいギラギラ部分を体現する彼。「リプリー」で殺したくなるほど輝いて、どんな憎らしいことをやっても美しい彼の魅力。「スターリングラード」で田舎出の一兵卒にも関わらず、なぜかヒーローにまつり上げられても不思議のないカリスマ性が全開キラキラ。そんな自分のキラキラぶりを分かった上で、キメすぎロボット演技を全うするジュード・ロウの潔さには感心した。だからこその哀しみまで透けて見えるロウと、いい子にしかなれない哀しみのオスメントのコンビネーションが、この作品に単なる甘ったるい作り事以上の厚みを出したのではないか?

 さらにウィリアム・ハートのまるで分かってないてめえ勝手な親父ぶりも、「母の眠り」以来の板に付いた演じっぷりで嬉しくなる。

 この映画、確かに見ている間には脚本の穴がいくつか目につかないでもない。ヘリコプターがいきなり空海両用だったなんて聞いてないよとか、あの宇宙人の出てくるあたりはちょっとなぁとか、突っ込み入れようと思えばいくらでも入れられるだろうが、結局そんなことをしてもヤボなだけでどうでもよくなっていく。

 実際これまでのスピルバーグならば、オスメントが海底に閉じこめられるくだりまでなら、ひょっとしたら何とかかんとかやったかもしれない(ここまででも、彼としてはかなりの新生面開拓と言えるのだが)。しかし問題はその後、さらに2000年の時を越えたエピソードをつないでいったあたり。このスケール感は明らかに今までのスピルバーグを超えた…と思える点だ。今までの彼のスケール感とは、映像のスペクタクル性に代表される空間のスケール感の表現にとどまっていた。しかしここでの彼の表現は、そんなことよりもっと大きな広がりを感じさせている。それは2000年の時という「時間の長さ」が加わったということなのか?

 いや、ここで言う広がりとはそんなものではない。

 それは、彼が表現しようとしているものの広がり…つまり、人間を見つめようとする思いの「深さ」というものなのだ。

 

 

 

 次ページへつづく

 To Be Continued...

 

 


 

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