A. I.

「エイアイ」でなく「アイ」と読め

A. I. - Artificial Intelligence


見る前から不安が山積

 

 ともかく近年のスピルバーグの不調ぶりだけで十分不安なのに、この「A.I.」は事前情報を見る限り、何だかんだと不安材料ばかりが目につく企画だったのだ。

 前にも述べた通り、キューブリックとスピルバーグの資質の違いは明らかだ。それも完全主義のキューブリックに早撮りスピルバーグといった単純な理由ではない。対象を冷たく見据えてほとんど感情移入出来ない状態にまで追い込むのがキューブリックの映画づくり。この人の映画である限り、そこが宇宙であろうと未来であろうと中世ヨーロッパであろうとベトナムであろうと、いわんや雪に閉ざされた山荘であろうと大都会ニューヨークの街並みであろうと、息が白くなりそうなほど冷え冷えとした空気が流れているのだ。そこにうごめく人間たちも、みんな顕微鏡観察されているように冷たく見据えられている。かつてアンドレイ・タルコフスキーが「2001年宇宙の旅」について批判めいた意見を言ったのも、たぶんこのあたりのことを差しているのだろう。

 一方スピルバーグはと言えば、観客の感情を引き付けて思いきり特定の方向に誘導する。だから観客は思いきり共感したり同情したりハラハラドキドキしたりする。ただ、その感情の誘導ぶりの中には、例えばジュゼッペ・トルナトーレみたいに自分を正当化しようとか純粋な人間だと見せかけようとかいう邪心はないから、その点は救いだね。彼の映画づくりの原点には観客を遊園地のジェットコースターみたいに楽しませたい、何かを経験させたいという気持ちしかない。みんなの感情をナチの党大会みたいにどこか意味ありげな一点に集中させようという気などさらさらないのだ。

 ただこの両監督に共通する資質があるとすれば、その作品世界に「あいまいさ」がないと言える点かもしれないね。キューブリックはその作品世界から「甘さ」(それはいかにも暖かみある、しかし頼りなさげでぼんやりした人間的感情だ)を排して、徹底的に冷たく見据えることで「あいまいさ」を取り除こうとする。 それは一見リアルに世の中を見ているように思えるけれど、実際は世界のつかみどころのない部分を取り除いて見ようとしているのだから、作品世界からは「濁り」とか「ぼやけ」が消えた単純化された世界になっている。それを単純さと思わせないところがキューブリックのマジックなのだろう。

 そしてスピルバーグは観客の思いを一点に集中出来る感情…「怖い」とか「可愛そう」とか「うれしい」とかいった単純な感情しか描きえないわけで、だから逆説的に「あいまいさ」も少ない。だけど世の中そんな単純なものではないから、リアルな人間感情みたいな複雑で多岐に渡る概念を描くには不向きだ。ゆえに彼の作品は逆に「甘い」と言われる。これは実に興味深いことだよね。実際はこれだけの凝縮力で観客の注意力や関心を一点に集中させ、爆発させるのは並大抵のことではないのだけれど。

 だから、片や「甘さがない」もう一方は「甘い」、片や「感情を排する」もう一方は「感情を誘導する」と対照的スタンスをとる両監督は、「あいまいさがない」=「単純化」という点ではクロスしていると言える。実に奇妙なことだが、そう言った意味では傍で見ているほど本人たちはお互いに隔たりを見い出していなかったのかもしれない。考えてみれば二人とも根っからのビジュアリストだ、そうなるのが当然といえば当然なのかもしれないね。単に作品だけ見る側からではなく、つくる側の観点からいけば、両者の違いは大きくないのかもしれないんだ。

 でも普通の素人考えからすると、キューブリックの題材にスピルバーグってだいぶ無茶な代打って気がしちゃうんだよね。そりゃ「2001年宇宙の旅」と「E.T.」並べれば、映画の優劣じゃなくて資質の違いで、誰だってそう思うよね。特にスピルバーグは評価の上げ下げが激しい人だが、キューブリックはもう映画ファンの間で神格化しちゃった人だから、神聖にして犯すべからざるものとして立ちはだかっちゃっている。

 だけど僕は実際のところ、キューブリックって意外にケレン味も持ち合わせてるしミーハーだし、みんな勝手にまつり上げてるけどご本人さほどの思想性も深い思索もない、至って単純明快なお人なんじゃないかと昔から思っていたんだよね。結構スターとか好きだし(笑)。ただイギリスの奥に引きこもって、自分を神格化させて映画ファンを煙に巻くのだけは上手だった。だから、徹底的にビジュアルを磨きあげた映画づくりさえすれば、後は映画ファンが勝手に思想とか哲学をそこからでっち上げてくれた。かく言う僕もその一人。さぞかしキューブリック、それらの評論読んで腹抱えて笑ってただろうが、まぁそれのおかげで神聖にして犯すべからずのキューブリック神話が出来上がり、彼も好きな映画づくりに没頭出来たわけなんだよね。

 でも、その神棚に置かれたようなキューブリックの扱いからすると、「スピルバーグごときが…」とまぁこうなっちゃうのは目に見えていた。

 しかも子供のロボットが愛を求める話となったら、こりゃスピルバーグの十八番の題材ではないか。どう考えても自分の土俵にぐっと引き入れるのは当り前だ。だがちょっとでも作品が甘くなったら、元の構想はどうあれ「スピルバーグがキューブリックの素晴しい構想を台なしにした」と言われるのは避けられない。それでなくとも、映画を見なくたってそう言いたい輩がウヨウヨしているんだ。こりゃあまり勝算のあるゲームじゃないよね。実際のところ言いがかりだけでなく相当甘っちょろい映画になっちゃう危険性もあるわけだし、スピルバーグのファンにも関わらず、いや、ファンだからこそ、ちょっとヤバいんじゃないかなと思わざるを得なかった。

 そしてヤバさの第2点は主演者だ。主役の少年ロボットに、「シックス・センス」で当代随一の天才子役ともてはやされたハーレイ・ジョエル・オスメントを起用したこと。今一番人気と実力のある子役を獲得出来たんだ、どこがヤバいんだって? よく考えてみよう。

 甘く絵に描いたようなファンタジーになりかねないヤバさがある今回の企画、どこかで辛さや苦味やリアルな感触を出さなければ、またワンパターンのスピルバーグ映画と成り下がってしまう。そこにもはや「天才子役」のレッテルがべったり貼られたオスメントだ。彼の今までの2作の役柄を考えてみよう。「シックス・センス」も「ペイ・フォワード/可能の王国」も、けなげで賢くかわいそうでいい子。こんな子供像のどこにリアルさがある? 第一、オスメントはもうただの子供ではなくて“スター”なんだよね。そんなスター・イメージはオスメントが画面に登場するだけでべったりと映画全体に貼りついてしまうだろう。世間が思う「いかにもスピルバーグ映画」という方向に、イヤでも持っていかれざるを得ないだろう。いくらスター・バリューがあるからって、何でこんな子役を起用したんだ。いかにもウソっぽい。演技がうまければうまいほどイヤミにしかならない悪臭漂うウソっぽさだ。

 かつてスピルバーグは「未知との遭遇」でケーリー・グッフィー、「E.T.」でヘンリー・トーマスやドリュー・バリモアといった手垢の付いてない子供を起用して、実にリアルな演技を引き出した。ならば、今回だってそう出来たはずだろう。何でいかにも「いい子」のオスメントなんだ? 「スター・ウォーズ/エピソード1」でのジョージ・ルーカスみたいに、スターを起用しないともたないほどキャラクター・スケッチの能力と演出力が低下しちゃったのか。

 甘ったるいジョン・ウィリアムズの音楽に乗って、いかにもけなげを顔に貼り付けたようなオスメントの表情が出てくる予告編を見るたび、これはどう考えてもスピルバーグ作品のなかでも最大級の大ハズシだと確信せざるを得なかった。周囲には期待していると言ってはみたものの、正直言って初公開の日がやってくるのが本当に怖かったよ。だからこそ、初日でキッチリとスピルバーグの死に水をとってやるのが、長年のファンの思いやりと考えたわけだ。

 そして初日の朝が来た。

 

 

 

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 To Be Continued...

 

 


 

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