「魔王」

  The Orge

 (2001/11/05)


子供をやめそこなった男

 僕がイジメられっ子だったことは、ここでも再三再四語ってるよね。あの時は本当にツラかった…なんてことはみんな耳にタコだろう。

 それは故なきことではなかった。僕はご多分にもれず一人っ子の呑気屋で、何でものんびりマイペースでやっているところがあった。どこか自分勝手なところもあったろう。後で考えれば、そんな僕をイジメたくってたまらなくなる気も分からぬでもなかった

 それが極限まで達した時、僕は耐えきれずについにこう思ったものだった。僕をイジメているあいつを、永久に地上から消してくれ!

 それは突然聞き入れられた。ある事情でイジメていた奴が転校することになったから。そこでガラリと事情が変わったことは、前にも書いた通りだ。

 思えばその時が僕の最大の転機だったんだね。無邪気に喜んで元の平和な生活に戻ったと安堵することも出来ただろう。だが、僕はその時点で自分を変えようと決心した。マイペースでのんびりやることをやめた。そしてお人好しでいるのもやめた。それは、僕が子供であることをやめようとした最初の時だった。

 出来るだけ声を大きく上げるようにして、何を考えているのか分からない昼行灯でいるのもやめた。ノロノロモタモタするグズであることも捨てた。他人を信じて心を開くことなんてとんでもなかった。その後社会に出て、さらに世の中の厳しさを身にしみて感じさせられた時、僕の中の生来の子供っぽさは完全に影もかたちもなくなった…と、自分なりには思ってたんだよね。

 だからつき合っていた女から、僕のセカセカしたせせこましさを指摘されると、笑いながらも内心反発してきた。僕はのんびりペースを改めるために、十分すぎるくらいの犠牲を払ってきた。そうやって、どうにかこうにか生き延びてきたんだ。それを慌て者だの落ち着きがないだの食っている時せわしなくて下品だの、そんな簡単に片づけないでほしい。僕は他の人間の二倍も三倍もそうする必要があったのだ。それがいいことだと信じさせられてきた。それなのに、ここへ来てそれが悪いと言われても困る。

 それでも僕はそんな自分にどこか子供の時の性質が残っていることを感じていた。それは自分勝手でどこか残酷なところだ。自分さえ良ければ…という気持ち、自分の思ったようにいかないと頭に来る性分は、ちっとも変わっていなかったのだ。そして、今度はせせこましい自分の新しいペースに相手を引き込もうとしていた。大人なら余裕ある視野の広さを持っていなければならないはずなのに、実は自分のスピードが増しただけ元々狭い視野がますます狭くなっていたのだ。しかもその視野の狭さは、まず人を疑ってかかるという了見の狭さにもつながっていた。結局、僕は大人になっていたわけではない。大人になったふりをしていただけだった。その慌てふためくスピードは、全く大人らしさとは無縁のことだった。ただ、外見の年齢だけ重ねただけだった。

 自分が結局大人になんかなってないことを心底痛切に実感させられたのは、そんな僕の前にそれまでとは異質の女が現れた時のことだった。彼女はそんな慌ただしさとは正反対の、ゆっくりじっくり静かに事を進めるタイプの女。そして過度な警戒心から他人を歪んだ目で見たりしない、妬みやひがみを知らない女でもあった。それはすべて、僕が「大人になる」つもりで誤って捨て去ったものだ。そんな彼女が何で僕とつき合うことになったのかは分からない。だが、彼女には何か僕が求めているものがあった。それは僕が「大人になる」ために勘違いして手放した、本来の自分だったのかもしれない。

 そしてそんな彼女とつき合ううちに、僕の中にも変化が生まれてきた。そしてそんなじっくりペースの彼女に自分を合わせていこう。大らかな気持ちに従ってみよう。広い視野で人や物事を見てみよう。なかなか急には変われないが、彼女の好きなようにやらせてみよう。…まぁ、それは決して愉快なことばかりじゃなかったよ。正直に白状すれば、自分の思い通りにいかないのが歯がゆかったしね。だからちゃんと彼女に合わせられたかと言えば、そうもいかなかったんだけど。

 でもそれって、僕にとっては必要な通過儀礼だったんだ。今まではそこでイヤになってやめていた。でも今度だけはそうはいかない。そしてそうする価値があると思った。彼女にはそうした諸々の歯がゆさを味わっても余りある、他には代え難い何かがあったのだ。そのためには、一応すべてを受け入れてみよう。重荷を背負うように。

 そう思い始めた時、僕は自分がもうかなりいい歳になって初めて、本当に大人になろうとしていると実感した。

 

大人になっても子供の心で

 1925年のフランス。キリスト教系の寄宿学校にいたあるちっぽけな少年がこの映画の主人公だ。彼はひ弱ゆえにいつもイジメられていた。そしてこの手の少年の常として何とも間が悪い。悪くないことも何かというと彼が悪いことにされて、先生には怒られひっぱたかれる。そんな彼をいつも守ってくれたのはおデブの親友だ。このデブ友達と二人で秘かにアラスカでの狩人のお話を書いた本を読むのが、少年の唯一の心の安らぎだったのだ。

 そんなある日、またまた間の悪い事で怒られることになった彼。彼一人悪いわけではないのに、またまた一人でひっぱたかれるハメになった。さすがに彼は神様に祈る。こんな学校火事になってしまえばいいのに。

 すると本当に火事が起きた。ドサクサに紛れて彼はひっぱたかれることから免れた。それはいいけど、彼の唯一の親友デブくんは火事に巻き込まれて死んでしまった。

 その時に彼は確信した。僕は運命の女神に守られている。僕が望めば、それは起きる。運の悪い回りの連中はやられる。親友デブくんの不運を悲しまぬ彼を薄情と言うなかれ。彼にそんな余裕はない。子供は常に自分勝手で、しかも残酷なものなのだ。

 時は移って、今は大人となった彼…ジョン・マルコビッチは、自動車修理工として一人前になっていた。だが、心のどこかはまだ子供なのか、近所の子供たちの相手をするのが何より好き。それなのに回りの連中は彼のことを「魔王=鬼」と言って恐れる。それは大男だった彼の図体から言われていることもあったが、何より彼が何を考えているのか分からない、その得体の知れなさからかもしれない。彼のお相手である女も、ナニの時には「鬼」「鬼」とあえぎ声と一緒に彼を呼ぶ。天狗と言われりゃナニの大きさを誉められてるみたいで嬉しいのにさ。

 ある日もある少女サーシャ・ハナウが自動車事故に遭いそうになったのを助けたのに、母親は何を勘違いしたか、介抱する彼を罵って去った。しかし少女ハナウは彼の親切を覚えていたんだね。毎日彼にまとわりついては、彼に写真を撮ってもらったりして仲良くなっていった。そんな彼女を車に乗せて、マルコビッチは自分の宝物であるアラスカの狩人本をあげたのだけれど、彼女はお気に召さなかったようだ。あげくマルコビッチのカメラを弄ぼうとしたので、それはダメだとたしなめると怒って車を降りてしまった。

 ところがほどなく彼女の助けを呼ぶ声がした。廃墟の建物に入っていくと、彼女が倒れて泣いている。ところが彼女はマルコビッチが襲ったと言うではないか。たちまち駆けつけた男たちに取り押さえられるマルコビッチ。警察で無実を訴えても聞いてはもらえない。あの寄宿学校の時と同じだ。しかも少女はガンとしてマルコビッチが襲ったと言い張る。言うことを聞いてくれなかったマルコビッチに対する復讐なのだろうか。考えてみれば子供は自分勝手で残酷だ、女も自分勝手で残酷だ。女の子はダブルで自分勝手で残酷なものだった。甘かったなマルコビッチ。

 牢獄に入ったマルコビッチは、それでも固く信じていた。運命の女神は味方だ。いずれこの牢獄は焼けてなくなってしまう。そうすれば俺は自由だ。

 だが運命の女神は、全く別のやり方で彼を自由にした。ドイツ軍の侵攻が迫っていた。祖国を守るために人手がどうしてもいる。マルコビッチは志願兵として前線に送られることとなった。

 だが戦争に行ったとたん、ドイツ軍はフランスに攻め込み祖国は降伏。彼も捕虜となって連れていかれることになった。どうせフランスは俺とウマが合わなかった。祖国を離れるのは望むところだったのだ。

 しかも収容所の生活も彼にとって居心地の悪いものではなかった。何と彼は時々収容所を抜け出しては、近くの小屋で安らぎの時を得ていた。近所のシカも友達になった。収容所でもドイツ兵と仲良くなってしまったので、誰も彼をとがめる者はいなかった。

 そんな生活が続いたある日、小屋で休むマルコビッチはドイツの森林監視官ゴットフリート・ヨーンに見つかってしまった。だがこのヨーンは悪い男ではなかった。彼はシカと仲良くするマルコビッチをとがめず、ただ黙って収容所に帰れと見逃してくれた。

 そして後日やって来たヨーンは、マルコビッチを連れて付近の豪邸へ。そこはナチ高官フォルカー・シュペングラー元帥の狩猟の館だった。彼の繊細さ従順さを見て取ったヨーンは、ここの雑用係に彼を抜擢してくれたのだった。親切なヨーンの下で楽しい日々が続く。ある日、彼方に見える美しい城を指し示したヨーンは、そこが貴族アーミン・ミューラー・スタールの城で、今はドイツ幼年学校という寄宿学校になっていると教えてくれた。少年たちの住む学校…それを聞いた子供好き、いや、自分が子供のマルコビッチは胸がときめいた

 やがて館の主のシュペングラー元帥がやって来る。この人物はマンガみたいに尊大で、狩りが死ぬほど好きな人物。そこに地方の名士を集めては、大規模な狩りを主催してご機嫌だった。その中に、あの城の主であるミューラー・スタールもいた。

 シュペングラーはまた言い出したら聞かない男でもあった。殺してはいけない繁殖用のシカまで殺そうとして、ヨーンに止められ激怒。あのシカは誰にも渡さないと言い張るアリサマ。だが、それを知った貴族ミューラー・スタールは、あえてそのシカを仕留めて城に持ち帰った。激怒して逮捕しろと騒ぐシュペングラー。

 だが、シュペングラーの天下もそこまで。戦局が悪化して前線に呼び戻されるハメになる。しかもヨーンまで同行して前線に行くことになった。置き去りになるマルコビッチはヨーンに直訴した。あの城に行きたいんです。あそこで雇ってもらえるように頼んでください。

 念願叶って城に行くことになったマルコビッチ。早速仕事が始まった。楽しい生活が始まるんだ、ナチ式の敬礼をさせられることにも何の疑問も持たなかった。使用人のマリアンネ・ゼーゲブレヒトと共に、子供たちと働く楽しい日々。ナチの戦士として純粋培養されている子供たちの目は輝いていた。生来の子供好き、いや本人自身が子供の心を持っているマルコビッチには適任だった。スポーツにレクリエーションに、マルコビッチ自身も子供たちに好かれていた。ここはまったく天国だ。

 こんな天国を他の子供たちにも味あわせたい…そんな純粋な考えから、マルコビッチは外出時にたまたま遊んでいる子供たちに声をかけて、学校の素晴らしさを熱心に説いた。それを素直に聞き入れた子供たちは、学校までついてきて、めでたく入学。これには学校を管理するナチの将校たちも喜んだ。

 ナチ最前線で忠実に働く兵士たちを育てるためのこの学校は、もっともっと多くの生徒たちを欲していたのだ。マルコビッチは子供に好かれているし、この役には最適だ。早速学校のスカウトマンとして、さらに多くの生徒勧誘を命ぜられたマルコビッチは、俄然やる気になって頑張った。何せここは天国なんだ、子供たちのためにもここに来させなければ。

 周囲に住む親たちはこの学校に子供をとられることを警戒していた。それもマルコビッチが説得すれば、その人なつっこい性格が幸いして大概は子供を任せてくれた。でも、それでもイヤがる子供たちもいた。

 そんな場合は力づくでも連れていった。だってあそこに行ったほうが子供のためだし楽しいのだから。元々自分がこうと思えばそれに間違いないという自分勝手なところ、イヤがろうが無理にでも連れていく残酷さは、子供の心のマルコビッチならではのものだった。

 こうして連日、颯爽と子供の勧誘に外出。猟犬を連れて馬に乗り、まるで昔大好きだった本のアラスカの狩人みたいに、今日も今日とて少年たちを狩りに狩るマルコビッチであった。

 だがそんなマルコビッチに怯えた付近の住人は、彼をひそかに「魔王=鬼」呼ばわりした。またみんなは僕のことを悪く言う、また僕のことを「鬼」と言う、自分はいい事を一生懸命やっているのになぜなんだ?…そう考えるマルコビッチの脳裏には、よもや自分のやっていることに過ちがあるかも…などと疑う気なんかまるでなかった。

 そんなある日、城の主のミューラー・スタールはマルコビッチに気になることを言った。この学校を見ろ、あの子供たちを見ろ、これはみんな洗脳だ。みんな親の子供じゃない、総統の子供だと言われて服従を叩き込まれている。あの年齢では無理もない。この整然とした美しさ、高揚した雰囲気に飲み込まれているんだ。そして君も自分を見失っている。それまで疑問も持たずにやってきたマルコビッチの心に、一筋の陰りが差したのがその時だった。

 その疑念がさらに強くなったのはすぐのことだった。マルコビッチが誘った男の子、いつもミソッカスで何かとマルコビッチがフォローしていた男の子が、演習中に事故に遭い大やけどして死んだのだった。家に帰りたい、母親に会いたいと言って死んでいった男の子の言葉がマルコビッチの心に突き刺さる。ここに行けばいいことがある、ここに行くべきだと誘って連れてきたのは、他ならないこの俺ではなかったのか。

 さらにベルリンではヒトラー暗殺計画が未遂で終わり、その首謀者の一人としてミューラー・スタールが捕らえられた。連行される前にマルコビッチに自分の日記を託すミューラー・スタール。その日記を夜や夜な読むマルコビッチの心には、さらに疑念が大きく膨れ上がるのだった。

 いよいよ戦局は厳しくなり、ドイツ軍の敗走は決定的なものとなった。ある夜、何とユダヤ人の捕虜収容所から捕虜が次々連れて行かれていることを知るマルコビッチ。途中で死んだ捕虜の中に生き延びている少年を見つけたマルコビッチは、秘かに城の中で彼を匿うことにした。

 いよいよソ連が攻めてきた。マルコビッチは大好きな少年たちを助けたくて逃げろと言うが、少年たちはみな言うことを聞かない。親はいない、僕らは総統の子供だ、死ぬまで戦う。完全にマニュアル通りの言葉しか吐かない子供たちに業を煮やしたマルコビッチは、回れ右の軍隊口調でこの場を立ち去るように言うと、やっと彼らは去ろうとするではないか。ここまで洗脳が進んでいたのかと唖然とするマルコビッチだったが、抵抗もそこまで。年長組に殴られてその場にうずくまるのみだった。

 城は包囲され、子供たちは徹底抗戦の構えとなった。気がついたマルコビッチは城の塔から白旗を振るが、そんなものは焼け石に水。それどころか、匿っていたユダヤ少年が年長生徒に見つかってしまった。万事休す。ユダヤ少年を殺そうとする生徒に、マルコビッチはついに飛びかかった。大好きな子供、今まで一生懸命面倒を見た子供を、自分が今殺そうとしている。その時、彼は自分がもう子供ではいられないということを痛感した。いささか遅すぎてはいたが。

 城は陥落した。少年兵たちは全滅した。ソ連軍が攻め込む中、ユダヤ少年を担いで必死に城を脱出するマルコビッチ。野を越え、そして河の中に浸かりながら、少年を担いでひた進むマルコビッチ。水はあくまで冷たく、そして深い。水に沈んで少年の重みに疲れ果てながら、マルコビッチの脳裏には幼い頃の学校で教わった話が蘇っていた。 

 クリストフォロスは若きキリストを背負って河を渡った。人は純真さの裏に邪悪を抱えている。だからこそ、弱き者=子供を担ぎ、重みに耐えて河を渡らなくてはならないのだ…。

 それは彼の贖罪か、はたまた彼の成長のための試練なのか…。

 

ファシズムと切っても切れない幼児性

 ドイツのフォルカー・シュレンドルフの作品って、あの鮮烈な「ブリキの太鼓」以来、何作か見てきたけど、あれ以外ピンと来るのがなかったと言うのが正直なところだったね。「スワンの恋」も「侍女の物語」も「ボイジャー」も、正直言ってよく分からなかった。そしてこの久々の作品。もっともこれも1996年の作品というから、もう大分前の作品ということになるかな。この人も意外なことにアメリカに渡って仕事をした人だけど、近年はドイツに戻ったようだ。なるほど、映画のエンディングに「亡き友ルイ・マルに捧ぐ」って書いてあったのも何となく頷ける。個人的にどんな友達だったのかは知らないが、マルもアメリカ生活が長かったし祖国に帰ってからは「さよなら子供たち」っていう戦時中の子供の話を撮ってたっけ。この「魔王」をつくってたシュレンドルフの心の中では、マルの「さよなら子供たち」がどこかでチラついていたんじゃないだろうか。

 そういう意味では、この映画には気になる名前がもうひとつある。それは脚本を手がけたジャン=クロード・カリエールだ。この人、ルイス・ブニュエル作品の脚本を手がけてたことで有名らしいが、僕にとってはそっちはあまり関係がない。アンジェイ・ワイダの「ダントン」「悪霊」、フィリップ・カウフマンの「存在の耐えられない軽さ」、ジャン=ポール・ラプノーの「シラノ・ド・ベルジュラック」など、個性派作家が発表した欧州発の大作映画に数多く参加した人ってイメージ強いんだよね。今挙げた数作は、どれもこれもアート系の作品の構えを見せながら、ゴージャスなエンターテインメントをきっちりお客に見せていた。その陰の仕掛け人こそこのカリエールだと踏んだんだ。シュレンドルフとも例の「ブリキの太鼓」を初め何作か付き合ってる。今回も作家性と娯楽性を両立させながら、まずは見る楽しみを味あわせてくれるのが素晴しい。

 そんな訳で、この「魔王」をシュレンドルフの作品系譜の中にうまく位置づけられない僕だが、ジョン・マルコビッチが演じる主人公を大人になっても中身は子供の男…と受け止めると、ハタと思い当たるフシがある。それは「ブリキの太鼓」の主人公、大人になるのをやめていつまでも子供のままの主人公だ。ただし体は子供だけど心は成長しているので、周囲の連中が浮き足だったりアタフタしたりするさまの方が、よっぽどガキみたいに幼稚に見えてきたりするわけ。あれもナチ政権下のドイツが出てくる話だっけ。うまくは言えないけれど、シュレンドルフの中でナチやファシズムはそうした幼児性と切っても切れないものがあるのかもしれない。純粋さ崇高さ熱狂性、そしてその反面にある独善性、残酷性…それは改めて考えれば、みんな子供の性質と言えるもんね。ファシズムの陶酔に溺れたまま、考えることをやめてしまっているんだ。

 この映画の主人公も、ず〜っと自分が思ったそのまんま。自分によくしてくれた親友が火事で死んでも、自分が助かったからそれでいい。でも、自分の思いが聞き入れられないのはイヤだ…。それは他者にまで思いが巡らないガキの発想だ。

 そんな彼の人生をねじ曲げるのが、自分と同じくエゴと残酷さを隠し持った少女であるのは象徴的だ。そして流されるままドイツ側に組みするのも何とも思わない。だって、そっちの方が心地よいから。ドイツ幼年学校の楽しさ晴れやかさに目を奪われ、何も考えずに生徒勧誘に荷担するのも、だた気持ちいい心地いいから…の一点張りだからだ。

 そしてこの学校の生徒たちがナチ思想に自ら溺れ込んでいくのも、実はやってる本人たちはそれが気持ちよく心地よく思えるからなんだね。規律の美しさ、団体行動の素晴しさ、優越感と達成感の晴れやかさ、崇高な目標に向かって貢献しているという気分の高揚と喜ばしさ…ひたすら心にストレートに響く気持ち良さに流れてしまうあたりが、子供心の子供心たるゆえんだ。そこではみんな自分で考えることを停止してしまってる。子供心のままの主人公とともに…。

 だが、そんな彼も己の浅はかさをイヤと言うほど思い知る時が来る。終盤のヤマ場、彼があんなに好きで、自分も好かれていたと思っていた生徒たちが何も考えないナチのマシーンと化し、彼に手痛い一撃をくらわすあたりはゾッとすると同時に胸が痛んだ。それは、これじゃいけない、このままではいけない…ということを、彼が生まれて初めて悟った瞬間だからね。そして、いまやナチの怪物と化した生徒に手をかけてもユダヤ少年を救おうとした時、彼は心地よい子供時代から永久に去らねばならなくなった

 少年を担いで重みに耐えながら進む主人公の姿は、皮肉にも映画冒頭の騎馬戦でちっこいゆえに担がれる側だった彼の姿と呼応する。その時彼はちっこくて弱き者、純粋で汚れなき者、そして守られるべき者=子供だった。しかし今こそこの男はそんな弱き子供を担い守る、立派な大人にならなければならない。その成長への厳しい儀式として、彼は重みを背負いながら進まねばならないのだろう。

 人はみな、いつかは大人になる定めなのだから。

 

 

 

 

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